忙しいのにドラマなんか見てる

2008-06-03 mardi

あまりに忙しくて日記の更新ができなかったので、この間の出来事のみ記しておく。
金曜日、授業のあと、鷲田先生との共著の原稿書き。「言論の自由」について。
「言論の自由」という原理はずいぶん誤解されているような気がするので、そのことを書く。
言論の自由というのは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。
「誰でも言いたいことを言う権利がある」という理説が正しいのは、そうでない場合よりも、私たちの社会が住みやすくなる可能性が高いからである。
私たちの発言は「私がこのことを言うことによって、私たちの社会は少しでも住みやすくなるのか?」という問いかけを帯同していなくてはならない。
そして、この「私たちの社会は少しでも住みやすくなるのか」どうかを判定するのは、発言者自身ではない。
その発言の正否や真偽を判定するのは、本人ではなく、「自由な言論のゆきかう場」そのものである。
言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに「言論の自由」はありえない。
つねに正しく言論の価値を査定する「場」が存在するというのは、ある種の「空語」である。
言論の自由さえ確保されていれば、すべての真なる命題は必ず顕彰され、すべての偽なる命題は必ず退けられると信じるほど私は楽観的な人間ではない。
しかし、現実的に楽観的でありえないということと、原理的に楽観的であらねばならないというのは次元の違う話である。
私は「言論の自由が確保されていれば、言論の価値が正しく査定される可能性はそうでない場合よりはるかに高い」ということを信じる。
この信念はそのような「場」に対する敬意として表現されるほかない。
私が言葉を差し出す相手がいる。
それが誰であるか私は知らない。
どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。
けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を「付託する」という捨て身の構えだけが言論の自由を機能させる。
もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。
場の審判力を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことになる。
「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。
けれども、「場の審判力」を否定するということは、言論の自由の原理そのものを否定することである。
言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。
言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」は出来合のものとして存在するものではない。
それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。
というようなことを書く。
上野千鶴子は少し前に「日本には言論の自由なんか存在しない」と書いていた。
だが、そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、「存在させるか、しないか」という遂行的なレベルにしか存在しない。
そして、言論の正否を検証する場は「私が言葉を差し出す当の相手」の知性に対する敬意抜きには成り立たない。
言論の自由とは decency のことである。
私はそのことを繰り返し書いてきたけれど、その意味がわかってくれる人はほんとうに、絶望的なまでに、少ない。
原稿を書いたあとに三宅先生ご一家とウッキーとおいちゃんと「あーぼん」で串カツ。
美味なり。

土曜日。起きて朝ご飯のあと二度寝。お稽古。36畳の道場に30人余。酸欠になりかける。
家に戻って三度寝。
晩ご飯を食べて、翌日の支度をして、四度寝。

日曜日、下川正謡会本番。
舞囃子『菊慈童』(盤捗楽)は扇を拡げるところで一回ひっかかり、隅で足を掛けるのを忘れ、舞が終わって最後に扇を差すときにひっかかる。
ふだん使い慣れていない舞扇なので、こういうことが起こる。
無事終了。国際会館で打ち上げ宴会。
やれやれ。
一年でいちばんほっとする瞬間である。
ビールが美味い。

月曜。
朝から原稿書き。昼から会議と授業。また原稿書き。
レヴィナス『困難な自由』の「訳者あとがき」を書き終わる。
これでおしまい。
夏前には 23 年ぶりの改訳が出版される。
雨の中、体育館で杖の稽古。
人数が多いので、たのしい。
三本目引提ゲまで。
毎回新しい発見がある。
家に戻って「焼きうどん」を調理し、食す。
ぱくぱく。
ビールが美味しい。
キムタクの『Change』を見る(最初から毎週見ている)。
私は「TVなんか見ない」と公言しているわりに、突然毎週月9ドラマを視聴したりする変節野郎である。
しかし、この「究極のポピュリスト政治家を日本国民は待望している」という物語の設定はイデオロギー的にはきわめて徴候的である。
ポピュリスムは今日本のあらゆるセクターで進行している。
ポピュリスムは生産的でイノベーティヴな「よい顔」と、幼児的で破壊的な「悪い顔」の両方を持っている。
もし、このドラマが「ポピュリスムを私たちはどう制御して、それをもっぱら生産的なものにすることができるか?」という批評的視点から政治をとらえようとする企画なら、私はその壮図を祝したい。
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