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2008年05月 アーカイブ

2008.05.01

ほんとは休みの日のはずなのに

水曜はほんとうはオフなのだが、四月の最初の三週間だけ、斉藤先生との「音楽から始まる知との対話」(すごいタイトル)のリレー漫談があるので、午後から出講。
14時にPHP出版の編集者が来る。
月刊誌への連載依頼。
むろん、断る。
わざわざ東京からおみやげをもて来てくれたのに、用事は名刺交換後5秒で終わる。
あまりに気の毒なので、しばらく世間話をする。
新規の連載はすべてお断りしている。
共同通信と日経の連載が終わったので、肩の荷が下りてほっとしているところである。
今残っているのはAERAの隔週エッセイ600字、讀賣新聞の「うほほいシネクラブ」(月一)、毎日新聞の「水脈」(これは三月に一度)、『ダイヤモンドマネー』の隔月エッセイ。
いちばん大変なのが『考える人』の「日本の身体」シリーズ。
これは各界の身体技法の達人たちを相手に私が「徹子の部屋」をやるという享楽的な趣向のものなのであるが、なにしろ私はフルタイムの管理職サラリーマンであり、先方もまたたいへんお忙しい方ばかりなので、日程の調整に毎回苦しむのである。
新規連載を容れる余地はない。
「毎日ブログにあれだけ書いているんですから、その分をちょっと・・・」というようなことを言われるが、ブログは「字数制限なし」「テーマ制限なし」「オチなし(もあり)」「使用禁止用語なし」というたいへん自由度の高い、いわば私にとっての「落書き帳」であり、好き放題書ける代わりに、とてもこのまま世間に商品としてお出しできるようなクオリティのものではない。
原稿料を取っているものについては、もうちょっと「推敲」とか、そういう手だてを講じているのである(ほんとよ)。
続いて江さんと今日のゲストの山納洋さん(大阪21世紀協会)がご挨拶に見える。
やや、どうも。
そこに次のお客である法務省は公安調査庁の人が来る。
公安といっても別に私が「暴力主義的破壊活動を企てる団体」の関係者であると思われたわけではない(多田塾甲南合気会や甲南麻雀連盟や極楽スキーの会は誰が見ても「そういう団体」には見えない)。
そうではなくて、中国の統治システムについての意見を聞きに来られたのである。
私は中国問題の専門家でもなんでもなく、新聞記事をとばし読みして、ヨタ話を書いているだけである旨を申し上げるが、先方は中国経済の今後の動向やチベット問題の解決可能性、さらには国境問題などについて子細に意見を徴されるので、つい調子に乗って「それはですね・・・」などと長広舌をふるってしまう。
先般は既報の通り、内閣情報調査室から教育問題についてご下問があった。
担当者は『下流志向』を読んで、その内容をまとめて当時の総理大臣に報告書を出したそうである。
たぶん安倍さんはそのレポートを読んでいないと思う(読んだからどうなるというものでもないが)。
どうして私のような市井のシロート学者のところに日本のインテリジェンス関係の方々がおいでになるのかよくわからない。
察するに、それだけ日本のインテリジェンス業界が「人材難」だということなのかもしれない。
それならわかる。
情報「収集」と情報「評価」は別の仕事である。
情報収集は「自分が知っていること」を実定的に積み上げてゆく仕事である。
情報評価とは「自分は何を見落とすように構造化されているか」という、「情報化」プロセスそのものが内在させている不調(平たく言えば「自分のバカさ加減」)についての考察のことである。
現代日本の政治学者や外交専門家の中に、この「おのれのバカ度の点検」に一定の知的リソースを投じている人はきわめて少ない(ほとんどいない)。
知識人たち(およびウッドービー知識人たち)は自分がいかに物知りであり、他人が自分の知っていることを知らないかをショウ・オフすることにはたいへん熱心である。
そして、そのせいで構造的に情報評価上の禁則を犯してしまう。
多くの人が勘違いしているけれど、情報とは「モノ」ではない(それはヒッチコックの言うところの「マクガフィン」にすぎない)。
情報とは「情報化プロセスそのものについての批評性」が現に活発に機能しているという「事況」のことである。
ともあれ、インテリジェンス業界の人材確保もこれからたいへんそうである。がんばってくださいね。
続いて斎藤先生との音楽漫談。
エラ・フィッツジェラルドの『サマータイム』と斎藤先生の『サマータイム』の聞き比べから始まって、石黒晶先生の『音の虹が降りてくる~U・A・E・I』のDVD鑑賞(石黒先生の指揮で、斎藤先生と私がデュエットしている)、それから仏教の声明、モンゴルのホーミー、ブルガリアの女声合唱曲などの音源を聴いて、倍音について考察。さらに、「拍を割る」という身体感覚の実例をハル・ブレインのドラミング(Topsy 65)でお感じいただき、締めはかの「レッキング・クルー」がどれほど多くのセッションに参加していたのかの証拠に、サイモン&ガーファンクルのSound of silence を聴く。
「デケデケデケ」と絡みつくような「おかず」がハル・ブレインのシグナチャーである。
というような話をしているうちに時間となる。
毎回、授業のあとに何人かの学生たちが「さっき聴かせてくれた音源のタイトルを教えてください」と訊きに来る。
今回質問があったのはビリー・ホリディLady sings the blues
とジェームス・テイラーのHandy Manとブルガリアの女声合唱。
なかなかツボを抑えた選曲である。
斉藤先生、石黒先生とお別れしてから、再び江さん、山納さんと合流して、西宮北口の並木屋へ。
ゲスト講師のギャラがあまりに些少なので、お詫びのしるしにご接待申し上げてその労に報いるのである。
並木屋のカウンターで旬のお魚をぱくぱく食べながら、江さんの熱い語りに耳を傾けているうちにしんしんと夜は更けてゆくのであった。

2008.05.04

御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと

養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2008年)を読む。
御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。
同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。
そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。
そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。
それから島﨑徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
そして、この本を読んでいろいろなことが繋がった。
月本さんによると、最近の脳科学の実験により、「人間はイメージするときに身体を動かしている」ことがわかった。
月本さんはこれを「仮想的身体運動」と呼ぶ。
「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4頁)ということである。
書き手と読み手の「身体的な(要は「脳的な」ということだけれど)同期」が「理解」ということの本質であるという月本説は、「身体で読む」私にはたいへん腑に落ちる説明である。
ミラーニューロンによって、私たちは他人の行動を見ているときに、それと同じ行動を仮想的に脳内で再演している。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
子どもの場合は、「母親の身体動作を模倣することで、自分の脳神経回路を母親の脳神経回路と同様なものに組織化してゆく」(121頁)。
子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。
「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(121頁)
こういう書き方をするとまだ「主体と他者」という二元論の枠内であるけれど、実際には、「主体」という機能自体が模倣の効果なわけであるから、最初にあるのは「模倣する主体」ではなく、「模倣それ自体」なのである。
だとすれば、「人間を中心に据えるのではなく、複写(模倣)を中心に据えて考えたほうが適切ではないだろうか。」(126頁)
他人の心を私たちは仮想身体運動を経由して理解したつもりになっている。私たちは他人の心に直接触れているわけではない。
しかし、では私たちは自分の心になら直接触れているということは言えるであろうか。
月本さんは、私たちは結局自分の心についても、「他人の心」の場合と同様に「理解したつもり」になることしかできないのではないかと示唆している。
「私はどこまで自分を理解できるのであろうか。自分はそんなに自分のことを理解しているのであろうか。あまりよくわかっていないのではなかろうか。さきほどまでの理解によれば、自分というものは、他人の視線、表情、身体動作を模倣し、それを通して、神経回路を訓練してイメージを作るという作業を、何万回も繰り返して作り上げたものである。とすると、自分も、非常に多くの他人の一部を複写して、足し合わせたようなものではなかろうか。
 すると、自分とは多くの他人の一部を複写して作り上げたものなのだから、基本的には他人と同じ程度にしか理解できないのではなかろうか。(・・・)
自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己となる。」(133-134頁)
私はこの月本さんの「自己」の定義に深く同意する。
クリエイティヴ・ライティングの授業では、「どう書けば、言葉は読者に『触れる』か?」という原理的な問題を先週から扱っている。
言葉が読み手に触れるのは、書き手と読み手のあいだの「同期」が成立するときなのだが、同期がうまくゆくのは、書き手が「自分を完全に理解している」からではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているのかよくわからない」という事況にまっすぐ向かうことによってである。
このときに書き手は「書き手である私自身の言動」に仮想身体運動をつうじて同期しようとしている。
そのとき書き手と読者は「書き手である私(というよくわからない人)」に対して、「仮想身体運動でそれに同期しようとする人」という点で同じポジションにいる。
読んでいるときに、ふと書き手が私のすぐかたわらにいて、その息づかいまで感じられる愉悦的な瞬間が訪れることがある。
それは書き手自身が自分を「二つに割って」、その一つを遠景に置き、その一つを読者と同じライン上に置くことによって達成されているのではないか。
電車の中で本を読みながら、そのようなことを考えながら、「邪・魔女」サトウの結婚式のためにリッツカールトンに出かける。
サトウはご案内のとおり、私が教組をつとめる宗教法人(うそ)「邪道」の高位聖職者である。
結婚式にはサトウのさまざまな武勲を知る人々が集まっており、その話で盛り上がる。
その血塗られた武勇伝についてはそれをリークした人々の身の安全のためにも、このような場で公開することができぬのであるが、私が二十歳のサトウにはじめて会って以来「授業に出ていただく」「卒論を書いていただく」「ご飯につきあわせていただく」という「いただく」的態度で終始したという事実から推しても、その「威圧感」の差は窺い知れるのである。
式後、えりりん、ピロコ、おばけちゃんたちゼミの同期生たちとお茶。
みんなたいへん魅力的でパワフルな女性に成長されていて、老生はうれしいです。

2008.05.07

「平八」的なものについて

恒例の「美山町のコバヤシ家で山菜天ぷらを食べる会」に5,6日と出かける。
ノコさんに会う。
7、8年ぶりである。
ノコさんはコバヤシ家のオハギとともに、私のEx-wifeの中学高校時代のおともだちであり、私たちが九品仏にいたころ、すぐお隣に住んでいた。
どうして別れた妻の子ども時代の友人たちのご友誼を私が賜っているかについては説明するのが面倒なのであるが、私は基本的に「一度お友だちになった人とは、ずっと友だち」という人なのである。
世の中には引越をしたり、仕事を替えたりすると、それまでの人間関係をあっさりリセットしてしまう人間がいるけれど、私はそうではない。
みなでお茶しながら、「でね、あそこの家たいへんなのよ」「あら、そう。お嫁さんがそれじゃね」というような会話を延々と続ける。
もりあがったのは当然「ミヤタケ」の話である。
これは子細あって詳細にわたっては言及することができぬ。
考えてみると、私が節度なく「オバサン」化できるのはコバヤシ家の台所だけである。
私はそこで一年に一度だけ「完全にオバサン化した私」に出会う。
おそらく、すべての友人の分だけの数の「内田樹」が解離的に存在しており、私は定期的にそれを箱から取り出して、埃を払って、油を差して、また箱にしまうというようなことをしているのであろう。
ユキちゃんから「しめじ」をもらって、みなさまに別れを告げて、新緑の美山を後にする。
早めに帰ってきたのは、夕方から梅田で卒業生たちの集まりに呼ばれていたからである。
4日にサトウの結婚式で会った諸君よりも一学年上の諸君である。ほんとうは5日はこの3月に卒業したゼミ生たちの集まりがあったのであるが、これは美山とかぶったのでご無礼したのである。
梅田のニョッキというイタリアンでムラサキ、ヤブッチ、アイキ、ミハラさん、クボさんとご飯。ナミカワは腹痛で、ウイちゃんはフライトの都合で欠席(ゼミ生間の呼称を流用したが、どういう基準で敬称が付いたり消えたりするのかがよくわからない。おそらく無意識的な選別を行っているのであろう。ちなみに敬称が略されているのはいずれも「ゼミのダークサイド」と呼ばれた諸君である)。
ナミカワには一度ひどい目にあったことがあるので、腹痛で来ないのを幸い、とりあえずナミカワをサカナにする。
みなさんもOL4年目となり、ミハラさんはもうすぐ結婚して寿退社。ナミカワもムラサキもゴールが近いそうである。
ひとしきり仕事と結婚の話。
主に「お局さま」の弊害について。
若い女性たちばかりが集まっているので、ふつうなら「上司のバカオヤジ」の悪口で盛り上がるはずであるが、それが一つも出ない。
どういうわけか、どなたも「上司のオジサン」にはかわいがられているようである。
「50代、60代のオジサンたちには女学院ブランドがまだ効果あるんじゃないですか」と口々に言う。
そうかもしれない。
しかし、聴いているうちに、ふとそれは違うのではないかという気がしてきた。
というのは、同じ説明を20年前にも10年前にも聞いたことがあるからである。
20年前の「50代、60代のオジサン」たちは今は「70代、80代のオジイサン」たちである。
今の「50代60代のオジサン」たちは20年前には「30代、40代のオニイサン、オジサン」だったはずである。
その年回りの頃には「女学院ブランド」の意味がよくわからず、ある程度年を重ねて練れてくると「女学院ブランド」の風合いがわかってくるということではないのか。
その方が納得がゆく。
若いときは「仕事ができる」ということに焦点化して若い人を評価する。
個人の能力を見るのである。
しかし、長く集団で仕事をしてくると、「個人の能力」というのは単品ではあまり意味がないということがわかってくる。
「個人的には高い能力があるが、その人がそこにいると集団のパフォーマンスが下がる」という人がいる(けっこうたくさんいる)。
「個人的にはそれほど高い能力があるようには思えないが、その人がそこにいるだけでなんだかその場が明るくなり、集団のパフォーマンスが上がる人」がいる。
むろん、組織的なアクティヴィティを考えると、あきらかに後者の方が貢献度は高い。
そういう潜在能力を見抜く力は残念ながら若い人(特に自分は「仕事ができる」と思っている人間)には欠けている。
けれども場数を積んで50代くらいの管理職になると、どういうタイプの人間がほんとうに役に立つのかわかってくる。
意外かもしれないが、それは「後退戦を戦える人間」である。
黒澤明の『七人の侍』には勘兵衛(志村喬)と五郎兵衛(稲葉義男)が侍をリクルートする場面がある。
五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八(千秋実)という侍をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
野武士と戦う七人の侍をリクルートするときの原理は、現代の企業新入社員を採用するときのそれとそれほどには変わらない。
五郎兵衛の洞察は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、これは前提が間違っている。
企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが、組織的な運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてこそよく発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
だから、組織が人を登用するときには、五郎兵衛がしたように「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間をまず優先的に採用すべきなのである。
そういう人間的能力は見えにくい。
外形的評価では「まず、中の下」というところかも知れない。
「女学院ブランド」もそのあたりかも知れない。
平八が野武士の襲撃を待ちながら、長雨に降り込められていた気鬱な日に、にこにこと笑いながら「旗印」を縫っていたように、「正直な面白い女の子でね。その子と話しているとなんだか気がせいせいする。苦しい時には重宝な人材だと思うが・・・」という評価がおそらくは本学の就職力の高さを支えている。
どのようにしたら、そのような能力を選択的に強化できるのか。
それは繰り返し申し上げているように、岡田山とヴォーリズ設計の学舎が蔵している「場の力」なのである。
現代の高等教育機関のアドミニストレイターたちの中に、キャンパスのもつ「場の力」、とくにその中でも「学舎内における言葉の響き方」のもつ重要性をほんとうに理解している人はたぶんほとんどおられないであろう。

2008.05.08

またインタビュー

東本願寺の出している「サンガ」という雑誌のインタビューで三人の住職さんとカメラマン一人がおいでになる。
「お西さん」の出している「ジッポウ」の仕事もしているし、「寺門興隆」にはついこの間バリ島で昼寝をすると気分がよろしいというようなエッセイを書いた。
なぜか、仏教系メディアからのお仕事が多い。
どうしてなのであろう。
私の考えていることのどこらへんが仏教的に「フックする」のか、自分ではよくわからない。
今回のお題は「学びと労働」である。
どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。
それは「消費文化」のせいであるとお答えする。
「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
どんな家に住み、どんな家具を並べ、どんな服を着て、どんな車に乗り、どんな音楽を聴き、どんなレストランでどんなワインを選ぶか・・・といった一連の「商品選択」を通じてその人の「個性」は表現されるという考え方のことである。
現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。
だから、ぼんやりした読者は『通販生活』と『クロワッサン』を識別できない。
そのことを誰も「変だ」と思わない社会が「高度消費社会」である。
ある学生から「やりたいことがあるんですけれど、お金がないので、それがやれません」という泣訴を聴いた。
私は「そんなことを言っている人間は一生何もできん」と冷たく突き放した(私はときどき氷のように冷たくなる)。
「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。
「自分らしい生き方をしたい」
「そのためには『自分らしい生き方』を記号的に表象する商品を購入しなければならない」
「金がない」
「自分らしい生き方ができない」
終わり。
このような推論形式で「おのれの不能」を定式化している限り、出口はない。
「手っ取り早く金を稼ぐにはどうすればいいのか?」というより功利的なシフトするが関の山である。
「自分らしい生き方は商品購入によってしか発現できない」というのは1980年代から日本全国を覆いつくした消費文化イデオロギーである。
そのイデオロギーの内側にとどまる限り、そこで人々が身をよじるようにして絞り出す唯一現実的な言葉は「もっと金を」である。
学びが機能しないのは、子どもたちが「学び」を「商品(知識、技能、学歴など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが「労働」を「商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
消費のスキームの内側にとどまる限り、欲しい商品が手に入らない理由は「対価として差し出すものがない」というかたちでしか説明できない。
学びや労働を商取引のタームで考えれば、「金」に相当するのは「努力」である。
努力を対価として成果を得る。
当たり前のことだ。
だが、この当たり前のことができない。
なぜなら、「努力」をどうやって手に入れるかは誰も教えてくれないからである。
「努力って、どうすれば買えるの?」と彼らは訊く。
でも、誰も教えてくれない。

2008.05.09

花の御影を見る

打ち合わせを三つ、授業を二つ、稽古を一つしてから走って肥後橋へ。
朝日カルチャーセンターで名越康文先生と釈徹宗先生と鼎談をするのである。
お題は「顔と人格」。
親鸞の御影を題材にして、「親鸞というのはどういう人だったのか」ということを、「顔を見ただけで診断を下す」精神科医と、篤学の宗教学者が語り合うのを私が「へ~」と驚く・・・という結構のものである。
私はただ「へ~」と言っていればよいのであるからお気楽である。
しかし、ご存じのように私は「自分が知らないことについても自説を言い立てる」タイプの人間であるので、お二人の話を黙って聴いていることができずに、よせばいいのに話に割り込んで、思いついたことをうるさく申し述べる。
私が興味をもったのは親鸞の御影三点のうち、鏡の御影、花の御影の輪郭がはっきりしないことである。
二つとも服や持ち物ははっきりしているが、顔の輪郭線がほとんど見えない。
これは単に絵が長い時間のあいだに物理的に劣化したのか、あるいは絵師の技術が足りずに肖像をまともに描けなかったのか。
それでは話がつまらない。
私の仮説は親鸞の顔が「マイクロ・スリップ」していた、というものである。
マイクロ・スリップというのはこれまでに何度もご紹介しているが、未知の入力に臨機応変に対応できるように、動きの決定をぎりぎりまで遅延させることである。
例えば、野球のバット・スイングにおいて、体軸は十分に旋回し、バットに十分なエネルギーは備給されているが、バットはボールと接触する最適のタイミングと空間座標を求めて、ぎりぎりまで「ためらっている」打者は、「えいや」とヤマを張って、バットをぶん回している打者より打率が高いであろう。
すぐれたアスリートは「環境との接触面は最後まで、環境の変化に注意を向けている」というしかたで身体を操作することができる。
未知のものが不断に入力してくるような状況では、リジッドなシステムよりも、環境的与件の不意の変化に即時対応できるファジーなシステムの方が有利である。
マイクロ・スリップとは語義的には「エラー」にまでは至らなかった行為のわずかな「言い淀み」のことである。
日常のなんでもない行為(コーヒーをカップに注いだり、箸でものを摘んだりすること)でも、私たちの手は一瞬停滞したり、ほんの少し接触したあとに軌道を修正したり、角度を変えたりしている。
このわずかな「運動上の吃音」が実は複雑な行為を先に進めるために必須のものであることを指摘したのはエドワード・S・リードである。
リードのマイクロ・スリップ理論の意義について、佐々木正人はこう書いている。
「行為についての伝統的概念化は、行為のプランとその実行を峻別している。『プランが実行を監視する』という考え方が一般的である。しかし何かをしはじめた後で、行為が淀んだり、部分的に小さく変更しつづけることはふつうである。いったん淀んで、またもともとしていたことを続けるというようなこともよくある。つまりどの行為も『吃り』の部分を含んでいる。手は『手自体で考えながら』動いている。プランが行為の起こるところとは別にあるとする考え方、プランと実行を分離する枠組みでは、こういう事実を説明できない。プランは部分的には、手が『吃っている』ところにもある。手の動きは他ではなく、手が動くところでつくられていく、というわけだ。」(佐々木正人、『ダーウィン的方法』、岩波書店、2005年、61-62頁)
私は「花の御影」を見ているうちに、ふとマイクロ・スリップは表情の形成にも適用できるのではないかと思ったのである。
表情は先日ご紹介した月本洋さんの仮想身体運動理論によれば、「他人の思考と同調するためのシミュレーション」である。
さまざまな他者の思考の深部とダイレクトに同調できるような広大な知性においては、「顔が吃る」ということだってあるのではないか。
はじめて会う人と対面したときに、「表情が決まらない」ということがある。
おそらくそれはコミュニケーション戦略上のオプションの一つでありえるだろう。
こわばった顔、硬直した表情、定型的な言葉遣いで未知の入力に対応することはむずかしい。
むしろ、顔の筋肉が動き続け、表情が固定せず、言葉遣いが揺らぎ、「ぎりぎりまで決定を先送りする」能力のある人の方が、状況対応能力は高い。
岡田山に長くいると「輪郭がぼやける」という話をこれまで何度かしてきたので、ふとそのことを思い出したのである。
点描やキュビスムのような画法が創出されたのは、あるいはその運動する輪郭を画布に定着させるための技術的な要請に応えたものかもしれない・・・
というようなことを考えた。
この場に山本浩二がいたら、ずいぶん面白い話になったのにね。

またまたインタビュー

またまたインタビュー
今度は『月刊PHP』
お題は「幸せって何?」
そんなこと訊かれても。
とはいえ、そのようなことを訊く為にわざわざ遠く東国から御影までおいでになったわけであるから、にべもなく「知りません」とは言えない(つい先週、同じPHPの連載のオッファーを遠く東京から来た編集者に向かって「やりません」と五秒で断ったばかりである)。
知恵を絞って考える。
幸せって何だろう。
ふだん、そんなことはあまり(というかぜんぜん)考えたことがないので、困ってしまう。
でも、人はどういうふうに「不幸せ」になるかは、わかる。
というのはその前に『歎異抄』を読んでいたからである(朝カルの予習である。私でもたまにはそういう殊勝なことをするのである)。
人を不幸にするのは「自力」である。
自力というのは、私の解釈では「無時間モデル」のことである。
自力には「時間」が入る余地がない。
「他者」にも入る余地がない。
「未知」にも入る余地がない。
「悪人正機」の説というのがある。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
人間が悪行をなすのは「さあ、これから悪事をやるぞ」という自己決定によるわけではない。
仮に「悪人になるぞ」と自己決定したとしても、そういう非倫理的な自己決定ができるということ自体、ご本人の人間のつくりが相当歪んでいるということであり、そういう「根本的に歪んだ人間」に自己決定によってなることはできない。
おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。
気がついたらいつのまにか悪事を働いていた。悪人になる気はなかったのに、気がつけば極悪非道・・・というのが悪人である。
つまり、悪人というのは「文脈依存的」な存在なのである。
どうして自分がこんな人間であるのか、どうして自分はこんな言動をしてしまうのか、自分では説明することができないという根源的な被投性(レヴィナスのいう「始原の遅れ」initial après-coup)が悪人の「悪人性」を根源的に規定している。
悪人自身もそのことはわかっているので、自分が悪人である所以をしばしば「自分以外のもののせい」にする。
「こんな私に誰がした」
というわけである。
しかるに、善人は自分が善良であることを「他人のせい」にあまりしない。
「親に愛され、友人に恵まれ、同僚から信頼され、弟子たちから敬慕されているので、『こんな善い人』になりました」というような文脈依存的善人をカムアウトするひとに私は会ったことがない。
たいていの善人は「私が善人であるのは、自己努力の成果である」と言う。
言わないまでもそう思っている。
「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。
自分自身の善性をおのれ自身で基礎づけたと思っている人は「おのれの理解を超えた文脈」を必要としない。
なにしろ「善い人」なんだから。
これが善人の陥りがちな「自力作善」というピットフォールである。
「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
宗教学の専門家はどうおっしゃるか知らないけれど、私は勝手にそう思っている。
どうして自分がそんなことを思ってしまうのか、私自身には説明ができない。
しかたがないので、その説明の方は「ひとへに他力をたのむ」他ないのである。

2008.05.12

六甲山から広島へ

金曜日の教授会を途中で抜け出して、六甲セミナーハウスで基礎ゼミのフレッシュマン・キャンプ。
渡部先生のゼミとご一緒で総勢40名。
マニュアルができていて、ちゃんと食前の祈りも、讃美歌も、聖書朗読も、奨励もある。
私はこういうふうにきちんとしたプロトコルが整っていることはたいせつだと思う。
場を一気に圧倒するようなカリスマ的な人がいれば、できあいの儀礼に頼る必要はない(その人のふるまいそのものがプロトコル化するからである)。
しかし、われら常人にはそれほどの人間的迫力は望み難い。
だから、「かつて場を一気に圧倒した人が践んだ手順」を儀礼として再演するのである。
私はこの知恵を深いと思う。
焼き肉パーティ、礼拝とミーティングをさくさくと済ませて(ついでに長説教10分間。どうして私は説教をはじめると止めることができぬのであろう・・・)
別に学生たちを叱っての「説教」ではなく、語義通り「教えを説いて」いるのである。
諸君の中には大学生活を通じて、自己の能力を高めようとしている方がおられるやもしれぬ。
TOEICの点数を上げたいとか、ナントカ資格を取りたいとか、そういうことを目的にしている方もおられるやもしれぬ。
しかし、諸君、それは大きな誤解というものである。
諸君らひとりひとり個人の能力を高めることは高等教育のめざすところではない(おお、すごい断言)。
そうではなくて、私どもは「まわりにいるすべての人々の能力を高めるような人間」を育てることを教育の目的であると考えている。
そのような教育理念を掲げている大学はたぶん日本にウチしかない。
愛神愛隣とは実はそのことなのである(知らなかったでしょ)。
諸君が自己の能力を高める努力をされるのは結構である。
だがもし、その努力の報酬として「私は他人より自分は高いポジションに就くべきである」とか「他人より高い年収を得る資格がある」とか「他人から敬意を示されるべきである」というようなことを考えているのであれば、そのような能力開発は諸君を少しも幸福にしないし、諸君のまわりの人をも少しも幸福にしない。
諸君が自己の潜在可能性を開花させ、生きる知恵と力とを高めるのは、それによって「諸君の周囲にいる人々の可能性を開花させ、彼らの生きる知恵と力とを高める」ためである。
もし、諸君が「競争」という枠組みで努力をとらえていれば、諸君はいずれ「自分が優れていること」と「他人が劣っていること」が結果的には同一であることに気づくであろう。
それはつまり「自分の心身の能力を高める努力」と「他人を愚鈍で無能な状態のままにとどめおく努力」とが交換可能だということである。
そういうことになったとき、人間はその両方を同時に達成できるような方法を探し始めるものである。
論理の経済がそれを要請するからである。
だから、原理的に言えば、教育の場に「競争」という概念は決して持ち込んではならないのである。
本学がめざすのは「他者の能力を高め、他者に幸福をもたらす力」を涵養することである。
どうすれば、私たちの隣にたまたま居合わせたこの人々を、今よりもっとアクティヴで、もっとイノベーティヴで、もっとハッピーな状態にすることができるか。
それを思量することに優先的にリソースを備給する人間になりなさい。
とりあえず、諸君の今夜の任務は君たちの隣にたまたま居合わせた学友たちと夜を徹して仲良しになることである。
がんがん盛り上がってくれたまえ。
あまりに変テコな説教なので、学生たちは目を点にして「しーん」としている。
渡部先生とお部屋に戻って「琉球泡盛」を喫しつつ、沖縄はいいよね話からハイブラウな文学論、はては酔余の勢いで数学論など、頭がだんだんくるくるしてくるのであった。
翌朝、ソッコーで起きて、学生たちを渡部先生に託して、六甲山を下り、身支度を調えて、広島へ。
広島県合気道連盟主催の多田先生の講習会に駆けつける。
甲南合気会の諸君はすでに朝の9時から現地入りしている。
私が到着したのは11時半。
先生に遅参のお詫びをしてから、夕方までお稽古。
久しぶりに受け身をとったので、どろどろに汗をかく。
むかしは、これくらいの時間の稽古は何でもなかったのであるが、さすがに還暦も間近となると、学生さん相手にばしばし稽古していると、受け身から起き上がるのが億劫になる。
畳に臥せって、このまま寝ていたいと思うが、多田先生がときどき回ってきて、息も絶え絶えな私のありさまを見て「ウチダくんも修業が甘いな」と寂しげなお顔をされる(ように見えた)ので、泣く泣く起き上がる。
だが体力の限界はいかんともしがたく、必殺「説教責め」に作戦変更。
これは高段者だけに許された必殺技であり初心者はまねをしないように。
素直そうな顔つきの学生をつかまえて、二三本技をかけさせたあとに、おもむろに「あのね、ちょっといいかな」といかにも親切げに語りかけるのである。
とりあえず一つ二つ技術的な課題をお示しする。
もちろん口頭で指示されたくらいでいきなりできるなら誰も苦労はないわけで、当然、できない。
「う~ん、こまったね。どうだろう、この辺をこうしてみちゃ」というような親切心をさらにお示しする。
すると、少しできるようになる。
学生よろこぶ。私もうれしい(口を開いている間だけでも休めるから)。
なんとか生きて夕方を迎え、ホテルにもどってシャワーを浴びてから、私とドクター佐藤、ウッキーは懇親会へ。残る諸君は大挙して「宴会」に繰り出す。
多田先生のお隣にぺたりと座って二時間、先生のお話を伺う。
先生とはお正月以来である。
ホテルまでお送りしてから、門人諸君の待つ宴会会場へ。
すでに全員「ヘベレケ」姉さん「ヘベレケ」兄さん状態になっている。
いったいわずか2時間余でどれほどの量を飲めばこうなるのか。
おそらく生ビールを一樽ほど干したのであろう。
懇親会組はちょっと飲み足りないので、二次会へ。
ここで発作的に「邪道」の昇段審査が行われる。
相変わらずウッキーがぶっちぎりで段位を上げてゆく。
この人は「寸暇を惜しんでイジワルをする」ということに天賦の才能を持っているのである。
ドクター佐藤やヒロスエもそれなりに「邪心」の芽生えはあるのだが、まだまだウッキーの水準には遠い。
翌日も朝から夕方までお稽古。
午後は剣と杖だったので、身体はだいぶ楽である。
お稽古を終えて、多田先生をお見送りしてから、いつものように広島駅の広島焼き屋で生ビールで乾杯。
めっちゃ美味しい。
さらにビールなど飲みつつ、新幹線で新神戸へ。
新大阪方面へ去る諸君と駅頭でお別れする。
合気道の稽古を長時間した後は、どうも別れ難い。
「一体感」が高まっているので、なんだか自分の身体の一部と別れるような不思議な寂しさがするのである。
みんな次の稽古が待ち遠しいような顔をしている。
身体の節々が痛むのに、私も次の稽古が待ち遠しい。

2008.05.13

被害者の呪い

毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。
いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。
昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。
こんな話。

 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。
 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。
 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。
 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「厭な感じ」が議論の内容ではなく、論を差し出す仕方のうちに感知されているからである。語られている政治的言説の当否は私にとっては副次的なことにすぎない。
 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
 そんなの当たり前じゃないか、と言われるかも知れない。権利を主張するということは「被害者」の立場を先取することなのだから、と。
 まことに、その通りである。「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」というのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの「正しさ」にうんざりし始めているのである。
 近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よりする「本来私に帰属するはずの権利の奪還」として営まれてきた。
 私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。
  争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。
 私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

2008.05.14

週末婚?

ゼミのお題は「週末婚」。
「しゅうまつこん」と聴いて「終末婚」という文字を思い浮かべた人もいた(臨終間際に永遠の愛を誓い合う男女・・・シュールだ)。
週日はばらばらに暮らして、週末だけいっしょに過ごす。
自分らしいライフスタイルは仮に配偶者であっても邪魔されたくないという欲求が見出したソリューションである。
なるほど。
発表した学生によると、週末婚実践者たちのブログをチェックすると、GW明けは男女問わず「配偶者と長くいたので、疲れた」という愚痴が書かれていたそうである。
疲れる理由は「自分のペースで生活できない」。「家事負担が増える」などなど。
要するに配偶者が「自分の生活」に関与してくるのをどのように抑止するかにみなさん心を砕かれているわけである。
そうですか。
でも、それなら結婚しなけりゃいいじゃないですか、とゼミの学生たちが一様に言う。
そうだね。
まあ、先方にもいろいろご事情というものがあるのであろう。
しかし、私が気になるのは、週末婚が夫婦のそれぞれがアクティヴな社会的活動に従事しており、高額の家賃を負担しても十分に単身で生活できる経済力を有しているという条件はかなり不安定なものではないかということである。
例えば、週末婚配偶者の一方が病気になったり、失職した場合に、他方の配偶者はこれにどう対応するのであろう。
「自分のペースを邪魔されたくない」から離れて結婚している人びとに、配偶者の看病をしたり、生活の面倒を見たりすることによって生じる「自分のペースの乱れ」は受容可能なのであろうか。
論理的には困難であろう。
ということは、週末婚は「強者カップル」においては可能だが、一方の配偶者が弱者になれば破綻の危機に瀕するということである。
私はいま「破綻の危機」というようなあいまいな言い方をしたけれど、実情は「弱者の切り捨て」ということである。
昔、あるインディペンデントな夫婦を知っていた。
夫婦それぞれ仕事を持ち、相当な年収を得て、お互いを束縛せずに、異性関係を含めてかなり自由に活動していた。
そういうのもありなのかしらと私は眺めていた。
その妻があるとき病気になった。
脳内出血で意識を失ったのである。
しばらく植物人間状態が続いたあと、夫は妻を実家に送り返した。
荷物みたいに。
お互いを束縛しない自由な夫婦というのも結構なことだと思う。
けれども、自分たちがその自由を満喫できるような条件が永遠に保証されているわけではないということは忘れない方がいい。
私たちは必ず年老い、病み、仕事を失い、心身の機能が低下する。
親族はそのようなときのための「安全保障」の装置である。
だから、私たちは自分の親族のうちに、幼児や老人や病人や障害者をフルメンバーとして受け容れている。
私たちはかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人や障害者になる。
そのときの「弱い私」をフルメンバーとして敬意を以て接してくれるような共同体を構築するために、「強い」ときに、持てるリソースの相当部分を彼らのために割くのである。
配偶者に自分と同程度の強さを要求し、配偶者が弱くあること(ひとりでは生計を立てられない、ひとりでは基礎的な家事ができない、ひとりでは寂しくて生きられないなどなど)を許さないというのは「親族の条件」を満たしていない。
結婚の誓言は「富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも」という条件を課している。
現に、富めるときや健やかなるときに私たちは親族を必要としない。
いくらでも友だちがおり、取り巻きがおり、どこでも歓迎されるからだ。
しかし、貧しいとき、病めるときには、かつての知友は知らない顔をして通り過ぎてゆき、どこの家のドアも開かない。
親族はそのようなrainy day のためのものである。
貧しいとき、病めるときでも、親族は見捨てない。
そのことを知っていたからこそ、さきほど例に挙げた夫は昏睡状態の妻をその「親族」に送り返したのである。
結婚の目的は親族の形成である。
結婚は快楽を増加するための享楽装置ではなく、最悪の事態を回避するための安全装置である。
私たちは今あまりに安全な社会に住んでいるために、親族が「生き延びるためのセーフティネット」であるという原事実を忘れている。
けれども私たちの「安全」はそれほど確かなものではない。
そのことを忘れない方がいい。

2008.05.19

父の七回忌

週末は父の七回忌で鶴岡の宗傳寺へ。
今回は母兄の他に、嫂、甥たち(上の二人)も参加。賑やかなことである。
庄内空港で車を借りて、まずはいつものように寝覚屋半兵衛で「麦切りとお蕎麦」を食すべく鶴岡へ走る。
毎年この時期は田植えの直後で、水を張ったばかりの水田の上をわたる風がまことに涼しい。
鳥海山の麓までずっと水田が拡がっている。
宗傳寺でお墓を掃除してから、本堂で副住職さんにお経を読んでいただく。われわれも般若心経を唱和する。
法事を終えてから母と「本長」へ。お土産に漬物をいろいろ買う。
いつもの亀やの1013号室に投宿。
2001年の5月12日に父母兄と四人でここに泊まった。
南紀白浜に温泉旅行にゆく予定であったのだが、父が直前になって「鶴岡の宗傳寺に墓参りに行こう」と言い出して、急遽ここに来ることになったのである。
父にとっても久しぶりの故郷で、幼少のころを過ごした鼠ヶ関にも足を伸ばした。
その小さな海岸の町を歩いているとき、父の脳裏にどんな風景が去来したのだろうか。
姉に背負われてこの弁天さまに来たことを覚えているが・・・と父は呟いたが、それはほとんど90年近く前の出来事であり、私の貧しい想像力をもってしては大正初年のこの港町の風景を再構成することはできなかった。
その翌年の同じ日に父は死んだ。
たぶん、父は一年後に自分が入ることになる菩提寺の墓を「下見」に行ったのである。
私はそれを偶然だとは思わない。
青空の下、のんびりと露天風呂に浸かる。
リタイアしたあとの生活について、兄とあれこれと語り合う。
道場のこと、旅行のこと、これから書きたい本のこと。
私たちももう半ば以上「老境」に足を踏み入れている。
がむしゃらに働く時期はもうそろそろ終わりにしたい。
40年間休みなしに働きづめだったのである。
そろそろ残る時間を楽しむような生き方にシフトしても、神様は怒らないであろう。
法事を終えて、翌朝空港でパソコンのカレンダーを開くと、仕事のスケジュールがぎっしり詰まっている。
ふう。
まだこんなにたくさん原稿を書かなければいけないのか。
飛行機の中で爆睡。
家に戻って急ぎの原稿を書いてから、下川先生のお稽古へ。
6月1日の本番まであと稽古が二回しかない。
とりあえず盤渉楽と仕舞の道順はもう大丈夫である。
家に戻って原稿の続きを書いていると、山本画伯が自分の絵を取りにやってくる。
スキャナーに取り込むために一時貸し出しするのである。
画伯とおしゃべりをしていると、IT秘書のイワモトくんが推薦状を取りに来る。
そのまま三人で晩御飯。
マチスのキュビスムの話から、花の御影とマイクロ・スリップと老松の話になり、深更に至る。

X氏の生活と意見

クリエイティヴ・ライティングの授業で先々週の宿題に学生たちに「・・・さんの生活と意見」というタイトルを課した。
さきに高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の一部を読み聞かせ、これが『伊藤整氏の生活と意見』、『得能五郎の生活と意見』、『江分利満氏の優雅な生活』といった先行作品を踏まえたもので、さらには遠くロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生活と意見』にまで遡る伝統的なタイトリングである、という話をしたのである。
『トリストラム・シャンディ』について日本で最初に言及したのはおそらく夏目漱石である。
漱石はこの奇書についてこう書いている。
「今はむかし、十八世紀の中頃、英国にロレンス・スターンという坊主住めり。最も坊主らしからぬ人物にて、最も坊主らしからぬ小説を著し、その小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に余命を保ち、文学史の出るごとに一頁または半頁の労力を著者に与えたるは、作家スターンのために祝すべく、僧スターンのために悲しむべきの運命なり。」(『トリストラム・シャンデー』)
『猫』にも「トリストラム・シャンデーの鼻論」という薀蓄が出てくることから推して、漱石がこの枕頭の愛読書を踏まえて、おそらくは『苦沙弥先生の生活と意見』という隠された副題をでもつける心積もりで『猫』を書いたというのは大いにありそうなことである。
高橋さんの『タカハシさんの生活と意見』は「タカハシさん」と「我輩」と命名された猫の対話を軸に展開する。
これは高橋さんが『トリストラム』と『我輩は猫である』を先行作品としてはっきり意識しつつこのエッセイを書いているということを意味している。
だからどうなんだよ、と言われても困る。
だから、「そういうこと」なのである。
先行作品として踏まえているものが多ければ多いほど、先行作品の質が高ければ高いほど、「それを踏まえて書かれたもの」は「親の七光り」の恩沢に浴すことができる。
ここでいう「親の七光り」というのは別に直接的な利益のことではない。
そうではなくて、「先行作品を踏まえている」という事実それ自体が読者に対する「コールサイン」として機能するということである。
「仲間内の符丁」は「符丁である」ということがわかってしまっては暗号的には機能しない。
「これから暗号を発信しますよ」とアナウンスしてから暗号を発信するスパイはいない。
暗号はそれがあたかも暗号ではないかのように書かれなければ意味がない。
だから、書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。
表層的に読んでもリーダブルである。
でも、別の層をたどると「表層とは別の意味」が仕込んである。
その層をみつけた読者は「書き手は私だけにひそかに目くばせをしている」という「幸福な錯覚」を感知することができる。
To the happy few.
自分こそその「幸福な少数」であるという自覚ほど読者を高揚されるものはない。
すぐれた作家はだから必ず全編にわたって「コールサイン」を仕掛けている。
すぐれた作家は「わかりやすいコールサイン」から「わかりにくいコールサイン」まで、無数のレベルで「めくばせ」を発信する。
そして、どのレベルのコールサインであっても、受信した読者は、自分は凡庸な読者たちの中から例外的に選び出された「幸福な少数」だと信じることができる。
それでよいのである。
真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。
そのような作家だけが世界性を獲得することができる。
「コールサイン」のもっとも初歩的な形態が「本歌取り」である。
これは「本歌を知っている読者」と「知らない読者」をスクリーニングする。
音楽の世界では大瀧詠一師匠がこの「本歌取り」の大家であることはご案内の通り。
なぜ「ナイアガラー」という熱狂的で忠実なオーディエンスが大瀧師匠の場合に発生するかというと、この「本歌」のヒントを師匠は実にさりげなく楽節の隙間にさしはさむからである。
あ、このフレーズは「あの曲の、あそこ!」ということに気づいたナイアガラーは、これを発見したのは世界でオレ一人だ。このコールサインは師匠と私の間だけに結ばれた、余人の入り込むことのできない「ホットライン」なんだ・・・という陶酔感に深く久しく酔い痴れることが許される。
このような快感を組織的に提供してくれるミュージシャンは師匠の他にはいない。
師匠の「日本ポップス伝」は言い換えれば「本歌取りの歴史」である。
あらゆる作品は(音楽であれ文学であれ)、その「先行項」を有している。
その先行項をどこまで遡及し、どこまで「祖先」のリストを長いものにすることができるか。
読者が作品を享受することで得られる快楽は、ひとえにそこにかかっている。
リストが長いものになればなるほど、その作品は読者との親しみを深める。
作品はすべての読者に開かれているが、それが発信する「コールサイン」を読み取るための「暗号解読表」は読者ひとりひとり「世界のオンリーワンのオリジナル」だからである。
ある作品について、私と同じ仕方で「私宛のメッセージ」を読み出している読者は世界に一人もいない。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』がレイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』の本歌取りであり、その『ザ・ロング・グッドバイ』はスコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』の本歌取りであり、その『ギャツビー』はアラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』の本歌取りであり、その『ル・グラン・モーヌ』は・・・というふうに、読書において「日本ポップス伝」的アプローチは読書の快楽を増すためにきわめて有効なのである。
という前説のあとに、学生諸君に「・・・さんの生活と意見」(・・・には自分の名前を入れる)というタイトルのエッセイを課す。
少なくともタカハシさんのエッセイだけは「本歌取り」してね、ということでコピーを配布しておく(山口瞳やロレンス・スターンまで読めとは言いません)。
その宿題をさきほど読み終えた。
意図を理解して、なかなか面白いエッセイを仕上げてきてくれた学生が何人かいる。
どうして自分の名前を三人称に置き換えて文章を書くことがたいせつなのか。
これについてはモーリス・ブランショが間然するところのない言葉を書き記している。

「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」(Pourquoi deux paroles pour dire une même chose? –C’est que celui qui la dit, c’est toujours l’autre.」
Maurice Blanchot, Entretien infini, Gallimard, 1968, pp.581-2

ブランショの最高傑作である『終わりなき対話』はついに翻訳されぬままに終わった。
これが1970年代に(せめて80年代に)出版されていれば、日本の文芸批評のレベルは今より三段階くらい上がっていただろう。
それはさておき。
ある言葉が人に届くためには、それが「二人の人間によって語られていることが必要である」
私と「私と名乗る他者」によって、同じ一つの言葉は二度語られなければならない。
どうしてそれが必要なのか。
「どうやって他者に届く言葉を書くか」について長い時間考究したことのある人なら、理屈はわからなくても、ブランショの言葉は実感として深く身にしみるはずである。
学生たちには、エッセイを通じて、「私と名乗る他者」に言葉を託したときに、私がこれまで一度も口にしたことのない種類の言葉が「まるで私自身の言葉でもあるかのように」湧き出てくるという機制を経験して欲しかったのである。
それが「書く」という行為の本質的経験である。
同時にそこに「書く」ことの魔境も存在する。
「私」の筆先から溢れるようにほとばしる言葉が、よくよく見たらすべてレディ・メイドの「ストックフレーズ」であった・・・という身も凍る経験(ジャック・ニコルソンの事例に敬意を表して、私はこれを「シャイニング・シンドローム」と呼んでいる)もまた学生たちには(ほんの少しだけ)味わって欲しいと思っている。

2008.05.21

妥協と共生

Frauという雑誌の取材がある。
20-30代の働く独身女性が読者層のヴォリューム・ゾーンであるような雑誌で、今回のお題は「結婚したいけれど、できないのはどうして・・・」という切実なるものである。
どうしてと訊かれて即答できるなら、苦労はない。
というのはシロートで、私はどんなことを訊かれても即答することでお鳥目を頂いている身であるから、もちろん即答する。
それはみなさんがたが「他者との共生」を「他者への妥協」というふうに読み替えておられるからである。
「共生」と「妥協」は見た目は似ているかもしれないが、まるで別のことである。
これは武道をやっていると実感的によくわかる。
「妥協」というのは「まず、私がいる」というところから話が始まる。
そこに他者が干渉してきて、私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する。
私はやむなく、自由を断念し、狭いところで我慢し、やりたいことを諦める。
というのが「妥協」である。
ここまでの文章をみなさんはすらすらとお読みになったかもしれないが、ここにはすでに重大な予断が含まれている。
それは「私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する」という「被害」の記述が成立するためには、そのつど「存在しなかった私」を幻想的に基礎づけることが必要であるということである。
「私の動線が塞がれている」という感覚が成り立つためには、「こいつさえいなければ、私がそこを通過できたはずの動線」というものがありありと映現していなければならない。
「私の可動域」も「私の自己実現」も同様。
どれも、現実ではない。
現実になったかもしれないこと、現実になるはずだったこと、現実になればいいなと欲望していたことである。
それは非現実である。
たしかに、それは「他者」が出てこなければ、現実になったかもしれない。
でも、「他者」が出てこなくても、現実にはならなかったかもしれない。
「私」はその動線を通過するとき、小石にけつまずいて、足の骨を折っていたかもしれない。
「私」はその可動域に踏み込んだときに、穴にはまって、首の骨を折っていたかもしれない。
「私」が誰にも邪魔されずに「自己実現」してみたら、それがまた涙が出るほど貧弱な「自己」で、すっかり絶望して首を吊っていたかもしれない。
だから、「何かが起こらなかった」ということを前件にして、「その何かは起こるはずであった」と推論することはできない。
「私が成功しなかった」という事実から「私は成功するはずであった」という命題を導くことはできない。
してもいいけれど、みんなからバカだと思われるだけである。
ところが「妥協」ということを口走る皆さんはこの没論理を平然と駆使されているのである。
「妥協」において他者と「妥協」しているのは、「存在していない私」である。
「(すべてが100%うまくいった場合に)そうなるはずであった私」「そうなるといいなと思っていた私」を「それこそが現実の私」であると強弁することではじめて「妥協」という考え方は成立する。
非現実を現実だと思いなす、かなり身勝手な人間の場合にしか「妥協」ということは起こらない。
「他者との共生」者は、そのような「現実になるはずだったのに、ならなかった私」のような幻想についていつまでもぐじゅぐじゅ考えない。
「私の動線」はさまざまなものによって不断に塞がれ、迂回を余儀なくされる。
犬のうんちがあれば遠回りするし、信号が赤なら止まらなければならない。そもそも道路がないところは歩けない。
でも、そんなことを私たちは歩くときには意識していない。
それはもう「織り込み済み」の与件として、それを「勘定に入れた」上で、自分に何ができるかを考えている。
武道の場合はもっと贅沢である。
他者の出現によって、私の動線や可動域のオプションが一気に増大した、と考えるのである。
たとえば、「相手に突き飛ばされて空を飛ぶ」というのだって、ひとりではできない動きである。
ひとりではできないことが、他者の出現によって可能になった。
これをとりあえず「言祝ぐ」というのが武道家のマインドである。
相撲の場合、決まり手の多くは「同体」である。
二人とも顔から土俵につっこんでゆくのであるが、コンマ数秒でも相手の身体が先に砂につくと、勝った方は「痛くない」。
このときの「土俵に顔からつっこんでゆく」という動作はひとりではできない。
してもいいけど、怖い。
怖いし、痛い。
怖いし、痛いし、そもそも実際に投げを打ったときほどのスピードでは土俵につっこんでいけない。
ところが相手がいると、ひとりではできないことができる。
これを「他者が出現したことによる可能性の拡大」と武道では考える。
「ひとりではできないこと」にはいろいろなことがある。
「私」単体を基準にとると、「いやなこと」もあるかもしれない。
でも、私と他者をまとめた複素的身体を基準に総合的に考えると、「いや」とか「いい」とかいうレベルはあまり関係ない。
ご飯を食べるときに、右手は忙しく箸を使っている。
食べるのは口である。
これを「右手」と「口」の対立の中でとらえると、右手は「おれはただ筋肉疲労がたまるだけなのに、口のヤローは美味しい思いしやがって」という「不満」だってありうるかもしれない。
けれども、身体全体としては、「部位によってはいろいろとご不満もおありでしょうが、ま、ここはですね、ひとつ大所高所からご判断いただくということで」ということでまとめさせていただくことになる。
結婚だって同じである(おお、いきなり結論が)。
配偶者と共同的に構成している「結婚体」というものを基準に考えるのである。
それが気分よく機能するのはどうすればよろしいか、ということを配慮する。
「結婚」することで「私」がどのような快楽や利便を得るか、というふうに問題を立てるからいつまでも結婚できないのである。
「私」が参与することで、「結婚体」のパフォーマンスはどのように向上するか、ということを考えればよいのである。
ケネディ大統領がその就任演説で述べたとおりである。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。」
よい言葉である。
若い未婚の方々には、ぜひ「国家」のところに「結婚」という言葉を入れてこの言葉を熟読玩味していただきたいと思う。

2008.05.22

井上雄彦さんと会う

井上雄彦さんの仕事場を訪ねる。
BRUTUSの井上雄彦特集のためにツーショットを撮るのである(ということは、例によって「ハシモトさん・スズキさん」マターである)。
世田谷某所に「スラムダンクビル」がある。
タクシーで遠くから見て、「あれかな?」「いや、あれは学校でしょ」と話していたら、そこだった。
6階建ての自社ビル(というか自分ビル)で、その地階が体育館になっていて(もちろんバスケットをするため)、そこを今は仕事場にしておられる。
というのは、井上さんは週末から上野の森美術館で始まる個展のための作品をそこで描いているのである。
キャンパスの大きさが半端じゃないので、体育館に工事現場のような足場を組んでいる。
お仕事の手を休めて、ゆらりと立ち上がってこちらを向く。
「こんにちは」
おお、立ち姿に後光が差している。
ここ何日もきれぎれにしか寝ていないそうである。
しかし、その笑顔は透き通るようにさわやかである。
たぶん「そういう感じの人」ではないかと想像していたけれど、その人の手触りは、私の想像を超えて、暖かく、柔らかかった。
なるほど。
そういうものか。
そうだよ。
井上雄彦さんは『スラムダンク』、『バガボンド』、『リアル』で、文字通り「洛陽の紙価を高めた」天才漫画家である。
『スラムダンク』は「累計一億部」を超える日本出版史上の「事件」であった。
私が『バガボンド』に示された井上さんの武道的知見に深い敬意を抱いていることは、このブログに何度か言及しているので、みなさんもご存じのはずである。
『バガボンド』は私の武道指導上のもっとも言語化しにくいアイディアのいくつかを鮮やかに図像化してくれた。
小次郎と武蔵が「雪だるま」を斬るシーン。
伝七郎との決闘で無数のシミュレーションをしているうちに、いきなり間合いを切ってしまうシーン。
清十郎との決闘のときに、武蔵の脳内で柳生石舟齋と宝蔵院胤栄が「論争」をしているうちに、身体が自動的に動いて清十郎を斬撃するシーン。
これらはどれも私の「複素的身体」仮説と、「葛藤による居着きからの解放」仮説に深く通じている。
複素的身体仮説は身体的実感として納得しやすいし、画像的に見ても、きわめて「美しい」ので、それが理にかなったものであることはよくわかるはずである。
『バガボンド』24巻で、小次郎が棒きれを一閃させて雪だるまを斬るその鮮やかな動きを見て、武蔵はおのれの「居着き」に気づく。
「木も 風も 大地も ひとつのもの そうだった
刀が教えてくれるんだった
軽いっ
むずかしいぞ
でも
この棒きれですら
教えてくれるはず
耳を澄ますように
体を手放せ
(中略・ここは小次郎が邪魔して武蔵がムカッとするところ)
ぶらぶら
おお来た
これだ
指先に
ひっかかる
棒きれの確かな重み
うあ(うふっ)
何か
笑いがとまらねえ」
この「笑いが止まらねえ」のときの片手斬りは絵画史上、「片手斬り」を描いたすべての図像の中でもおそらく最高のバランスを達成している。
右手の伸び、舞うようにかざした左手、左の腰間に差した長剣の重みとの均衡のために踏み出した右足、目付、すべてが正中線の上に整っており、この姿勢によって、この場を領するすべてのエネルギーが細い棒きれの先端の幅コンマ何ミリのところに凝集されていることが知れるのである。
24巻末、蓮華王院での伝七郎との試合で、武蔵が無刀のまま伝七郎に突き当たる場面。これも見事としか言いようがない。
斬る武蔵、斬られる伝七郎の二人の身体が完璧なバランスで「二重奏」を奏でている。
武蔵はここで(幻想の)剣先にすべてのエネルギーを託して、左足の爪先が地面に軽く触れるだけで、、伝七郎に向かって泳ぐように身を投げ出している。
伝七郎は両踵を踏みしめて、両踵で武蔵のその凄まじい斬撃をまっすぐに、全身で受け止める。
伝七郎はおのれの命を差し出すことで、武蔵が「武蔵ひとりでは決して到成することのできない種類の力と美」を実現することを可能にしているのである。
斬り合いが「愛」のきわめて純度の高いかたちでありうるということをこの一シーンはみごとに表している。
武道的身体運用の極意が「世界との調和」にあることは、井上雄彦の画力によって、武道を知らない人にも理解が届く。
しかし、脳内で「二人の武神」が論争することで「居着き」を離れるという理合は言葉ではわかりにくい。
しかし、どのようなものであれ何らかの技芸を長期的・集中的に修業した経験のある人ならこのことは実感されているはずである。
人は単一のロールモデルが示す「すっきりした」プログラムに従って訓育されている限り、必ず技術的な限界にぶつかる。
必ずぶつかる。
それは「私」がプログラムの「意味」を理解したことによる限界である。
「このプログラムによって、私のこの資質、この潜在能力が開発され強化されるのだな」ということが「私にわかった」ときにプログラムの教育的効果は不意に限界に突き当たる。
どうしてかしらないけれど、そうなのだ。
たしかに引き続きそのプログラムで訓練しても、局所的な技術や部分的な能力は上がるだろう。
けれども、それは「檻の中でぶくぶく太ってゆく」ような膨満感しかもたらさない。
教育されることは本来教わるものに「のびやかな開放感」をもたらすはずである。
そのためには「私は私を教育するプログラムの意味や構造について完全に理解した」ということがあってはならないのである。
プログラムは私の「外部」に/でなければならない。
しかし、プログラムそのものは異論の余地なく「正しい」のである。
だから、それとは違う「もっと正しいプログラム」に乗り移ることは解決にはならない(同じことを繰り返すだけである)。
そうではなくて、この「正しいプログラム」に「正しいがゆえに居着いてしまった私」をそこから引き離すことが問題なのである。
「正しいプログラムへの居着き」は「間違っていない」のである。
けれども、そこに居着いては技術の向上が停止する。
「正しいこと」を「正しいから止める」ということは論理的には人間にはできない。
そこで、要請されるのが「同じ一つの正しいことを別の言葉で言う二人の師」である。
彼らは「同じ一つの正しいこと」を教えるのだが、使う言葉が違う。言い方が違う。
だから、教えられる方は「だから、何が言いたいんですか?」と困惑する。
けれども、この「不決断」は「正しい教え」の中での「揺らぎ」なのである。
いくら揺らいでも、絶対「誤答」に行き着く恐れのない、「どこに転んでも正解」という枠内で揺らいでいるのである。
このような揺らぎに身を委ねることで、私たちは「正しさへの居着き」から解き放たれる。
個人的なことを言えば、私には多田宏とエマニュエル・レヴィナスという二人のロールモデルがいる。
多田先生には植芝盛平と中村天風という二人のロールモデルがいた。
その植芝先生には武田惣角と出口王仁三郎という二人のロールモデルがいた。
これは偶然ではない。
技芸の伝承が教育的に機能するためには、そういう「かたち」が構造的に必要とされるのである。
だから、無二齋という「単独のロールモデル」から「石舟齋と胤栄」という「二人のロールモデル」にシフトすることで、武蔵が「プログラムへの居着き」から解放されるという理路が私にはわかる。
教育というものが効果的に機能するためには、「同じ一つのことを語る人間が二人いなければならない」。
同じことを昨日も書いたような気がするけれど、そういうことなのである。
井上雄彦さんはそのような意味で現代日本においてもっとも「教育的」なクリエイターであると私は思っている(ご本人はそんなことを言われたらびっくりするだろうけれど)。
今回は作品搬出の直前で時間がなく、井上さんに私の年来のレスペクトを告げるだけで終わってしまったけれど、いずれ機会があれば、絵について、身体について、教育について、長い時間をかけて話してみたい人である。
展覧会のご成功をお祈りしております。

2008.05.23

甦るマルクス

マルクスが「プチ・ブーム」らしい。
『赤旗』からの電話取材で、「このところのマルクス・ブームと日本共産党再評価の動きについて」訊かれる。
たしかに、マルクスについて言及される回数がこのところ心持ち増えたような気がする。少なくとも、私自身の書きものに「マルクス」という語の出現頻度が上がっているのは間違いない。
日本共産党再評価云々については、ほんとうにそんな動きがあるのかどうかわからない(「希望的観測」の域を出ないのではないかと思うけど・・・)。
どうして「今、マルクス」なんでしょう?
どうしてなんでしょうね・・・
一つはかつてドミナントなイデオロギーであったせいで、すっかり飽きられた「歴史主義」が、このところあまりに冷遇されていたせいで、むしろ「物珍しい」ものになったという事実がありそうである。
歴史主義には悪いところもあるが、いいところもある。
特にいいところは、「私たちが今生きているこの社会は、テンポラリーなものであって、始まりがあった以上、いずれ終わりが来る。」という考え方である。
こういう考え方をつねづねしていると、今ある「このような社会」はいつ、どんなかたちで「それとは違う社会」になるのかということが気になるようになる。
そういうことをいつも気にしている人間は、「今ある社会がこれからもずっと続く」と思っている人間よりも、ほんとうに社会が変動期に入ったときに慌てない確率が高い。
「あ、なるほど、こういうふうに変わるわけね」と興味深く事態の推移を見つめている人間は「げ、これはいったい何が起きたのだ、エラース!」と肝をつぶす人間よりも、変動期を生き延びる確率が高い。
歴史主義は私たちに「ここより他の場所」「今とは違う時間」「私たちのものとは違う社会」についての想像のドアを「開放」にしておくことを要請する。
これはたいへんによいことである。
でも、いけないところもある。
歴史主義のいけないところは、つい「歴史を貫く鉄の法則性」を探して、「だから来るべき社会はこのようなものである」というような遂行的予言を行い、その予言を実現させるためにあれこれよけいなことをしてしまうことである。
未来の未知性に対してもうすこし謙虚であれば、歴史主義はぜんぜん悪いものではない。
でも、このディセンシーはどのようなものであれ、社会理論には求めがたいのである。
社会は変化し、それはそれなりの必然性があるのは後になるとわかるが、どういうふうに変化するのか予見することはきわめて困難である・・・という身の程をわきまえた「ディセントな歴史主義」というものがあれば、ずいぶんと気分のよい思想であろうと思うが、残念ながら、人類はそのようなものをこれまで所有したことがない。
閑話休題。
マルクスのいちばんよいところは、「話がでかい」ところである。
貨幣とは何か、市場とは何か、交換とは何か、欲望とは何か、言語とは何か・・・そういう「ラディカルな話」をどんと振って、私たちに「ここより他の場所」「今とは違う時間」「私たちのものとは違う社会」について考察させる。
マルクスのこの「風呂敷のでかさ」に私は満腔の賞賛を惜しまない。
例えば、私たちの国の識者たちの多くは「日米同盟」なるものを異論の余地なき前提として国際関係を語られるが、63年前にそのようなことを語った人間がいたら(幸い一人もいなかったようだが)特高に拉致されて、竹刀で死ぬほどぶちのめされていたであろう。
実際には、もっと短いインターバルで私たちの「議論の余地なき前提」は繰り返し瓦解している。
にもかかわらず、依然としてメディア知識人たちはほんの十数年以前には遡ることのできない状況を昔からずっとそうであり、これかもずっとうそうであるかのように語る。
もう、いい加減に「世の中、確実なものは何もありません」という涼しい達観に手が届こうものだが、ぜんぜんそうならない。
不思議である。
そういう話の「せこさ」に対する倦厭感が、あるいは「プチ・マルクス・ブーム」の背景にあるのかも知れない。
私自身は高校時代以来、マルクスを定期的に読み返す、かなり忠実な読者である。
クロード・レヴィ=ストロースは論文を書き始める前には必ずマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を繙読するそうである。
別にその中に人類学的知見が豊かに述べられているからではない。
マルクスを数頁読むと、がぜん頭の回転がよろしくなり、筆が走り出すからである。
私が論文を書き始める前に「あんこもの」を食すのと(スケールは違うが)理屈はいっしょである。
マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」。
多くの読者たちはおそらくそのような効果を期待してこれまでマルクスを読んできたはずである。
私はそれでよいと思う。
マルクスを読んで「マルクスは何が言いたいのか?」というふうに訓詁学的な問いを立てるのは、あまり効率のよい頭の使い方ではない。
それよりはむしろ、「マルクスを読んでいるうちに、急に・・・がしたくなった」というふうに話が横滑りをし始めることの方がずっと楽しいことだと思う。
「知性とは何か」について、私の知る最高の定義は(繰り返しご紹介した)グレゴリー・ベイトソンのそれである。
ベイトソンによれば、知性とは何か?という問いに、知性はこう回答した。
That reminds me of a story.
「そういえば、こんな話を思い出した」
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。

2008.05.26

疾風怒濤の週末

5月、6月はほとんど「週末」というものがない。
24日(土)は恒例の全日本合気道演武大会。
日本武道館にこれで1977年から31年連続出場である。
毎度申し上げるが、これだけの連続記録を持つ人はあまりいない。
どれほど熱心に稽古をされていても、たまたま当日風邪をひくことだってあるだろうし、海外出張を命じられることだってあるだろうし、親の法事やご自身の結婚式とぶつかることだってあるであろう。
なにしろ5月の第四土曜日、「行事」のハイシーズンである。
そのような日に、加えて私のように異常なほどに「各方面にかかわりあいの多い人間」が、31年間、一度もこの土曜日に他の用事とバッティングしたことがない(ほんとはあったけれど、キャンセル)というのは、やはりかなり例外的な出来事と申し上げてよろしいと思う。
ここまで不倒距離を伸ばした以上、こうなったら死ぬまでこの記録を更新し続けたい。
あと何年武道館に出られるか。
せめてあと9年命がもって、40年連続記録を達成したいものである。
8時に新大阪に集合。
私どもの会は「現地集合、現地解散、自力更生」であるので、誰がその時間に来るのか懸念するには及ばない。
来る人は来ているし、来ていない人は来ない人なのである。
私どものイベントにだから「遅刻」という概念は存在しない。
「遅刻する人」は「来るはずの人」ではなく端的に「来ない人」にカテゴライズされるからである。
私がどうしてこれほど遅刻とかドタキャンに対して非寛容であるかというと、むろん長い個人史的理由があるのであるが思い出すだにますます非寛容になるので、割愛。
8時新幹線ホームに8人。
ドクターとイーダ先生ご夫妻、タニオさん、やべっちとクー、カユカワさんにヤマダくん。京都からアマノックスとトーザワくんが乗ってきて、計10人。
生霊の話などをしているうちに東京に着く。
地下鉄で武道館へ。
九段下からぞろぞろと夥しい数の合気道家が武道館に参集している。その数10000人。
会場につくと、ウッキーとキヨエに率いられた先乗り席取り部隊が激しいバトルを勝ち残って、なんとか北西角地にみんなの席をゲットしてくれている。すまぬ。
前日先乗り組、深夜バス組、スタンドアローン組がぞろぞろ集まってきて、総勢約30名。めんどくさいのでもう数えない。
廊下や控え室で10秒ごとに行き逢う各地の合気道家のみなさまと久闊を叙しつつ、着替えてさくさくと演武。
演武が終わると、本部の入江師範に捕まる。
『合気道探求』に連載をしてほしいというご要請である。
入江師範は早稲田大学合気道会主将の時代から久しく同門のご友誼を賜った仲であるので、むろん私にお断りできる筋の話ではない。
新規連載はすべてお断りしているけれど、こういうのは「別腹」である。
引き続き廊下にて「月刊武道」の取材。
武道館で原稿依頼や取材を受けるとは思わなかった。
私の行動パターンをご存知の方たちはこういうところで網を張っているのである。
出番が終わったので、あとはのんびりとみなさんの演武を拝見する。
多田先生、道主の演武を拝見する。
毎年まったく同じものを見ているような気もするけれど、31年前は吉祥丸道主が演武をされていたであり、多田先生も壮年の40代だったのである。
年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず。
演武会後、いつもの九段会館にて多田塾の打ち上げ宴会。
月窓寺の村尾泰隆、隆康ご兄弟と隣り合わせたので、ご挨拶を申し上げる。右となりの旧友小堀さん、斜め向かいの奥州の菅原さんをまじえて歓談。次々と訪れるさまざまな同門の方とご挨拶をする。
二次会はいつものように神田すずらん通り。
東大気錬会の工藤俊亮くん、次期主将の中村真也くんと痛飲。
工藤くんはとうとうお父さんになられたそうである。
最近、そういう話が周りで多い。
少子化趨勢はどうやら局所的には収まりつつあるようである。
ドクター&イーダ先生、ウッキー、ヒロスエ、キヨエ&マサコとぞろぞろと学士会館に投宿。
爆睡。
翌朝、お仕事で京都に戻るドクターと、学会に出られるイーダ先生をお見送りしてから、残るメンバーは東大本郷キャンパスへ。
恒例の気錬会五月祭演武会にご招待いただいているのである。
雑賀さんご夫妻、鍵和田くんご夫妻など、ここも「赤ちゃん」花盛りである。
演武は時間制限ありなので、かなぴょん、ウッキー、ナガヤマさん(この三人は系列道場の主宰者)、サキちゃん(18代主将)の4人に演武をしてもらう。受け、たくさん。
私はPちゃんにお相手をお願いして、名刺代わり演武。
赤門前で記念撮影(すごい人数)してから、みなさんとお別れして、多田先生と北沢尚登さんらと「赤門そば」でお昼ご飯をごいっしょする。
今年も「揚げ茄子そば」(これはなかなか珍しい食べ物である)を食す。
多田先生が真夏の犬のようにはあはあ言っている私の顔を見て、「乾杯しよう」と声をかけてくださったので、昼からビールを飲む。私の顔には「うう、ビールが飲みたいよお」という意思表示がそれほどまでにあらわだったのであろうか。
先生に再来週志木での再会をお約束して、みなさんとお別れ。
今度は六本木のANAインターコンチネンタルホテルへ。
橋本治さん、関川夏央さんと『現代』のための鼎談。
「日本論」という大雑把なテーマだけあって、あとは出たとこ勝負。
途中「次郎長三国志」と「ギャング忠臣蔵」の話になったあたりから、話が暴走しはじめ、当の三人は大いにご機嫌であったが、このような話が果たして『現代』読者に十分にご理解いただけるかはなはだ心配である。
2時間お話ししたあと、河岸を変えて、今度はワインなどをいただきつつ、さらに暴走。
『七人の侍』をハリウッドでリメイクした場合のキャスティングについて。小津映画で「私の一番好きなせりふ」について。「ひきだし」とは何かについて。
途中で、「書くとはどういうことか」というきわめて本質的な話になり、ここで橋本御大より「スタイリストの靴下」や「枕詞からブリッジへ」などハシモト文学の秘密を示す恐るべき文学的洞察が語られ、私はおもわずメモ帳を取り出しさくさくとメモする。
新幹線の時間がきたので、泣く泣くみなさんとお別れ。
あまりに面白かったので、この鼎談を単発で終わらせるのは惜しいので、「鼎談を連載しましょう」とご提案する。
三月に一度やれば、三号分くらいの分量は十分まかなえる(くらいにおしゃべりな三人)。
新幹線に飛び乗ったとたんに疲れがどっと出て、爆睡。


2008.05.27

まちがえました

すみません。うっかりして、「スーさんの熱血うなとろ日記」の原稿を自分のところに貼り付けてしまいました。
長屋の方に戻しておきました。
スーさんならびに関係者のみなさま、お詫びを申し上げます。

2008.05.28

妄想のすすめ

月曜日。午前中、下川先生のお稽古。昼から部長会。そのあと3回生ゼミ。それから杖道のお稽古。
新人がたくさんいるので、たいへん楽しい。
帰宅後、ひさしぶりに帰郷したるんちゃんと歓談。
歓談しすぎて、二日酔い。
火曜日。朝、湊川神社で申し合わせ。盤渉楽。とりあえず間違えずに最後までゆくが、最初のうち身体が硬い。
着替えてから大学。ゼミ二つ。ゼミのあいまに原稿書き。
大学院ゼミは戦後世代論。
黒田くんの発表を聞いているうちに、カッキ的な世代論を思いつき、それをご披露する。
家に戻って、るんちゃんと近くのイタリアンで晩ご飯。
ワインのみつつ歓談。
昔話にふける。
震災のときの山手小学校の校長先生(たいへん立派な方であった)の話など。
家にもどってバカ映画を見る。
あまりにバカな映画だったので、タイトルを思い出せない。
るんちゃんに「読むべきマンガ・リスト」を作ってもらう。
ただちにアマゾンに発注。
最近のマンガ界の動きに疎いので、これでフォローする。
朝一で三宅先生のところに行き、帰りに下川先生のところに寄ってお稽古(これで三日連続)。
動きに「どっしり感」が足りないと叱られる。
しくしく。
汗まみれになって帰宅。シャワーを浴びて、着替えてから、午後に東京に帰るるんちゃんとお別れして、大学へ。
山折哲雄先生との対談のお仕事。
京都新聞の連載対談で、一回目が養老先生、二回目が田辺聖子さん、三回目が私。
さて、これはどういうラインアップなのでしょうね。
山折先生とお会いするのははじめてである。
自己紹介をしたあと、どうして私がこれまで日文研にかかわりがなかったのか山折先生に不思議がられる。
でも、私はこれまでまともな研究機関からはまるで相手にされなかった(今もあまり相手にされていない)人間である。
本を書くということと、アカデミアで「まともな学者」として遇されるということは別次元(ほとんど別宇宙)の話なのである。
今回の対談のテーマは格差論と身体性の教育。
山折先生とははじめてお会いするのに、どの論件についても意見がほとんど変わらない。
「ですよね~」「そうだね」でとんとんと話が進んで、たいへん楽ちんである。
今日話した中で、個人的にいちばん面白かったのは、「妄想力」の話。
山折先生によると、若い学生たちは「黙想」ということができないそうである。
深呼吸や静座まではなんとかできる。
でも、眼を閉じて黙想するということができない。
薄眼をあけて、きょろきょろしてしまう。
黙って眼を閉じているという状態を持続できない。
どうしてなんだろう、というところから私の思考の暴走が始まった。
当今の若いひとたちは「妄想力が低下している」のではないか。
妄想というのは、眼を閉じて、「脳を暴走させる」ことである。
空想によって、そこにないものを見、そこにない音を聞き、そこにないものに触れ、そこにないものの匂いを嗅ぎ、そこにないものを味わう。
それが「妄想」である。
脳にはそれができる。
ところが、この妄想がうまくできない人が増えている(ような気がする)。
脳内で、擬似的な現実をリアルには再現することに困難を覚える人が増えている。
他人の頭の中であるから、実際に覗き込むわけにはゆかないけれど、なんとなくそういう感じがするのである
現に、どこでも空想に耽って忘我の境をさまよっている子どもというのをもう久しく見ていない。
携帯のゲームに没頭したり、マンガに没頭したり、iPodに没頭したりしている子どもは見るけれど、何も器具を用いないで、純粋に妄想に耽って忘我の境に遊んでいる子どもを、ほとんど見ない。
子供のころ、私は起きている時間の30%くらいは空想に耽っていた。
授業を聞いているときでも、教科書の挿絵や写真を見ているうちに、その「世界」に拉致されてしまうことがしばしばであった。
「キプチャク汗国」というようなインスパイアリングな文字を見るとたちまち空想に拉致された。
雪をいただくヒマラヤ、砂漠とオアシス、駱駝を引き連れた隊商たちから聞こえるトルコ風の音楽、皮の鎧と奇怪なかたちの巨大な武器、非人間的な筋肉を盛り上がらせた残忍なモンゴル兵、黒い肌をぬめぬめと光らせる半裸の奴隷女(できたらシビル・ダニングかダイアン・ソーンかステラ・スティーブンスで)・・・そういうものを想像せずにいることの方が私にはむずかしかった。
そして、想像が始まると、私は眼を宙に泳がせて、口を半開きにして、ぼおっとしていた(最後に出てきたシビル・ダニング風女奴隷の胸部のあたりに想像が固着していた可能性は高いが)
妄想の囚われ人となって、脳内で風景や音楽や手触りの細部を描き込んでいると時間はあっというまに過ぎる。
だから、私は授業に退屈しても、というか退屈しているときこそ、たいへんにおとなしい生徒であった。
そのようにして私の妄想力は初等中等教育を通じて涵養され、その結果、わずかな入力だけで、きわめてリアルな身体感覚を脳内で再現できるようになった。
そして、「強く念じたことは必ず実現する」という多田先生の教えのとおり、私が脳内で自分を主人公にして激しく繰り返し空想したことの多くは(驚くべきことに)実際に実現したのである。
少年時代から、私は大学の教壇で教えている自分の姿、武道の稽古をしている自分の姿、官能的なスタイルをしたヨーロッパの車を運転している自分の姿、美しい女性とたいへん愉快なことをしている自分の姿などなどを繰り返し想像した。
想像のもたらす現実変性能力は侮れない。
しかるに、今どきの人々はどちらかというと「取り越し苦労」的妄想を優先的になしているように思える。
「こんなことが起きたら厭だな」ということを選択的に想像する。
自分の嫌いな人間がやってきて、自分が聞きたくないことを言い、自分がされたくないことをする。
それをまず前件としておいて、それに「どう対処するか」を考える。
「最悪の場合に備えて」いるのだとご本人はおのれの先見性を言祝いでいるかもしれない。
けれど、「最悪の事態」をあらかじめ事細かに想像して、それにどう対処しようかということばかり考えている人の身には、「最悪の事態」が計ったように到来する。
そういうものである。
だって、「最悪の事態」が到来しなければ、それについて想像した「甲斐がない」からである。
だから、選択肢AとBを前にしたとき「最悪の事態を招く可能性が高い」方を無意識のうちに選択してしまうのである。
「一生結婚しないかも知れないから、手に職をつけておくわ」というようなことを若いときから繰り返し言っていた人はたいていの場合「手に職があってほんとうによかった」ということになるのである。
「年取ったときに、誰にも面倒みてもらえないかもしれないから、いまのうちから貯金しておく」というようなことを言っていた人は、「貯金があってほんとうによかった」ということになるのである。
だって、そうならないと「せっかく空想した甲斐がない」からである。
彼ら彼女らにも結婚のチャンスや、友人との相互支援組織を形成するチャンスは到来したのである。
けれども、彼らはそのつど、それが実現しないほうのオプションを選んだ。
自分の未来予測は「正しかった」という自負のもたらす快楽は、現実の不幸をしばしば凌駕する。
という話がどうして身体の教育(呼吸法や瞑想法や錬丹法)の必要に結びつくのかは、また長い話があるのだが、それは新聞で読んでください。

2008.05.29

拡大鏡から神の視点へ

クリエイティヴ・ライティング今週の課題は「カラフルな人生」である。
これまでは「ヴォイスを発見する」ためのエクササイズとして、「割る」ということをやってみた。
通常であれば、一行で書き終えてしまうようなことをその細部にわたって書き込んでゆく。
もちろん単に細分化するということではない。
「批評性」を機能させるための訓練である。
批評性を機能させるにはいくつか技術があるが、その一つは「立ち止まる」ということである。
自分が何かを感じている、何かを思考している、何かに欲望を感じている、何かに怒りを感じている・・・そういう「ひとまとまり」の行為をいくつかの工程に割ってみる。
「私は怒っている」という記述と、「この対象のどの要素が私を怒らせるのか?」「私の怒りは、どのようなレベルにおいて、どのような形態を選択するのか?」「私は怒ることを通じて何を実現しようとしているのか?」といった一連の記述では批評性に大きな差がある。
例えば。
「あ、コーヒーが呑みたいな、と思う。思って仲居を呼ぶ。ところが仲居の餓鬼ときたらなにをやっているのか知らんが、なかなかやって来ない。くぬう。なにをさらしてけつかんのんじゃ。待たされるのんかなんなあ。はやいことせんかあ、どあほ。と、誰もいない部屋。六代目笑福亭松鶴の口調で苦り切っていると、ようやく仲居がやって来て、やっとコーヒーを命じるのであるが、今度は待てど暮らせどコーヒーが来ない。私のコーヒーはいったいどうなっておるのだ。え?仲居さんよ?しゅっとしてくれんかね?しゅっ、と。ええ?と、誰だか分からない口調で苦り切り、また、一方で、ことによると廊下を歩く仲居は途中で躓いて転んで頭を激しく打って記憶喪失病にかかり、私の注文を忘れてしまったという可能性もゼロとはいえず、いま一度、別の人間を呼んで注文をし直そうか。しかし、もしそうして記憶喪失病でなかった場合、うるさい客だと思われるのもなにだし・・・と懊悩、心身がぐんぐん疲労していくのを感じて、ええい。ままよ。うるさい客と思われたって構うものか。旅先の恥はかき捨て。パワステでライブやったことだってあるんだよ、こっちは。と決意、電話機に手を伸ばす頃になって漸く、仲居がコーヒーを持ってくるのであり、心身はもはや疲労の極にあるのである。」(町田康、『実録・外道の条件』、メディア・ファクトリー、2000年、131-2頁)
ここではコンマ何秒かで移り変わるミニマムな心の動きを記述することで、批評性のみならず、グルーヴ感までが到成されている。
たいしたものである。
いまどこかの雑誌で連載している「熱海超然」(だったかしら)も、このミニマム文学の極致のような傑作である。
熱海の街の看板ひとつを眺めるだけで3頁くらいかかるのである。
というエクササイズを最初にやってもらった。
「私」から離れるためにはいろいろな手だてがある。
「拡大鏡でアップにする」という方法はその一つである。
自分の見慣れた手のひらだって、拡大鏡でアップにするとつよい違和感を覚える。
それを微細にわたって記述する。
たしかにそこに記述されてるのは紛れもない「私」のことなのだが、いつも使い慣れた「私」とはなんだか別物になっている。
「生活と意見」では「私」のかわりに「○○さん」という三人称を使って「私」の感懐を語ってもらった。
このへんで、私の趣旨を理解してくれた学生が何人か出てきた。
そして、三回目のエクササイズが「望遠鏡で見る」である。
神の視点から人々を俯瞰する。
これはサルトルの文学論で徹底的に批判された手法であるが、そのせいでむしろ今となっては文学的にはけっこう「実験的」である。
今回の「カラフルな人生」課題は「あなたの知り合いの中で、たいへんカラフルな人生を送っている人の一生を600-800字以内で描写しなさい」というものである。
この超高速ライティングのもたらすスピード感は(町田康風のミニマム・ライティングとは逆の意味で)書き手の「私」が入る余地を残さない。
例えばこんなの。
「私は飾磨高等学校三年生の時、将来作家になりたいと思うた。併しなれるとは考えていなかった。学校を出て、中どころの広告代理店に入社した。この会社が酷いところだった。二年半で辞めた。人生は何が幸いするか知れない。六十二歳になったいま、己れの人生を振り返ってみれば、この広告代理店を辞めたことが、作家になれた最大の原因である。大学を出てよい待遇の会社に入った人は、作家になりたいと思うて田舎から東京に出て来ても、ほどほどによい待遇に満足して、なれなかった人が多い。土佐の国から作家になりたいと思うて東京へ出て来たものの、一流出版社にコネで入社し、三島由紀夫など偉い先生の担当をして、それで適度に満足してしまった男がいる。そしていま六十二歳になり、三島などの思い出を自慢そうに高知新聞に書いているのを見ると、へどが出そうな思いがする。情けない話だ。胸がむかむかする。自分が一流の文士になろうとはしないのだ。けれどもこういう田舎では、東京へ出て、知名人と知り合うただけで、大変なこととして待遇されるのだ。私の場合は、一流出版社に入社したいと願ったものの、入れなかったことが、結果的には幸いした。えらい苦労はしたけれど。
 学校を出て一流出版社に入った人はみな、二十歳代で結婚した。私の場合は四十七歳で三島由紀夫賞を貰うまで、来手がなかった。四十八歳になると、順子さんが来てくれた。順子さんも嫁き遅れの女だった。四十九歳だった。順子さんの場合は、学校を出て入社した河出書房新社が二ヶ月で倒産したので、嫁き遅れになったのだ。河出が倒産しなければ、順子さんも詩人にはなれなかっただろう。」(車谷長吉、「四国八十八カ所感情巡礼」、『文學界』、2008年6月号、238-9頁)
こういう感じの文章を書かせたくて、やってみたのであるが、これがけっこううまくいった。
いくつかご紹介したいのであるが、固有名詞がばんばん出てくるし、実在の人物であるから、「あ、あの子のことだ!」と特定される可能性があるので、こういうところには書けないのである。
授業では全文公開しますけど。
クリエイティヴ・ライティングは教える方もたいへん面白いです。

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