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2012年01月 アーカイブ

2012.01.09

困難な時代を生きる君たちへ

神戸新聞の元日配達号に「中高生のために」一文を草して欲しいと頼まれた。
困難な時代を生きる君たちへというタイトルを頂いた。
神戸新聞購読者以外の方の眼には止まらなかったものなので、ここに再録する。


 みなさんがこれから生きて行く時代はたいへんに困難なものとなります。
 戦争に巻き込まれるとか、大災害に襲われるとかいうことではありません。そうではなくて、みなさんがこれから幸福な人生を送るために、どういう努力したらいいのか、その「やりかた」がよくわからないということです。
 まじめに受験勉強をして、いい大学を出て、一流企業に就職したり資格や免状を手にすれば、あとは生計について心配はしなくてよいというような「人生設計」を立てることがむずかしくなった。
 ただし、「むずかしくなった」だけで、まるで不可能になったわけではありません。そこがむしろ問題なんです。受験勉強なんか無駄、学歴なんか無意味、資格や免状も無価値というところまでいっそ徹底していれば、頭の切り換えもできるのですが、そうではありません。報われると信じて努力して報われる人もいるし、努力したのに報われなかった人もいる。
 その分かれ目にはっきりした法則性がないのです。それが私たちの時代の「困難さ」の実体です。
 グローバル経済の中で、努力と報酬の間の相関が希薄になりました。みなさんが名前も知らないような遠い国で国債が値下がりしたり、不動産バブルがはじけたり、洪水が起きたりすると、いきなり勤めていた会社の株価が暴落したり、人員整理されたりする。「どうして?」と訊いても、誰もうまく答えられない。私たちが顔を知っている人たちの間でなら、努力したことや才能があることはわかってもらえます。でも、グローバル経済体制で私たちは顔の知らない人々、何を考えているのかわからない人たちと深いつながりを持ってしまった。その人たちの身に起きたことが私たちの生活にいきなり死活的な影響をもたらす。私たちはそういう時代にいます。
 そういう時代にみなさんはどう生きればいいのでしょう。私に言えるのは一つだけです。どんな学問や仕事を選ぶにしても「努力することそれ自体が楽しい」ことを基準にして下さい。日々の努力そのものが幸福な気分をもたらすなら、グローバルスタンダード的にどう「格付け」されるかなんて、どうだっていいじゃないですか。
 私自身は20代からずっと哲学の本を読むことと武道の稽古に打ち込んできました。とても楽しい時間でした。結果的にそれで生計を立てることができましたが、若いときは「そんなことやって何になるんだ」と言われ続けました。でも、気にしなかった。みなさんも「それが何の役に立つのかわからないけれど、どうしてもやりたい、やっていると楽しい」ことをみつけてください。そうすれば、「努力したけれど報われなかった」という言葉だけは口にしないで済むはずです。

メルマガの予告編「格差社会について」

メルマガに書いたのはこの4倍くらいの量ですので、「予告編」をブログに掲載することにしました。こういう話がこれから二転三転するんですけれどね、もちろん。
まずはイノウエくんの質問から。

第二回
「最近は、「今の世の中は閉塞感に満ちている。それは世の中が膠着しているからだ。そしてなぜ膠着しているかと言えば、既得権益を貪る老害たちが若者にチャンスを回さないからだ」と考える人が多い気がします。しかし、私はこの考え方がしっくりきません。
確かに個別に見ていけば、「さすがにもう前線は退いて、若い人にその席を譲ってもいいのではないか?」と思う人はいます(けっこうたくさんいますね……)。でも社会全体の構造を考えると、年長者全員の物分かりがよくなって「若者に笑顔やチャンスやお金をふりまいた」からといって、世の中が良くなるようには思えないのです。年長者がある意味で「壁」になり、青年がその「壁」を乗り越えるためにあらゆる工夫をする。そうした活動の中で、世の中というのは活性化していくのではないでしょうか。
良くも悪くも、時代は動いていきます。とくに二十一世紀前半の日本は、激しく動きそうです。そんな中で、「大人」はどのような行動を取るべきなのでしょうか。内田先生、教えてください!」


こんにちは。第二回の質問にお答えします。
元日のNHKテレビで「日本のジレンマ」という番組をやっていましたね。30-40代の若手知識人を集めた円卓会議のようなもので、格差の問題、そして、この質問にあったように「世代間対立」のことが論じられていました。最初は面白く見ていたのですが、途中でなんだかうんざりして消してしまいました。
その少し後に、平川克美くんとだいたい月一ペースでやっているラジオの対談番組の収録のときにその話題になりました。平川君もこの番組を見ていて、僕と同じように、途中でうんざりして消してしまったそうです。
何でうんざりしちゃったんだろうね、というところから話が始まりました。
「金の話しか、してないからじゃないかな」というのが二人の合意点でした。
格差の問題、年金の問題は今は「世代間における社会的資源の分配の不公平」という枠組みで論じられています。
その問題設定のしかたそのものは間違っていないと思います。
ご存じのように、年金制度は少子高齢化という人口分布のアンバランスによってもはや制度の体をなしていない。現行の賦課方式(現役世代が年金受給者を支える)ではもう高齢者のヴォリュームゾーンを支えきれない。だから、これを積み立て方式(同年齢集団で支え合う)に切り替えようということが提案されたりしている。
話としては整合的です。
だから、平川君と僕が違和感を覚えたのは、そこで話されていることの「コンテンツ」に論理的な不整合があるとか、データが間違っているとかいう理由からではありません。
「なんで、そんな話ばかりするの?」という「話題占有率」の異常な髙さが僕たちの違和感の所以でした。
というのは、どこまで記憶をたどっても、僕たちは若い頃に年金について熱く論じたことなんかなかったからです。
もちろん、年金は払っていました。年金けっこう高いねというようなことは給与明細みながら言ったことはあったでしょう。でも、その話で僕たちが熱く語りあったことは一度もなかった。
どうせお前たちはお気楽な身分だったからだろうという厭味を言う人がいるかも知れませんけれど、僕たちは大学卒業後に二十代後半で起業していたので、シビアな会社経営者だったのです。それでも、年金のことなんかほとんど話題にしなかった。
理由の一つは、年金受給年齢まで生きてると思っていなかったからですね。
これは単に「想像力がなかったから」と言った方がいい。
その時代の平均余命と医療の進歩を勘案すれば、かなり高い確率で年金受給年齢まで生きていることはありえたわけですが、それでも「年金をもらう自分」の姿をどうしても想像できなかった。
それは60-70年代というのが、社会的な変動期で、国家的規模で「想定外」の出来事が続発して、「もう先のことはわかんねえや」的な諦観とノンシャランスの入り交じったような気分が横溢していたせいです。
だって、60年代前半において、平均的日本人が自分の未来について抱いていた最大の不安は「核戦争の勃発」だったんですから。
ほんとですよ。
62年のキューバ危機のとき、米ソはほとんど核戦争の手前までチキンレースで意地を張り合っていました。
スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』(64年)もスタンリー・クレイマーの『渚にて』(59年)も松林宗恵の『世界大戦争』(61年)も、愚かな政治家たちのせいで世界が核戦争で滅びる話です。それらの映画はかなり高い確率でこれから地球上に起きそうな出来事を描いている、僕たちはそう思って見てました。だいたい、『世界大戦争』なんか、小学校の社会学習で先生に連れられてクラス全員で見に行ったんですよ!今思えばあれは「心の準備」をさせるための教育的配慮だったんじゃないでしょうか(映画のラストはフランキー堺と乙羽信子と星由里子のふつうの一家が核ミサイルが日本の着弾するまでの短い時間に「最後の晩餐」を囲む場面なんですからね)。
60年代前半は「核戦争が起きて、人類は滅亡するのかも知れない」という暗澹たる予測が「常識」だった時代だったんです。そういっても、若い人にはなかなか信じてもらえないかもしれないけれど、あの時代の、例えばクレイジー・キャッツの映画の底抜けの明るさなんかも、「核戦争の不安」を抜きにするとうまく理解できないと思います。ある種「やけくそ」なんです。明日はどうなるかわからない。だったら、どっと楽しくやろうじゃないか、と。とにかく前の戦争のときとは違って、いくらわいわい騒いでも馬鹿笑いしても、隣組のオヤジに説教されたり、特高に捕まったりする気遣いだけはないんだから・・・たぶん、そんな気分だったと思います。せっぱつまった明るさなんですよ、あれは。
そういう気分のときに「年金の話」とか、しないでしょう、ふつう。
60年代後半から70年代前半までは今度は核戦争じゃないですけど、世界的なスケールで政治的激動の時代でした。中国では文化大革命が始まっていました。アメリカは国外ではベトナムでナパーム弾で農民たちを焼き払い、国内ではヒッピームーヴメントの絶頂期で、公民権運動に続いてブラックパンサーがラディカルな活動を始めていました。ドイツではバーダーマインホフグループが、イタリアでは赤い旅団がテロ活動を行い、フランスでは「五月革命」と呼ばれる学生=労働者の運動が首都を覆い尽くしていました。
世界が明日どう変わるかわからない。誰にも予想がつかない。そんな激動の時期が10年近く続いたのです。
そういう気分のときに「年金の話」とか、しないでしょう、ふつう。
その後は今度はいきなり非政治的な、享楽と奢侈の時代に急転換しました。バブルの時代です。
女子大の教室のドアをあけるとむせかえるようなプワゾンの匂いがし、18歳の少女たちがミンクやシルヴァーフォックスのコートを来て練り歩き、時給750円のラーメン屋のお兄ちゃんがロレックスをはめ、家賃3万円のアパートの駐車場にベンツやBMWが並んでいて、ふつうのおじさんがフランスやオランダでシャトー(森と池つき)を買い、ふつうのおばさんがパリ16区にアパルトマンを買うという、まことに奇妙な時代でした。日本中の人々が株と不動産取引に夢中でした。それは彼らに言わせると「道に落ちているお金を拾うようなもの」なのだったのだそうです。立ち止まって、屈み込めば、誰でもお金が手に入る、そんな時代でした。
たしかに、この時代の人たちはほとんど「金の話」しかしませんでした。
僕は1985年に開かれた高校のクラス会のことをよく覚えています。最初から最後まで株と不動産の話だけで終わりました。僕はどちらとも無縁だったので、まったく級友たちの談笑の輪に入ることができず絶望的な気分になったのを覚えています。
そのときも誰も「年金の話」はしませんでした。そんな「はした金」のことなんかどうだってよかったのです。
ともかくそんなふうに生まれてから今日まで、年金のことをまじめに熱く語ったことが一度もなかった世代の人間なので、若い知識人たちが年金制度について熱心に制度のディテールについて適否を論じ合う姿を見て、なんだか「奇妙な夢」を見ているような気になったのです。
勘違いして欲しくないのですが、それが「悪い」と僕は言っているわけではありません(社会制度のあるべきかたちについて真剣に語るのが悪いことのはずはありません)。そうではなくて、正月早々に、おそらく同世代の中で際立って才知にあふれた方々が一堂に会して、そこで「年金制度」について、放送時間の半分近くを費やしたことに僕はびっくりして、うろたえてしまったのです。
僕の本音の声を漏らすならば、「今って、そんな話している場合なの?」ということでした。
(以下メルマガに続く)

なんか、ここまで読んだ人たち、すごく怒りそうですけど、このあと「そんなに怒らないでください、実はですね・・・」というお詫びと言い訳がありますので、がまんして続きを読んで下さい(と営業)。

2012.01.12

ポスト・グローバリズムの世界、あるいは「縮みゆく共同体」

アメリカの最近の国勢調査で、白人の人口が2歳時以下の幼児の過半数を割った。
ヒスパニック系(16.3%)がアフリカ系(12/6%)を抜いて、マイノリティの最大集団になった。
ヒスパニックは出生率2.3で、白人を0・5ポイント上回っている。
アメリカにおいて白人が少数民族になる時代が近づいている。
ヒスパニックは英語を解さないスペイン語話者を多く含む。
都市の黒人たちはすでに「エボニクス」という、英語と文法も語彙も違う独特の言語を有している。
「社内公用語は英語とする」というような「守旧派的」な雇用条件を課す企業がアメリカ国内に出現してくるのも、こうなると時間の問題である。
これを文化の多様化と言って言祝ぐ人もいるかも知れない。だが、国民国家が共通言語を喪失するという事態は「多様化」というよりはむしろ「分裂」と呼ぶ方がふさわしいだろう。
アメリカは国家としての統合軸を失いつつある。
植民地時代はジョン・ウィンスロップが掲げた「新大陸に理想の福音国家を創る」という宗教的なモチベーションがあった。
独立戦争の時は「独立宣言」が市民たちを統合した。
その後も、ひさしく法外に豊かな自然資源がヨーロッパの窮民たちを受け入れ、そこに自立と自助の道徳と高い社会的流動性が生まれた。
でも、東西冷戦が終わり、アメリカは「崇高な」存在理由を失ってしまった。
もうアメリカに人類を進歩と豊かさに導く倫理的なリーダーを求める人はいなくなった。
アメリカは他国と同じようなモラルハザードと、他国と同じような貧しさに苦しむ「どこにでもある普通の国」になりつつある。
普通の国が普通の国であることに何の不思議もない。
だが、アメリカの場合は「普通の国」になる、ということそれ自体が「普通じゃない」事態なのである。
アメリカはかつて一度も「普通の国」になったことがないからである。
オバマ大統領は四年前に、彼の前任者が地に落としたアメリカの倫理的威信を回復し、アメリカをもう一度「偉大な国」たらしめようと望んでホワイトハウスに入った。
でも、彼は、イラク撤兵を除くと、その約束のほとんどを実現できなかった。
オバマがもう一度オーヴァルオフィスの主となることができても、「アメリカの没落」という基本的な趨勢は変わらないだろう。
「アメリカの没落」とは、「アメリカの普通の国化」ということである。
別に恥ずかしいことではない。
けれども、アメリカという国は「普通じゃない」ことを、それをほとんど唯一の存在理由にして国民的統合を成り立たせて来た国なのである。
それが「普通の国」になるというのは、国民的統合の「軸」を失うということである。
世界の人々をアメリカに惹きつけてきたのは、それが「例外的な国」だったからである。世界の人々がアメリカの犯してきたさまざまな誤りに対して異常に寛大だったのは(罰するには巨大すぎるという理由と並んで)この国が「例外的な国」だったからである。
「ずいぶんひどいことをする国だが、それはアメリカが『世界の希望』を担うという歴史的使命をうまく処理できないせいで起きたことで、利己のためではないのだ」というかたちで私たちはアメリカの誤謬を「やむなく」認めてきた。
そのような「特別扱い」の権利を国際社会はもうこれからアメリカには認めないだろう。
「次の大統領」は「なぜ、アメリカだけが世界の安定と繁栄のためのコストを引き受けなければならないのか。アメリカはアメリカだけのことを考えていればよいではないか」という国民の声に屈服するだろう。
もちろんこれまでもアメリカは自国の国益を最大化するために行動してきた。けれども、その時も「これは一国の利害得失のためのことではなく、世界のための行為なのだ」という大義名分をどんな詭弁を弄してでも手放さなかった。
「普通の国」ではない、というのが彼らが超法規的な仕方で自国の国益を守ってきたときの切り札だった。
でもアメリカ人は「自国さえよければそれでいい」という恥ずかしいほどリアルな本音を口にできる「普通の国」の国民であることを願うようになった。
この流れは今に始まったわけではない。
ソ連は七十年間にわたる「国際共産主義運動」の大義名分を捨てて、恥ずかしいほどリアルな「普通の国」になった。
中国もなった。
EUはまだ意地を張って、「欧州統合」の理想を掲げているが、現実には、ヨーロッパでは「移民排斥」や「ユーロ離脱」を公然と掲げる右翼政党がどこでも支持率を急伸させている。
フィンランドでもオランダでもデンマークでも、「なりふり構わぬ本音」を人々は口にし始めた。
フランスも今年が大統領選挙であるが、去年の支持率調査では極右の国民戦線のマリーヌ・ルペンがサルコジ、オランドを抑えて首位につけた。
ルペンの公約は「移民排斥」と「ユーロ離脱」である。
それは単にEU理念の否定というだけでなく、「自由・平等・博愛」のフランス革命理念の否定でもある。
もう、きれいごとなんか言ってられない、ということである。
人権の本家であるフランスにして、そこまで追い詰められているということである。
実際の選挙結果は「(展望のない)現状維持」あたりに落ち着くのかもしれないが、それでも私たちの前に現状からの政治的なオルタナティブとしては「世界中のすべての国の『普通の国』化趨勢」しかないという事実は揺るがない。
これから世界のすべての国が「普通の国」になる。
グローバリゼーションとは、そういうことである。
でも、行き過ぎたグローバリゼーションに対する補正の動きは当然のことながら「ローカライゼーション」というかたちをとる。
具体的には、「共同体のダウンサイジング」である。
共和党の掲げる「世界の警官」廃業論や連邦政府の権限縮小論がはその適例である。
世界の人口は70億を越えた。中国一国で14億である。14億というのは、19世紀末の世界人口である。
それだけの人間を19世紀的なシステムでコントロールできるはずがない。
というので「世界政府」としての国際連合や、「国民国家の廃絶への道」としてのEUの理念が提示されたのだが、それがうまく機能していない。
サイズが大き過ぎたのだ。
だから、世界は今「ダウンサイジング」のプロセスに向かっている。
というのが私の現状理解である。
私自身、「顔の見える共同体」の必要性をつよく感じていることはこれまでも繰り返し書いてきた通りである。
幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化しているような集団がどうしても必要である。
「倫理」とは原義において「倫(なかまたち)」と共にあるための「理法」のことである。
「なかま」のいない人間に倫理は不要である。
「私には仲間はいない。いるのは手下と敵だけだ」という決めの台詞を何かの映画で見た記憶があるが、そういうのが「倫理のない人」である(たしかにこの人物は邪魔な人間、気に入らない人間をじゃんじゃん殺していた)。
仲間がいると人間の可動域は制約され、自由は抑制されるが、その代わりに「ひとりではできないこと」ができるようになる。
「ケミストリー」と言ってもいい。
自分に「そんなこと」ができるとは思ってもいなかったことが「仲間」の登場によってできるようになる。
一方で何かを失い、一方で何かを得る。
帳尻が合う場合もあるし、合わない場合もある。
「仲間がいてよかった」と思うこともあるし、「いない方がよかった」と思うこともある。
でも進化の淘汰圧は「仲間がいる種」だけを残した。
だから、私たちは「仲間とともに生きる理法」を学ばなければならない。
そして、この理法のいちばん基礎的な取り決めは、「最適サイズ」をどこにとるか、ということである。
倫理がきちんと機能するかどうか、それを決定するのは、実は「サイズの問題」なのである。
どこまでを「倫」(なかま)に含めるか。
それについてある程度筋の通った基準を決めておかないと、「理」は働かない。
倫理の有効性は、まことに身も蓋もない言い方をすれば、「その利害を優先的に配慮し、その人たちと共生することが自然な情理にかなっているように思える集団のサイズ」を適正にみきわめられるかどうかにかかっている。
「『倫理の効果はサイズによって決まる』というような非倫理的な妄言を吐く人間は厳しく弾劾されねばならない(そんなことをいう人間は私たちの仲間ではない)」というような言明はその「身も蓋もない」思考の好個の例である。
「倫理の効果はサイズの関数である」というのは事実認知的命題であり、「その集団のサイズをどう高いレベルに維持するか」は遂行的な課題である。
私は「事実認知から始まらないと遂行的課題は達成できない」というごく常識的なことを申し上げているだけである。
ポスト・グローバリズムの世界は、「縮む世界」となる。
この趨勢はとどめることができないと私は思う。
その事実をまっすぐに見据えて、その地滑り的な体制の変化の中で、「近代が夢見た(捨てられようとしている)理想」、すなわち「数百万、数千万の人々を結びつける宏大な共生感をもたらしうる何か」を掬い上げることが私たちのとりあえずの仕事であるように私には思われるのである。
わかりにくい話で済まない。
平川くんの『小商いのすすめ』と併読して下さると、私の言わんとするところも幾分かわかりやすくなるような気がする(まだ読んでないので、わからないけど)。

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