X氏の生活と意見

2008-05-19 lundi

クリエイティヴ・ライティングの授業で先々週の宿題に学生たちに「・・・さんの生活と意見」というタイトルを課した。
さきに高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の一部を読み聞かせ、これが『伊藤整氏の生活と意見』、『得能五郎の生活と意見』、『江分利満氏の優雅な生活』といった先行作品を踏まえたもので、さらには遠くロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生活と意見』にまで遡る伝統的なタイトリングである、という話をしたのである。
『トリストラム・シャンディ』について日本で最初に言及したのはおそらく夏目漱石である。
漱石はこの奇書についてこう書いている。

「今はむかし、十八世紀の中頃、英国にロレンス・スターンという坊主住めり。最も坊主らしからぬ人物にて、最も坊主らしからぬ小説を著し、その小説の御蔭にて、百五十年後の今日に至るまで、文壇の一隅に余命を保ち、文学史の出るごとに一頁または半頁の労力を著者に与えたるは、作家スターンのために祝すべく、僧スターンのために悲しむべきの運命なり。」(『トリストラム・シャンデー』)

『猫』にも「トリストラム・シャンデーの鼻論」という薀蓄が出てくることから推して、漱石がこの枕頭の愛読書を踏まえて、おそらくは『苦沙弥先生の生活と意見』という隠された副題をでもつける心積もりで『猫』を書いたというのは大いにありそうなことである。
高橋さんの『タカハシさんの生活と意見』は「タカハシさん」と「我輩」と命名された猫の対話を軸に展開する。
これは高橋さんが『トリストラム』と『我輩は猫である』を先行作品としてはっきり意識しつつこのエッセイを書いているということを意味している。
だからどうなんだよ、と言われても困る。
だから、「そういうこと」なのである。
先行作品として踏まえているものが多ければ多いほど、先行作品の質が高ければ高いほど、「それを踏まえて書かれたもの」は「親の七光り」の恩沢に浴すことができる。
ここでいう「親の七光り」というのは別に直接的な利益のことではない。
そうではなくて、「先行作品を踏まえている」という事実それ自体が読者に対する「コールサイン」として機能するということである。
「仲間内の符丁」は「符丁である」ということがわかってしまっては暗号的には機能しない。
「これから暗号を発信しますよ」とアナウンスしてから暗号を発信するスパイはいない。
暗号はそれがあたかも暗号ではないかのように書かれなければ意味がない。
だから、書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。
表層的に読んでもリーダブルである。
でも、別の層をたどると「表層とは別の意味」が仕込んである。
その層をみつけた読者は「書き手は私だけにひそかに目くばせをしている」という「幸福な錯覚」を感知することができる。
To the happy few.
自分こそその「幸福な少数」であるという自覚ほど読者を高揚されるものはない。
すぐれた作家はだから必ず全編にわたって「コールサイン」を仕掛けている。
すぐれた作家は「わかりやすいコールサイン」から「わかりにくいコールサイン」まで、無数のレベルで「めくばせ」を発信する。
そして、どのレベルのコールサインであっても、受信した読者は、自分は凡庸な読者たちの中から例外的に選び出された「幸福な少数」だと信じることができる。
それでよいのである。
真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。
そのような作家だけが世界性を獲得することができる。
「コールサイン」のもっとも初歩的な形態が「本歌取り」である。
これは「本歌を知っている読者」と「知らない読者」をスクリーニングする。
音楽の世界では大瀧詠一師匠がこの「本歌取り」の大家であることはご案内の通り。
なぜ「ナイアガラー」という熱狂的で忠実なオーディエンスが大瀧師匠の場合に発生するかというと、この「本歌」のヒントを師匠は実にさりげなく楽節の隙間にさしはさむからである。
あ、このフレーズは「あの曲の、あそこ!」ということに気づいたナイアガラーは、これを発見したのは世界でオレ一人だ。このコールサインは師匠と私の間だけに結ばれた、余人の入り込むことのできない「ホットライン」なんだ・・・という陶酔感に深く久しく酔い痴れることが許される。
このような快感を組織的に提供してくれるミュージシャンは師匠の他にはいない。
師匠の「日本ポップス伝」は言い換えれば「本歌取りの歴史」である。
あらゆる作品は(音楽であれ文学であれ)、その「先行項」を有している。
その先行項をどこまで遡及し、どこまで「祖先」のリストを長いものにすることができるか。
読者が作品を享受することで得られる快楽は、ひとえにそこにかかっている。
リストが長いものになればなるほど、その作品は読者との親しみを深める。
作品はすべての読者に開かれているが、それが発信する「コールサイン」を読み取るための「暗号解読表」は読者ひとりひとり「世界のオンリーワンのオリジナル」だからである。
ある作品について、私と同じ仕方で「私宛のメッセージ」を読み出している読者は世界に一人もいない。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』がレイモンド・チャンドラーの『ザ・ロング・グッドバイ』の本歌取りであり、その『ザ・ロング・グッドバイ』はスコット・フィッツジェラルドの『ザ・グレート・ギャツビー』の本歌取りであり、その『ギャツビー』はアラン・フルニエの『ル・グラン・モーヌ』の本歌取りであり、その『ル・グラン・モーヌ』は・・・というふうに、読書において「日本ポップス伝」的アプローチは読書の快楽を増すためにきわめて有効なのである。
という前説のあとに、学生諸君に「・・・さんの生活と意見」(・・・には自分の名前を入れる)というタイトルのエッセイを課す。
少なくともタカハシさんのエッセイだけは「本歌取り」してね、ということでコピーを配布しておく(山口瞳やロレンス・スターンまで読めとは言いません)。
その宿題をさきほど読み終えた。
意図を理解して、なかなか面白いエッセイを仕上げてきてくれた学生が何人かいる。
どうして自分の名前を三人称に置き換えて文章を書くことがたいせつなのか。
これについてはモーリス・ブランショが間然するところのない言葉を書き記している。

「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう? それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう? どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」(Pourquoi deux paroles pour dire une même chose? –C’est que celui qui la dit, c’est toujours l’autre.」
Maurice Blanchot, Entretien infini, Gallimard, 1968, pp.581-2

ブランショの最高傑作である『終わりなき対話』はついに翻訳されぬままに終わった。
これが 1970 年代に(せめて 80 年代に)出版されていれば、日本の文芸批評のレベルは今より三段階くらい上がっていただろう。
それはさておき。
ある言葉が人に届くためには、それが「二人の人間によって語られていることが必要である」
私と「私と名乗る他者」によって、同じ一つの言葉は二度語られなければならない。
どうしてそれが必要なのか。
「どうやって他者に届く言葉を書くか」について長い時間考究したことのある人なら、理屈はわからなくても、ブランショの言葉は実感として深く身にしみるはずである。
学生たちには、エッセイを通じて、「私と名乗る他者」に言葉を託したときに、私がこれまで一度も口にしたことのない種類の言葉が「まるで私自身の言葉でもあるかのように」湧き出てくるという機制を経験して欲しかったのである。
それが「書く」という行為の本質的経験である。
同時にそこに「書く」ことの魔境も存在する。
「私」の筆先から溢れるようにほとばしる言葉が、よくよく見たらすべてレディ・メイドの「ストックフレーズ」であった・・・という身も凍る経験(ジャック・ニコルソンの事例に敬意を表して、私はこれを「シャイニング・シンドローム」と呼んでいる)もまた学生たちには(ほんの少しだけ)味わって欲しいと思っている。
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