Frauという雑誌の取材がある。
20-30代の働く独身女性が読者層のヴォリューム・ゾーンであるような雑誌で、今回のお題は「結婚したいけれど、できないのはどうして・・・」という切実なるものである。
どうしてと訊かれて即答できるなら、苦労はない。
というのはシロートで、私はどんなことを訊かれても即答することでお鳥目を頂いている身であるから、もちろん即答する。
それはみなさんがたが「他者との共生」を「他者への妥協」というふうに読み替えておられるからである。
「共生」と「妥協」は見た目は似ているかもしれないが、まるで別のことである。
これは武道をやっていると実感的によくわかる。
「妥協」というのは「まず、私がいる」というところから話が始まる。
そこに他者が干渉してきて、私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する。
私はやむなく、自由を断念し、狭いところで我慢し、やりたいことを諦める。
というのが「妥協」である。
ここまでの文章をみなさんはすらすらとお読みになったかもしれないが、ここにはすでに重大な予断が含まれている。
それは「私の動線を塞ぎ、私の可動域を制約し、私の自己実現を妨害する」という「被害」の記述が成立するためには、そのつど「存在しなかった私」を幻想的に基礎づけることが必要であるということである。
「私の動線が塞がれている」という感覚が成り立つためには、「こいつさえいなければ、私がそこを通過できたはずの動線」というものがありありと映現していなければならない。
「私の可動域」も「私の自己実現」も同様。
どれも、現実ではない。
現実になったかもしれないこと、現実になるはずだったこと、現実になればいいなと欲望していたことである。
それは非現実である。
たしかに、それは「他者」が出てこなければ、現実になったかもしれない。
でも、「他者」が出てこなくても、現実にはならなかったかもしれない。
「私」はその動線を通過するとき、小石にけつまずいて、足の骨を折っていたかもしれない。
「私」はその可動域に踏み込んだときに、穴にはまって、首の骨を折っていたかもしれない。
「私」が誰にも邪魔されずに「自己実現」してみたら、それがまた涙が出るほど貧弱な「自己」で、すっかり絶望して首を吊っていたかもしれない。
だから、「何かが起こらなかった」ということを前件にして、「その何かは起こるはずであった」と推論することはできない。
「私が成功しなかった」という事実から「私は成功するはずであった」という命題を導くことはできない。
してもいいけれど、みんなからバカだと思われるだけである。
ところが「妥協」ということを口走る皆さんはこの没論理を平然と駆使されているのである。
「妥協」において他者と「妥協」しているのは、「存在していない私」である。
「(すべてが100%うまくいった場合に)そうなるはずであった私」「そうなるといいなと思っていた私」を「それこそが現実の私」であると強弁することではじめて「妥協」という考え方は成立する。
非現実を現実だと思いなす、かなり身勝手な人間の場合にしか「妥協」ということは起こらない。
「他者との共生」者は、そのような「現実になるはずだったのに、ならなかった私」のような幻想についていつまでもぐじゅぐじゅ考えない。
「私の動線」はさまざまなものによって不断に塞がれ、迂回を余儀なくされる。
犬のうんちがあれば遠回りするし、信号が赤なら止まらなければならない。そもそも道路がないところは歩けない。
でも、そんなことを私たちは歩くときには意識していない。
それはもう「織り込み済み」の与件として、それを「勘定に入れた」上で、自分に何ができるかを考えている。
武道の場合はもっと贅沢である。
他者の出現によって、私の動線や可動域のオプションが一気に増大した、と考えるのである。
たとえば、「相手に突き飛ばされて空を飛ぶ」というのだって、ひとりではできない動きである。
ひとりではできないことが、他者の出現によって可能になった。
これをとりあえず「言祝ぐ」というのが武道家のマインドである。
相撲の場合、決まり手の多くは「同体」である。
二人とも顔から土俵につっこんでゆくのであるが、コンマ数秒でも相手の身体が先に砂につくと、勝った方は「痛くない」。
このときの「土俵に顔からつっこんでゆく」という動作はひとりではできない。
してもいいけど、怖い。
怖いし、痛い。
怖いし、痛いし、そもそも実際に投げを打ったときほどのスピードでは土俵につっこんでいけない。
ところが相手がいると、ひとりではできないことができる。
これを「他者が出現したことによる可能性の拡大」と武道では考える。
「ひとりではできないこと」にはいろいろなことがある。
「私」単体を基準にとると、「いやなこと」もあるかもしれない。
でも、私と他者をまとめた複素的身体を基準に総合的に考えると、「いや」とか「いい」とかいうレベルはあまり関係ない。
ご飯を食べるときに、右手は忙しく箸を使っている。
食べるのは口である。
これを「右手」と「口」の対立の中でとらえると、右手は「おれはただ筋肉疲労がたまるだけなのに、口のヤローは美味しい思いしやがって」という「不満」だってありうるかもしれない。
けれども、身体全体としては、「部位によってはいろいろとご不満もおありでしょうが、ま、ここはですね、ひとつ大所高所からご判断いただくということで」ということでまとめさせていただくことになる。
結婚だって同じである(おお、いきなり結論が)。
配偶者と共同的に構成している「結婚体」というものを基準に考えるのである。
それが気分よく機能するのはどうすればよろしいか、ということを配慮する。
「結婚」することで「私」がどのような快楽や利便を得るか、というふうに問題を立てるからいつまでも結婚できないのである。
「私」が参与することで、「結婚体」のパフォーマンスはどのように向上するか、ということを考えればよいのである。
ケネディ大統領がその就任演説で述べたとおりである。
「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。」
よい言葉である。
若い未婚の方々には、ぜひ「国家」のところに「結婚」という言葉を入れてこの言葉を熟読玩味していただきたいと思う。
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(2008-05-21 09:58)