またまたインタビュー

2008-05-09 vendredi

またまたインタビュー
今度は『月刊 PHP』
お題は「幸せって何?」
そんなこと訊かれても。
とはいえ、そのようなことを訊く為にわざわざ遠く東国から御影までおいでになったわけであるから、にべもなく「知りません」とは言えない(つい先週、同じ PHP の連載のオッファーを遠く東京から来た編集者に向かって「やりません」と五秒で断ったばかりである)。
知恵を絞って考える。
幸せって何だろう。
ふだん、そんなことはあまり(というかぜんぜん)考えたことがないので、困ってしまう。
でも、人はどういうふうに「不幸せ」になるかは、わかる。
というのはその前に『歎異抄』を読んでいたからである(朝カルの予習である。私でもたまにはそういう殊勝なことをするのである)。
人を不幸にするのは「自力」である。
自力というのは、私の解釈では「無時間モデル」のことである。
自力には「時間」が入る余地がない。
「他者」にも入る余地がない。
「未知」にも入る余地がない。
「悪人正機」の説というのがある。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
人間が悪行をなすのは「さあ、これから悪事をやるぞ」という自己決定によるわけではない。
仮に「悪人になるぞ」と自己決定したとしても、そういう非倫理的な自己決定ができるということ自体、ご本人の人間のつくりが相当歪んでいるということであり、そういう「根本的に歪んだ人間」に自己決定によってなることはできない。
おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。
気がついたらいつのまにか悪事を働いていた。悪人になる気はなかったのに、気がつけば極悪非道・・・というのが悪人である。
つまり、悪人というのは「文脈依存的」な存在なのである。
どうして自分がこんな人間であるのか、どうして自分はこんな言動をしてしまうのか、自分では説明することができないという根源的な被投性(レヴィナスのいう「始原の遅れ」initial après-coup)が悪人の「悪人性」を根源的に規定している。
悪人自身もそのことはわかっているので、自分が悪人である所以をしばしば「自分以外のもののせい」にする。
「こんな私に誰がした」
というわけである。
しかるに、善人は自分が善良であることを「他人のせい」にあまりしない。
「親に愛され、友人に恵まれ、同僚から信頼され、弟子たちから敬慕されているので、『こんな善い人』になりました」というような文脈依存的善人をカムアウトするひとに私は会ったことがない。
たいていの善人は「私が善人であるのは、自己努力の成果である」と言う。
言わないまでもそう思っている。
「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。
自分自身の善性をおのれ自身で基礎づけたと思っている人は「おのれの理解を超えた文脈」を必要としない。
なにしろ「善い人」なんだから。
これが善人の陥りがちな「自力作善」というピットフォールである。
「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
宗教学の専門家はどうおっしゃるか知らないけれど、私は勝手にそう思っている。
どうして自分がそんなことを思ってしまうのか、私自身には説明ができない。
しかたがないので、その説明の方は「ひとへに他力をたのむ」他ないのである。
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