毎日新聞の「この一年・文芸」という回顧記事の中で、松浦寿輝と川村湊が今年一年の文学作品の棚下ろしをしている中に、例によって村上春樹が批判されていた。
川村 村上春樹さんの短編集(『東京奇譚集』)はやはり、うまいですね。
松浦 短編集という器の洗練のきわみを示している。でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、世界中の人を引きつける。しかし、日本近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
川村 インドの大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。サリンジャー以降のアメリカの都会派小説の流れの中にあるんでしょうね。前の短編集『神の子どもたちはみな踊る』には謎めいたところを作っていたが、今回はそういうところはほとんどない。
松浦 言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土地も血も匂わない。いやらしさと甘美さとがないまぜになったようなしがらみですよね。それがスパっと切れていて、ちょっと詐欺にあったような気がする。うまいのは確かだが、文学ってそういうものなのか。(毎日新聞、12月12日)
「詐欺」というのは奇しくも蓮實重彦が村上文学を評したときの措辞と同一である。
かりにも一人の作家の作物を名指して「詐欺」と呼ぶのは、その文学的営為を全否定すると同時に、その読者たちをも「詐欺に騙された愚者」に類別しているに等しい評語である。
私は村上春樹の愛読者であるので、そのような評語に接して平静な気持ちではいられない。
「どうして村上春樹は文芸批評家からこれほど憎まれるのか?」
それについて少し思うところを書く。
「世界中の人を惹きつけ」、「インドの大学院生たち」からも「違和感がない」と言われるのは、その文学の世界性の指標であると私は思っている。
そして、日本文学史の中でそのような世界性を獲得した作家はまれである。
折しも同じ作家の『海辺のカフカ』は12月1日にニューヨーク・タイムスの選ぶ「今年の十冊」のひとつに選ばれた。
十冊はフィクション、ノンフィクション各五冊である。
「パワフルで自信に満ちた」作家による「上品で夢のある小説」と評された『海辺のカフカ』がその年に出版された英語で読める小説の年間ベスト5に選されたことは、日本人として言祝ぐべき慶事だと私は思う。
しかし、批評家たちはそれを慶賀するどころか、その事実をむしろ村上文学の欠点として論っているように私には思われた。
「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」に絡め取られることは、それほど文学にとって死活的な条件なのだろうか。
「私は日本人以外の読者を惹きつけることを望まない」とか「異国人の大学院生に『違和感がない』などと言われたくない」と思っている作家がいるのだろうか。
私の知見は狭隘であるから、あるいは、そのような排外主義的な物書きもいるのかも知れない。
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土地や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。
だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示ことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。
例えば、次のような会話をあなたはまじめに読む気になるだろうか?
A でも、これはマスターキーのような文学だと思った。どの錠前も開くから、東京中の人を引きつける。しかし、世田谷近代文学の記憶の厚みがなく、不意にどこからともなくやってきた小説という感じ。
B 目黒区の大学院生たちも、違和感がない、と言っていた。
奇妙な会話だ。
しかし、批評家たちがしゃべっているのは構造的には「そういうこと」である。
なぜ、「世田谷近代文学の記憶の厚み」はジョークになるのに、「日本近代文学の厚み」はジョークにならないのか?
そのような問いを自らに向けることは批評家の重要な仕事だろうと私は思う。
リービ英雄は「日本ふうの私小説の骨法を身につけた」こと、「二つの言語の間で揺れる自分を感動的に描いた」ことを二人から絶賛されている。
ここでリービ英雄が賞賛されているのは、彼の文学に世界性があるという理由からではない。「日本的であろうとしている」から、あるいは「日本的であろうとして、日本的になりきれない」からである。
私はリービ英雄自身がこのような賛辞に納得するかどうかわからない。
おそらくあまり喜ばないのではないかと思う。
もし私がフランス語で小説を書いて、フランスの批評家に「フランスふうの心理小説の骨法を身につけた」とか「二つの言語の間で揺れる自分を感動的に描いた」ことをほめられても、あまりいい気分にはならないだろうと思う。
何国人が書いたのかというような外形的条件を超えて、作品そのものが文学として「読むに耐える」のか「耐えない」のか、私なら「それだけを判断して欲しい」と思うだろう(作家じゃないからわからないけど)。
この作家は「病身なのに、よく健常者の身体感覚を書いた」とか「貧乏な育ちなのに、上流階級の描写に巧みである」とか「不幸な生い立ちなのに、幸福な家庭を活写した」とかいうことを批評家たちは「文学的ポイント」としてカウントするのだろうか?
私が改めて言うまでもないことだが、「誰」が書いたのかということは作品評価の一次的な判断基準にはかかわらない。
作品は作品そのものとして評価しなければならない。
作家の最大の野心がもしあるとすれば、それは「この作家の人種は何か?」とか「母国語は何語か?」とか「宗教は何か?」とか「政治的信条は何か?」といった外形的な情報が与えられない場合でもなおその作品が多くの読者に愛され、繰り返し読まれるということである。
私はそう考えている。
ある作家について、彼がそこに絡め取られていたはずの信仰の制約や民族誌的偏見やイデオロギー的限界を論じることがあるとしても、それは「それにもかかわらず世界性を獲得できたこと」の理由について考察するためであって、その逆ではない。
もし、村上春樹と「ローカルなしがらみ」の間に生産的な批評的論件があるとすれば、「どのようにして村上春樹はローカルなしがらみから自己解放し、世界性を獲得しえたのか?」をこそ問うべきではあるまいか?
村上春樹が無国籍的な書き手であることを目指したのはおそらく事実だろう。
だが、「無国籍的である」ということと「世界的である」ということのあいだには千里の逕庭がある。
この「千里の逕庭」の解明になぜ批評家たちはその知的リソースを投じないのだろう。
投稿者 uchida : 2005年12月15日 23:35
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早稲田大学3年生の夏川潤香(21歳)です。
12月16日、ブログ更新しました。
※闘う早大生:夏川潤香の『日本を洗濯します!』 (靖国神社編)
http://yaplog.jp/uruka_natukawa/
※リンク大歓迎です。私のブログに御理解頂ける方は、ご自由にリンクを貼ってください。よろしく御願いします。
村上春樹の文学は、近景と遠景はしっかり書き込まれているけれども、その真ん中がすっぽり抜け落ちているのだということを聞いたことがあります。
個人的なあれこれはしっかり書き込まれていて、この世とは違う「向こう側の世界」のことも書き込まれているのですが、主人公やその他の登場人物が属しているはずの家族・職場・地域・国家というものはほとんど書き込まれることがないということらしいです。
個人・社会・(人の作った社会の外側にある)世界という3つの軸があるとして、「私小説」を主流としている日本の近代文学は個人のこと、あるいは個人と社会の軋轢に重点を置いているものが多いのに対し、村上春樹の書いたものは個人と世界というものについて重点が置かれている点が、普遍性を獲得した点ではないかとエントリーを一読して思いました。
しかし村上春樹の文学に見られる「個人と世界に対する志向はあるけれども、その中間に存在しているはずの社会への志向がすっぽり抜け落ちている」という特徴は「嗤う日本のナショナリズム」に最近の若者の特徴として記載されています。そのあたりも何か関係があるのでしょうか。
投稿者 kyuden
: 2005年12月16日 13:43
全くそのとおりだと思います!
「そこに足りないもの」をあげつらっていけばどんな作品にだって難癖を付けることができますが、そんなあら捜しの評語に何かしらの生産性があるとは思えませんよね。
強いて生産的(?)な要素を挙げるなら、アンチ同士が「あいつの作品気に食わないよねー。」と意気投合して盛り上がれるというメリットくらいのものでしょうか?
どうせ見るなら「そこで何が実現できているか」という生産的な論評を見たいものですね。
投稿者 鉄兵
: 2005年12月16日 14:10
時間に追われているので、根の張った文章が書けませんが、。ドイツでは、ーードイツ人として、、、ドイツ人とは--という思考方向は、教育学的にも、哲学的にも生産性、将来性にかけると考えるので、ドイツのなにが、若者に魅力的なのか、と科学的に思考し、将来性、創造性をおもんじます。そのように思考できることが、インテリゲンツ、大学に学ぶものの誇りであります。フランスの暴動が、起きたときも、外国人が、、と思考するのではなく、そこに生きている若者に、何が不足していたのか、と考え、大統領自ら出向いて、話しかけるのです。
村上のもの、バナナ吉本のもの、トトロ、あれこれ日本のものが、読まれ、見られ、日本に住む人々を想定する、ドイツの日々です。
内田さんの発言は、読むと、よいシャンペンを飲んだ以上にすっとすることがあるのです。
『日本近代文学の記憶の厚み』っていうのは夏目漱石その他とかの私小説っぽい流れのことなんでしょうかね?村上春樹自身はもともと翻訳物ばかり読んでいてそういう路線というか世界観で文章を書き始めたというようなことを読んだこともあるし、彼自身ローカルのしがらみみたいなことは書くものに限らず大嫌いな人間であるのはエッセイや作品から容易に読み取れます。まあ蛇足ながらまとめると、神戸出身であるが地元が嫌いで早稲田へ行った。日本から離れたくてヨーロッパへ移住のようなことをしているうちにノルウェイの森がベストセラーになったなどなど、今の時点では存知あげないですがもともとは生粋のアンチローカルの代表格みたいな人間だと私は認識しています。
まあそういう浮世離れした空気感のようなものが、私は好きですし、ユニバーサルな人気を集めているというのはすでに指摘されているとおりです。いろんなスタイルがあるけれども、そういうスタイルを持つ人の作品に力があり、世界的に認められたんだから仕方がない。
1.私小説的でない文学を書く小説家が世界で人気である。
2.多くの文芸評論家は私小説こそが日本独特の正統派文学だと信じており、それ以外が表舞台で文学として特に世界で高い評価を受けることを苦々しく思っている。要するに私小説以外は嫌いだ。
3.1.2.に利己的な整合性をもたすためには「日本近代文学の記憶の厚み」=「私小説」ではなく、「日本文学」=「私小説」と定義してしまいたい。正当な後継者としては認めたくないので、あくまで異端であると位置づけたい。
そういうことですか?
こんにちは。
松浦氏、私は名前しか存じ上げないでおりまして、電車の宙吊りを見ては面白いのかなあと気にしておりましたが、こちらで引用されていた対談を読むと、氏の作品は、ご本人の言葉通り「正しく」そのような「ローカルな土地に根ざしたしがらみ」に絡めとられているのでしょうね。素晴らしい。これでもやもやが晴れました。
読まないでおこっと。
投稿者 bun
: 2005年12月17日 19:34
わどです。/内田先生は春樹と同世代くらいですか? 「私小説」というテクニカル・タームに、いまだに生産性を求める視座には驚きを禁じえません。小林秀雄に組するわけじゃないですよ。/読めてないかもですが、一見するとグローバル化したような小説の流れは、浅い知見によれば龍にも認められるのでは? また、その後の小説全般にわたって、この傾向は顕著だろうとも。たとえば『なんクリ』の主人公にある種の「世界性」がないとは思いません。金原ひとみの「タトゥー」と谷崎潤一郎の「刺青」の扱いにどう思われるでしょうか? /文学エリートの告白めいた虚構から遠くまで来たような日本の小説ですが、当然ながら内面描写がなくなったわけではありませんよね(おれの周り――片手ほどもない――では内面描写に重点を置く小説を「純文」的と呼び、「私小説」は死語です)。反映論ではありませんけど、小説家に現前する日本の現実が知らない間に「グローバル」化しているからでしょうか。牛肉までアメリカナイズしようとしているところ。ですからハルキの「世界性」といっても特異(天才的)なものではないとの印象です(ご意見に反して?)。この補助線上には、小説ではありませんがジブリのアニメも乗ってることでしょう。/おれといえばハルキはだめです。好きになれません。『海辺のカフカ』など失敗作とさえ見えますが、ことさら自分を非国際的だとは思っていません。「正しさ」を競わない小説なら、そんなものでいいと考えているだけです。
投稿者 誤読しらず
: 2005年12月18日 16:20
村上春樹氏の作品が受賞したというニュースはネットのMSNではすでに出ていたんですね。
http://cc.msnscache.com/cache.aspx?q=2722047468500&lang=ja-JP&mkt=ja-JP&FORM=CVRE9
たまたま昨日の毎日新聞を見ていたら、村上春樹氏の「海辺のカフカ(英語版)」が「今年のベスト本」に選ばれたというニュースが毎日新聞の、同じく「この一年」コーナーの下のほうに記者の署名入りで載っていました。(毎日新聞2005/12/19夕刊2版6面)
ただしこちらは英紙フィナンシャルタイムズですが。
内田先生のブログを見て、気になったのかもしれませんね?
投稿者 tbird
: 2005年12月20日 09:59
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