9月17日
午前10時にベッドに戻る。眠りに落ちかけるたびに電話が鳴り、宅急便が届き、なかなか眠れない。
11時ころにようやく眠りに落ち、1時半まで眠る。
2時に『AERA』のI川記者がインタビューに来るのでベッドから身を引き剥がし、シャワーを浴びて目を覚ます。
お題は村上春樹の新作『アフターダーク』。
『AERA』?と不思議に思われるだろうが、『AERA』のコア読者層(30代女性)はムラカミファンとまるっとかぶっているのである。
なるほどね。
どうして文芸批評家たちは村上春樹をあれほど嫌うのか、という話から始まる。
村上春樹の仕事を積極的に評価している批評家は加藤典洋さんくらいしか見あたらない。
あとの批評家の過半は「無視」または「否定」である。
『すばる』の蓮實重彦の発言を見せてもらったけれど、すごい。
「村上春樹作品は結婚詐欺だ」(そのときだけは調子のいいことを言って読者をその気にさせるが、要するにぼったくり)というのは、批評というよりほとんど罵倒である。
シンポジウムの締めでの蓮實の結論は「セリーヌと村上春樹ならセリーヌを読め、村上春樹を読むな」というなんだかよくわからないものであった。
別にセリーヌも村上も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。
そもそもある作家を名指しして「こいつの本は読むな」というのは批評家の態度として、よろしくないと思う。「まあ、いいから騙されたと思って読んでご覧なさい。私の言うとおりだから」という方が筋じゃないのかな。
批評家たちや作家たちがこれほど村上春樹を批判することに熱中するということは「村上春樹が評価される」ということと「批評家たちの仕事が評価されない」ということが裏表でワンセットになっているからである。
なにしろ、村上春樹は「批評というのは馬糞のようなものである」として、自作についての一切の書評を読まないことを公言しているんだから。
という世間話から始まって、「どうして村上春樹は評価されないのか」という根源的な問いへ進む。
もちろん、それは批評家たちの批評基準が、文学における「方法論的自覚」とか、「前衛性・革命性」とか、「自己剔抉の徹底性」とか、「被抑圧者のまなざしに肉迫」とか、そういう定型にいまだにとらえられたままだからである。
そのフレームワークから見れば、たしかに村上作品は「シティ文学」とか「リゾート文学」とかいうような、いかなる前衛性も革命性もないところの「知的消費財」にしか見えないだろう。
しかし、もし蓮實が言うように村上文学が単に現代日本の皮相な感性を操作するだけの「結婚詐欺」的なものにすぎないのだとしたら、彼の作品がまったく文化的なバックグラウンドを異にする各国言語に訳されて(フィンランド語訳まで出ているのだ)、アメリカの若い作家の中から「村上フォロワー」も登場しているという事実を説明することは困難になる。
蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。
私見によれば、村上文学がワールドワイドなポピュラリティを獲得しているのは、それが知的ヒエラルヒーや文壇的因習を超えて、すべての人間の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。
他に理由はない。
村上文学は「宇宙論」である。
その基本的な構図はすでに『1973年のピンボール』に予示されていた。
「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」。愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されないささやかな努力。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説が村上春樹に与えた最大の影響は「ライ麦畑のキャッチャー」というのがある種の人間にとって「天職」として感じられるという経験であったと私は思う。
村上春樹はおそらく青年期のどこかの段階で、自分の仕事が「センチネル」あるいは「キャッチャー」あるいは「ナイト・ウォッチマン」である、ということをおぼろげに感知したのだ。
『アフターダーク』は二人の「センチネル」(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のぎりぎりまで来てしまった若い女の子たちのうちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である。
彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。
でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による(deus ex machina)解決も期待できない。
センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚とか、そういうものは「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。
仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。
というのが村上文学の「教訓」である。
それだけだと、あまり文学にはならない。
でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。
この勤労者的エートスに支えられたルーティンと宇宙論がどうやって接合するかというと、もちろんそれは「うなぎ」が出てくるからなんですね、これが(何?「うなぎ」のことをご存じない?困ったなあ)。
ともあれ、私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。
それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。
明日から神鍋高原での合気道夏合宿。こんどは三日間PCのない生活です。ばいばい。
9月23日追記
『アフターダーク』はなんとなく『1973年のピンボール』と地下水脈でつながっているような気がしたので、『ピンボール』を読み返してみた。
そしたら、ありましたね。
「鼠」というのは、いわば「僕」の「ピュアサイド」というか「ダークサイド」というか「純粋さゆえの弱さ」を表象している登場人物である。
『風の歌を聴け』で「僕」が「鼠」の運命論にたいして「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」と反論するときに、「鼠」はことばを失ってしまう。
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。
「嘘だと言ってくれないか?」という懇請のことばを最後に、「鼠」は永遠に「僕」の前から姿を消す。
そのあとも、『ピンボール』にも『羊をめぐる冒険』にも「鼠」は繰り返し登場するけれど、「僕」とことばを交すことはもうない(『羊』のラストで「僕」の前に登場する「鼠」はもう死んでいる)。
その「鼠」が決定的にかつて「僕」といっしょに夏をすごした海辺の街から消えるのは『ピンボール』の終わり近くだけれど、彼が「僕」のいる世界から消えるのは、まさに「深い眠り」によってなのである。
これ以上は耐えられないというポイントを推し測って鼠は立ち上がり、シャワーに入り、朦朧とした意識の中で髭を剃った。そして体を拭き、冷蔵庫のオレンジ・ジュースを飲む。新しいパジャマを着てベッドに入り、これで終わったんだ、と思う。それから深い眠りがやってきた。おそろしく深い眠りだった。
そうやって「鼠」は「僕」の前から消えて、「別の世界」に行ってしまう。
そのようにして「鼠」を失ったことが「僕」の外傷的経験の核となる。
だから、『アフターダーク』では、眠り続ける女の横にすべりこんで、涙を流す人間を配したことは、「鼠」における「僕」の失敗を二度と繰り返さないという決意をこめた新しい「ナイト・シフト」なのだと私は思う。
『アフターダーク』と『ピンボール』にはもうひとつまったく同じフレーズがあった。気づいた人もいるかもしれない。
「おやすみ。」と鼠は言った。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたくさん水を飲めってね。」
投稿者 uchida : 2004年09月17日 23:53
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/410
このリストは、次のエントリーを参照しています: After dark till dawn:
» 抑うつ状態に落ち込んで・・・ from 小さなメモ帳
10月だというのに、「小さなメモ帳」のカレンダーは9月のままだった。9月8日以来、ずっと書いていなかったのか・・・ 先週末あたりから、ココロが落ち込んでいる。気持ちが暗く沈み、現状に対してあくまで厭世... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年10月05日 19:50
» アジカン暴発超幻想!アフターダークなピンボール from 書を捨てよ、隠れ家を出よう
アジカンの3rdアルバム「ソフファ」が発売されましたね。
早速、飛びつかんがごとくの勢いで、聞いてみました。
「うーん、こいつはまた、すごいことになってるぞ!!」
前作「君繋ファイブエム」の完成度があまりにも高かったので、
今作のクオリティーがどれくらいのも... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年10月23日 02:23
» http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/ed7af0d31e10dd77f2a8eddb7b1f4887 from Wein, Weib und Gesang
アンチエージングの書「デア・メガマン」は、前回の内分泌系に続いて、今回は昨今の脳神経学の研究成果から。ローマ人の詩「健全なる精神は健全なる身体に宿る。」を導く。... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年12月31日 23:24
» 「1973年のピンボール」と「ラバーボール」 from BUNGAKU@モダン日本
村上春樹の「1973年のピンボール」をとりあげて,柄谷行人という批評家が面白いことを言っています。「1973年のピンボール」というタイトルが,ノーベル賞作家大... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年04月01日 07:15
» アフターダーク 村上春樹 from 賢者の贈り物
最近は、寝る前に読む本と通勤で読む本という具合に分けて読んでいるのだが、「ア... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年04月11日 12:20
» [用語を知る] #反応性愛着障害 from 小さい声のために
RAD(Reactive Attachment Disorder) 無神経な多数の世話人による養育、ネグレクトや虐待などで引き起こされる、愛着欠如状態。 ... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年07月27日 14:23
» [児童間暴力・児童間性暴力] 【3】とある施設の取り組みとして from 小さい声のために
とある施設の『暴力の学習・連鎖』に対する取り組みを紹介します。 筆者:しろん(ペンネーム)児童養護施設 職員 http://blog.livedoor.... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年07月27日 14:25
» dating from dating
Links to dating sites [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年10月30日 05:11
先生、お帰りなさいませ♪
先生がいらっしゃらない日本は
「クリープを入れないコーヒー」(寒?)のようでありました。
超さびしかったです。
村上春樹も内田先生も好きです♪
販促活動も地味ながらしています。
「お掃除しなきゃ~友達に電話しなきゃ~」
投稿者 ととろん : 2004年09月18日 14:10
先生の村上春樹論(?)面白かったです!
私は村上春樹があんまり好きではないの
ですが、先生のHPを読んでそういえば、彼の作品が嫌な作品のわりに後々まで私の頭の中に残っているなと思い出しました。
読んでる時は腹が立って腹が立って、
「こんなもの文学じゃない」と思って途中から
飛ばし読みしたりするんですけど、しばらくして
から頭の中に彼の小説がふっと浮かんだり
するんです。(自分の中では許せない現象なんですけど・・・。)
村上春樹を読んだ後に先生が元気をもらう、という話も興味深い事でした!たいてい「大作」
だと思ったものは、読み終わった後その作品からなかなか抜けられなくてお掃除にも友人とのおしゃべりにも身が入らなくなるものだと思うからです☆
先生、これからも文学の話色々してください!
投稿者 青子 : 2004年09月19日 11:03
橋の上から子供を投げ落とした男の顔に超越的な邪悪さを感じずにはいられません、もはや人ではないのだと・・・、親として人としてそのような得体の知れぬものから身を守るために心得ておかねばならないことは、日々の暮らしの中の些細な事なんですね。
投稿者 にべ : 2004年09月19日 12:33
>>橋の上から子供を投げ落とした男の顔に超越的な邪悪さを感じずにはいられません
俺が彼の顔から感じたのはただ底なしの愚かしさだけで、「超越的な邪悪さ」はむしろ(皆さんから怒られるのは覚悟の上で)被害者の父親の「振る舞い」から臭い立ってきます。
それは本人の人格とはまったく無関係に、そして個々の事件とも無関係な、「なんとなくかったりーや」と言う気分、および振る舞い。こそが「邪悪」の侵潤をゆるすのではないかと、思えてなりません。
投稿者 mamoru : 2004年09月19日 19:03
わたくし、村上作品と言えば「スプートニクの恋人」しか読んだことがない、「お前は本当に文学部卒なのか」と言う疑問がわく読書暦ですが、振り返るとそういう邪悪さがテーマの小説を純文学意外で結構読んでた記憶はあり。根源的な邪悪さと言えば、先日刑執行されたTのことが思い浮かびます。彼自身が「根源的な邪悪」だったのではなく、その悪を自分の存在に受け止めて鎮められなかったことがあの惨劇の実体だったように思えます。刑執行で全てが解決したのかと言う声が残響して消えません…。
投稿者 山木 良祐 : 2004年09月20日 00:01
こんにちは。
「アフターダーク」を読んだ後、久しぶりに
「1973年のピンボール」を再読しました。
次の文章でひっかかりました。
「二人はすぐに食器を洗い、コーヒーを
立てた。」
そうか、1980年(刊行年)にはコーヒーは
まだ「立てる」ものだったか。
関東地区では「コーヒーを落とす」という表現が
ふつうになってきました。もちろんdripから
来ているのでしょうね。でも「立てた」か「点てた」か「淹れた」コーヒーのほうが少しだけ
美味に感じるのだけどなあ。
投稿者 三村和彦 : 2004年09月20日 00:33
こんにちは。
村上春樹が文芸評論家に評価されないことよりも、関東地区で「コーヒーを落とす」という表現が普通になった?ことに驚いています。「たてる」が一番しっくりし、「いれる」でもいいとおもうのですが。
「コーヒーを落とす」だと狭いドトール・コーヒーの店内でカップを落として割る、場面しか浮かびません。
すみません、くだらないところに反応してしまいました。
投稿者 kenyama : 2004年09月20日 17:14
コーヒーはどうするものか? 承前
瑣末な発見に反応してくださった方がいらした
ので、少し関東地区の大学生に調査を
続けました。
ある大学2年生のコメント。
あなたの言っていることは、少しだけ違うの。
「落とす」の正しい用法は、カフェで
客「コーヒー」
店員「今落としておりますので少しお待ちください」
みたいに使うの。でもその店員が自宅では
彼女「コーヒー飲みたいわね」
彼「今日は俺が入れようか」
ともなるの。だから両方使うんだよ。
ということでした。
投稿者 三村和彦 : 2004年09月20日 23:27
内田先生の言われる意味での「センチネル」になりたいな(なかなかなれないですけど)と思いました。先生のご本に出会ってから半年ほどになりますが、いつも!先生から、ここちよい生きる力(生きてみるのはいい、歳をとるのもいい)を有り難くいただいております。
投稿者 kan : 2004年09月21日 14:11
ここでは蓮実重彦にたいするやんわりとした批判にホッとしました。僕も長年あの蓮実のような高圧的で断定的な態度には疑問を持っていましたので。内田先生のこの文章には胸のつかえがとれた思いがします。蓮実重彦も学生時代は随分と読んだものです。本ももちろん買いました。しかし今手元には一冊も残っていません。手元に残ったのは全て四方田犬彦の映画評論集だけです。しかしそれにしても蓮実と淀川さんの共著の「シネマテーク時代」(「天国は待ってくれる」のジーン・ティアニーが表紙のヤツ)を売っ払ってしまったのは残念としかいいようがありません。
投稿者 奥瀬恵介 : 2004年09月22日 06:11
「アフターダーク」読みました。いいお話でした。
あっという間に映画化されて来年はカンヌ映画祭に出てるか、また、全国67人ぐらいの演劇関係者が舞台にしてみたいと思ったのではないかと思いました。
二人の娘が年頃になったらエリとマリの役で舞台に立つのを見てみたい気がしました。
他亡くなったツジタのことや演劇部のことなど懐かしいことを思い出させる本でした。
ところでアフターダーク、邪神、鬼婆譚新解と通底しているテーマは同じなのでしょうね。
鬼婆に足を切られるお坊さんも、蓮見重彦に罵倒される村上春樹も偉大さと中途半端さ(ごめんなさい・・・)においてはもしかしたら同じかもしれないですよね。
阪神間における「エリ」やノルウエイの森「直子」といった、ちょっと病んだ女の子(私学名門女子校出身)は、村上春樹が好んでというかトラウマにもっているのではないかと思われるキャラクターですが、鬼婆の心に相通じるものがある気がいたします。
共通点は「足がない」こと。エリも直子も大体ねてますよね。マリやれいこさんに寝ているところをだきしめて癒してもらうところとか。その心は、お坊さんに抱きしめてもらってさびしさをいやす鬼婆。わずらわしいことから逃げてくらしているので(おそらくはそれゆえに孤独)「おなかにおちない」。現状に納得ができないので逆切れしてさらに反社会的になっていくのでしょう。さらに悲劇的なのは逆切れもできずに内に向かわざるを得ないところなのでしょう。下からたきつけられるだけでなく、そこにキリスト教的禁欲の要素も入り、上から蓋される悲劇とでも申せましょうか。明治の文豪の苦しみと似たものがあるのかもしれません。
でも仏教も進化していますから、大丈夫だと思います。
このところ、鍵が折れたり、見当たらなかったりで、車に乗れないことがつづいたのですが、「足がない」という意味だったのかもしれません。芦屋にベンツはそんな洋風な考え方からくる足元のこころもとなさをベンツやパンで補填しているということなのか?(どちらも職人仕事。)勝手に納得して申し訳ありません。ありがとうございます。
学会シンポジウムは、申し込みの締め切りが過ぎていましたので、一般でも参加できるかどうかわかりませんが、いけましたら楽しみにしています。
投稿者 田口亮子 : 2004年09月23日 14:26
蓮見重彦は、愛しすぎる人なんだと思うのです。「結婚詐欺」だなんてこれは立派な愛情表現ではないでしょうか。ほら、愛しすぎると複雑になって話も難しくなっていくというか。読んでも難しくてよくわからない感があったりするのですが、フランス文学の人って「愛しすぎて期待しすぎてよくわからない話をする方が多い」気がいたします。(そんなわけで今度の学会では複雑にして迂回的な愛の表現をたんと学べたらともおもっております。)なんて、わたしもいい加減です。
投稿者 田口亮子 : 2004年09月23日 15:37
蓮見重彦は、愛しすぎる人なんだと思うのです。「結婚詐欺」だなんてこれは立派な愛情表現ではないでしょうか。ほら、愛しすぎると複雑になって話も難しくなっていくというか。読んでも難しくてよくわからない感があったりするのですが、フランス文学の人って「愛しすぎて期待しすぎてよくわからない話をする方が多い」気がいたします。(そんなわけで今度の学会では複雑にして迂回的な愛の表現をたんと学べたらともおもっております。)なんて、わたしもいい加減です。
投稿者 田口亮子 : 2004年09月23日 15:38
蓮見重彦は、愛しすぎる人なんだと思うのです。「結婚詐欺」だなんてこれは立派な愛情表現ではないでしょうか。ほら、愛しすぎると複雑になって話も難しくなっていくというか。読んでも難しくてよくわからない感があったりするのですが、フランス文学の人って「愛しすぎて期待しすぎてよくわからない話をする方が多い」気がいたします。(そんなわけで今度の学会では複雑にして迂回的な愛の表現をたんと学べたらともおもっております。)なんて、わたしもいい加減です。
投稿者 田口亮子 : 2004年09月23日 15:39
実はまだアフターダーク読んでいませんが
村上春樹さんは、村上ファンの友人に進められ発刊後約7~8年経過した「ノルウェイの森」を読んで以来、「恋をした」という感覚に近い傾斜でもって吸い付き、それからつかず離れず折に触れ新刊やなんかを読み、大声では言わないながらもずっとこっそりファンでありました。
そのひんやりとした中肉程度のしなやかな皮膚、時として肥満体の女性の皮膚のような文章、その奥に体温があると感じられる心地よい温度、けっして取り乱さない、ねちゃねちゃぎとぎとならない感じ。同じクラスにいる、ちょっと「へんなこと時々言うつかみどころない子」によく恋していた私にとって、まさに、フォーリンラブな感覚といえました。なにより、私にとって、村上文学の「清らかさ」は、近未来的な、それでいてやや70年代の匂いがする部分によって「青い」までに強く感じられて、80年、90年代に青春を迎えた私にとっては、私たちの世代になかった、ある種の憧れ、「青さ」と「熱さ」に対する憧れも感じられたのです。
村上春樹さんの小説が「青い」といっているわけでは決してありません。
けれど、最近、小説を貪るように読んでいると、5冊に4冊はなんだかうえっとくるほどのセックス描写が多くて、それが悪いとは決していいませんが、それを書くしかないんかな~なんて、謎だったり諦めだったり、選曲もとえ選本が偏ってるのかな?なんて反省したりしています。
そんな意味でもバランスよく、心地よい、温水プールのような村上文学、、、。これは肌にあうとかあわないとか、低レベルかもしれませんが、誰がなんと言っても、あんまり影響ございません。
投稿者 kawa : 2004年10月18日 00:51
サイン・インを確認しました、 さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)