クリエイティヴ・ライティング今週の課題は「カラフルな人生」である。
これまでは「ヴォイスを発見する」ためのエクササイズとして、「割る」ということをやってみた。
通常であれば、一行で書き終えてしまうようなことをその細部にわたって書き込んでゆく。
もちろん単に細分化するということではない。
「批評性」を機能させるための訓練である。
批評性を機能させるにはいくつか技術があるが、その一つは「立ち止まる」ということである。
自分が何かを感じている、何かを思考している、何かに欲望を感じている、何かに怒りを感じている・・・そういう「ひとまとまり」の行為をいくつかの工程に割ってみる。
「私は怒っている」という記述と、「この対象のどの要素が私を怒らせるのか?」「私の怒りは、どのようなレベルにおいて、どのような形態を選択するのか?」「私は怒ることを通じて何を実現しようとしているのか?」といった一連の記述では批評性に大きな差がある。
例えば。
「あ、コーヒーが呑みたいな、と思う。思って仲居を呼ぶ。ところが仲居の餓鬼ときたらなにをやっているのか知らんが、なかなかやって来ない。くぬう。なにをさらしてけつかんのんじゃ。待たされるのんかなんなあ。はやいことせんかあ、どあほ。と、誰もいない部屋。六代目笑福亭松鶴の口調で苦り切っていると、ようやく仲居がやって来て、やっとコーヒーを命じるのであるが、今度は待てど暮らせどコーヒーが来ない。私のコーヒーはいったいどうなっておるのだ。え? 仲居さんよ? しゅっとしてくれんかね? しゅっ、と。ええ? と、誰だか分からない口調で苦り切り、また、一方で、ことによると廊下を歩く仲居は途中で躓いて転んで頭を激しく打って記憶喪失病にかかり、私の注文を忘れてしまったという可能性もゼロとはいえず、いま一度、別の人間を呼んで注文をし直そうか。しかし、もしそうして記憶喪失病でなかった場合、うるさい客だと思われるのもなにだし・・・と懊悩、心身がぐんぐん疲労していくのを感じて、ええい。ままよ。うるさい客と思われたって構うものか。旅先の恥はかき捨て。パワステでライブやったことだってあるんだよ、こっちは。と決意、電話機に手を伸ばす頃になって漸く、仲居がコーヒーを持ってくるのであり、心身はもはや疲労の極にあるのである。」(町田康、『実録・外道の条件』、メディア・ファクトリー、2000年、131-2頁)
ここではコンマ何秒かで移り変わるミニマムな心の動きを記述することで、批評性のみならず、グルーヴ感までが到成されている。
たいしたものである。
いまどこかの雑誌で連載している「熱海超然」(だったかしら)も、このミニマム文学の極致のような傑作である。
熱海の街の看板ひとつを眺めるだけで3頁くらいかかるのである。
というエクササイズを最初にやってもらった。
「私」から離れるためにはいろいろな手だてがある。
「拡大鏡でアップにする」という方法はその一つである。
自分の見慣れた手のひらだって、拡大鏡でアップにするとつよい違和感を覚える。
それを微細にわたって記述する。
たしかにそこに記述されてるのは紛れもない「私」のことなのだが、いつも使い慣れた「私」とはなんだか別物になっている。
「生活と意見」では「私」のかわりに「○○さん」という三人称を使って「私」の感懐を語ってもらった。
このへんで、私の趣旨を理解してくれた学生が何人か出てきた。
そして、三回目のエクササイズが「望遠鏡で見る」である。
神の視点から人々を俯瞰する。
これはサルトルの文学論で徹底的に批判された手法であるが、そのせいでむしろ今となっては文学的にはけっこう「実験的」である。
今回の「カラフルな人生」課題は「あなたの知り合いの中で、たいへんカラフルな人生を送っている人の一生を600-800字以内で描写しなさい」というものである。
この超高速ライティングのもたらすスピード感は(町田康風のミニマム・ライティングとは逆の意味で)書き手の「私」が入る余地を残さない。
例えばこんなの。
「私は飾磨高等学校三年生の時、将来作家になりたいと思うた。併しなれるとは考えていなかった。学校を出て、中どころの広告代理店に入社した。この会社が酷いところだった。二年半で辞めた。人生は何が幸いするか知れない。六十二歳になったいま、己れの人生を振り返ってみれば、この広告代理店を辞めたことが、作家になれた最大の原因である。大学を出てよい待遇の会社に入った人は、作家になりたいと思うて田舎から東京に出て来ても、ほどほどによい待遇に満足して、なれなかった人が多い。土佐の国から作家になりたいと思うて東京へ出て来たものの、一流出版社にコネで入社し、三島由紀夫など偉い先生の担当をして、それで適度に満足してしまった男がいる。そしていま六十二歳になり、三島などの思い出を自慢そうに高知新聞に書いているのを見ると、へどが出そうな思いがする。情けない話だ。胸がむかむかする。自分が一流の文士になろうとはしないのだ。けれどもこういう田舎では、東京へ出て、知名人と知り合うただけで、大変なこととして待遇されるのだ。私の場合は、一流出版社に入社したいと願ったものの、入れなかったことが、結果的には幸いした。えらい苦労はしたけれど。
学校を出て一流出版社に入った人はみな、二十歳代で結婚した。私の場合は四十七歳で三島由紀夫賞を貰うまで、来手がなかった。四十八歳になると、順子さんが来てくれた。順子さんも嫁き遅れの女だった。四十九歳だった。順子さんの場合は、学校を出て入社した河出書房新社が二ヶ月で倒産したので、嫁き遅れになったのだ。河出が倒産しなければ、順子さんも詩人にはなれなかっただろう。」(車谷長吉、「四国八十八カ所感情巡礼」、『文學界』、2008年6月号、238-9頁)
こういう感じの文章を書かせたくて、やってみたのであるが、これがけっこううまくいった。
いくつかご紹介したいのであるが、固有名詞がばんばん出てくるし、実在の人物であるから、「あ、あの子のことだ!」と特定される可能性があるので、こういうところには書けないのである。
授業では全文公開しますけど。
クリエイティヴ・ライティングは教える方もたいへん面白いです。
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(2008-05-29 10:01)