週末婚?

2008-05-14 mercredi

ゼミのお題は「週末婚」。
「しゅうまつこん」と聴いて「終末婚」という文字を思い浮かべた人もいた(臨終間際に永遠の愛を誓い合う男女・・・シュールだ)。
週日はばらばらに暮らして、週末だけいっしょに過ごす。
自分らしいライフスタイルは仮に配偶者であっても邪魔されたくないという欲求が見出したソリューションである。
なるほど。
発表した学生によると、週末婚実践者たちのブログをチェックすると、GW明けは男女問わず「配偶者と長くいたので、疲れた」という愚痴が書かれていたそうである。
疲れる理由は「自分のペースで生活できない」。「家事負担が増える」などなど。
要するに配偶者が「自分の生活」に関与してくるのをどのように抑止するかにみなさん心を砕かれているわけである。
そうですか。
でも、それなら結婚しなけりゃいいじゃないですか、とゼミの学生たちが一様に言う。
そうだね。
まあ、先方にもいろいろご事情というものがあるのであろう。
しかし、私が気になるのは、週末婚が夫婦のそれぞれがアクティヴな社会的活動に従事しており、高額の家賃を負担しても十分に単身で生活できる経済力を有しているという条件はかなり不安定なものではないかということである。
例えば、週末婚配偶者の一方が病気になったり、失職した場合に、他方の配偶者はこれにどう対応するのであろう。
「自分のペースを邪魔されたくない」から離れて結婚している人びとに、配偶者の看病をしたり、生活の面倒を見たりすることによって生じる「自分のペースの乱れ」は受容可能なのであろうか。
論理的には困難であろう。
ということは、週末婚は「強者カップル」においては可能だが、一方の配偶者が弱者になれば破綻の危機に瀕するということである。
私はいま「破綻の危機」というようなあいまいな言い方をしたけれど、実情は「弱者の切り捨て」ということである。
昔、あるインディペンデントな夫婦を知っていた。
夫婦それぞれ仕事を持ち、相当な年収を得て、お互いを束縛せずに、異性関係を含めてかなり自由に活動していた。
そういうのもありなのかしらと私は眺めていた。
その妻があるとき病気になった。
脳内出血で意識を失ったのである。
しばらく植物人間状態が続いたあと、夫は妻を実家に送り返した。
荷物みたいに。
お互いを束縛しない自由な夫婦というのも結構なことだと思う。
けれども、自分たちがその自由を満喫できるような条件が永遠に保証されているわけではないということは忘れない方がいい。
私たちは必ず年老い、病み、仕事を失い、心身の機能が低下する。
親族はそのようなときのための「安全保障」の装置である。
だから、私たちは自分の親族のうちに、幼児や老人や病人や障害者をフルメンバーとして受け容れている。
私たちはかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人や障害者になる。
そのときの「弱い私」をフルメンバーとして敬意を以て接してくれるような共同体を構築するために、「強い」ときに、持てるリソースの相当部分を彼らのために割くのである。
配偶者に自分と同程度の強さを要求し、配偶者が弱くあること(ひとりでは生計を立てられない、ひとりでは基礎的な家事ができない、ひとりでは寂しくて生きられないなどなど)を許さないというのは「親族の条件」を満たしていない。
結婚の誓言は「富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも」という条件を課している。
現に、富めるときや健やかなるときに私たちは親族を必要としない。
いくらでも友だちがおり、取り巻きがおり、どこでも歓迎されるからだ。
しかし、貧しいとき、病めるときには、かつての知友は知らない顔をして通り過ぎてゆき、どこの家のドアも開かない。
親族はそのような rainy day のためのものである。
貧しいとき、病めるときでも、親族は見捨てない。
そのことを知っていたからこそ、さきほど例に挙げた夫は昏睡状態の妻をその「親族」に送り返したのである。
結婚の目的は親族の形成である。
結婚は快楽を増加するための享楽装置ではなく、最悪の事態を回避するための安全装置である。
私たちは今あまりに安全な社会に住んでいるために、親族が「生き延びるためのセーフティネット」であるという原事実を忘れている。
けれども私たちの「安全」はそれほど確かなものではない。
そのことを忘れない方がいい。
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