またインタビュー

2008-05-08 jeudi

東本願寺の出している「サンガ」という雑誌のインタビューで三人の住職さんとカメラマン一人がおいでになる。
「お西さん」の出している「ジッポウ」の仕事もしているし、「寺門興隆」にはついこの間バリ島で昼寝をすると気分がよろしいというようなエッセイを書いた。
なぜか、仏教系メディアからのお仕事が多い。
どうしてなのであろう。
私の考えていることのどこらへんが仏教的に「フックする」のか、自分ではよくわからない。
今回のお題は「学びと労働」である。
どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。
それは「消費文化」のせいであるとお答えする。
「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
どんな家に住み、どんな家具を並べ、どんな服を着て、どんな車に乗り、どんな音楽を聴き、どんなレストランでどんなワインを選ぶか・・・といった一連の「商品選択」を通じてその人の「個性」は表現されるという考え方のことである。
現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。
だから、ぼんやりした読者は『通販生活』と『クロワッサン』を識別できない。
そのことを誰も「変だ」と思わない社会が「高度消費社会」である。
ある学生から「やりたいことがあるんですけれど、お金がないので、それがやれません」という泣訴を聴いた。
私は「そんなことを言っている人間は一生何もできん」と冷たく突き放した(私はときどき氷のように冷たくなる)。
「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。
「自分らしい生き方をしたい」
「そのためには『自分らしい生き方』を記号的に表象する商品を購入しなければならない」
「金がない」
「自分らしい生き方ができない」
終わり。
このような推論形式で「おのれの不能」を定式化している限り、出口はない。
「手っ取り早く金を稼ぐにはどうすればいいのか?」というより功利的なシフトするが関の山である。
「自分らしい生き方は商品購入によってしか発現できない」というのは 1980 年代から日本全国を覆いつくした消費文化イデオロギーである。
そのイデオロギーの内側にとどまる限り、そこで人々が身をよじるようにして絞り出す唯一現実的な言葉は「もっと金を」である。
学びが機能しないのは、子どもたちが「学び」を「商品(知識、技能、学歴など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが「労働」を「商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
消費のスキームの内側にとどまる限り、欲しい商品が手に入らない理由は「対価として差し出すものがない」というかたちでしか説明できない。
学びや労働を商取引のタームで考えれば、「金」に相当するのは「努力」である。
努力を対価として成果を得る。
当たり前のことだ。
だが、この当たり前のことができない。
なぜなら、「努力」をどうやって手に入れるかは誰も教えてくれないからである。
「努力って、どうすれば買えるの?」と彼らは訊く。
でも、誰も教えてくれない。
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