BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBooklistMovieSeminarBudoPhoto|Archives|Profile|

<< 2006年03月 | メイン | 2006年05月 >>

2006年04月30日

甲南麻雀連盟春の椿事

連休初日に甲南麻雀連盟の例会がにぎにぎしく開催された。
通算第3四半期に突入、毎回新入会員を迎えるという驚異的な発展を続けている。
4時の試合開始サイレンを待たずにどどどと駆け込んできたのはいつも一番乗りのかんきちくん、釈老師、そして山本画伯。
さっそく「おねがいしまーす」の挨拶と共に定時にキックオフ。
わずかに遅れて堀埜さん、シャドー影浦、弱雀小僧、越後屋さんが登場して第二卓がオープン。
ピンポンピンポンとせわしなく玄関のチャイムが鳴って、江さん、ドクター、ワタナベ先生、カワカミ牧師らも遅れて登場。ただちに第三卓もオープン。
本日の新入会員は京都から来たIT起業家のフジタくん、元聴講生のジョンナム・ナガミツ、そして甲南合気会からタニオさんとウッキーも初参戦。
フジタくん以外は牌を握ったことがないという超初心者であるので、「初心者のための麻雀教室」の第四卓をオープン。
4卓はもちろん本会の新記録である。
それだけの卓と牌を揃えるのに一苦労。
4卓に備えて、新たに卓と牌を購入したのであるが、通販会社からの荷の到着が間に合わず、今回は牌をドクターと釈老師から、卓を老師からお借りしてやっと4卓分を揃えたのである。
それ以上に4卓というのは空間的にわが家の人口許容量の限界を超えている。
合気道の宴会などでは40名を収容したこともあるが、それは立食パーティ形式だから可能なことであって、卓を囲んで大の大人が四人座り込んで、飲み食いしながら遊ぶのであるから、16名というのはほぼ限界である。
世界に麻雀の輪を拡げるという本会の趣旨からして新入会員をお断りすることはできないのであるが、これ以上は空間的に収容できないという事実は動かし難い。
さて、どうしたものか思案に暮れる。
J1,J2にリーグ分けして時間差を置いて開催するという手もあるのだが、それでは本会の誇る社交的機能が損なわれる。
釈老師の如来寺の本堂での開催という手段も考えられるが、一度や二度はともかくご仏前において飲酒喫煙放歌高吟の鉄火場三昧が定期的に深更まで続くということがご檀家に知れると、老師の宗教的お立場というものに影響が出る。
むずかしいところである。
さて、その例会の戦績であるが、いかなる春の椿事か、これまでの常識を覆す意外な展開となる。
最後に残った未勝利者弱雀小僧がついに初勝利を収めたのである。
参戦以来14戦目のことであった。
「かったああぁ」という弱々しい雄叫びに全会員から暖かい祝福の拍手が送られた。
弱雀小僧はさらに連勝(!)をも記録。会終了後の「反省宴会」においては満面に笑みを浮かべて祝福のシャンペンを飲み干していた。
おめでとう次郎くん。
昨年10月の連盟発足戦以来不振を託っていた越後屋さんも昨日は快勝。
「もう麻雀なんかやめてしまおうと思ったこともこれまで何度もありましたが。続けてきてほんとうによかったです。支えてくれた家族にありがとうと言いたい(泣)」と勝利者インタビューで声を震わせていたのである。
そんな麗しい光景のかたわらでは「ポン!」「ロン!満貫だけ!」と当たりを威圧するような大声を出し続ける画伯と、「がははははは。リー即自摸ドラ三発親ハネですわ。6000点持って全員集合」とけたたましくドラを乗せ続けるだんじりエディターとが着々と点棒をかき集めていたのである。
その一方で、これまでどのような場面でも冷静さを失わず、わずかな隙間ほどのチャンスをそのつどものにして勝利を収め、名実共に最強の打ち手として会に君臨してきた連盟会長、今回の例会にはさらに「銀河の風」なる秘密兵器までをも購入して、全身にピラミッドパワーの波動を浴びて、万全を期して臨んだにもかかわらず、前代未聞のボロ負けを喫することとなった。
「よっしゃ、ここが勝負どころ」という紙一重の勝負にことごとく破れ、一夜にしてマイナス100を超える惨敗ぶり。
だんじりエディターの「なははははセンセー弱いですなあ」という嘲笑に反論もならず、下唇を噛み締めるばかりなのであった。
シュアな打ち手として確実に点棒をゲットしてきた「J2の鬼」シャドー影浦も、歌う牧師も、泳ぐ英文学者も・・・前期の常勝組は今回こぞってみじめな敗北を喫した。
弱雀小僧が勝ったことで麻雀界の地軸に狂いが生じたのかも知れない。
さて、昨日までの通算戦績は
勝率
第一位:山本画伯  0.666(6戦4勝)
第二位:ホリノ社長 0.500(6戦3勝)(あら、いつのまに)
第二位:だんじりエディター 0.500(6戦3勝)
第四位:ドクター佐藤 0.400(5戦2勝)
第五位:かんきちくん 0.333(3戦1勝)
第五位:越後屋さん 0.333(3戦1勝)

平均勝ち点
第一位:山本画伯 +27.6
第二位:だんじりエディタ +19.3
第三位:かんきちくん +15.0
第四位:ホリノ社長 +12.3
第五位:越後屋さん +11.7
(弱雀小僧は補欠の+8.4でした)

会長は10戦1勝の勝率1割、平均勝ち点−8.0という暗雲たちこめる下位を低迷している。
しかし、必ずや会長は不死鳥のように甦るであろう。刮目して待て、諸君!

投稿者 uchida : 14:25 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月29日

学長就任式に願うこと

学長就任式。
川合真一郎人間科学部教授がこれから2009年まで本学の舵取り役となる。
この3年間の政策選択の可否は文字通り大学の生き死ににかかわる。
たいへんな重責である。
就任の挨拶で川合学長は1995年の震災のあとに、全学が一丸となって復旧作業に努めたときの、あの凝集力をもう一度思い出して欲しいと述べた。
この言葉は私には深く響いた。
前に書いたように、95年の震災のときのことを私は実を言うとよく覚えていない。
震災の翌日に大学に来て、その惨状を見たときに「ぷつん」と頭の中の回線が切れて、それからあとの数週間のことはほとんど記憶に残っていないからである。
直視することが耐え難い経験については、「そのことは考えない」というソリューションに人間は逃れることがある。
震災のときは、あまりに手の着けようのないありさまだったので、被害の全体像を見るのを止めて、足元「だけ」を見ることにした。
とりあえず足元のガラス片を拾い、コンクリート塊を取り片づけ、開かない扉を押し開け、倒れているロッカーを立て・・・という種類の単純な力仕事(とほうもない作業量だったが)を頭をからっぽにして朝から晩まで続けた。
でも、学長が言われたように、そんなふうにして一週間後には大学としての最低限の機能は回復したのであった。
千里の道も一歩から。ちりも積もれば山となる。
ひとりひとりの等身大の力でできることはわずかでも、それが総和となったときには想像を超えるほどに大きな成果をもたらすことができる。
そのことを身を以て学んだ。
震災のときがそうであったように、この危機の時代においても、別にひとりひとりが「全体」を心配する必要はない。
自分に与えられ期待されている日常の仕事をきちんとこなしていれば、「全体」の秩序はおのずから生成する。
大学教育が危機だからといって、全員が浮き足立っても仕方がないし、起死回生の奇策に頼るのはむしろ危うい選択だろう。
震災のときを思い出して、足元の仕事を片づけるところから始める。
脚下照顧。
足元を見よ。
まず自分の脱いだ靴を揃えるところから始める。
それができない人間は結局どれほどさわがしく走り回っても、何も残すことができない。
私の仕事は学長の舵取りを支えてゆくことである。
私は「イエスマン」ではないが(同僚の誰もそんなことは思っていないだろうが)、私を説得するために学長がその限られた資源を用いるような事態はできるかぎり少なくしたいと思っている。
上司から見ていちばんありがたい部下というのは「その人がいるせいで自分の仕事が減る人間」であり、その次にありがたい部下というのは「その人のことを忘れていられる人間」である(逆に言えば、上司が自分を説得したり、懐柔したり、翻意を促したりすることに時間とエネルギーを割くのを自己の有能さや重要性が評価されているあかしだと思っているのが「最低の部下」である)。
せめて川合学長にとって「その次にありがたい部下」になりたいと私は願っている。
新学長の上に天来の祝福と支えがありますように。

投稿者 uchida : 09:55 | コメント (1) | トラックバック

2006年04月28日

フェミニンな共産主義社会

4月27日付けの毎日新聞によると、社会経済生産性本部が行った2006年度の新入社員への意識調査に興味深い結果が示された。
終身雇用を望むものが40%を超えたのである。
その一方、「社内出世よりも独立・起業」を望むものは20%。これは3年連続での減少である。
プロモーションシステムとして「年功序列」を望むもの37%(これも調査開始の90年以来最高)、成果給を希望するものは63%だが、これは過去最低の数値。
仕事の形態として望ましいのは「チームを組んで成果をわかちあう」スタイルを望むものが79%。
「個人の努力が直接成果に結びつく」はわずか20%。
「最近の若者は・・・」というワーディングがあまり信用できないのは、それがすべて「旧聞に属する」情報だからである。
若い人はそのつどつねに生存戦略上もっとも有利なオプションを選択する。
それは親や教師やメディアがアナウンスする「有利なオプション」と違うことがある。
「潮目」が変わるときには、子どもたちの方が反応は早い。
大人たちが感知できない地殻変動を子どもの方は感じ取る。
なにしろ彼らにしてみれば、「潮目の変化」は命がけの大事である。
「これまでの主張との整合性」とか「政治的正しさ」とか「統計的裏づけ」とか、そんなものは知ったことではない。
明日の米びつの心配をしているときに他人の説教なんかのんびり聴いてはいられない。
少し前までは「スタンドアローン」と「フリーハンド」と「責任の回避と利益の独占」が戦略として推奨されていた。
ロウ・リスク社会におけるふるまい方としてはそれがいちばん効率的でクレバーなものだったからである。
そういうマナーが「正解」である時代が80年代中ごろから15年くらい続いた。
でも、そういう生き方をする若者(もう上の方は中年だが)がマジョリティを占めるようになり、「自分探し」というようなことを中教審が言い出すところまで話しが凡庸化すると、今度は「裏に張る」方が生存戦略上有利になる。
そういうふうにしてつねにトレンドは補正される。
セーフティネットのないハイ・リスク社会では、「自己決定・自己責任」に代わって「集団に帰属して、そこに集約される利益の再配分に与る」方が受益機会が多いということが彼らにもわかってきた。ということを一昨日書いた。
終身雇用、年功序列の復活を若い人たちの一部が望み始めたということは、ある程度の規模の集団に安定的に帰属することがリスクヘッジと受益機会の確保のためには有効であるということがわかってきたということである。
彼らはいずれ一人の配偶者と長期的に安定した性関係を取り結ぶほうが、性的にアクティヴであり続けるよりも得るものが多いことにも気がつくだろう。
ビジネスでブリリアントな成功を収めることを望むよりも、家族や友人や隣人たちとの「ささやかだが安定的な互酬的関係」を構築しておくほうが生き延びる上での安全保障としては確実だということにも気づくだろう。
そうやってゆくと、このあと21世紀の中ごろに日本は「1950年代みたい」になるような気がする。
生活は貧しいし、国際社会でも相手にされない三等国だけれど、全員が飢えるとき以外にはひとりも飢えないような暖かい社会。
そんな社会が私が老衰する前に見られるとうれしいのだが。
ひとりひとりがその能力に応じて働き、その必要に応じて取る。
のだとすれば、それはマルクスの描いた共産主義社会そのものである。
「フェミニンな共産主義社会」
おそらくこれが私たちの社会がゆっくり向かいつつある無限消失点の先に望見された「ある種の楽園」のイメージなのである。
フェミニズムとマルクス主義とマルクス主義的フェミニズムが「消滅」した後にはじめて、そのような「楽園像」が現出するとはまことに不思議なことである。
というより、フェミニズムとマルク主義は、「フェミニンな共産主義社会」にたどりつくために私たちが通過しなければならなかった過渡期だったと考えるべきかも知れない。
もちろん私にとっての「ある種の楽園」は、私以外の多くの人にとっては「ある種の地獄」にほかならぬであろうから、楽園の到来までにはまだまだ越えるべき無数の障碍が待っているのである。

投稿者 uchida : 15:28 | コメント (8) | トラックバック

2006年04月27日

政治を弔うということ

ナショナリズムについて書いたら、午後に毎日新聞から「当今の若者の政治行動について」インタビューを受けた。
おおシンクロニシティ。
どうしていまの若者たちは言説レベルではあれほど排外主義的なのに、実際行動として政治党派を結成するとかデモをするとかしないのでしょう・・・というお訊ねである。
もちろんそんなめんどうなことを彼らがするはずがない。
書いたとおり、彼らは「グローバリゼーションの申し子」だから、「できるだけコストをかけずに最大の利益を上げる」ことを生きる上での基本原則として教え込まれている。
しかるに政治運動というのは、若い人もおそらく直感的にわかっているだろうが、その全行程の90%以上が「ぱっとしない日常」なのである。
運のいい政治運動の場合は10%程度の「祝祭的高揚期」に恵まれる。
その時期には「祭りだ祭りだ」と有象無象がわらわらと寄ってくるので、一時的ににぎやかになる。
しかし、あらゆる政治運動は、どれほど綱領的に整合的でも、政治的に正しくても、必ずいつかは「落ち目」になる。
これは歴史が教える永遠の真理である。
しかし、政治運動が歴史的事象として記憶され、知的なリソースとして後代に活用されるためには、この「落ち目の局面」を粛々とになう「後退戦の将兵たち」が必要である。
ある政治的運動の歴史的な価値は、祝祭的な場面における動員数や、そこで破壊されたものの規模によってではなく、「非祝祭的後退戦」を黙々と担う「弔い役」の仕事のていねいさによって決まるのである。
「棺を蓋いて定まる」と古諺に言うとおり、人の世の出来事はすべてが終わり、「がたん」と棺の蓋が閉まったときにはじめてそれが何であったかがわかる。
誰もがその思想や運動に見向きもしなくなったとき、こつこつと「後片付け」をする人間がどれだけていねいにその仕事を果たすかで、その価値は決まる。
東大全共闘は政治運動としてある種の完結性をもつことができたと私は思っているが、それは山本義隆という個人が「弔い」仕事を引き受けたからだ。
痩せて疲れ果てた山本義隆が1974年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らにはもう一人の同志も残っていなかった。
冬の夕方、10畳敷きほどある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。
目を向ける人さえいなかった。
法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた「巨大な棺」を一人で引きずっている老人のように見えた。
東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで「棺を蓋われた」と私は思っている。
ナショナリズムでもフェミニズムでも、政治運動である限り、それはいつか退潮期を迎える。
そのときに「イズムの弔い」を引き受ける覚悟のある人間がいる政治運動はそのような「オーラ」を前倒しで帯びることになる。
「その政治運動が没落したときに見捨てない人間がいる」という未来の事実が、現在のその政治運動の質を担保するのである。
そのように時間の順逆が転倒したかたちで政治運動や政治思想は消長を繰り返す。
日本軍国主義やロシア・マルクス主義がまったく利用価値のないイデオロギーであるのは、そのイデオロギーそのものの内部的な瑕疵ではないし、そのイデオロギーの名において構築されたり破壊されたりしたものが微々たるものだったからでもない。
そうではなくて、そのイデオロギーが「落ち目」になったとき、身銭を切って「弔い」を出す人間が一人もいなかったから、それらのイデオロギーは政治的価値を失ったのである。
閑話休題。
だから、いま日本のネットメディアをにぎわしている種類の政治イデオロギーは、それがどれほど多くの人間の賛同を得ようとも、どれほどの熱狂をつくりだそうとも、利用価値のないイデオロギーだろうと私は思っている。
毎日新聞の取材に私はそうお答えした。
なぜなら、その政治運動が破壊したもの(これから破壊するもの)について、すべてが終わったあと、「私はその有責者のひとりである」と名乗り出て、「石もて打たれる」覚悟の人間がいないからだ。
匿名で政治を語る人間が運動を「盛り上げる」上で大きな役割を果たすということはある。
しかし、匿名で政治を語る人間が運動の退潮期に「弔い」の責務をわが身に感じるということはない。
責任をとる気がある人間はそもそも匿名で発言したりはしないからだ。
繰り返し書くが、あらゆる政治運動、政治思想は「短い栄光の夏」と「エンドレスの気鬱な冬」から形成されている。
そして、その運動や思想の価値を最終的に決定するのは「冬の過ごし方」に知的リソースを投じたひとにぎりの人々なのである。

投稿者 uchida : 12:55 | コメント (1) | トラックバック

2006年04月26日

ナショナリズムと集団性

若い世代に瀰漫するナショナリズムと格差社会の関係について、大学院で渡邊仁さんの発表を聴きながら考えた。
ナショナリズムは「燃費のいい政治イデオロギー」である。
現実には利害があまり一致しない社会集団を「仮想敵」への憎悪を梃子にして、一気に、強くバインドすることができる。
ヨーロッパにおける排外主義的運動が例外なく移民問題と若年の失業問題とリンクしていることから知れるように、「国民的統合が解体する予兆」が見えるときに、必ずナショナリズムが亢進する。
そして、この新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である。
彼らは「弱者」であるという定義からして、「国民的統合が果たされないと、現在得ている利益を逸する階層」ではない。
なにしろ「受益機会そのもの」から疎外されているというのが「弱者」の定義なんだから。
金もないし、コネクションもないし、スキルもないし、総じてプロモーションのチャンスが限りなく少ない人々を「弱者」と呼ぶ。
彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているからである。
言い換えれば、現在十分な社会的利益を享受しえていないことの理由として(おのれ自身の無力とか無能ではなく)、「国民的統合の不十分さ」を第一に数える人間がナショナリストになるのである。
「物心両面で支援してくれるような社会集団に帰属していない」がゆえに「さっぱり受益機会に恵まれない」という個人的事情から、「ナショナリズムが必要だ。ナショナルな統合が果たされれば、私にもプロモーションのチャンスがめぐってくるに違いない(隣国への植民地主義的経済進出とか、「非国民の追放」によるうまみのある「空きポスト」の大量発生とかで)」という結論を一足飛びに導出することができるシンプル・マインデッドな人間たちがナショナリストになる。
これは世界中どの国でもいっしょである。
フランスのナショナリストも、イランのナショナリストも、韓国のナショナリストも、日本のナショナリストも、その点では選ぶところがない。
それに対して、いわゆる「強者」は(国民的統合が果たされていない)ステイタス・クオから十分な利益を得ている。
現状で十分に受益しているからこそ彼らは「強者」と呼ばれているわけである。
だから、「強者」は別に国民的統合の達成が喫緊の政治的課題であるとは思っていない。
思っている「強者」がいるとしたら、それは「ナショナリズムの亢進からさらに利益を得よう」と望んでいる「強欲な強者」(石原慎太郎とか安倍晋三とか)だけである。
ナショナリズムの強さはここにある。
国民的統合の達成が「いまは持っていない」受益機会を生み出すと信じている「弱者」と、「いま持っている」受益機会をさらに増大すると信じている「強者」の連合によってナショナリズムは亢進するからである。
これに抵抗できるのは、自分に受益機会が訪れないのは主に自己責任によるのであって、国民的統合を果たすことで事態が好転するとは思っていない「スマートな弱者」と、ステイタス・クオで十分に受益していると思っているので、これ以上欲を出す気のない「横着な強者」だけである。
当然ながら、どちらも私たちの社会では少数派である。
衆寡敵せず。
遠からず、日本はナショナリストだらけになるであろう。
しかし、その主因が「物心両面で支援してくれるような社会集団に帰属していないがゆえにさっぱり受益機会に恵まれない」若者たちを構造的に大量発生させてきた現在の社会システムにあるということは忘れてはならない。
石原や安倍のような「ナショナリスト強者」はむしろ現象としては例外的なのである。
ナショナリズムの亢進をなんとか食い止めようとしたら、「若年弱者」を大量発生させているこの社会構造をなんとかするしかない。
それがむずかしい。
というのは、因習的なプロモーション・システムの信奉者である親や教師たちは、子どもたちに向かって「利己的にふるまう」ことこそが受益機会の最大化を結果するとこれまで教え込んできたからである。
豊かな才能に恵まれた子どもはいまもたくさん生まれている。
けれども、その才能を「みんなのために使う」ことのたいせつさは誰も教えない。
「あなたの才能は、あなただけに利益をもたらすように排他的に使用しなさい」と子どもたちは教えられている。
彼らに「物心両面で支援してくれるような社会集団」に帰属することの有用性は誰も教えない。
むしろそんな集団に帰属したら、利益を独占できなくなるし、自己決定権も制限されるし、連帯責任を負わなければならないし、集団内の弱者のケアもしなければならないし・・・損なことばかりだから、「スタンドアローンでやった方がいい」ということだけが専一的にアナウンスされてきた。
このアナウンスメントは歴史的には「正解」であった。
社会全体にさまざまな中間共同体(親族や地域社会や企業など)の網目が張り巡らされ、個人の可動域が極端に狭められていた時代には、スタンドアローンで自己利益を追求するタイプの個体が利益を独占するチャンスがたしかに高かった。
だから、子どもに向かって「他人のことはいいから、自分の利益だけ配慮しろ」と教えたのは、そのような「お節介社会」においてはまちがいなく有効な生存戦略だったのである。
親族制度の空洞化、終身雇用制の崩壊、未婚化、少子化などはすべてこの「お節介社会」の解体=自己決定・自己責任システムをめざした社会的趨勢である。
だが、社会は変化する。
私たちは1960年代から後、そのような中間的共同体の解体に全国民的規模で努力してきた。
その努力は実を結んだ。
気がついたら、「できるだけ集団に帰属せず、何よりも自分の利益を配慮する人間」がめでたく社会のマジョリティになっていた。
そして、ここで逆転現象が起きる。
というのは、このような社会では、「集団成員に対してきめこまかな配慮を示す社会集団」に帰属している個体の方が、自由気ままなスタンドアローンの個体よりも、自己決定のオプションが多く、個人に許された可動域も広いという事態が生じるからだ。
「集団に帰属していないので、自己利益を独占できる人間」よりも「集団に利益を還流し、集団からの利益の再配分に与る機会が多い人間」の方が受益機会の多い「ハイリスク」社会が到来したのである。
「到来した」というのは言い過ぎかもしれない。
「到来しつつある」。
少なくとも現代における「強者」たちはほぼ例外なく「集団に深くコミットしていること」の代償として豊かな受益機会を享受している。
現代における「弱者」たちはほぼ例外なく集団に属していない。
その結果として、同一集団の仲間たちから受益機会を提供されるという経験をしたことがない。
家庭は果てしのない干渉の場であり、学校は愚者による抑圧の場であり、職場は無意味な苦役の場であると教えられてきた若者には「互酬的関係で結ばれた共同体」というのがどのようなものであり、どうすればそこのメンバーに迎えられ、そこでどのようにふるまうべきかについての知識がない。
久しく「スタンドアローンであること」の有利さだけを教え込まれた育った若者たちが、そのような生き方がさっぱり受益機会の増大に資さないことに、成人した後に気づいて、いま愕然としている。
愕然として、思わずしがみついた先がナショナリズムなのである。
とにかく何らかの共同体に帰属していないと「バスに乗り遅れる」とういことだけははっきりとわかるからである。
だから、彼らが「自分ひとり」の次のレベルの共同体単位として「幻想の共同体」にメンバー登録しようとするのは当然なのである。
なぜなら、「幻想の共同体」は干渉しないし、抑圧もしないし、苦役も課さないからである。
あまりに宏大な共同体であるせいで、他の成員と顔を合わせる必要もないし、固有名を名乗る必要もない。誰も頼ってこないし、誰の尻ぬぐいをする必要もない。
それならひとりでいるのと変わらない。
ナショナリズムを彼らが選ぶのは「スタンドアローンであることの不利」を共同体に帰属することで解消したいが、共同体に帰属することで発生する個人的責務や不自由についてはそれを引き受ける気がないからである。
エゴイストとして自己利益を確保しながら、かつ共同体のフルメンバーであることの「分け前」にもありつきたいと望む人たち。
そういう人々がナショナリストになる。
さもしい生き方だが、そういうふうに生きると「自己利益が最大化できる」と親からも教師からもメディアからも教え込まれてきたせいでそんな人間になってしまったわけであるから、彼らばかりを責めても仕方がない。
とりあえず、「自室に引きこもっているよりも、集団の一員である方が生きのびる上では有利だ」ということに気づいたという点をプラス評価しよう。
だが、その次に、どのような集団に帰属すべきかという大問題が続く。
これがたいへんにむずかしい問題である。
これがわからないから若者たちは「日本国」というような幻想に簡単に飛びついてしまう。
私たちは何を基準に帰属すべき共同体を選ぶべきなのか。
これは長くむずかしい問題なので、今日は論じない。
ただ、ひとつだけあまり人々が言わないことなので、ヒントとして掲げておきたいことがある。
帰属すべき集団を選ぶときのたいせつな基準の一つは「サイズ」である。
当たり前だが、互酬的集団はサイズが大きいほど成員ひとりひとりの受益機会は増える。
だが、どのような集団も、あるサイズを超えると集団の維持が自己目的化し、集団成員の互酬的コミュニケーションには副次的な配慮しかされなくなる。
そのような集団は成員をあまり幸福にはしてくれない。
それが何を目的とする組織なのかによって集団の「最適サイズ」は変化する。
互酬性ということを優先するならあまり巨大な集団には帰属しないほうが賢明であるし、ある種の技能や知識を共有したい場合も、サイズはある程度以上にならない方が機能的である。
だが、集団の「オプティマル・サイズ」については汎通的な基準は存在しない。
こればかりは自分で判断するしかない。
政治制度にかかわる問題のほとんどは実は「質の問題」ではなく、「サイズの問題」なのだが、そのことに気づいている人はあまりに少ない。

投稿者 uchida : 12:00 | コメント (9) | トラックバック

2006年04月25日

非人情三人男

「非人情」というのは夏目漱石の造語であることをそれからしばらくして寝床の中で思い出した。
『草枕』という小説は全編「非人情」とは何かをめぐる哲学的考察である。
冒頭のよく知られた文章を採録する。
「苦しんだり、怒つたり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心地ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少なかろう。どこまでも世間を出ることが出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから、所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じている。(・・・)うれしい事に東洋の詩歌にはそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山。只それぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向かうに隣の娘が覗いている訳でもなければ、南山に親友が奉職しているわけでもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つた心地ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月来相照。只二十字のうちに優に別乾坤を建立している。この乾坤の功徳は『不如帰』や『金色夜叉』の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすりと寝込む様な功徳である。」
こんな文章を国語の教科書に載せて、中学生に読ませるというのもどうかと思うが、私は中学生のときにこの文章を読んで「浮世の勧工場」というワンワードについと胸を衝かれたことを覚えている。
私が中学生の終わり頃から漢詩好きになったのはおそらくこの一文の影響なのであろう。
『草枕』の語り手である「余」は絵の具箱を抱えて、ふらふらと山間の湯治場にでかける。
その趣向はこうである。
「しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。まるで人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、なるべく節倹してそこまでは漕ぎ付けたいものだ。(・・・)余もこれから逢う人物を−百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも−悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りなしてみよう。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人物が動くと見れば差し支えない。」
漱石の非人情は言い換えれば、「美的生活」ということだが、そのときの「美的」ということを「浮世の勧工場」の物差しで計っては俗になる。
「美的」というのは、ここでは「超然」ということである。
漱石は『草枕』を書き始める前に「楚辞」を耽読したそうである。
だから、『草枕』に横溢する無数の漢語的詩句の多くは「楚辞」由来のものなのである。
漱石は日露戦争のさなかの明治の日本の風景を叙するに紀元前4世紀の文人の語法をまず学んだ。
この「距離感」がおそらく漱石の「美的」の骨法である。
クロード・レヴィ=ストロースは人類学の論文を書く前に必ずマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を繙読することを習慣としていたとご本人がどこかで書いている。
この選書のセンスに私は深い共感を覚える。
というのは、マルクスの全著作のうちで、『ブリュメール18日』がおそらくはもっとも(漱石的な意味で)「非人情」なテクストだからである。
マルクスがマルクスになったのは、自分の国であるドイツの階級闘争について熱く論じているときではなく、英国に流れて、大英図書館の薄暗い閲覧室で、隣国フランスの階級闘争にクールな分析を加えたことによってである。
ドーバー海峡の向こう岸で殺し合いをしているフランス人たちを「画中の人物と見れば差し支えない」と非人情に徹したときに、マルクスの政治的理説は完成を見たのである。
漱石が「楚辞」を読み、レヴィ=ストロースが『ブリュメール18日』を読んだということは、非人情はどうやら「文体」を通じて感得せらるるもののようである。
なるほど。
「非人情」に徹するためには、「非人情本」を読むにこしたことはないのであるが、「非人情」とは畢竟「距離感」のことであるから、手近な同時代人や同じようなメディア業界人の「非人情本」ではまるで用を為さない。
やはり遠い異国の物故者のうちにお手本を求めるのが筋目なのであろう。
と思っていた折りも折り、たまたま手に取ったシビル・ラカンの『ある父親』(永田千奈訳、晶文社、1998年)に、ジャック・ラカンがどれほど非人情(彼の場合はプラス不人情)な父親であったか活写してあった。
まことに学ぶことの多いラカン老師である。
ジャック・ラカンはご存じのようにマリー=ルイーズ・ブロンダンとの間に三人の子どもがいた。
また、ジョルジュ・バタイユの妻であったシルビアとも内縁関係にあって、ジュディットという娘がいた。
シビル・ラカンとジュディット・バタイユはほぼ同じころに生まれている。
このころ、ラカンはパリの正妻とマルセイユの内縁の妻の間を(ということはナチ統治下のフランスとヴィシーのフランスの「国境線」を超えて)毎週シトロエンで行き来していたのである。
パリではオテル・ムーリス(ゲシュタポの本部があったところ)に出入りし、マルセイユでは警察署に乗り込んで、シルビアがユダヤ人であることを示す書類を勝手に持ちだして破り棄てたりしている。
いろいろな意味でタフな男である。
ラカンのシビルに対する非人情ぶりを表すエピソードをひとつご紹介しておこう。
ある晩シビルは父とレストランで食事をした。夕食後、シビルの運転するオースチンで娘は父親をリール通りの家まで送った。
「別れ際に父は言った。
『じゃ、気をつけて帰るんだよ。家に着いたら必ず電話しなさい』」
シビルは父親のめずらしい気づかいに驚くが(ラカンは「そういうこと」を決して言わないタイプの男なのだ)、話を合わせて、家に着いたら電話すると約束する。
「寝ている父を起こすことになると悪いので、家に着くと一刻をあらそうに電話をかけた。
『もしもし、えっ。だれだい。ああ、お前か。どうした』
父は私の声に驚き、わたしは先ほどの約束を思い出してもらうまで説明しなくてはならなかった。」(69頁)
シビルは卵巣の手術で入院することになる。
ジャック・ラカンが花束をもって見舞いに来た。
病人に対するお約束の挨拶を終えたあと、ジャック・ラカンはベッドの足元にひざまずいて、敬虔なカトリック信者だけがするような不自然な祈りの姿勢に入った。
シビルはもちろんそれが何を意味するか知っていた。
ラカンは「セミネールの準備」をしていたのである。
ラカンは超人的な集中力の持ち主で、仕事中は回りで何が起きてもまったく無関心であった。
イタリアでバカンスを過ごした夏、シビルと父親はモーターボートで海に出た。
すばらしい風景がひろがっていた。
だが、夏の光と海の風と歓喜する娘とボートの震動をまったく無視してラカンは「鉱物のように」硬直したままプラトンを読み続けていて、ついに一度も本から目を上げなかった。
シビルは父親が泣いたところを二度しか見ていないと書いている。
一度は長女のカロリーヌが死んだとき、もう一度はモーリス・メルロー=ポンティが死んだときだそうである。
ラカンの非人情もメルロー=ポンティを失うことの欠落感には耐えられなかったのである。
非人情にまつわる佳話である。

投稿者 uchida : 11:55 | コメント (3) | トラックバック

2006年04月23日

140B創立パーティとゼミ同窓会

江弘毅さんと中島淳と書いて「なかじま・あつし」と読む中島さんの新会社140Bの設立記念パーティがダイビルであった。
140Bは出版編集の会社で、中島さん、江さんそれと石原卓さんの三人が取締役、金井文宏さんが監査役という四人だけの会社である。
私と平川くんは株主なので「参与」の称号を頂く(ついでに名刺も頂く)。
ビッグアップルの堀埜さんやゴスペルの大倉カイリさんも発起人に名を連ねている。
教授会がのびたので、開始時間をだいぶ遅れて会場のダイビルのカボデルポニエンテに着いた。
とんでもない数の人々がわいわいと集まっている。200人くらいいたのではないかしら。
入り口でバッキー・イノウエさんと堀埜さんに会う。奥の方にエルマガジン社の新入社員となった「店子のヒロコ」がいる。大迫くんに案内されてオフィスの方にゆくと「鉄火場姐御」がいる。取締役のみなさんにご挨拶しているとフジタくんが来て「甲南麻雀連盟に入れて下さい。ボク、かんきちなんかよりずっと強いです」とアピールする。
かんきちくんより強くてもあまり自慢にはならないが連盟の扉は、叩くものすべてに開かれている。
お腹が減ったのでカフェテリアで食べ物をゲットして廊下を歩いていたら、たいへん懐かしい顔に合う。
兄上である。
どういう風の吹き回しか、ばりっとスーツを着込んでいる。
「あ、兄上、ど、どうしてここへ?」
別に不思議はない。
兄上は江さんのビジネスパートナーであるので、表敬訪問のために横浜から日帰りで来られたのである。
兄上がスーツを着るのは年に二回くらいであるから、兄上の江さんの新会社に対する期待の大きさも知られようというものである。
ご挨拶もそこそこに廊下で「では、次は箱根の温泉麻雀でお会いしましょう」と手を振り合って別れた兄弟であるが、よく考えてみれば来月早々に山形宗傳寺まで父の法事でいっしょに行くのであった。
兄と別れてふりかえったら平川くんがいる。
彼もまた長駆東京から来られたのである。
なにしろ「参与」なんだから。
平川くんの隣に釈老師(@浄土真宗)、その隣に「魔性の女」フジモトくん、その隣にバジリコのアンドウさん、その隣にドクター佐藤という濃いーメンバーがワインを飲んでいる。
やれやれやっと座れるよと腰を下ろしてどもどもとワインを頂くと、そこにヒラオさんとイーダ先生とヤマモト画伯と的場コータン老師(@華厳宗)がやってくるので、たちまち内輪の宴会状態となる。
ビジネスマン、僧侶、エディター、医者、画家、ラガーマン、学者がテーブルを囲んでわいわい騒いでいるわけであるが、いったいこの異業種の方々は何のゆかりがあってこのような場所に参集し、親しげに「内輪話」をしているのか疑問に思われる方もおられるであろう。
ご賢察のとおり、ここに顕現したのは「麻雀が結ぶ友達の輪」なのである。
秘密結社(じゃないけど)甲南麻雀連盟の組織力には恐るべきものがある。
甲南合気会もたしかに異業種の方々が集まって特異な共同体を形成してはいるが、私が師範として独裁的に支配しているために、集会結社の自由、言論出版の自由などは会内部で厳しい禁圧にさらされている。
集会は私が「集合!」と言った場合にのみ行われ、もちろん師範の検閲を得ない政治的発言などに存在の余地は残されていない。
師範の知らない間に門人同士が集まって宴会などした場合、事後にそれを知った師範の致死的反撃(ひがみっぽく「あーら、楽しそうでよかったわねえ」と斜め45度の白眼を向けられること)は免れ難いのである。
このような一元支配によって組織の鉄の規律はさしあたり保たれているわけであるが、その反面、言論統制による会員たちの精神の萎縮は否みがたい。
この「カリスマ的指導者による一元支配」という過渡期革命党組織問題のアポリアを重くみて、私は前衛党組織、同伴知識人、一般大衆をゆるやかにネットワークした「人民戦線」方式の組織論的展開の急務であることを痛感したのである。
そのようにして誕生したのが甲南麻雀連盟である。
従来の革命党組織には党員登録されていなかった宗教関係者、ブルジョワ的芸術家、反革命的プチブル弱雀小僧などにも連盟はひろく門戸を開くことになった。
党内民主主義にもとづく連盟において、会員たちには連盟同志から点棒を奪取すること、同志の失着を嘲弄することがひとしく人民の権利として担保されている。
もちろん過渡期社会の宿命として、一部特権階層(具体的には私のことだが)が点棒を事実上独占することは避けがたいのであるが、規定上は全員に勝つ権利が確保されており、規定を空文化させるのか、法に魂を吹き込むのかは(平川同志がその憲法論で道破したとおり)ひとえに同志諸君の階級的打牌のひとつひとつにかかっているのである。
ま、それはさておき。
パーティもそこそこに連盟会員たちは「二次会」へと移動することになった。
平川同志の「来阪歓迎麻雀」である。
メンツは平川くんの他に、ドクター佐藤、ヒラオさん、画伯、そして私である(イーダ先生は観戦)。
結果についてはあまり申し上げたくないが、画伯が二回ともトップでプラ90。
私は半荘一回だけ参加し、南二局、七索単騎の立直一発自摸七対子ドラ四の倍満を上がってダントツとなったのだが、オーラスで画伯が親のハネ満を自摸上がり(七対子ドラ四・・・って似たような手だな)逆転されてしまったのである。
グヤジー。
平川くんが泊まって、翌日は例によって朝ご飯を食べながら清談。
ふたりとも素面のときの方が頭の回転がよいみたいである(ふつうそうか)。
共著『東京ファイティングキッズ2・悪い兄たちが帰ってきた』はバジリコから出版予定。装丁はヤマモト画伯。
解説は誰に書いてもらおうかふたりで相談して、鷲田清一先生にお願いしようという結論に二秒で決する(鷲田先生、勝手に決めてすみません)。
そういえば文春文庫からもうすぐ出る『子どもは判ってくれない』(増補版だよ)の解説は橋本治先生にお書き頂いた。
この解説が「本文よりも難解」というレアものなのである。
さすが橋本先生。

平川くんを送り出した後、すぐに合気道のお稽古へ。
またまた新入門の方が来ている。
会員が毎週一人ずつ増えている。
たいへんうれしいことではあるが、このペースで増え続けると、半年ほどでこの道場はラッシュアワーの新快速なみの混み具合となってしまうであろう。
稽古のあとソッコーで家に帰る。
今日はゼミの卒業生たちが来襲するのである。
もともと「店子のヒロコ」と「おばけちゃん」と「えりりん」の三人が転職相談・恋愛相談・就職報告(順不同)に来るはずだったのだが、その一コ下のゼミ生たちが同じ日に同期会をやるという。
こちらは身体が一つしかないから、じゃあまとめてうちでやろうということになる。
家の中をぱたぱた掃除して、ワインとビールを冷やして、ご飯の支度をして待っていると卒業生たちどやどやと乱入してくる。
2004年卒組で集まったのは、ムラサキ、ノヒラ、ヤブッチ、クボさん、アイキ、魔王、途中からヨリフジ。
とりあえずシャンペンで乾杯して自己紹介もそこそこに話題は一気に佳境に入る。
本日の話題は「極悪サトウ」のさまざまな驚嘆すべきエピソードである。
「極悪サトウ」はmixi上では「とにゃん」などとかわいい名前を名乗っているが、私が邪道免許皆伝、「邪魔女」(じゃ・まじょ)の称号を与えたことからわかるように、内田ゼミがこれまで世に送り出した歴代の非人情ゼミ生のうちで第一に指を屈すべき稀代のスーパー・バイオレンスなハッピーゴーラッキー女である。
残念ながら本日はご本人がご登場されないので、「店子のヒロコ」と「えりりん」が彼女をめぐるさまざまなエピソードを紹介してくれる。
「店子のヒロコ」がはじめてサトウを見たのは高校時代に予備校に行っていた頃のこと。
予備校のエレベーター前に血を流している男子生徒(当時のサトウの彼氏)がおり、彼を「ぐう」で殴ったのが極悪サトウだったのである。
「えりりん」がサトウのオソロシサを知ったのは同じく予備校時代のことで、待ち合わせをして赴いた駅頭でやはり男子生徒(その次の彼氏)に暴行を加えているサトウの姿を見てしまった。男子生徒は胴体だけで頭部が見えなかったが、それはサトウが彼の頭部をコインロッカーの中に突っ込んで激しく折檻を加えていたためであったので、「えりりん」は恐怖のあまりその場で凍りついてしまったのである。
極悪サトウは卒業後も東京のビジネスシーンで大胆に出世街道を驀進しており、先般お会いしたときは「私、先生よりも稼いでるわよ」と呵々大笑していた。
恐るべし、サトウ。
サトウ話でエンジンがかかったせいか、そのあとは「えりりん」の独演会。
3時間われわれは「えりりん」の阪急百貨店秘話に笑い転げ続けたのである。
聞けば、「えりりん」はそのうちにサトウと「店子のヒロコ」を取締役に登用して起業を予定しているそうである。
もちろんそのときは老師も喜んで出資させて頂こう。
「えりりん」のサトウ話が定期的に聞けるなら、多少の出費は惜しくない。

投稿者 uchida : 11:26 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月19日

不人情と非人情

右の犬歯がぐらぐらしてきたのでE阪歯科に行って抜いてもらう。
いてて。
このあと残った歯にインプラントして、三本セットで再構築する予定。
しばらく「歯なし」だから左側だけでご飯を食べなければいけない。
よくできているね人間の身体は。
どちらかがいかれてももうワンセット残っているから。
麻酔で顔の右半分が無感覚な状態で大学に行く。
会議。
なかなか「落としどころ」が決まらずに2時間ほど議論が続く。
大学の仕事が授業だけならこれほど愉快な職場はないが、会議があるので、大学に行くのがだんだん気鬱になる。
よろよろと家に戻ってから三宅先生のところへ。
過労であちこちがたがた。
ほぐしてもらうと身体がすこしほっこりする。
おみやげに「濁り酒」を二本頂く。
メールをチェックすると、あちこちから仕事の依頼が来ている。
「団塊の世代にひとこと」「私のお薦めの本」「日本人の集団主義について」「村上春樹はどうでしょう」「お金と幸福」「親子論」などなど。
私の意見なんかきいてどうしようというのであろうか。
よくわからない。
おそらく昨日のIT秘書と同じく、非人情なステートメントを求めておられるのであろう。
「不人情」と「非人情」は違う。
「不人情」は「こういうことをやると相手が傷つくであろう」ということがわかっていながら自己利益を確保するために「ひどいこと」をする性向である。
「非人情」というのは、無作為に、とくに自己利益とは無関係に、オートマティックに「ひどいこと」を言ったりしたりする性向のことである。
私は自分を頼ってきた人間を切り捨てるような不人情なことはしない。
でも、自分を頼ってきた人間が「いることを忘れる」ことはよくある。
金に困った友人がいて、金惜しさに「やだ」に言うのは不人情である。
「いいよ、貸してあげる」とにっこり笑って言っておきながら貸すのを忘れてしまうのが非人情である。
昨日、車で家に帰る途中、IT秘書が途中で用足しに車から降りた。
対向車が来たので、少し前に出て左に寄ったら、IT秘書が青ざめて追いかけてきて「ぼくのこと置いてくつもりじゃないかと思って」と心配そうな顔をした。
「まさか」と私は笑った。
「ぼくがそんなイジワルなことするわけないじゃないか。キミがいたことを忘れて走り出すことはあってもさ」
「・・・ははははは、そうですよね」
車内はしばらく冷え冷えとした空気に包まれた。


投稿者 uchida : 20:34 | コメント (1) | トラックバック

2ちゃんねると子育て

火曜日は三年生のゼミと大学院のゼミだけ。
会議がないから、一週間でいちばん楽な一日である。
三年生の初ゼミの発表は「2ちゃんねる」。
大学院はカワカミ先生の「子育て論」。
「2ちゃんねる」は発表者以外に興味のあるゼミ生がひとりもいなかった(見たこともないという学生も多数)という、「ねらー率」がたいへん低い内田ゼミである。
やはりこれはゼミの指導教員とゼミ生は「似たもの同士」ということなのであろう。
私はもう3年ほど「2ちゃんねる」というものを見たことがないが、聴くところでは、いまだに「内田樹スレッド」は健在で、そこには私のラブライフについての詳細なレポートが書かれているそうである。
いったいどのようにしてそのような個人情報が漏出するのであろう。
まことに不思議なことである。
いったい私はどのようなワイルドなナイトライフを展開していることになっているのか、ちょっと読んでみたいような気もするが、ああいうものは「本人が読んでいる」ということがわかると書き込みがぐっと加熱するものであるらしいので、静かにスルーしちゃうのである。
興味のある方には申し訳ないけど、私の私生活の99%の時間は「ひとり」である。
ひとりでご飯を食べて、ひとりで風呂にはいって(ふつうひとりだな)、ひとりで本を読んで、ひとりで酒のんで、ひとりで映画みて、ひとりで寝ている。
残る1%の時間に何が起きているのかはもちろんこんなところには書くわけにはゆかない。
大学院の子育て論は、「子育て経験者」が聴講生にたくさんおられるので、議論がヒートアップする。
「子育ては苦役だ」という言い方も「子育ては至福だ」という言い方も、どちらも正しいと私は思う。
苦役でありかつ至福であるような経験。
もっとも人間的な経験はたいていそういう質のものである。
親の仕事の目的は、子どもが「親を必要としなくなる」ことである。
自分の存在理由を消去するために全力を尽くす。
そのような仕事だけが真に人間的な仕事である。
医者の理想は「病人がいないので、医者がもう必要でない世界」の実現である。
警察官の理想は「犯罪者がいないので、警察官がもう必要でない世界」の実現である。
それと同じように親の理想は「子どもが自立してくれたので、親の存在理由がなくなった状態」の達成である。
そういうものである。
いつまでも子どもが親の支援を必要とするような関係を作ろうとする親は、病原菌をばらまく医者や凶悪事件の発生に歓声をあげる警官と同じように、不条理な存在なのである。
子どもが成長することは親の喜びであり、子どもが成長して親を必要としなくなることは親の悲しみである。
喜びと悲しみが相互的に亢進するというのが人間的営為の本質的特性である。
楽しいか悲しいか、どちらかに片づけてくれないと気分が悪いというようなシンプルマインデッドな人は「人間に向いてない」と私は思う。

ゼミのあと、遊びに来た増田聡くん明日香さんご夫妻とIT秘書のイワモトくんと芦屋まで戻って、「江戸川」で鰻を食べる。
ぱくぱく。
みなさん美味しそうにお食べになる。
そのままわが家に移動して、さらにワインなどのみつつ歓談。
気がつくと11時。
増田くんご夫妻が近所(といっても堺だけど)に来てくれたので、これからはちょくちょく会える。
いつもはげしくインスパイアしてくれる若い友人がいることはありがたいことである。
さらに12時までIT秘書の身の上相談。
私のような非人情な人間に身の上相談をする人々の真情を私ははかりかねているのであるが、おそらくは「非人情」ゆえの「身も蓋もない」アドバイスが求められているのであろう。
というので、例によって身も蓋もないアドバイスをする。

投稿者 uchida : 10:24 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月17日

茂木健一郎さんと応挙の襖絵を見に行く。

香住の大乗寺は真言宗の古刹であるが、円山応挙の襖絵で知られたところである(私は知らなかったけど)。
どういうわけかその日本海岸のお寺に行って襖絵を鑑賞することになった。
春うららの播州路をBMWで快走して香住駅へ。
そこで鳥取空港からローカル線でやってきた茂木健一郎さん、橋本麻里さん、『BRUTUS』の鈴木副編集長と合流。
茂木さんは新潮の『和楽』という雑誌の仕事でこの襖絵を鑑賞しに来られたのである。
私は茂木さんと『BRUTUS』のための対談をお隣の城崎温泉でやることになっている。
橋本さんはその二つの仕事を同時にやってしまうために、私と茂木さんの対談ツーショットを大乗寺の永沢芦雪(ながさわ・ろせつ)の「群猿図」の前で撮るという荒業を繰り出したのである。

photo_01.jpg

photo_02.jpg

なぜ私がここにいて、こんな絵の前で、こんなポーズを取っているのか、ぜんぜん意味がわからないままに副住職の山岨眞應老師から大乗寺の空間が「立体曼荼羅」になっているという話を伺う。
何、「立体曼荼羅」?
その単語、聴いたことがある。
それも、ごく最近。
おお、そうだ。つい先日の「京都観仏ツァー」のおりに、同じ真言密教の東寺の講堂で、釈老師のご解説付きで拝見したばかりではないか。
さらに、そのときの話を前日の朝カルで釈先生を相手にしたばかり。
シンクロニシティ。
何か大きな力が私を仏教空間へ誘っているのであろうか。
応挙の襖絵「松に孔雀」を拝見する。
ちょうど夕日が真西から差し込んで、金箔が沈み込み、白黒の墨絵が、松は緑に、孔雀は極彩色に彩られているように見える。
雨戸を閉め切って手燭のあかりだけで見せて頂く。
東寺の講堂の仏像が造形的に鑑賞できるようにライトアップされていたのとは逆に、応挙の時代に見えていたままの状態を再現しようとしているのである。
視覚だけでなく、庭の松籟、冷気、畳の感触まで、五感をフル動員して宗教的空間が享受できるように精密に設計されている。
まことに贅沢な経験をさせて頂いた。
大乗寺のこの襖絵はあと1年後にはレプリカに取り替えられて、本物は収蔵庫にしまいこまれてしまうそうである。
襖絵が「現役」で宗教の「現場」にいるうちに、見ておくほうがいい。山岨老師によると、見学はいつでも歓迎だそうである。
(詳細こちらへ
身体の芯まで冷え切って城崎温泉三木屋へ移動。
あの志賀直哉ゆかりの宿である。
この宿については「ヒロコの笑いネタ」があるのだが、ここでは紹介をはばかるのである。
お風呂にはいる暇もなく、夕食。
シャンペンで乾杯して、宴会モードで茂木さんと対談。
茂木さんとお会いするのは二度目である。
前に高橋源一郎さんと新宿の朝カルで対談したときに橋本麻里さんのご紹介で、ご挨拶をしたのである。橋本さんは高橋源一郎さんのお嬢さん、才色兼備のスーパーエディターである。でも、一緒に仕事をするのはこれがはじめて。
お酒が入っての対談なので、茂木さんとのおしゃべりは「放送禁止」話題が頻出して、編集者お二人はなんだか困っていたようだけれど、しゃべる方はまことに愉しかった。

BRUTUS BRUTUS 見開き

この対談はこの後も定期的に行って、単行本にする予定だそうである。
そうなんですか。
知りませんでした。
10時で切り上げて、「御所の湯」へ。
ここは前回「城崎温泉麻雀」でスーさんたちと来た外湯である。
露天風呂で温まって宿にもどってさらに冷酒など酌みつつ、深更までおしゃべり。
茂木さんは翌日東京でテレビの仕事があり、午前5時20分にタクシーを呼んで鳥空港まで突っ走り、そこから飛行機で帰京されるそうである。
タフなスケジュールだなあ。
私は朝まで爆睡。温泉旅館の「日本の正しい朝ごはん」を頂いて、お二人の編集者とお別れして、青空の下、円山川沿いの満開の桜と川べりに咲く菜の花の間を疾走して芦屋に戻る。

投稿者 uchida : 17:50 | コメント (1) | トラックバック

2006年04月14日

フェミニンな時代へ

朝の礼拝で新任教員のみなさんのご紹介がある。
新任は9人。
アメリカ人が二人、イギリス人が一人、中国人が一人、ロシア人が一人、日本人が四人(全員女性、うち一人はカナダ在住)。
日本人男性の新任教員が一人もいない。
これは(日本人男性には)たいへん申し訳ないけど、「徴候的」な風景だと思う。
公募の場合、倍率100倍を超えるポストもあった。
最終選考に残った候補者の「全員が女性」という話をいくつか聞いた。
これは私たちの社会のこれからのあり方をかなり先駆的なしかたで予兆するものだろうと思う。
社会的能力の開発において、どうやら性差が有意に関与し始めている。
個人的な印象でも、私が仕事でかかわる出版社系の編集者は80%が女性である(新聞社系は依然として男性が圧倒的に多いけれど)。
どちらが仕事がやりやすいかというと・・・
さしさわりがあるので、ちょっとあれですけれど、正直申し上げて、女性のエディターの方がずっと仕事がしやすい。
男性の編集者はしばしば「ウチダにこういうものを書かせたい」という明確なプランをもって登場する。
話をしているうちに、私は必ず観念奔逸状態になって、わけのわからないアイディアをうわごとのように繰り出す。
男性編集者はこれをあまり好まれない。
苦笑いして聞き流し、「で、話はもとに戻りますが・・・」と仕切り直しをしようとする。
女性編集者はまずそういうことがない。
話が脱線に脱線を重ねることを厭わない。
「ね、こういうのどう?」
「あ、いいですね。それ面白いです」
「でしょ、でね、さらにこういうふうになるの」
「いいですいいです。それですよ」
「でしょでしょ、そこで、こうなるの」
「きゃー」
というようなアナーキーな展開は女性編集者相手ならではのものである。
彼女たちは、私に原稿を書かせようとやってきて、ぜんぜん違う人にまるで違う原稿を書いてもらう企画を私から聞き出して満足げに帰ってゆく・・・というようなことが間々ある。
男性編集者でも私が「たいへん優秀」と評価している方々は総じて「おばさん」体質である(誰、とは申しませんが)。
だんじりエディターとかワルモノS石さんは外形的にはマッチョ系であるが、実は意外やフェミニンな内面の人なのである。
これからは「女性の時代」になるであろうと私は先般日経のエッセイに書いた。
それは「フェミニズムの時代」が到来するということではない(それはもう来ないことがわかっている)。
そうではなくて、「フェミニンな時代」が到来するということである。
これはおそらく地殻変動的な水準で起きていることで、個人の決断や努力でどうこうなるものではない。
それがどういうものであるのかを(すでにワインを飲んで相当酔っぱらっている)私の頭で予言することはできないが、私はそういう社会が到来することを確信している。
「嫌韓流」というムーブメントが圧倒的な仕方で噴出した韓国文化への愛着への反動であるように、「改憲」や「ナショナリズム」は、この「フェミニンな日本」への怒濤のような趨向に対する必死の抵抗の徴候であるように私には思われる。
いま女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である。
この一週間、私は『オールイン』に惑溺しているが、イ・ビョンホンがいちばん美しく見えるのは、後ろ回し蹴りですぱこーんとワルモノを蹴り倒す場面ではなく、「愛している」と言えずに「つーっ」と涙が頬を流れるときの「やるせない」表情である。
そうなのだよ諸君。
共同体が求めているのは「泣くべきときに正しい仕方で泣ける」ような情緒的成熟を果たした男なのであるが、そのようなやわらかい感受性をもった男性を育てるための制度的基盤を半世紀にわたって破壊してきたことに私たちは今さらながら気がついたのである。
アメリカの黄金時代が、アメリカの若者たちがすぐにべそべそ泣く時代であったように(ジョニー・ティロットソンとかボビー・ヴィーとか、泣いてばかりいたぜ)、日本はこれから「泣く男」をもう一度つくり出せるようになるまで劇的な社会的感受性の変化の地層を通り抜けることになるであろう。
うん。
酔っぱらってるから、言ってることには責任持ちませんけど。

投稿者 uchida : 21:20 | コメント (2) | トラックバック

2006年04月12日

楽しい新学期

授業が始まる。
ひさしぶりに授業でしゃべる。
三年生のゼミと大学院のゼミ。
一週間でいちばん気楽な火曜日である。
教室で学生さんたちを相手にするときの緊張感は、講演会やカルチャーセンターで話すのとは違う。
こういってはせっかく来て頂いている方々には失礼だけれど、講演会やカルチャーセンターのオーディエンスに対して、私は「教育する責任」を負っていない。
もちろんオーディエンスだって「教育なんかしなくていいです」と思っておられる方が過半であろうから、それでよろしいのである。
学生は違う。
彼女たちは授業料の対価としての教育サービスを求めに来ているというだけではない。「それ以上のもの」を求めてきている。
「それ以上」とは何か。
それは彼女たちにもよくわからない。
よくわからないけど、「なにかいいこと」がそこにはありそうな気がするから大学に来る。
この点で教育は市場原理と一線を画す。
ふつう自分が何を買いたいのか知らないものは市場に行かない。
市場に行く人間は、自分が何を買いたいか知っている(それが模倣欲望やメディアの煽りの効果であったにしても)。
少なくとも知っているつもりでいる。
大学に「どんないいこと」があるのか、学生たちはほとんど知らない。
むしろ「どんないいことがあるのか知らない」ということが「大学に行きたい」という欲望を駆動している。
学生たちから感じるのは、売れ筋の商品を並べて接客している商人が感じるものとは違う種類の「渇望」である。
人気商品の前に客が列をなしているときに、商人は客が何を求めているか熟知している。
「はいはい、ちゃんと列を崩さないで待ってて下さいね。はい、押さないで、押さないで」
ところが、学生がずらりと並んでこちらをみつめている教壇の上で、教師は学生たちが何を求めているのか、ぜんぜんわからない。
なにしろ先方だって「なにかいいこと」ありそうで大学に来ているだけであって、教師にむかって「あれ、ください」というほどはっきりと教育サービスのスペックを知っているわけではない。
何を買いに来たのかわからない客と、何を売っていいのかわからない商人が、なんとなくぼおっと向かい合っている状態。
それが大学の新学期である。
私はそういうアモルファスな、欲望の星雲状態が好きである。
幸福な気分になる。
大学院は聴講生、院生、その他(って何だろう?)で40名ほど。
今年は現代日本論を講ずる。
もちろん例のごとく講義はそのままMDに録音して本にしてしまうのである。
ミシマくんもいい加減テープ起こしに飽きて、もうNTTからは出してもらえないかもしれないけど。
東京の大学院を休学して、阪神間に引っ越してきたツワモノがいる。
週一の大学院の他に、多田塾甲南合気会にも入門し、甲南麻雀連盟にも参加のご意向である。
剛胆というか無謀というか。
とりあえず歓迎麻雀大会での「手痛い祝福」(常套句)でお迎えせねば。
授業の合間にAERAの取材。
「私の人生を変えた三冊の本」とかなんとかそういう特集。
メールでアンケートが来たので、適当に思いつくまま、山本鈴美香『エースをねらえ!』、エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』、エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』の三冊を書いて送り返す。
よほど選書が変だったのか、どうしてそんな変な本で人生が変わってしまったのか知りたい・・・ということで東京から取材にお越しになったのである。
取材に来られたのは朴順梨さんという女性ライター。
彼女が思いがけなくマンガのヘビーリーダーであったので、たちまちマンガ話に熱中。
『エースをねらえ!』幻の第三部の話などを熱く語ったが、もちろんそんな話はAERAには出ないのである。

投稿者 uchida : 16:02 | コメント (0) | トラックバック

2006年04月11日

卒業生遠方より来たる

月曜から新学期が始まる。
まだ授業はないけど、会議がひとつに杖道のクラブ。
会議のあと、教務部長室でファイルを整理していたら、卒業生が二人遊びに来た。
私のゼミの卒業生じゃなくて、体育の合気道クラスの受講生だったおふたり。
テレビ大阪におつとめのシオダ・マミさんと、東京からお越しのニシムラ・ミホさん。
ニシムラさんは在学中「ミス神戸女学院」に選ばれて、そのあとモデルになって、そのあとさるIT長者さまとおつきあいになって、六本木ヒルズに居住していて、そのあと「例の事件」があって・・・という波瀾万丈の卒業生である。
ミーハーなウチダはさっそく「で、どうだったの?」とあれこれと芸能記者的質問をする。
メディア攻勢はたいへんだったらしいけれど、幸い日本のメディアは熱しやすく冷めやすいので、もう事件は遠く恩讐の彼方。
伺った話で面白かったのは、ホリエくんからもらった中古パソコン(地検が彼女の家まで家宅捜索に来て、もっていかれてしまった)のHDにいろんなことがはいっていたらしいということ。
ITの人にしてはセキュリティが甘いよな。
タケベ幹事長の次男さんはほんとにホリエくんの仲良しのお友だちだったそうである。
偽メールもけっこう「すれすれ」のところだったようですね。
ニシムラさんがぼくの『街場のアメリカ論』を購入して机の上に置いておいたら、彼がある日取り上げて「興味深げに読んでいた」とか。
へえ・・・そうですか。
シオダさんはテレビ大阪で放送事故がないように見張っている「センチネル」のようなお仕事をしているそうである。
たいへんですね。
新入生にまじってどこかの教室覗きに行こうか・・とふたりはにこにこ笑って連れだって行った。
卒業してもときどき戻って来たくなる大学があるというのはよいことである。
そういうときに訊ねてみたくなる教師だと思って頂けるのはとてもうれしいことである。
ふたりともがんばってくださいね。

ウッキーが道場を始めました。こちらもみんなで応援してください。

ホームページはこちら

投稿者 uchida : 10:25 | コメント (1) | トラックバック

2006年04月09日

反復の快

四月になって生活がレギュラーになりつつある。
三月までの気が狂ったようなめちゃめちゃなスケジュールも一段落。
『私家版・ユダヤ文化論』も書き上げたし(大口さん、安心してね、消してないから)、岩波の身体論も書き上げたし、吉田城君の追悼文も書いたし、月連載の三本もエッセイも書いたし、甲野先生との対談本の「まえがき」も書いたし、『子どもは判ってくれない』の「文庫版あとがき」も書いたし・・・三月末から一週間で懸案の仕事がばたばたと片づいた。
ふう。
四月の残る仕事は15日の朝カルと16−17日の城崎温泉ツァー(茂木健一郎さんと温泉で宴会しながら対談というツボにはまったアイディアは橋本麻里さん企画で、掲載誌はBRUTUS)の二つだけ。
あとはふつうに大学に通って、会議に出て、道場でお稽古して、小ネタ仕事を片づけるだけのルーティンな毎日が待っている。
つねづね申し上げているように、私はルーティンが大好きである。
毎日同じ時間に起きて、同じものを食べて、同じような服を着て、同じような場所に行って、同じような仕事をして、同じようなことをしゃべって、同じような映画を見て、同じような本を読んで、同じような酒を飲んで、同じような夢を見る・・・というのが私の至福の一日である。
意外性とか新奇性というのは私の深く忌避するところのものである。
快楽は本質的に回帰性のものである。
フロイトを引くまでもなく、快感原則は恒常原則に由来する。
「識閾を超えるあらゆる精神的物理的運動は、それがある限界を越えて完全な安定に近づくにつれて快をおび、ある限界を越えて安定から離れるにつれて不快をおびることになる。」
だから、生物の自然は安定を求め変化を嫌うはずである。
私もそうである。
しかし、実際には私たちは快感原則のみに従って行動しているわけではない。
生物が置かれている状況では、「快だよん」と言って、そこらで寝ころんでいるような生物はいずれ飢え死にするか、ただちに他の生物に捕食されるかするし、そもそも配偶者が得られないから、DNAを複製することができない。
生き延びようと思ったら、生物は「満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂路をへて快感に達する途中の不快を一時甘受する」ことを受け容れなければならない。
これが現実原則である。
なるほど快感原則と現実原則が葛藤しているので、人生めんどくさいんですね。
あのね、違うの。そうじゃないのよ。
フロイト博士はそんな簡単な話をしているのではない。
もし生物が本性的に快をめざし、不快を避けるものであり、仮に快の享受を延期したり中絶したりする場合があっても、それは最終的により確実に快を得るための迂回にすぎないという理屈では「説明できない現象」が多すぎるということをフロイトは指摘しているのである。
例えば外傷性神経症の場合。
患者はトラウマ的経験の原点にある光景を繰り返し夢に見て、驚愕して目覚める。
覚醒時の患者はできるだけそのことを考えまいとしている。
夢もまたしばしば願望充足のための機能を果たしている。
だったら、「そんなことは忘れてしまってぐっすり眠る」というのが生物にとって最適の選択であるはずである。
それができない。
それはおそらく、その不快に耐えることがある種の快をもたらしているからだ。
フロイトはそう考えて、これを「反復強迫」を呼んだ。
「あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わる」人がいる。
あなたがたのまわりにも必ずいる。
おそらくあなた自身も多少はそうであるはずだ。
手助けしてあげた人間に必ず裏切られる人。
誰かを権威者に担ぎ上げて、その人に熱情的に仕えるけれど、一定時期が過ぎるとその人を棄てて、別の権威者に乗り換える人。
同じようなタイプの恋人を選んで、そのつど傷つけられる人。
フロイトは三回結婚して、三回とも夫を死ぬまで看病するはめになった女性の事例を紹介している。
おそらくその女性は「もうすぐ死病に取り憑かれそうな男」を選んで結婚しているのである。
これは、「不快な経験の反復」はそれが「反復」であることによって「不快」を上回る「快」を提供しているということによってしか説明できない。
快感原則の究極のかたちは死である。
死んでしまえば、もう変化はない。
ニルヴァーナだ。
でも、現実原則と快感原則の葛藤ということを考慮すると、タナトス的にいちばん気持ちがいいのは「もう死んでいる」状態ではなく、むしろ「今、死ぬ」瀬戸際にいるときではないだろうか。
「ああ、これでやっと永遠の安定に還ることができる」という瞬間にタナトス的な「快」は最大化するはずである。
セックスにおける快がそうであるように、快というのは、欲望が消失するまさにその瞬間に最大化するものだからである。
だから、「生きていながらぎりぎりで死に触れている臨界線上」に身を持すのが、生物が生物として経験できる最大の快であることになる。
反復とは、「生きていながら死んでいる」状態をモデル化したものである。
おそらくそうなのだろうと思う。
「死ぬ」というのが生物が経験できる至上の快であり、私たちが「死ぬ」ことを忌避する唯一の理由は「一度死ぬともう死ねないから」なのである。

投稿者 uchida : 13:03 | コメント (4) | トラックバック

2006年04月08日

おでかけの日々

「内なる他者とは何であるか」という問題について長い時間をかけて文章を書いて、おでかけの時間になったのでそのままセーブして立ち上がったつもりだったが・・・家に帰ってきたら暗い部屋にPCだけが点灯していたので、なにげなく電源を切ってしまった。
朝起きたら原稿が全部消えていた。しくしく。
泣くことはないだろう。また書けばいいじゃないか。どうせ自分が書いたものなんだから。
そうおっしゃるかも知れない。
でも、私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。
この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私によっては再現できない。
パソコンの横には、『ユリイカ』の2005年4月号が開いてある。
何かの文章をそこから引用している途中で時間になって立ち上がったのである。
たぶんこの文章らしいというところまでは思い出せるのだが、どういう文脈でその文章を引用しようと思い立ったのかは思い出せない。
文章を書いているときは、「まだ書いていないこと」について漠然とした見通しがあって書いている。
その「まだ書いていないこと」が書いているときには非常にクリアーなヴィジョンなのに、少し時間をおいて机に戻ると思い出せないことがある。
そういうときは書いたものをはじめから読む。
読んでいるうちに、自分が書いた文章に身体がなじんできて、「ああそうだ、あっちにゆくつもりだったんだ」ということがわかってくる。
立ち上がって台所に来てから「あれ?何しに台所に来たんだっけ?」というときは(そういうこと最近多いです)、もう一度動作の出発点まで戻ると、「台所へ行く」必然性を思い出すのと同じである。
今回は全部消えちゃったので、話の出発点が思い出せない。
たしか「文章を書くときの基準」とは、「20年前の自分、20年後の自分」が読んでも理解できるものであること・・・というような文言を書きつけていた記憶があるが、定かではない。
もういいや。忘れよう。
「ラリっているときに知り合った人とはラリっているときにしか出会えない」ラリハイの法則(@山下洋輔)と同じで、「憑依しているときに浮かんだアイディアには、また憑依したときにしか出会えない」のである。

おでかけが続いている。
一昨日は増田聡くん明日香さんご夫妻と梅田の「あげさんすい」でご会食。
増田くんはご案内のとおり、『ためらいの倫理学』刊行のそもそものきっかけをつくってくれて、私が物書きとしてデビューできることになった恩人である。
今般東京での二年間の浪人生活を切り上げて大阪市立大学の専任講師として帰阪されたのである。わーい。また遊べるぞ。
この二年間の増田くんの生産力には驚嘆すべきものがある。
『音楽未来形』(洋泉社)、『クラシック音楽の政治学』(青弓社)、『その音楽の〈作者〉とは誰か』(みすず書房)と立て続けに著作を出した。
東京でも若手の学者たちと親交を深めていらしたようで、ひさしぶりに会ったら、なんだか風貌に凄みが出てきた。
もう「ロック少年」じゃなくて、「ロック中年」ですよと笑っていたけど、増田くんも今年35歳になるのである。
増田くんとはじめてあったころはまだ彼も二十代独身で、「後生恐るべし」ということばを私が実感したはじめての人だった。
その増田くんから最近の若手学者たちの動静についてお伺いする。
増田くんの一押しは北田暁大、高原基彰のお二人。
その高原くんの『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書)が「オススメです」ということで、翌日早速購入。
まだ二十代の研究者である。
レイザーシャープな若い人がどんどん出てくる。
増田くんを含めて、若手たちは微妙に「切れすぎる」という感じがする。
「切れすぎる刀」は抜き身では持ち歩けない。
だから、「鞘」をそれぞれに工夫されることになる。
「ごりごりの学術性」というのがいちばんオーソドックスな「鞘」で、これにくるんでいると、ふつうのひとには切れ味がわからない。
「上の空」とか「専門バカ」というのは、そのような「鞘」のかたちである。
もう少しアフレッシヴなひとは別の「鞘」をみつけだす。
「脱力」とか「笑い」というのがそれである。
最後に(笑)をつければ、どれほど本筋のことを言い切っても、とりあえず「鞘」には収まる。
切られた方も切られたことがわからずに、いっしょに笑っていたりする。
でも、いちばんよい鞘は「愛」である。
「学術性」や「笑い」によって切れ味が「増す」ということは起こらない。
「愛」はそうではない。
知性の切れ味というのは、平たく言えば、「誰かを知的に殺す武器としての性能の高さ」のことである。
その性能は、「知的にも、霊的にも、物理的にも、ひとを損なってはならない」という禁戒とともにあるときに爆発的に向上する。
そういうものなのである。
愛は憎悪と対になり、それと葛藤するときに深くなる。
憎悪は愛と葛藤するときに深くなる。
知性と愛の関係もそれと変わらない。
学術性とは愛の深さのことだ。
甲野善紀先生の「斬り」は刀を垂直に下ろす力と水平に切り裂く力を同時に刀にかけることで成立しているそうである。
この斬りは重くて受け止めることができない。
フロイトは『トーテムとタブー』で、身近な人が死んだとき、残された遺族は「強迫自責」に苛まれると書いている。
もっと孝養を尽くすことができたのではないか、もっと愛情を注ぐべきだったのではないか・・・というとりかえしのつかない思いに遺されたものは苦しむ。
フロイトによれば、それは彼らが無意識のうちに愛する人の死を願っていたからだ。
自分が愛する人の死を願っていたという心的過程をもちこたえるほど人間はタフではないので、その殺意は「悪魔」というかたちで外部に投射される。
そうやって「死霊の来訪」という心的現象が構成されるのである。
だが、私はこのフロイトの説明には「裏の読み筋」があると思う。
自分の愛する親や子や配偶者の死を願っているという心的過程は「事実」としてあるのではない。
死者に対する愛情が深いときにだけ強迫自責は起こる。
死者に対する殺意などつゆほどもありそうもない関係に限って強迫自責は起こる。
なぜか。
たぶんこういうことではないかと思う。
愛する人が死んだとき、私たちは「もっと愛したい」と思う。
「もっと愛しておけばよかった」という過去への悔悟はそのまま「もっとこの先も愛し続けたい」という未来への投企に読みかえられる。
愛情を亢進させるもっとも効率のよい方法は、愛情と葛藤するものを呼び寄せることである。
「私には死者にたいする無意識の殺意があった」という自責は私の死者にたいする愛情と非妥協的に葛藤する。
この自責に耐えるためには、私の死者に対する愛情をさらに高めるしかない。
私はこんなにもあの人を愛していたし、現にこんなふうに愛したし、死んだあとも愛し続ける・・・と「殺意」を否定するために、大量の心的エネルギーが「愛」に備給される。
奇妙な話だが、私たちは誰かに対する自分の愛情を高めるために、それと葛藤する心的過程(憎悪や嫉妬や殺意)を呼び寄せてしまうのである。
それと同じことが逆の行程でも起きる。
殺意は愛情を亢進させる。
学術性とは愛の深さのことだというのは「そういうこと」である。
人間の人間性を基礎づける戒律が「神を愛しなさい」と「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」の二つであることと同じである。
愛だけが人間のパフォーマンスを爆発的に向上させる。
むしろ、人類の始祖は知性と霊力と体力を爆発的に向上させるために「愛」という概念を発明したのかもしれない。
ことの順序としてはそのほうが「ありそうな話」である。

昨日は日経の連載エッセイ「旅の途中」の執筆者懇談会。
梅田で晩ご飯。
興福寺貫首の多川俊映老師、歌人の道浦母都子さん、作家のかんべむさしさんが執筆陣である。
洒脱なる多川老師のお隣に座った。
最近なんとなく「仏教」とのかかわりが深くなっている。
何かの「流れ」が来ているのであろうか。
南都興福寺は和銅3年(710年)平城京遷都のときの建立である。
そういう霊的伝統の中に位置づけられているというのはどういう気分のものなのであろうか。
老師とはいきなり、神仏分離、廃仏毀釈という運動がどういう政治史的・宗教史的文脈で起きたのかというコアな話題になる。
廃仏毀釈は明治維新の直前、幕末の騒乱のなかで決定されたのだが、誰がどういう政治的意図をもって行ったことなのか、宗教界ではどういう議論があったのか、ほとんど知られていない。
このときに6世紀推古朝以来の日本の仏教の伝統が断絶した。
ある種の「文化大革命」である。
神仏習合という中世以来の日本の霊性の構造はそのときどのように変化したのか。
急に興味がわいてきた。
靖国問題の原点は意外にこのあたりにあるのではないか。
多川老師とはさらに能楽のお話もはずんで、ぜひ次回の「釈先生とゆく観仏ツァー」は南都興福寺阿修羅像、運慶の作品など拝観させてくださいと墨染めの衣の裾にすがってお願いする。


投稿者 uchida : 10:47 | コメント (6) | トラックバック

2006年04月06日

愛神愛隣

入学式、オリエンテーションと、新学期の仕事が続く。
入学式でもまた『マタイによる福音書』を拝読する。
式の前に松田入試部長から「まさか、人前で聖書を読むような巡り合わせになるとは思っていなかったでしょう」と囁かれる。
ほんとにね。
まことに「一寸先とは闇」である。
しかし私は非キリスト教徒であるが、聖書を読むことには少しの心理的抵抗もない。
考えてみたら、二十代からずっと座右において(文字通り机の右側にずっと仏和辞典と並んで置いてあった)、繰り返し読んだ本である。
神を愛するとはどういうことか、隣人を愛するとはどういうことか。
これはレヴィナス老師の終生の問いであり、私もまた師に従って、その問いをうけとめてきたのである。
「神を愛し、隣人を愛す」というのはラビ・ヒッレルの言葉だと飯先生から教えて頂いた。キリスト教の成立よりはるか以前からユダヤ教の重要な教えとして説かれていたことばである。
「隣人をあなた自身のように愛しなさい」という第二の掟を私たちは博愛主義的な常套句だと考えるかもしれないが、これは解釈することの困難な掟である。
もし、この掟が、「私」がいて、「隣人」がいて、その間に友好的な関係を架橋することを指示しているとしたら、この掟はさまざまな背理にさらされることになる。
というのは、その場合「愛する」という行為の原型は「自己愛」になるからである。
「私は私を愛している」ということが不可疑の原点にあり、その上で、その自己愛を模して、隣人を愛することが命じられている。
だが、私たちは「私は私を愛している」という感情を、人間関係の原点にすえることができるほど熟知していると言えるだろうか。
例えば、自己嫌悪という感情は私たちにはなじみのものだ。
自己との違和感は思春期の少年少女のほぼ全員に取り憑く。
自殺する人間は日本だけで毎年3万を超えるが、彼らにとって「私は私を愛している」ということは自明のことだったとは言いにくい。
というところまで書いて、おおこのネタをそのまま日経の連載エッセイに書いてしまおう・・・と思い立ち、新しいファイルに続きを書く。
さらさら。
はい終わり。
というわけで、ブログでのこの話題はここでおしまい。
え?途中で止められると気分が悪い?
そうですよね。話の途中だものね。
では、続きを書きます。
「自分自身を愛する」と口で言うのはたやすいし、そんなことは日々自然のうちに行っていると私たちは考える。
だが、私たちは果たして「自分自身を愛する」というのがどういうことかわかっていると言えるだろうか。
日本では毎年三万人以上が自殺する。
彼らが「自分自身を愛していた」とみなすことはむずかしい。
自己嫌悪や自己との違和感に苦しむ人は数え切れない。
自分の感情を押し殺して、生活のためや野心のために、やりたくないことを自らに強いている人もたくさんいる。
解離性人格障害の人だっている。
彼らは「自分自身を愛する」ということを本能的に、ナチュラルにできていると言えるだろうか。
たぶんできていないと思う。
彼らがうまく自分を愛せないのは、おそらく「ほんとうの自分」という幻想的な「中枢」があって、それに他のすべてが従属している状態を理想として描いているからである。
「ほんとうの自分」とか「自分らしい自分」とか「オリジナルでユニークな、世界でひとりだけの私」というようなものがどこか自分の内部の洞窟の奥に秘蔵されていると思いなしている人間は、たぶん雑多な人格要素がアモルファスに混在している現実の自分をそのまま愛することができない。
誰でも、自分の中に弱さや醜さや邪悪さを抱えている。
それらを「愛する」というのは「どうしてそのような要素が自分の中にあるのか、来歴も知れず、統御もできないけれど、とりあえずそれと折り合ってゆくしかない」と思い切ることである。
自分の中のさまざまな人格的ファクターをゆるやかに包括しつつ「共生する」ということは、自分の脆弱性や邪悪さに「屈服する」ということとは違う。
私たちが隣人をうまく愛せないでいるのは、「自分自身を愛すること」は本能的な行為であり、誰でも現にそうしているという誤った前提に立っているせいではないだろうか。自分自身をうまく愛することができない人間に、どうして「おのれ自身を愛するように」隣人を愛することができるだろう。
「愛する」とは理解や共感に基づくものではない。
むしろ「よくわからないもの」を涼しく受け容れる能力のことである。
おのれのうちなる他者と共生することのできる能力、おそらくはそれが隣人を愛する能力、神を愛する能力につながっている。

翌日はオリエンテーション。
新入生640人を前に、教務部長訓話というものをする。
彼女たちはいわゆる「ゆとり教育」の第一世代である。
「2006年問題」と呼ばれる「恐るべき学力低下」を見込まれている学齢集団である。
でも、静まりかえって私の話を聴いている講堂いっぱいの学生たちからは、そのような雰囲気は感じられない。
諸君、ご入学おめでとう。
諸君がどんな学生なのか、まだわからないけれど、諸君は神戸女学院大学が提供する教育資源を豊かに享受してくれるはずだという「希望」に私は一票を投じたいと思う。
教師が学生に贈ることのできる最良の贈りものは「君たちの知性を信頼している」ということばだからだ。
これからの四年間が諸君にとって豊かな日々でありますように。

投稿者 uchida : 15:16 | コメント (7) | トラックバック

2006年04月02日

吉田城君追悼文脱稿

松本竜介が死んだ。
享年49歳。
毎日新聞の死亡記事には『オレたちひょうきん族』で「売れない方の相方」三人で「うなずきトリオ」を結成して「うなずきマーチ」を出したこともあると書いてあった。
「うなずきマーチ」は大瀧詠一師匠の作品である。
歌手が音程をはずした録音がCDで聴けるレアな例である。
合掌。
隣の死亡欄にはジャッキー・マクリーンが死んだという記事が出ていた。
享年73歳。
私たちの年代にとってジャッキー・マクリーンは何よりもマル・ウォルドロンの『レフトアローン』の冒頭の切り裂くようなアルトサックスのブロウが耳の奥に残っている。
新宿のDIGで1967年にこのレコードを繰り返し聴いた。
その時期に私がいちばん聴いたのはフランク・ウェスの『In a minor groove』とこの『Left alone』である。
いまでもフレーズの断片が聞こえると、DIGの冷房の匂いとショートピースの紫煙と苦い珈琲の味と十代のいたたまれないような苛立ちをありありと思い出す。
合掌。
小田嶋先生が私のブログをTBして下さった。
うれしいことである。
私が吉田城君と日比谷高校ことを書いた記事に寄せて、小田嶋先生はその数年後の都立進学校の高校生の「エートス」について爆笑的エピソードを書いている。
日比谷高校にも小石川高校にも、灘や麻布や神戸女学院にもそれぞれの校風があり、それを一度でも吸った人間は、その残存臭気を消すことができない。
「その残存臭気を消そうとする」否定のみぶりそのものまでが、「残存臭気を意識している」ということを逆証してしまうからだ。
もちろん日比谷高校にも「日比谷高校らしくない生徒」はたくさんいた(私がその代表だ)。
私はぜんぜんスマートではなく、ソフィスティケートもされてなく、ミスティフィケーション抜きの向上心むき出しの「たいへん感じの悪い」ロウワーミドル階層出身の子どもであった。
でも、自分が「そういうふうなことばづかいで類型化される」人間だということは日比谷に行くまで気がつかなかった。
「それのどこが悪い」と居直って、私は校則を破り、教師に噛みつき、同級生を罵倒し、あげくに高校を中退してしまうけれど、これは私が日比谷高校的なものに過剰反応したことの結果であって、私が日比谷高校的なものと無縁であったからではない。
すり寄るにせよ、反発するにせよ、つねに「日比谷高校的なエートス」(それはもちろん幻想にすぎない)との距離をはかりながら自分の立ち位置を決めるときに、幻想が現実を圧倒し始める。
吉田君の追悼文は京大から出る追悼号に掲載される。
吉田君の知友や教え子には配布されるだろうが、京大や仏文学とかかわりのない方はたぶん読む機会がないだろう。
でも私は吉田城君という希有な才能をできるだけ多くの人に記憶しておいて欲しいと思うので、いずれ追悼号が出た後には、このブログに全文を転載しておきたいと思う。
二度目の予告編ということで、今日は改稿した冒頭部分を採録。

吉田城君は1966年に僕が東京都立日比谷高校に入学したときの同期生である。
 でも、僕が吉田君とはじめてことばをかわしたのは高校においてではなく、1969年の1月、入学試験の数日前の京都大学構内でのことである。
その年、東大の入試が中止になり、日比谷高校生たちの半数ほどが京都大学に受験にやってきた。僕はその前年に品行不良で退学させられたのだけれど、秋に大学入学資格検定に合格して、なんとか同期生たちと同時に受験するのに間に合った。僕は単身で京都に行ったが、日比谷の諸君は何人かづつ連れだってやってきた。その中に新井啓右君がいた。
新井君が同期で最高の知性であることは衆目の一致するところだった。いずれ新井君が同時代日本人の中でも最高の知性であることを学術の世界か政治の世界で証明するだろうと同期生はほとんど確信していた(惜しいことに、彼は東大法学部の助手のとき二十七歳で急逝した)。
 僕はなぜか新井君と仲が良かったので、受験会場の下見にゆくときに新井君のグループに加えてもらった。その中に吉田城君がいた。それが吉田君と個人的にことばをかわした最初である。
そのときに彼とどんな話をしたのか、何も覚えていない。なにしろ四十年も前のことだし、僕たちが京大構内に足を踏み入れるなり、火炎瓶が飛んできて、話にも何もならなかったからだ。粉雪の舞う曇り空にオレンジ色の焔の尾を引いて火炎瓶が放物線を描いて飛んでゆく時計台前の風景はなんだかやたらにシュールで、大学受験というような切実な話とぜんぜん無縁のもののように思えた。
「受験はほんとにあるんだろうか?」と僕たちは近くの喫茶店で話し込んだような覚えがある。いつものように新井君が怜悧で落ち着いた声で「いや、やるでしょう。そりゃ」と断定してくれて、一同はほっとした様子だったが、僕は内心「試験なんかなくなればいいのに」と思っていた。高校二年で学年最下位にまで成績が下がり、その後も十六科目も受験科目のある大検のせいで、受験準備が大幅に遅れていた僕は「だめもと」の京大受験だったからである。

以上、予告編終わり。
予告編なのに吉田城君がほとんど出てこないな。
この同じ年に高橋源一郎さんも京大を受験している。
前にも書いたけれど、もし69年に私と高橋さんが何かの間違いで京大に受かっていたら、吉田君のその後の学者としての業績はあれほどブリリアントなものにならなかったのではないかという気もする。
だって、絶対邪魔しに行ったからね。
「よしだくーん。勉強なんかいいから、デモ行こうよ」


投稿者 uchida : 17:00 | コメント (1) | トラックバック

浜寇来襲

スーさん率いる甲南麻雀連盟浜松支部が合気道稽古を兼ねて隊伍を為して芦屋に乱入してきた。
思えば昨夏、浜松軍団の城崎温泉「出石でそばくって城崎で温泉入って麻雀やりましょツァー」に単身参加し、開幕早々スーさんに国士をぶち当てて、ぼろぼろの戦績で芦屋に帰り着いた私のトラウマこそが甲南麻雀連盟構想の発端であった。
一応、私とスーさんは学問上の師弟関係であり、武道上の回り杯的には「大叔父−孫」関係であるので、甲南麻雀連盟の会長は(たとえ一敗地にまみれたとはいえ)私であり、スーさんはその浜松支部長。ヒエラルヒーは厳然として動かし難いのである。
しかし、その浜松支部の雀力侮りがたいものであることは、城崎で苦杯を喫した会長の骨身にしみている。
あちらは数年来年間40日卓を囲んで切磋琢磨されているのである。
こちらは月次例会を基本とし、会発足後に麻雀牌をはじめて握った会員いくたりかを擁する。
基礎的雀力にいささかのディスアドバンテージを認めざるを得ない。
とはいえ、ホームに迎え撃つ以上はそれなりの戦いぶりを示さねば。
しかし、結果は惨憺たるものであったことを悲しみとともにご報告せねばならない。
最初の半荘、西入りオーラストップであった私が最後の最後にスーさんに僅少差でひっくり返されて、「かちん」と来たところから日頃は精密機械のようにびしびしと上がりを決めてゆく私の打牌が微妙に乱れた。
国士のトラウマがまだ尾を引きずっていたのかもしれない。
会長以下、甲南麻雀連盟総崩れ状態となり、終わってみれば、二卓でのべ10半荘を行い、やいりくん4戦3勝、スーさん3戦2勝、おのちゃん3戦1勝、よっしい3戦1勝と、浜松支部が10戦のうち7つを制して圧勝を収めたのである。
弱雀次郎は(もちろん最初から戦力として期待していたわけではなかったが)さらに連敗記録を伸ばして第一期より通算12戦0勝。
一番乗りで駆けつけたヒラオくんも前期勝率一位のワタナベくんも麻雀ガールズも、気合いは十分であったがあえなく未勝利に終わり、わずかにホリノ社長とだんじりエディターと会長が一矢を報いたにとどまったのである。
スーさんご一行は「ぐふふふ。ふふふ。いつでも相手になりますぜ。がはははは」とわれわれの肺腑を抉るような勝ちどきを挙げて西宮方面に去っていった。
くやしい。
この四月一日の屈辱を永代にわたって魂に刻みつけるために、四月一日を「浜寇の日」と名づけることにした。
それはともかくスーさん「うなぎ」ごちそうさまでした。
小谷田さん、多田さん、せっかく遠路はるばる来て頂いたのに、騒がしくてゆっくりお話もできずに、すみませんでした。

投稿者 uchida : 12:36 | コメント (6) | トラックバック

2006年04月01日

花冷えの京都観仏ツァー

釈徹宗老師と「京都観仏ツァー」。
2005年度後期の「現代霊性論」の課外授業。
履修した学生たちと釈先生の他大学での受講生や京都新聞の記者さん、本願寺の“魔性の女”フジモトさんなど多彩な顔ぶれで総勢23名が参加(フジモトさんはお昼になったら自転車でオフィスに帰ったけど)。
京都駅集合、観光バスでまず九条の東寺へ。
東寺は平安京の羅城門の東にあった呪鎮の寺である。
羅城門と西寺ははやくに消失したが、東寺は空海の真言宗の根本道場として残って、今日に至っている。
東寺のハイライトは五重塔(四回落雷で焼けて、いまは徳川家光寄進の五代目)と講堂の「立体曼荼羅」。
特別拝観なので、ふつうは入れない五重塔の中に入れてもらって、五重塔の構造と内装について解説を伺う。
五重塔の心柱が石の上に「乗ってるだけ」って知ってました?
他の構造体とつながってないので、上から引っ張ると抜けちゃうらしい。
瓦の重みや木材の収縮で塔自体は下に下がってゆくのに、心柱は長さが変わらない。
放っておくと五重塔から心柱だけ突き抜けてしまうので、時々心柱を切って、建物の本体との高さを合わせているのだそうである。
建立以来1200年。落雷で焼けたことはあっても地震で倒れたことはない。
たいへん高度な技術である。
今日本のゼネコンが作っている建物で、1200年後にまだ立っている建物があるだろうか?
私はありえないと思う。
建築技術の問題以前に、「1200年間その建物が存続することを人々が望み続けるような建物」を想像する力が私たちにはもうない。
次に講堂の立体曼荼羅(このタイプのものは世界でここに一つあるだけだそうである)。
「東方降三世、南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉明王、中央大聖不動明王」というのは『船弁慶』や『安達原』や『葵上』で僧や山伏たちが唱える呪文であるが、そのままに明王像五体が並んでいる。
平安時代には、明王たちを招来することで祈り伏せられる魑魅魍魎がたしかにこの王都には存在していたのである。
仏像は美術品や鑑賞対象ではなく、本来は霊的経験への実践的な導入手段である。
これを熟視し、トランス状態に入ったときの平安の僧たち行者たちがどのような霊的異変を経験したのか。
それを想像すると背筋がすこしざわざわしてくる。
次は三十三間堂。
1001体の千手観音と二十八部衆プラス風神雷神。
二十八部衆の造形がすばらしい。
これほどオリジナルで自由闊達な発想とそれを実現する技術が日本にかつては存在したのである。
三十三間堂の外の荒涼たる現代建築との落差を見ると、日本人が時代が下るにつれて、創造力も想像力も失っていったということがよくわかる。
お堂で身体の芯まで冷えたので、南禅寺で湯豆腐を食べて、釈先生と昼酒を酌み交わし、ほろ酔いで宗教的経験とは何かについてお話。
そのままJR大阪駅でお別れするまでしゃべり続け。
この続きは朝カルで。

投稿者 uchida : 09:59 | コメント (0) | トラックバック