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2006年09月30日

卒論中間発表

卒論中間発表。
ゼミ生17名分の中間発表を「一気聴き」する。
所要時間6時間。
この時期にしては、かなり完成度の高いものを書き上げていたゼミ生も何人かいた。
オリジナリティを追求すると、学術性にしわよせが来て、客観性を追求すると、ただの「調べ物」になってしまう。
このあたりのさじ加減がむずかしい。
きちんと調べ物をさせて、定型的な論文作法に則って書くことを訓練することがたいせつであることに異議があるわけではない。
それがある種のスクリーニングであることを私は認める。
けれども、それは「定型的に書ける人間をピックアップするため」の選別ではなく、「自分はどうしても定型的に書くことができない人間だ」ということを覚悟させるための選別ではないか、どうもそんな気がする。
私は仏文専攻であるが、留学生試験というものを受けたことがない。
まわりの院生たちはみんな次々と試験を受けてフランスに留学していったが、私はどうしても試験を受ける気になれなかった。
ディセルタシオンという科目のせいである。
これは「定型的な論文の書き方」の習得度を見るものである。
この科目のために勉強をするということが私にはどうしてもできなかった。
それは私にとっては自分の指を切り落とすとか、爪を剥ぐとか、ほとんどそれに近い痛みをもたらすものだったからである。
しかるにその後長じて私は官僚的作文の名手となり、慇懃無礼、木で鼻を括ったような冷血な定型句は私のペン先から泉水が湧くようにほとばしりでることになった。
そこにはつねに過剰な攻撃性が伏流していた。
定型性と攻撃性は不即不離の関係にある。
定型にはある種の攻撃性を抑制する効果がある。だからひとは定型をふまえているかる限り「安心して」攻撃的になることができる。
たぶんそういうことではないかと思う。
だから、定型を学ばせるというのは、若い研究者たちの攻撃性をリリースするための教育的装置だと考えるべきであろう。
若いときの私自身はたいへん攻撃的な人間だったので、これ以上攻撃性を解発される必要がなかった。
だから、本能的に定型を避け、破格の書法を選んだのではないかと想像されるのである。
というのは、オリジナルな文体で書かれた学術論文って、「こっぱずかしい」ことばかり書き連ねてあるから、読み手の「失笑」を買うしかないからである。
おのれの攻撃性に配するに失笑を以てする。
たぶん、私はそんなふうにして自分が分泌している「毒」を制御していたのであろう。
メイビー。
そういえば、聴いて「あっ」と驚く方もいるかもしれぬが、少年のころの私はひさしく官僚志望であった。
東大法学部を出て、警察官僚になるつもりだったのである。
しかし、願書提出のまさにその瞬間、私は志望を「文I」から「文III」に書き換えてしまった。
どうしてそれまで二年間ずっと書類に書いてきた志望先を突然換えたのか、今でも理由がよくわからない。
今でも似たことはよくある。
レストランに入ってメニューを熟視し、「よし、天ぷらソバにしよう」と広言し、ウェートレスが「おきまりですか?」と訊ねた瞬間に「鴨南蛮」と言ってしまう。
19歳の私はおそらく定型的なキャリア形成を行って「警察官僚になった私」が世界にもたらすであろう害毒の大きさを想像して、とっさに「破格」の道を選んだのである。
文学研究者なら、逆立ちしても毒にも薬にもならない。
おのれの攻撃性を制するに無力を以てする。
たぶんそういうことじゃないかと思う。
文芸批評家の中には官僚になったら国を滅ぼしかねないほど節度のない攻撃性をもった人々がたくさんいる。
彼らもきっと私と同じように人生の岐路(おお、すごいことば)において、世界を救うために「失笑と無力」の道を選んだのであろう。
そう思うとけっこういい人たちである。

中間発表のあと、わが家にて打ち上げ宴会。
エプロン姿となり、ばたばたと「きのことベーコンのパスタ」「ソース焼きそば」「タイ風焼きそば」「鉄板焼き餃子」などをお出しする。
みなさん一段落ついたあとなので、たいへん賑やかである。
宴のさなかに突然部屋の電気が消えて、ローソクを立てたケーキが登場する。
おお、諸君は私のバースデーを覚えていてくれたのか。
よい子たちである。
ふと、老師の目に涙。

投稿者 uchida : 11:33 | コメント (2) | トラックバック

2006年09月27日

後期の授業が始まった

後期の授業が始まった。
休み中より生活がレギュラーになった方が身体は楽である。
授業をするというのは私にとっては少しも苦にならない。
むしろ楽しいことである。
特に、私の場合はもうあと4年ちょっとで「上がり」であるから、授業をする機会も指折り数えてカウントダウンである。
あと9セメスターで「終わり」かと思うと一回一回の授業がかけがえないものに感じられる。
四年半というのは長いようだけれど、逆算すれば2002年の前期から先日までの期間である。
2002年の前期といったらついこのあいだではないか。
30年間よく働いたものである(まだ終わってないけど)。
「この会議飯もあと何回食べられるのかしら・・」と思うと、冷たい会議弁当も美味しく感じられるから不思議である(これはほんとう)。
辞めたあとは、きっと「あれもやりたかった、これも教えたかった、こんなプロジェクトも立てたかった・・・」といろいろ悔悟が残るのであろう。
私は若いときは「若いんだから好きなことさせてくれよ」と言い募り、ある程度の年になると「もうすぐ死ぬんだから好きなことさせてくれよ」と言い募り、結局人生のあらゆる局面で「好きなことやらせてくれよ」と言い続けて、その通りに生きてしまった人間である。
そして、このまま大過なくあと四年半いけば、晴れて「隠居」の身である。
隠居になれば、もう天下御免、怖いものなしのやりたい放題いいたい放題である。
ウチダさんはこれでもまだなにかいいたりないことがあるんですか?と驚かれる方もあるやもしれぬが、なにをおっしゃいますやらである。
私がこのブログに書き連ねていることは、毒気が三分の一程度に希釈され、市民的温顔をつくろった苦心の修辞的構築物である。
ほとんど一行書くたびに、「おっと、私にも立場というものもあるから自制しなきゃ・・・」と文言を訂正しているのである。
晴れて大学を辞めたあとに、諸君はどれほどの心理的規制に私が耐えていたのかを知るであろう。
最初の授業はいきなり新規開講の「クリエイティヴ・ライティング」である。
これはキャリア・デザイン・プログラムの「メディア・コミュニケーション」科目群に将来的に組み込まれるべきもので、いずれ「物書き」として働くことを希望している学生諸君とともに「書くとはどういうことか」についてラディカルかつテクニカルに考究しようではないかという野心的プログラムである。
「現代霊性論」に続き、今回は難波江和英さんとのコラボレーション。
コラボレーション型授業のよいところは、「ねえ、この授業って、いったい何を目的とするものなの?」という、本来ならシラバスにきちんと書かれていなければならない問い(つまりすでに決着が付いているはずの問い)から授業が始まるという点である。
私たちは何のためにここにいるのか?
そういうラディカルな問いは通常の授業では立てられない。
それについては教える側も教わる側も「すでに知っている」ことになっているからである。
でも、ほんとうにそうなのであろうか。
「私たちはなぜほかならぬ今、ほかならぬこの場で、このような仕方で出会ったのであろうか?」という問いを学生たちとともに適切に突き詰めることができれば、それだけで教育目的の過半は達成せられたと私は思っている。
私はシラバス的な教育プログラムに懐疑的なのは、そのいちばん「おいしいところ」を「既知」に括り込んでしまい、学生がみずからそれを問う機会を奪ってしまうからである。
もちろんシラバスにもそれなりの教育的効果はある。
けれどもそれはそれがジョブ・デスクリプションであり、学生と教師のあいだの労働契約であるからではなく、「教師はゲームが始まる前に、すでにゲームの結末まですべてを知っている」という幻想を学生が持つことにはいくばくかの教育的効果があるからである。
しかしシラバス抜きの授業というのは、もっと教育的である。
なぜなら、教師も学生もともに自分たちがどこにゆくのかを知らないままに授業が始めたということになっているにもかかわらず、「どうも、教師たちは行き先を知っているように見える」からである。
「教師は彼が知っていることを知っている」というのでは教育的に十分ではない。
「教師は彼が知らないことも知っている」という幻想を学生が持つことが「学び」の場には決定的に必要なのである。
だから教師は「知らない」という言葉を惜しんではならない。
「知らない」という言葉を惜しむ教師は、「知っていること」しか教えられない。
「知らない」という言葉を惜しまない教師は、「私はそのことを知らないが、そのことを諸君に教える用意がある」というアクロバシーを演じることができる。
そして、「学び」が畢竟するところ「『私が知らないこと』のうちに自己解体を遂げつつ溶け込んでゆくこと」であるとすれば、それを教師自身が学生諸君に現場でお示しすること以上に教育的なことはあるまい。
最初の週の宿題は「異類憑依」。
つまり、本日の私とナバちゃんのおしゃべりについてのレポートを書いていただくのであるが、書き手は諸君自身であってはならない。
諸君自身ではない「誰か」に憑依して、この場の出来事をレポートするのである(例えば窓の外のUFOからこの授業を覗き見ていた地球外生命体や、あるいは部屋の隅からこの授業を覗き見ていたゴキブリなどの立場になって)。
遠くモンテスキューが『ペルシャ人の手紙』で先鞭をつけ、夏目漱石『吾輩は猫である』、大島弓子『綿の国星』と連綿と受け継がれている批評的エクリチュールの基本中の基本である。
女子大生である彼女たち自身のものの見方や書き方を無意識的に支配している無数の因習のうちのひとつでも解除できればと思うが、さて結果はどう出るであろうか。
火曜日のゼミはいきなり「存在と時間について」。
O草くんの研究発表は「時間は空間的に表象できるか?」「存在しないものはどのようにして存在するものに影響を与えるのか?」というたいへんにラディカルな問いをめぐるものであった。
訊けば哲学的な時間論というものを一つも読んだことがなく、ひとりで頭をかかえてうんうん悩み抜いて出した結論だそうである。
少しは先賢の仕事も知っておいた方が経済的であるが、いわば独力で「ピタゴラスの定理」を発見したようなものであるから、その労は多とせねばならない。
時間と「存在するとは別の仕方」について考えることが彼女自身にとって緊急の知的課題であったということが、それにしても驚きである。
だって、それは私がいま書いているレヴィナス三部作の第三部の主題そのものだからである。
大学院は「医療崩壊」。
医療現場で実際に仕事をしているN羽さんの「鬼気迫る」レポートに教室はしーんと静まりかえる。
日本人は自らの手でほとんど気が狂ったように医療を破壊しつつあるのだが、そのことによって利益を得る人間はひとりもいないことにいつ気づくのであろうか。

投稿者 uchida : 13:16 | コメント (4) | トラックバック

2006年09月24日

ブルーノくんヨシエさん、またね

フランスから日本旅行に来ていたブルーノ・シャルトンくんと高橋芳枝さんが10日ほどの旅行を終えて、帰国した。
東京、京都と移動して、最後の二日は芦屋泊まり。
うちの隣の竹園ホテルに二泊して、二晩ゆっくりしゃべって飲んだ。
最初の夜は、ブルーノくんが食べたことのないという北京風水餃子を私が作る。
シャンペンで始めて、冷や奴と日本酒、餃子とビール、最後にディジェスティフにカルバドス。
二日目は三宮の國分さんのところへ行く。
『ステーキハウスKOKUBU』でブルーノくんが食べたことにないような神戸牛(おお、アンクロワイヤーブルです!)をごちそうして、ここでも生ビールをワイン赤白。
それからRe-setに移動して、スコッチとシガー。
さすがに二日続けの大量飲酒によって土曜日の朝は全身の血液がすべて肝臓においてアセトアルデヒド分解活動に従事しているため、それ以外の身体部位は機能していない。
ぼおおっとしながら車でおふたりを関空までお送りする。
車中ではあまり話がはずまない。
ふたりともぽつりぽつりと「帰りたくないね」「うん、帰りたくないね」と繰り返すばかり。
私は三週間もフランスにいると、「はやく日本に帰りたい!ラーメン食べたい、うどん食べたい、カツカレー食べたい」ともう帰心矢の如しなのであるが、彼らはどうも様子が違う。
このままずっと日本にいて、日本のご飯を食べて暮らしたいらしい。
ブルーノくんは初来日であり、あまりに期待が肥大しているので、出発前に「あまり期待すると失望が深いから、とにかく期待しないほうがいいよ。日本て、つまんない国だよ」とパリでさんざん言ってきかせておいたのであるが、期待にはちきれそうになってやってきて、その期待がすべて満たされてしまって、「ああ、日本はやはり夢の国です」と涙ぐんでいる。
関空で手を振って別れるときに、ふたりとも全身で「去りがたい」という思いを表現していた。
あれほど飛行機に乗るのを「いやがっている」人の姿を見るのは珍しい。
もうパリに戻って二日目になるはずだれど、きっと二人ともまだフランスに順応できず、浅草や金閣寺や鎌倉や嵐山やお好み焼きの話をして、日本土産をみつめてため息をついているのだろう。
気の毒である。
ブルーノくんたちは来年もまた来るそうである。
今度は予定を合わせて合気道の合宿に参加してもらう。
合宿なんか来た日には、楽しすぎて、「もうフランスには帰りません!」ということになるのではないかと心配である。
いずれ神戸でフランシュ=コンテ料理のレストランとワインバーを開きたいという彼らの夢が一日もはやく叶うことを願っている。


投稿者 uchida : 13:09 | コメント (1) | トラックバック

2006年09月21日

柴田元幸さんに会いに行く

柴田元幸さんとの対談が六本木国際文化会館で行われる。
主催はDHC。
いまは化粧品で有名な会社だけれど、もとは「大学翻訳センター」というアーバンの同業者である。
翻訳者の養成や文化教育事業も展開している。
今回は柴田さんとぼくで「翻訳の力、文学の力」と題していろいろおしゃべりをしようという趣向である。
柴田さんとお会いするのは二度目。
最初はうちの大学にミスギ先生がお招きして、講演に来ていただいたときのこと。
もう5,6年前になるだろうか。
そのときにミスギ先生にご紹介いただいてご挨拶して以来、このところは「著書の投げつけ合い」を展開している。
ぼくも年間10冊を出す異常な「かきすけ」であるが、柴田先生の出版数はそんなものではない。
年間15冊ペースである。
月刊プラス盆と正月は増刊スペシャルで本が送り届けられる。
だからぼくの書棚の現代アメリカ文学の蔵書の充実ぶりは突出しているのである。
うちのIT秘書室長が学生時代(遠いむかしのことのようだね、フジイくん)柴田さんの大ファンであった。
室長はたしか卒論がポール・オースターだった。
訳書を読んでいるうちにオースターよりむしろ訳者の柴田さんの方に惚れ込んでしまって、ぼくに柴田さんがいかにすばらしい人であるかを力説するようになった。
あるいは柴田さんが(当時室長が大ファンだった)フリッパーズ・ギターの小沢健二くんの先生だったというのがことのはじめかもしれない。
この辺の前後関係は不明。
そういうご縁もあって、ぼくは柴田さんの書き物を10年近く前からわりときちきちと読んでいるのである。
柴田さんと村上春樹さんは『翻訳夜話』『サリンジャー戦記』ほかで実に奥行きの深い翻訳論、文学論を展開されている。
その中で、村上さんが柴田さんにぽろりと語った「うなぎ」説をぼくが何度もあちこちで引用させていただいたことはみなさまご案内の通りである。
その柴田さんと翻訳と文学について語ろうというのである。
わくわくするではありませんか。
ぼくが「文学研究者」とか「哲学研究者」と名乗るのはほとんど経歴詐称であるが、「翻訳家」と呼ばれることについては天下に恥じるところがない(誰も呼んでくれないけど)。
翻訳が大好きで、大学卒業と同時に、翻訳会社を平川くんと起業したくらいである。
技術翻訳や三文ミステリーや児童書を鼻歌まじりに訳しとばしていたぼくのハッピー・ゴー・ラッキーな翻訳家人生はレヴィナス老師の書物を翻訳したことで一変した。
「レヴィナスを訳す」というのがどれほどおどろくべき経験であったか、これまできちんと人に話したことがなかった。
翻訳という作業を通じて訳者自身の知的ブレークスルーが成就するという驚くべき体験は、たぶん翻訳を一生の仕事としている人にしかなかなか理解してもらえない種類の話だからである。
それを聴いてもらう相手がいるとしたら、現代日本で柴田元幸さん以上の人はいない。
積年の望みはかなえられ、翻訳がもたらす愉悦と驚愕について柴田元幸さんと語りあうという至福の時間をぼくは過ごすことができた。
2時間の対談はあっという間に終わってしまった。
フロアから面白い質問がどんどん出てこれも面白かった(「ウチダ先生のその根拠のない自信はどこから来るのですか?」とか)
もっともっと話したいので、柴田さんご夫妻と、DHCのみなさん、若い英文学者早稲田の都甲幸治さんと慶応の大和田俊之さんと打ち上げ宴会へ雪崩れ込む。
都甲、大和田両君は来年の日本英文学会のシンポジウムに私を呼ぶという無謀なアイディアを立て、柴田さん経由で私とところにお申し出をしてきた方々である。
柴田さんもごいっしょにシンポジウムで出るというのだから、こちらからお願いしたいくらいの話であるので快諾した。
そのご挨拶をかねてである。
最初は「やや、どうも」とこちらも神妙な顔つきで名刺交換などしたが、大和田くんが「ぼくはナイアガラーなんです」と自己紹介した瞬間に目頭が熱くなる。
「握手!」。
さらに追い打ちをかけるように「増田聡くんとも古い友だちなんです」
また「握手!」
なんだそうか。じゃ、身内じゃないか。
さあ、遠慮はいらねえ、お若いかたたち、どんどん飲んでくれい(DHCの払いだけど)。
この若いお二人の業界話がまことに面白くて、笑い転げているうちに深更となる。
柴田さんとぼくは「大田区蒲田エリア生まれ、日比谷高校、東京大学文学部卒、二人兄弟の次男」というたいへん似た履歴を共有することもこの日に教えていただいた。
ぼくが柴田さんに感じる親近感はもしかすると、この「多摩川土手っぷち育ち」固有のカジュアルさがもたらすものかもしれない。

投稿者 uchida : 07:38 | コメント (3) | トラックバック

2006年09月19日

株式会社甲南構想と師匠のありがたみについて

「株式会社甲南」構想が合宿帰途に朝来SAで黒豆ソフトを食しつつ熱く議論された。
三日の合宿を終えて帰路につくころ、われわれの身体は筋肉的には疲労の限界にあり、頭脳的には(三日間「いけのや」のメニューと酒のラベル以外の活字を一字も読まずにいたこともあって)ナチュラル・ハイな状態にある。
だから、この時間帯は何をしゃべってもげらげら笑い転げる。
「うさ餅」のタカサゴヤ店主から「オーケストラの方たちですか?」という身元についてのご下問が大受けしたことに端を発して、「われわれは一体世間さまからはどのような団体として映っているのであろうか」という話題が盛り上がった。
自動車組の総勢は約20名、年齢は20−50代。男女比は半々。
オケと間違えられたのもゆえなきことではない。
神鍋高原ではよくオケが合宿をしている。
たぶんオケの場合も、何日も同じ指揮者のもとで同じ曲を練習しているうちにある種の「多細胞生物」のような一体感をもつようになるのであろう。
こちらも、三日間の稽古の主たる目的が「気の錬磨」を通じての身体的コミュニケーションの緻密化である。
全員が年齢性別を超えた何とも言えない「雰囲気」の同一性を帯びてきても不思議はない。
朝来でソフトを舐めながら、このメンバーでビジネスをやったら楽しいだろうなとふと思いついた。
朝会社に行ったら、この顔ぶれがいて、「おはよ〜」と言い交わし合って仕事をするのである。
仕事のあいだじゅうずっと笑い続けている。
この絶妙のコンビネーションをもってすれば、どのようなビジネスであれ大成功することは間違いない。
問題は何をする会社かということである。
私としては、全員がオフィスの中にいて、わいわいしゃべりながら流れ作業の手仕事をするようなタイプの職種がいい。
越後屋さんが営業部長で、ドクターが総務部長で、社長が経理部長、IT秘書がIT秘書室長、かなぴょんが社長秘書、という陣容まではとんとんと決まった。
さて、何を売ればよろしいのか。
イーダ先生から「畳」はどうかというご提案がある。
ペイズリー柄のへりなどをもつ畳をフランスに輸出するのである。
なるほど。
「女子は全員畳職人で、畳針でぐいぐい縫ってゆくの」
なるほど。これは壮観だ。
「農業はどうか」という提案がヤベッチからなされる。
「一畝ごとに、みんな好きなものを植えるの」とタニオさんから提案される。
それだと「大きなとうもろこし」の畝の隣の私の「ちっちゃな苺畑」は日が当たらなくて枯れてしまうのでは・・・とヤベッチが不安顔をすると、「とうもろこしと苺はシーズンが違うからだいじょうぶ」とタニオさんが太鼓判を押してくれる。
どうもスタッフに農業についての基本的知識が共有されていないようであるから、これで東証一部上場を狙うのはむずかしそうだ。
「だから、道場をやるんだよ」と私が結論を下す。
トウモロコシ畑の横の苺畑に比べると、「芦屋に道場」というのははるかにリアリティがある。
「それなら私たちにもできそうだ」という気になる。
不思議なものである。
私が「道場を建てるぞ」と宣言したとき、それはただの「妄想」であった。
けれども、いま会員諸君の頭の中において道場はすでに半ば以上「確実な未来」なのである。

家に戻ると大瀧詠一さんからメールが来ている。
大瀧さんから『Go!Go!Niagra』のCDを贈っていただいたので、そのお礼のメールを差し上げたら、ご返事を下さったのである。
作家自身から本を贈ってもらったことは商売柄これまで何度かあるが、アーティスト本人からCDを贈ってもらったのはうまれてはじめてのことである。
大学あてに届いていたので、「やっほう」と教務部長室で躍り上がる。
同じ日に石川くんから「『レコードコレクターズ』で大瀧さんがインタビューを受けていて、その中でウチダくんのことに言及しているよ」というお知らせメールをいただいたので、さっそくジュンク堂で購入してそれも読んでみる。
私は1976年ラジオ関東の『Go!Go!Niagra』第二期からのリスナーであり、その頃は週一回午前0時にこの番組を聴くことが人生の一大欣快事であった。
ある日(たぶんクレイジー・キャッツ特集のとき)感動のあまり、「ぼく、この番組を聴くためにうまれてきたような気がするよ」と妻(当時はそのようなものがいたのである)に告白して、「あらそう、よかったわね」と気のないご返事をいただいたことを覚えている。
前に山の上ホテルでお会いしたときに「ラジ関以来30年来のナイアガラーです」と自己紹介したのを大瀧さんはちゃんと覚えてくださっていたのである。
インタビューの中でアルバム『Go!Go!Niagra』の曲目解説が一リスナーからの「アルバムに収録されると予想される曲のタイトルと内容についての解説」だったことを90%の人は意味がわからなかったことについて大瀧さんが回想している(私はもちろんアルバムを買った瞬間に大瀧さんの「仕掛け」に気づいて、「この人ほんとに筋金入りの趣味趣味音楽家だなあ」と感動したのであるから、10%のうちに数えてもらえるのである)。
そして、その話題のときになぜか大瀧さんはふと私のことを思い出してくれたのである。
「いつも言うけど、この時代にリスナーで面白いと思ってくれたのがフランス哲学の内田樹さんなわけで、彼が共鳴することっていうのがここにあるわけでしょう(笑)」
大瀧さんは私が「ほかならぬそういうところに共鳴している」ということを(そのことは当日の話題には出なかったにもかかわらず)ちゃんとピンポイントで抑えていたのである。
これはすごいことである。
前に『新春放談』で山下達郎さんのアルバム(『On the street corner 3』)の話をして、談が収録曲Angelに及んだときに、大瀧さんは「ぼくはどうして山下君がこれを選曲したのかよくわかる。そして、ぼくがそれをわかっていると思いながら君がレコーディングしていることもよくわかるのよ」という次数の高いコメントを加えていた(うろ覚えだから文言は正確ではないけど)。
すごい人である。
メールの最後に大瀧さんはこう書いてくれた。
「またいつもの“飛ばしている”blogをタノシミにしております。本当に勉強になります。(“飛ばしすぎ”はナイアガラーの持ち味ですから、いつもの調子で突っ走ってください)。」
「師匠!」と私は虚空に向かって小さく叫んだ。


投稿者 uchida : 19:04 | コメント (1) | トラックバック

2006年09月18日

前代未聞のジェットラグ

9月18日
14日の朝に日本に帰ってから、前代未聞的ジェットラグに罹患して、そのまま中一日で合気道合宿に参加。
日本時間に心身が同調するまで4日を要してしまった。
最悪は帰国二日目の16日夜。
前夜がブラックアウト的睡眠4時のみで、眠くて眠くて一日あくびをしていたからすぐに寝られるだろうと思っていたら、これが眠れない。
11時半に就寝して輾転反側すること3時間。
朝6時起きで一日稽古なので、とにかく身体の疲れを取るのが先決と、寝るのを諦めて、ふとんのなかでじっと凝固している。
こちらも一日稽古をしているわけだし、3週間のフランス語学研修旅行の疲れが抜けていない状態だから、身体はとにかく休みを要求する。
しかし、日本時間にまだ同調していない脳内の一部が寝ることを拒否している。
脳の90%くらいが睡眠状態に入って、10%くらいが「眠れない」と思ってイライラしている。
おそらくこれがREM睡眠のごく浅いような状態に似ていたのであろう。
まぶたの内側をものすごい高速で文字や図像が飛んで行く。
文字は一部解読できるものもあるが、早すぎて追いつけない。
図像はだいたいがゴシックホラー系のものすごく気持ちの悪い映像。
うねうねする光線とか、鱗状のものとか、そのむかしLSDトリップ映画で見せられた映像とそっくりである。
なるほど、あれはほんとうに意識化のイメージを映像的に再現しようとしていたのだなあと眠りながら感心している。
眠りながら、「そういえば」などと見ている図像を分析しているわけだから、ちゃんと寝ているわけではない。
でも、おそらく横にいる人が見たらぐっすり眠っているように見えたのではないだろうか。
ときどき時計をちらりと見て、「あれからもう1時間も経ったのか・・・」などとつぶやいているのだが、もしかするとそのうち59分は外形的には眠っていて、本人だけが「眠れない」と思っていただけなのかもしれない。
外形的には眠っているにもかかわらず、「眠っていない」と思っている思いがある場合、この「思い」には「引き受け手がいない」。
「私は眠れない」という言葉が誰にも届かない(私自身にさえ拒絶されている)という手がかりのない無力感におそらくは不眠の本質はある。
レヴィナスが不眠について長い分析を加えていたことの重要性がこのとき不意に腑に落ちる。
なるほど老師はこれを経験していたのか。
などと考えているのだから、やっぱり眠っている訳ではない。
家に帰ったら、さっそくレヴィナスの『逃走について』(De l’e´vasion)を読んでみよう。
おや、不眠のおかげでレヴィナス老師の不眠論の本質が理解できそうだとは、これはとんだ拾いものだ。
転んでもただでは起きない人間だなあ、おいらは。
と思っているうちに眠りに落ち込んだ。
二日目16日の夜は昇段級祝いならびに学生諸君が私の誕生祝いなどをしてくださったおかげですっかり愉快になってぜんぜん眠くならない。
これは困った、とにかくふとんに入って身体だけは休ませようと思って、この日も11時半にとりあえず寝の体制に入る。
iPodで志ん朝の『居残り佐平次』を聴く。
佐平次がみんなから5円ずつ集めて、これで20円になる、これをおいらの母親のところに届けて・・・というところで記憶が切れる。
気がつくと朝。
やっと時差ボケが治った。

投稿者 uchida : 20:00 | コメント (0) | トラックバック

2006年09月15日

矢作俊彦さんと関係者のみなさんへのお詫び

8月10日に矢作俊彦さん、高橋源一郎さんとの『すばる』のための鼎談が行われ、その模様をブログ日記に報告した。
その中に矢作さんの発言として、実際には口にされていない言葉があり、それについて矢作さんご本人から『すばる』編集部経由で厳しいご叱正を頂いた。
海南飯店での女性店主に対して矢作さんが実際に告げたのは(矢作さんがつねに用いている)「おばさん」という意味の中国語であったのだが、私はそれを解することができず、音の似た日本語と勘違いして、間違ったまま書き記してしまった。
考えてみれば、矢作さんがどれほど親しい相手とはいえ、そのような非礼な呼称を用いるはずがないことに気づくべきであった。
矢作俊彦さんと海南飯店の店主の方に伏してお詫びを申し上げたい。
この問題について『すばる』編集部からの連絡が届いたのが、フランスからの帰りの飛行機に乗る直前であったために、結果的に日記の削除とお詫びの文章の掲載が帰国まで一日半遅れたことについても重ねての不手際をお詫びしたい。
矢作さんへの直接の謝罪に先立って、最初にブログに掲載された記事にかかわる訂正と削除であるので、取り急ぎブログにその旨を記し、関係者全員に私の失態についてお詫びを申し上げる。すでに記事を読まれた方には、「内田の誤解・誤記」であり、私の記述が矢作さんについての誤った印象をもたらすものであったことをご承知ねがいたい。
これまで繰り返し書いている通り、私は矢作俊彦さんの35年来のファンであり、矢作さんは私の「ヒーロー」の一人である。だから、矢作さんのその日の言動について記述した中には他にも不正確な記述は多々あると思うけれど、矢作さんを貶めようとする意図で書かれた言葉はその中に一つもないことはぜひ矢作さんにも皆さんにもご理解を頂きたい。
しかし、私の意図がどうであれ、矢作さんが現実に名誉を傷つけられたと感じたという事実は重い。
ここに伏して、おのれの軽率と非礼をお詫び申し上げる。

9月14日   内田樹

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フランスよれよれ日記

9月12日

パリ最終日。
明日の朝、バスが迎えに来て、それに乗れば、あとは自動的に日本に運んでいただける。
やれやれ。
長い旅であった。
ホテル缶詰暮らし3週間はさすがにきつい。
日本食は定期的に食べられたし、合気道の稽古もできたし、原稿もまとめ書きしたし、昼寝も飽きるほどしたし、ごろごろして本も読んだし、志ん生や円生の落語も堪能したけれど、やはり「そこが自分の家ではない」というだけでけっこう芯が疲れるものである。

9月11日

2001年9・11から5年目。
5年前も語学研修の最終日でちょうどパリにいた。
『フィガロ』を拡げるとテロ特集である。
ジョージ・ブッシュがテロとの戦いを始めてから5年経って、世界は5年前よりずっと悪くなったというのが『フィガロ』の説である。
私も同意見。
ヨーロッパでの世論調査では80%の市民が「ジョージ・ブッシュの外交政策は効果を上げておらず、事態は悪化している」ことを認めている。
イラクもアフガニスタンもレバノンも収拾のつかない状態であり、イランははっきりとアメリカに対して反抗的な態度を取っている。
ヨーロッパでは2004年にマドリッド、2005年にロンドンで大規模なテロがあって、多くの市民が犠牲になった。
今年はイギリスでアメリカ行きの飛行機を狙った同時多発テロ計画が未然に阻止されたばかりである。
フランスもイタリアも国際テロ組織から標的と名指しされている。
フランスでは2004年の公立学校への宗教的記章の持ち込みを禁止した法律の実施以来、イスラム過激派に身を投じるイスラム系の移民が激増した。
国内のすべてのモスクが厳重な監視下におかれ、そこに出入りするイスラム過激派のチェックが行われている。
しかし、フランスにはイスラム系市民が500万人いるのである。
500万人を監視することはどのような警察にも不可能であろう。
マグレブから東欧からロシアからアジアからフランスには移民がとめどなく流入し続けている。
その相当数は無資格滞在者(sans papier)である。
彼らに正式に滞在許可を与えるという法律が先般実施された。
採否の基準は「フランス社会への定着度」である。
移民たちの受け容れと教育と医療や生活保護のために莫大な税金が投じられていることに多くのフランス人は苛立ち始めている。
ニコラ・サルコジ内相は大統領になったら、かなりハードな移民政策を実施する意向を示している。
これがフランス国内のイスラム過激派を沈静化させる方向に働かないことは間違いない。
フランス政府はひさしく移民に対して(少なくとも表向きは)ずいぶん融和的・保護的な政策を取ってきた。
金はかかるけれど、「自由・平等・博愛」の看板代プラス「治安のコスト」である。
移民をシステマティックに非合法化すれば、彼らは地下に潜ってしまい、警察の目の届かない「アンダーワールド」を作り出してしまう。
それよりは「日の当たる場所」において、行政の管理下に置いた方がいい。
しかし、法律的に移民を受け入れるということと、かれらが社会に統合されるということは別のレベルの問題である。
フランスは階層社会である。
下層階層の人間にとって社会的上昇の「門」は狭い。
学校において高い知的パフォーマンスを示すことは上昇の数少ないチャンスだけれど、実際には教育を受ける機会は平等ではない。
ZEP(Zone d’E´ducation prioritaire)という文字を新聞でよく見る。
そのまま訳せば「教育優先地域」であるが、要するに「底辺校地域」ということである。
移民たちの居住地域は自動的に底辺校地域になる。
日本と同じく、地域の子どもは指定された公立学校に入学しなければならない。
校内暴力、無秩序、不服従の底辺校に入学させられた移民の子どもに知的未来は開けない。
私立に行かせる金のある親や教育行政の「抜け穴」を知っている親(教師が多い)は子どもをレベルの高い学校へ入れることができる。
あまり言われることがないけれど、「システムについての知識」の多寡がフランスのような社会では階層格差の拡大に大きくかかわってくる。
フランスは日本のように「かゆいところに手が届く」ような情報提供サービスはない。
システムの変更やシステムの利用法についてのアナウンスメントは必要最低限しか行われない。
だから、「システムについての知識」はフランスでは重要な文化資本である。
そして、その知識の差はそのまま階層格差に拡大される。
たしかにフランスは平等で民主的なシステムを構築している。
けれども、そのシステムの利用法についての知識は非民主的な仕方で配分されている。
先日実施された無資格滞在者の合法化措置も、フランス語を解さない移民たちはそのような行政措置がなされたことを知らなかった。
人権保護団体や左翼の政党とつながりのある移民たちは、彼らに教えられてその権利を行使できた。
フランス語の法律文が読めて、政治的なエスタブリッシュメントにすでに「つながり」を持っているということ自体、それらの移民たちがすでに「フランス社会に統合されていること」の指標である。
この行政措置は「フランス社会にすでにかなりの程度統合されている移民たち」を選び出すためのものであったが、それは「フランス社会にすでにかなりの程度統合されていなければ、セレクション自体に参加できない」というかたちで二重化されていたのである。
これが「フランス的」ということだと私は思う。
「システムについての知識」を持たない人間と持っている人間を同一システムに放り込んで、これは「平等な自由競争」であるというのである。
パリについたばかりのときに、「カルト・ミュゼ」という美術館の割引券を買うために11箇所の窓口をたらいまわしにされたという話をした。
そのとき私がもっとも驚いたのは、地下鉄公団の職員たちが、自分たちが販売している(はずの)割引券について、それがどこで売っているのかを言えなかったということである(正解は「それは発売中止になっているので、もうどこでも売っていない」だったのだが)。
システムの内部にいる人間でさえ、システムについての知識を欠いている。
そして、そのことを知らなかった(あるいは知りたくないと思っていた)。
たいへん失礼ではあったが、「彼らは一生この窓口勤務から出られないだろう」と私は思った。
フランスに少しいると、ここでは「自分の属しているシステムの構造や機能がわかっている人間」と「わかっていない(けど、そのことに気づいていないあるいは気づきたくない)人間」の間に超えがたい階層差があることがわかる。
そのようにして階層差は「システムについての知」という文化資本差を経由して、拡大再生産されている。
彼らをその階層に縛り付けているのは「システムについての無知」なのであるが、「自分は無知である」という事実を認めることを耐え難い屈辱だと思っている人間はおのれの無知から構造的に逃れることができない。

9月9日

ブザンソンを後にして、パリへ。
TGVは時速540キロ出るそうで、車体もそれに耐えるべくたいへんごつく作ってある。
頑健であるということが第一次的に重要なので、乗客の利便性とか快適性ということは、(ごく)副次的にしか配慮されていない。
シートは狭く、固く、通路は大人が横にならなければ通れない。
それで実際には140キロくらいで走っている。
これだけ狭苦しく作るなら、せめて540キロで走って欲しい。
パリまで40分なら我慢してもよろしいのだが。
フランス人のテクノロジーについての考え方は、私どもにはどうもよくわからない。
午後1時過ぎにパリ着。
そのままホテルに入り、昼寝。よく眠れる。
日の暮れかけたころ、のろのろ起き出して、学生四人を連れて「ひぐま」へ。
味噌ラーメンと餃子とスーパードライを頼む。
学生たちは「はあ」とか「ふう」とか「やばい」などと呟きながら、ずずずとラーメンを啜り、餃子を囓り、カツ丼にむしゃぶりついている。
「やばい」というのは『明治百話』によると、明治時代に集治監で用いられた囚人の隠語で「危険な」の意である。
それが転義して、今日では「危険なほどにすばらしい」という意味で用いられていることをご高齢の方はご存じあるまい。
先般、野沢温泉でひとり露天風呂に浸かっていたら、あとからきた若者三人づれが、肩まで湯に浸かって、感に堪えぬように三人揃って「やべ〜」と唱和していた。
フランス語であればsuperbe! とかmagnifique! と長嘆すべきところである。
別に「ひぐま」の味噌ラーメンはそれほど風味絶佳というほどの代物ではないのであるが、やはり日本人のソウルフードである。
味噌醤油からわれわれの細胞のすみずみにまで必須アミノ酸が浸透してくるのである。
それだけではない。
なぜ、われわれは「ラーメン」とか「けつねうろん」とか「ざるそば」といった麺類食物に固着を示すのか。
私見によれば、これはこれら麺類を食する際には、「重力の法則に逆らって、下方にある食物を上方に、汁をはねとばしつつ、かつ『ずずず』という吸引音をたてつつ、啜り上げる」というたいへん特異な作法が許容されるからであろうと思われる。
フレンチでもヌイユあるいはヴェルミセルなどと称して細身の麺は食卓に提供されることがあるが、これらはキュイィエールの上に載せ、フルシェットに巻き付けて食される。
むろん「啜る」などという行為は介在しない。
日本でも食事に際して「啜り音」を立てることは禁忌であり、唯一麺を食するときのみこれが許されているのである。
試みに「ざるそば」をスプーンに載せてから、くるくるとフォークに巻き付けて、「たれ」に暫時浸したのち、空中を水平移動して無音で嚥下してみたまえ。
うまくもなんともないぞ。
麺類は「ずずず」と壮大な音を立てて啜り上げ、あたりに汁をはねちらして食べるのが「いちばんうまい」。
それゆえ古代より多くの有職故実の人々が「無音で麺を食べる作法」についてテーブルマナーを提案されたはずであるが、一つとして今日に伝わらないのである。
「ひぐま」の客はほとんどがフランス人であり、おぼつかない手つきでラーメンや焼きそばを食べているが、彼らは「啜る」という食行為をする能力が発達していないので、たいへん食べにくそうである。
とくに昨日不幸そうであったのは「ざるそば」を食しているフランス青年のありさまであった。
彼はその食事をどう食べてよいのかわからぬまま注文してしまったらしい。
「せいろ」上の「そば」の上に葱を全部かけてから、「そば」を箸にぐるぐる巻き付けようとしている。
おそらくはどこか適宜な量になったところでこれを「たれ」に浸して、口中に投じようとしたのであろう。
だが、計画通りにことは運ばない。
若干のびた「そば」は箸に巻き付けた場合にエンドレスに巻き付く。
彼はようやく直径5センチほどの球体となって「せいろ」から離陸した「そば」を「たれ」の椀に着地させようとするのであるが、この巨大な球体を受け容れるほどの直径が椀にはない。
彼はふたたび「そば」を「せいろ」に戻し、それを箸を以てほぐす作業にかかったが、いったんほぐされて球体を離脱した「そば」は「せいろ」上の他の「そば」と癒着する。
見る間に、「せいろ」上には「葱」「わさび」「のり」が付着した「そば」のマッスが現出した。
それは彼の貧しい箸操作能力をもってしては、もはやどうにも処理することのできぬカオスであった。
私は彼と「ざるそば」との格闘シーンを5分ほど観察していたが、彼はその5分間に一箸分の「そば」をも食することができずにいた。
青年よ、それはね、箸によって数本を摘み上げ、「そば」の下部が「せいろ」上の「そば」本体から離脱すると同時にすみやかに手前に水平移動をして、「たれ」に下部から浸し、間髪を入れず一気に上方に啜り上げねばならぬのである。
ということを言ってあげたかったが私の貧しいフランス語運用能力がそれを許さなかったのである。
またかの青年をはじめ周囲を観察すると、相当数のフランス人が箸を左手に持っている。
これはどう考えても、左利きの存在比率を超えている。
おそらくは箸をその「食物を口中に運ぶときに最後に操作し、口に触れる食器」という機能から推して、フォークと同種のものであると錯認したことに起因した事態と思われる。
パリではただいま日本料理が大ブームであり、市内に数十軒のキュイジーヌ・ジャポネーズの店舗が展開しているそうである。
「ひぐま」もわれわれが出るときには10人ほどのフランス人が列を作ってテーブルの空くのを待っていた。
誰かが「正しい日本風麺類の食べ方」についてフランス人の蒙を啓かぬ限り、かの青年を訪れた不幸は増殖することを止めぬであろう。

9月8日

お稽古三日目。
体術半分、剣と杖の稽古を半分。
二時間があっというまに過ぎる。
サントル・ガルシエのエルヴェ、イワンご兄弟のご厚意で、毎回こうやって道場を開放していただいているのである。
まことに心の暖かい方々である。
サントル・ガルシエは彼らの父ルネ・ガルシエが開いた道場である。
ガルシエ父は柔道7段。フランスにおける柔道普及に功績のあった方である。
植芝盛平先生のところに嘉納治五郎先生から派遣された望月稔先生に師事したので、父ルネは私からすると「回り盃」的には「従兄」に当たる。
ガルシエ兄は軽量級の柔道フランス・チャンピオンだったが、引退して柔道を止め、望月フィスに師事して柔術家となったガルシエ弟が父の道場を継いだ。
このイワンさんが十数年前に道場を継いだ直後に、当時高校生を出たばかりのブリュノ君が入門してきた。
イワンさんにしてみると最初の弟子である。
そういう浅からぬご縁というか、わりと浅いご縁であるにもかかわらずイワンさんはかつての弟子が他流の武道である合気道の稽古をするために道場を私どもに開放して下さっているのである。
よい方である。
ブリュノくんと知り合って10年であるから、イワンさんとのおつきあいも10年になる。
最初のころはガルシエ父もまだご壮健であっていろいろ合気道についてご下問されたことがあるが、84歳になられて、もう往年の元気はないそうで、おめもじはかなわなかった。
稽古のあと待ち合わせてそのイワンさん、ブリュノくんといつもLotus d’orへ。
中華を食べ、ワインを飲みながら、武道について歓談すること3時間。
イワンさんから父ルネとの確執、フランスにおける道場経営の諸問題などについてなかなかシビアな話を伺う。
日本から遠く離れたフランスの地方都市にこのように気心の知れた道友を得ることができるとは、まことに人生というのははかりがたいものである。
一夜明けて、ブザンソン滞在もあますところ一日となった。
二週間はあっという間に過ぎた。
考えてみると、これも一種のバカンスだったようにも思われる。
ホテルの部屋の窓から見えるのが、隣のオフィスビルの壁だけであることを除けば、ホテルも悪くなかったし、仕事も捗ったし、ブリュノ君相手の特訓も面白かったし、レストランのご飯も美味しかったし、学生たちもフレンドリーな諸君ばかりであった。
これで文句を言ったら罰が当たるな。
今日は最後の授業なので、担任のリディア先生にご挨拶に伺う。
先生は二年前もうちの大学のクラス担任をされた。
そのときは、コムロくんやうちのゼミの「ねーさん」がお世話になったのである。
学長に代わって(勝手に代わってはいけないのだが)大学からのお礼を申し上げ、ついでに成績のつけかたについてあれこれとテクニカルなことを取り決める。
リディア先生、どうもありがとうございました。また二年後もよろしく。
とご挨拶して、これで私の今回の語学研修における「公務」部分は終了する。
あとは関空に帰るまで事故や病気がないように神に祈るだけである。
今日は残り時間に最後の合気道の稽古をして、すこしおみやげを買って、夜は学生たちとブリュノ君といつものAu Feu Vert で最後のフランシュ=コント料理を食べる予定である。
薄切りにしたポテトとモルトーというソーセージの上にコンコワイヨットという溶けたチーズをかけたグラタンが代表的なキュイジーヌ・フランシュ=コントワーズである。
10年間これを断続的に食べ続けているうちに、だんだんと「味が決まってきて」、日本にいても、ときどき無性にこの料理が食べたくなる。
だが、こんなものはフランシュ=コンテ地方でしか食べることができない。
コンコワイヨットというチーズが日本には輸入されていないのである(ブザンソンの姉妹都市である岐阜には少量輸入されているらしいが)。
しかたがないので、ブザンソンに来たときに「食いだめ」をしておくのである。

9月7日

ブザンソンも残りあと二日となった。
Le temps passe vite.
ホテルの部屋にこもって終日原稿を書き、夕方から合気道の稽古にゆき、終わってからシャワーを浴びて、街へくりだして冷たいビールを飲み、ご飯を食べながら、ブルーノくんと武道について、日本文化について、フランス大統領選挙について、教育問題についてもろもろおしゃべりをし、それから星空を見ながらディジュスティフを啜って、ではまた明日。
という判で押したような生活もあと二日でおしまい。
稽古は今回は剣、杖中心で行っている。
フランス人はふつう剣、杖を構えて、斬るという動作をしている人をあまり見る機会がないので(ちゃんばら映画がないからね)、つい力が入る。
力を入れてはいけないよということを繰り返し指摘する。
剣とか杖というのは道具ではない。私の身体とともに複素的な身体を構成するところのパートナーである。
剣や杖にはそれが通るべき道があり、私たちにできるのは、その自然発生的な動線を妨げないことである。
私たちがそれを統御しようとしなければ剣、杖はその最高速、最大出力を発揮する。
逆説的なことであるが、剣、杖の操作法とは「いかにして操作しないか」を学ぶことなのである。
ということを懇々と説き聞かせる。
ブルーノくんは目をきらきらさせて、深く頷いている。
だが、どこかで剣、杖の動きを止めなければならないときがくる。
当然だね。
これを腕の筋肉の力で止めることはできぬ。
なぜなら、それだと腕や背中の筋肉が痛みを予感して、「痛くならないような予備的動作」を無意識にしてしまうからである。
それはほとんどの場合身体を硬直させ、痛覚を鈍磨させるというかたちで行われる。
武道の稽古の目的は心身の柔軟性と感受性の錬磨であるから、硬直や鈍磨を前提にした身体運用は禁忌である。
では、どうやって止めるか。
止めてはいけない。
止まらせなければならない。
そこで止まることが剣、杖にとってもっとも自然であるようなポイントとタイミングがある。
身体のすべての部位が剣、杖が「そこで止まる」ことによって理想的な均衡を実現するような、そのようなただ一つの点に向けてすべてが収斂する。そのようでなければならない。
というような話をする。
偉そうなことを言っているが、ウチダ君、キミにそれができるのかねと言われそうだが、もちろんそれができるようなら、もっと次元の高いことを稽古している。
できないからそれを稽古しているのである。
実際にできなくても、それができればよいということがわかればそれでよろしいのである。
多田先生の使われる譬えで言えば、「新大阪行きの新幹線に乗っていれば、今は小田原でも、そのうち名古屋につき、京都につく」からである。
だから、東京駅で「このホームの列車に乗りなさい」と教えるだけだって、立派な指導になるのである。
新大阪どころか新横浜のレベルにもたどりついてない人間に教える資格があるのかと言う人がいるかもしれないが、どのホームで乗ればいいかを知っていれば「レベル」などという相対的なことは、極端な話どうだっていいのである。
武道をフランス語で教えるのはなかなか興趣豊かな経験である。
体術の場合は、実際に身体と身体が触れ合っているから、こちらの身体の中で起きていることを接点を通じて実感させることができる。でも、剣や杖のようなものが媒介すると、体感の伝達は困難になる。
いきおい、そのあたりの説明は言語によるしかない。
剣の伝書というのは、だから全編メタファーで埋め尽くされていて、プラクティカルな指示はほとんどない。
そんなメタフォリカルな日本語を四苦八苦しながらフランス語に翻訳すると、ブルース・リーが『燃えよドラゴン』で弟子に語っていたような「指を見るな、月を見よ」とか「考えるな、感じるのだ」というようななんだかできそこないの詩のようなものになるのである。

9月4日

ヴァカンスを取ったブルーノくんとヨシエさんがブザンソンに来る。
いっしょにデギュスタシオン(ワインの試飲)に行こうと約束してあったので、ホテルに迎えに来てもらう。
「おじさんとおじいさんも一緒です」というので、あいまいな返事をしていたら、最初にジャン=クロードおじさんに紹介してもらって、次にお祖父さんの家でお祖父さんとユベールおじさんに紹介してもらって、それからミッシェルおじさんと、従弟のジュリアンに紹介してもらって(大家族だね)、一同でデギュスタシオンに繰り出すことになった。
どうも一家あげての年中行事に参加させていただくということだったようである。
まずPupillinという小さな村に行く。そこのワイナリーで出てくるワインを次々と試飲する。
デギュスタシオンは二度目であるので、事情はわかっているが、要は「お手頃価格でコストパフォーマンスのよいワインから出して、だんだん値段の張るワインに移ってゆく」のである。
つまり、最初は「え、こんな美味しいのにこの値段なの!」と度肝を抜かれて「じゃ、これ頂戴」ということになる。
ところが次に出てくるワインはもっと美味しくて値段も変わらない。
さっきのを買ってこれをパスするということになると自分自身のワイン賞味力の不足を暴露することになるので、ついこれも買ってしまう。
そうやってがんがん飲んでゆくうちに最後にそのワイナリーの「四番打者」のようなものが出てくる。
これを賞味するころにはもう全員「すっかりお燗がついちまって」(@志ん生)、「あああ、甘露じゃ、ネクターじゃ」状態なので、このワインを飲まずに死ねるかということで「箱買い」ということになる。
すぐれた商売である。
最初のワイナリーでユベールおじさん、ジャン=クロードおじさんのともだちとおぼしきおじさん三人が合流する。
そのまま次なる本命のワイナリーであるCamille Loyeへ。
Jura のワインは日本にはほとんど入ってこないが、実はブルゴーニュの横であるから、ワインの名産地なのである。とくにArbois のワインは美味しく、その中でもひそかに名酒として知られるのがこのカミーユ・ロワ爺さんが作るところのTrousseauというセパージュの赤なのである(ヨシエさんの受け売り)。
カミーユ爺さんはもう葡萄酒を作っていないので、これまでのストックをばら売りしている。
自分のうちの葡萄畑で採れた葡萄を自分のうちで葡萄酒にして、瓶詰めして、そのままうちの地下室に寝かしてある。
「ワインには旅をさせるな」という俚諺があるとおり、ワインは日に当てない、振動を与えないというのがその繊細な味を守るためのマストなのである。
だから、こういう保存状態のよい地酒は、たいてい日本のフレンチレストランで出すその10倍の値段のワインより美味い。
というわけで、おじさんたちとブルーノくんはカミーユ・ロワのボトルを段ボールにほいほいと詰め込んでゆく。
すっかり燗の付いた状態のままサランという街のレストランに繰り出して、晩ご飯。もう九時を回っている。
Escalope Jurasienne (仔牛の薄切り肉にハムとチーズを載せて焼いたもの・・・書くだけでも美味そう)を食べる。ものすごい量なので、腹がちぎれそうになる。
デザートはCoupe Mont-Blanc というものを食べる。
「どんなものなの」と訊くと「ヴァニラアイスとマロンクリームにホイップクリームを載せたもの」だそうである。
「じゃ、それ」と頼むと高さ15センチくらいのホイップクリームの山が来る。横に黒いクリーム状のものがあるので、これをつついて食べると、なんと「あんこ」である。
マロンクリームって「あんこ」のことだったのか。
私は重度の「あんこ中毒」であり、日本にいるときは「大福」的なものを欠かさない(午前10時ごろに脳が糖分不足になるととりあえず大福を投与して血糖値を上げて、原稿を書き進むのである)。
1週間ほど「あんこ」抜きで原稿書きをしていたので、ひさしぶりのこってりした甘みに幸福な気分になる。
ブザンソンに戻ったら12時になんなんとしていた。
フランス人のペースはだいたい日本人が同一の行為を行うのに要する時間の2倍と考えておいてよいが、ビゾンタン(ブザンソン人のことをそう呼ぶのである)の場合は3倍にカウントして臨む方がよいであろう。

9月3日(日曜)

ホテルには新聞は地元紙とFigaroが置いてある。
ふだんフランスにいる間はLibe´ration を読むのだが、今回はフィガロを読む。
このところずっと大統領選挙の前哨戦であるUniversite´ d’e´te´ (各政党の夏期研修大会のようなものらしい)の報道が続いている。
シラクの次の大統領のポストにいちばん近いのはNokolas Sarkozy 内相のようである。テレビのニュースでもまずサルコジの活動の様子から紹介される。
昨日はマルセイユで若者8000人を相手に演説。
その要約を読んだが、なかなか興味深い。
「68年世代への決別」というのが中心テーマである。
お、オレのことか。
どうも、フランスでもわれわれ「全共闘世代」はその後のフランス社会の健全な発展にたいへんご迷惑をかけたようである。
フランスの同世代に代わって、サルコジさんにお詫びをしたい。
「親父の世代は安楽に遊び暮らして、そのツケを息子の世代に払わせる気か」とサルコジさんは手厳しい。
日本と事情は似ている。
今こそ、「放埒と無秩序の68年世代」と決別せねばならぬ。
というサルコジさんのロジックは「今のフランスが悪いのは全部《あいつら》のせい」といっているわけだから、構造的に歴史的責任を免れている若者にはきっと受けることであろう。
集会にはだからラッパーなんかが応援に駆けつけている。
ロック歌手ジョニー・アリディも壇上に登場して大喝采だったそうである。
おお、ジョニー、生きていたのか。元気そうでなによりだ。
シルヴィー・バルタンはどうしているだろうか。
そうか、フランスではこの30年ほどは「右翼」が「過激派」で「改革派」で「若者より」なのだったね。
サルコジさんは「兵役」(service militaire) に代わる「民役」(service civique) の創設を提案している。
18歳以上30歳未満の人々を6ヶ月間公共的な目的のために働かせようというのである。
社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル(Se´gole`ne Royal)も同じような公約を掲げていたから、フランスではかなり現実性の高い政策なのであろう。
つまり、街でごろごろしている若い奴らを一度「兵営」に叩き込んで、きっちりしつけをして、「世の中のしくみ」つうものをわからせてやらにゃいかん、ということである。
フランスが徴兵制であった頃にはたしか兵役が24ヶ月で、兵役はいやだという男たちは公共的な仕事を36ヶ月することが義務づけられていたかに記憶している。
彼らの一部はAlliance Francaise のフランス語教師となり中近東、アジア、アフリカなどに派遣された。
そんな一人であるマルク・リゴディスくんと仲良くなって、院生助手時代にずいぶん一緒に遊んだけれど、マルクはその後どうしているだろうか。元気か〜。
ともあれ、「民役」という政策はフランス人には受け容れられやすいだろうから実施される可能性が高い。
日本でもきっとそのうち「ニート対策」の起死回生の秘策として、誰かが言い出すだろう。
ロワイヤルさんも同じ政策を提言しているけれど、これは主に学校の破滅的状態をなんとかしようという目的である。
フランスの学校の「学級崩壊」もすさまじいようである。
教師に対する暴力と不服従をどうするかをロワイヤル候補が政策の第一に掲げているほどである。
ロワイヤル候補は「民役」で召集した諸君を全国の教室にひとりずつ教師の助手(le deuxie`me adulte dans la classe)として配備するというアイディアを出しているらしい(私のフランス語理解力がたしかであれば、どうもそんな話のように思われるが、違うかも知れない)。
「焼け石に水」という気がするが。
フィガロは保守系の新聞だから仕方がないが、読み比べると、どうもサルコジさんの話の方が「前向き」で、ロワイヤルさんの方が「後ろ向き」という印象を受ける。
サルコジさんは「国民の義務」を強調し、「すべてのフランス人は共和国のために義務を果たさねばならない」と演説を結んでいる。
どうも、この勝負はサルコジさん有利と見た。
とにかくフランスでもわが国も「だらだら仕事をしない若者」と「勉強しない子供」が悩みの種であることは共通している。
その原因が「68年世代」に帰されている点も。

9月2日

終日原稿書き。
『街場の中国論』をさくさくと書き続ける。
電話もかかってこないし、メールも来ないし、宅急便も来ないし、とにかくほぼ完全な缶詰状態である。
することと言ったら、ご飯を食べることと、買い物に出かけることと、シャワーを浴びることと、寝転がって本を読むことと、寝しなにテレビを見るくらいである。
これほど集中的に仕事ができる環境というのは、日本にいる限り、たしかにありえないであろう。
「麻雀やりましょう」と誘いも、「亀寿司で中トロどう?」なんていう誘いも、お稽古の誘いも何もないんだから。
街に出て、また本屋に寄って、あれこれ立ち読みしているうちにリーブル・ド・ポシュに何冊か村上春樹の訳本を発見する。
急に村上春樹が読みたくなる。
『神の子供たちはみな踊る』の仏訳 Apre`s le tremblement de terre (地震ののち)を買う。5ユーロ。
「かえるくん東京を救う」という短編が好きで、それが再読したくなったのである。
仏訳タイトルはCrapaudin sauve Tokyo
僕はこれに限らず、男が家に帰ってくると見知らぬ客人がいて、どうにも信じられないような物語を始める。聞いているうちに、男はその不条理な話をだんだんと信じ始める・・・という村上春樹の物語パターンがとても好きなのである。
東京の地下に巨大なミミズがいて、今にも地震を起こそうとしている。それを阻止できるのは「片桐さん、あなたしかいない」とかえるくんは告げる。
よい話である。
仏訳から重訳してみる。
「かえるくんはそう言ったが、細かいところに片桐にはわからない点がいくつもあった。それでも、話の内容は超現実的ではあるけれど、彼はかえるくんが話したことを信じてもよいと思った。かえるの顔つきや、その言葉づかいには、何かしら心に直接触れるものがあったからだ。片桐は銀行のハードなセクションで働いているせいで、そういうことを感知する才能は身につけていた。」
こういうフレーズはフランス語でも「いかにも村上春樹的だよな」ということがよくわかる。
とくに村上春樹は翻訳されることをほとんど最初から勘定に入れて書いているから、日本語の文章と訳文のあいだに温度差がない。
寝転がっているうちに六編のうち四編を読み終えてしまった。
フランス語訳された既読の日本文学を読むというのはフランス語のニュアンスを理解する上ではたいへん効果的な学習法であることがわかる。
今頃わかってもしかたないけど。

9月1日

あれよあれよと言っているうちにスタージュの前半が終了した。
ようやく秋晴れの空で気温も少し上がったので、洗濯をする。
ホテルの洗面所で石けんで手洗いをして、かねて用意の「物干し」グッズを駆使して乾かす。
フランスは湿度が低いので乾きが早い。
汗をかかないので、下着の汚れも手洗いで簡単に落ちる。
ざぶざぶ洗濯をしていると、ほっとする。
これが唯一の「家事労働」だからである。
家事労働から切り離されていると、精神状態が微妙に不安になる。
これは私のサガであって、一般化はできないが、アイロンかけとか、半襟を縫いつけるとか、そういう単純な手仕事をしているときには「そういうときにしか使わない脳の部位」が活動する。
手は動いているわけし、かなり複雑なことをしているので、そういうことをしながらでも使える脳の部位となると、これが「ふだんはあまり使っていない脳の部位」なのである。
どうでもいいような昔のことがパノラマのようにめぐったり、返事を忘れていた手紙があったことを思い出したり、ある人が以前言った言葉の意味が急に腑に落ちたり・・・そういうことが家事労働のあいまに起きる。
私のように「わっせわっせ」と走りながら生きている人間の場合、そういうことはふだんは起こらない。
だから、一日一定時間の家事労働が私には必要なのである。
ホテル暮らしは家事ができないのがつらい。
掃除機と洗濯機とアイロンが使えて、日当たりのよい物干し台があって、台所で自炊してよいホテルというのがあったら、相当期間滞在しても大丈夫なんだけど。
講談社の本がとりあえず完了したので、『街場の中国論』にとりかかる。一日一章のペースで仕上げるつもりだったが、ものが中国なので、歴史的なことや現代のことで調べものが出てくる。だいたいのことはパソコンに搭載してあるエンカルタ百科事典で足りるのであるが、「あの本のあそこに、これに関連することがあったはずだが・・・」というときに「あの本」が手元にない。
これがつらい。
私がものを書くときというのは、大筋の骨組みがあって、具体的なエピソードや統計数値はその傍証に使われるということはあまりない。
それは本職の学者のやることである。
私の場合は、具体的なエピソードの細部や、あまり意味のなさそうな固有名詞や数字を見ているうちに、「あれ?『これ』って、『あれ』じゃない?」という連想が働き出して、話が思わぬ方向に転がってゆき・・・という展開でものを書いているので、この「調べ物」というのが、論脈の重大な分岐点になることが間々あるのである。
よけいなエピソードに深入りしているうちに、話の筋目がぜんぜん違って、当初予定していた結論と逆の結論になってしまうというようなことは日常茶飯事である。
だから、書庫のそばにいられないというのは、かなりつらいことなのである。
中国関係の参考書をいくつか持ってくるつもりだったのだが、荷物の重量制限が20キロということでほとんど置いてきてしまった(あとで聞いたら、ビジネスは30キロまでオッケーなので、あと10キロ分本が積めたのである。うう)
だから、中国関係の本が何もない。
昨日街の本屋で、バカロレアの受験参考書の「歴史」というのを見つけて立ち読みしているうちに、おもしろくなって買ってしまった。15ユーロ。
つまりフランスの標準的高校卒業生の歴史認識が「この程度」ということが知れるのである。
これはなかなか面白かった。
フランス人が自国の歴史をどんなふうに総括しているのか、面白くて、つい読みふけって。
ヴィシー政府のとき、仏領インドシナを日本と国際法上は共同統治していたかたちになっているが、そのあたりのことはどう書いているのか興味があったが、なんと仏領インドシナについては一行の記載もなかった(!)
日本の世界史ではちゃんとナポレオン三世の帝国主義政策としてインドシナ半島を植民地化しメキシコに干渉してマクシミリアンを皇帝に据えたことまで習った覚えがあるが、フランス本国の高校生は「そういうこと」はなかったことになっているらしい。
たぶんどこの国の教科書もそういうことになっているのであろう。
アメリカがメキシコの国土の半分を強奪したことや情報機関を使ってハワイを併合したことをアメリカの教科書はどういうふうに記述しているのか興味がある。誰か知っていたら教えてください。
本屋にはほかにリセの「国語」や「英語」や「哲学」の教科書もあった。
フランスの高校生が「英語」をどんなふうに勉強するのか、ちょっと興味があるので、来週はこれを買ってみることにしよう。
He is an oyster of a man.
から始まらないことは確かだけど。
え、ご存じない?
これは「山崎の新々英文解釈」という1960年代まで高校生必読の英語参考書の最初の例文なのである。
意味は「彼は牡蠣のように寡黙な人だ」。
友人の故・竹信悦夫が朝日新聞でJapan Quarterlyという英字誌の編集長をしていたときに、副編集長のアメリカ人がこんな質問をしてきたそうである。
「あの〜竹信さん、日本人の書いた英語原稿のプルーフ・リーディングしているとですね、『あまりものをしゃべらない人』というときに、なんだかやたらHe is an oyster of a man という表現が出てくるんですよ。こんな言い方、今アメリカ人誰もしませんけど、どうしてなんですか?」
竹信くん、破顔一笑して「それはね」と教えてあげたそうである。
手元のジーニアス英和辞典を引いたら「古俗」として用例に上がっていた。
たぶん今のアメリカ人には「拙は蒲柳の質でげす」みたいな言い回しに聞こえるのであろう。
スタージュの前半一週間が終わった。あと一週間。
さすがに学生たちも疲れてきたようで、あちらで一人こちらで一人というように熱を出して倒れてゆく。
食べ物が合わないというのが一因である。
いくら当今の女子大生がイタ飯だのフレンチだの食べ歩いていても、主食は米に醤油味のおかずである。
それが長期間断たれているわけである。
ソウル・フーズが摂取されないと、なんともいえない脱力感が全身を冒して、ベッドから起き上がれなくなる。
スーパーではSauce de Soja を売っているので、さっそく一学生がこれを購入して、朝食のハムにかけて食べている。
私もそろそろ醤油が恋しくなってきた。
今夜あたりはまた金蓮亭に行って「やきそば」と「ラーメン」でも食べるか。
学生たちの様子を見ていると、日本を出て10日経って、ばたばた倒れる中で、相変わらずのテンションを保っているものもいる。
旅に出ると「タフネス」というもの本質がよくわかる。
それは「何でもおもしろがる」才能である。
まずいものを食べても、不条理な目に遭っても、納得の行かないことがあっても、ネタにして笑いとばしてしまうことができる人は、こういう旅では強い。
自分の思い通りにならないとイラついてしまうという人は海外では暮らせない。
私はルーティンの人なので、世界中どこに行っても、そこで「自分の生活パターン」というものを作って、それを律儀に守る。
時間割通りに毎日が進めば、基本的に私はご機嫌である。
ブザンソンも七回目となり、生活パターンが安定してきたのがご機嫌の理由の一つである。
あとはiPodのおかげかな。

8月31日

ようやく晴れた。
でも、「秋晴れ」である。
たいへんさわやかなので、気分よいのであるが、もう秋かよ・・・という感じは否めない。
やはり夏は暑くないとね。
昨日一日かけてニート本が終わる。
タイトルを考えないといけない。
仮題は「学びからの逃走、労働からの逃走」というものであるが、「学びからの逃走」は佐藤学先生のオリジナル・コピーライツがあるから、メインタイトルにはちょっと使えない。
どうして子どもたちは勉強しなくなったのか、若者たちは働かなくなったのかという問いをめぐる考察なのである。
英語だと「勉強する」も「労働する」もどちらもwork 、フランス語ならtravaiiller だから、Why do the children stop working? で話は通じるのであるが、日本語は別の言葉なので、「勉強しないこと」と「働かないこと」の間に同一のロジックが貫流していることに気づきにくい。
「学ばない子どもたち、働かない若者たち」
「《自分探し》症候群」
「《それが何の役に立つの?》という病」
「いいから黙ってやることやれよ」
などというタイトルを思いつく。
書き終わったので、次の本『街場の中国論』にとりかかる(M島くん、よろこんでね)。
この2冊と『TFK2』で今年は終わりのはずである。
『TFK2』は再校まで行っているから、もう終わったも同然。ということは『街場の中国論』を書き上げれば今年は終わりということである。
やれ、ありがたい。
『文藝春秋』からホテル宛にファックスが届く。
秋の「教育特集号」に寄稿したエッセイの校正である。
さくさくと直して返送。

8月29日(火)

ブザンソンは今日も雨。
寒い。
朝ご飯を食べにゆくと昨日、熱を出して寝込んでいた学生が元気に朝ご飯を食べている。
昨日「醤油飯」を食べたら、元気が回復したそうである。
ほらね。
学生さんたちは元気に学校へ出かける。
部屋に戻って、震えながら原稿書き。
寒いので仕事が捗る。
さくさく書いているうちに昼になる。
ご飯を食べに出るのも面倒なので、朝ご飯のときに持ってきたリンゴを囓ってすませる。
そのまま夕方まで身じろぎもせずに原稿を書き続け、夕刻ようやく講談社のニート論初稿を脱稿。
「ホテルに缶詰」とはまさにこのことである。
電話もかかってこないし、メールも届かないし、宅急便も来ない。
午前10時頃に、部屋の掃除のおばさんが来るだけである。
午後7時になったので、熱いシャワーを浴びて、身体を暖める。
『山姥』のMDに唱和して、謡の稽古をする。
私のあてがわれた338号室は3階の一番はずれの、おまけに防音扉のさらに向こう側の「離れ」なので、どんな音量を出しても、隣室から抗議が来る気遣いはない。
だいたい、こんなに寒いブザンソンにバカンスで来るほど酔狂な人もいないので、ホテルはがらがらである。
氷雨の中、10分も歩いて町まで出るのも億劫なので、ホテルのレストランでご飯を食べることにする。
ドイツ料理である。割と安くてボリュームたっぷり。
シュークルート(ザウワークラウト)を食べる。
酢漬けのキャベツである。
それがざっとキャベツ一個分くらい皿に乗ってくる。
その上にソーセージが二本、サラミが二枚、ルービックキューブ大の豚の角煮が一個、ポテトが3個乗っている。
ビールとワインの小さなピシェ(250cc)を頼み、メルヴィルの『白鯨』を読みながら、酢キャベツを食い、ワインを飲む。
レストランは一人で寂しく飯を食う中年男たちがあちこちでぱらぱらと座っている。
ふと思い立って、私はいま講談社の所有するブザンソンの「缶詰用ホテル」に幽閉されているということにする。
あの中年男たちもみんな私と同じように缶詰にされているのである。
そういうときはお互いに顔を合わせず、話もしないものであるらしい。
そう思うと、愛想のないウェートレスの立ち居振る舞いも妙につきづきしい。
なるほど、これほど効率のよい缶詰ホテルって、他にないよな。


8月27日(日曜)。

ブザンソンに着いて二日目。
土曜日の朝、ガール・ド・リヨンからTGVに乗って2時間半。無事にブザンソンに着く。ずっと小雨が降っている。
パリも寒かったけれど、ブザンソンも寒い。
荷物をほどいて、一休みしてから、学生さんたちを連れて街に買い物に出かける。
ギャラリー・ラファイエットで水とワイン、持ってくるのを忘れたワインオープナーとフォークとナイフを買う。ついでにリーヴァイスのセーター(75ユーロ)も買う。安い。
毎回旅の終わり頃にはセーターやコートを買うのだけれど、さすがブザンソンに来た初日に買ったのははじめてである。
長袖のシャツ3枚のほかにもしもに備えて薄手のコートをトランクに入れてきたが、そのコートが手放せない。半ズボンやら海水パンツなんかまるで用無しである。
一度部屋に戻って、原稿書き。
夕方に「中華を食べたい」という学生たち四人とおなじみ金蓮亭(Lotus d’or)へ。
まだ日本を出て四日目だけれど、はやくも「醤油切れ」を来したらしく、「醤油味のものが食べたい」「米が食べたい」と言い出したのである。
私はパリ二日目にちゃんと中華を食べておいたし、今回も「あさげ」や「松茸の味お吸い物」などを持参しているので、アミノ酸系の補充は十分である。
日本人はふだん必須アミノ酸を醤油から摂取しているので、醤油が切れるとなんとなく脱力感につきまとわれる。アジアを旅行しているとこの感じはしないのだが、欧米で現地食だけ食べていると、三日目くらいに脱力感に襲われる。
日本人は肉とバターだけでは持たない。
ロータス・ドールで「焼きそば」「餃子」[「揚げ春巻き」「エビ入り野菜炒め」「蟹とアスパラのスープ」と焼き飯(Riz Cantonais)を食べる。
「ああ、醤油が細胞に浸みてくる・・・」と学生諸君たいへん喜んでくれた。
八時半に食べ終わり、とことこ歩いてホテルに帰る。
土曜の夜というのにブザンソンの街はすっかり暗く、人気がない。
そのままベッドに潜り込んで翌朝9時まで爆睡。
今年はホテル朝飯付きである。前回は代理店が手配した宿舎がどたんばでキャンセルされたために、急遽CLAの隣のIbis La City に入った。料金の差額を埋めるために朝飯がカットされた。今回ははじめからここに決めたせいで朝飯が付く。6ユーロ。
いずこも同じホテルの朝飯を食ってから部屋に戻って原稿書き。
講談社の本が8割方終わるが、全体のトーンをどうするかまだ決めていない。
こういうものは一回最後まで時間をかけて書いてから、全体を一気に書き直す。ある程度時間をかけてじっくり書き込まないと、話に深みが出ないが、一気書きしないと、話にリズムが出ない。
だから、初稿はじっくり時間をかけて書き、手直しは二日三日で一気に全体を書き直す。
全体のトーンはたとえば主語を「私」にするか「僕」にするかで変わる。それだけでほとんど別の本になってしまうのである。
軽い感じの本にしようか、重めの本にしようか、まだ迷っている。
この期に及んでまだ迷っているのは、ものが教育論、ニート論なので、できるだけ若い人に読んでほしいのだが、実際には中高年の経営者セミナーでやった講演のテープ起こしなので、文体が何となく「おじさんオリエンテッド」なのである。
この落差をなんとかしなければならないので、手を焼いている。
お掃除のおばさんが来たので、原稿を切り上げて、街へ出る。
ようやく雨が上がって、秋晴れの青空がところどころ覗いている。
まず聖ジャン教会へ行って、お灯明を捧げて、旅の無事を祈る。
土地の親分さんに仁義を切るのは渡世人の礼儀である。
だから、ちゃんとフランス語でお祈りをするのである。
この聖ジャン教会も霊気の濃いスポットである。
中世の教会は例外なく霊気が濃い。
ノートルダム大聖堂もすごいんだろうけれど、いかんせん観光客が多すぎて、霊気をうまく感知できない。サン・ジェルマン・デプレ教会の方がずっと気が濃い。
坂道をたらたらくだって「時の博物館」(Le Muse´e du Temps)に立ち寄る。グランヴェル宮(Plais Granvelle)という古い建物の一部である。こんな博物館があるのを知らなかった。新しくてきれいな博物館なので、最近できたのかも知れない。
ブザンソンは時計と指揮コンクールで有名な街である。
さらにゆるゆると歩いて、バタン橋の横のレストランでギリシャ風ハンバーガー(鶏肉照り焼きバーガー)を食べる。美味なり。
日が照りつけてきたので、ついでにビールも飲む。
昼酒を飲むとたちまち睡魔に襲われ、ふらふらとホテルに戻り、ベッドに潜り込む。
誰からも電話がかかってこないし(圏外なのだ!ブザンソンは)メールもこないし、宅急便もこない。
こんな静かな生活はひさしぶりである。
これで原稿と語学研修さえなければ「バカンス」の語源とおり「空白期間」である。


8月24日
パリ二日目。
日本からパリの飛行はジェットラグがほとんどない。ちょっと夜更かしをしたつもりで寝てしまえば、翌日からふつう。
前夜11時半ごろに志ん生の落語を聴きながら寝てしまった。ぐっすり眠って、目が覚めたら朝7時半。
朝ご飯を食べに降りると、学生諸君もみんな起きている。
約束どおりに10時集合で、ジローくんともども「ベタなパリ観光」にでかける。
まずはノートルダム大聖堂へ。
例によって、お灯明を捧げて、旅の無事を祈る。
大聖堂を出ると大雨。パリの8月でこんな氷雨が降るのは珍しい。
いったんホテルに戻って、傘を持って出直し。
学生4名とともにルーブル美術館へ。
ルーブルはハイシーズンは切符売り場に長蛇の列ができて、1時間待ちというようなこともあるらしい。
Carte Muse´e を購入すると並ばずに済むので便利らしいということが各ガイドブックに書いてあるので、それをまず買おうということに衆議一決。
ガイドブックには「主要駅・主要美術館にて販売しています」とあるが、残念ながら、「主要駅」とはどこのことかは書いていない。
St.Miche-Notre Dame 駅で「カルト・ミュゼを販売している主要駅とはどこのことでしょう?」と訊ねると、「Cha^telet駅のことであろう」というご返事だったので、まずはシャトレ駅へ行く。シャトレで訊くと、「当駅では発売しておらない。売っているのはGare de Lyon 駅であろう」とご教示頂く。で、ガール・ド・リヨン駅に行き、SNCFのInformation で「Carte Muse´eはどこで買えますか?」と訊くと、「地下のRATPの窓口で売っている」というので、そこへ行くと、「ここでは売っていなくて、9番出口を出たところのOffice de Tourisme で売っている」という。で、行ってみると、「ここではなくて、Clube RATPで売っている」という。でまた階段を降りてClub RATPに行くと、「ここではなくて、向かいの窓口で売っている」という。向かいの窓口は先ほど9番出口うんぬんというご教示を頂いたお兄さんがいる窓口なので、その隣の窓口で訊ねると窓口のおねいさんが「Carte Musee というものはもう販売していない」と言い放つ。
あれやこれやでカルト・ミュゼを購入するために11カ所で「どこで売っているか」を訊ね、そのすべての人が違う答えを私たちに教えてくれ、そのどの答えの示す場所においても私どもはカルト・ミュゼを売ってくれる人に出会うことができなかったのである。
所要時間1時間半。
4人の学生たちは、たかだか美術館の割引券を購入するためにカフカ的不条理のうちに絡め取られてゆくおじさん二人をあらわな不信と不審のまなざしで見つめていた。
やむなくルーブルへ行き、ピラミッドのところの切符売り場の長蛇の列を避けて、煙草屋さんで入場券を買う。
一応「カルト・ミュゼってありますか?」と訊いてみると、「一日券は去年から発売しなくなった」とご教示頂く。
『地球の歩き方』の情報が遅れていたようである。
「長蛇の列」のはずのピラミッドの切符売り場には別に列もなく、こんなことなら、はじめからルーブルに来てチケットを買っていれば、1時間半無駄にしなくてすんだのであるが、そういうことはフランスでは言っても仕方がないのである。
ルーブルでは定番のジョコンダ、ミロのビーナス、サモトラケのニケ、レースを編む女、オダリスク、ナポレオンの戴冠、メデューズ号の筏、民衆を率いる自由の女神、ナポレオン三世の居室などを「スタンプラリー」形式で走破する。
最初にルーブルに来たのは1974年、次に来たのが95年であるから11年ぶりのルーブル再訪。
32年前は人気のないがらんとした暗い美術館で、ジョコンダもナポレオンの戴冠も光量が少なくて、ほとんど見えなかった。
でも、サモトラケのニケだけはそのときも圧倒的だった。
メトロで凱旋門へ。
凱旋門の屋上から見るサクレクールとエッフェル塔はまことによい風情である。
シャンゼリゼを散歩する学生たちと別れて、ジローくんとホテルに戻り、仕切り直しをしてからカルティエ・ラタンでご飯。
今日はなんとなく「お醤油味」がほしくなって中華。
春巻、餃子、豚肉と筍の炒め物、炒飯、そして青島ビール。
やっぱりエイジアン・フードだなあ、
St Ande´ des Arts のLe Clou de Paris でワインを飲みつつ、暮れなずむパリの宵を惜しむ。


投稿者 uchida : 17:31 | コメント (0) | トラックバック