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土曜日は緩和医療学会というところのシンポジウムに出る。
お題は「わかりあうケア」。
緩和医療というのは、余命数週間、数ヶ月という回復の可能性のほとんどない患者の末期における心身の苦しみをどうやって緩和するかというたいへんシリアスな課題を背負った医療のことである。
今回の神戸の学会には4600人が集まった。
緩和医療が、それだけ現代において喫緊な医学的課題だということである。
シンポジウムは医師、看護師、臨床心理士、それぞれ三種の専門家と「シロート」ひとりという組み合わせで行われた。
私がどうしてそのような場違いなところに呼ばれたかというと、『死と身体』という本で、死者とのコミュニケーションということを論じたのが、末期医療の一部の従事者の間に共感を獲得したせいらしい。
人間は死者ともコミュニケーションできるというか、死者とのコミュニケーションこそが人間的コミュニケーションの原型である、というのが私の考えである。
だって、人間以外の動物は死者とコミュニケーションしないからである。
葬儀というものを行うのは人間だけである。
「正しい葬送儀礼を行わないと死者が祟る」という信憑を持たない社会集団は存在しない。
「祟り」というのはすでにして(ネガティヴなかたちではあるけれど)死者からのメッセージである。
「死者がもたらす現実的効果」と言い換えてもいい。
「正しい葬送儀礼」を行うと、死者は「去る」。
「葬送儀礼」を誤ると(あるいはネグレクトすると)、死者は「戻ってくる」(「幽霊」をフランス語ではrevenant 「再帰するもの」と言う)。
そして、「正しい葬送儀礼」、つまり死者をして去らしめる唯一の儀礼とは、死者を忘れることではない(その点でサンヒョクは誤ったのである。「サンヒョクって誰?」という方はこの部分はスルーしてね)
正しい喪の儀礼とは、「死者があたかもそこに臨在しているかのように生者たちがふるまう」ことなのである。
手を伸ばせば触れることができるように、語りかければ言葉が届くかのようにふるまうことによって、はじめて死者は「触れることも言葉が届くこともない境位」に立ち去る。
死者に向かって「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約することによって、死者は生者たちの世界から心安らかに立ち去るのである。
というふうに私たちは信じている。
この逆立したコミュニケーションの構造が人間の人間性を基礎づけている。
コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
「だから、もっとあなたの話が聴きたい」という「懇請」(solicitation)がコミュニケーションを先へ進める。
「あなたの言うことはよく分かった」と宣言したときにコミュニケーションは断絶する。
それは恋愛の場面で典型的に示される。
「あなたのことがもっと知りたい」というのは純度の高い愛の言葉だが、それは言い換えれば「あなたのことがよくわからない」ということである。
論理的に言えば「よくわからない人間のことを愛したりすることができるのだろうか?」という疑問だって「あり」なのだが、そんなことを考える人間はいない。
逆に、「あなたって人間がよくわかったわ」というのは愛の終わりに告げられることばである。
「あなたって人間のことがよくわかったから、結婚しましょう」というように言葉が続くことはない。
それと同じく、逆説的なことだが、コミュニケーションは「それがまだ成立していない」と宣言することで生成し、「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである。
喪の儀礼も同一の構造を有している。
それは死者に向かって「あなたはまだここにいる」と伝えることによって死者を「ここではない場所」に送り出す機制なのである。
私たちは全員が「潜在的死者」である。
だから、葬送儀礼を生者の側において執り行うときに、私たちは「安らかに死ぬこと」とはどういうことかを先取り的に経験している。
「あなたはまだここにいる」と生者たちから告げられたときに、「私は安らかに死ぬだろう」
そういう信憑を私たちは幼児期から繰り返し刷り込まれている。
この信憑から個人的な決断によって逃れることはできない。
「オレはそんなのやだよ」と言ってもはじまらない。
この信憑が人間の人間性を基礎づけている「原型」だからである。
死者に対して「あなたは生きている」と告げることばは、それが真実な思いからのものであれば、「死者に届く」。
私のこのふるまいは死者を慰めるか?
私のこのことばを死者は嘉納するか?
私からのメッセージは死者に正しく伝わるか?
そのような問いをもって生者たちはその生き方の規矩としている。
死の淵を覗き込んでいる人間に必要なのは、おそらく「死んでもコミュニケーションは継続する」ということへの確信であろう。
数十万年前に人類の始祖たちがこのような信憑を採用して、それを社会制度の基礎に据えたのは、それが万人に例外なく訪れる死を苦痛なく受け容れる上でもっとも効果的であるということを知ったからである。
私はそんなふうに考えている。
というような話はもちろんシンポジウムではしなかった。
今ごろになって思いついたのである。
緩和医療学会の会場で、I学書院のS本くんに会う。
S本くんはT居くんといっしょに数年前、「看護学雑誌」の取材で私のところに来た若い編集者である。
そのときは「インフォームド・コンセント」の是非とナースの医療的機能について、素人考えを好き放題にしゃべった。
それがナースのみなさんの琴線に(「逆鱗に」ではなく)触れたらしく、それ以後、看護関係者からは「ウチダというのは、素人にしてはなかなかもののわかった人間だ」という評価を頂いている、そのきっかけを作ってくれた編集者なのである。
一緒に三宮まで帰る。
ちょうどイワモト秘書と「鰻」を食べる計画があったので、合流することにする。
どうして秘書と「鰻」を食べることになったのかについては感動の涙なしには語り得ない佳話があるのだが、もちろんそんなことはここでは公開できないのである。
いつもの「江戸川」で生ビールを飲んで、「おひつまぶし」を食べる。
だんだんここの鰻も「味が決まってきて」、美味しさが増してくる。
「味が決まる」というのは調理の出来不出来ことではなく、食べる私の側の「このような食感、このような歯触り、このような温度、このような盛りつけ、・・・のものを食べるという期待感」と出てくる料理の間の齟齬がなくなるということである。
「味が決まる」というのはかの内田百閒先生の言葉である。
それほどのものではなくても同じところに足繁く通ううちにだんだん美味しく感じられるようになるというのは私の経験的確信である。
かつて予備校講師時代に私は週二回高円寺の駅前のカレー屋で「チキンカレー、辛口、ご飯大盛り」というのを食べていた。
3年くらい食べ続けたら、もうそこのカレーなしではいられないカレー中毒になった。
そこまで症状が進むと、小走りに駆け込んだカレー屋で最初のひと匙を口中に投じるときの極快感はもう言語を絶し、背筋に戦慄が走るほどのものとなるのである。
私のカレー屋通いを怪しんだ予備校生たちはそのカレー屋を訪れて同じものを食したが、全員が「うまくねーよ、先生」と肩を落としていた。
そういうものである。
江戸川の「おひつまぶし」が美味くないという意味ではない。
鰻を食したのち、わが家に移動して、甲野善紀先生の「世界でいちばん受けたい授業」を見る。
甲野先生のあとは茂木健一郎さんが出てきたので、ひさしぶりにテレビのヴァラエティ番組を最後まで見てしまった。
そのあとイワモト秘書によるi-podの使い方講習会。
そう、私はついにi-podを購入したのである。
この手の電子ガジェットに私はわりと目がないのであるが、i-podは何となくご縁がなく日々を過ごしていたが、先般の四社会談のおりに、石川くん、兄上さらには平川くんまでが持参のi-podを取りだして、それぞれの自慢の音源をスピーカーで増幅して聴かせてくれた。
これが円丈の落語のあとにボビー・ヴィー、そのあとにモーツァルトというめちゃくちゃなコンテンツ。
石川くんと兄上がi-podを持っているのは当然のこととしてスルーしていたのであるが、平川くんが持っているというのが許せなかった。
「許せない」というのは「やめろ」ということではなく、「看過しえない」とか「黙許が与えられない」という意味である。
どうして個別平川くんのi-podに対してのみそのような激しい模倣欲望を感じたのか、その理由は幼児体験にまで遡らないと説明できないが、とにかく「平川が持ってるなら、オレも買うぞ!」と突発的に思い立って、秘書にi-podの買い入れとレクチャーを指示したのである。
これはまたよくできたガジェットである。
何しろネットで音楽が買えるのである。
「何か買ってみますか?」と秘書に促されて、60年代ポップスをスクロールしているうちに、思わずハーマンズ・ハーミッツの「朝からゴキゲン」を買ってしまう。
買ってから「しまった」と思う。
生まれてはじめてインターネットでダウンロードした音源がハーマンズ・ハーミッツとは。
取り返しのつかないことをしてしまった。
明けて日曜日は下川正謡会の歌仙会。
自分の出番の『山姥』と『土蜘蛛』の他に素謡『砧』、『求塚』、『卒塔婆小町』、『恋重荷』と仕舞の地謡がついているので、ほとんど舞台に出ずっぱりである。
『山姥』はやや声がうわずってしまい、二段落としがうまく回らなかったところがあったけれど、なんとか最後まで詞章は間違えないでゆく。
『土蜘蛛』は素がちゃんと飛ぶかどうか心配だったけれど、無事に四つとも飛んで、頼光が蜘蛛の巣まみれになって刀が納刀できないほどでやんやの喝采。
そのまま付祝言『高砂』で締め。
相生の松風颯々の声ぞ楽しむと謡い終えて、やれやれ。
冷たいビールで乾杯して、忙しい週末が終わる。
投稿者 uchida : 2006年06月26日 10:32
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このリストは、次のエントリーを参照しています: 緩和医療学会とi-podと『土蜘蛛』:
» 死者 from Niratopia
内田樹の研究室: 緩和医療学会とi-podと『土蜘蛛』
それは死者に向かって「あなたはまだここにいる」と伝えることによって死者を「ここではない場所」に送り出す機... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年06月26日 22:46
» 柔らかな時間ー敬愛するK先輩へ from asyuu@forest
ブログの更新を意識的に止めていた。
土曜に敬愛するK先輩が永眠されたからだ。末期ガンで2年間の闘病生活を経ての、ご逝去だった。
プライベイトなコトはこの... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年06月26日 23:17
» 味が決まる。 from retroeater
内田樹さんのブログより。
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「味が決まる」というのは調理の出来不出来ことではなく、食べる私の側の「このような食感、このような歯触り、このような温度... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年06月27日 08:24
» コミュニケーションの不可能性 from ◆書く/読む/喋る/考える◆
コミュニケーションが不可能なのは特別じゃない。そんな例は回りにゴロゴロ転がってる。最もポピュラーなのは、なんといっても失恋だな。
「絶対、もう電話しないで!」
... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年06月27日 21:33
» [life]葬送 from iccw blog // はてな避難所
学園の名誉理事長のお通夜。わたくしどもが入ったタイミングで理事長職を退かれたので、時々姿を拝見するくらいのかただったのだけど。ながく一緒に働いていた先生が多い... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年06月29日 17:42
» bzmeo from bzmeo
たまに来ますのでよろしくお願いします。 [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年10月26日 02:23
>死者に対して「あなたは生きている」と告げることばは、それが真実な思いからのものであれば、「死者に届く」。
>「私たちはあなたといつでもコミュニケーションできるし、これからもコミュニケーションし続けるだろう」と誓約
ふかい感慨で、この言葉をかみしめました。ちょうど大切な先輩をお送りしたところだったので、なんども熟読しました。
先輩も、内田先生のブログを愛読していたので、なにか縁みたいなものを感じました。
投稿者 asyuu@forest
: 2006年06月26日 19:21
内田さん初めて書き込みします。
「子供はわかってくれない」を拝読してから、こちらのプログに来ています。 プログを一通り読んでから、ということができないせっかちな気性を許してやってください。
死者の弔いについての話、人間はあくまで社会的動物であるとの話など興味深く読んでいます。
しかし、一つ気になっていることがあります。 「自殺」というのはどうなるのでしょうか。内田さんの書きものはまだ少ししか読んだことがないので、自殺についても何か書かれているとは思いますが、ここの文脈だけでコメントします。
自殺するのはやはり人間だけだと思います。 自殺する人間の振る舞いは、生者に対する最後のコミュニケーションという気はしますけど。
何かを伝えたいという自殺もあるでしょうが、全てのコミュニケーションを断ってしまいたいという自殺もあるのではないでしょうか。 というより、後者の自殺の方が多と圧倒的に多いと考えています。あるいは社会からも認められない、コミュニケーションしてもらえないという絶望がその人を絶望においやるのかもしれません。 しかしながら、かなり以前に聞いた話で、来世を確かめるために自殺したという青年がいたとか。その青年は今問題になっている自殺とはかなり様相のことなる自殺をしたことになります。
自殺された側が何故「死ななければならなかったのか」を納得できない場合にも、分からないという点で内田さんのいうコミュニケーションは成立していることは確かでしょう。 しかし、そのようなコミュニケーションがこちら側に残された人間にとって非常に辛いものであることも確かなように感じます。
ところで、死んでもコミュニケーションは継続するというのは、あくまでこちら側の生者の行動として指摘されているのですよね。 あちら側に行ってしまった人が本当に能動的に、何かしらのコミュニケーションを図るという意味は持たされていないと仮定しています。
私は幸いにも知人、友人等に自殺したものはいませんが、職場で自殺者がでています。その人には、家族もいたし、友人もいたでしょう。でも、自殺で何かを伝えたかったとすれば、それはどうしようもない一方的な最後通牒にしかなっていません。それはもはやコミュニケーションとは呼べないと考えています。自殺された、こちら側の人間はコミュニケーションを断たれたと感じるのではないかと思ったりします。 内田さんの書いていることは、あくまでこちら側の残った人間としての営みということでしょうか。
内田さんの書いている「人間」が「オレそんなのいやだよ」といって、最後に突きつけたものが自殺であった場合、それはここでいう人間であることを拒否したことになってしまうのでしょうか。 しかしながら、自殺するのは人間だけらしい。
あと、蛇足ですが、どうやら像は人間ほどではないにしろ、死者を悼むということをしているらしいという話をテレビで知りました(ここでいう葬儀にあたらないと言われればそれまでですが)。 逆に、当面生きられるはずなのに自らの意思で死ぬ動物もそのうち発見されるかもしれません。もし類人猿が人間と同じように、葬儀を始め、自殺をし出したら、人間ではないけれども人間的な動物に変化したということでしょうかね。
はじめまして。hiraともうします。
iPodデビュー、おめでとうございます。
>コミュニケーションは「あなたの言葉がよく聴き取れない」と告げ合うものたちの間でのみ成立する。
ここですが、
コミュニケーションの動機とは「相手のことが分からないから、もっと知りたい、もっと話を聞きたい」、なのではなく、
「コミュニケーションするのは楽しい、だからコミュニケーションしている」なのだとおもいます。
が故に、
コミュニケーションは「あなたと話していると楽しいなー」と告げ合うものたちの間でのみ持続する。
死者に関しても同じことが言えそうです。
「生きている私たちは、死んでしまったあなたとのコミュニケーションを、楽しいなーと感じていますよ」と言いながら、
「でも、死んでしまったあなたにとっては、私と話すよりももっと楽しいことがあるようだから、わたしに構わずそちらを優先してくださいな」とするのが、正しい葬送儀礼なのだ、と感じます。
内田先生、今晩は。ずうっと死者との別れについて考えていました。そしたらトラックバックがすごい数になっているのでどうしたのかと見たら「なんだこりゃあ!」です。IT秘書の方に何とかしてもらってください。これでは考えるにも考えられません。
何年か前に○○君とのお別れ会というのにでたことがあります。お葬式は故郷で済ませて、お別れの会、でも事実上の御葬儀でした。ただ読経もなく、弔辞ばかり聞かされてご遺族の悲しみだけを見せられて帰ってきました。その時以来葬儀というのは遺された人のためのものだと強く思っています。悲しみをオブラートで包むのが葬儀だと思います。悲しみを見せないのが
美徳だったのではないでしょうか、この国は。感情を切り離した自分という存在が案外助けになると、私は思います。
とにかくトラックバックというへんてこな玄関先の邪魔者は
退治してくださいませ。よろしくお願いします。
サイン・インを確認しました、 さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)