医学書院のゲラを出してしまったら、とりあえずいそぎの仕事がなくなった。
ちくまの新書の書き下ろしが夏休みいっぱいなので、それを書かないといけないのであるが、それはフランス滞在中の「おたのしみ」にとってある。
「とりあえずいそぎの仕事がない」というのは過去3年ほどほとんど一度もなかった状態であるので、呆然自失する。
これが世に言う「ワーカホリック」というやつだな。
することがないので、とりあえずフランス語の練習をする。
ときどき発作的にやっている「天声人語フランス語訳」である。
これはなかなかよい勉強になる。
何をいいたいのかよくわからない文章(「天声人語」はその好個の文例である)を仏訳するというのは、論理的に明快な文章の仏訳よりは語学力の向上に役立つ。
ふと、ナベツネのことをフランスのメディアはどう報じているのか気になって『リベラシオン』をひもといてみる(ひまだなー)。
ざんねんながら「ナベツネ」で検索したら何も出ず。
「ヨミウリ」で3件だけヒットした。「ヨミウリ」は「発行部数1400万部の保守系紙」だそうである。ついでに、「アサヒ」は「左翼紙」、「サンケイ」は「非常に保守的」と類別されていた。
なるほどね。
そのまま記事を読んでいたら、(ひまだから)「電子紙・電子インク」についての記事があったので、ずるずる読む。
「書物の町神田からわずか移動すると、突然風景が一変する。そこはエレクトロニクスのメッカ、秋葉原である。キチガイじみたネオンサインが点滅するこのバザールではニッポンの『オタク』(仮想世界に生きる子どもたち)les otaku,les « enfants » du virtuelが日本株式会社の最新のガジェットを前にして興奮している。」
フランス・ジャーナリストの日本特派員の中には、ウィリアム・ギブソンやフィリップ・K・ディック好きな人が多いようで、彼らの配信する秋葉原関係の記事はいつ読んでも、どことなく『ニューロマンサー』か『ブレードランナー』風である。
「otaku」は「kamikaze」とともに、おそらく現在もっとも頻繁に海外メディアに登場する「日本語」だろう(不思議なことだが、「カミカゼ」を「自爆テロ」と「翻訳」するのは日本のメディアだけである)。
意外だったのは(考えてみれば意外でも何でもないんだけれど)「飽くことを知らない活字愛好者である日本人は世界のいかなる国よりも大量の書物を消費している」という一文。
そうなのである。
最近の若い人は本を読まないとよく言われるけれど、マンガや雑誌を含めて考えれば、日本人の読書量はそれでもダントツで世界一だ。
電車の中、バスの中、地下鉄の中、ありとあらゆるところで人々は活字を読む。
平均週2冊の本を読んでいるそうである。
ふーん。
そうなんだ。
変な話だけれど、外国にしばらくいって外国の新聞雑誌を読んで暮らしていると、日本のことがよくわかるような気がする。
フランスにいる間、日本についての報道は非常に少ないけれど、その代り「潮目の変化」だけにピンポイントして報道がなされるので、その社会でいま何が起きつつあるのかを、日本国内にいてTVや新聞雑誌からの情報を浴びているときよりもクリアに把握できる。
私たちが「特殊」だと思っている事態が案外「ふつう」であり、私たちが「ふつう」と思っている事態がとんでもなく「異常」であるということは、外国のメディアを通してみないとなかなかわからない。
インターネットでこうして外国の新聞報道をリアルタイムで読むことができる時代になったのに、若い人でこの特権的な情報回路を活用しているひとは決して多くない。
外国語が「読めない」からである。
もったいない話である。
外国語教育の基本はまず「読むこと」であるというのは私の年来の持論である。
インターネットの時代はまるごと文字情報の時代である。だから、外国語の「リテラシー」の差がそのまま情報格差となる。
けれども、いまどき外国語教育というと、ほとんどのひとは「オーラル・コミュニケーション」の重要性しか言わない。
しかし、考えればわかることだが、オーラル・コミュニケーションでは、「目の前にいる人」としかコミュニケーションできない。
私たちが自分たちの生き方に決定的に重要な影響を与えるような外国語話者を「目の前」にする機会が一生に何回あるだろう?
「読む」というのは、「ここにいない人」と「好きなときに」コミュニケーションできる方法である。
「ここにいない人」というのは単に地理的に遠くてなかなか会えない人というにとどまらず、原理的に絶対にお会いする機会が得られない人(すなわち死者たち)も含まれている。
「受信しうるメッセージの質と量」に限って言えば、「聴く能力」と「読む能力」では受信できるメッセージの桁が違う。
どう考えても、「まず」リテラシーの涵養から始めるというのがコミュニケーションのコスト・パフォーマンスを考えたらいちばん合理的な選択のはずである。
しかし、現在の外国語教育は「まず」ネイティヴの発音を聴き取ることから始めることを当然としている。
なぜ、このような不合理な教育戦略が採択されているのか。
これについて話すとすごく長い話になるので、駆け足で要点だけを言う。
「読む」とき、読み手はテクストに対してかなりの自由裁量権を発揮できる(前の頁に戻ったり、わからない単語を辞書で引いたりすることは読み手の自由に属する)。
もちろん、「何を書いているのか、わからねーぞ、んなろ」と言ってばたんと本を閉じる権利もまた読み手のものだ。
その点だけについていえば、読み手と書き手は(幻想的な準位においてではあるけれど)、「対等者」として向き合っている。
しかし、外国語を「聴く」ときには、聴き手にはそれほどの自由は許されない。
理解できない単語は理解できないまま宙に消える。
辞書を引く暇なんか与えられない。
「すみませんが、もう一度」と要請することは、しばしば聴き手の知的劣位を告白していることにひとしい。
もちろん、「何言ってるかわからないぜ」といって、相手を「消す」こともできない(自分がその場から「消える」ことしかできない)。
つまり、「読ませる教育」と「聴かせる教育」では、圧倒的に「聴く」教育の方が「送信者」の知的威信が高いのである。
私はネイティヴの綴り字の間違いや文法上のミスを指摘することができるが、彼らの発音の間違いを矯正することはできない。
というより、そのような権利は学習者には与えられていない。
オーラル・コミュニケーションを外国語教育の中心にする限り、ネイティヴ・スピーカーは絶対不敗の知的威信を構造的に確保されている。
だから、植民地主義的発想で外国語教育を行うすべての旧帝国主義国家は、まずオーラル・コミュニケーションの習熟を植民地人民に求めるのである。
それはリーディングから先に教えると、できのよい植民地の秀才が短期間に「宗主国民」よりも知的に上位に立つ可能性があるからである。
日本について言えば、英語をオーラル中心に学ばせるということは政治的には「英語話者の知的威信が構造的に担保される」体制を堅持するということである。
私は英語であれフランス語であれ、「学習者の知的水準がつねに劣位に固着されているコミュニケーション」にはどうも気が進まない。
それは私の性分のなせるわざだから、拡大適用することは控えるけれど、「英語話者の知的威信が構造的に担保され、ノン・ネイティヴがつねに劣等感を覚えるような教育システム」を採用していることの政治的な意味について、ときどき考えることは必要だろうと思う。
投稿者 uchida : 2004年08月17日 12:15
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/311
このリストは、次のエントリーを参照しています: 『リベラシオン』を読んで、外国語教育について発作的に考える:
» 外国語教育 from miwanet blog
『寝ながら学べる構造主義』の著者である内田樹氏のblogがあります。本日付エントリー:『リベラシオン』を読んで、外国語教育について発作的に考える がおもしろかったです。オーラル・コミュニケーション中心の外国語教育をちくり。 ここのblogは興味深い記事がちょくち... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年08月17日 23:17
» ネイティブ from ぶこつイーター
内田樹先生のページを見ていたら、英語教育の事について書いてあった。特に「オーラル・コミュニケーション」を学習する事の是非についてである。
以前どこかの大学教授がこう言っていた。
「大半の日本人にとって、外人相手に英語を話さなければならないケースなんて死... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年08月18日 00:23
» [教育]英語教育の「聴」と「読」 from 月と太陽のおもいで。
内田樹が英語教育について興味深い見解を示しているのでメモしておく。 >> 「読む」とき、読み手はテクストに対してかなりの自由裁量権を発揮できる(前の頁に戻ったり、わからない単語を辞書で引いたりする ...... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年08月18日 02:10
はじめまして。某所で英語教員をやっている者です。
私もつねづね、「オーラル的メソッドは日本人にはそぐわないのではないか?」という想いを抱え煩悶する日々を送っておりまして、外国人指導助手と授業を行うにつけ、彼/彼女が「英語を話す」という事実のみを「すげー!」と感嘆する生徒たちに、おまえらそれは違うだろ・・・と思うばかりでしたが、今回の記事を読ませていただき、極めて「腑に落ちる」思いを得、コメントさせていただいた次第です。
内田先生の著作は「子供は判ってくれない」を皮切りに書店で見かける度に購入、読破しております。読むにつけ我が思考がドライブされる感覚が非常に心地よいです。今後も楽しみにしております。(ただ、価格がちと安月給の身には辛くもありますが)
投稿者 Benny : 2004年08月17日 22:27
はじめまして。
いつも楽しく日記を拝見させていただいております。
僕は外国語が出来ない学生なので、情報の格差はひしひしと感じております…。そんな自分が言うのもなんですが、僕も外国語教育はリテラシー優先であるべきだと考えています。先生もご指摘の通り、単純に文字で得る情報の方が多いからです。
ただし、リテラシーの涵養にも発音は真っ先に覚える必要があると思います。音読は外国語習得にもっとも効果のある学習方法のひとつだと思いますが、それには発音できることが必要です。
つづりの分からない単語を覚えるよりも、発音の分からない単語を覚える方が大変なのではないでしょうか?
シュリーマンも出来る限りネイティブの家庭教師を雇って文法(日記などの添削)と発音の指導を受けたそうです。言語は基本的には音声だからでしょうか。
そして、どうせ発音を覚えるのであればネイティブに近い発音を体得する方が合理的だと思います。完全にネイティブの発音を聴き取れることに拘泥する必要はないと思いますが。
投稿者 logologo : 2004年08月18日 02:43
内田先生のコメントというより、読者の方のコメントを読んで思ったこと。
とりあえず確認。ここでは、英語の「ネイティヴ」というとき、英米人だけでなく、その(旧)植民地国の人たちも、英語の習得が日常生活において必須とされているならば「ネイティヴスピーカー」と見なします。
発音を正確に、というとき、問題は、いかにネイティヴに近い発音か、かよりも、いかにネイティヴ(および他の英語話者)に通じる発音か、の方が大事だと思います。私がアメリカに留学していたとき驚いたのは、発音がへたくそでも、なぜか、イタリア人、中国人、スペイン語圏出身の留学生のみなさんの英語はちゃんと通じているということでした。だから、発音が下手=>劣等感につながる、とは限らないと思いますよ。ほんと、あの根拠のない自信こそ、日本人が、ナショナリストにならずに学ぶべきものの一つでしょう(笑)。日本人の発音がなぜか通じないのは、自信がないからと抑揚やアクセントをつけないからであって(それも慣れていないからできないんでしょうけど)、「発音が悪い」からではないと思います。
もちろん、イタリア、中国、スペイン語圏出身のみなさんも、先だって英語の読み書きができるがゆえに、留学もできたのでしょう。思うに、よく日本では「文法ができて読み書きはできても、話したり聞いたりはできない」という言い方がなされますが、本当は、文法も読み書きもできていない人が多いんじゃないでしょうか(あ、痛い・・・)。読み書きを専門とする翻訳家のみなさんがしばしば誤訳をしているのも、「日本語が下手」だからじゃなくて、英語の読解力にも問題があるからだと思います。
そしてその大本となっているのは、外国語の教え方のメソッドが、日本ではいまだに確立されていないからではないでしょうか。教え方のメソッドに関しては、各国でかなりの開きがあるようです。それはもちろん、それぞれの「民族」や「国民」(ネーション)の能力とはまったく関係ありません。ただ、そのネーションをとりしきる「政府」や「知識人」が、外国語に堪能になろうとすることを、「敵」におもねることだと見下していて、それが教育法にまで反映されてしまうと、そのネーションの外国語能力は低く押さえられることになります。それは、反帝国主義な身振りなだけでなく、植民地主義・帝国主義的な身振りでもあります。知人のフランス人学生が、ドイツの英語教育をうらやましがっていたように、ドイツでは、さすがにもう自国の言語を押しつけるわけにはいかないことがわかっているので、さっさと英語を学びます(フランス政府は、そうは思っていないようで、日本と同じぐらいひどい英語教育法をとっているようです)。他の多くの国々でもそうです。そういう国では、「読むのが先か話すのが先か」といった問題の立て方はせず、両方を効率的に組み合わせることによって、習得を容易にさせているはずです。外国語を学ぶ人の多くが容易に習得できるようになれば、ネイティヴへの劣等感を持つ必要もないし、英語を、英語圏の人におもねるものとしてでなく、他のアジアやアフリカ諸国の人たちとほぼ同じ土壌にたって対話するための道具として使用することができる便利さに気づくはずです。
エスペラントの試みが挫折してしまった今、植民地主義の遺産とはいえ、英語が幅を利かせているのはしょうがないことです。でも、言葉(外国語)を学んだら、主人(帝国主義者)におもねることになるだなんて、キャリバンが聞いたら、笑いますよ。
「たしかに言葉を教えてくれたな。おかげで悪口のいいかたは覚えたぜ。疫病でくたばりやがれ、おれに言葉を教えた罰だ。」
投稿者 china loca : 2004年08月18日 17:29
サイン・インを確認しました、 さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)