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2017年03月 アーカイブ

2017.03.01

境界線と死者たちと狐のこと

村上春樹の新作『騎士団長殺し』を読んでいるうちに、村上春樹と上田秋成について書いた文章があったことを思い出した。
もうだいぶ前に書いたものだ。たしか『文學界』に寄稿したのだと思う(違うかも知れない)。江藤淳が上田秋成について書いていたものをちょうどその直前に読んでいたので、上田秋成~江藤淳~村上春樹という系譜を考えてみた。
上田秋成と村上春樹の関連については論じた人がいくらもいると思うけれど、江藤淳をまじえた三者を論じたのはたぶん僕の創見ではないかと思う。
『騎士団長殺し』はまだ上巻が終わったところで、これからどうなるかわからない。
もしかすると、ここに書いたような話になるのかもしれない。そう思うとどきどきする。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)について

小説を論じるときに「主題は何か?」というような問いから始まるアプローチはずいぶん時代遅れのものだ。私の定かならぬ記憶では、1960年代の批評理論によって「主題」や「作者の意図」を論じる批評にはすべて死刑宣告が下された。テクストは作者から自立しており、それはポリフォニックな間テクスト性の戯れの場なのである云々。そういう言葉を私たちはずいぶん読まされてきた。
それでも相変わらず「作者はこの作品を通じて何が言いたいのか?」という問いは作品を論じるときの最優先の地位をいまだ譲っていない。これはたぶんに著作権というものの現実的効果なのだろう。作品の生み出す経済的価値を専一的に享受する「オーサー」はテクスト理論がいかに否定しても、法律上厳然と存在している。作品がたくさん売れると経済的利益に与る人間がいるのだとすれば、作品はある種の「商品」だということになる。そうであるなら、作者は当然ながらおのれに利益をもたらす商品についての「製造責任」を負わねばならぬ。スペックを公開し、製造過程を明らかにし、賞味期限や「使用上の注意」も開示しなければならない。
高踏的な批評理論も最終的にはこのビジネスモデルの前に屈服してしまった。今回の村上春樹の新刊発売についても、書評より先にまず発行部数についてのニュースが大きく報じられた。「爆発的に売れている新商品」という扱いである。そうであるなら、「この商品にはどんな価値や有用性があるのか?」という問いが続くのは自明のことである。
だから、どれだけ死刑宣告をされても、製造者に製造責任を問うタイプの批評はエンドレスで続く。今でも書評家たちはまず「村上春樹はこの新刊を通じて何を言いたいのか?」という問いから始める。作家はこの作品の「材料」をどこから集めてきたのか?それを処理する「方法」はどのような技法的伝統に連なるのか?これまでの他の作品とこの「新製品」はどう差別化されるのか?あるいはマーケティングの用語を借りた「この作品のターゲットはどのような層か?」「この作品のどの点が消費者たちの欲望に点火するのか?」などなど。
村上春樹が大嫌いで、頭から批判的に彼の小説を読む人たちもまたそれとは逆のしかたで定型的な問いに縛り付けられている。「この作品が構造的に見落としているものは何か?」「作者はそれと知らずにどのような臆断やイデオロギーを内面化しているか?」「どのような歴史的制約ゆえに作者はこのようにしか書けなかったのか?」などなど。
いずれの場合も、作品は作者の「所有物」であり、(意識的であるか無意識的であるかにかかわらず)その「自己表現」であり、それゆえに作者には作品に対する「責任」があるという前提は揺るぎない。
私は今回、懐かしい60年代の批評理論に立ち戻って、もう一度だけ「作者は作品に対して責任がない」という立場からこの作品を読んでみたいと思う。
作者は作品に先立って「何か書きたいこと」があって書き始めたわけではない。政治的信条であれ、宗教的信念であれ、審美的価値であれ、個人的なトラウマであれ、そういう「核」になるものが作者の中に先行的にあって、それがある技術的な手続きを経て言語表現として「発現」したわけではない。そう考えることにする。これはあくまでひとつの仮説である。たまにはそういう仮説に立って作品を読んでみるのもいいんじゃないかという程度のカジュアルな仮説である。

村上春樹は日課的に小説を書いている。これはエッセイやインタビューで、本人が繰り返し証言していることである。鉱夫が穴を掘るように、作家は毎日小説制作の現場に「出勤」し、そこで一定時間、穴を掘る。金脈を探す鉱夫と同じように。日々穴は掘った分だけ深くなるけれど、鉱脈にはめったに堀り当たらない。何十日も掘り続けたが、何も出なかったということもたぶんあるのだろう。でも、いつか鉱脈に当たると信じて、作家は掘り続ける。
村上はこの態度についてはレイモンド・チャンドラーの執筆姿勢を範としていると述べたことがある。チャンドラーは毎日決まった時間タイプライターに向かった。彼が自分に課したルールはそこでは「書く」以外のことをしてはいけないということである。本を読んだり手紙を書いたりしてはいけない。書くことが思いつかなかったら黙って座っている。決められた時間が来たら、どれほど「乗って」いても、筆を擱いて、その日の仕事は終わりにする。粛々と聖務日課を果たすよう執筆する。
それについて村上自身はこう書いている。

「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、64-65頁)

「穴を掘る」という動詞を村上は創作のメタファーに頻用する。何かを創り出すための動作の比喩的表現なら、「家を建てる」でも「植物を育てる」でも「ご飯をつくる」でもよいはずだが、村上は「穴を掘る」しか使わない。それだけその動詞が小説を書いているときの作家の身体実感に近いのだろう。
無住の土地を歩いて、だいたい「当たり」をつける。そして「手慣れた工具」を使って、とりあえず足元の岩を砕いてゆく。毎日がりがり掘る。水脈が近づいてくるとちょっと空気が変わる。何か脈動しているものに接近しているのがわかる。鼓動が速くなる。体温が上がる。あるとき岩盤に亀裂が走り、そこから「何か」が湧出してくる。「それ」を掬い上げる。でも、持ち出せる量には限界がある。自分の手持ちの「器」に入るだけしか持ち帰ることはできない。「器」が一杯になったら、すばやく穴を出て地上に戻る。あまり長い時間「水脈」の近くにとどまり続けることはできない。なぜかはわからないが、そこには何か人間的スケールを超えたものがあり、それに身をさらし続けることはときに命にかかわることもあるからだ。
村上は別のところではこの岩盤の下にあるものを「地下二階」というメタファーも使って説明している。地下室の下の別の地下室。

「それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(・・・)その中入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、文藝春秋、2010年、98頁)

その暗闇のことを村上は「前近代の闇」というふうにも言っている。近代人が「なかったこと」にしている闇の部分。そこにアクセスして、戻って来ることができる特殊な技能者が作家である。村上春樹はそういうふうに考えている。そういう点では、現代の作家も中世における巫子祝部や遊行の芸能者とそれほど違うことをしているわけではない。巫女や遊行の「物狂い」に向かって「あなたはそれによってどのような自己表現をなそうとしているのか?」とか「どのような方法論的自覚をもってその芸をなしているのか?」と問う人はいない。同じように作家についても、方法論や前衛性のことはわきに措いて、その物語においてはどのような「闇」が戦慄的に開示されるのか、そのことだけに関心を集中させてもよいのではあるまいか。彼は「地下二階」で何を見てきたのか、それを問うてもよいのではあるまいか。

私はそのような立場から村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。そして、それが上田秋成の『雨月物語』の直系の系譜につらなる怪異譚であり、読者が覗き込むことになる「闇」は『吉備津の釜』や『浅茅が宿』を読んだときに私たちが覗き込むことになる「闇」とほとんど同質のものだという仮説を得た。それについて述べたいと思う。
村上春樹が上田秋成の直系の後継者であるという仮説は、おそらくすでに指摘している人がいると思うけれど、これは作家自身の選好を知れば誰にでもなしうる推理である。村上春樹はかつて『雨月物語』についてこんな評言を述べた。

「現実と非現実がぴたりときびすを接するように存在している。そしてその境界を超えることに人はそれほどの違和感を持たない。これは日本人の一種のメンタリティーの中に元来あったことじゃないかと思うんですよ。」(同書、94頁)

この文学的伝統は「自然主義リアリズム」によって途絶させられてしまった。現実と非現実の「通り抜け」という、近世まで日本人にとって自明の心的現象だったものを「近代的自我の独立に向けてむりやり引っぺがし」たことに村上はかなり腹を立てている。
作家はこの「非現実と現実の境界」を行き来することのできる特権的な技能者であり、同時にその境界線の「守り手」(センチネル)である。センチネルが要請されるのは、「向こう側」から到来するものは、定義上人間的な度量衡によって意味や価値を考量することのできないものであり、そのことが人を深く損ない、傷つけ、ときには殺すことさえあるからである。
村上春樹は境界線をめぐる物語を繰り返し書いてきた。あるときは「不意に壁の向こうに抜けて、二度と戻ってこなかった人」たちをめぐる物語として(『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『国境の南、太陽の西』、『スプートニクの恋人』など)。あるときは壁の向こうから私たちの世界に浸入してくる「邪悪なもの」を押し戻す仕事を引き受けた「センチネル」の物語として(『羊をめぐる冒険』、『かえるくん、東京を救う』、『ねじまき鳥クロニクル』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフターダーク』など)。いずれの場合でも、物語は「境界線を越えるもの」をめぐって展開する。
「越境して立ち去ったもの」は村上の物語では誰一人戻ってこない。取り残されたものは、なぜ彼/彼女が消え去ったのか、ついにその理由を知らされない。でも、知りたい。だから、境界線の際まで行ってみる。それでも、越境者が立ち去った理由はついに開示されない。そのことが主人公に深い傷を残す。けれども、その代償に、主人公は成熟の階梯を一つだけ上り、この根源的に無意味な世界にかろうじて残された「ささやかだけれどたいせつなもの」を愛することを学ぶ。これは村上文学のほとんど全部の物語に共通している説話構造である。
かつて村上文学を評して「構造しかない」と切り捨てた批評家がいたが、この評言はなかば正しい。たしかに村上文学はこの説話的構造を繰り返し語っており、それによって「人間が住むことができる世界」を基礎づけようとしているからである。

私が村上春樹を上田秋成の系譜に位置づけるのは、秋成もまたありありと「地下二階」を感じ、境界線を行き来するものを描き続けた作家だからである。
上田秋成は彼が濃密な実在感を感じた「非実在」をかつて「狐」と呼んだことがある。狐憑きの狐である。人をたぶらかす妖獣である。そういうものが秋成の時代の人々の日常にはたしかにリアリティをもっていた。だが、当時の朱子学の世界像の中には妖怪狐狸、魑魅魍魎のための場所はなかった。「狐憑き」を学者たちはただの「癇」の病として切り捨てた。だが、秋成はあえて「狐」を擁護する立場をとった。その消息を江藤淳はかつてこう説明した。

「儒者の眼に見えるのは、病気という概念であって、『狐』という非現実の現存がもたらす圧力ではない。しかし、いったんアカデミイの門を出てみれば、『うきよ』に顔をのぞかせるのはつねに概念ではなくて、『狐』に憑かれた人間の奇怪な、しかし秩序の拘束のなかにいる『精神(ココロモチ)平常』なときにはたえてみられないほど濃い実在感に満ちた姿態である。あるいはまた、どうしても認めざるを得ない非現実の世界からのさまざまな信号である。」(『近代以前』、文藝春秋、1985年、238頁)

上田秋成自身はありありと「狐」の実在を感じた。学者や市井の常識人がどれほど否定しても、彼がそれを感じているという事実は揺るがない。

「誰の眼にも見えぬこの動物ほど濃い実在感をあたえるものを、秋成は外界の現実のなかにひとつもみとめることができなかった。」(同書、240頁)。

そして、アカデミイが一笑に付すこの実感に殉じる決意をしたときに『雨月物語』の作家が誕生した。それは秋成が見出した物語の「水脈」であった。この集団的な文化の古層から『雨月物語』の諸篇が湧き出してきたのである。
秋成の擁護した「狐」とは「私がそれを通じて現に共生している死者たちの世界-日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながる回路」(24頁)のことだと江藤は言う。だから、もし、日本人の作家が文学的創造において余人を以ては代替しえないような達成を果たしたいと願うなら(つまり、「世界文学」をめざすなら)わがうちなる「狐」をみつめ、「狐」をめぐる物語を紡ぐしかない。江藤はそう考えた。江藤淳がこの文章を書いている時点(1960年代はじめ)において、50年後に秋成の系譜を引き継ぐ作家が登場し、世界的な名声を博することになるとはその慧眼をもってしても予見することはできなかっただろう。

指定の紙数が尽きたが、まだ新刊そのものの内容について触れていない。申し訳ないが、あとは駆け足で、一読して思いついたことを列挙しておく。
本作の「本歌」があるとすれば、それは秋成の『吉備津の釜』であろう。『吉備津の釜』は女の嫉妬が実体化して、男を喰い殺す物語である。裏切られた妻磯良の死霊は夫正太郎の背信を憎んで不貞の相手である袖をまず衰弱死させ、ついで夫を襲う。本作では時間の構成が逆になっていて、主人公「多崎つくる」が二十歳のころに死にもっとも近づいた経験から物語は始まる。「つくる」は死の息が顔にかかるところまで行って、生きて戻って来る。彼はその傷から長い時間をかけて回復した。けれども、彼には自分をそこまで追い込んだものが「何か」はついにわからなかい。その経験(というより「経験の欠如」)から組織的に目を背けているせいで人格が形成されるような経験のことを「トラウマ」と呼ぶ。沙羅という新しいガールフレンドは「つくる」に彼自身のトラウマを直視せよと告げる。その忠告に従って、何が自分を死の淵まで追い詰めたのかを探す旅に「つくる」は出かける。その旅はついには遠くフィンランドの郊外にまで彼を連れ出すことになるが、最後に彼が見出したのは、「非現実の現存がもたらす圧力」だった。効果だけがあって実在がないもの、秋成のいう「狐」が「つくる」を殺しかけたものの正体(というより「正体の不在」)だったのである。
そのもとになったのが嫉妬であるにせよ、裏返しになった愛情であるにせよ、限度を超えた所有欲であるにせよ、それは誰であれ、「つくる」に対して向ける必要も、その理由もない、筋目の通らない感情であった。しかし、どれほど「筋違い」であっても、いったん生まれた害意は害意として機能する。能『葵上』では、六条の御息所の妬心は彼女自身がそのような筋目の悪い感情を引き受けることを拒否したために強力な生き霊となった。「つくる」を死の淵まで追い詰めたものも、あるいはその生き霊に類するものだったのかも知れない。人間が一度でも抱いてしまった感情は、本人がそれを引き受けることを拒んだときに、「濃い実在感をもった非実在」に化すのである。
夢もそうだ。「つくる」は二つの決定的な夢を見る。ひとつは「つくる」が死と隣接した日々から抜け出すきっかけになった「激しい嫉妬に苛まれる夢」である。「つくる」はそれまで嫉妬という感情と無縁に生きてきたし、そもそも嫉妬を感じる相手がいなかった。にもかかわらず、強烈な嫉妬に苛まれる夢を見て、それは物理的に彼をつよく揺り動かした。そして、「夢というかたちをとって彼の内部を通過していった、あの焼けつくような生の感情」(48頁)によって「死への憧憬」はかき消された。夢が死を追い払ったのである。夢はこのときたしかに現実変成の力を帯びたのである。
もうひとつの夢は高校時代の友人たちと繰り返し性的にまじわる「性夢」である。彼がその夢を定期的に見るようになったのは、彼女たちと会う機会が失われ、彼女たちのことを忘れようと決意した後である。だが、夢は時間を遡行して、ガールフレンドのひとりを妊娠させ、彼にその社会的責任を引き受けさせることになり、ついに彼女の死の遠因となる。時間の順逆が狂っている。でも、それがおそらくは夢が現実変成力をもつときの条件の一つなのだ。
誰も引き受け手のいない夢、つまり夢を見ているものが「そんな夢を見ていること」を拒否し、夢に見られているものが「そんな夢に登場していることを」拒否するような夢、誰も引き受け手のいない夢は現実を変成する力を持つ。夢を見るものも、夢に見られるものも、いずれもがその夢の「引き取り」を拒むとき、行き場を失った夢は境界を超えて現実に浸入してくる。
秋成の物語世界でも、同じ現象が繰り返し記録されている。『菊花の約』の陰風に乗って千里を旅する宗右衛門の霊魂も、『浅茅が宿』の夫勝四郎の帰りを七年待つうちに窮死した妻宮木の「怪しき鬼の化し」たる姿も、『吉備津の釜』の夫に裏切られた磯良の恨みも、いずれもその「思い」は思っている主体が物理的に消滅したときにはじめて物質化する。欲望は欲望する主体が不在となったときに異形のものとして現実化する。

『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』の主人公の際だった特徴は「欲望の自制」である。彼は他人に多くを求めないように、自分にも多くを求めない。謙抑的に生きることを「つくる」はモラルとして自らに課した。それは外形的にはディセントで「よい感じ」の人物を作り出すことに成功した。けれども、彼が「私がその欲望の持ち主です」という名乗りを回避するたびに、彼に忌避された欲望は「本籍地」を失って浮遊し始める。「つくる」はそれと意識しないまま、自分の欲望の「親権」を拒否することで、実際には無数の「悪霊」を世に解き放ってきたのである。たぶん。
「つくる」を癒やすべく登場した沙羅が彼に求めるのはだからたったひとつだけである。それは「ほんとうに欲しいもの」(232頁)を見つけて、それに向かってためらわず手を伸ばせ、ということである。おのれの欲望は、仮にそれが法外なものであったとしても、認めた方がいい。欲望をおのれの統御可能の範囲に収めておこうとするむなしい努力は止めた方がいい。過剰な抑制(というものが存在するのだ)は、ときに何か統御しえないほどに危険なものを解き放つことがあるからだ。
物語の最後で、「つくる」は自分の欲望にようやくまっすぐに向き合う。彼は求めるものを言葉にして、求めるものを抱き寄せて、自分の欲望の「引き受け手」になることを決意しようとしている。その望みが達せられるかどうか、私たちには知らされない。でも、とりあえずこの欲望は引き受け手を見出した。それは彼自身を傷つけることはあっても、他の誰かを傷つけることはもうないはずである。

予定の紙数を大きく過ぎたので、もう筆を擱くことにする。この小説は「濃い実在感をもつ非実在」がどのように嫉妬と欲望と暴力を賦活して、現実を変成することになるのかを描いた点で『雨月物語』の系譜に連なるものであり、そこに横溢する濃密に「日本的なもの」が村上文学世界性をかたちづくることになったというのが私の本作についての個人的解釈である。この解釈にどれほどの一般性があるかどうかわからないけれど、上田秋成-江藤淳-村上春樹というラインに沿って村上文学を論じたことがある人を知らないのでここに備忘のために記すのである。

2017.03.25

Libérationの記事から

フランスの左派系メディア『リベラシオン』は森友学園事件について3月23日に次のように伝えている。事件の全貌と歴史的背景を簡潔かつ正確にまとめている。

「安倍晋三はなぜ新たなスキャンダルに巻き込まれたのか?」

物語は延々と終わらずに続いている。無敵と思われた安倍晋三の任期5年目をスキャンダルの雲が覆っている。彼の妻、安倍昭恵を衆目にさらし、彼の防衛相を無力化したこのスキャンダルの影響は財務省にも及んでいる。
この長く、気違いじみた一日は首相が2012年の彼の政権復帰以来最大の政治的危機に遭遇したことを示した。そして、人々の疑問は決定的な問いのレベルに達しようとしている。「安倍晋三と彼の妻は嘘をついているのか、それとも彼らは利用されたのか?」
証人喚問はこの国家的事件の核心部分である。二月以来長く続くスキャンダルに材料を提供してきたのは籠池泰典という興味深い人物の繰り返される言明である。ナショナリストの私立機関である森友学園という学校法人の理事長であるこの人物は木曜に証人宣誓の下2015年9月15日に、首相の妻である安倍昭恵から寄付を受け取ったと証言した。これは彼が問題の多い条件で獲得された国有地に建設していた小学校への財政的支援のためのものであった。
「彼女は封筒に入った100万円(8260ユーロ)を手渡し、『どうぞ、これは安倍晋三からです』と言った」と籠池泰典は国会の委員会の席上で言明した。この様子は同日複数のチャンネルでテレビ生中継された。
彼の聴き取りにあたった議員たちは再三議会で偽証した場合には偽証罪に問われ訴追されると念押しをした。籠池はまばたきもせずに「私ははっきりと記憶しております。私たちにとってたいへん名誉なことですから」と語った。安倍晋三とその周辺は籠池の申し立てを必死になって否定している。というのは、首相は二月中旬国会で追いつめられたときに「もし私の妻あるいは私がこの件(何らかの寄付あるいは土地の取得)に関与していたことが明らかになったら、私は総理大臣も国会議員も辞職する」と言明していたからである。
安倍夫妻はしかし2月9日から始まったこの事件に無関係ではない。その日、朝日新聞は森友学園が国から大阪府内の8770平方メートルの土地を1億3400万円(111万ユーロ)で取得したという調査結果を伝えたが、これは政府が査定した土地価格の10分の1であった。驚くべきこの値引きはこの土地に産業廃棄物が埋められており、除去が必要だからということによって部分的に説明された。しかしこの説明は財務省からの政治的圧力が森友学園への土地払下げを有利に運んだのではないかという疑惑のすべてを解消するには至らなかった。
この取引が関心を引き付けたのは、首相の妻である安倍昭恵がこの学校の名誉校長になる予定だったからである。2015年9月5日、彼女は森友学園が経営する幼稚園に講演に招かれていた。スキャンダルが広がると彼女はこの職を辞した。安倍晋三はこの小学校が彼の名前を冠することを拒否したが、2007年に打ち続くスキャンダルと選挙の惨敗のあと政権を放り出すことになった事件の再演を恐れたのである。安倍夫妻は以後森友学園と籠池泰典と距離をとっている。
しかし、首相は過去に籠池とイデオロギー的意見を共にすると宣言していた。籠池泰典は安倍の周辺に集まる人脈に連なっている。彼は日本会議のメンバーであるが、これは日本における最強のナショナリスト・ロビーの一つである。全国48都道府県に35000人の会員を擁するこの運動は1997年に創設され、国会議員のうち300人、地方議会の1700人の議員がこれに加盟している。安倍も、麻生太郎財務相も、稲田朋美防衛相も日本会議の会員である。
この稲田防衛相もスキャンダルに翻弄されている。彼女は弁護士として2004年に森友学園のために弁護活動をしていたが、この事実を彼女は最近になって記憶の欠如を認めるまでは否定していた。
きわめて強い影響力を持つ日本会議は「祖国と日本文化防衛」のために戦っており、「子どもたちが日本の歴史と伝統に誇りを持つことができるように、教育改革を行うこと」をめざしている。籠池は神道を経由して軍国主義へ向かう、歴史修正主義と伝統主義からなるこのイデオロギー的潮流に与している。「小学校を創設することは神から託されたミッションである」と彼は二月に毎日新聞に向かって語り、彼の学校が子どもたちに洗脳を行っていることを批判する人々につよい懸念を与えた。
森友学園が経営する幼稚園では、彼はきびしい規律を課し、教科は戦前の愛国主義に基づいている。園児たちは天皇の臣民としてふるまい、市民としてふるまってはならないと厳命されている。園児たちは19世紀に制定され、1945年の敗戦で失効した「教育勅語」を暗誦させられる。この勅語では「危機の時には国家のために勇敢に命を捧げること」と「天皇制の繁栄を維持すること」が推奨されている。親たちの一部は子どもたちが「安倍首相ばんざい」と叫び、2015年の国論を二分した安全保障関連法案の国会通過を奉祝したことにつよい不安を感じていた。それ以外にもこの幼稚園では反中国、反韓国的な発言もなされていた。
籠池は辞職した。しかし、物語は続いている。

2017.03.30

役に立つ学問

『大学出版』という媒体の「役に立つ学問?」という特集に寄稿した。わりと特殊なメディアなので、ブログでも紹介しておく。

役に立つ学問とは何か。
    
「役に立つ学問」とは何のことなのだろう。
そもそも学問は役に立つとか立たないとかいう言葉づかいで語れるものなのか。
正直に申し上げて、私はこういう問いにまともに取り合う気になれない。というのは、こういう設問形式で問う人は、一般解を求めているようなふりをしているけれど、実際には「その学問は私の自己利益の増大に役に立つのか?」を問うているからである。
だから、にべもない答えを許してもらえるなら、私の答えは「そんなの知るかよ」である。何を学ぶかは自分で判断して、判断の正否についての全責任は自分で取るしかない。「役に立つ」ということには原理的に一般性がないからである。

すべての学問やテクノロジーの有用性は地域限定的・期間限定的である。ある空間的閉域を離れれば、あるいはある歴史的環境を離れたら、それはもう有用ではなくなる。空間の広狭、期間の長短に多少の差はあるけれど、結局は「程度問題」である。
それどころか、ある人にとっての「有用」はしばしば別の人にとっての「無用」や「有害」でさえある。例えば、兵器産業は有用か。この問いに即答できる人がどれだけいるだろうか。兵器を開発し、市場に投じ、それによって大きな収益を上げた企業や、その会社の株を買って儲けた投資家や、その企業から法人税を徴収して国庫に収めた国家や、その企業で雇用された従業員にとって兵器産業はたしかに有用であるだろう。けれども、そうやって兵器の機能が向上し、手際のよい営業活動によって、廉価で高性能の兵器が世界中に広くゆきわたったせいで「殺されやすくなった」人たちが他方にはいる。家を焼かれ、家族を殺された人に向かって「兵器産業は有用でしょうか」と訊いても肯定的な答えは得られないだろう。
原子力発電事業は有用か。これも難問だ。この先日本列島でまったく地震も津波もテロもなく、早い段階で放射性廃棄物の完全な処理技術が確立し、かつ電力需要がこのまま高い水準で推移するという条件がすべて満たされた場合、原子力発電事業は有用であるだろう。けれども、そのどれか一つの条件でも満たされない場合、この事業は「無用」から「非常に有害」の間のどこかに位置づけられることになる。現段階では予測できない条件によって有用物がいきなり有害物に転化するようなものについて現段階でその「有用性」や「価値」を論じることにはたぶん意味がない。
もっと穏当な喩えでもよい。英語教育は有用か。簡単そうだが、これも即答することはむずかしい。外国語教育の有用性もまた歴史的条件の関数だからである。
現在、英語教育が有用であるのは過去2世紀以上にわたって英米という英語話者の国が世界の覇権国家だったからである。それ以外の理由はない。現代の世界で生き延びる上で重要かつ有用なテクストの多くが英語で書かれているのは事実だが、それは英語圏に例外的に優秀な人々が生まれたからではなく、英語が覇権国家の言語だからである。
アメリカはこれからもしばらくは軍事的にも経済的にも大国であり続けるだろう。だが、「パクス・アメリカーナ」の時代もいずれ終わる。その後にどの国が指導的な地位を占めることになるのかは誰にも予想がつかない。ロシアかも知れない。中国かも知れない。ドイツかも知れない。その場合、私たちはどれかの強国の国語を新たな「リンガフランカ」として学ぶことをたぶん強いられる。
私が学生だった頃、理系の学生たちの多くが第二外国語にロシア語を履修していた。それは1960年代まで、自然科学のいくつかの分野ではソ連が欧米に拮抗ないし凌駕していたからである。しばらくして、ソ連の学術的没落とともにロシア語履修者は地を払った。そういうときの学生たちの見限り方の非情ぶりに私は少し感動した。同じことが英語について起こるかも知れないと私は思っている。いずれロシア語や中国語やドイツ語やアラビア語に熟達している人たちがその「希少価値」ゆえに英語話者より重用されるという日が来るかも知れない。その可能性は高い。現にもうすでに、一部の若者たちの間ではアラビア語やトルコ語学習が静かなブームになっている。彼らは独自の嗅覚で手持ち資源を効果的に投ずべき先を手探りしているのである。そして、彼らの予測が外れたとしても、彼らは失った時間と手間の返還を誰に対しても求めることはできない。
そもそも私たち日本人こそ「リンガ・フランカ」の脆さを骨身にしみて経験しているはずである。漢文の読み書きができることは古代から日本人の知識人にとって大陸渡来の新しい学問を学ぶための必須の知的ツールであった。それは遣隋使小野妹子の時代から、朝鮮通信使を対馬に迎えた雨森芳州の時代まで変わらない。漢文は日本ばかりか、東アジア全域において基礎的なコミュニケーション・ツールであった。だから、どこの国を旅しても、知識人同士は、懐から矢立てと懐紙を取り出して、さらさらと文を認めれば互いに意を通じることができたのである。漢文運用能力はとりわけ近代以降にその威力を発揮した。中江兆民はルソーの『民約論』を日本語訳すると同時に漢訳もした。だから、多くの中国人知識人は兆民を介してフランスの啓蒙思想に触れることができた。樽井藤吉は日本と朝鮮の対等合併を説いた『大東合邦論』を漢語で書いたが、それは彼が日本・朝鮮二国のみならず広く東アジア全域の読者を想定していたからである。宮﨑滔天も北一輝も内田良平もかの「アジア主義者」たちは、中国・朝鮮の政治闘争に直接コミットしていったが、おそらく彼らの多くはオーラル・コミュニケーションではなく「筆談」によってそれぞれの国での組織や運動にかかわったはずである。こういう姿勢のことをこそ私は「グローバル」と呼びたいと思う。
近代まで漢文は東アジア地域限定・知識人限定の「リンガフランカ」であった。それを最初に棄てたのは日本人である。こつこつ国際共通語を学ぶよりも、占領地人民に日本語を勉強させるほうがコミュニケーション上効率的だと考えた「知恵者」が出てきたせいである。自国語の使用を占領地住民に強要するのは世界中どこの国でもしていることだから日本だけを責めることはできないが、いずれにせよ自国語を他者に押し付けることの利便性を優先させたことによって、それまで東アジア全域のコミュニケーション・ツールであった漢文はその地位を失った。日本人は自分の手で、有史以来変わることなく「有用」であった学問を自らの手で「無用」なものに変えてしまったのである。
戦後日本の学校教育も戦前と同じく「コミュニケーション・ツールとしての漢文リテラシーの涵養」に何の関心も示さなかった。さらに韓国が(日本の占領期に日本語を強要されたことへの反発もあって)漢字使用を廃してハングルに一元化し、さらに中国が簡体字を導入するに及んで、漢文はその国際共通性を失ってしまった。千年以上にわたって「有用」とされた学問がいくつかの歴史的条件(そのうちいくつかはイデオロギー的な)によって、短期間のうちにその有用性を失った好個の適例として私は「漢文の無用化」を挙げたいと思う。
私が言いたいのは、ある学問が有用であるかどうかを決するのは、学問そのものの内在的価値ではなく、またその経験的に確証された有用性でもなく、多くの場合、パワーゲームにおいて、その時点で力を持っているプレイヤーの利害だということである。それ以外の要素はおしなべて副次的なものに過ぎない。

もうこれで結論は出ているので、これ以上書くことは特にない。でも紙数が大幅に残ったので、あとは余計なことを書く。
現代は世界どこでも英会話能力が「役に立つ学問」の最たるものとされているが、これを果たして「実学」と呼んでいいのかということを論じてみたい。先に述べた通り、英語がリンガフランカであるのは、いくつかの歴史的条件によってそうなっているだけのことであって、いずれそうではなくなる。それがいつかはわからないけれど、いずれ英語はローカルな一言語になる。
そもそも、現在日本で暮している人たちの多くにとって英会話能力はとくに緊急性の高いものではない。ふつうの生活者に英語で話す機会はほとんどない。ときどき、「外国人に道を聞かれたときに、教えられるように」というようなことを言う人がいるが、「外国人に道を聞かれる」というようなことがどの程度の頻度で起きるのか。思い返しても、私が外国人に道を聞かれたことは過去に一度しかない。十年ほど前、芦屋駅の近くで「駅はどこか」と聞かれた。おまけにそれはフランス語であった。私は「その角を右に曲がる」と初級フランス語の三頁目くらいに出てくる文型を以て答えたが、「アシヤ」が聴き取れれば、無言で手を引っ張ってゆけば済んだ話である。
異郷で困惑している人に手を差し出すというのはたいせつなことである。でも、そのためにまず必要なのは「人として」の惻隠の情であって、外国語運用能力ではない。けれども、まことに不思議なことだが、本邦では「困っている人に手を差し伸べること」の重要性を学校で厳しく教えるということはない。人としてのまっとうな態度を社会的格付けに適用するということもない。圧倒的な重要性が付与されているのは英会話能力に対してなのである。
はっきりと英会話能力が求められているのは経済活動の領域においてである。インバウンドの観光客を接待するホテルやレストランや店舗において、あるいは海外市場でセールスを行うビジネスマンや、海外の生産拠点で経営や労務管理を担当する人たちにとって英語は必須のツールであろう。その必要性を私は十分に理解している。けれども、どれほどの能力を持った人間がどれほどの人数必要なのか、その数値目標にどれほどの積算根拠があるのか、私は説得力のある話を聞いたことがない。
文科省が2013年に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は小学校三年からの英語教育開始を指示したことで話題になったが、この計画によると中学では英語の授業は英語で行うことを基本とする。高校では「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う。授業を英語で行うとともに、言語活動を高度化(発表、討論、交渉等)」することがめざされ、達成目標として「高校卒業段階で英検2級~準1級、TOEFL57点程度以上等」が掲げられている。
日本中の高校生に高校卒業時点で「英検2級から準1級」というのは正直に言ってありえない数値目標だと思う。それがどの程度の英語学力を要するものかを知りたい人はネットで検索すれば過去問がすぐに読めるので、自分で解答を試みられたい。ご覧頂ければわかるが、日常的に英語を浴びるように読み、聴く、理解できない点についてはこまめに辞書を引き、疑問点は先生に質問し・・・という生活をしていないと、ふつうの高校生がこのレベルには達することはできない。
他の教科の場合、そのような真摯な学習態度で高校の授業に臨んでいる生徒はほとんどいないという現実を知った上で、英語についてだけこのような要求をすることを「異常」だと思わないとしたら、その人の方がよほど「異常」である。
「計画」には高校卒業時点での達成として「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる、英語話者とある程度流暢にやりとりができる能力を養う」とあるが、そもそも日本語によってでさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解できる」高校生がどれだけいるのか。2016年の調査によれば、10代の新聞閲読率(閲読とは「一日15分以上、チラシや電子版を含めて新聞を読むことをいう)は4%である。わずか4%である。マスメディアに対する不信感が募っている時代にあって、この数字はこの先さらに減少することはあっても、V字回復するとは思われない。
たしかに高校生たちは終日スマホに見入っているが、それは別に電子版のニュースで国際情勢や国会審議を注視しているわけではないし、ツイッターやラインで政治的意見を交換したり、日本経済のゆくえについての懸念を語り合っているわけでもない。日本語でさえ「幅広い話題について抽象的な内容を理解」することに困難を覚えている人たちが外国語でそれができるはずがない。そんなことは誰でもわかる。ではなぜ、日本語での読解能力・対話能力の低下が深刻な問題となっている状況下で、英語で「幅広い話題について抽象的な内容を理解」するというような目標を掲げることに優先性があり、かつその目標が達成可能だと信じられるのか。そういう計画を立てることのできる人々の頭の中身が私にはどうしても理解できない。
私に分かるのは、この計画の起案者たちが高校卒業までに子どもたちが使える教育資源の多くを英会話に投じることの必要性について自分の頭を使って考えたことがないということである。すでに現場から悲鳴が上がっているように、小学校への英語教育の導入・必修化によっては教員の業務が量的にも質的にも増大する。「バーンアウト」寸前の教育現場にさらなる負荷を課し、教員たちも児童たちも疲れ切った状態に追い込んでまでなぜ英語教育を重視するのか。なぜ達成できるはずのない到達目標を掲げてみせるのか。この「実学」への過剰な教育資源の分配の合理的理由を語ってくれる人に私はまだ会ったことがない。
英語運用能力については、その有用性について誰一人異論を口にしない。けれども、その期待される有用性とその学習努力のために投じられる手間暇を「ベネフィット」と「コスト」で計算した場合、帳尻は合うのか。「実学」を論じる人たちの経済合理性に対するこの無関心に私は驚愕するのである。

そもそも実学というのは平たく言えば、「教育投資が短期的かつ確実に回収されるような知識や技術」のことではなかったのか。学習努力という「コスト」がただちに就職率や年収やポストといった「ベネフィット」として回収されるものを私たちの社会では「実学」と呼んでいるはずである。数学や天文学や古生物学や地質学は間違いなくかなり広い範囲で、また長期にわたって有用な学問でありうると私は思うが、これを誰も「実学」とは呼ばない。「金にならない」と思われているからである。学の虚実を格付けしているのは、コンテンツの良否ではなく、「教育投資の短期的かつ確実な回収が可能かどうか」だけである。そして、それは市場における当該知識・技能についての「需給関係」で決まり、学知そのものの価値とは関係がない。
以前私より二十歳ほど年長のビジネスマンと会食したときに、彼が大学在学中最も人気のあった理系学科は何だか知っているかと聞かれた。わからないと答えると「冶金学科」だと教えてもらった。製鉄業が日本経済を牽引していた時代だったのである。今の学生たちは「冶金」という文字さえもう読めないだろうが、冶金についての知識に市場が最高値をつけたのは今からわずか60年ほど前の話なのである。製鉄や造船や建設が日本経済の花形業界であった時代がしばらく続き、それから流通やサービス業が人気業種になり、金融や広告やマスコミに若者が集まるようになり、それからITと創薬と貧困ビジネスと高齢者ビジネスの時代になった。それぞれ人気のある業界で「即戦力」として使用できる知識や技能が「実学」と呼ばれたけれど、その栄枯盛衰はめまぐるしかった。だから、私たちもあと十年後には何が実学になるのか予測することができない。Apple やGoogleが十年後に存在しているかどうかさえ誰にもわからない時代なのだから、十年後の「実学」が予測できるはずがない。

もう少し身近な話をしよう。私が大学に在職していた頃、「女子大に薬学部を作る」ということがトレンドになったことがあった。ご記憶の方も多いだろうが、コンサルタントがあちこちの大学に学部創設のプロジェクトを持ちかけた。そのときに強調されたのは、薬学部なら6年通うから授業料収入が1.5倍になるという「金目の話」と、女子の「実学志向」と言われるものだった。「当今の女子学生の母親たちは娘が手に職をつけることを強く望んでいる。母親たちは娘たちに経済的自立という自分が果たせなかった夢を託す傾向にある。だから、娘たちには医学部・歯学部・薬学部を狙わせるのだ」という説明にはなかなか説得力があった。そして、その三つの中では薬学部が立ち上げコストが一番安かったので、いくつかの大学がその計画に乗った。
その結果、短期間にそれまで46校で安定していた薬学部が74校に急増し、薬科大学・薬学部の総定員は13000人に達した。不幸なことに、これは市場の「ニーズ」に対して供給過剰であった。結果的に多くの学部が定員割れになった。その一方、出口に当たる薬剤師国家試験の合格率は低いままだった。50%を切った年もあるが(2010年)、ここしばらくは60~70%台で推移している。つまり、薬学部に入ったが卒業できなかった学生、卒業したが国試に通らなかった少なからぬ数の学生が存在するということである。そして、彼ら彼女らにとって、この学問は「教育投資が短期的かつ確実に回収」できなかった以上「実学」ではなかった。誰が考えても薬学は有用な学問である。けれども、言葉の精密な定義に従えば「実学」ではない。一般論としては「役に立つ学問」であるけれど、それを学んだけれど国試に通らなかった学生にとっては個人的には「無用の学問」だったことになる。
だから、「〇〇は実学か」という問いを当該学問の内在的な価値に求めても虚しいことだと先ほどから言っているのである。「実学度」は市場の需要と大学の卒業生供給の関数であり、それ以外のファクターは副次的なものに過ぎない。
その意味では実学の度合いは株価とよく似ている。「株取引は美人投票の高得票者を当てるゲームだ」という言い方がしばしばされる。自分の審美的基準はとりあえず棚に上げておいて、「みんなが誰を美人だと思うか」を推測する。自分の主観を封じて、「世の人々が欲望するもの」を正しく言い当てたものが株の売り買いのゲームの勝者になる。「実学」ゲームもたぶんそれと同じである。自分が何を勉強したいのか、何を知りたいのか、どんな技能を身につけたいのかといったことは「棚に上げて」、「市場ではどういう知識や技能に高値がつくか」を読み当てたものがとりあえず「実学ゲーム」の勝者になる。
ただし、勝者が勝者であり続けられる期間はあまり長くない。だんだん短くなっている。それだけの話である。

私は「役に立つ学問」というものに興味がない。それを識別することに何か意味があると思っている人にも興味がない。それはたぶん「お前のやっていることは何の役にも立たない」と若い頃から言われ続けてきたせいである。自分でも「そうかもしれない」と思っていたから反論もしなかった。でも、自分にはぜひ研究したいことがあったので、大学の片隅で気配をひそめて「したいこと」をさせてもらってきた。私が30年にわたって「何の役にも立たないこと」を研究するのを放置していてくれた二つの大学(東京都立大学と神戸女学院大学)の雅量に私は今も深く感謝している。私が選んだ学問領域は四十年にわたって私に知的高揚をもたら続けてくれた。私はそれ以上のことを学問に望まなかったし、今も望んでいない。

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