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2006年04月09日

反復の快

四月になって生活がレギュラーになりつつある。
三月までの気が狂ったようなめちゃめちゃなスケジュールも一段落。
『私家版・ユダヤ文化論』も書き上げたし(大口さん、安心してね、消してないから)、岩波の身体論も書き上げたし、吉田城君の追悼文も書いたし、月連載の三本もエッセイも書いたし、甲野先生との対談本の「まえがき」も書いたし、『子どもは判ってくれない』の「文庫版あとがき」も書いたし・・・三月末から一週間で懸案の仕事がばたばたと片づいた。
ふう。
四月の残る仕事は15日の朝カルと16-17日の城崎温泉ツァー(茂木健一郎さんと温泉で宴会しながら対談というツボにはまったアイディアは橋本麻里さん企画で、掲載誌はBRUTUS)の二つだけ。
あとはふつうに大学に通って、会議に出て、道場でお稽古して、小ネタ仕事を片づけるだけのルーティンな毎日が待っている。
つねづね申し上げているように、私はルーティンが大好きである。
毎日同じ時間に起きて、同じものを食べて、同じような服を着て、同じような場所に行って、同じような仕事をして、同じようなことをしゃべって、同じような映画を見て、同じような本を読んで、同じような酒を飲んで、同じような夢を見る・・・というのが私の至福の一日である。
意外性とか新奇性というのは私の深く忌避するところのものである。
快楽は本質的に回帰性のものである。
フロイトを引くまでもなく、快感原則は恒常原則に由来する。
「識閾を超えるあらゆる精神的物理的運動は、それがある限界を越えて完全な安定に近づくにつれて快をおび、ある限界を越えて安定から離れるにつれて不快をおびることになる。」
だから、生物の自然は安定を求め変化を嫌うはずである。
私もそうである。
しかし、実際には私たちは快感原則のみに従って行動しているわけではない。
生物が置かれている状況では、「快だよん」と言って、そこらで寝ころんでいるような生物はいずれ飢え死にするか、ただちに他の生物に捕食されるかするし、そもそも配偶者が得られないから、DNAを複製することができない。
生き延びようと思ったら、生物は「満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂路をへて快感に達する途中の不快を一時甘受する」ことを受け容れなければならない。
これが現実原則である。
なるほど快感原則と現実原則が葛藤しているので、人生めんどくさいんですね。
あのね、違うの。そうじゃないのよ。
フロイト博士はそんな簡単な話をしているのではない。
もし生物が本性的に快をめざし、不快を避けるものであり、仮に快の享受を延期したり中絶したりする場合があっても、それは最終的により確実に快を得るための迂回にすぎないという理屈では「説明できない現象」が多すぎるということをフロイトは指摘しているのである。
例えば外傷性神経症の場合。
患者はトラウマ的経験の原点にある光景を繰り返し夢に見て、驚愕して目覚める。
覚醒時の患者はできるだけそのことを考えまいとしている。
夢もまたしばしば願望充足のための機能を果たしている。
だったら、「そんなことは忘れてしまってぐっすり眠る」というのが生物にとって最適の選択であるはずである。
それができない。
それはおそらく、その不快に耐えることがある種の快をもたらしているからだ。
フロイトはそう考えて、これを「反復強迫」を呼んだ。
「あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わる」人がいる。
あなたがたのまわりにも必ずいる。
おそらくあなた自身も多少はそうであるはずだ。
手助けしてあげた人間に必ず裏切られる人。
誰かを権威者に担ぎ上げて、その人に熱情的に仕えるけれど、一定時期が過ぎるとその人を棄てて、別の権威者に乗り換える人。
同じようなタイプの恋人を選んで、そのつど傷つけられる人。
フロイトは三回結婚して、三回とも夫を死ぬまで看病するはめになった女性の事例を紹介している。
おそらくその女性は「もうすぐ死病に取り憑かれそうな男」を選んで結婚しているのである。
これは、「不快な経験の反復」はそれが「反復」であることによって「不快」を上回る「快」を提供しているということによってしか説明できない。
快感原則の究極のかたちは死である。
死んでしまえば、もう変化はない。
ニルヴァーナだ。
でも、現実原則と快感原則の葛藤ということを考慮すると、タナトス的にいちばん気持ちがいいのは「もう死んでいる」状態ではなく、むしろ「今、死ぬ」瀬戸際にいるときではないだろうか。
「ああ、これでやっと永遠の安定に還ることができる」という瞬間にタナトス的な「快」は最大化するはずである。
セックスにおける快がそうであるように、快というのは、欲望が消失するまさにその瞬間に最大化するものだからである。
だから、「生きていながらぎりぎりで死に触れている臨界線上」に身を持すのが、生物が生物として経験できる最大の快であることになる。
反復とは、「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものである。
おそらくそうなのだろうと思う。
「死ぬ」というのが生物が経験できる至上の快であり、私たちが「死ぬ」ことを忌避する唯一の理由は「一度死ぬともう死ねないから」なのである。

投稿者 uchida : 2006年04月09日 13:03

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コメント

こんにちは

トラックバックさせていただきました。フランスは「機会平等法」に反対する学生たちが大学、道路、鉄道などの封鎖にふみきり、大変な混乱が続いております。

国内で最もはやく行動をおこしたのが私の暮らすレンヌの大学で、暴徒化した若者達を鎮めるために催涙ガス弾が市内中心部で昼間にも用いられ、市民生活にも多大な影響が出ています。

今日書いたような夢を見たのは現実から逃避してどこか静かな場所に逃げ込みたいという意味かもしれないと思いました。

投稿者 ichijyo [TypeKey Profile Page] : 2006年04月09日 17:29

 私に湧いた素朴な疑問を書かせて頂きます。「日常生活の繰り返しに快感を感じる人(例えば会社員)は、意識の中に象徴界の占める領域が大きい人(オトナ)ではなかったのか」ということです。
 内田先生が述べられたことと、快感原則が象徴界より原初的な想像界に由来することを考え合わせると、日常生活志向が象徴界でなく想像界と親和性を持つことになります。一方、想像界の領域が創造を容易にすることから、芸術家の意識は想像界の占める領域が大きい(コドモ)と考えられがちです。
 3.13 付の先生の日記を参照すれば、「技術が身体化し」、「右脳でさばくように」なると、「奇跡が起こる」とあります。すると、創造・奇跡自体は想像界でなく、反復強迫の後に出現する象徴界由来の身体化・記号化と親和性を持つこと、象徴界、想像界の大きさは会社員(オトナ)と芸術家(コドモ)の意識で一概に逆立するわけではないこと、と理解すればよろしいのでしょうか。

投稿者 Commu [TypeKey Profile Page] : 2006年04月09日 19:39

はじめまして、はじめて書き込みいたします。

今回のエントリも、とても興味深く読ませていただきました。
先生の文章はいつもなぜか、理性が理解する前に心のどこかが「これは真実である」と納得してしまっているような感じがいつもします。

今回のことを読んでいて「反復に飽きる」ということはどういうことなのだろう、と考えました。もし反復が真実に快であるなら、だれも自堕落になったり規則ただしい生活を諦めたりしないだろう、と思ったからです。しかし多くの場合人は楽なほうに流されやすく、私も含めて規則ただしい生活が苦手です。
私なりに出した結論は、たぶんそういう人間は反復の終わりをきちんと設定できていないために、快を受け取り損ねているのではないだろうか、という風になりました。終わりの想像がつかない反復は、快を生み出さないということなのかなと…。
先生が日常生活にする反復の「終わり」はなんですか?

投稿者 emptyyard [TypeKey Profile Page] : 2006年04月10日 04:46

「死の瀬戸際」とはどんなときですか。苦しんで死ぬ、その瀬戸際のときでしょうか。

投稿者 プリオン [TypeKey Profile Page] : 2006年04月11日 17:16

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