BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBooklistMovieSeminarBudoPhoto|Archives|Profile|

<< 2006年06月 | メイン | 2006年08月 >>

2006年07月31日

現代霊性論東京ツァー

「現代霊性論」東京で稼ぎツァーということで、新宿朝カルへ。
8時に新大阪駅で釈老師と待ち合わせ。
車内で3時間おしゃべり、新宿まで移動しつつしゃべり、ロイホで昼ごはんを食べつつしゃべり、会場に着いたときにはすでに5時間半しゃべった後であった。
それでもめげずにさらに2時間会場でしゃべる。
総計7時間半。
まことにネタの尽きない二人である。
『現代霊性論』はこれまでの授業の分と、大阪朝カルの3回分と、今回の「出稼ぎツァー」を合わせて一冊の本になって、来年はじめには刊行予定である。
これは宗教論としてはかなり「変」な本だけれど、お買い得です。
講演が終わってから、本願寺のフジモトさん、遠山くん、医学書院の白石さん、バジリコの安藤さん、学研の増田さん、幣旗さん、そして橋本麻里さんら辣腕エディター軍団に拉致されてハイアットのバーでプチ打ち上げ。
途中から分子生物学の福岡伸一先生(『もう牛を食べても安心か?』、『プリオン説はほんとうか』の著者)が参加される。
福岡先生とお会いするのははじめて。
文春の嶋津さんに『もう牛を食べても安心か?』を薦められて読んで、おおいに蒙を啓かれ、『私家版・ユダヤ文化論』でも引用させていただいた。
さっそく「で、米国産牛肉輸入再開でY野屋の牛丼はどうなりますか?」という話になる。
私のぶしつけな質問のせいで、福岡先生は最初の一杯に口をつけるまもなく、牛肉をめぐる長い物語をすることになる。
「牧畜と屠畜と食肉」についてはご存知の通りたいへんきびしい禁忌がある。
この禁忌は世界各国さまざまな意匠をまとっているが、本質的には同一のものではないかと私は考えている。
それは「生き物の肉を食う」という行為そのものがはらむ魅惑と嫌悪のアンビバレントな本質におそらくは由来する。
Y野屋の牛丼は米国産牛肉の輸入停止で食べられなくなった。
国産牛肉やオージービーフで代用ができないということから、それがたいへんに低価格の材料から作られていたことは容易に想像される。
この驚異的低コストの背景には歴史的に形成されてきたアメリカの巨大食肉産業の収奪構造がある。
アメリカの食肉産業は5大屠畜業者が支配している。
牧畜屠畜食肉処理ロジスティックから小売までが、完全にコントロールされているのであるがその内実は・・・
もちろん、その詳細はお食事中の人もいることであろうから、このようなところでお話しするわけにはゆかない。
それに、こんな話は日本だからできるので、アメリカであんな本を出したら、いまごろは「ハドソン川に浮いてます・・・」と福岡先生は遠い目をしておられた。
「肉の話」は奥が深い。
日本では屠畜は被差別部落問題と直接リンクしているので、メディアはこの問題には絶対に踏み込まない。
ハンナンのような食肉をめぐる組織的な犯罪が摘発されても、メディアは行政や政治家たちも巻き込んだその構造の解明には決して積極的にならない。
それはPC的な立場からの政治的糾弾におびえているだけではなく、ジャーナリスト自身も気づいていない心理的禁忌が作用している。
この問題にはなるべく触れないほうがいい。
みんながそう思っているのである。
なんでもあきらかにすればよいというものではない。
長く生きてくるとそういうことがだんだんわかってくる。
「牛」にかかわる禁忌は別に近代的なイデオロギーではない。
網野善彦によると、中世社会においてはすでに「牛飼い」というのは異形のものとされていた。
当時知られている中でももっと巨大で獰猛な生物である「牛」を統御できる特殊能力をもつものだったからである。
だから彼らは童形であり、童名を名乗り、ある種の特権を享受していた。
アメリカでは「カウボーイ」がこれに相当する。
「カウボーイ」が最底辺の肉体労働者から神話的イコンに改鋳されたのは、1910年代、ハリウッド映画においてである。
それ以前の開拓時代、カウボーイはひさしくもっとも賃金が安く、もっとも過酷な労働であった。
だから、カウボーイには黒人、インディアン、中国人、日本人、メキシコ人たちが大量に含まれていた。人種障壁のない数少ない職業だったからである。
19世紀の終わりにフロンティア・ラインが太平洋岸に到達し、アメリカ開拓時代が終わると同時に、カウボーイは大量に失業する。
そして、失業したカウボーイたちのかなりの部分が「ハリウッド西部劇映画のエキストラ」に流れ込んだ。
カウボーイには人種障壁がないが、ハリウッドのエキストラには人種障壁がある。
だから、アメリカの西部劇映画には1990年代まで、ひとりの黒人のカウボーイも中国人のカウボーイも出てこなかったのである。
ハリウッド・メジャーの映画に登場した黒人カウボーイは、私の知るかぎりでは、『シルバラード』のダニー・クローヴァーをもって嚆矢とする。
『シャンハイ・ヌーン』でジャッキー・チェンのカウボーイ・スタイルに私たちは違和感を抱くが、これは違和感を抱く私たちの方が間違っているのである。
ハリウッドが一種の触媒となって、「最底辺の労働者」はアメリカの「神話的イコン」に改鋳された。
排除と魅惑のアンビバレンスの力学はここにも働いているように私には思われる。
私が知っているもう一つの例は、フランスのラ・ヴィレットである。
パリ郊外のこの屠畜業の街がフランス・ファシズムの発祥の地であり、19世紀末から20世紀なかばにかけて極右の政治運動の拠点であったことはフランス政治史の中でほとんど挿話的にしか論及されない。
スペイン王家の血統を引き、教皇から受けた爵位を継承したモレス侯爵は、最初アメリカのサウスダコタでカウボーイたちのうちに熱狂的な支持者を見出し、戻ったフランスで極右戦闘集団「モレス盟友団」の団員をリクルートしたのはラ・ヴィレットの屠畜業者の中からであった。
モレス盟友団の制服は「カウボーイハットと紫色のシャツ」であった。
侯爵は団員にまったく思想的統一性を求めなかったが、制服の着用はこれを厳命した。
貴族とカウボーイと屠畜者の同盟。
それが世界最初のファシスト集団となった。
この「貴種」と「異形」の連合は、網野善彦が『異形の王権』で活写した後醍醐天皇と被差別民たちの大連合(建武の中興)に構造的に深いところで通じているように私には感じられる。
肉と屠畜の問題は世界史の中のどこでも、濃密な政治的=宗教的幻想を帯電している。
イスラム教徒やヒンドゥー教徒をはじめとして、多くの社会集団が食肉に関するなんらかの宗教的禁忌をいまも固く保持している。
明治以降、そのような食肉についての禁忌を棄てたはずの私たち日本人の場合でも、それは変わらない。
牧場でのんびり草を食べる家畜の姿に私たちは何の不快も感じない。
パックされた食肉を料理して食べる場面にも何の不快も感じない。
だが、このどちらかといえば「愉快」な二つの風景を架橋するプロセスは私たちの視界から厳重に隔離されている。
ギャルパール・ノエの映画『カノン』は冒頭数分間馬の屠殺場面が続く。
人間が殺され、手足が飛び、血が噴き出すスプラッタ映画を「娯楽」として享受できるタフな観客もこの映像には耐えることができないだろう。
それはこの場面が「みてはいけないもの」を見せているからである。
家畜が食肉に「変換」される工程については、そこで何が起きているかを、隠蔽するにせよ、神話化するにせよ、「あきらかにしない」という点については人類史的合意が成立している。
それは、おそらく食肉習慣の起源に「抑圧された記憶」が存在するからだろうと私は考えている。
そして、すべてのトラウマがそうであるように、それを言語化できないという当の事実が人間の人間性を成立させているのである。

投稿者 uchida : 09:29 | コメント (1) | トラックバック

2006年07月27日

ようやく夏休みらしくなってきた

ようやく、すこしだけ夏休みっぽい気分になる。
でも、朝起きて、大学へ。
学生のいないキャンパスで10時からフランスへの語学研修の最終説明会。
ブザンソンのフランシュ=コンテ大学の応用語学センターで語学研修するようになって、14年になる。
第一回は92年の夏休み。
最初の年は「おまけ」にイタリア旅行をつけた。
オガワマキちゃんやカナ姫とベネチアで『ベニスに死す』ごっこをして遊んだことを思い出す。
不眠のオガワもそのころは健康に日焼けした爆睡少女だったのだが。
大学主催の教育事業に認定されるまで3年かかった。それまでの間は個人的に学生たちを集めて、私費でフランスまで行っていた。
でも、おかげでベトナムのビンくんや、フランス人合気道弟子のブルーノくんと知り合うことができた。
2006年はたぶん8回目のはず。
研修は隔年だし、私ももうすぐ停年だから、あと行けるのは2008年、2010年の二回だけである。
ブザンソン通いもあと3回か・・・
そう思うと、なんだかちょっと切ない気分になる。
私が退職したあとも語学研修を引き継いでくれる人がいればよいのだが、私より若いフランス語教師はいないので、私の退職とともに、この研修も終わってしまうのかもしれない。
今年の参加者は10名。
同時期にパリにジローくんがいるので、例のごとくカルチェ・ラタンでたらたらご飯を食べたり、お酒を飲んだりすることになる。
パリでジローくんととぐろを巻くのはいったい何回目になるのだろう。
私が最初にパリに行ったとき(1974年の夏休み)、パリのジローくんの下宿に転がり込んで、3週間居候して以来だから、今度で四回目。
96年にブザンソンに一緒に行って、帰りにスイスを旅行をしてローザンヌやモンブランに行った。
2001年は、亡きヒロ子さんも一緒だった。
バスチーユ広場の近くで何度かジロー夫妻とご飯を食べた。
帰りの飛行機に乗る前々日が「9・11」で、学生がホテルのドアをがんがん叩いて「先生、何か起きたらしくてテレビで臨時ニュースやってるんですけど、よくわかんない!」と言ってきた。
ニュースでは貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像を繰り返し放送していた。
翌朝の『フィガロ』の一面の見出しはNouvelle Guerre 「新しい戦争」だった。
いろいろなことがあった。
今年も楽しい旅行になりますように。

午後、日経新聞の取材。
「女子大無用論」という世論の趨勢に抗って、「女子大有用論」を語っている私に「どうしてそういうことになるんですか?」というお尋ねである。
1時間にわたって滔々と教育の根源的再編について熱く論じる。
こんな大風呂敷、とても記事にまとまりそうもないですねえ・・・と肩を落として記者は帰って行った。
すまない。
だが、昨日も書いたことだが、いま教育を蝕んでいるのは区々たる制度的な手直しでどうにかなるものではない。
「学ぶ」ということの原理が問われているのである。
「学ぶ」というのは金を出して教育サービスをオン・デマンドで購入することではない。
「学ぶ主体」が「消費主体」として自己規定し、「短期的に確実なリターンが確保されたクレバーな教育投資」をめざす限り、そこにはどのような「ブレークスルー」も到成しない。
ひたすら、「同一者」le Me^me の再生産が続くだけである。
そういう世の中にしたくないので、教育をなんとかしなくちゃまずいすよということを申し上げているのである。

夜はゼミの四年生たち11名が乱入してくる。
前期の「打ち上げ」宴会だそうである。
「なんだよまたかよ」と口を尖らせたが、学生諸君によると、このゼミは一年以上宴会をしていないので、わが家で宴会を開く「当然の権利」があるらしい。
そうですか、そういうものがあるんですか。
ゼミが大学院をいれて四つあって、卒業生たちも学年毎に入れ替わり遊びに来るので、だんだんどれがどれだかわからなくなってきた。
一品持ち寄りなので、私は久しぶりに「颱風カレー」を作る。
美味い。
講談社のS尾さんにいただいたモエ・エ・シャンドンとよく合う。
ムライチヒロ&イセカナコのマジックショーのあと、「殿」のサプライズ・バースディ・パーティに雪崩れ込む。
ゼミ仲間のサプライズのために二日もかけて手品の種を仕込むとは・・・よい子たちである。
みんなどんどん大人になってゆく。
あと半年で卒業である。
早いね。

投稿者 uchida : 11:37 | コメント (2) | トラックバック

2006年07月26日

「日本のへそ」で教育を論ず

『日本のへそ』西脇市の教育委員会に招かれて講演。
中国道を走って、滝野社ICで降りて、北へ10キロほど走ったところ。芦屋から車で2時間ちょっと。
教育委員会のお招きで、聴衆は市の教育長、教育委員の方々である。
全員、教育現場の当事者である。私も高等教育の現場の人間である。
現場のもの同士でぐっと踏み込んだ話をするつもりででかける。
私をお呼びくださったのは教育長ご本人である。
こう言っては申し訳ないが、これまで自治体の教育長といったら、事なかれ主義で因循姑息なオヤジと相場が決まっていた。
でも、そんな人が私のような態度の悪い人間を講演に呼ぶわけがない。
教育現場も、もうそんな事大主義のイエスマンに任せてはいられないというところまで追い詰められてきたということである。
お会いした教育長はまことにストレートで爽快な「現場の人」であった。
日本の教育は、原理主義的きれいごとなんかいくら言ってももう始まらないところまで来ているという危機感を教育長は私と共有する。
今の状況では、「誰が日本の教育をこんなにしてしまったのか?」というような他責的な構文で「犯人探し」をしても始まらない。
だって、教育問題には被害者だけがいて、加害者がいないからだ。
「日本の教育をこんなにしたのは私です」という有責感をもっている人間は文科省にも教師の中にもメディアにも保護者の中にも、どこにもいない。
誰も名乗り出るはずがないんだから、「責任者探し」をしたってはじまらない。
「誰がこんなにしちゃったのかは知らないけれど、とにかく私は何のはずみか、たまたま現場に居合わせてしまった。居合わせた以上は、私がなんとかするしかない」と考える人たち(たとえ少数でも)を糾合して、とにかく手持ちの使える限りのリソースを動員して、できるかぎりのことをするしかない。
私はそう思っている。
そう思っている現場の先生たちは多いはずだ。
メディアではジャーナリストや教育評論家たちが快刀乱麻を断つような発言をされている。
でも、前にも言ったけれど、彼らの弁舌がさわやなのは、教育に関しては何を言っても誰からも効果的な反撃がなされないことがわかっているからである。
どんな過激なことを言っても誰からも反論がされないことがわかっているときにだけ過激になれる人間のことばに掬すべき洞察が含まれている可能性を私は高くは見ない。
日本の教育はどうしてこんなになってしまったのか?
私たちはこの「荒廃」にどんなふうに加担してきたのか?
というテーマで熱く90分間しゃべる。
このままの状態が続いてゆけば、10年後に日本社会は「漢字がよめない、四則計算もできない、アルファベットもよめない、学ぶということの意味がわからない、労働するということの意味がわからない」大量の「元・子ども」をかかえ込むことになるだろう。
それは社会的能力を欠いた彼ら自身にとっても不幸なことであるが、それ以上に、彼らを保護するために莫大な社会的コストを要求される国民全体にとっても不幸なことである。
それが弱肉強食の市場原理の要請するところならやむをえないという「リアリスト」たちもいるだろうが、もう少し長いスパンで考えることはできないのか。
「学ぶ」ことができない、「学ぶ」ということの意味がわからない子どもたちがいま組織的に作り出されている。
家庭でも、学校でも。
それは子どもたち自身の責任ではない。
彼らは被害者である。
「学ぶ」とはどういうことか、それを誰も彼らに教えてくれなかったのだから。
どうやって、彼らを再び「学び」に向けて動機づけることができるのか・・・という議論をしている以上、「彼らは『自分探し』の結果、社会的階層降下の道を自己決定したのだから、その社会的劣位は彼らの自己責任において引き受けられねばならない」という物言いに軽々に同意するわけにはゆかない。
子どもたちは「学び」への動機付けを生得的にもっているわけではない。
彼らを「学び」へ導くのは大人たちの責任である。
その責任を放棄して、子どもたちに「自分にとって意味があると思うことだけをしなさい」といえば、子どもたちが「学び」に向かうはずがない。
そんなことをすれば、子どもの幼い頭でも理解できる動機付け(「金」とか「名誉」とか「権力」とか「エロス的愉悦」とか)だけを支えに学校に通い続け(「幼児の動機」を抱え込んだまま大人になる)子どもと、子どもの幼い頭で「おもしろくなさそうだから、やめた」と学びを放棄した子どもの二種類の「成長を止めた子どもたち」が生み出されるだけである。
そうやって子どもたちの成長を止めたのは大人たちである。
子どもたちに自己決定したことの自己責任を問うわけにはゆかない。
子どもたちを自己責任論で切り捨てるよりも、「自分探し」とか「自己決定・自己責任」とかいう有害なイデオロギーを宣布し、いまも宣布し続けている行政やメディアや評論家たちに口をつぐんでもらうことの方が先だろうと私は思う。
「幼児的なモチベーション」で今日本社会の全体が動いている。
「オレ的に面白いか、面白くないか」と「金になるかならないか」というふたつの基準が今の日本人たちの行動を決定するドミナントなモチベーションになっている。
だが、これは「六歳児にもわかるモチベーション」である。
こういうことばを口にする人間は(たとえ実年齢が60歳になっていても)六歳のときから少しも知的に成長していないのである。
だが、本人たちはそのことがわからない(知的に六歳だから)。
学びを忘れた日本人はこうして「国民総六歳児」への道を粛々と歩んでいる。
いま、日本の大学は40%が定員割れをしている。
採算不芳部門を切り捨てて、適切なリストラを果たせば、そのうちのいくらかは生き残ることができるかもしれない。
しかし、その一方でマンモス私大はこの局面で拡張路線をとり続けている。
現在4%のマンモス私大が志願者の45%を集めている。
遠からず、このパーセンテージは60−70%にまで上がるだろう。
そのようにして、1200ある大学短大のうちの半数近くが「市場から淘汰される」として、それは市場の要請するところだからそれでよいのだといえるのだろうか?
大学の統廃合や淘汰が進行すれば、いずれ「無大学県」も出てくるだろう。
大学は地域の教育研究の中心であると同時に、図書館、情報施設、スポーツ施設、緑地など多様な文化的機能を担っている。それが「市場に淘汰された」という理由で荒れ果てたゴーストタウンになることが地域住民にとって、それほど歓迎すべきことなのであろうか?
少数の学校法人が高等教育を占有し、教員数数千、学生数数十万というような大学がいくつか残り、地方都市ほどの規模の巨大なキャンパスの中で、教員も学生もカフカの『城』の住民たちのように、大学行政部門のテクノクラートたちが陣取る不可視の「象牙の塔」を見上げるような大学において、研究教育が多様で豊かな展開を遂げるだろうか?
私の貧しい想像力を動員するかぎり、大学淘汰のゆきつく先に見えるのは荒れ果てた風景ばかりである。
これら教育の荒廃の全件に共通するのは、「市場原理」「経済合理性」で教育を論じる風儀である。
教育を「畢竟、金の問題」と言い切るリアリズムがそのすべてに伏流している。
「金で買えないものはない」と豪語するグローバリストと、「弱者にも金を分配しろ」と気色ばむ人権派は、教育にかかわる難問は「金でなんとかなる」と信じている点で、双生児のように似ている。
日本の教育は「金になるのか、ならないのか」を問うことだけがリアリズムだと信じてきた「六歳児の大人」たちによって荒廃を続けている。
どこまで日本を破壊すれば、この趨勢はとどまるのであろうか。
私にはまだ先が見えない。

投稿者 uchida : 16:31 | コメント (2) | トラックバック

2006年07月24日

トミタくんのお父さん

ぼくの通っていた都立日比谷高校では、いくつかの教科に「発表授業」というものがあって、生徒が二人一組になって100分間の授業を担当するということがしばしば行われていた。
一年生のとき、政治経済で発表授業をすることになった。
級友の秀才トミタくんが眼鏡ごしに目をキラリとさせて、「ねえ、ウチダくん、自衛隊について発表しないか?」と提案してきた。
うん、いいよ、とぼくは答えた。
さっそく二人で図書館にこもって自衛隊に関する基礎的なデータを集め、自衛隊についての賛否の政策的議論を調べた。
だいたい調べがついたところで、トミタくんがふたたび目をキラリとさせて「実際に防衛庁に行って話をきいてみよう」と言ってきた。
自衛隊に?どうやって?
「うん、あてがあるんだ」とトミタくんは静かに笑った。
数日後、ぼくとトミタくんは一緒に六本木の防衛庁を訪れた。
門衛に名前をつげると、門衛の兵士は直立不動でぼくたちに敬礼をした。
制服の士官に執務室に案内されると、スーツをきた端正な風貌の中年の紳士が立ってていねいに挨拶をしてくれた。
「父だよ」とトミタ君が紹介してくれた。
トミタくんのお父さんは防衛庁にお勤めだったのである。
お父さんが手配してくれたので、ぼくたちは防衛庁内部を制服士官の案内で視察し、たくさんの資料を頂いて、内容の濃い発表授業を行うことができた。
それからしばらくして、トミタくんのお父さんは警察庁に移動した。
もともと警察官僚だったので、古巣に戻ったのである。
それからしばらくして、トミタくんのお父さんは宮内庁長官になった。
そのときにはじめてある種の超高級官僚は、警察と自衛隊と宮内庁を結ぶネットワークをコーディネイトすることを主務としているのだということを知った。
考えてみれば、当然のことである。
そのトライアングルこそが旧称でいわれたところの「國體」の中枢なのだから。
そのトライアングルの管理者に求められるのがどのような人間的資質であるかはぼくにも想像がつく。
恐ろしく頭が切れて、決して感情的にならず、私利私欲がなく、トップシークレットを供与する無数の「アセット」を国内外に有していながら、その情報を利用することを出来る限り自制できる人でなければ「こんな仕事」は務まらない。
警察と自衛隊と天皇制をむすぶネットワークの中枢にいた富田朝彦氏のもとにどれほどの質と量の情報が届けられたのか、とてもぼくには想像がつかない。
そのほとんどは「墓場まで持ってゆくしかない」種類の情報だったはずである。
そして、現に富田氏はそれを墓場まで持って行った。
たまたま、そのうちのひとつがぽろりとこぼれた。
それだけで靖国問題についての世論の動向がこれだけ振れた。
いまでも新聞にその名前を見るたびに、40年前に執務室に差し込んでいたあわい冬の日差しを背にしたシルエットを思い出す。

投稿者 uchida : 21:57 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月23日

日曜だから原稿でも書こう(って先週も言ってたな)

ひさしぶりのオフなので、午まで寝て、家でごろごろしていたら、佐々木修一くんから電話がかかってきた。
修一は1970年代のなかばごろ、尾山台の小さなマンションで私が妻とふたりで暮らしていた頃に家によく出入りしていた「近所のナマイキ高校生」である。
「あんな連中とつきあっているとろくなことにならない」と彼の周囲の大人たちはたしなめていたが、これはもちろん周囲の大人たちが正しい。
大人のいうことは聴いておくものである。
さいわい、私は89年に東京を離れたので、修一も私の悪影響をまぬかれて、その後は(たぶん)まっとうな人生を歩んだはずである。
かつての高校生も、きけばもう44歳だそうである。
まあ、そうか。
でも、年月の経つのは早いものである。
仕事仲間の読書家から「ウチダイツキって知ってる?」と訊かれたので、「ウチダタツルなら知ってるよ。読んだことないけど・・・」と答えたそうである。
西宮に引っ越すことになったから、また会おうよというので、「おう、いいぜ。一杯酌み交わそう」ということになる。
そのあとばたばたと原稿を書く。
岩波書店の身体論をまず書き上げる。
これは三月末が締め切りでちゃんと締め切りに原稿を送ったのだが、「話がくどい」とクレームがついたので書き直しをすることにした(ほんとうのことなので反論しない)。
どうせ他の書き手も締め切り守ってないだろうとそのままほうっておいたら、さすがに七月になって、「もういい加減原稿送ってください」と言ってきたので、昨日今日でソッコーで書き直したのである。
そしたら、全然前の原稿と違う話になってしまった。
ま、いいか。
次に幻冬舎から出る加藤典洋さんの『村上春樹イエローページ2』の「解説」に取りかかる。
加藤さんは文藝春秋の『本の話』8月号に『私家版・ユダヤ文化論』の書評を書いてくれた。
加藤さんの書評の書き出しは、「昨年、内田樹がこの本のもとになる『私家版・ユダヤ文化論』を『文學界』に連載しはじめたとき、なぜいまユダヤ文化が問題なのか、うろんな筆者にはよくわからなかった」というものである。
加藤さん、それは加藤さんが正しい。
ぜんぜん「ユダヤ文化論」は「いま」問題だったのではないんですから。
『文學界』が連載をと言ってきたとき、たまたま大学の講義ノートがあったので、「ありものでよければ・・・」と急場をしのいだのである。
ところが連載が進んでくるうちに、「ありもの」のノートが底をつき、しかたなく毎月締め切り間際に必死になって思いつくまま書き飛ばした。
ネタが切れたので思いつくまま書き飛ばしているうちに、自分でも何を書いているのかわけのわからないことをずるずる書いてしまったのである。
その消息も加藤さんはみごとに看破して、書評の最後にちゃんとこう書いている。
「何より、著者にとって、画期的。それがこの本の偉いところであると思う。」
書き手が「なるほど、そういうことが言いたかったのか」と自分の書いたものを読んで得心するというのは(自分でいうのもなんですけど)だいたいよい本である。
書評に気をよくして、では私も『イエローページ』をめくって、「この本の偉いところ」をさくさくと書く。
相手があの加藤典洋さんなので、「偉いところ」を探すのは苦もないことである。
しかし、あまりほめてばかりも、芸がない。
芸がないのは(真実だから)かまわないのだが、加藤さんに「ウチダって芸のないやつだな」と思われるのは困る。
このあたりの湯加減が悩ましい。
うう。

投稿者 uchida : 20:29 | コメント (3) | トラックバック

Take good care of my baby

土曜日はオープンキャンパス。
大学を挙げての「人集め」イベントである。
どの大学でも知恵を絞って、いろいろなことをやっている。
本学も学生スタッフを大増員して、新しいアイディアをいろいろ工夫した。
私も企画広報室に命じられて特別講演というものを行った。
「立っているものは親でも使え、客寄せにはパンダでも使え」というプラクティカル(つうより非人情)な態度を私はもとより高く評価するものであるが、よもや自分が「パンダ」になる日が来ようとは思わなかった。
「パンダ」講演のタイトルは「僕が女子大学を薦める訳」。
協賛には角川書店ならびに講談社が手を挙げてくれて、事前の広報に一役買ってくれた(どうもありがとうございました)。
長梅雨のあいまの奇跡的な快晴の土曜日なので、心配していたよりはお客さんも集まって下さったようである。
90分ほどしゃべって、それからサイン会。
高校生がサインを求めて三人来てくれた。
ありがたいことである。
なにしろこの子たちのための講演なのである。
「本、読んでくれてるの?」と訊くと、「こくり」と小さく頷いてくれる。
「だったら、女学院に来てね!」と手をとって懇願する。
ついでに、ネコマンガにふきだしで「来てね!」と大書する。
ほんとに来てね。

講演後、かねてからのお約束の『身体知』の共著者プチ打ち上げイン西宮のために東京からお越し下さった三砂ちづる先生、角川のE澤さん、講談社『週刊現代』のS尾さん、朝日新聞『大学ランキング』のK林さん、それにいつのまにか紛れ込んでいた“いつもの”ウッキーと「花ゆう」へ。
(今回の打ち上げは角川書店さまの「おごり」であった。さすが、角川。ごちそうさまでした!S尾さんからはモエ・エ・シャンドンを頂いた。こちらもごちそうさま!)
三砂先生と再会するのは対談が終わってからはじめてである。
でも、メールのやりとりで、「住民税地獄」の苦しみなどについては近況を存じ上げていたのである(三砂先生は去年『オニババ』のベストセラーがあったせいで、今年から巨額の住民税で給与の大半がもっていかれていると嘆いておられた)。
うかつにベストセラーなど書くものではない。
いつものように三砂先生はお着物。
三砂先生は研究の外部資金が入ったので、今年は「おむつの研究」で国内外を回られるそうである。
日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている。
母と子が(ねんねこ状のもので)ぴったり密着している文化では、子どもがところきらわずじゃあじゃあ排便すると母親だって困る。
そのせいで、子どもの排便予兆の微妙な身体的シグナルに対して、母親は敏感になる。
だいたい子どもがおしっこするのは「おっぱいをのんだあと」とか「眠りから覚める直前」とかある程度生理的な規則性がある。
その「気配」を母親が察知できれば、「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいいのである。
それならおむつは要らない。
現に生後2週間でおむつを取ってしまう社会もあるんだそうである。
2週間というのは、子どもが「排便する前に発するシグナル」がどういうものか学習するための時間である(当然、子どもひとりひとりでそのシグナルの出し方が微妙に違うからだ)。
シグナル読解ができれば、子どもがまだことばができなくても、「おしっこするよ」「うんちするよ」というサインが母親には伝わる。
母親にシグナルが読めればおむつは要らない。
ということを科学的に論証しようとする研究だそうである。
面白そうである。
ところが、この研究に対してすでに微妙な圧力がかかっているそうである。
「おむつは要らない」ということを論証する研究なのであるから、当然「紙おむつメーカー」にとっては死活問題である。
三砂先生が「むかしの女はナプキンなんか使わなくてもコントロールできた」という論を展開したときには、「ナプキンメーカー」からは「では、そういうかた向きの新製品開発にご協力を・・・」というオッファーがあったそうである(資本主義はしぶとい)。
紙おむつメーカーが慌てるのはよくわかる。
もうひとつの圧力源は、ご想像のとおり、フェミニストからである。
「おむつはつけたままでいい」という主張がフェミニスト的にPC(Politically correct)とされるのは、「母親は子どもに縛りつけられるべきではない」からである。
「母親と子どもとのあいだには身体的でこまやかなコミュニケーションが必要だ」というのは、そのようにして女性から社会進出機会を奪い、すべての社会的リソースを男性が占有するための父権制のイデオロギーなのである(とほ)。
だが、よく考えて欲しい。
「おむつが要らない」ためには子どもの発信する微細なシグナルに対する育児する側の感受性が必要である。
このようなシグナルが適切に受信されることは、子どもにとって単に生理的な不快(おしりがぐじょぐじょする)が最小限で済むという以上に重要なことだ。
それは「私の発信したシグナルがたしかに聴き届けられた」というコミュニケーションに対する信頼が醸成されることだからである。
新生児が生まれた最初の数週間のあいだに「私の発信するシグナルは(ごくわずかな身振りや身体の震えや体温の変化だけで)適切に受信された」という経験をすることは、その後の人生における対人コミュニケーションへの信頼の深さに決定的な影響を与えるだろう。
いま「私の発信するシグナルは・・・」と書いたけれど、もちろん鏡像段階以前の幼児に「私」などというものはない。
「私」はコミュニケーションが成就した後に、「受信者が『送信元』として認定したもの」というしかたで事後的に獲得されるからである。
つまり、「おむつの要らない育てられ方をした子ども」は「世界の中に私が存在することのたしかさ」をきわめて早い段階で実感できることになる。
これがそれから後の子どもの人生にどれほどゆらぎない基礎を与えることになるであろう。
どれほどの「余裕」と、「お気楽さ」と、「笑顔」と、「好奇心」をもたらすことになるであろうか。
そんなものよりも、まずもっと確実で、実利のあるものが優先すると言うフェミニストたちの意図が私にはよく理解できない。
コミュニケーションに対する深い信頼をもっている子どもをひとり育てることは、権力や財貨や情報や名声や文化資本を得ることよりもずっとずっとたいせつなことだと私は思うからである。
「それはあなたが男で、『そういうもの』を全部あらかじめ占有しているから言うことができるのだ」とフェミニストたちはいつも言う。
それは違うよ。
男の中にも「そういうもの」と全然無縁の人間はいくらもいる。
どうして、そういう男たちは「男であるだけで享受できるはずの特権」から疎外されているのか、フェミニスト諸君は考えたことがあるだろうか。
それは、彼らには、どんなときもいつもそばで支えてくれる配偶者や家族や友人がおらず、引き立てる師匠も先輩がおらず、声援を送ってくれる弟子や期待をかけるファンもなく、情報を提供してくれる協力者も、能力を発現する機会を探し出してくれるサポーターも、どれも持たなかったからだ。
それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いていたせいである。
人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。
コミュニケーションへの深い信頼をもつことのできないものは、それが男であれ、女であれ、つねに、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
もし、クールかつリアルな立場から、社会的リソースを確実に継続的に獲得し続けたいとほんとうに願っている人がいたら、私は「おむつが要らない」こどもを育てるところから始めた方がいいとアドバイスするだろう。
自分の子どもが発信するシグナルさえ感知できないし、感知することに興味もないという人間が社会関係の中でブリリアントな成功を収め続けるという見通しに私は同意しない。
三砂先生の「おむつ研究」の成果がどんなかたちで結実するか愉しみである。
そういえば、キャロル・キングの最初のスマッシュ・ヒットであったボビー・ヴィーの『Take good care of my baby』は「おむつ」のCMソングとしてヒットしたそうである。
あらためてジェリー・ゴフィンの歌詞を読むと、これがかなり深読みできるんだな。
つまりこの歌の中のmy baby はほんとに「ぼくの赤ちゃん」で、ボビー・ヴィー父さんが手抜き育児をしたせいで、「君」が持って行ってしまうのである。
Take good care of my baby 「ぼくの赤ちゃん、だいじにしてね」
Be just as kind as you can be 「ほんとにほんとにやさしくしてね」
And if you should discover that you don’t really love her 「もしあまり好きじゃないような気がしたら」
Just send my baby back home to me「すぐにぼくに返してね」
うーむ、そうだったのか。

投稿者 uchida : 14:38 | コメント (4) | トラックバック

2006年07月21日

若い研究者たちへ

フランス語の試験をすませてから博士論文の中間発表。
私が主査でレヴィナス論を書いている博士課程の院生がいて、彼女の論文の途中経過を拝聴して、ご指導するというイベントである。
大学院の指導を担当している教員十名ほどにもご案内を出したのであるが、全員欠席。とほほ。
聴衆は院生三名と私だけ。
副査二名のうち一人は学外者という規定があるので、大谷大学の門脇健老師に大役をお願いしたらご快諾頂いた。
浄土真宗の学僧たちは釈老師といい、みなさん善い方ばかりである。
でも、その老師も今日は大学で自己評価委員会があってご欠席。
実は門脇老師にはまだお会いしたことがない。
メル友である。
老師は哲学の方なのであるが、先般ドイツでレヴィナスについて学会発表をされたおりに拙著へも言及してくださった。
自分の書いたものがドイツ語に訳されて外国の学者の前で朗読されている風景がうまく想像できない。
レヴィナス解釈に際して諸説をさしおいて「ウチダ説」を採用するとは、老師も「こわいものしらず」というか「まずいもの好き」というか、とにかく奇特な方である。
文学研究科比較文化学専攻で最初の博士号学位請求者のケースであるから、襟を正して中間発表を拝聴する。
個別的な感想についてはここには書かない。
一般論として繰り返し注意したことは、もう何度も書いたことだけれど、もう一度書く。
それは「学術の本質は対話性だ」ということである。
学術論文は査読者に差し出すものではない。
ほとんどの研究者はそう考えているが、私はそう考えない。
研究というのは、自分の「後から」同じ主題について考究することになる「いまだ存在しない研究者」のために里程標を打つことである。
極論すれば、その論文を読んだことによって、はげしく知的興奮をかきたてられ、同じ主題について「自分もまた一生かけて研究したい」と思うような若い世代を創り出すことである。
研究の本質は、「すでに存在するものに基づいて査定されること」ではなく「いまだ存在せざるものを創造すること」なのである。
そういうマインドセットを決めれば、どういうふうに書けばいいのかということはおのずからわかってくる。
自分が何をしようとしているのか、どうしてその学的主題の選択には必然性があるのか、それを非専門家にも納得がゆくように説明するところからまず話は始まらなければならない。
これが最初の「挨拶」である
それに続いて、当該主題についてのこれまで積み上げられてきた業績についての「表敬」が行われる。
当然のことながら、学統というのは「知的贈りものの次世代への継承」というダイナミックな歴程そのものだからである。
自分が知的なリソースの贈り手でありうるのは、自分もまた先行する研究者たちから豊かな贈りものを受けとったからである。
先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。
だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。
先行研究がどれほど「時代遅れ」に見えようとも「短見」に映ろうとも、その先行研究があったからこそ、どういう知見が「時代遅れ」であり「短見」であるかが後続世代に明らかにされたのである。
研究史外観や先行研究批判というのは、「こんにちは」のあとに、「ひさしくご無礼しておりましたが、今日は近くまで参りましたので・・・」とか「先般はまことに結構なものを頂きまして、今日はその御礼に・・・」とか続けるのとまったく同じことである。
自分のいまの仕事はいつだってある「続きもの」のなかの一こまである。
誰かが私をインスパイアしたのである。
その消息について論及するのが先行研究批判である。
このふたつの挨拶ができたら「博士」合格である。
私はそう考えている。
その人の学者としての器量がどの程度のものかは、「最初の挨拶」を聴いただけでわかる。
自分がどういう知的伝統の「コンテクスト」の中に位置づけられているのか。
それを適切に言うことのできるクールで中立的な知性。
そのコンテクストの中に置かれてあることを「幸運」として受け止めていること。
先行世代への感謝の気持ちと、後続世代への配慮があること。
それが整っている研究者なら、どんな主題についてもクオリティの高い仕事をしてくれるに違いない。
知と愛。
学者に求められているのはそれだけである。
院生諸君の健闘を祈る。


投稿者 uchida : 10:42 | コメント (6) | トラックバック

2006年07月20日

比叡山延暦寺で『翁』を見る

ばたばたと会議を三つ終わらせてJRで京都へ。
京都駅からタクシーに乗って、比叡山延暦寺根本中堂まで上る。
京都駅から延暦寺まで、どれくらいの距離があるのか、京都にうとい私には想像がつかない。
西塔の傍らに住む武蔵坊弁慶が夜な夜な五条大橋まで出向いたと『橋弁慶』にはあるから、大人の足で2,3時間・・・まあ10キロくらいのものであろうと高をくくっていたが、まるで勘違い。
なんと延暦寺は滋賀県にあったのである。
約45分ほどで根本中堂にたどりつく。
さいわい朝からの大雨は上がって、青空が見える。
琵琶湖が一望。
『平家物語』を読むと、「叡山から坂本に落ちる」という表現が何度も出てくる。たしかにこれは「落ちる」だよなと思う。
ぼおっと琵琶湖を眺めていたら、前方で「爆発ヘアー」の男性がデジカメで杉林を撮影している。
手を振ると向こうも手を振り返してくれる。
茂木健一郎さんである。
今日は根本中堂まで梅若六郎さんの『翁』を見に来たのである。
企画したのは橋本麻里さん。
ご一緒させてもらったのは茂木さんの他に、杉本博司画伯、ギャラリー小柳の小柳敦子さん、上智大学の黒川由紀子さん、デザイナーの原研哉さん、それに武者小路千家の若宗匠千宗屋さん。
茂木さんとは香住に続いて三回目。
千さんとは「高橋源一郎さん、加藤典洋さんと一緒に鈴木晶さんの家のワインセラーのワインを飲み干す会」以来二年ぶり。
ほかのアート系の方々は初対面である。
茂木さんは「理系なのにアート系」だし、千さんは芸術鑑賞と「パトロナージュ」が家業であるので、要するに私ひとりが「文系非アート」なのである。
みなさんの話題についていけない・・・と思ったが、さすが橋本さんがアレンジしただけあって、全員「とっても大人」なので、白鳥の群れに紛れ込んだアヒルの子のレベルに話を合わせてくれる(やさしい人たちである)。
根本中堂に着くと、なんと一番前の席。
橋本さんは各界に「アセット」を送り込んでいるので、こういうときにかねて用意のスパイ網が機能するのである。
若いのにたいしたものである。
いったいどこまでネットワークが拡がっているのか、私のような田夫野人には想像も及ばない。
舞台横に座り込んでわくわくしていると、「あら先生!」と声がかかる。
振り向くと、魔性の女フジモトと「えくぼがキュートな」スナモトさんのコンビである。
魔性の女、神出鬼没。
でも、どうして私がここにいることを知っているのだ?
そういえば、しばらく前に茂木さんと橋本さんが西本願寺に行ったときに、フジモトが飛雲閣を案内した・・という話を漏れ聞いた。
おそらくそのおりに「橋本−フジモト」のホットラインが形成されたのであろう。
うーむ、このラインは強力だ。
ここを行き交う「ここだけの話情報」の量と質を想像すると気が遠くなりそうである。
それに先般、祇園祭のおりには「アダチマホ−ウッキー」ホットラインが形成されたとの報告があった。
このようなラインを放置しておいた日には、私の芦屋における常住坐臥はあっというまに東京の編集者たちの知るところとなってしまうではないか。
ああ、どうすればいいのか。
困った。
『翁』が始まる。
三番叟は野村万作、「大黒風流」という寸劇が入り、大黒は野村萬斎。
私と茂木さんの前にずらり囃子方が並んでいる。
能管なんか私の顔の前である。
「ぴー!」という音が右の耳から左の耳に抜けると、脳がほんとに「きーん」と鳴る。
小鼓は大倉源次郎家元が頭取で、清水浩祐さん、吉阪一郎さんのおなじみ関西トリオ。大鼓は亀井広忠さん(彼が今回のチケットを手配してくれたのである。どうもありがとうございました)。私の脳をシェイクしてくれた能管は杉信太朗さん。
『翁』は何度も見ているが、今回は三番叟という舞の土俗性を改めて痛感した。
根本中堂の霊気とわずかな燈明だけの暗闇の中での三番叟である。
能としては例外的にアーシーな笛の旋律がエンドレスに繰り返され、三番叟が「きゃー」と猿の啼き声に似たケダモノじみた声を上げて拍子を踏む。
それにあわせて呼吸し、拍動しているうちに、いつのまにか私たちも軽い「トランス状態」に入っている。
古代における能楽というのは「こういうもの」かということがわずかなりとも想像せられたのである。
終演後、タクシー二台に分乗して一路祇園へ。
「楽々」という割烹に千さんにご案内いただき、冷たいビールで乾杯してから、鮎や鴨など美味しいものをうまいうまいと貪り食いつつ、奇想天外なる画壇事情を「へえ〜」とひたすら愕きつつ伺ううちに、しんしんと祇園の夜はふけてゆくのであった。

投稿者 uchida : 19:00 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月18日

九条どうでしょう同窓会

町山智浩さんがオークランドから一時帰国されたので、ついに『九条どうでしょう』の共著者4名が一堂に会す「出版記念パーティ」が毎日新聞のナカノさんの仕切りで開かれることになった。
せっかく上京するのだから、ついでに平川くんと3時間ほど『東京ファイティングキッズ2』の巻末対談も収録しちゃおうということになる。
午後2時すぎに学士会館ロビーで待ち合わせ。
コーヒーを飲みながら2時間ほど言いたい放題。
MDレコーダーが「ぶちん」と切れたので、「まあ、これだけしゃべればいいよね」ということで終了。
江さんとかうちの兄ちゃんとか身内の人の話ばかりなので、彼らを知らない読者が読んで話の意味がわかるかどうかいささか心配であるが、「言いたいことがリアルであればあるほど、話の意味は理解しがたいものになる」というのが本日のテーマであったので、趣旨との齟齬はないのである。
雨の中を六本木へ。
六本木って、来ることないなあ。
地の気が悪いからね。
おお、あれが六本木ヒルズか・・・禍々しい建物だな。巨大な墓石みたいだぜ。
ゴジラが最初に壊しそうだな。
とぶつぶつぼやきながら、会場の中華料理屋がまだ準備中だったので、しかたなく雨宿りに六本木ヒルズに入る。
おおお、瘴気に満ちているぜ。
こんなところに住めるやつの気が知れないなあ。
みんな不機嫌な顔してるねえ。
やだやだ。
20分ほどお茶をしてから早々に逃げ出して会場へ。
定刻に小田嶋隆、町山智浩のご両人が登場して、ここに『九条どうでしょう』の執筆陣が「はじめまして」の名刺交換。
小田嶋、町山は私が「日本を代表する批評的知性」と尊称を奉っている、ひさしい「アイドル」である。
私が小田嶋さんのファンになったのは小田嶋さんが『シティロード』にエッセイを書いていた頃からだから、80年代のはじめころである。
20年来の愛読者なのである。
私が文体上もっとも大きな影響を受けた日本人の書き手は、6歳年下のこの天才である。
小田嶋さんは25歳のときにすでにいまと同じような文体で書いていた。
だから、「若書き」というものがない。二十代ですでに自分の「ヴォイス」を発見していたのである。
『クローサー』の中でロンドンの新聞の死亡欄担当の記者であるジュード・ロウがナタリー・ポートマンに「ぼくはまだ自分のヴォイスを発見していないんだ」と語る場面がある。
この感じはよくわかる。
「ヴォイス」というのは水道管に取り付ける「蛇口」のようなものだ。
それを取り付けさえすれば、あとは「蛇口」をひねるだけでいくらでも「水」が出てくる。
けれども、「これが自分の『ヴォイス』だ」と思ったものがそうでない場合がある。
「そうでない場合がある」というより、実は「ほとんどの場合がそう」なのである。
その「蛇口」からはたしかにいくらでも水が出てくるように思える。
だが、よく味わってみると「全部同じ味」がする。
同じ味どころか、だんだん味が劣化して、奇妙な腐臭さえ漂ってくる。
よく見ると、「蛇口」が水道管にではなく、自分のシンクの「排水口」に繋がっていたのである・・・
若くして自分の「ヴォイス」を発見したと思っている人の多くは、気づかないうちに、「排水口」に「蛇口」をつないでしまう。
そうやって「自己模倣」の檻の虜囚となる。
このピットフォールから逃れるためには「ヴォイス」そのもののうちに自己否定の契機がはらまれていなければならない。
「自己否定」といっても、単に書くたびに「ああ、違う。オレが書きたいのはこんなことじゃない」と髪の毛をかきむしるのとは違う(そんなことをしていたら「蛇口」から「水」が流れない)。
あるいは何かまじめに書いたあとに「トカトントン」とか「なんちゃって」とか添付して、韜晦してみせるのも違う。
「定型的な自己否定」というのはすでにして背理である。
自己否定とは「定型化しないこと」だからである。
批評的精神は、そのつど自己を否定する仕方が変化するというかたちでしか真の批評性を保ちえないのである。
めんどうな仕事である。
けれども、そのような七面倒な仕事に律儀に取り組んできた人間は豊かで深い「ヴォイス」を持つようになる。
小田嶋隆はそのような稀有の天才の一人である。
町山智浩さんも天才である。
彼はある種の異常知覚の持ち主である。
表層的には安定し、順調に機能してみえるシステムや秩序の「破綻」や「亀裂」の兆候に対する感度の高さが町山さんの持ち味である。
さきほどの比喩をそのまま使えば、「腐臭」に対する嗅覚が鋭いのである。
その異常嗅覚は「ジャンク」や「ごみため」のような常人が「げ、臭い」といって顔をそむけるようなもののうちに珠玉のリソースを探り当てる能力と対になっている。
「腐臭」をかぎ当てる能力は私にも多少はあるが、「ジャンク」の中から「宝石」を探り当てる力はない。
私はそのような力がありうることを町山さんと高橋源一郎さんから学んだのである。
そのような大恩あるお二人と同席して、おしゃべりする機会が得られた。
私の興奮がいかばりかご想像頂けるであろう。
初対面なのだけれど、20年くらい前からの古い知り合いのような気が(こっちは勝手に)しているので、「ね、あれ、どうなりました?」という感じでどんどん話が進む。
まあ、話した話した。
なんと、われわれは開店準備中の店に入って、閉店時間まで5時間(!)しゃべり続けたのである(とはいえ、話していたのは50%が町山さん、30%が小田嶋さん)。
私はひたすら「へえ〜」とか「ふぁ〜」とか間の抜けた相槌を打つばかりであった。
お二人は(平川くんには熟知されていることだが)「大学の教師ってほんとにものを知らないなあ・・・」と驚かれたのではないだろうか。
このまま録音して本にすればよかったねと最初のうちは笑っていた毎日新聞関係者たちも、途中からは「これって、ぜんぶ活字にできない話じゃないか・・・」と青ざめていた。
よくもまあ「活字に出来ない話」だけ選択的に5時間話し続けたものである。
だからこの快楽は残念ながらいかなる読者とも共有することができないのである。
終わりに記念写真を撮って、雨の中手を振りながらお別れする。
ああ、楽しかった!

投稿者 uchida : 13:54 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月17日

日曜日なので原稿を書こう

ひさしぶりのオフなので、終日原稿書き。
共同通信と日経の月刊連載の原稿は週末に(会議と対談と宴会と麻雀のあいまに)書き上げてしまったので、残った「大物」である江弘毅さんの講談社新書「街的本」(正式タイトル知らない)の解説にとりかかる。
まず家の掃除と洗濯とアイロンかけ。
家の中がきれいになってないと、よい原稿は書けない。
明窓浄机に端座し、ずずとコーヒーを啜り、モーツァルト『魔笛』をBGMにセットしてから徐に書き始める。
前にも書いたとおり、江さんのこの本を私は「現代における『「いき」の構造』」と見立てた。
九鬼周造の古典的著作は名前だけはよく知られているけれど、当今の若者はたぶんほとんど読んだことがないだろう。
こんな文から始まる。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。(九鬼周造、『「いき」の構造』、1979年、岩波書店、11頁)

九鬼周造は「粋(いき)」という日本の伝統的な美的感覚の分析を比較文化的な視点から試みる。
「いき」は他の外国語に同価値の語をもたない。
「シック」chicも「エレガント」elegantも「ラフィネ」raffine´も「コケ」coquetも、「いき」と語義は似ているけれど、語の意味するところの「幅」や「奥行き」が異なっている。
例えば、「シック」にはエロティックな含意がない。
でも「粋」と「野暮」の区別がもっとも頻繁に言及されたのは遊里の作法、男女の交情の場においてである。
「コケ」には性的媚態が含意されるが、ベタで下品な色気も「コケ」である。
とりあえず英独仏語には同価値の語がない(らしい)。
だから「いき」というのは日本固有の種族的な美的概念である、というふうに九鬼の議論は進む。
わかったよ、だから何なんだよ、とイラついている方もおられるかも知れないが、こんなところでイラつかれては困る。
このあと話はもっとややこしくなる。
九鬼はこう続けているのである。

我々は「いき」の理解に際してuniversalia の問題を唯名論の方向に解釈する異端者たるの覚悟を要す。すなわち「いき」を単に種概念として取り扱って、それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直観」を索めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」のessentia を問う前に、まず「いき」のexistentia を問うべきである。(18頁)

『「いき」の構造』は高校生の夏休みの課題図書のリストに入っていたりするので、勘違いした高校生がうっかり、「あ、薄いから、これにしよ」とか選んでしまうことがあるが、高校生が読むものではない。
ネタは遊里の作法や着物の着付けや清元の節回しのことで、それを哲学の用語で解説しているのである。
『五人廻し』も「抜き衣紋」も「盤渉」も「意味わかんね〜」という高校生にははなから話が見えないところへ持ってきて、ラテン語哲学用語の乱れ撃ちである。
文庫本買って7頁読んだところで、先を読み続ける意欲を失った方も多かったであろう。
だが、ややこしい話を噛み砕いてご説明するのは私の得意とするところである。
ご説明しよう。
九鬼が言ってるのは、「いき」という概念は世界人類が共有しているものではなくて、日本固有ものだから、「いき」を通じて、万国共通で全人類が共有する、その上位概念に到達しようとしたって無理ですよ、ということである。
人類共通のある美的感覚が、たまたま日本語では「いき」という種概念で表現され、フランスでは「シック」という概念で表現され・・・というような序列にずらっと並んでいるわけではない。
「いき」は日本にしかない美的概念である。
だから、「いきの本質(essentia)」を探し求めても仕方がない。「いき」の「具体的」で「事実的」で「特殊な」な実在態(existentia)の個別事例を丹念に取り上げて、その機能と構造を考究しようではないかと、九鬼周造は提案しているのである。
ある意味では当たり前のことである。
例えば、「サル」という語が日本にある。
普通の人はこれを「サル」という人類共通の類概念の特殊日本語的な表出だと考えている。
英語ではmonkey といい、フランス語ではsinge というものを日本語ではサルという、と。
果たしてそうであろうか。
フランス語のsinge には「醜い人間」、「他人のまねをする人」(このへんは日本語にも通じるものがある)のほかに、「コーンビーフ」や「ボス」という意味がある。
英語のmonkey には「いたずら小僧」「うすら馬鹿」のほかに「500ドル」「中国人」「麻薬1キロ分」などの意味がある。
それに、英語では「尾のある小型サル」がmonkey 、「尾のない大型サル」はapeと区別するが、もちろんこんな区別は日本語にはない。
サルはサルである。
だから、例えば「サル」について考えるときに万国共通のサルの「本質」を探究してもあまり意味がないのではないか、と九鬼は言っているのである。
それより、どうして英語ではmonkey が「中国人」や「麻薬1キロ分」を含意することになったのか、そちらの連想を探ることの方が「アメリカ文化」について、そのイデオロギーについて、そのアメリカ人の神話的世界について知る上では有用であろう。
私ならそっちの方がだんぜん面白い。
話を戻そう。
「街的」の話をしていたのであった。
九鬼は「類概念」や「本質直観」を求めたって、文化のことはわからないぜと書いている(書いてないけど、書いているのである)。
現に、九鬼の本をいくら読んでも「いき」の個別事例についてはいろいろ教えてもらえるが、「いき」の本質が何かということは、やっぱりよくわからない。
というのは、すべての「いき」なる事象に汎通的に妥当する本質があるだろうと考える人は、畢竟「いき」のessentia を求めているからである。
「いき」の本質を求める人間は、事象の具体的・個別的・特殊的な物質性existentiaの「向こう」を見たがる。
「いき」の本質さえわかれば、「いきなパジャマの着付け」や「いきなラップの歌唱法」や「いきな貸借対照表のつけ方」などが芋づる式にわかるだろうと思っている。
だが、「いき」の網羅的リストをクリックひとつでゲットしようとしている人間がいたら、そういう人間こそ、きわめつけの「野暮天」であると九鬼周造は思っているのである。
本質を求めてはならない。
「事物に還れ」と九鬼周造は言っているのである。
これは九鬼が学んだハイデガーのそのまた師匠のおことばである。
「いき」は事物の具体性・物質性のうちに深く踏み込むものにしか感知することのできないものである。
わかりにくいようであれば、試みに私が「いき」と「野暮」のリストを作ってみよう。
フジテレビが野暮で、NHKラジオが粋。
アサヒスーパードライが野暮で、サッポロ黒ラベルが粋。
ワープロが野暮で、書道が粋。
ラップが野暮で、謡が粋。
ベンツが野暮で、BMWが粋。
スピルバーグが野暮で、ティム・バートンが粋。
『嵐が丘』が野暮で、『自負と偏見』が粋。
ロレックスが野暮で、シチズンが粋。
「ひかり」が野暮で、「こだま」が粋。
iPodが野暮で、電蓄が粋。
和歌山ラーメンが野暮で、讃岐うどんが粋。
ミネラル・ウォーターが野暮で、コカコーラが粋。
こんなリストはいくらでも続けられるが、きりがないので、このへんにしておく。
昔から「ヒップ」と「スクエア」、「イン」と「アウト」、「○金」と「○ビ」・・・とこの手の遊びはいくらでもあるが、この遊びの興は「なんとなくわかるけど、どうしてそうなるのか、いえない」というあいまいさのうちにある。
このリストの「粋」と「野暮」を全部ひっくり返しても、それはそれで「一回半ひねりした、憎いほどの趣味のよさ」に思えなくもないから不思議である。
だから、こんな外形的なリストには何の意味もないのである。
「いき」な人というのがもしいたとすれば、それは「いき」の網羅的なガイドブックを手にして、自分の選択のひとつひとつをそれにしたがって律している人ではない。
「いきな人」というのは存在全体が「いき」な人のことである。
そういう人は洟をかんでも「いき」だし、満員電車の中での「押され方」が「いき」だし、スーパーのレジでおつりの1円玉を受け取るときも「いき」である。
ニーチェ風に言えば、「いきな行為」や「いきな選択」があるのではなく、「いきな人間」がやることは全部「いき」なのである。
「いき」というのは属人的な現象である。
本質なんか、ない。
「いき」な人は身体の粒子が細かい。
だから、そのときそのときの現実の「なまもの」とのインターフェイスの肌理が細かい。
洟をかむときでも、ティッシュの繊維の襞への入り込み方が深い。
ティッシュに触れつつ、ティッシュから触れられている。
人がティシュか、ティシュが人か・・・鞍上人なく、鞍下馬なく、人とティッシュが天然のまま一体となっている。
だから動きに「あまみ」が出る。
外界の事象のうちに深く入り込み、また事物によって深く入り込まれている人は、どんな場所にいても「つきづきしい」。
外界の事物への開放性、インターフェイスの肌理の細かさ。
古人はそれを「いき」と称したのである。
江さんが「街的」ということばに託しているのは、おそらくはそのような「事物との相互嵌入」のことだと思う。
「いなかもの」にはそれができない。
「人より先んじて情報を手に入れたり、人より多く情報を得ること、それを消費に直結させることが、他人より優位な位置に着くことであり、それが『都会的』であると信じて疑わない類の感性が、『いなかもの』をつくりだしている。」と江さんは書いている。
「いなかもの」たちが現に食べているものや着ている服や聴いている音楽や乗っている車は、それ自体の具体的、事実的、特殊的なexistentia に即して享受されているのではなく、彼ら自身の「流行感度」や「情報感度」を外形的に誇示するために、記号的に選択されているにすぎない。
そういうところでは、事物と人間の浸透的なインターフェイスは生成しない。
この点で九鬼周造と江弘毅はみごとに意見の一致をみている。

喧しい饒舌や空しい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出来合」の類概念によって取り交わされるflatus vocis に惑わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の精神が見たもの」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そうして、この想起は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。

「いき」も「街的」も、人間と世界の間に起こる、一回的・具体的・特殊的・再現不能的な「出会い」の豊饒性を「出来合いの類概念」に回収し枯渇させるふるまいへのつよい違和感にドライブされている。
だから江弘毅は現代の九鬼周造なのである、という話を書く(文言はぜんぜん違うけど、そういう話である)。


投稿者 uchida : 22:34 | コメント (4) | トラックバック

2006年07月16日

麻雀戦国時代

猛暑の一日、合気道のお稽古でさわやかな汗を流した後、冷房を効かせたワイン片手に部屋でモーツァルトと60年代ポップスをBGMに、甲南麻雀連盟2006年度第三四半期(通算第四四半期)の第一回例会が開催された。
今回は常連の江さん、釈老師、越後屋さんらが無念の欠席だったが、院生聴講生を中心に新メンバーが詰めかけ、結局三卓を囲む盛況となった。
生まれてはじめて牌を握ったウッキーや要らない牌はぜんぶ棄てる暴牌女王せいうちのせいで場は乱れに乱れ、何が何だかわからない展開のうちに例会の幕を閉じたのである。
とりあえず三冠の戦績のみ公表しておこう。
最多勝利(画伯の懇請により復活)
1位 ラガーマン 2勝
2位   たくさん 1勝
最多得点
1位 ラガーマン 102ポイント
2位 ウッキー 62ポイント
3位 かんきち 59ポイント
半荘アベレージ
1位 ウッキー 62.0
2位 ラガーマン 51・0
3位 かんきち 29.5
4位 英文学者 10.8
5位 弱雀小僧  5.3
この戦績を見れば、第一回例会がどれほどアナーキーな、下克上的乱戦であったか伺い知れよう。
ウッキーは初登場で牌の並べ方もおぼつかぬままいきなりぶっちぎりのトップ(弱雀小僧の三連続放銃による)。
暴牌女王せいうちは今回もあらゆる局面で要らない牌をばんばん棄てたあげくに、流局直前立直でぺン三索を二度も自摸上がり(役無し)、全員を深い疲労感のうちに叩き込んだ。
だが、天網恢々疎にして漏らさず、最後は芦屋麻雀ガールとの暴牌の打ち合いで自滅した。
流局直前にドラ単騎待ち(するなよ)の麻雀ガールの無謀立直に、無謀な追っかけ立直をかまして親満放銃。この半荘マイナス68。
半荘マイナス記録(6月10日に神戸麻雀ガールが記録したマイナス60)を更新。
こう荒れてくると、場の捨て牌を見て、打ち筋を読んできっちり回し打ちをしている古手の打ち手は立つ瀬がない。
新人乱入による麻雀連盟の「格式」の乱れを危ぶんだ古参会員たちから、今後これまで以上に厳密な「J1」「J2」「J3」のリーグ分けを望む声が上がっている。
J1卓への参加資格は創設メンバーおよびオーバー40のシニアに限定するという案も出ている。
だが、これだとキックオフの時間に面子が揃っても卓が囲めないというたいへん心痛む事態が出来するし、増長する若手に手きびしい教育的指導を行い、麻雀の格の違いというか卓にこぼした涙と汗の歴史の差つうものをご教示さし上げる機会を逸することにもなる。
そこで折衷案として、今後誰かが「暴牌」を振るたびにホイッスルを鳴らして、「イエローカード」を出すことにした。
イエローカードが累積されると、「一回休み」や「召集リストからの除去」などのペナルティが課せられるのである。
ただし、「暴牌」を振るときに「お願い通して!」とか「ええい、勝負だ!」などの魔よけの呪文を唱えた場合には「イエローカード」は出されない。
イエローカード方式は次回より実施される。
会長は今期もまた不調スタートで、ウッキーに「私、先生が勝ったところを見たことがありません。強いって、本当なんですか?」と猜疑の眼を向けられてしまった。
そういう時代もあったんだよ。
もう、遠い昔のことのようだが。
今夕は4戦4敗。
トータルマイナス76。
今期の暫定最下位である。
なんとでも言ってくれ。

投稿者 uchida : 12:35 | コメント (5) | トラックバック

2006年07月15日

最後の授業

暑い。
ようやく授業が終わり、来週から試験期間。
しかし、先日の京阪神地区教務担当者懇談会(というものがあり、私はそこで司会をしたのです)で近隣の諸大学の事情を伺うと、なかには8月中旬まで授業をしている大学もあるそうだ。
厚労省からみの資格関連科目では、「半期15週の授業」が厳命されている。
教員が休講した場合の補講は当然。学生が教育実習などで休んだ場合も、その補講を義務づけられているだそうである。
日本の夏は亜熱帯である。
そんなところでお盆の頃まで授業をするとは・・・
理由は簡単で、日本の学生の学力があまりに劇的に低下してしまったからである。
行政はこれをどうしてよいかわからず、しかたなしにとにかく一時間でも長く学生を机に縛り付ける方法を考えた。
それが教育の規格化である。
大学でいう1単位というのは(あまり知られていないことだが)労働者の一週間の労働時間を基準に決められている(いかにもアメリカ人らしい発想である)。
1単位は45時間の「ワーク」のことである。
労働者なら月金5日8時間で40時間。プラス土曜半ドン(てもうないけど)で5時間。
これが1単位。
学生の場合は教室で過ごす1時間につき、予習復習を2時間するものという非現実的な前提がある。
だから教室で15時間授業を受けると、自宅での予復習分30時間が自動的に上乗せされて45時間と計算される。
これで1単位。
通常の大学は90分授業である。
15週だと、1.5×15=22.5時間。
予復習(しないけど)45時間を加えて、67.5時間。
どう計算しても1.5単位であるが、日本の大学はこれを2単位と切り上げる「習慣」がある。
そうやって124単位積み上げると「学士号」がもらえる。
学士号というのは(コンテンツを問わず)学習時間だけについて言えば、124×45=5580時間のワークをしたことの「証明書」である。
4年間で割ると、1年1395時間。
正月から大晦日まで、一日も休みなしに毎日3.8時間勉強しないといけない勘定である。(一日休んだら次の日は7.6時間。二日休んだら三日目に10.5時間)
そんな非現実的な大学生は日本の学士号保持者の0.01パーセントも存在しないであろう。
しかし、これが「単位」の世界標準規格なのである。
「センチ」や「キログラム」と同じで、「単位」もグローバル・スタンダードであるから、日本だけ「日本ローカルの単位は世界の10分の1くらいでいいですか・・・」というわけにはゆかない。
このまま放っておくと、いずれ日本の学士号はEUやアメリカで学士号として認定されない可能性がある。
そりゃそうでしょう。
「ジャガイモ10キロください」と言ってお金をだしたら、10キロ分の代金でお芋が1キロしか渡されず「あ、うちでは1キロのことを10キロっていうんです」じゃ、お客は怒る。
文科省はそれで焦っているのである。
とりあえず、半期に12週や13週しか開講していない大学を「大学としては認定しないぞ」という脅しをかけてきている。
そのうちに教室の出欠がカードでチェックされて(すでに多くの大学が導入しているが)、「学生が教室にいた時間数」がコンピュータで計算されて、時数が不足の学生は自動的にはじかれるというシステムになるだろう。
でも、そんなことやってもあまり意味ないと私は思う。
大学の教室でなされているのは「学び」である。
それはアウトカム(その学生がその後どれほど知的で幸福な生活を送ることができたか)によってしか考量することができないし、それを数値的に考量することはほとんど不可能だからである。
ジャック・ラカンの分析セッションは場合によっては握手だけで終わることがあった。
「学び」もそれに近い。
100時間教室にいても何も学べず、1分間で一生かけても咀嚼しきれないほどのものを学ぶことがある。
そういう原理的なことを無視して、外形的に子どもたちを教室に縛り付けても、何の意味もない。
そんな当たり前の言い分が通らない。
やれやれ。

前期最後の基礎ゼミが終わり、ゼミ生たちと記念撮影をする。
愉快な諸君であったが、この学生たちとはしばらくお別れである。
何人かは後期のクリエイティヴ・ライティングや来年度の二年生ゼミで再会することになる。
基礎ゼミからそのまま専攻ゼミに入って卒業までという学生も多い。
コンラート・ローレンツのひな鳥みたいに、大学に入って最初に見たものを「母親」だと思ってしまうのである。
会議を二つやってから朝カルへ。
一年ぶりにお会いする名越康文先生とトークセッション。
私と名越先生がバーのカウンターでしゃべっているのを、聴衆のみなさんが横で聴いているというような構成である。
ずっと前から名越先生に会って、このところの少年犯罪や家庭内での殺人についてご意見を伺いたいと思っていた。
でも名越先生はめちゃくちゃ忙しいから「遊びませんか?」とお誘いするのも憚られる。
そこで一計を案じて、朝カルでトークセッションを設定してもらったのである。
これなら日程の調整とかめんどくさいことは全部朝カル事務局がやってくれる。
おまけにギャラまでもらえる。
セッションはたいへん面白かった。いくらでも続けたかったけれど、10分オーバーしたところでとりあえず打ち切る。
それから、ぞろぞろとプチ宴会へ。
今回は「いのうえおばけちゃん」の仕切りである。
「おばけちゃん」は「長屋のヒロコ」や「極悪サトウ」や「ピン芸オガワ」の同期生である。
今は朝日新聞の生活文化部で働いている。
打ち上げに集まったのは、名越先生、釈老師、守“ロレンツォ”伸二郎さん、“みどりあたま”山下さん、“魔性の女”フジモト、新潮社の足立“猛獣使い”真穂さん、“いつもの”ウッキー、進研アドのKC担当衛藤さん、甲野先生の秘書(新人)の滝井さん、おばけの同僚の向さん、釈老師を懼れ多くも「ヤクザです」と呼ぶ、バチ当たり弟子のドイくん、そしておばけと私。
11時まで飲んで騒いで、また名越先生と「半年後くらいにまたやりましょうね」と言い交わして大阪駅頭でお別れする。
みなさん、どうもありがとうございました。


追記:
K島税理士から「天下の公器に嘘を書いてはいけません」という訂正のメールが届いたので、お知らせしておきます。
では、K島さん、ご訂正を。

先生の原稿執筆作業は税制上「営利事業」に分類され「ない」のであります。
営利事業に分類されるのであれば、「事業所得」として、ちょっとだけ節税の道もひらかれるのであります。
大学教授を本業とされている先生につきましては、著作による収入がいかに巨額になっても、「副業」ないしは「非営利収入」と位置付けられてしまうのです。
その結果「雑所得」ということになるわけです。

なるほど、そうでしたか。
非営利収入なんですね・・・
そういうものからもお上はきっちり上前をはねる、と。

投稿者 uchida : 11:50 | コメント (4) | トラックバック

2006年07月12日

夏休みはまだか

大学院の前期打ち上げ。
もう半分終わってしまったのである。早いね。
前期最終回はS井くんの官僚論。
日米仏官僚組織の比較、中央省庁のプロモーションシステムと宝塚歌劇団のプロモーションシステムの相同性、東大法学部のフリーメーソンなど、「ここだけの話」で盛り上がる。
その後、わが家に移動して打ち上げ宴会。
参加者20名。
今期の聴講生は「おばさま」もとい「おねいさま」方が多いので、「一品持ち寄り宴会」のメニューの豪華さはゼミ宴会や合気道宴会の比ではない。
おおお、うまいうまいとワイン片手にばりばり食べ進む。
かんきちくんやイワモト秘書など男子組も台所にこもって、あれこれと調理して出してくれる。
S井くんが神戸大のフルバンでドラムを叩いていたことがあるという話で、W邊さんや(フルバンでピアノを弾いていたことがあるという)M山さんと60年代ジャズ話に興じる。
1965年の『スイング・ジャーナル』10月号の特集は「エリック・ドルフィー死す」だった。それが中学生の私が最初に覚えたジャズマンの名前だった。
65年の夏休みの間、私は受験勉強のあいまにディジー・ガレスピーやゲッツ&ジルベルトやリー・モーガンを聴いていた。
私が生まれてはじめて聴いたライブ演奏はMJQの東京公演だった。
ジョン・ルイスのピアノに必死で拍手を送っていた15歳の私はたぶんあの会場の最年少観客だったろう。
高校入試に受かったとき、祖母から貰った小遣いで私が買ったのはヤマハのハイハットだった。
それから二十歳までの私のバンドマン人生(というほどのものでもないが)を遠い目で回顧する。
聴講生のM谷くんは私が勝手に「京都のイ・ビョンホン」と名づけていたボ・ギャルソンであるが、実は茂山家につらなる狂言方であることがわかった。
さっそく「M谷Y一郎後援会」を結成し、私が会長に就任する。
60歳になったら「還暦記念能」をする予定なのであるが、そのときにはM谷くんに間狂言をお願いすることに決定(ギャラは「おともだち価格」でお願いね)。
明けて水曜はオフ。でも、用事が目白押し。
まず三宅接骨院に行ってぐりぐりしてもらう。
それからE阪歯科でインプラントの治療の続き。
午後に静岡からK島さんがやってくる。
消費税事業者となってしまったので、税務の心的負荷で気が狂いそうになってしまった私のために天が遣わしてくださった「マイ税理士」である(ふつうそうですけど)。
昨年度の確定申告書を見て、K島さんは深いため息をついておられた。
あのですね。節税するとなると、標準的には会社組織にするという手なんですけれど、ウチダ先生は、「そんなめんどくさいことするなら税金払った方がましだ」とお考えになりますよね。
はい、そうです。よくおわかりで。
そうだと思ってました。じゃ、まとにかく、「経費」という概念だけでもご理解ください。
は、はい。でも、それって「足し算」しないといけないものですか?
センセイはしなくていいです。
わーい。
すっかりいい機嫌になって、次は下川先生のところのお稽古。
ドクターの頼光ともども装束をつけて、『土蜘蛛』の仕舞をおさらい。
暑いよお。
家に戻ってメールを見ると、どうも今週末締め切りの原稿が三つあるらしい。
いつ書けばいいのか。
私の原稿執筆作業は税制上「営利事業」に分類されるそうだが、個人的な印象を言わせていただくと、「営利事業」というよりはむしろ「ガレー船の奴隷」である。
事業主が必死になって新規の受注を断っている「営利事業」とはいったい何なのであろうか?

投稿者 uchida : 21:10 | コメント (3) | トラックバック

2006年07月10日

街場の九鬼周造

土曜日は合気道の新歓コンパ。
大学の合気道部の新人たちと甲南合気会の新人たちをお迎えして、「入り口だけがあって出口のない」この世界への参入を寿ぐのである。
集まった門人は数えて41名、それに取材に来て、そのまま宴会に巻き込まれて帰れなくなった産経新聞記者一名、
これが12畳ほどのリビングと6畳の和室と2畳ほどのキッチンに押し込められる。
よく入るものである。
47名入ったのがこれまでのレコードだが、夏場にこれだけいると室内の熱気湿気は尋常でない。
設定温度16度、風量最大で二台のエアコンをフル回転しても、汗が出てくる。
その昔、まだ十数名で宴会をしていたころは、円卓を囲んで、全員で一つ話題についてじっくり話し合うということもできたのであるが、これだけの人数になると、うるさすぎて、三人向こうの人の声はもう聞こえない。
ヤベとクーを相手にごそごそLDの話をしていて、「そうかー、たいへんだよな学校も」というような話をしていたときには誰も耳を貸さなかったのに、ひとこと「ヤベ、もう家を出ろよ」と私がぽつりと言ったとたんに5メートル四方が無音となって、女子全員が耳ダンボ状態になる。
話題が多少とでもラブライフにかかわるように思われると(今の場合は別にかかわってないんだけどさ)、女子たちはそれまで絶叫状態でいたにもかかわらず、ぴたりと「聴いていなかった話」の続きを聞く体制になるのである。
気の感応力がそれだけ涵養されたと評価してよろしいのであろうか。
よくわからない。
全員が帰ったあとに、ビールの空き缶が30個、ワインのあき瓶が15本、生ゴミがゴミ袋3つ。冷蔵庫の中はほぼ空。
でも、ガスレンジがきれいに磨いてある。
日曜は昼まで寝ている。
昼から居合研究会の稽古。
定期的にさわっていないと本身の刀は怖くて抜けなくなるので、月一ペースで居合の稽古をしている。
身体運用一般にかかわる気づきが毎回ある。
このところの技法的課題は刀を止めるときに全身の構造的安定によって刀を止めるということである。
腕の力で止めていたのでは遠からず肘や肩に痛みが出る。
そういうデリケートな関節部に痛みが出ると、周囲の筋肉を硬くして、痛みを散らしてこらえるようになる。
しばらくはそれで済むけれど、何年か経つと、背中や腰の中など、直接関係ない部位に凝りが出て、やがて激痛を発するようになる。
痛みを覚えると、私たちはすぐに痛みをこらえて身体感覚を鈍感にするという安易なソリューションに訴える(そんなことをしても痛みは消えない。潜伏するだけである)。
身体感覚をできる限り鋭敏に保つことを生命線とする武道において、これは自殺行為である。
痛いのは身体の使い方が間違っているからである。
どこにも痛みも出ないように身体を使うための条件として、重く扱いにくい刀は与えられている。
刀がある位置にある軌跡をある速度で移動してきたことによって、身体全体の安定性が最大になるような刀の動き方を探す。
はじめるときりがない。
汗びっしょりになって家にもどる。
お風呂に入ってすこし昼寝。
江さんの講談社新書のゲラが届くので、読み始める。
解説を書かなくてはいけないのである。
『「街的」の構造』というタイトルを思いつく。
どこかで聞いたようなタイトルだと思ったら、九鬼周造だった。
本棚から『「いき」の構造』を取り出して何十年ぶりかで読んでみる。
昔は七面倒な本だと思っただけだったが、いま読み返してみるとまことに面白いことが書いてある。
「いき」と「野暮」という美学上の対立概念は抽象的なものではなく、具体的なものであり、モノに即してしか記述することができないと九鬼は書いている。
そうだよな、と思う。
それはいかなる外国語にも対応する語をもたない。
フランス語のchic やe´le´gant には「いき」に含まれるエロティックな含意や宗教的諦念が含まれない。
江さんの「街的」は九鬼や成島柳北(『柳橋新誌』)の時代に「粋」という形容詞で総括された美的感覚に近い(近いけれど違う)。
これもまた外国語に対応する語をもたないものであろう。
「街的」はurbane でもないし、elegant でも courteous でも refined でもない。
そうか、江さんは「街場の九鬼周造」だったのか。

投稿者 uchida : 16:28 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月07日

消費税なんか怖くない

消費税を払わなくていけない事業者になってしまったらしいという話を書いて、泣き言を並べていたら、いかなる天の配剤か、単位に「円」がつくと四則計算が不自由になる私のもとに神は税理士をお遣わし下さった。
かつて強度のマニュアル失読症であり、PCのメカニズムまったく理解しておらず(する気もない)にもかかわらず、最先端のIT環境で仕事をしたいと詮無いことを言っていたら天は私にIT秘書を遣わした。
なんでも言ってみるものである。
今回、あんなことを書いたら、さまざまな方が噛んで含めるように「あのね、消費税っていうのはね・・・」とご説明のメールを送って下さった(世界はよい人ばかりである)。
だが、その中に私の理解力がこと税務に関するときにどれほど低調になるのかを熟知して、小学生にもわかるような説明をしてくださった方は一人しかおられなかった。
その税理士の方はかねてより私の本やブログを読まれて私の財務処理能力の病的な低さに心を痛めていたのである。
その方のことばが私を感動させたのは、「あなたはわかんなくてもいいんです」という「無能に対する寛容さ」が伏流していたからである。
これは私のIT秘書たちにも共通するところの美質である。
「こっちでやっときますから、センセイはその辺で昼寝しててください」という彼らの甘言によって私の魂は久しい安寧を享受してきた。
私はそれでよいと思っている。
「餅は餅屋」「蛇の道は蛇」「好きこそものの上手なれ」と多くの俚諺が教えている。
ひとりひとりおのれの得手については、ひとの分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意なひとにやってもらう。
この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。
自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。
自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱりわからない。
それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。
私は自分で生活費を稼いでいるし、身の回りのことはだいたい一人でできるけれど、そんなことを少しもよいことだと思っていない。
できることなら私の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれるし、洗濯もアイロンかけも、ゴミ出しもトイレ掃除も全部してくれる状態が来ればいいなと思っている。
だって、そうすれば、私は別の誰かに代わってお金を稼いだり、ご飯を作ったりゴミ出ししたりできるからである。
自分がしなければいけないことを誰かがしてくれるので、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを代わりにやってあげる。
それがレヴィナスの言うpour autre (他者のために/他者の身代わりとして)ということの原基的な形態だと思う。
それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。
I cannot live without you
というのはたいへん純度の高い愛の言葉である。
このyouの数をどれだけ増やすことが出来るか。
それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると私は思う。
幼児にとってこのyouはとりあえず母親ひとりである。
子どもがだんだん成熟するに従って、youの数は増えてゆく。
ほとんどの人は逆に考えているけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数が増えることが「成熟」なのである。
「その人がいなくれば生きてゆけない」と思える人の数の増加と、当人の社会的能力と生存確率の向上はあきらかに正の相関をなしている。
それはI cannot live without you という言葉が相互的なものだからだ。
というか、その言葉が相互的に機能しないと思えるような相手に対して私たちは決してそんな誓言を口にしないからだ。

投稿者 uchida : 20:03 | コメント (10) | トラックバック

2006年07月05日

おとめごころを学ぶ

オオコシ青年が来る。
オオコシ青年は魔性の女フジモトも学んだという『宣伝会議』のライター養成講座を仕切っていて、一度そちらの講演にお呼ばれしたことがある。
今回は『編集会議』のお仕事。
青年は聞き上手なので、一時間半、思いつくままにしゃべり続ける。
若いライター志望の人に読書上のアドバイスをひとことと頼まれたので、次のようなことを申し上げる。
できるだけ今の自分と生きた時代も生きた場所も縁の遠い人間の書いた本を読むこと。
世界観も宗教も感受性も身体感覚も、まるで違う人のものを読んで、それにぶるぶるっと共振するものが自分の中に見出せたら、その震えは「人間にとってかなり汎通性の高いもの」だということである。
ある種の書物が歴史の風雪に耐えて何千年、何百年と生き残ってきたのは、そのような共振力が他に比して圧倒的に多いからである。
古典的名作というのは「とっつきにくく」て、同時代の同じような年齢で同じような立場で似たような趣味好尚の書き手が書いたものは「わかりやすい」というのは嘘である。
同時代的な意味で「わかりやすい」書物は構造的に読者を排他的に限定している。
その「敷居の低さ」は、時代を異にし、場所を異にし、立場を異にする読者にとっての「わかりにくさ」を際限なく高めることを代償にして得られた幻影にすぎない。
古典を読むことで学ぶことができるのは、数百年の時間と数千キロの距離を隔ててなおリーダブルであるようなものを書いた人間の「リーダーフレンドリーネス」である。
私はいつもそれに驚嘆する。
もう一つ。若い男性の書き手に望みたいのは、早い時期に「少女小説」を読むことである。
『若草物語』や『赤毛のアン』や『愛の妖精』をなるべく早い時期に読むことがたいせつなのは「少女の身になって少年に淡い恋をして」ぼろぼろ涙ぐむというような感受性編制はある年齢を超えた男性には不可能になるからである。
そのような読書経験を持たなかった少年はそのあとにさまざまなエロス的な経験を積み、外形的知識を身につけても、「前思春期の少女の恋心」に共振して泣くことはむずかしい。
でも、それは物語のもたらす悦楽の半分をあらかじめ失っていることなのである。
『冬ソナ』を見て泣くためにはユジンに同一化してチュンサンに恋をしないといけないのであるが、ほとんどの男性はこれができない。
子どものときに少女になって少年に恋したことがないので、その「やりかた」がわからないのである。
若い女性の書き手の場合は、同じ理屈で、老いた男性作家の書いたものを読むことで共振感覚を育てることができる。
若い男の書いたものなんか読む必要はない(だってバカなんだもん)。
幸い(なんていうとフェミニスト文学研究者に殴られるが)文学のカノンはだいたい老いた男性作家によって書かれているし、これはいつ読んでも「もう遅い」ということはない。
現代日本ではこの非対称性が圧倒的なものになっている。
それが結果的にものを書いたり編集したりする仕事における女性のアドバンテージを担保しているのである。

久しぶりのオフなのだが、メールで対談原稿の校正がまとめて三つも来たので、朝からばたばたしている。
毎日新聞の紙面研究、東京新聞のイラク派兵問題、情報労連のインタビュー。
校正すると、どれも字数がオーバーする。
「書きスケ」(@江弘毅)の悪い癖で、どうしてもよけいなことを書き足してしまうのである。
毎日新聞の紙面批評は24行もオーバーしたと社会部長からご指摘がある。
そちらで適当に削っちゃっていいですとお願いしたら、「筆が滑った」ところだけをきっちり24行選んで削ってくれた。
さすがプロの仕事。思わず感動してしまった。
8日(土)に毎日新聞に掲載された日に「削除前ヴァージョン」をブログで公開するので、ぜひ紙面と読み比べて頂きたい。

投稿者 uchida : 19:57 | コメント (3) | トラックバック

2006年07月03日

第一回ヨンヨン学会

BSJ(ペ・ヨンジュン・サポーターズ・イン・ジャパン)主宰の第一回日本ヨンヨン学会が京都キャンパスプラザで開催され、私はその栄えある第一回の特別講演を承ることとなった。
熱気あふれる会場は男性二名(私ともうひとりスタッフのご夫君)以外は全員女性である。
まず開会の挨拶「アンニョンハシムニカ!」を全員で唱和。
遠路東京からご参加のお二人に「ヨンヨン巡礼者」の称号、参加最年長者には「本日の最高尚宮(チェゴサングン)さま」の称号が授与される。
さっそく学会発表が始まる。
発表は三件。
「ヨンジュン・カジョク九類型分類」「冬ソナ一期生の愛と涙の日々」「冬ソナサイドストーリーの世界的展開」
私はすでに日本フランス語フランス文学会、日仏哲学会、日本映像学会のすべてをオサラバしてしまった身である。(いま会員名簿に名前が残っているのは日本ユダヤ学会のみ)
どの学会に行っても私を聴き手に想定している発表に出会うことがないからである。
私が何の興味も持てない主題について、さっぱり理解できないジャルゴンで語られているのを座って聴くのは純粋な消耗である。
行っても仕方がないので、次々と学会をやめてしまった。
だから、学会発表を聴いて、膝を打って納得し、腹を抱えて笑ったというのはほんとうにひさしぶりのことである。
私はこれほど批評性とユーモアの感覚に横溢したプレゼンテーションを久しく見た覚えがない。
ここには知的威信を得ようとか、他人の学説を貶めようとか、博識をひけらかそうとか、そういう「さもしい」モチベーションがまったくない。
全員が「ひとりひとりのペ・ヨンジュン経験からどのようにして最大の快楽を引き出しうるか」ということに知性的・情緒的リソースのありたけを投じているのである。
純粋である。
学術というものはこうでなければなるまい。
発表のあと、私が1時間ほどの講演を行う。
『冬ソナ』を「死者をいかにして死なせるか」という「死者とのコミュニケーション論」を軸に解析する試みである。
あまり知られていないことだが(私が昨日思いついたのだから)、『冬ソナ』は複式夢幻能と同一の劇的構成を持っている。
ワキ方がいわくありげな場所で「影の国から来た」人物(前シテ)と出会う。
そして、あるキーワードで物語が始まる。
「なぜ、あなたは他の人のように立ち去ることをせずに、ここにとどまっているのか?」
それは言い換えると「あなたはなぜ死者の国から戻ってきたのか?」ということである。
その問いに応えて、シテは「では、ほんとうのことをお話ししましょう」と予告して橋がかりから去ってゆく(ここで中入り)。
そしてワキの待謡に応じて、後ジテが「一声」とともに舞台に再登場する。
装束を改め面をつけて「別人」となった後ジテがそのトラウマ的経験のすべてをワキ方を聴き手に再構成してゆく。
そして、彼の「死」にまつわるすべてを語り終えたときに、「あと弔ひて給び賜え」と告げて亡霊は冥界へ去ってゆくのである。
『冬ソナ』において「前シテ」は「ミニョン」であり、「後ジテ」は「チュンサン」である。
ワキは「ユジン」である。
ユジンが初雪のソウルの街角でミニョンに出会うときから夢幻能は始まる。
中入りはミニョンの二度目の交通事故である。
そして、記憶を回復したチュンサンが病床からかすれ声で呼びかける「ユジナ」が後ジテの「一声」なのである。
このひとことを転轍点にして、物語は劇的展開を遂げることになる。
ワキを導き手に後ジテは「自分が何ものであるのか」を探って、「トラウマの物語(チュンサンはなぜ死んだのか?)を再構成する分析的な旅に出発する。
そして、後ジテは彼を殺したのが「母」であること、彼を棄てたのが「父」であること、そしてユジン以外のすべての知人友人がチュンサンの死(とミニョンとしての再生)を願っていたことを知る。
チュンサンが死なないことを望んでいたのはこの世界にユジンしかいなかったのである。
彼女だけが「正しい服喪者」であった。
それはユジンがチュンサンに関するすべてを記憶しているだけでなく、彼の死後も「チュンサンに訊きたいたいこと」があったからである。
「大晦日の夜に、あなたは私に何を言うつもりだったの?」
チュンチョンのクリスマスツリーの前で、缶コーヒーを手に戻ってきたユジンに背中を向けたまま、チュンサンが「言いたかった言葉を思い出したよ」と告げる場面で私は繰り返し号泣したのであるが、その理由がやっとわかった。
あの瞬間に、服喪者と死者のあいだの通信ラインが繋がったのである。
死者の声が服喪者に届き、「喪の儀礼」がそのピークを迎えた場面に立ち会って、私の心身の古層にわだかまっていた「人間が人間になる瞬間」の感動が蘇って、私は涙ぐんだのである。
正しい儀礼をすれば、私たちは死者からのメッセージを過たず聴くことができる。
繰り返し書いているように、そう信じたことで人類の始祖は他の霊長類と分岐した。
だからこの場面で私たちは「人間性の起点標識が立ち上がった」そのときの感動を追体験しているのである。
正しい儀礼とは死者と言葉を交わすことができると信じることである。
そのとき死者たちは彼らだけの世界に立ち去る。
死者とはもう言葉を交わすことができないと思うと、死者はこの世界にとどまって、さまざまな災禍をなす。
だから、正しい服喪者は死者に向かって「あなたは何をしたかったのですか?」と問いかける。
その問いには原理的に答えがない。
だから、問いかけは必ずやエンドレスのものになる。
それでよいのである。
私たちが死者に問いかけ続け、死者からの応答を待ち続けるとき、ようやく死者は立ち去るのである。
死者に問うことを止め、死者はもう何も語らない(なぜなら死者が何を語るのかを私は知っているから)と宣告すると、死者は立ち去ることができず「死者の国」から戻ってくる。
チュンサンが「影の国」から帰ってきたのは、ユジン以外の全員が喪の儀礼を誤ったせいである。
だから、チュンサン=ミニョンは「幽霊」として戻ってきたのである。
『冬ソナ』はこの「幽霊」がユジンの導きで「成仏」するまでの物語である。
「あなたは何をしたかったの?」とワキが問いかけ、「私はなぜここに戻ってきたのか?」と後ジテは問い返す。
この問答は、「私は死んでいるのだが、正しい服喪の儀礼を経験していないせいで、まだ死にきっていないのだ」という答えを死者自身が見出すまで続けられる。
死者自身が「私は『私はもう死んでいる』という言葉をあなたに伝えるために戻ってきたのだ」という言葉を発見したときに喪の儀礼は終わるのである。
死者自身が自分の死を認めない限り、物語は終わらない。
チュンサンが冬の海ですべての思い出を海に棄てるところで、「トラウマ的記憶の再構成」という分析的行程は完了する。
それ以降のエピソードは物語的には不要のものである。
もうどのような人為もチュンサンを生者の世界に引き戻すことはできないからである。
だから、物語の最後でふたりが出会う海辺の家の風景は、あれは「影の国=死者の国」でチュンサンが見ている「夢」なのである。
けれどもここに至る長い物語なしには、チュンサンはあの「夢」を見ることができなかった。
チュンサン=ミニョンはユジンの服喪儀礼によってようやくあの夢を見る権利を手に入れたのである。
という話をする。
会場のペ・ヨンジュン・カジョクのみなさんは「チュンサンは死者である」という大胆な仮説にがっくりと肩を落として、ずいぶん心を痛めておられた。
ごめんね。イジワルな分析で。
それからBSJのスタッフの方々と打ち上げ。
ペ・ヨンジュン・ファン活動というまったく新しい生活思想的な(と申し上げてよいであろう)運動が21世紀の日本にどうして生まれたのか、それは私たちの社会をどこへ導くことになるのかをめぐって熱く語り合う。
果たしてペ・ヨンジュンは私たちをどこへ連れて行くのであろうか?

投稿者 uchida : 11:44 | コメント (1) | トラックバック

2006年07月02日

アメリカの呪い

合気道のお稽古のあと、東京新聞の取材。
お題は「イラク派兵の総括」である。
どうして私にイラク派兵の政治的総括を述べる識見があると思われたのか、理由がわからないが、先方が「お訊きしたい」というのに「何も考えていません」というのも失礼なので、コーヒーを飲みながらあれこれ駄弁を弄する。
『街場のアメリカ論』でも『九条どうでしょう』でもくり返し書いていることだが、日本の世界戦略は「日米同盟を強化することを通じてアメリカから離脱する」というトリッキーな構造をもっている。
日本がアメリカの軍事的従属国という屈辱的地位から抜け出す方法を「リアリスト」の政治家たちはひとつしか思いつかない。
それはアメリカに徹底的に臣従することによって、アメリカのから信頼を獲得し、「では日本は自立してよろしい」という「許諾」を頂くという「暖簾分け」のポリティクスである。
「従属することを通じて自立を果たす」というこの戦略が他の国々からどれほど没論理的なものに見えるか、日本人はまったく理解していない。
先年、日本の安保常任理事国入りに世界のほとんどの国が冷淡な対応をしたのは、「単にアメリカの票が一つ増えるだけだから」という理由からであった。
それに対して「いや、それは違う。日本はアメリカに対しても反対すべきときは反対する」と言って、「例えば・・・」と説得力のある事例を挙げることのできた政治家も外交官も存在しなかった。
「アメリカに従属する」ことを持続可能な唯一の外交戦略だと信じているような国を「一人前」の国として遇するような国は存在しない、という平明な事実を痛苦に受け止めている政治家も外交官も存在しないということが「日本が一人前の国ではない」ことの紛うかたなき証拠である。
しかし、現実がこうである以上、「誰の責任だ」と言っても始まらない。
どうして「こんなふう」になってしまったのか。これからどうなるのかを語らねばならない。
私が見るところ、直接の原因はアメリカの(具体的にはマッカーサー元帥の)かけた「呪い」である。
マッカーサー元帥は戦艦ミズーリでの連合国への降伏文書調印の四日後、九月十二日の記者会見で「日本はこの戦争の結果、四等国に転落した、日本が再び世界的強国として登場することは不可能である」と断言した。
これは五十一年に上院軍事外交委員会で述べた日本人の精神年齢は「十二歳」という評言とともに、日本人の深層にトラウマ的ストレスとして刻み込まれた言葉である。
この「四等国」と「十二歳」の呪いは私たちが思っている以上に深い。
そして、日本人はこの「目に見える呪い」のほかにもうひとつ「目に見えない呪い」をこのときにかけられた。
この「目に見えない呪い」の方がおそらく政治的にははるかに重要なものだ。
それは「呪いはそれをかけた者によってしか解除できない」という呪いである。
「アメリカによってかけられた呪いはアメリカによってしか解除できない」
「日本はもう四等国ではない。日本は世界の一等国である」「日本はもう十二歳ではない。日本は国際社会の成熟したフルメンバーである」という宣言をアメリカに下してもらうことによってしか、呪縛は解けない。
日本人はそう信じてしまった。
この信憑から「従属を通じて自由になる」という日本的ソリューションが生まれてきたのである。
この歪んだ理路は日本人にしかわからないだろう。
50−60年代の左翼主導の民族解放闘争(反米闘争)が結果的に挫折したことの大きな原因は、それが「アメリカによってかけられた呪いは、アメリカと同じくらいの呪詛力をもつ魔術師(具体的にはソ連または中国)によって解除してもらうことができる」という同型的な思考を繰りかえしていたことに古典左翼の人々が無自覚だったからである。
「依存を通じてしか自立は果たせない」という思考のルールは左右の日本人を深く共軛していたのである。
むろん、「呪いの自己解除」の試みがなかったわけではない。
60年代の「新左翼」の思想はその萌芽だったし、80年代の経済力による「アメリカ侵略」もそうだったし、ある種のナショナリストが夢見る「自主核武装」もその流れに連なるものだ。(学生時代に新左翼で、そのあとトヨタに入社して、今小沢一郎に期待している中年男がいたら、それは「呪いの自己解除」を求める日本人の一典型だと言ってよい)。
改憲運動の狙いは要するに九条二項を廃して、アメリカの海外派兵に自衛隊を差し出すことができるようにするということである。
戦後60年間これほどアメリカに尽くしてきたのにまだ「自立」を認められないのは、「アメリカのために日本人が死んで見せないからだ」と思い込んだ政治家たちの結論である。
もちろん日本人兵士がいくら死んで見せてもアメリカは日本にかけた「呪い」を解く気はない。
だって、先方にははなから「呪い」なんかかけた気がないんだから。
かけてもいない呪いをどうやって解除したらよいのか。
だから、どれほど日本人が忠誠を尽くしてみても、事態はまったく変わらない。
それでも日本人はアメリカに尽くし続けるだろう。
そして最後には「ここまで尽くしてもなお信じてくれないなら、こうなったら日本はアメリカのために滅びてみせましょう」という歌舞伎的=『総長賭博』的なカタルシスを迎えることになる。
日本人は「こういうの」がたいへん好きだ。
改憲運動に伏流する情緒は「心中立て」である。
アメリカの牛肉輸入再開の報道を読んで、そう思った。
合理的に考えると、これはありえない政策決定である。
米国の食肉カルテルの利益確保のために日本人の命を差し出すんだから。
これを説明できるロジックを私はひとつしか思いつかない。
日本人はアメリカ産の牛肉を食べて死にたいのである。
死んで見せて、「これほどまであなたを信じていたんです・・・」と血を吐きながら絶命したいのである。
もちろんそのまま死ぬわけではない。
それからおもむろに「化けて出る」のである。
日本人が心の底から欲望しているのは一度は「アメリカに心中立て」して死んでみせ、そのあと亡霊となって蘇り、アメリカを呪い殺すことだからである。
これはほんとうである。
呪われた人間はもちろん「呪いを解いて下さい」と泣訴する。
けれども、それで「呪いをかけた者」に対する鎮めることのできない憎しみがなくなるはずのものではない。
というような話をする。
どうやったら社会面の記事にすることができるのか、ひとごとながら心配である。

投稿者 uchida : 12:13 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月01日

柳川センパイのこと

フランスに行く前になると「特訓」というものをする。
ふだんほとんどフランス語を使う機会がないので(文法の授業は持っているが、あれはどう考えても「フランス語を使う機会」ではない)、二ヶ月くらい集中的にフランス語の「おさらい」をするのである。
ひとつは会話で、これは日常会話のCDをひたすら聴く。
もうひとつは作文で、その日の「天声人語」の仏訳をする。
ところが去年の暮れに朝日新聞から毎日新聞に替えたので、今年は「天声人語」ではなく、「余録」を仏訳することになる。
この「余録」というのがなかなか毎日テイストな抑制の利いたよい論説である。
外国語に訳すのはかなりむずかしそうだなと思って毎日読んでいた。
誰が書いているのか知らなかったが、今朝の新聞を読んでいたら、「余録」が単行本化されていて、広告に筆者の名前が出ていた。
柳川時夫である。
あ、柳川センパイだったんだ。
柳川くんは東京都立日比谷高校雑誌部の一コ上の先輩であり、東京大学教養学部の歴史研究会での先輩でもある(駒場の歴研には田島正樹先輩もいた。今思うと豪華なラインナップである)。
雑誌部の部室で一学年下のぼくや小口勝司くんや塩谷安男くんを相手によく遊んでくれた、面倒見のよい先輩であった。
田園調布育ちのシティボーイで、VANのシャツを着てテニス・ラケット片手に登校し、志賀高原のクラブ合宿のときはギターを背負ってきた(「小林旭ですか?」と言ったら貸しボートのオールで殴られた)。
話題は文学、政治、哲学、サブカルチャーと幅広く、一度話し始めるとワントピックで1時間くらいノンストップということがよくあった。
午後遅く部室で難しい顔をして本を読んでいたので、カントとかヘーゲルとかを読んでいるのかなと思って表紙を見たら、五味康祐の『麻雀教室』だった。
東大に合格した日に家が火事になって、焼け出されて自由が丘のマンションに逼塞しているときに小口くんとお見舞いにいったことがある。
「合格おめでとうございます」と「火事見舞い」を同時にしなくてはいけないので、ぼくたちも当惑したが、柳川くんも喜んでいるような困っているような片づかない顔をしていた。
駒場のころは党派のデモでよく会った。ときどき長い時間話をした。
いま新潟の三条に戻った久住先輩といっしょに麻雀もよく打った。
法学部を出て、毎日新聞に入ってからはご縁がなくなって、卒業してからはたぶん一度しか会っていない。
ずっと後になってぼくは毎日新聞から二冊本を出すことになった。
毎日新聞の人たちからたくさん名刺をもらったが、柳川くんとは出会わなかった。
先日毎日新聞の紙面研究会に出たときも、「もしかしたら柳川センパイが来ているんじゃないかな・・・」と期待していたのである。
もう辞めちゃったのかなと思っていたら、今朝ひさしぶりに名前を見てなんとなくうれしくなって、むかしのことを思い出した。

投稿者 uchida : 10:19 | コメント (0) | トラックバック