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2006年08月22日

それではみなさんまた九月に

いよいよ明日からフランス。
出発前に「年末進行」状態で二ヶ月分の連載原稿を書いたので、よれよれになってしまった。
渡仏前に渡すはずだった講談社のニート本も書き上がらず、フランスへ持ち越し。
となると、『街場の中国論』はどうなるのか(M島くんの泣き顔が・・・)。
9月末締め切りの論文がたしかあったはずだが、それはいつ書けばよろしいのか。
さまざまな不確定要素をひきずりつつ、とりあえずは飛行機に乗ることにする。
フランス滞在中はブルーノくんが到着から出発までほとんど全日程フルアテンダンスしてくれることになっている。
ブルーノくんはご承知のとおり、パリで巡査をしているビゾンタン(ブザンソン人)なので、パリでもブザンソンでも彼がいれば無敵である。
パリにはジローくんも先乗りしている。
またパリのカフェで彼と昼酒をしながら、よしなしおしゃべりをすることになる。
誰かゼミ生も来ていたはずだ(イセカナだったかな、違うか?)。
「パリの岡田山化」というか、「ルーティン化」が進行しつつある。
私は「いつもとおんなじ生活」のうちに極上の楽しみを見出す人間なので、これでよいのである。
荷造りをするときにいつも考え込むのがどんな本を持ってゆくかである。
3週間であるし、移動時間もけっこう長いのでそれなりの用意が必要である。
途中で活字が切れると「活字禁断状態」になる。
その場合はフランス語の本を買って読めばよいのであるが、フランス語の本は読んでいるうちにすぐ眠ってしまい、目覚めるとそれまで読んでいた内容をすべて忘れてしまうのが難点である。
今回持参するのはメルヴィルの『白鯨』。
あと、『徒然草』と『移動祝祭日』と『東洋的な見方』
『白鯨』がメイン。ときどき吉田兼好を読んでへらへら笑って、パリの街を歩くときはヘミングウェイを読み、ブルーノくんたちを相手に武道ネタでえらそうなことをしゃべるときのネタは鈴木大拙から仕込む。
仕事用に『大地の咆哮』と構造構成主義の本二冊。
フランスにゆくときはいつも忘れずに明治の人が書いたものを持ってゆくことにしている。
フランスの田舎町のホテルの一室で昼寝の友に泉鏡花なんか読んでいると、けっこういい感じである。
「明治の人」には私たちにはない種類の国際性があるような気がする。
そのせいか、読んでいるうちに、なんか「よおし、オレだって日本人だ」的な気合いの入り方がするのである。
この二年間ろくにフランス語を話していないので、泥縄でフランス語会話の勉強をする。
「この花はあなたへのプレゼントです」「あら、そんなお気を使わなくてもよかったのに」
というような会話をMDで聴く。
そんな会話現地でするはずないんだけど。
ではみなさん、さようなら。
日記は9月14日まで三週間お休みです。
ばいばい。


投稿者 uchida : 13:30 | コメント (9) | トラックバック

2006年08月18日

今日もたいへん忙しい

フランス出発が迫ってきたので、とにかくさくさく原稿を書く。
3週間の滞在中に締め切りの来る原稿は行く前に送稿しておかなくてはならない。
向こうからメールで送ればよいのだが、私は秘書なしでインターネットの設定をすることができるようなITリテラシーを持たないので、フランスに行っている間はネットなし環境なのである。
当然、月23日から9月14日の間、私にメールをした人は「原則として」返信を得ることができない。
その間のメールは「なかったもの」として扱われて、帰国後も返事がなされない。
その点をあらかじめご了承願いたい。
無礼な、といわれも困る。
ただし、「原則として」とあるのは「例外」もあるからである。
だが、どのようなメールが例外とされるのかはヒミツなのである。
滞仏中に緊急の連絡がある方は大学の国際交流センターに問い合わせて頂きたい。
ホテルのファックス番号くらいは教えてくれるはずである(教えてくれないかもしれないけど)。
「講演の約束があるのにどうして来てくれないのか」とか「対談の相手が待ちかねているが、いつ来るのか」というような問い合わせにははかばかしいお答えができないと思うが。
とりあえず、覚えている限りの締め切りの原稿をこの三日でまとめて書いた。
『文藝春秋』、日経、共同通信にエッセイ。
締め切りが覚えられていない原稿は自動的に落とすことになる。
このブログ日記を読んだ編集者で「9月14日以前に締め切りを設定している原稿をウチダに頼んだ記憶があるが、まだ原稿を受けとっていない方」は22日までにご一報ください。
なんとかします。
「エピス」の原稿もあるが、これは映画を見ないと書けないので、今日はこれから試写会。
そのあと京都で本学理事の葬儀。
どうやら講談社の本も渡仏前には書き上げられそうもない。
オザワさん、ごめんなさい。フランスで書いてきます。
三日ほど身じろぎもしないで原稿を書き続けているので、背中と肩がばりばりに凝ってきた。

投稿者 uchida : 13:16 | コメント (1) | トラックバック

2006年08月16日

学習障害性ナショナリスト

小泉首相が任期最後のパフォーマンスとして靖国神社に参拝した。
首相の靖国参拝については、以前、『文藝春秋』のアンケートに書いた数行に私の意見は尽くされている。それを再録する。
「隣国と正常で友好的な外交関係を維持することは重要な国策の一つである。戦没者の慰霊も国民的統合のために重要な儀礼の一つである。
どちらが優先すべきかについての汎通的基準は存在しない。
為政者は複数のオプションのうちどれがもっとも多くの国益をもたらすかを比較考量して、そのつど定量的に判断すべきである。ことの正否を一義的に決する審級は存在しない。
『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。
私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。
自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。」
これが私のアンケートの回答である。
私が小泉首相に訊きたかったのは、「靖国参拝によって得られる国益」が「それによって損なわれる国益」よりも大であるという政治判断の根拠であった。
もちろん、彼はそれを私には教えてくれなかった(しかたがないので、私は反対したのである)。
それでも、私はたいがいの政治的主張については、頭ごなしにはねつけるよりも、私には思いつかなかったその理路を説明してもらうことの方に興味がある。
私が問題にしているのは、小泉純一郎個人のエモーションの純良さやその憂国の至情ではない。
どのような政治的効果をめざして、どのような政治的文脈の中でその行為を選択したのかについての「説明」だけを求めたのである。
もちろん、ある政治的行為を選んだ理由を決して説明しないということも一つの政治的行為である。そこまで含んでの政治的効果を狙っているということもありうる。
その場合は、「説明がなされない政治的行為」はなぜ説明がなされなかったのかについて考えなければならない。
それをずっと考えてきたのだけれど、小泉首相が東アジアとの外交関係を有利に展開するためにどのような深慮遠謀があったのか、ついに私にはわからないまま彼はその任期を終えようとしている。
メディアによると、「中韓に対して強い態度で臨むという外交オプションがありうることを示した」点が評価されている。
けれども、その評価は「中韓に対して強い態度で臨んだことによって獲得された外交的得点」と「それによって逸失された外交的失点」の貸借対照表を吟味する仕事につながらなければ無意味である。
政策ごとに獲得され逸失される「国益」の多寡を計量することはたしかに困難であるだろう。
けれども、この知的負荷の大きい仕事を率先して引き受けることが政治家や政治学者たちの責務ではないのか。
私は為政者が「ナショナリストのようにふるまう」ことはマヌーヴァーとしてしばしば有用であることを認める。
けれども為政者が「ナショナリストである」を喜ばない。
それは、ナショナリズムがほとんどの場合、知性の活動を低下させるからである。
若い人たちがナショナリズムに親和的になる理由の過半は、ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
ナショナリストと議論して誰でも気づくことは、彼らが固有名詞や年号やデータ的数値に総じて詳しいことである。
どうでもいいような法律条文やら誰も知らないような歴史的事実を持ち出してきて、「お前はこんなことも知らないで議論をしているのか(そんな人間には議論に参加する資格そのものがない)」というのは(洋の東西を問わず)ナショナリストの常套手段である。
固有名詞や数値に詳しいのは(政治学者や社会学者の場合もそうだが)、スキームがもう出来上がっている人間の特徴である。
「容れ物」の外郭が固定されると、人間はトリヴィアルな情報をいくらでも詰め込むことができる。
どのような新しいデータが入力されても、スキームそのものが変化する可能性がないという見通しが立ったときに人間は異様に記憶力がよくなるのである。
興味深いことに、これは非言語性学習障害の病像にも通じている。
非言語性学習障害の子どもはしばしば情報や事実の丸暗記(野球選手の生涯打率とか恐竜の名前と棲息期間とか)にすぐれている。
その代償に、彼らは「つじつまの合わないことを受け容れる能力」と「ユーモアを理解する能力」に大きな欠損を抱える。
つまり、自分が現在その枠組みに基づいて世界を見ている枠組みそのものの有効性・妥当性を疑わせる情報を受容できないという無能力が、トリヴィアルな情報をためこみ、それを即時に取り出す卓抜な能力とトレードオフされているのである。
スキームを固定化してそこに情報を詰め込むこの知的傾向は、現在の日本の若年層に広く見られる。
もちろん、わが国のナショナリズムを怒声で批判する隣国のナショナリストたちの多くもその知性の不活発ぶりでは本邦の諸君と変わらない。
「学習」とは本来学習する枠組みそのものが学習の過程で解体再生を繰り返すダイナミックな過程である。
学習を通じて学習の枠組みそのものには変化が生じない場合、それは「学習」とは言われない。
そのような傾向はやはりDSM−IVに基づいて「学習障害」的傾向と呼ぶべきだろうと私は思う。
もう一度繰り返すが、「ナショナリストのようにふるまうこと」はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、「ナショナリストであること」は特段の知的負荷を課さない。
特段の知的負荷を課さない知的活動を優先的に選択する知性は「あまり知性的ではない」と私は判断することにしている。
私は「マヌーヴァーとしてナショナリストのようにふるまう為政者」の狡知を愛するが、「本気でナショナリストである為政者」の知的怠惰は評価しない。
私は小泉純一郎を「狡猾な政治家」だと信じたいと思ってきたが、五年にわたるその期待はどうやら報われぬものだったようである。

投稿者 uchida : 11:12 | コメント (15) | トラックバック

2006年08月15日

昼寝がしたい

今日からようやく夏休みになる。
もう8月15日。夏はほぼ終わっているけど。
夏休みといっても、別に休めるわけではない。
何時にどこそこに行かなければならないというオブリゲーションが今から一週間ほどなくなったというだけである。
机の上にはゲラが三つ。
フランスに行く前に書かなければいけない本が一冊。
書かなければならない原稿が4本(たぶん)。
つまり、朝から晩まで家にこもって肩をばりばりに凝らせながら原稿を書く「自由」をついに私は得たということである。
ははは。
笑いが止まらない。
どうしてこんな不幸な身の上になってしまったのであろう。
うん、もとはいえば私が悪い。
頼まれた仕事を引き受けただけではなく、こちらから「こんな本出しませんか?」とご提案させていただいたことだってある。
自業自得である。
しかし、そのときはここまで追い詰められるとは思っていなかった。
私だって人間である。
原稿を書く以外にやりたいことだってある。
ハワイに行って、海岸で昼寝をするとか。
クーラーの効いた部屋でワインを飲みながら麻雀するとか。
新作映画を試写会で見て、帰りに亀寿司中店で中トロを食べてビールを飲むとか。
合気道の稽古の帰りに宇治クリーム氷を食べるとか。
IWハーパーのソーダ割りをのみながら『日本侠客伝』を寝ころんで見るとか。
うん。
ハワイ以外はだいたいやってるみたいだな。
すまない。
やりたいことを探す方向が間違っていた。
私がやりたかったのは、納戸の掃除と夏物冬物整理だったのである。
「主婦」としての仕事を長期にわたって怠っていた。
朝起きて、モーツァルトを聴きながら、朝ご飯を食べて、ビーチボーイズを聴きながら、掃除と洗濯をして、ユーミンを聴きながらアイロンをかけたら、とりあえずやるべき仕事が終わったから、昼寝でも・・・というのが私にとっての「ほんとうの夏休み」なのである。
23日のフランス出発までのあいだにせめて一日でいい。そんな一日を過ごしたい。


投稿者 uchida : 11:18 | コメント (1) | トラックバック

2006年08月09日

あの日にかえりたい

暑い。
ひさしぶりの休日(なのか?)なので、家の掃除をして、洗濯物のアイロンかけをする。
たまったメールに返事を書いているうちに時間となり、大学へ。
某リサーチ会社の方と本学のインビジブル・アセットをどのように定量的に統計データ化することができるかというたいへん困難なテーマについて二時間にわたって意見交換。
このところ、先端的なメディア関係者から「女子大の有用性」についてのご下問が続く。
たぶん、このままマンモス大学が市場を独占して、競争力の弱い小規模大学や地方大学や女子大学があらいざらい淘汰されてゆくことが日本の知的未来にとって「それほどよいことなのか・・・」という疑念が心ある人々の間に兆しているのであろう。
生態系の安全にとっては、種の多様性はたいへん重要なことである。
地球上にこれだけ多くの種が繁殖している理由は、種が多様であるほうが、システムクラッシュのリスクが回避できるからである。
高等教育のリスク・ヘッジという観点からすれば、市場原理による大学淘汰は、「教育立国」の自殺である。
それに女子大は単に多様性を担保するだけの「特異種」であるだけではない。
当今の二十歳を取れば、女子の方が男子より知性の柔軟性と可塑性においてあきらかにすぐれている。
教壇に立って見ていると、私のようなデタラメなことを言い募る教師の話をげらげら笑って聴いているのはもっぱら女子の方であって、困じ果てた顔をしているものの多くは男子である。
男性は「パイプライン」が整備された「晴天型」モデルにおいては高機能を発揮するが、「雨天」「曇天」に比較的弱い。
女子の生存戦略は「全天候型」であるから、現在のような社会構造の地殻変動期にはあるいは女子の方が生き延びる確率が高いのかも知れない。
だとすれば、女子大というのは「カタストロフ・サヴァイヴァーを選択的に育てるためのエリート教育」をしている特殊な教育機関であるということだってできる。
うん、話しているうちに、ほんとにそんな気がしてきた。
“不死身”のかなぴょんや“極悪”サトウをはじめとする内田ゼミ生たちを見ていると、「地球が滅びる日に最後に地表に立っているのはKC生ではないか・・・」という予測もあながち空想とは思えぬのである。
家に戻ってから今度は下川先生のお稽古。
10月1日の本番まで、あと二回しかお稽古の日がない。
『土蜘蛛』の仕舞いの稽古をして、下川先生を素まみれにしてから、楽の稽古。
なんとか変則七拍子をクリアーする。やれやれ。
それから『山姥』の謡の稽古。
二箇所節を間違える。「二段落とし」というフレージングがけっこうむずかしい。
大西さんがお稽古に来たので、『吉野天人』の地謡をつける。
下川先生とデュエットで地謡をしていると、全身が共振して、たいへんよい気分になる。
家にもどって、明日の支度。
明日は横浜グランドホテルで高橋源一郎、矢作俊彦ご両人との鼎談である。
ご両人とも「グランドホテルの新館には足を踏み入れない」同盟の方なので、集合場所は旧館ロビー。鼎談は旧館の「マッカーサー・スイート」という凝りようである。
矢作さんとお会いするのははじめてである。
1969年の春に「ダディグース」のマンガを読んでからの37年にわたる熱烈なファンであるので、どきどき。
DVDで『日本侠客伝』全巻揃えを買ったので、毎晩一本ずつ見ている。
健さんを見終わると、続いて石井輝男の異常性愛映画か西村昭五郎=団鬼六の『花と蛇』シリーズを見る。
この二本立てを見ていると1970年代の場末の映画館の匂いがくっきりと蘇ってきて、なんとなく切なくなってくる。
それにしても団鬼六って、全部同じ話だな。

投稿者 uchida : 20:48 | コメント (1) | トラックバック

中国道痙攣笑いドライブ

松本から帰ってきて、翌日から鳥取島根ゼミ旅行。
まことに過酷なスケジュールを組んでくれる学生たちである。
松本から戻ってくるとファックスから「べろん」と紙が垂れていて、日経の連載エッセイの締め切りですが・・・とお知らせが届いている。
朝からゼミ旅行にでかけちゃうので、半日遅れにしてくださいとメールを打っておく。
3週間ほど前から夏休みに入ったはずだが、「ああ、夏休みだなあ」としみじみ手足を伸ばせた日がまだ一日もない。
夏休みになったら納戸とお風呂の掃除をして、夏物冬物整理をして(まだ冬物をしまっていない)、謡と楽の稽古をして、フランス語の予習をして・・・と思っていたのであるが、何一つ実現しないまま、すでに立秋が過ぎようとしている。
しくしく。
朝九時にふたりのゼミ生(殿とチナツ)が迎えに来たので、家を出て、中国道の赤松で大阪組(チヒロとイセカナとヒフミとカオリ)と合流。今回の仕切り役はチヒロ姐さんである。たいへんまめな人で、全行程分刻み、てんこもりスケジュールを組んでくれた。
ぎらぎら照りつける太陽の下、二台の車は佐用で下りて、国道を北上して、鳥取へ。
途中、すれ違ったトラックがはねた小石がBMWのフロントグラスに当たって、「ぴしっ」とヒビが入る。
哀号。
目的地はかの鳥取大砂丘である。
昼頃、砂丘に着き、てこてこ歩いて、海を見て、またてこてこ歩いて戻る。
全員汗まみれ、砂まみれ。
これが砂丘か・・・来ておいてよかった(二度と来ることはないだろう)。
休息後、次の目的地境港の水木しげるロードへ。
境港は街全体を『ゲゲゲの鬼太郎』で覆い尽くすという大胆な都市再開発に挑んだ冒険的な自治体である。
街角にはねずみ男や猫娘のオブジェがたたずみ、街灯のランプは「目玉のオヤジ」。
鬼太郎ハウスで「ねずみ男てぬぐい」と「目玉のおやじバンダナ」を購入。鬼太郎文庫では「目玉フロート、カフェオレ味」を啜る。
境港はなかなか風情のあるよい街であった。
宍道湖の横を走って玉造温泉へ。
一風呂浴びて大広間で宴会。そのまま自室での二次会へ雪崩れ込む。
たいへん愉快な爆笑大宴会であったのだが、全員嫁入り前、就職前の身であるので、内容についてはつまびらかにすることができない。
夜を徹して騒ぐぞと意気ごむ諸君を残して、老師は12時に部屋に戻って爆睡。
翌日はまず「勾玉作り」。
私は締め切りがあるので、勾玉制作のみなさんと別れて、ひとり宍道湖を見下ろすカフェで原稿書き。
1時間半で一本書き上げたところでゼミ生たちも勾玉ネックレスをぶらさげて登場。
次の目的地、出雲大社へ。
出雲そばで腹ごしらえをしてから、緑影の参道を歩いて本殿へ。
さすが日本最古の神社だけあって、背後に山を控えて、まことに悠揚迫らぬたたずまいである。
ゼミ生諸君は「縁結びの神」ということで真剣に参拝したのち、巨大注連縄に向けてお賽銭を激しく投じる。ここにお金が突き刺さると良縁に恵まれるという伝承があるらしく、学生たちはたいへん真剣な顔つきでコインを投げる。数回(あるいは十数回)の試技の末に、全員無事に注連縄へのコイン突き刺しに成功。
午後二時に出雲大社発。
BMWを専用車に選んで後部シートを占領したヒフミとイセカナが「寝不足ハイ」のせいかとめどなくテンションが上がって、エンドレス漫才状態になる。
ヒフミは来年から女子アナになることになっているのだが日本語がやや不自由で、固有名詞を記憶できないというささやかな難点をかかえている。
某テレビ局の面接試験で「朝令暮改」の意味を問われて、しばし熟考したのちに、「朝はきちんと礼をして、夜寝るまえには一日の改めるべきことを反省する・・・」と答えて、面接官たちの腹の皮をよじらせた(残念ながらその局は落ちてしまったそうである。これだけ笑わせてくれる女子アナはレアだから採用してくれてもよかったと思うのだが)
イセカナは耳がよいので物まねがうまい。
とくに超ハイスピードでしゃべりながらくるっと裏声に変わる「チヒロの物まね」が圧巻。
話している最中に、急にチヒロが憑依する芸を何度も繰り返すので、運転しながら痙攣的に笑い続ける。
中国道を走っているうちに日が暮れて、赤松で最後の記念撮影をしてお別れ。
芦屋に戻ったときは8時過ぎだった。
疲れたけれど、たいへんおもしろかった。

投稿者 uchida : 10:14 | コメント (3) | トラックバック

2006年08月06日

焼き芋屋はなぜつぶれないのか

夏休みになったら、夏休み前より忙しい。
2日の夜に東京から帰ってきて、3日は浜冦来襲で、4日はM島くんが「身の上相談」に来芦。
5−6日は、池上先生のご招待で、上高地。
いつもの三宅先生と今回は特別ゲスト山本画伯もご一緒。
三宅先生の奥様に伊丹まで送っていただき、機中の人となる。
50分の飛行で、あっというまに松本へ。
ゴローさんとモガミさんが空港に迎えに来ている。
まず池上先生の診療所へ。
池上先生の新製品(007におけるQの発明品みたいに、毎回新機軸を池上先生は取りだしてくる)で三宅先生、私、画伯と三人順番に治療を受ける。
毎回、松本ツァーには三軸関係者の「若者」が随行するのであるが、今回随行したのは信州大医学部の学生のヌマちゃん。
『身体の言い分』を読んで、家の近くに面白そうなおじさんがいるらしい・・・ということで池上先生のところの門を叩いた若者である。
まずは蕎麦屋へ。
さっそく昼からビールと燗酒で天せいろ(美味い!)
松本について2時間で、たちまち「わしどーでもえーけんね状態」になる。
居眠りをこきながら池上先生の運転で、沢渡温泉の「しおり絵」へ。
ここに来るのも三回目。
前回は『身体の言い分』の完成打ち上げパーティだったのだが、「あとがき」を書き終えていなかったので、私ひとり部屋にこもってがりがり原稿を書いていたのである。
今回はそういう仕事もないので、着くなり即昼寝。
昼寝からめざめて、「プライベート露天風呂」に浸かる。
真っ青な空、緑の山脈を仰ぎ見、梓川のせせらぎに耳を傾けつつ、とっぷり湯に浸かってぼおおっとする。
ぼおっとしたまま風呂から上がって、クーラーの効いた部屋で、とりあえず原稿を書く(やっぱり仕事を持ってきてしまった)。
講談社から出る(はずの)教育論をこのところさくさくと書いているが、『文藝春秋』の秋の臨時増刊教育特集に原稿を頼まれたので、「教育の崩壊と再生」とタイトルを決めてその原稿を書く。
指定は6枚だが、話が半分までゆかないうちに紙数をオーバーしてしまう。
教育について語り始めると、どうにも止まらない。
晩ご飯の時間まで書き続ける。
それから山海の珍味に美酒を堪能しつつ、池上先生を囲んで談論風発。
気がつけば深更。
同室の画伯が「ぼくは鼾がすごいからね、覚悟しておいたほうがいいよ」と脅かす。
「だいじょうぶだよ。ぼくは異常に寝付きがいいから」と応じる。
ご存じのように、画伯はたいへんな負けず嫌いであり(画伯以上に負けず嫌いな人間を私は私以外に思いつかない)、どのようなことでも人に遅れを取ることを潔しとしないのである。
横になるや、約10秒後に画伯の寝床から「ぐううう」という鼾の前兆音が部屋に轟く。
おっと、これは想定外のクイック攻撃。
私もすかさずその2秒後に「すや〜」と寝付いて、攻撃を軽くスルーする。
今夜の勝負は、「引き分け」ということでよろしいであろう。
翌日も快晴。
朝風呂に浸かり、たっぷり朝ご飯を食べて、三宅先生に治療していただいてから、上高地へ。
上高地はマイカー乗り入れ禁止なので、タクシーででかける。
私は観光旅行というものをほとんどしない人間なので、当然上高地も行ったことがない。
梓川沿いに約20分遡行すると上高地。
シーズンの週末であるから、すごい人出である。
平日の午前10時の竹下通りくらいの人出である。
林の中を歩いて河童橋へ。
さすがにここからの穂高の景色は息を呑むほど素晴らしい。
梓川の冷たい水で顔を洗い、アルプスの眺望を堪能する。
美しい。
これで観光客がいなければ、どれほど美しいであろうか・・・とおそらく観光客全員が思っているであろう。
再び山を下り、車中でモガミさんの「秋田弁によるイモ売り」話で、全員腹の皮がよじれるほど笑う。
運転の池上先生も笑いすぎて涙で前が見えないと何度もタオルで涙を拭いていた。
これをウェブ・ラジオのコンテンツにしてネット配信したら、どれほど面白いであろうかと思うのだが、内容の90%が放送禁止ネタなので、たまたまそのときモガミさんの傍らにいるという幸運に与った人以外はこの古典的名演を聴くことができないのである。
松本でまたまたお蕎麦と馬刺し。当然ビール。
これで昨日の昼から四食目であるが、間違いなく体重が2キロは増えていることが実感される。
松本駅で画伯を見送って、松本空港へ。
お見送りのみなさんに手を振って別れて再び機上の人となり、即爆睡。
ああ、楽しかった。

投稿者 uchida : 19:54 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月04日

浜冦再訪

ツァーのあいまの一日(また明日から旅である)。
大学で会議がひとつ、それから甲南麻雀連盟浜松支部二度目の来襲に備える。
会議を終えて家に戻ると、画伯、老師、弱雀小僧が腕を撫してサンマンで待っている。
IT秘書を留守番においておいたのであるが、秘書は世代が違うので、麻雀ができないのである。
老師は六時から法事があるので、はやくはやく・・・と気もそぞろ。
やがてスーさん率いる浜松勢がぞろぞろと登場。
浜松の先生方は(実は)みなさんテニスのコーチたちで、大阪の大会に来たのである。
前回は10戦7勝と本部メンバーを圧倒して、「太ったころにまたくるぜ」と、『荒野の七人』のイーライ・ウォーラックのような憎々しげな笑い声とともに去った浜松支部をわれわれは「浜冦」と名づけて、爾来雪辱の日を指折り数えて待ったのである。
前回本部で3勝を挙げたのはシニアメンバーの江さん、ホリノさん、私だけ。
さて、今回は幸いにも10戦して、今回は本部が8勝。
ホリノさん2勝、画伯2勝、ドクター、かんきち、シャドー影浦、そして私が1勝。
浜松支部はおのちゃんが一人気を吐いての2勝。
ヨッシーは四暗刻を自摸っても勝てず。
スーさんは浜松勢最下位のマイナ53。
特に最後の半荘は画伯、ホリノさん、私との3対1マッチで、「これコンビ麻雀じゃないですかあ」と「泣き」が入る。
私自身は4半荘トータル、マイナ3という面白くもおかしくもない麻雀であったが、浜冦を撃退して、本部の体面を維持できたことをとりあえずは喜びたい。
多忙のうちにご参集いただいた本部会員諸君の健闘を多とする。
浜松のみなさん、鰻ごちそうさまでした。美味しかったです。
では昨日の戦績
勝ち点
1位  ホリノ社長(ほんとうは副社長なのだが、語感がよいので引き続き「社長」と呼ばせていただくことにする) 61
2位 かんきちくん(エクセルを使って甲南麻雀連盟の点取り表ワークシートを作ってくれた。どうもありがとう) 58
3位 シャドー影浦 47
4位 おのちゃん 45
4位 ドクター 45
今期勝率は前回の第一回例会の半荘(ドクターが勝った分)の点数が不明のままなので、未確定である。
7月16日の例会でのドクターの二勝目の相手は画伯、英文学者、I倉くんだそうである。かんきちくん、なんとか歴史を再構築してください。

途中のインターバルでスーさんと酌み交わしつつ、日本の教育をどう立て直すべきなのか、熱く語り合う。
お互いがんばりましょうと固く握手をしたのであるが、そのすぐあとに九筒と四万のシャボ待ちの親満に振り込ませてしまった。ごめんね。

投稿者 uchida : 10:43 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月02日

東京出稼ぎツァー・パート2

一日芦屋にいて、また東京へ。
仕事が二つと業務出張が一つ。
最初の仕事は平川くんとおしゃべりをするだけ。
学士会館の4階ロビーで「対話的知性とは何か?」というお題で1時間弱ほど話す。
これはウェブラジオ(のようなものらしい、よくわからない)のコンテンツになる。
友だちと慨世の言を語るだけでお鳥目が頂けるとは、ありがたい渡世である。
引き続き山の上ホテルに移動して、同じ「ラジオ・カフェ」のお仕事のパイロット版作成のため、関川夏央さん、女流講談師の神田茜さんと鼎談。
この三人をメイン・パーソナリティにする連続もののラジオ番組を作るのだそうである。
ただし、従来のラジオ電波で流すのではない。オン・デマンドでダウンロードして聴く形式のものらしい(技術的なことはよくわからない)。
はたして、そういう形態のラジオ放送が今後定着するのかどうか、ビジネスとして有望であるかどうか、予断を許さない。
とはいえ、これは私が株主であるところの会社の事業であるから、自社の売り上げに協力するのにやぶさかではない。
音楽コンテンツをMusic store からダウンロードして、それをiPodに取り込んで、繰り返し聴くというのはまことに簡便にして快適なものである。
音楽に限らず小説の朗読や対談インタビュー講演の類を音楽と同じようにダウンロードして歩きながら聴くというやりかたがいずれ一般的なものになるかもしれない。
十年ほど前に大瀧詠一師匠が「新春放談」で「いずれネットで音楽をオンデマンドで聴けるようになる」と予言されていたが、さすが炯眼なるお師匠さまの予言通りに時代は進行しているのである。
関川夏央さんとお会いするのははじめてである。
関川さんは私のひさしいアイドルのひとりである。
本はほとんど持っているし、谷口ジローとのコラボレーション『事件屋稼業』シリーズや『坊ちゃんの時代』シリーズも全巻取り揃えている。
同時代の書き手の中でいちばん「気がおけない」というか、どうして「こういうこと」を書くのか、しみじみわかるような気がする数少ない書き手なのである。
たぶん、こんな感じの人だろうと思って期待していたら、まるごとその通りの人であった。
これは関川さんが意外性のない人だったということではなく、ひとつは私が関川さんの書いたものをあまりに長期にわたり愛読してきたことの効果であり、ひとつは「いしかわじゅん」のマンガで関川さんの似顔に20代の頃から親しんでいたせいである。
仲介の労をとってくれた平川君によると、関川さんも私と会うということになったときに、「ずいぶん前から知り合いのような気がするひとだ」と語っておられたそうである。
学年はひとつ関川さんが上だし、メディアで仕事をするようになったのは関川さんの方がずっと早いけれど、関川さんも私と同じことを思ってくれていたとしたら、とてもうれしい。
この鼎談(司会のキクチさんと「店長」の平川君も話にまざってくるので、実質は5人でのおしゃべり)は不定期に何回か続く。
平川君としては大橋巨泉、前田武彦、富田恵子の伝説のトーク番組『昨日の続き』のようなものをやりたいらしい。
私が小学校五年生のころにラジオ関東でやっていた番組で、東京のナマイキ小学生中学生はふとんの中にゲルマニウムラジオを持ち込んでこっそりこれを聴いていたのである。
初回は東京オリンピックの前の日本の街に聞こえていた音について。
まことに渋い話題である。
こんな昔話をいまどきの若い人が聴くかしらとも思うけれど、私たちだってこどもの頃に大人の話をよろこんで聴いていたわけであるから、予断は許さないのである。
相模原の実家に一泊して、母上のご機嫌を伺う。
印税のアブク銭の一部を上納する。
繰り返し申し上げているように、これは別に親孝行とかそういうことではなくて、ふところに入ったお金の一部を差し上げることにしていると、母はその余沢に与るべく、私のところにざくざくお金が入ることを強く念じるようになるからなのである。
こういうものは人間ひとりの念では力が弱い。
できるだけ多くの人に念にご参加いただくことが必要である。
まず隗より始めよということで母上にご参加頂くのである。
真にエゴイスティックな人間は他者を利することが私利私欲を満たすもっとも迅速かつ効果的な方法であることを知っている。
別に私の創見ではなく、ジョン・ロック先生やホッブズ先生がそう言っておられるので、先賢の驥尾に附すのである。
翌日は新宿工学院大学にて私立大学情報教育協会の「教育の情報化推進のための私立大学理事長学長等会議」にでかける。
私は理事長でも学長でもなく、「等」である。
今回のお題は「FDに求められる教員の教育力」。
教員評価ではどの大学もご苦労をされているようであるが、「教育力」という概念自体が一義的に定義しえぬものであるので、これは致し方ないのである。
この会議は「大学経営者サイド」からの教育改革なので、「そ、そんなこと言っちゃっていいんですか的本音」がばんばん飛び交って、たいへんにスリリングである。
聞いた中では、医学部教育に導入されているLPP(legitimate peripheral participation)という教育システムの話がたいへん興味深かった。
学習者を正規のメンバーに加えて、周辺的末梢的な任務を遂行させることを通じて、ゲームのルールをしだいに体得させてゆくという学習形態である。
子どものころにやった「みそっかす」という遊び方と原理的には同一である。
「こういうやりかた」をいまの学生たちも教員たちも経験的には知らず、アメリカで開発された先端的な教育法として導入しようとしている事実が私には興味深かったのである。
そのうちに「コミュニケーション感度の開発」といって「かくれんぼ」や「ハンカチ落とし」を大学の初年度教育でやる大学が出てきても私は驚かない。

投稿者 uchida : 21:52 | コメント (0) | トラックバック

2006年08月01日

懐かしい場所と養老先生

学士会館で9時間半爆睡して目覚める。
よく寝るなあ。
8時にラウンジに降りてゆくと、釈老師とフジモトさんがもう来ている。
いっしょに朝ごはんを食べながら、昨日の話の続き。
9時におふたりは東京駅に向かった。私は学士会館に残って、パソコンに向かって昼過ぎまで原稿書き。
1時に自由が丘へ。
ある雑誌の企画で、「なつかしい場所」を訪れることになった。
どこにしようかなとしばらく考えたが、1970−80年代のほとんどをそこで過ごした自由が丘に決めた。
取材の方々とモンブランでお茶をしてから、「懐かしい場所その1」「竹内道場」(合気道自由が丘道場はこの柔道場に間借りしていた)を訪れる。
1975年に入門したころは、まわりにはほとんど店らしい店もなく、夜になると寂しい通りだったけれど、いまは「マリクレール通り」というこじゃれた名前がついて若い人たちが歩いている。
もちろん道場はあとかたもない。
ここの道場主は講道館八段の竹内佐之助先生であった。
私が二十代のときに先生はすでに痩躯鶴のごときご老人だった。
お酒がお好きで、合気道の納会にお招きすると、にこにこして来てくれた。
お酒をのんですぐに真っ赤な顔になり、ご機嫌がよいときはさまざまな武勇伝を語ってくれた。
私は道場の会計を担当していたので、竹内先生にお中元お歳暮を選んで贈っていた。
あるとき、お中元に、新潟の蕎麦屋に手打ち蕎麦を頼んだことがあった。
電話で蕎麦屋に注文するとき、「松竹梅の竹に、うちそとの内に・・・」というふうに住所と名前を電話口で伝えた。
「さのすけ」の「さ」というのはどういう字ですか?と訊かれたので、「猿飛佐助」の「佐」ですと答えた。
しばらくして、送り状のコピーが私のもとに届いた。
宛先を見たら、「竹内猿之助」になっていた。
真っ青になって道場に走り、土下座して「申し訳ありません!」と謝ったことがある。
竹内先生は「ほお、そうかね」とにこにこ笑っていた。
優しい先生だった。
「懐かしい場所その2」は自由が丘時代の下宿。
もう建物はなくなって、駐車場になっていた。
6畳一間に台所とトイレのついた木造の離れで、家賃は1万6000円だった。
この下宿にはいろいろな人が遊びに来た。
竹信くんは大学卒業のあと、赴任地が決まるまでのあいだ荷物をおかせてくれといって、6畳の部屋の隅から隅まで、ぎっしりダンボール箱を詰め込んでいった。
机の上にもベッドの上にまで段ボールが積んであって、私の暮らすスペースがなかった。
このエピソードは高橋源一郎さんとの対談「竹信悦夫を語る」で紹介した。
よく麻雀をやった。
イワタの家で平川君や石川君と徹マンをして明け方に蹌踉と帰ってきたら、知り合いや知らない人が五人くらいで麻雀をやっていた(私の家の鍵はドアの上の桟の上に置いてあったので、友だちはみんな勝手に家に入ってきたのである)。
そのまま面子に加わって、夕方まで麻雀をした。
大学三年のころは、ここから本郷三丁目まで行くのが一苦労で、朝起きると午後1時すぎで(こういう場合「朝起きると」とはいわない)、ああ今日も授業に間に合わなかった・・・とまたふとんをかぶって寝てしまうということがよくあった。
「懐かしい場所その3」は「シグナルヒル」。
日比谷高校のときの同級生の植木くんがバイトをしていた店で、宇田川てっちゃんという白皙の青年が店長だった。
開店の日に植木くんが「今日からそこでバイトすっから、来てよ」と迎えにきたので、開店祝いに角瓶をボトルキープして、それから2年間毎日のように通った。
植木くんはバイトが遅くなると私の下宿にそのまま泊まっていった。
ほとんど毎晩泊まっていった。
別れた妻とも、ここで知り合って、仲良しになったのであった。
この店がなければ、るんちゃんも生まれていなかったわけである。
そう考えると感慨無量なのである。
今も植木くんが前の店とは少し(5メートルくらい)離れたところで店を続けている。
「おひさしぶり、元気?」と顔を出したら、いつものように無愛想な顔で「いいから、座れよ」と応じてくれた。
高校時代からずっと無愛想な男だった。
店の内外で何枚か写真を撮ってから、急いで白金へ。
次は養老孟司先生との対談。
『考える人』の対談シリーズの3回目。
養老先生の毒舌爆発で、新潮社のアダチマホさんといっしょにげらげら笑い転げているうちに、あっというまに4時間経ってしまった。
おもしろすぎて、直後は何を話したのかさえよく覚えていない。
でも、しばらくしてから、あちこちで養老先生から聞いた話を受け売りしている。
養老先生はしばしば原理主義的逆説を弄するけれど、これは支配的言説に対する対抗的逆説として政略的に語られているものだから、文脈を見ないで、それだけを読んでは意味がわからない。
「養老先生はこう言うことによって、何を言おうとしているのか?」という問いつねに自分に向けていないといけない。
そして、「この人はこう言うことによって何を言おうとしているのか?」という自問を発させる人こそが真の教育者であるというのは、私のつねづね申し上げていることである。
真の教育者とは「問いの次数を上げる」というのはどういうことかを身をもって実践させてくれる人のことだからである。
養老先生から来年三月に箱根バカハウスでシンポジウムをやるから来てねというお誘いを受ける。
どんなシンポジウムかわからないけれど、養老先生が自分の趣味で集めたメンバーなら、活字にできないことだけが選択的に語られることはまちがいない。
楽しみだ。

投稿者 uchida : 09:40 | コメント (0) | トラックバック