3年生のゼミでは「憲法改定」という大きな題が出た。
「憲法改正の国民投票が間近に迫っています・・・」という現状分析から始まる大ネタであるが、まずその「前提」にびっくりした。
ちょっと待ってくれ。
いったい、いつから「国民投票が間近に迫っています」ということが国民的常識に登録されたのであるか、そこのところを明らかにしていただきたい。
たしかに、こういうのは「時代の気分」の問題であって、別に統計的根拠に基づくものではない。
おそらく先般の総選挙で小泉圧勝をもたらした「時代の気分」は憲法改定までを含めたドラスティックな社会構造の変化を渇望しているのであろう。
どのような変化であるかはさだかではないが、とにかくこの「停滞感」を何とかしてくれ、といううめき声のようなものがこの社会のあちこちから聞こえてくるのはたしかだ。
「憲法改定」はそのような「変化」の象徴である。
「何かを変えなければいけない」ということについては国民的合意がある。
私もそのことについては同意見である。
そのときに国民の約半数が「憲法を変える」ことで、この停滞感が「なんとかなる」のではないかという漠然たる期待を抱いている。
私自身はその判断に与しないが、判断の当否は措いて、そのような期待が現に「ある」ということは認める。
自民党の改憲案はいろいろなことが盛り込んであるが、端的に日本国憲法の改定は「九条第二項」の廃絶ということを意味しており、それに尽きると言ってよいだろう。
あらためて九条を読み返してみよう。
第九条 【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
ご存知の通り、九条一項は不戦条約の条文ほぼそのままである。1929年濱口雄幸内閣のときに日本はこれに調印した。
その第一条は次のようなものである。
「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコトヲ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。」
この不戦条約には他にアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ソ連など63国が署名した。条約には期限が明記されていないために、国際法上不戦条約はいまでも有効とされている。
にもかかわらず、署名諸国が今日に至るまで70年間「国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコト」を是として、戦争を繰り返しているのは、この条約が「自衛戦争」を禁止していないからである。
あらゆる戦争は自衛のために戦われる。
だから、「自衛のための交戦権を留保した不戦」というのは、「生命保持のための摂食権を留保した断食」「用事がある場合の外出権を留保した監禁」に類する言い方である。
つまり、憲法九条第一項というのは戦争抑止上無意味な条項であり、平和憲法の政治的機能は第二項にしかない。
こんなことは私が言わなくてもみなさんとうにご承知のことだからこれ以上論ずるには及ぶまい。
とにかく、自民党も民主党も、改憲を望む人々は第九条二項を廃絶したいと望んでいる。
戦争に関する「フリーハンド」を回復したいと望んでいるのである。
より厳密に言えば、「(本音のところでは)あまり戦争なんかしたくないけれど、『戦争になるかもしれない』という政治カードを自由に切ることができる国家になりたい」と望んでいる。
「戦争になるかもしれない」という緊張状態が国民的に広がることのうちにはほとんど数え切れないほどのメリットがあるからである。
私は護憲派の人間であるが、それでも「改憲して『戦争ができる国』になることにはメリットがある」という主張の一部には理ありとしなければならない。
改憲して、戦争ができるような国になるとどのようなメリットがあるか?
ランダムに挙げると、第一に「増税」が可能になる。
ご存知のとおり、戦時体制のときに増税に反対できる政治家はいない。
戦前、戦中でも軍備の拡充のための増税の国会決議はほとんどつねに「満場一致」であった。
「臨戦」気分の醸成は間違いなく国民の圧倒的支持を得て増税できるチャンスを提供するであろう。
現在の日本の国家財政は危機的であり、多くの財政通は増税以外に財政再建のオプションはないと語っている。
だが、増税を掲げて総選挙した場合、自民党が政権を失う確率はきわめて高い。
増税を導入し、かつ自民党政権を維持するためには、「国難」を煽ることによって挙国一致体制を作り上げ、「国民ひとりひとりが痛みを分かち合おう」というイデオロギー的熱狂によって反対世論を封殺することが必須である。
だから、私がいま自民党の財務部門の責任者であったら、必ず「改憲」を訴えるであろう。
第二も同じく経済的理由である。
「戦争があるかもしれない」という危機感の醸成によって、巨額の公共投資がノーチェックで可能になる。
「高速道路建設」「新幹線建設」「飛行場建設」「トンネル建設」などへの税金の投入への反対は「国防上の要請」の一言をもって一蹴することができる。
ゼネコン業界に限らず、すべての製造業者にとって「戦争間近」という市場の興奮はビッグビジネスのチャンスである。
だから、ビジネスマンたちが改憲を望むこと切である理由も私はよく理解できる。
第三の理由はもっと心理的なものであり、メディア知識人が改憲ににじりよっている理由はおそらくこれであろう。
それは「戦争があるかもしれない」という危機感の中で、日本の若者たちが「しゃきっとする」可能性があるということである。
生物の自然として、「安全」状態が長く続けば、感覚は鈍り、アクティヴィティは低下し、生命力が衰える。
逆に生命の危機に際会すれば、身体のそれまで眠っていたリソースが爆発的に開花する。
動物園のシマウマの眼は「どろん」としているが、サバンナのシマウマの眼は「くりくり」している。
当然ながら、動物園は「安全」だからいくらでもでれでれできるけれど、サバンナでは生物としてのパフォーマンスを最大化していないと、すぐにライオンやハイエナの餌になってしまうからである。
平和憲法下の60年間は日本人を「動物園の草食動物」のようなへなへなしたものに変えてしまった。
学力低下もニートも引きこもりもリストカットも解離症状も少子化も非婚化も少年犯罪も・・・これらはすべてある意味で「平和の代償」である。
「動物園症候群」と申し上げてもよろしいかと思う。
このような「あまりに平和であるために生命力が萎縮したことによる病的症候」は「戦争が近い」という大気圧下では雲散霧消するであろう。
多くの人々はひそかにそう期待している。
その期待にはそれなりの根拠があると私も思う。
戦時中の社会にノイローゼの人間はいない。精神科の待合室には閑古鳥が啼く。
これは疾病史的事実である。
重篤な精神病患者でさえ、死期が近づくと正気に返る。
生体が危機のときに、メンタルな問題で悩んでいられるほど人間はタフな生物ではない。
危機的状況に陥った人間は使えるすべてのリソースを「とりあえず飯を食う、とりあえずセックスする、とりあえず眠る」といったプリミティヴな活動に集中させる。
当然、身体能力も向上する。
男たちはみんなぎらぎらした眼をして、ハリネズミのように皮膚の感度を上げて都会を歩くようになる。女たちは「サバイバル能力」の高い、生物的に「強い」男であることを、年収や学歴やルックスや趣味のよさよりも配偶者の選択において優先的な条件とするようになるだろう。
おそらく多くの日本人はそのようなしかたでの「日本の若者の野生化」を歓迎するだろう。
外形的には今の「へなへな」の若者たちよりはずっと「まし」に見えるからだ。
不登校や引きこもりやニートは「銃後の守り」という勤労義務への重大な違背とみなされ、厳しい社会的指弾を受けることになり、尻を蹴飛ばされて勤労動員される。
「産めよ増やせよ」と厚労省は叫びたて、結婚率は急上昇し、出産育児は国民の義務を履行する行為としておおいに奨励される。
家庭でも学校でも地域社会でも企業でも、「目上の人間の命令」に従うことの重要性が全社会的な合意を得て承認される。
家父長権は復活し、学校での体罰が許され、でれでれしている青少年は街のおっさんから「この非国民!」とすれ違いざまに張り倒されるようになる。
だって、指揮系統を無視するような兵士は戦場では射殺されて当然だからである。
おいおい、そう聞くと、なんだかすばらしい世の中が来そうじゃないか。
なんだよ、憲法改正ってぜんぜん悪くないじゃないか。
そう思う方々がたくさんおられることだろう。
おられるからこそ、改憲ムードがこれだけ高まっているのである。
私はそのような期待があることを理解できる。
理解できるが私は改憲には反対である。
私は改憲して「サバンナのシマウマ」になるよりは平和ボケしたまま「動物園のシマウマ」でいることの方が100倍もハッピーであると確信している。
このことはあらためてきっぱり申し上げねばならない。
その理由を申し上げる。
このムード的改憲には重大な瑕疵があるからである。
それはこの改憲機運は「戦争が起こりそうになるけれど、実は起こらない状態から得られるベネフィット」のみを勘定して、「戦争がほんとうに起こってしまった場合のロス」については何も考えていないからである。
あるいは百歩譲って戦争が起きた場合でも「日本では起こらない」ということを不当前提しているからである。
誰でもいい、そこらにいる改憲論者を捕まえて、「あなたは『戦争』というとどんな情景を想像しますか?」と訊いてみるといい。
彼らはおそらく反射的に、中東の砂漠や中米のジャングルでのゲリラ戦や、アジアやアフリカの都市での市街戦や、シーレーンや領海付近での海戦のようなものを思い浮かべるだろう。
「戦争の被害」ということばからはベトナムやイラクでの非戦闘員の子どもや女たちの泣き顔を想起するかもしれない。
彼らが決して想像しないのは、「猛火に包まれた東京」や「略奪される自宅」や「敵兵にレイプされる妻や娘」の姿である。
戦争は「ここではないどこか」で起こるものであり、戦争で破壊されるのは「日本ではないどこかの都市」であり、戦争で殺されるのは「自分ではない兵士たち」である。
自分たちはテレビやネットで戦争報道にどきどきしたり、戦争がもたらすさまざまな利得を享受するだけであると改憲派諸君は信じている。
どうして、戦争が起こったら自分が殺され、自分の街が破壊され、自分の財産や自由が奪われるという想像がなされないのか?
理由は意外に簡単である。
それは改憲派の諸君が「戦争」という言葉を使うとき、それは「アメリカ人が『戦争』という言葉を使っているときの意味」で使っているからである。
『街場のアメリカ論』でも書いたことであるが、アメリカは戦争において他国軍に侵略された経験をほとんど持たない。
例外はシッティングブル率いるスー族にカスター将軍の第七騎兵隊が全滅させられた事件と真珠湾だけである。
ただし、スー族はその後帰順してアメリカ国民となったし、真珠湾は併合されたばかりのはるか太平洋の彼方のハワイ島でのできごとであった。
アメリカ人にとってそれ以外の戦争は米墨戦争も米西戦争も第一次世界大戦も太平洋戦争も朝鮮戦争もベトナム戦争もソマリアも湾岸もアフガニスタンもイラクもすべて国境線の外側での戦争である。
だから、アメリカ人はアメリカ領土内で、アメリカ国民を対象とし、アメリカ人の生命財産自由を奪うために行われる戦争というものを想像する習慣がない(911は「テロ」であって「戦争」ではない)。
アメリカ的な「戦争」概念は一種の民族誌的奇習にすぎないのだが、わが国の国際関係論や外交問題の専門家たちはこの特異な「戦争」概念を無批判に「一般解」として受け容れている。
平和憲法の「戦争の放棄」でさえ、「武力による威嚇又は武力の行使」を行いうる「主体」の側の決断としてなされるものであって、自らを戦争において「武力によって威嚇され、武力を行使される側」に擬して、「そのようなことは止めてほしい」と世界に向けて懇請しているわけではない(アメリカ人が採択した文言なのだから当たり前だが)。
「戦争」を論じるときに、つねに自分を暴力の「主語」に措定し、暴力の「目的語」としての自分をまず優先的に考慮するということを「しない」というアメリカ人の習慣を私たちは自明のものとして60年生きてきた。
私に言わせれば、これこそが戦後60年間の「平和ボケ」の最悪の症候である。
私たちはあまりに平和に慣れてしまったせいで、「平和でない」というのがどういうことであるかを忘れてしまい、「たまには戦争もいいじゃないか」というような妄語を口走るようになってしまったのである。
愚かなことである。
結論を述べる。
現代日本のさまざまなシステム不調のかなりの部分が「日本人の生命力の低下」に起因することを私は認める。
生命力は「生命の危機」に際会すると爆発的に発現するという事実も私は認める。
その上で、私は「動物園のシマウマの退屈」を「サバンナのシマウマの興奮」よりも得がたいものだと思う。
平和は退屈であり、あまりに長く続く平和は人間を苦しめるというのはほんとうのことである。
けれども、その退屈や苦痛は、戦争がもたらす悲惨や苦悩とは比較にならぬものである。
「戦争ができる国」になることによって日本人が今以上に幸福になるだろうという見通しに私は与しない。
「九条第二項を廃絶したら日本人は今よりもっと幸福になれる」と確信している人がいたら(たくさんいるらしいが)、とりあえずまず、私自身が今よりどんなふうに幸福になれるのかについて私を説得していただきたいと思う。
話はその後だ。
投稿者 uchida : 2005年11月17日 15:19
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勉強不足は承知の上なのね。そもそもわかろうとしていないのよ。つらつらと考えていることの羅列になるな。よっぽどわかっている人に教えてもらいたいような話し。----... [続きを読む]
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『内田樹の研究室』「動物園の平和を嘉す」
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おっとサインインを待ってる間に不思議なことが起こりましたな。
それはさておき護憲論者はなぜ9条にしか興味を持たないのでしょうか?
と言うか9条が現状を維持されたらそれ以外の部分は大きく変わっても意に解さない印象を受けるのですが、そもそもそれって「護憲」なんでしょうか?
それにしても内田先生はホンマにヤン・ウェンリーだよなあ。
投稿者 mamodolian
: 2005年11月17日 15:35
単純なミスの指摘だけ。真珠湾はオアフ島にあります。
いつもサインインをして一回閉じて再開しないとサインイン
できません。そのようにプログラムされているのかな?
52年間生きてきてわかったのですがわたしの未来を見る能力はかなり当たります。運命は選べる物と宿命とあります。
わたしが一戸建てに住むと戦争がおこるのですが、マンションでは戦争はありません。今ハマンションにすんでいます。
夫は一戸建てに住みたいようですが、ちょっとねと私は思っています。なぜかはわかりませんがそのような夢を見るのです。
今日プラトニックラブの人と別れました。その人は私の運命の人でしたが、23歳のとき疲れ果てていた私は守護霊があと「4,5年待ってあげなさい。修行中だから」といわれても「その人じゃないでしょ」と注意された人と結婚しました。やはり肉体的にも精神的にもちぐはぐでうまくいきません。
それでとうとう去年「運命の人に一度でいいので出会わせて」とお願いしました。会いました。すぐにわかりました。彼は私より8歳年下でした。それで5年もまたなければならなかった訳がわかりました。お互いに子どもが二人いてこの次いっしょに住めるのはわたしが69歳くらいになって彼が自分の起こした縁の責任を果たした時です。わたしは去年果たし終えました。彼は7年前に結婚しましたので、子どもが小さくて60歳くらいにならないと責任を果たせないのです。出会える場所にいつもなぜか避けていかなかった私。もう死んだと思ってあきらめることにしました。3年間くらいしんどいと思います。仕事に打ち込もうと思います。
投稿者 .おきつひめ
: 2005年11月17日 20:04
えー、どうもすみません。アップしたあとに誤植があったので、修正したらさっぱり画面が変わらないので、一度削除してからアップロードしなおしたら、私がアップしてから再アップするまでの間に書き込んだコメントがひとつ消えてしまったようです(わずか5分間くらいのできごとだったんですけどね)。消えてしまった人がたいへんお怒りになって、「自分に都合の悪いコメントを消すような人間なのか」とTBしてましたけど、ごめんなさい。読む前に間違って消しちゃったんです。
ほとんどの読者はご存じのことと思いますが、私のブログでは私を批判する書き込みであっても削除はいたしません(反論を掲示板から削除したら、ネットで言論を公開している意味ないですからね)。
これからもどんどん批判を書いて下さっていいですよ。
論の当否を判断するのは私じゃなくブログの読者たちの仕事ですから。
投稿者 uchida
: 2005年11月17日 20:28
>内田先生
コメントの削除などなさるはずが無いので、おかしいな???と思っていました。ブログ運営というのは大変ですね。
「この程度のコメントをいちいち削除するようなら、ブログなんて書かなければいいじゃないですか」などと、ひどい言われようですが、
「管理上・技術上の問題に想像力が至らないなら(or少なくとも状況が明らかになるまで待てないなら)、ブログなんて利用しなければいいじゃないですか」という感想を抱きました。
>おきつひめ
以前も他人のコメントにチェック入れる為だけに発言したので心苦しいのですが、誤爆ですか?
ところでアメリカ人の戦争観に南北戦争や独立戦争は影響してないのでしょうか。
ちょうど『空白の五分間』にあたってしまったのでしょうか、四時ごろお送りしたトラックバックが消えてしまっていたのでもう一度お送りします。
もし的外れな文章だと判断しての削除だった場合は再度はずしていただいてかまいません (もちろんこのコメントも
投稿者 Mt.Baca登頂隊
: 2005年11月17日 21:35
「戦争ができる国」になることによって日本人が今以上に幸福になる、ことはないかもしれませんが、日本政府が独裁政権中共に過度に譲歩し、日本国民の幸福度を今よりも低くする可能性だけは確実に低くなります。日本人を拉致する、力だけを信奉するごろつき集団を目の前にしているときには、やはり最低でも自動小銃くらい手元にあると少しは安心できると思いますが。安全の問題は「より幸福になるかどうか」について議論することではなく、「より国民の不安を軽減できるかどうか」と問うことによって答えられます。「防衛=セキュリティ」の問題を「幸福」の問題にすり替える最初の問いの立て方がそもそもおかしいと思います。
コメントが確認でき次第、直ちにリンクを張っているエントリーの方は削除させていただきます。
投稿者 wnm
: 2005年11月17日 22:03
wnmさん
傍から見ていて気分を害した読者として一言。
見事に無かったことにしてるんですね。ことの顛末くらいは自サイトの片隅にでも書いておくのが良心ってものじゃないでしょうか。
削除までの間にあなたのサイトを見た人が誤解したままであっても知ったことじゃないというわけですか。
都合が悪くなった記事を全部無かったことにしたいなら、ブログなんて書かなければいいじゃないですかと私などは思いますが、
むしろ都合が悪くなった時に「訂正」ではなく「全部抹消」できるのがブログの利点だとお考えなんですね。
また、ご自分の勘違いから一方的にずいぶんなことをおっしゃってましたけど、その点への言及は一切無いんですね。
内田先生は謝罪など求めもしないでしょうが、その事に甘えた態度はあまり見られたものじゃないですよ。
改憲の一番のメリットは、自衛隊の存在が「違憲の疑いがかかる状態」でなくなることです。
護憲を叫ぶ方々は、万が一日本が侵略されたときは、自衛隊員の方々に「違憲の疑いがかかる状態」のまま、命を掛けて防衛にあたれと言うのでしょうか。
それとも、9条2項があれば日本が侵略されることなどないと言うのでしょうか。
また、一般に改憲論者は、「もしも日本が侵略されたら・・・?」という論法を用います。
なので、「どうして、戦争が起こったら自分が殺され、自分の街が破壊され、自分の財産や自由が奪われるという想像がなされないのか?」というご批判は当たらないと思います。
投稿者 grebe
: 2005年11月17日 23:36
日本がなんとか生き残るために九条二項は必要です。
世界の超大国がパワーに物を言わせて存在感をアピールするとき、普通の国の日本が同じ軍事力で参加するのは街の蕎麦屋が借金でマクドナルドと安売り競争をするようなものです。
日本が世界にその存在感をアピールできるのは「安全」だけです。もともと持っている、歴史的地理的有利さ(地理的、宗教的、民族的なものを含んで)はヨーロッパにもアメリカにもアジアのほかの国も持たない特徴です。
それを「ウリ」にするための最大の、とどめの武器は九条です。
意識的に利用するべきであり、ここで国際的協調という名目でこれを捨てるのは、良心的にやってきた街の蕎麦屋が、安売り競争のために味を落とすのと同じです。やがて、特徴のない安店として消えていくでしょう。
九条は国のお守りではありません。これは国家経営のリスクのとり方です。リスクの無い経営はありえないように世界を見ても国家の選択にリスクをとらない国なんてありえません。
九条は確かに国際関係の中で一方のリスクを要求します。それを恐れてはいけない。
それを承知の上で、こちらを取るのが、日本という国にとってはよい選択だと思っています。
もし、本当に9条2項によって、「平和」と「幸福」がもたらされるというのならば、どうして『国連憲章』(あるいはその他の「地域的取極」など)には、それが規定されることはないのでしょうか?日本以外のすべての国々は、そんなことすら分からないほど愚かなのでしょうか?
投稿者 truely_false
: 2005年11月18日 00:40
海外旅行に行く時、あるいは家に金庫を据えつける時、私達は必ず貴重品を分散して持ちます。それはリスクを分散するためですが、九条第二項の廃絶はむしろ日本のリスクを一極集中する結果につながる、と考えられます。
と言うのも、戦争を始めるよりも終わらせるほうがはるかに難しい事ですが、九条第二項の廃絶の結果としての戦争状態を、どのように終わらせるのかについて、改憲を旨とする方の口からあまり聞いたことがない為です。
政治交渉の破談の結果として生まれる戦争状態を、どの政治家がどのような交渉術によって収束させるのか、明確に見えて来ない。終戦後に日本のインフラを立て直しうる経済計画は立てられるのか、終戦後のアジア外交を再建するのにどの位の年月がかかるのか、試算が立てられるのか。
改憲を言う前に(次の)終戦について考えられていなければ、改憲の必然として起こりうる複数のシナリオをあらかじめ描けていなければ、あまりに地に足がつかない。現実を思考の埒外に置いている。
改憲論が、「敵国と仲良くするために軍隊を」というのであれば、筋が通りますし納得もできます。それは、戦闘が最小に留めるべきものでありそれ以上は交渉によってのみ事を為す、という計算の表れだからです。戦争のリスクを、軍隊と交渉に適宜分散させる考えと言えます。
しかし、「敵国との交渉よりも軍隊を」との論理で語られる改憲論は、戦闘回避のためのぎりぎりの努力を放棄させ(だって交渉破談しても軍隊という「二の矢」があるのだから)、終戦の青写真も持たないまま全てのリスクを軍隊によって処理しようとする考え方です。
それは、貴重品はホテルに預ければ大丈夫・財産一式は頑丈な金庫に入れておけば安心、という脆さに似たものがあります。
投稿者 このきんつばのうまいこと
: 2005年11月18日 02:22
海外旅行に行く時、あるいは家に金庫を据えつける時、私達は必ず貴重品を分散して持ちます。それはリスクを分散するためですが、九条第二項の廃絶はむしろ日本のリスクを一極集中する結果につながる、と考えられます。
と言うのも、戦争は始めるよりも終わらせるほうが難しいですが、九条第二項の廃絶の結果としての戦争を、どのように終わらせるのかについて、改憲を旨とする方の口からあまり聞いたことがない為です。
政治交渉の破談の結果として生まれる戦争状態を、どの政治家がどのような交渉術によって収束させるのか、明確に見えて来ない。終戦後に日本のインフラを立て直しうる経済計画は立てられるのか、終戦後のアジア外交を再建するのにどの位の年月がかかるのか、試算が立てられるのか。
改憲を言う前に(次の)終戦について考えられていなければ、改憲の必然として起こりうる複数のシナリオをあらかじめ描けていなければ、あまりに地に足がつかない。現実を思考の埒外に置いている。
改憲論が、「敵国と仲良くするために軍隊を」というのであれば、筋が通りますし納得もできます。それは、戦闘が最小に留めるべきものでありそれ以上は交渉によってのみ事を為す、という計算の表れだからです。戦争のリスクを、軍隊と交渉に適宜分散させる考えと言えます。
しかし、「敵国との交渉よりも軍隊を」との論理で語られる改憲論は、戦闘回避のためのぎりぎりの努力を放棄させ(だって交渉破談しても軍隊という「二の矢」があるのだから)、終戦の青写真も持たないまま全てのリスクを軍隊によって処理しようとする考え方です。
それは、貴重品はホテルに預ければ大丈夫・財産一式は頑丈な金庫に入れておけば安心、という脆さに似たものがあります。
投稿者 このきんつばのうまいこと
: 2005年11月18日 02:29
"Which image the word 'protection' brings to mind depends mainly on our assessment of the reality and externality of the threat. Someone who produces both the danger and, at a price, the shield against it is a racketeer."
"Apologists for particular governments and for governments in general commonly argue, precisely, that they offer protection from local and external violence. ……They call people who complain about the price of protection ‘anarchists,’ ‘subversives,’ or both at once. But consider the definition of a racketeer as someone who creates a threat and then charges for its reduction. Governments’ provision of protection, by this standard, often qualifies as racketeering. To the extent that the threats against which a given government protects its citizens are imaginary or are consequences of its own activities, the government has organized a protection racket. Since governments themselves commonly simulate, stimulate, or even fabricate threats of external war and since the repressive and extractive activities of governments often constitute the largest current threats to the livelihoods of their own citizens.”
Charles Tilly (1985), “War Making and State Making as Organized Crime”, in Bringing the State Back In, edited by Peter R. Evans, Dietrich Rueschemeyer, and Theda Skocpol, Cambridge University Press, pp. 170-171.
投稿者 george_lim
: 2005年11月18日 02:58
"Which image the word 'protection' brings to mind depends mainly on our assessment of the reality and externality of the threat. Someone who produces both the danger and, at a price, the shield against it is a racketeer."
"Apologists for particular governments and for governments in general commonly argue, precisely, that they offer protection from local and external violence. ……They call people who complain about the price of protection ‘anarchists,’ ‘subversives,’ or both at once. But consider the definition of a racketeer as someone who creates a threat and then charges for its reduction. Governments’ provision of protection, by this standard, often qualifies as racketeering. To the extent that the threats against which a given government protects its citizens are imaginary or are consequences of its own activities, the government has organized a protection racket. Since governments themselves commonly simulate, stimulate, or even fabricate threats of external war and since the repressive and extractive activities of governments often constitute the largest current threats to the livelihoods of their own citizens.”
Charles Tilly (1985), “War Making and State Making as Organized Crime”, in Bringing the State Back In, edited by Peter R. Evans, Dietrich Rueschemeyer, and Theda Skocpol, Cambridge University Press, pp. 170-171.
投稿者 george_lim
: 2005年11月18日 03:00
......Since governments themselves commonly simulate, stimulate, or even fabricate threats of external war and since the repressive and extractive activities of governments often constitute the largest current threats to the livelihoods of their own citizens, many governments operate in essentially the same ways as racketeers.
投稿者 george_lim
: 2005年11月18日 03:10
私も護憲派です。このブログを見るようになって、世の中広くなった気がしています。
だからでしょうか、今回の先生の護憲に関するご意見、何故か説得性がないと感じます。
ヒトこそ動物園に入って自己管理すべき種なのかも。
ヒトの平和も檻の中で達成されるのかもしれないですね。
わたしもおっしゃることには全く賛成な者でございますが
戦時中の社会にうんぬん、のくだりはホントなんですか?
コンラート・ローレンツなんか読むと、むしろ逆の印象を
受けてしまうのですが・・
戦争になると
1)神経症は減るが精神病は増える
2)負け戦になったり戦争が終わると、父の名による補填
が難しくなるので、一時的には有効であるが危険な賭
3)みんながイカレタ人殺しなので、目立たなくなるだけ
このへんが妥当な解釈ではないかと思うのですけど。
コンラート・ローレンツ←誤り
正しくはクラウス・コンラートでした
> 管理上・技術上の問題に想像力が至らないなら...
直接そのTB元のエントリ読んだわけでないのであれですが、通常ブログでエントリを投稿した後に誤植に気がついたような場合、「削除」→「再投稿」という手順よりも「編集」→「再構築」という方法を取ることの方が一般的であるように思います。エントリを削除する際にそのエントリにコメントがついているかいないかは確認できますし。もちろん内田さんがうっかりコメントを見逃してしまっただけで悪意があってのこととは思いませんが、コメントを消されたと誤解してしまうのも仕方ないかと。(その反論内容や調子がどうとかはともかく。。。)
投稿者 etecoo
: 2005年11月19日 01:39
>etecoo
あ、どうも。
私達は「内田先生が再アップのために消した」という正解を知ってしまっているわけですが、仮に知らないとして自分のコメントが3分後に消えてしまった場合を考えてみましょうよ。
私なら、「自分が書き込んだ直後にブログ主がたまたま自分のコメントを読み、不快に思って脊髄反射的に削除したのだろう」とは断定できません。システム上の問題など、ブログ主が関与していない可能性も十分あるわけですから。
こうした可能性を「管理上・技術上の問題」と言いましたけど、自身でもブログを持っている人ならばこういう方向にも想像力が届くのがむしろ自然じゃないですか?
その後の対応も疑問です。
怒りに忘れたのかもしれませんが、自分のコメントが消えたのかを確認する作業もせず、ほとんど暴言に近い内容を書いていたわけですから(その後nm氏は何故かTypeKeyにログインできなくなったみたいなのですが、これも内田先生が手を回したからだろうなどとも書いています)。
この点については読んでないとのことなのでしかたないですが、それにしても普通なら少なくともある程度の時間待ってみるなり、質問状(メール)を送ってみるなりしませんか?自分の勘違いかもしれないんですから。
わたしにはこの問題はよく考えたことはないのでわかりません。
しかし先生が改憲派に感じておられる違和感と同様に、わたしも護憲派に感じる違和感のようなものは常にあります。
まず、平和憲法が平和を担保しているのか?改憲すると「戦争を引き寄せるのか?」という部分です。
>また、一般に改憲論者は、「もしも日本が侵略されたら・・・?」という論法を用います。
なので、「どうして、戦争が起こったら自分が殺され、自分の街が破壊され、自分の財産や自由が奪われるという想像がなされないのか?」というご批判は当たらないと思います。
Globeさんのレスにもあるような部分です。
基本的には、平和憲法ができてから戦争はおきていない、だから無用ないじりはしないほうがいい、いじれば悪いほうに扉を開くだけである、変えれば良い方向へ行くどころか最悪の方向へ行く可能性がある、ということでしょうか?このあたりはちょっと論理的な説得力が弱いと思います。
大前提として、「平和憲法を日本が死守しつづけるならば、他国がそれを尊重して、侵略してくることはありえない。」という仮説が成立するのであれば、断固護憲するべきだと思います。また、平和憲法を捨てると、国民の意識がその開戦の可能性という扉に意識が放たれる、他国もほら日本は平和憲法を捨てたじゃないか攻め入ってもかまわない、そういった国内外の総体的な意識の変化というデメリットは無視できないと思います。
しかし、以前もここで指摘させていただいたのですが、「もしも」そういう平和憲法うんぬんまったく関係なしに、他国が攻撃を加えてきた場合どうなるのか?ということがあります。たとえ日本人の9割が改憲論者であろうと護憲論者であろうと、日本人の主体的な意識とシステムとは関係ないところで、攻撃が加えられたら?とうことです。たいがいの人は護憲論者も含めてアメリカ空軍のF15が活躍している絵を脳裏にうかべます。結局軍事力というものに担保されている安全のようなものを想起して安心する人が多いと思うのですが、もし同じひとが自衛隊、日本独自の戦力の保持の明文化に対して全否定的ならば、ここに矛盾があります。
なにか皆が意識できない、気づかない微妙なバランスでもって、そういう矛盾が戦争を「引き寄せない」、だからその微妙なバランスを崩壊させないために現状維持の護憲が正しい、そういう可能性もありだと思います。しかし、改憲派の目から見れば、それは地震が起こりうるのに耐震構造のない建物をたてて、耐震構造みたいなことをするから地震が起こるのだよ、といわれていることと等価であったりもします。単にI hopeという危機管理の欠如に聞こえたりもします。
簡単にまとめさせていただくと、
護憲派の論理の鎖:
もし改憲すると?→(戦争を引き寄せる)→戦争勃発
改憲派の論理の鎖:
戦争勃発→(それにどう対応、法体制を整備しておくか)→改憲しておくべき!
ということになると思います。
平和ボケとは、言い得て妙ですね。
>「「戦争」を論じるときに、つねに自分を暴力の「主語」に措定し、暴力の「目的語」としての自分をまず優先的に考慮するということを「しない」」
国家と「私」を同一視するならともかく、そうでないなら、戦争が「起きた」ところの当事者としては、後ろから飛んでこようと前から飛んでこようと、鉛の弾の持つ意味は同じ、といった所でしょうか(敵と味方という言い方すら、既にそこに「主語」を入れたアメリカ的思考が入っているとも言えますね)。
勝ち負け以前に、戦争に至った時点で、ある意味負けな訳である、と。
ところで、先日、TVタックルという討論番組の憲法改定を扱った回で、ビートたけしが、汚い現状維持派などと自称していました。
考えてみれば、現状、実質的な軍隊の保有と、平和憲法を遵守していますという大義名分の並存は、アメリカへの外交上のスタンスの担保と、戦争に至った場合の再軍備への担保となってるのですね。
もちろん、そこで盾代わりにされているのは、動物園で平和を嘉している動物ならぬ国民たちですが。
更に言えば、平和憲法を遵守していた国への武力による攻撃という事態は、自衛隊を国軍として再編成する為の大義名分となりますし、無辜のまま殺された同胞たちの怨嗟の声と共に、まさに挙国一致体制ができあがるでしょう(この辺は、内田先生の受け売りですが)。
まぁ、抜かずの刀としては、これ以上に怖いものもない気がしますね、確かに。
とはいえ、抜かずの刀を抜かないままでいるのは、誰にとっても不安以外の何ものでもありませんし、ばっさり抜いて、正義の刀を振りかざすのも「アリ」でしょう。
それに、こうした矛盾をはらんだままの状況(自衛隊の違憲状態)を利用するのは、確かに、ビートたけしが言うように「汚い」のでしょうし、もっと明確に普通の国にした方がいいという意見は、それはそれでスッキリします。いろいろためらうことも無くなるでしょうし。
ただ、実際、抜いたら抜いたで、そうした状況をきっちり統制できるものかどうか。逆説的ですが、外圧と解釈で自衛隊を海外まで派遣し得た以上、よっぽどの縛りがなければ、フリーハンドで何でもできそうですしね。
まぁ、行政府・立法府がしっかりしていれば、フリーハンドを渡しても安心なのですが……ううむ。
……そうか、護憲派って、人間不信だったんだ。
>KEN
護憲派、改憲派のまとめはそれでいいとしても(大雑把過ぎるとは思いますが)
内田先生は、
論理的にすっきりする2つの立場、すなわち
①平和憲法を徹底し、自衛隊の方を廃止する(そうすれば大丈夫)
②軍隊を持った普通の国になるために憲法を修正する(そうすれば安心)
、のいずれにも与せず、
①一方で平和憲法を持ち、他方でグレーゾーンの自衛隊を持ってきたことが(及び安保とか在日米軍が)、矛盾関係にありながらも車の両輪のように日本を戦争から遠ざけてきたし、とりあえず現在もその条件は変わっていない
というお考えではありませんでしたっけ(今も特に変わってなければ)。
いや、あなたのコメントが内田先生の意見に対するものではなく一般的な護憲派についてこの場を借りて述べただけのものというなら、私の言ってることには意味は無いのですが、
仮に内田先生の意見に対するものでもあるのだとしたら、護憲派の多数派に内田先生を加えてしまうのは、ちょっと乱暴かなと思いましたので。
>Kym
>……そうか、護憲派って、人間不信だったんだ。
って、「立憲民主主義」「三権分立」なんかを見ても、およそ人間不信を前提にしない制度なんてないじゃないですか(笑)。
人間不信を基礎にしたらまずいと言うわけじゃないですよね。
>KEN
護憲派、改憲派のまとめはそれでいいとしても(大雑把過ぎるとは思いますが)
内田先生は、
論理的にすっきりする2つの立場、すなわち
①平和憲法を徹底し、自衛隊の方を廃止する(そうすれば大丈夫)
②軍隊を持った普通の国になるために憲法を修正する(そうすれば安心)
、のいずれにも与せず、
①一方で平和憲法を持ち、他方でグレーゾーンの自衛隊を持ってきたことが(及び安保とか在日米軍が)、矛盾関係にありながらも車の両輪のように日本を戦争から遠ざけてきたし、とりあえず現在もその条件は変わっていない
というお考えではありませんでしたっけ(今も特に変わってなければ)。
いや、あなたのコメントが内田先生の意見に対するものではなく一般的な護憲派についてこの場を借りて述べただけのものというなら、私の言ってることには意味は無いのですが、
仮に内田先生の意見に対するものでもあるのだとしたら、護憲派の多数派に内田先生を加えてしまうのは、ちょっと乱暴かなと思いましたので。
>Kym
>……そうか、護憲派って、人間不信だったんだ。
って、「立憲民主主義」「三権分立」なんかを見ても、およそ人間不信を前提にしない制度なんてないじゃないですか(笑)。
人間不信を基礎にしたらまずいと言うわけじゃないですよね。
消えた方の『動物園の平和を嘉す』もリンクが外されてるだけで、データ自体は残ってるみたいです。
わたし達が『DEAD LETTER』からトラックバックした時にはったリンクはまだ旧いほうに繋がってました。
2005年11月17日 13:52でwnmさんのコメントがあるほかに2005年11月17日 14:59に『歴史の闇 毛沢東と「長征」 from 言語学研究室日誌』からのトラックバックがありました、ほかはウチダ先生が文章を訂正なさってるだけです。15:10にわたし達がトラックバックしたあとmamodolianさんが15:35にコメントするまでのどこか五分間でTOPページからのリンクが消えたんですね、きっと。
最近ダブルエントリーを何回かみかけましたし、寒くなってきたのでシステムも調子を崩してるんでしょうか〆
投稿者 Mt.Baca登頂隊
: 2005年11月19日 17:45
外国に侵略されるという危機感の拠り所となる情報がどの程度の正確さで国民に知らされており、また国民が認識しているのかよく分からないけど、先の日記で内田先生が書かれている通り、知らないということは攻撃される隙を作るという辺りに議論の不毛さがあるのかも知れない。
「人間不安に苛まれて切羽詰ると人が変わってしまう」ということは半ば真実のような気がする。
最近に置ける内田先生の対談本でも「中腰の姿勢を保つ」というような生体(主に頭)の防衛反応を抑えるような方策が見られる。
K.ローレンツによると動物の攻撃本能でも「ここまで近寄られるとやばい、攻撃しよう」という限界が設定されているらしい。
その辺のことが分からない辺りが「平和ボケ」なのか知らん。
投稿者 daiaku
: 2005年11月19日 17:54
>MMRさん、
もちろん護憲改憲派の論理の鎖というのは、そもそも護憲派改憲派のなかでもいろんな立場もあるでしょうから、あくまで最小公倍数的な分析です。
内田先生の立場の詳細は私はよく認識していないのですが、少なくともこのエントリの「改憲派」に対する批判は、MMRさんが内田先生をその護憲派の多数に加えるのは乱暴だとおっしゃる意味と同様、乱暴であると思います。
この問題を論じるときに話がまったく噛み合わない理由のひとつとして、私が書いた双方の論理の鎖の事前事後の概念を前もって整理しておきある程度その概念の合意と焦点を明確にしないと何がなんだかわからなくなるということです。
基本的に、護憲派は、改憲派を最悪の事態になったときへの想像力、危機感、過去の痛みへの反省の欠如を指摘して、馬鹿か?と言います。事前に意識を集中しています。
一方、改憲派は、じゃあ護憲してれば安泰という根拠は?いざ非常時になったらどうするの?そのときになって、ああ前もってこういう事態に対処できる法整備をしておけばよかった今あわてても遅いとなったらどうするの?馬鹿か?と言います。事後に意識を集中しています。
少なくとも今回の先生のエントリは上の文脈における改憲した場合の事前のある想定される部分においてのみ書いておられております。さらに個人的には政府産業界の陰謀論的な部分はどうかな?と思いました。そういう側面はもちろんゼロではないでしょうが、当事者は危機管理としてやるべきことは今のうちやっておくという意識も強いと思います。
まあ政治全般、この前の郵政民営化のときもそうですが、こういう問題を「シミュレーション」すれば、それぞれの道を選択した場合のシミュレーションなんて両者のそれは好き勝手なシナリオが展開できます。
シミュレーションする場合には、想定される幅というものくらいは把握できて、最良の場合、最悪の場合という両端の値くらいは出せます。危機管理というのはその最悪の場合を想定して何か準備をしておくことですが、これが改憲派の論理にあたると思います。一方、護憲派の論理は、そういう最悪のケースを想定して体制、準備を整えるから結局その最悪のケースを引き寄せることになる、だからそんなことはしないほうがいい、といったことでしょうか?
私はみなさんが指摘されるように、矛盾なんぞあってもたいした問題ではないと思います。ずるずるこのままいけるのなら、自衛隊が違憲であろうが合憲であろうが、そんなもんはたいした問題ではない。問題は、交戦権を認めないということはその最悪の事態を想定した場合、危機管理、つまり国民の生命財産を守るうえで足かせにならないのか?なるだろうから改憲の動きがあるのではないか?というリスクと、交戦権を認めると戦争ができるようになるから戦争が実際に起こる可能性がなんやかんやいっても高まるだろうねというリスクの兼ね合いをどうするのか?ということです。
>KEN
>内田先生の立場の詳細は私はよく認識していないのですが、
あ、それならどうでもいいんです。一般的な話って事ですね。どうも。
それ以下のには特に読むべきところが(私にとって)無かったので、コメントは無しで。
ところで「最小公倍数的」というのは、本当は「最大公約数的」とおっしゃりたかったんじゃないですか?
最大公約的という言葉は、概ね「複数の対象の共通項を取る」というような意味だと思うのですが、
それに対応する最小公倍数的という言葉は「ある項目が複数の対象のうちいずれかに該当すれば全体の要素とする」という意味になると思います。
そうすると、「乱暴な一括り」と(そういう手法に対して肯定的か否定的かのニュアンスの違いを除いて)区別できないことになるので、
自分の改憲派のまとめ方を「最小公倍数的分析」と言う一方で、内田先生のまとめ方を「乱暴」と言う場合、
「やってる事は同じだが、こっちは良くて向こうは悪い」というなんだかよくわからないことになってしまうからです。
ちなみに内田先生はしばしばこうした最小公倍数的手法(というかポラライズですね)と使いますけど、私はあんまり上手い使い方だと思っていません。
だから、KENさんが「乱暴」だと言ってる気持ちはよく理解できるのですが、それにしてはご自身もあっさり同じ事をしてるように見えるなあということで、最初の指摘をしたまでです。
>それ以下の「文章」には、
ですね。「」内が抜けてて意味不明でした。あと、最大公約「数」的。
えーとすみません。なぜ喧嘩を売られているのかよくわからないのですが、何かお気に触ったことでもあったのでしょうか?
私もコメントを読み返して、最大公約数と最小公倍数のことはすぐ気がついたのですが、誤字の訂正できるシステムでなかったことと、あえてコメントを足すまでもないと思い放置しました。
こういう揚げ足取り的な議論はまったく興味深いものではないし、読む方々もまたかつまらないと思われるだけなので、できたら、改憲護憲の本論の方でコメントしていただくほうが「まし」になると思います。ああ読むべきところがないということですね。それならスルーしていただいて結構です。
うーんもうちょっとだけ書かせていただこうかな?
>それはこの改憲機運は「戦争が起こりそうになるけれど、実は起こらない状態から得られるベネフィット」のみを勘定して、「戦争がほんとうに起こってしまった場合のロス」については何も考えていないからである。
内田先生のこのご発言ですが、さらりと読み流してしまうと、一見、戦争勃発後のことを勘案して書いておられるようにみえますが、実は戦争までのプロセスについて書かれており、戦争勃発後はカオスとしてシステム外の事象として認識されているように思います。つまりエラーが起こればそこでお終いなんだ、システムとしては破綻するんだという強い終末観、危機感というものを私はそこに読み取ります。これはおそらく一般の護憲論者にひろく共通した意識ではないかと私は想像いたします。
一方、改憲論者は、たとえば有事法制といった言葉に代表されるように、有事、つまりエラーが起こってしまった場合、いかにそのエラーをカオスとしてではなく、システム内で処理するかということ、戦争勃発後のプロセス(交戦権を明文化するなどの法体制の整備)について書こうとします。そこには、終末観というよりむしろ、日本を法治国家としての枠組み、システムを維持しながらいかに存続運転していけるか?という意識が強いと思います。
わたしはどちらがどうとは申しません。戦争というのは狂気だと思うので有事になればシステムも何も、特に当事者の国民にとってはどうでもいい、というのは内田先生が語っておられることに100%同意なのです。しかし一方で、もうだいたいこの問題での文脈ではずばり中国なのですが、ああいう日中中間線の石油採掘問題でさえ軍艦を出してきて海上自衛隊の機体へ砲身を向ける、このような状況においてお守り化している9条をどこまで有事後のリスクをのんでまで信奉できるのだろうか?とその実効力に疑問を抱くのも事実です。私はということで現在消極的改憲論者でありますが、内田先生をはじめとする護憲論者にお願いしたいことは、戦争が起こったら悲惨ですよと説いていただくことではありません。なぜなら、今わたしが指摘させていただいたように、ボタンの掛け違いが起こっているのはその部分ではないからです。それよりも、現在の矛盾をはらんだバランスがいかに実効的に「戦争を遠ざけている」のか?という説明と、有事後の交戦権なし、ある意味法的にはフリーハンドの正反対のノーガードと言ってもいいかもしれませんが、これが国民の生命財産を守るうえでこのノーガード法制がたいした問題ではないのか?という部分に対しての説得だと思います。
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