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2004年11月30日

私は今日も忙しい(@宇野千代)

11月29日

ひさしぶりに下川先生のお稽古。
一月ぶりに神楽の稽古をするが、道順をすっかり忘れてしまい、先生にきっちり絞られる。
しかし、このあいだの甲野先生の講習会で、足の運びについていろいろと貴重なご教示を頂いたので、それを何とか能の運足に応用したいものである。
謡は『葵上』に入る。

下川先生に来期から教務部長を拝命したので、もうサラリーマンですう・・・と泣き言を言う。
それは気の毒な、では稽古にはあまり詰めてこなくていいですよ・・・というような甘いことを言う師匠ではないことはもちろん先刻承知の上での愚痴だったのであるが、下川先生顔色もかえずに「あ、そうですか」とすたすたと二階に上がり、しばらく戻って来られない。
どうしたのかしらと思ったら、ややあって下りてきて、「休まず稽古にこられるように、オフの水曜日に稽古日を振り替えておきました」とすました顔で稽古日程表を差し出されたのである。
まことに、やさしい師匠である。
墓穴を掘ってしまったような気もするが。

走って大学へ。
ユダヤ文化論の講義。
講義ノートが間に合わず、口からでまかせ90分となる。
話すことはたくさんあるのだが、それをまとめたり、配布資料を作ったりしている時間がない。
一日が32時間くらいないと、とてもじゃないけど生きてゆけない。

走って体育館へ。
7時まで杖道の授業とお稽古。
タカモトさんとベトナム在住のお友だちが見学に来る。
ジャック以来の橘さんのお知り合いだそうである。
なんだか、どこにいっても「橘さんの古くからの友だちなんです・・ふふ」とほほえむ妙齢のご婦人にお会いするような気がする。
いったい、橘さんという人はどんな生活をしている方なのであろう。

さて、池上先生からの贈り物はなんでしょうクイズには全国津々浦々から三通のご回答が寄せられたが、なんとその中の一通が正解であった。
正解は「尺八」。
誤答の中には「浣腸セット」というラディカルなものがあった。
池上先生が妙齢のご婦人たちにそんなものを贈るはずがない。
「松本のいたずら王」というネーミングにひっかかってしまったのかもしれない。
とにかく全員が尺八と教則本を頂いて、家に持ち帰って各自鋭意修行に励むように命ぜられたのである。
おもしろいおじさんでしょ?

フジイくんのおはからいで、イベント情報がこの頁から見られるようになった。
左側の「event」のところをクリックすると、ウチダ関連の最新イベント情報が見られる。
12月もいろいろあるなあ(sigh)

投稿者 uchida : 10:59 | コメント (1) | トラックバック

2004年11月28日

松本の「いたずら王」

11月28日

池上六朗先生との対談本『Right time right place』の最終セッションのために、松本へ。
同行はプロジェクトのプロデューサーである三宅安道先生。
伊丹から飛行機で松本まで、45分。
プロペラ機なので、たいへんカジュアルな感じの旅行である。
ほい、と飛び乗って、あらよ、という感じで信州に着く。
空港には池上先生ご夫妻、毎日新聞の中野さん、赤羽さん、最上さん、それにハナちゃんと呼ばれる若い衆がお迎えに来てくださった。
さっそくまずは「唐松」という名代のそばやでお昼ご飯。
池上先生お薦めの「鴨せいろ」を頼んだら、一緒にビールが出てくる。
「先生、まだ午前中ですが」と時計を見たら12時3分過ぎ。
じゃ、まあいいか・・・とグラスを差し出したら、「今回は仕事ですからね!」と三宅先生が怖い顔(あまり怖くない)をしている。
池上先生はぜんぜん気にしないで、わはははとビールを飲んでいる。
三宅プロデューサーの現場統括はプロジェクト開始後、わずか15分で瓦解したのであった。
その後、車で秋の梓川を眺めながら、上高地の入り口にあたる沢渡村の温泉旅館へ投宿。
旅行雑誌の豪華カタログでしかお目にかかることのできないような、瀟洒な旅館である。
部屋数わずかに8室で各室の庭に「プライベート露天風呂」がついている。
女将が池上先生の患者さんなので、私たちは「特別待遇」である。
私はレストランやホテルなどで、他人が常連面をして、特別待遇を受けているのをみると、むらむらと殺意を禁じ得ない狭量な人物であるが、自分が特別待遇を受ける場合には、「そういうことも、あるいは、あってもよいのかもしれない」と粛然と受け容れることにしている。
運命に逆らってはいけない。
対談は午後2時過ぎより始まり、午後5時半まで、和気藹々のうちに進行し、これまでのものと併せて本一冊分のデータが集積された。
「では、このへんで」と打ち上げ、心配そうな三宅先生の愁眉も晴れ、最上さんご持参の越乃寒梅無垢(某会会長から某組総長のもとに毎月届けられる70本のうちの一本である。どういう経緯でそういうものがここで開封されることになるのかについては、もちろんこんなところに書くわけにはゆかない)。
そのまま夕食に雪崩れ込み、山海の珍味を食しつつ、生ビール、ワイン、日本酒などをくいくいと酌み交わし、最上さんの「爆笑・あっとおどろく渡世の裏街道」話に興じる。
食後突然池上先生から「不幸の手紙」ならぬ「不幸の贈り物」が下賜される。
一人一個ずつB4版のプラスチックケースが配られ、おそるおそる中を開けると・・・
そこには「誰の想像をも超えたもの」が収納されていたのである。
しばらく全員神妙な顔をして「正しい呼吸法」や「五穴」「七穴」の違いなどについて池上先生からレクチャーを受ける。
さて、池上先生が私たちに贈ってくれたものは何でしょう?
メールでご回答ください。正解者はこのHPでお名前を紹介し、「すごい想像力!」という賛辞をお送りします。
温泉に入ってから湯上がりに、最上さんに背骨の歪みを直していただいて爆睡。

朝8時まで寝て、朝風呂(もちろんプライベート露天風呂)からアルプスの青い空と冬枯れの山の景色を満喫する。
朝ご飯のあと、今度は三宅先生にさわっていただき、さらに身体がぐにゃぐにゃになる。
松本に戻る途中、「翁」というそばやでおろしそばを食べる。
ここでも当然のように池上先生が「お酒ください」。
おじさんたち三人(私と三宅先生と最上さん)は「ああ、堕ちてゆく、堕ちてゆく・・・」とつぶやきつつ、誰一人抵抗することできぬままに冷酒とそばって合うよね、ほんとこの辛味大根がいいよね的な12時3分過ぎにしてはいささか(かなり)自堕落な会話のうちに崩れ落ちる。
松本の池上研究所に戻ってから、今度は全員が池上先生の治療を受ける。
私は数週間前からの右手尺骨の疼痛が肘関節の亜脱臼が原因であることを教えていただき、その痛みが嘘のように快癒。
ありがたい。
しばし歓談ののち、ふたたび車で飛行場へ。
みなさんとの別れを惜しみつつ、三宅先生ともども機上の人となる。
ああ、面白かった。
みなさん、お疲れさまでした。愉しかったです。
それにしても池上先生という人は、ほんとうに痛快な方である。
「快男児」ということばはもう死語に近いけれど、初夏の風のように自由奔放で、暖かく薫り高い池上先生のもたらす空気を形容するのには、このことばがいちばんふさわしいような気がする。
池上先生のようなすばらしい人との縁を結んでくださった三宅先生に改めて感謝。


投稿者 uchida : 20:29 | コメント (1) | トラックバック

2004年11月27日

金曜日にはアナグラム

11月26日

珍しく会議のない金曜日。
授業を一つ終えたあとに、家に戻って、「学報」の原稿(締め切りを一月ほど過ぎていた)を書いて送稿してから、本日の朝日カルチャーセンターのネタ仕込みをする。
夕方6時半から始まる講演のネタ仕込みを午後2時から始めるというのは職業倫理上かなり問題なのであるが、「時間論」などという大ネタを振ってしまったために収拾がつかなくなってしまったのである。
私はつねに「収拾がつかない状態」を作り出して、それをなんとか収めるためにパフォーマンスを亢進させるという「火事場のバカ力」頼みで人生を生き抜いてきたので、そういう状況に自分を追い込まないと脳が活性化しないジャンキー状態になってしまったのである。
しかし、ジャンクな人間に世間はそれほど寛容ではない。
そろそろこのライフスタイルも改めねば、いずれ恐ろしいことが起こるであろう。
なんとか40分くらいはしゃべれるネタを仕込んだところで、疲れて昼寝。
5時過ぎに目覚めて、熱いシャワーを浴びて、「よっっしゃあ」と気合いを入れて肥後橋の朝日新聞社へ。
落語家はいいよな。
『火炎太鼓』とか『唐茄子屋政談』とか、「同じ話」を聞きにお客が来てくれるんだから・・・とつい愚痴をこぼす。
こちらは毎度「新ネタ」をおろさないといけない。
たぶんお客さんは、前回と同じネタでも、にこやかに笑って聞き流してくれるんだろうけれど、芸人の「業」というか、「こいつ、いったい何の話をするんだ・・・こんなマクラを振って、どこに落とす当てがあるんだ」という私自身の不安に聴衆のみなさまをも巻き込んで、「一緒に不安になる」というスリリングな瞬間がないと、芸人ははやっている甲斐がない。
わずか90分の講演だけれど、まさに「骨身を削る」ような感じなのである。
用意したネタは40分くらいしかないので、とにかくあとは「マクラ」の小噺を必死で引き延ばす。
ぴったり90分で、話が終わったけれども、最後の方は「次回のおたのしみ」でつないだ。
来月には、それなりの準備をしないといけない。
そんな時間があるのだろうか。
あるはずないから、またきっと次回も前日に必死になってネタを仕込むことになるのであろう。
しかし、この自転車操業的朝カル講演も来月でおしまいである。
次回は12月24日。
クリスマスイブに私の講演を聴きに来る方というのも、生活設計にいささか問題があるのではないかと思うが、私とてそのようなことを言える立場ではない。
最終回はレヴィナス『時間と他者』のウチダ的しっちゃかめっちゃか読解の予定である。
たぶん人前で必死にしゃべるというのは、来月が最後になるであろう。
というか、人前で必死にしゃべるような状況を設定しない限り、『時間と他者』を解読するようなエネルギーは湧かないし。
その意味では朝カルに場を与えて頂いたのは、ありがたい機会ではあったのである。

恒例のプチ打ち上げ宴会で、大阪駅前ハービスエントの「あげさんすい」へ。
今日のメンバーは本願寺のフジモトさんと「芦屋系」の右田さんと街レヴィのコバヤシさんと、いつものウッキー。
「あげさんすい」はRe−setの橘さんが今月開店した新しい和食の店。
場所が場所だけに、行きのタクシーの中で「すげー高いから覚悟しておくように」と一同に申し渡しておいたのであるが、天ぷらフルコースのあまりの美味しさに、ことばを失って、ことばを失うついでに節度も失って、がぶがぶワインを飲み、日本酒の杯を重ねる。
外は雨。

投稿者 uchida : 01:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月25日

親孝行をしたら、いいことがあった

11月24日

母が来る。岡山の伯母と東京の叔母と三姉妹で神戸のメリケンパークオリエンタルに一泊、それから有馬温泉に一泊、母と叔母はそのあとさらに京都で遊んで帰るそうである。
三宮の懐石料理屋で、従兄のツグちゃん夫妻とご接待(といっても、ツグちゃんのおごり。こういうとき年下の従弟というのは、いくつになっても、「あ、ごちそうさま」で済むので気楽である)。
本当は翌日ホテルから有馬まで車でお連れする予定だったのであるが、24日は東京で仕事があることを忘れていた。
三宮で伯母たちをお見送りして、Re−setでちょっとくつろいで、国分さんとおしゃべりしてから帰宅。

本日はお茶の水の山の上ホテルで橋本治先生との対談である。
来春刊行のちくまプリマー新書の執筆陣にまぜていただいたので、新書の企画者であり、第一回配本の著者でもある橋本先生と、名誉ある新書ナンバー002号を賜った不肖ウチダが、新書刊行奉祝対談というものを行うことになったのである。
橋本治先生といえば、わが青春のバイブル『桃尻娘』の著者であり、ライフワーク『桃尻語訳エクリ』を奉じて「橋本治共和国」の文部大臣の席を得んと猟官活動をしたこともある、わが永遠のアイドルである。もちろん初対面。
緊張して1時間も早く会場に到着して、うろうろ。
定刻の4時に橋本先生登場。
前夜は一睡もせずに原稿書きで、明日までにさらに35枚の原稿を書かねばならないという切羽詰まった状態で対談にお迎えすることになった。
洛陽の紙価を高めた『窯変源氏物語』9000枚をはじめとする180余の名作の著者を前にして、私ごときが「忙しい」などと愚痴をこぼすのは「百年早い」というものである。
橋本先生は「好きな仕事しかやらない」という断固たる方針を貫かれている方であるから、失礼があれば、ただちに席を立たれて「ぼく、帰る」ということにもなりかねない(現に、最近もそういうことがあったそうです・・・と筑摩の担当者から脅かされたのである)
しかるに、私は著作を通じて橋本先生をよく存じ上げているのであるが、先生は私のことをほとんどご存じない。
とりあえず「怪しい者ではありません」ということをご納得いただかねばならない。
私は初対面の方に「いやな野郎だ」と思われることについては定評があるが、「感じのいい人だな」と信じていただいたことについては、あまり実績がない。
さらに困ったことに、橋本先生は「大学教授」とか「現代思想の専門家」というようなものをあまり信用されていない(その点では私とも同意見であるのだが)。
私はいわば「二重苦」を背負っているわけである。
どのような話題であれば、私が「怪しい者でない」ことがおわかりいただけるであろうか、あれこれの話題をひとわたり当たったところで、『アストロモモンガ』の文学史的意義を私が「私見ながら・・・」と申し上げたあたりで、ようやく橋本先生の警戒心がほころびた。
『デビット百コラム』や『ほらシネマ』まで熟読している「現代思想専門の大学教授」などというものが希少種であるということがおわかりいただけたのであろう。
やはり丹下左膳にはアントニオ・バンデラスしかありませんな、というような話題になってからは順調に話が弾み、学ぶことの意味、「思考の体力」、「夕焼け小焼け」をめぐる回想、戦後民主主義の光と影、『桃尻娘』の説話的構造、1960年の思想史的意味、歌舞伎の能の比較論などなど、橋本先生にぜひお聞きしてみたかったことの数々について望外の教えを賜ることができた。

041124-205226.png 橋本治さんとツーショット

あっというまに4時間が経ち、新幹線の終電ぎりぎりの時間にタクシーに飛び乗る。
まだまだお話したいことが多々あり、「また次回をセッティングしてください」と筑摩のお願いしてホテルを後にする。
この対談は筑摩書房のPR誌に掲載されるそうであるが、4時間話した分のほんの一部しか採録されないので、「単行本にして出しましょう」という話になる。ぜひともそうお願いしたいものである。
これで高橋源一郎さんに続いて、「ウチダの5大アイドル」のうち二人から辱知の栄を賜ったことになる。
これも、もとはといえば、『ためらいの倫理学』という本を冬弓舎の内浦さんが酔狂にも本にしてくれたおかげであるし、そのもとをただせば、増田聡くんがホームページにリンクを張ってくれたおかげである。
新幹線車中より京都方面、市川方面に合掌。

投稿者 uchida : 09:56 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月24日

インタビュー心得

11月23日

アンケートを私は信用しないということを書いたら、珍しくコメントがいくつかあった。
いずれも傾聴に値するご意見であった。
どうもありがとうございます。
コメント欄にサインインできないので(どういうわけか書くと拒否されてしまう。もしかするとパスワードを忘れたせいかもしれない)本文にお礼を書かせていただきます。
オーナーがコメントできない掲示板というのも考えものである(って、私が悪いんだけど)
インタビューでも、へぼなインタビュアーだと「期待の地平」からはずれることがないというのはまったくご指摘の通りである。
インタビュアーの質は、面接を受ける側にまわると、はっきりわかる。
あらかじめインタビュイーに「言わせたいこと」を決めてくるのが最低のインタビュアー。この種の人々は、話が脱線することを嫌い、「そういえば、関係ない話ですけど…・」とこちらが逸脱をはじめると、露骨にいやな顔をする。
しかし、この世に「関係ない話」というものは存在しない。
一見関係なく見えるトピックのあいだには必ず見えないリンクがある。
フロイトが『日常生活の精神病理学』で説明してくれたように、固有名詞をど忘れする場合、そこには必ず抑圧が働いている。
別にその固有名詞そのものが抑圧すべき心的過程であるわけではなく、その固有名詞が「リンクしている」何かが忘れられることを求めるのである。
その結果、「忘れようと思っていたことは忘れることができず、かえって忘れるつもりのなかったことを忘れてしまう」という仕方で「ど忘れ」は発症する。
「関係ない話への逸脱」は、この「ど忘れ」の行程を逆にしたものと考えることができる。
あるトピックについて語っているうちにふと「関係のない話」を思い出す。
それは、「関係のない話」のコンテンツにぜひとも語られねばならないような必然性があるわけではない。
そうではなくて、その「関係のない話」が、他ならぬそのときに、他ならぬその文脈で思い出されたことに必然性があるのである。
一つのシニフィアンがそれに磁石に引きつけられるようにしてすり寄ってくる別のシニフィアンを呼び寄せたり、追い払ったりする仕方のうちに、ひとりひとりの人間の思考の独自性はある。
ひとりの人間の思考の個性は、いわばそのひとがどんなふうにものを忘れ、どんなふうに関係ない話を思い出すか、この正負方向を異にする二種類の力学のうちに存している。
だから、インタビューの核心部分は、インタビュイーが当然知っているはずのある固有名詞に詰まったときと、話頭が突然転々しはじめたところに存するのである。
そこがインタビュイーの「欲望のアドレス」である。
インタビューとはつきるところ、問いかけが回答者の「欲望」を解発することができるかどうかにかかっている。
だから適切に行われたインタビューでは、しばしば精神分析の「転移」に似た現象が起きるのである。
女優が取材に来たジャーナリストや対談した作家と結婚したり、女子アナとプロスポーツ選手が結婚したりすることがしばしばあるのは、インタビューというものが適切になされると、欲望が活性化するという分析的事情をよく表している。
それらの出会いのきっかけになったインタビューでは、インタビュアーは取材的な対話の中で、ふいに「関係のない話」への逸脱がはじまったときに、そこに聴き取りのリソースを集中することを選択することで、おそらくインタビュイーの「欲望のありか」にまでたどりついてしまったのである。
おっと、インタビューの要諦のついでに、結婚の要諦まで教えちゃった。
未婚の諸君はよろしく拳々服膺するように。


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2004年11月23日

アンケートって、そういえばフランス語

11月22日

「ユダヤ文化論」の講義。何を話すのか一応決めて教場にゆくのであるが、毎回どういうわけかその話をせずに、その場の思いつき話をしてしまう。
昨日は日猶同祖論から猶スコ同祖論(ユダヤ人とスコットランド人は同祖であるという物語)の話に転がって、ブラック・セミノール族はどうしてアフリカ系であると言わずにネイティヴ・アメリカン系であると称するのかという話から、ヴィシー政権の話になって、複雑系とバタフライ効果の話になって、最後はフランス革命陰謀説になって時間切れ。
この流れからすると、来週はオーギュスタン・バリュエルとか聖堂騎士団とかセルゲイ・ニルスとかロシア秘密警察とか、そういう話になりそうな気もする。
ことがユダヤとなると、どうしてもこういう「怪しい話」が続々出てきてしまう。
学生さんたちは必死でノートを取っていたが、あまりノートを取るような性質の話ではないような気もする。
さらっと聞き流してね。

神戸女学院の人間科学部の学生があちこちの「ネット日記有名人」(そういうものがいるらしい)に、卒論研究の資料にしたいので、アンケートにお答えくださいというメールを出したら、どうもよほど失礼な書き方をしたらしく、人にものを頼む礼儀がなってないというお怒りの声が二三の日記に掲載された。
困ったものである。
ネット上でいま神戸女学院のことが話題になってますよ、とお知らせ下さった方があり、人間科学部の事務室に問い合わせて真偽を確かめたら、すでに事務室には抗議のメールが届いていた。
そのときの調べでは、学生に該当する卒論テーマのものがおらず、もしかしたら大学の名前を騙ったいたずらかなとも思ったのであるが、うちの学生が指導教員の許可を得ずに行ったものであることがその後判明した。
どういう趣旨の調査であるかを明記せず、ゼミの名前も指導教官の名前も出さずに、見ず知らずの人にアンケートを頼むというのはたしかに失礼な話だ。
このすぐに「アンケートを取る」という調査のスタイルがどうも私にはよくわからない。
私のところにもさまざまなアンケートが来るし、私のゼミ生でも、何かというと「では、アンケートを取って…」ということをいい出す学生がいる。
よほどこの調査方法の有効性について信憑が根づいているのであろう。
学校教育のどこかの段階で「アンケート調査の有効性」ということを教えているのかもしれない。
だが、私が経験したほとんどのアンケート調査は、設問のうちにすでに調査者が求めている「答え」が透けて見えるものであった。
自分がすでに知っている答えを補強するために、他人を「ダシ」に使うという姿勢を私は好まない。
私が卒論研究の学生にはアンケートではなく、インタビューを薦めている。
インタビュイーは必ずインタビュアーの用意したフレームを外れることを言い出すからである。
調査研究を通じてある問題についての理解を深めたいと望むなら、「自分が聴く用意のなかったこと」を言い出す人間に出会うことが必要である。
その必要性がわからない人間は、どれほどの時間を費やしても、結局、「勉強」から「研究」へのテイクオフを果たすことができない。
アンケート調査であちこちの人を怒らせたこの学生の問題は、「自分の常識」の汎通性を過大評価した点にある。
自分にとっての「ふつう」が他の人々にとっても無条件に「ふつう」で通ると思ったことにある。
自分の常識の汎通性を過大評価することを「無知」と呼ぶ。
大学卒業前に、そのこと一つだけでも学んだのであれば、以て奇貨とすべきか。


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2004年11月22日

美山町で松茸を食べる会

11月20日

稽古でさっそく甲野先生直伝の「垂直離陸」「空中で遊びを取り」「追い越し禁止で力を伝える」技法をさまざまな合気道技に応用してみる。
入り身投げへの応用がなじみがよいらしく、みなさんの技の質が一変する。
「遊びを取る」ということばの意味する身体感覚がこれまでなかなかぴんとこなかったが、ようやく「こういう感じかな…」ということがわかってきた。
多田先生がときどき「生まれてからずっと、この形だと思って…」という比喩を使われることがあるが、そのときの体感に近いような気がする。
「うまれてからずっとその形をしている身体」というのは、どこにも力みや詰まりがあるはずのないものである。
起源の身体、あるいは究極の身体と言ってもよい。
私たちのふだんの身体運用はその「原型的身体」を無数の関節で分節し、折り曲げ、たわめ、濃淡をつけて使用しているわけだけれど、そのような「操作」には多くのエネルギーが必要だ。
それを瞬間的に「起源の白紙状態」に戻す。
「白紙」というのは、「身体がその状態で維持されるためにエネルギー消費が最少の状態」である。
つまり、身体を保持したり、バランスを取ったりするためのエネルギーのランニング・コストがゼロに近いために、そこで発生するエネルギーが(原理的には)すべて外部に向けて「投資」できる状態、ということである。
浮きをかけて身体が中空にあるときに、瞬間的にその「白紙状態」が生成する、というのは、理屈としてはたいへんよく理解できる。
もしかすると、意拳の站椿で練っている身体もそういうものか…と妄想をたくましくする。

あれこれしているうちにあっというまに時間が経ち、京都美山町に「松茸を食べに行く会」に出発。
毎年、「秋には松茸を食べにいらっしゃい」と誘われているのだが、これまで秋の美山町に行く機会がなかったのであるが、今回はもののはずみで私が小林家所有の京都市内のマンションを周旋したために、すぎちゃん・ゆきちゃん姉妹と隣組になったミヤタケ夫妻を同行してご挨拶に伺うことになったのである。(ややこしくて何の話かみなさんにはおわかりにならないであろうが、スルーしてください)
宝塚から中国道に入り、吉川インターで舞鶴道に乗り換え、綾部で降りて、27号線を京都へ向かう。
3時に大学を出て、山陰線和知駅に5時に到着。ここでミヤタケ夫妻をピックアップ。
ミヤタケのご夫君ウエダさんとは初対面。長身痩躯温顔の好青年である。
車中でわいわいしゃべりながら真っ暗な道を走って、美山町へ。
小林家の台所に腰を据えて、さっそく吟醸酒、ボージョレ・ヌーヴォーなどをいただきながら、松茸の茶碗蒸しからスタート。春巻き、青梗菜、風呂吹き大根など次々と食べ散らし、最後は松茸ご飯で締める。
美味なり。
11月の美山町はもう初雪の気配。
薪ストーブを囲みながら、談論風発。美山町の夜はしんしんと更けて行くのであった。


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2004年11月19日

甲野善紀先生の講習会

11月19日

甲野善紀先生の講習会。1年ちょっとぶりの女学院登場である。
昨年、NHK「人間講座」のビデオ撮りのときに、甲野先生の受けを取るために東京のNHKスタジオでお会いしたのと、龍谷大学でのシンポジウムで岩下徹さんとご一緒したあと、しばらくお会いする機会がなかった。
NHKの「人間講座」に私は後ろ姿で登場していたのであるが、気がついた方はあまりおられないであろう。
今回は久しぶりに3時間余り、岡田山で甲野先生の最新の術技をご披露頂いた。
私も甲野先生に極められたり、倒されたり、飛ばされたり、持ち上げて頂いたり、たっぷりとその妙技を、身を以て体験させて頂いた。
甲野先生といい、光岡英稔先生といい、当代の武道の達人の技を間近で堪能できる機会に恵まれる点で、ウチダはまことに武道運の強い人間である。
私が異常に武道運が強いということは、「最近、運動してないから、腹出てきたなあ…」という悲しいほどプラクティカルな理由で、たまたま家から一番近い武道の道場に入門したら、多田宏先生の直門の弟子になってしまったという時点からすでに明らかである。
どれほど身体能力が高くても武道運の悪い人もいるし、私のように、身体能力は平均以下でも、武道運だけは超人的に恵まれている人もいる。
ほんとうは合否判定教授会、人事教授会と、本務多繁な折りではあったのだが、私がいなくても同僚のみなさんが適切なるご判断を下されるものと信じて、教授会はお休みさせて頂いた。
私ひとり楽しい思いをさせて頂いて、すまない。
それにしてもまことに充実した一日であった。
甲野先生からは「追い越し禁止」、「袈裟斬り」、「極短距離走」など、これから後の合気道と能楽での稽古の課題を抱えきれないほど頂いた。
多田先生は二十歳の頃に経験した植芝盛平先生の受けの体感を半世紀にわたって絶えざるレフェランスとされたわけであるが、私はその多田先生の受けを二十代、三十代に取らせて頂き、さらに甲野先生、光岡先生、さらには池上六朗先生と希代の達人の妙技に肌で触れる機会に恵まれ、そのすべてを生涯にわたるレフェランスとして参照することができる。
まことにありがたいことである。
講習会には、「京大合気道部の至宝」赤星くんがますますパワーアップして登場。意拳修業で鍛えた赤星くんには、もうまるで歯が立たない。
こうなると赤星くんと「東大気錬会の至宝」工藤くんのガチンコを一度見てみたい。
工藤くん、こんど来て、私にかわって赤星やっつけてね(でも赤星って、100キロあるから。自分では「体重計に載らないから体重わかりません」とか言ってたけど)
でも、その赤星くんをつくば大学の高橋佳三くんは軽々と抱えていたし。
未来ある若い人たちにはかないません。
合気道部の諸君も、講習会に参加されたみなさんも、甲野先生の術理の妙を堪能されたことでありましょう。
すてきなパフォーマンスをしてくれた仏大の川野さん、介護技法いきなり体得の「えこまの部屋」の福井さん、雑穀パンを焼いて下さった小池さん、東京から来て下さった鈴木さんはじめ遠いところから来て頂いたみなさん、どうもありがとうございます。
いちばんたくさん受けを取ったドクター。健ちゃん、谷口さん、谷尾さん。スタッフの合気道部のみなさん、てきぱきと幹事役をこなしてくれたウッキー、みんなご苦労さまでした。
ほんとうに愉快な一日でした。
なによりお忙しい中、女学院のために一日を割いて下さった甲野先生ありがとうございました!
また来て下さいね。

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ひさしぶりの甲野先生&飛雲閣で考えたこと

11月18日

朝から授業が二つ。終わって事務室でコーヒーをのんで休憩していると、松田先生が「研究室の前に人だかりがしてましたよ」と教えてくれる。
しまった、今日がゼミ面接最終日であった。
あわててかけつけると、学生さんが廊下にひしめいている。
すでに60名近く面接しているのに、この上さらに…と一瞬眩暈がする。
しかし最終日であるので、いくら時間がかかっても、全員と面接するしかない。
おっしゃあ、と気合いを入れてかたっぱしからインタビューしてゆく。
3時間半かけて25人の面接を終えると、時計はすでに6時を回っている。
6時半から朝カルで甲野善紀先生の講習会があり、それに顔を出しますとお約束していた。
4時には面接を終える予定でいたのであるが、なかなか予定通りに人生はゆかないものである。
雨の中、必死でタクシーを乗り継いで、なんとか40分遅れで到着。
甲野先生はすでに「追い越し禁止」術理の実技段階に入っておられる。
甲野先生の講習を拝見するのは、そういえば龍谷大学でのシンポジウム以来だから、約1年ぶりである。
スポーツ、介護関係の身体運用への適用の研究がかなり進んでおられるようである。
これはあるいは現代武術の必然であるのかもしれない。
というのは、武術というのは、現代においては、その有効性の検証のしようがないからである。
平成のご聖代に、刀や槍を振り回して立ち会いをするわけにはゆかない。
誰の武道的術理がもっとも正しいのかということについて、武術の場合、「現場」での検証というものができないのである。
リアルファイトをすればいいじゃないか、と言う方がおられるかもしれないけれど、武術というのは、「兵法」であるから、そもそも3分10ラウンドとか金的蹴りなしとかいう「ルール」というものがない。
それどころか、「じゃ、明日試合ね」と言っておいて、前の晩に相手のナイトキャップに一服毒を盛って殺してしまっても、兵法的にはオッケーなのである。自分の家の中で、敵に毒を盛られるほどに「隙」があるという点で、すでに兵法的には「負け」ているからである。
けれども、そんなことをして勝っても、たちまち長期の懲役刑を受け、三回も勝てば、もう間違いなく死刑である。
その点、スポーツ(格闘技を含めて)や介護やあるいは教育やパフォーマンスのような「現場」では、身体運用術理の有効性や汎用性は検証可能である。
たぶんそのせいであろう、甲野先生の講習会の参加者がかつてのように武道系の人が減って、医療や福祉や学校教育の関係者ではないかと思われる風貌の方がふえてきたような気がする。
21世紀の武術はこういう方向でその社会的使命を果たすことになるのかも知れない。


11月17日

『インターネット持仏堂』のパブリシティ用撮影のために、西本願寺へ。
藤本さんと本願寺出版社の編集長にご案内いただいて書院へ。
書院の濡れ縁で、庭の能舞台をバックに釈先生とツーショット。
『晩春』の竜安寺石庭で、笠智衆と三島雅夫が無表情なまま並んで庭に見入る構図をお願いしたのであるが、カメラマンに笑って一蹴される。
中年のおじさんがふたり見つめ合って、ほほえみを交わしているという方が不自然な気がするのであるが。
撮影のあと、本願寺の書院と国宝の飛雲閣を拝観。
アーキテクチュアもインテリアも、安土桃山的「遊び心」が横溢している。
さまざまな仕掛けや伏線や隠喩がはりめぐらせてあり、建築そのものが「アミューズメント」である。
その多様性と自由自在な発想にびっくりする。
その時代の日本人はいったいどれほどの精神の自由を享受していたのであろう。
これにくらべたら、現代の建築のなんといじけたこと。
現代の建築物の中で、500年後に「わ、面白い!」と後代の日本人を驚嘆させるような遊び心や悪戯な仕掛けをこらして構築されているものが一つでもあるだろうか?
そもそも500年後まで「建っている」建築物が存在するだろうか?
日本は安土桃山時代から以後ずっと没落過程にあるのかも知れない。

編集長のご厚意で、一般のひとは参観できない、飛雲閣の第三層や、離れの湯殿やトイレを拝見する。
飛雲閣は聚楽第から移築したものであるので、お風呂やトイレは豊臣秀吉の「専用」。
せっかくの機会であるので、豊臣秀吉御用達の便器にまたがってみる。
こういう建築物の中を動き回っていると、空間がどのような身体運用を人間に要求するのか、フィジカルに理解できる。
階段にせよ、渡り廊下にせよ、現代日本人の身体運用ではとても太刀打ちできない。
こういうところで暮らしていると、常住坐臥のふるまいそのものが武道や能楽の修業になるのであろう、と深く納得。

投稿者 uchida : 09:24 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月17日

鰻とディセンシーと日猶同祖論

11月17日

『AERA』の取材で、I川記者が来る。
彼は前に村上春樹『アフターダーク』の特集のときにも、インタビューに来てくれた、たいへん「聞き上手」なジャーナリストである。
今回の特集は「ディセンシー」。
「礼儀正しいことは、なぜ生きる上で必要か?」
という、本来小学生に教えなければならないことを、30−40代女性を主なる対象とする『AERA』誌上で開陳しなければならないというのが、この問題の根深さを語っている。
ウチダの説は
(1) 「礼儀正しい」というのは「型通り」ということであるが、「型通り」のルーティンを守ることは、生存戦略上有利である。
なぜなら、ルーティンを守っている人間はそうでない人間にくらべて「いつもと違うこと」の発生を察知する確率が高いからである(地下鉄サリン事件のとき、「毎朝、同じ時間の電車の、同じ車両に乗って通勤しているOLが、『見たことのない不審な風体の男たち』が乗り合わせているのを見て、『なんだか気分が悪くなって』途中下車し、難を逃れた、という故事がある。これこそが「ルーティンの手柄」というものである)。
(2) 「型通り」を「自己表現の断念」というふうに否定的にとらえる人がいるが、「その局面においてもっとも適切な型」を選択できるかどうかは、個人の社会的能力を査定する上で、おそらくいちばん重視されている点である。
「決められた型」を「型通り」に演じてみせるためには、場を構成する人間関係の序列や位階、自分がそこで果たすべき機能を見きわめ、用いるべき語詞、声の音質、身体操作などを適切に選択することが必要であり、そのためには長期にわたる訓練と人間観察が不可欠である。
だから「型を使う」能力を、私たちはその人の社会的能力そのものの指標に取ることができる。
(3) 「礼儀正しい酔っぱらい」(polite drunk)はレイモンド・チャンドラーから村上春樹、矢作俊彦にいたる「ハードボイルド」物語群における「キーパーソン」である。
「酔っぱらい」というのは自己防衛能力が極端に低下した状態であるが、このときに利己的にふるまうことを自制し、なおポライトネスを維持できる人間の「社会的能力の高さ」に対して「汚れた街の騎士」たちは敬意を禁じることができないのである。

(1)からわかるように、礼儀知らずが増えた最大の理由は、私たちの生きている世界がろくな生存戦略を持たない人間でも生きていけるほどに「安全」なものだったからである。
だから、逆に言えば、「礼儀正しいことの必要性」が改めて言われるようになったということは、世の中がそれだけ「危険」なものになったということである。
野生動物の世界と違って、人間社会が「危険」になる理由は一つしかない。
それは「バカ」が権力と財貨と情報を占有しはじめた、ということである。
(2)からわかるように、礼儀知らずが増えた第二の理由は「自己表現」とか「自己実現」とか「私らしさ」とか「オリジナリティ」とかいう悪質なイデオロギーをメディアがまき散らしたせいである。
ごらんの通り、このイデオロギーに煽られて「内面を思うがままに表出し、そのオリジナリティを十全に発揮している人間」たちは、その「コミュニケーション能力の低さ」「場を読む能力の低さ」「適切な身体操作をする能力の低さ」において、相互にみわけがたいほどカオス化している。
バルトが言ったとおり、俗人が信じているのとは反対に、われわれの「内面」というのは、その外面が取りうる多様性と過激さに比すと、驚くほど「貧困」なのである。

『AERA』仕事のあとは、ゼミ面接、それからゼミを二つ。
大学院は「アメリカペット事情」。
「ペットは現代のトーテムだ」という変痴奇論をぶつが、これが院生諸君にはけっこう好評。
さすがに午前中からしゃべりっぱなしで、喉が涸れた。
そのまま梅田までソッコーで移動して、「うな正会」集会へ。
「うな正会」とは「街のいけないうなぎを正す会」の略称であり、会長・江弘毅『ミーツ』編集長と、副会長・ドクター佐藤の二名で発足し、その活発な活動はすでにドクターの日記に詳述されたとおりであるが、これにミヤタケ、ナガミツなどが加入を企画しているとの報に触れて、「このままではカジュアルな鰻食いたちに鰻屋が占拠されてしまう」と危機感を抱いた不肖ウチダが「ネクタイをゆるめ、ワイシャツの袖をまくって、『ま、一杯、いこか』と相客のグラスにビールを注ぎつつ鰻を食べる日本の正しいおじさん」を代表していっちょかみさせて頂いたのである。
場所は肥後橋の「だい富」。ここは「うな正会」発足の地、「うな正会のエルサレム」、あるいは「うな正会のメッカ」ともいうべき聖地である。
今回はドクター不参加のため、会長ほか本日入会会員三名によって粛々とビールを喫しつつ、「うまき」「竹丼」などをありがたくご賞味する。
帰途、堂島のWhite label で水割りを飲む。
そこに『エルマガ』のF田くんが合流。
F田くんはウッキーとともに「ふるふるコンビ」として、ウチダゼミの名物だった二人のかたわれであり、岡田山にゴルチエの光り物をじゃらじゃらさせて登場して、良識ある女学院生を顔色なからしめた伝説のゴシック女である。
ほとんど社会的適応性のない人物であったが(高校時代に生徒会長であったというのが信じられない)、江さんに頼んで、エルマガに無理矢理押し込んだら、三年ほどの徒弟修業の甲斐あってか、なかなかスマートな社会人に仕上がっていた。生徒会長的エートスが蘇生したのかもしれない。

11月16日

朝刊を拡げたら『現代思想のパフォーマンス』の広告が出ていた。
「内田樹が畏友難波江和英と著した・・・」というコピーを見て、びっくり。
これは正確な記述とはいえない。
単行本あとがきにも記したことであるが、『現代思想のぱ』(と以下略称)のもともとのアイディアは難波江さんが考え出したものであり、彼が企画書を書き、出版社を探し当て、印税だのなんだのもろもろのビジネス的業務をすべて片づけて、私はただナバちゃんが言うままに原稿をこりこり書いただけである。
『ぱ』(さらに略す)はひとことで言えば、「難波江さんがウチダを頤使して著した」本である。
しかし、事実をそのままに書くと、それなりに問題はありそうな気もする。
「ウチダのような態度の悪い男を顎で使うとは、ナバちゃんというのはウチダ以上に暴力的権力的なタイプの人物なのではあるまいか」というような勘ぐりをされると、難波江さんにはたいへん気の毒である。
それに「難波江和英が」を主語にした場合、ウチダに冠する「友」の形容詞に窮する。
どう考えても、「悪友」以外にないが、「難波江和英が悪友内田樹と著した・・・」では光文社編集部が私を「悪人」であると公的に認定したことになり、それはそれで剣呑な事態となりかねない。
「ナバちゃん、ウッチーのサルわか現代思想入門」ではあまりに読者を愚弄しているし。
「難波江和英と内田樹が著した」では単なる事実認知であって、「コピー」にはならないし。やはり、ああいう表現を甘受する他ないのであろうか。

ユダヤ文化論の授業を聴講に、『文學界』の山下さんがやってくる。
ウチダがどのようなヨタ話をしているのか、連載に先だって調査に来られたのである。
彼女はまだ入社3年目の24歳なので、学生にまじってもわからない。
せっかくおいでになるので、わざわざ『文學界』用に「構築主義と『ユダヤ人』のシニフィアン」というハイブラウなテーマを用意した。
しかし、「どうして日本で反ユダヤ本がベストセラーになるのか?」という先週の宿題の答えを聞きながら授業を始めたら、結局その話に終始してしまい、最後は日猶同祖論の話になって、ぐちゃぐちゃになってしまった。
日猶同祖論というのは「日本人とユダヤ人は祖先を同じくする同族である」と主張する奇々怪々な理説で、明治末年から大正にかけて、中田重治、佐伯好郎、小谷部全一郎らが唱道したものである。
このイデオローグに共通するのは、
(1) 明治維新前後生まれ
(2) アメリカ留学経験者
(3) クリスチャン
ということである。
どうして彼らが内村鑑三や新渡戸稲造みたいにならず、狂信的な皇国史観を信奉するに至ったのかを考察すると、今日の「対米追随外交」に伏流する「嫌米気分」のよってきたるところが理解できる、というのがウチダの持論である。
日猶同祖論は「黒船トラウマ」以来の西洋=キリスト教文明に対する絶対的なビハインドを一気に解消するために、明治の新帰朝青年知識人が考案した起死回生の奇策である。
「神州日本はその霊的位階において、西洋=キリスト文明よりも上位にある」という「攘夷思想」を精神史的に合理化するために、彼らはユダヤ人を「発見」したのである(ある種の個別的政策課題のためには政治的「表象」が必要であることについては、幕末の「尊皇攘夷」運動で日本人は経験済みであった)。
ユダヤ人とは実体ではなく、人々が自分自身を世界史の中に位置づけるときの分節の形式として選択されたのである。
だが、なぜ、ユダヤは「カテゴリー」となりえたのであろうか?
というようなお話をする。
学生諸君には、ちょっとむずかしかったかな。

続いて杖道のお稽古。
アメリカから来た高校生のケイトくんは、引落打ができないので、半べそ状態になっている。「身体を割る」という身体運用概念がどうしても理解できないらしい。
気の毒だが、これが異文化の壁というものなのだのよ。
武道的身体文法で身体を使うというのは、「新しい言語を覚えて、それで話す」のとおなじことなのだ。
「できない」ということをおのれ不能の徴候としてではなく、学びつつある技法の未知性の徴候として受け容れることができるかどうか、ケイトくんが来週の稽古に来るかどうかは、この決断にかかっている。


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2004年11月13日

不幸の手紙

11月13日

公募推薦入試。
国語の採点仕事を仰せつかったが、総文は受験者が100名ほどなので、すぐに採点が終了。
問題文がむずかしくて、採点担当者からぶつぶつ文句がでる。
大学の文科系の教員が一読では意味が取れないような難解な内容のものを高校生に読ませるというのは、いささか酷ではないか。
国語の試験問題というのは、その学科が「どのような文章を日頃読み慣れている学生を求めているか」を示す、ある種のパブリック・ステートメントでもある。
私が学生に読み慣れていてほしいのは、何よりもまず「論理がクリアカットな文章」「音の響きの美しい文章」である。
理路がぐちゃぐちゃしていて、読みにくい文章から、書き手の意図を察知するのは、たしかにある種の知的能力ではあるが、それは「官僚の書くわけのわからない文章から、本音のところを読み取る」ような特殊な場合にしか発揮されない能力であって、そんなものを大学生全員が習得する必要はない。
それよりも、理路整然、口跡明瞭な文章を読み慣れることのほうがずっとたいせつである。
出題者は「理路整然とはどういう文章のことか」「美しい日本語とはどのような文章のことか」ということの見本を示して欲しいものである(なんてことを書くと、「おーい、来年はウチダが全部出題してくれるってさ!」ということになるかもしれないので、ただ今の発言はただちに撤回させていただきます)。

採点が終わって、研究室に戻って、たまった書類仕事を片づける。
机の上に一山あった書類がとりあえず消える。
やれやれ。
メールを開くと、学長室のK寺さんから、怖いメールが来ていた。
あまりに怖いメールだったので採録させていただくことにする。

教務部長として職席上出席する会議を下記に挙げました。
【大学所轄の委員会】
学部長会 1回/月  第3(月)が多い  18時10分から
学務連絡会 1回/月 教授会のある週の(水) 13時15分から3時前ぐらい、長引くこともあり。
学務委員会 1回/月 教授会と同じ日(金) 14時から
大学院委員会  6回ぐらい/年
人事委員会   定例は4月教授会終了後、その他は必要に応じて。1回から2回/年
大学将来計画委員会 1回/月  教授会のない(金) 14時からが多い
大学予算委員会    1〜2回/年  予算編成時 1月初め
教務委員会   教授会の前の週(金)13時から
入学試験委員会  合否判定教授会の前、その他  計10回ぐらい/年
アッセンブリーアワー企画委員会  1〜2回/年
国際交流センター運営委員会 
大学情報処理センタ−運営委員会  2〜3回/年
精神保健福祉士養成課程連絡委員会  1回/年  12月
なお、学長が議長となる会議では、学長が欠席のときは教務部長に議長をしていただくのが慣例となっております。
【学院所轄の委員会】
部長会  1回/週  13時15分から
予算委員会  1回/年
留学委員会  1〜2回/年  部長会に引き続き
情報処理計画委員会 
学生寮運営委員会  1回/年

読んで疲れました?
先生のバイタリティなら、への河童でしょう。頑張ってくださいね。

K寺さん、あたたかい励ましのおことば、ありがとうございます。
これは職責上出なければならない会議の話であって、会議とは別に教務部長の果たさなければならないルーティンワークがもちろん山のようにあるわけである。
「物書き自己破産宣言」というのは、だからぜんぜん冗談ではないのである。

業務連絡その1

ひさしぶりに甲野善紀先生の講習会が神戸女学院で開かれます。

先生の最近の術(「追い越し禁止」の術理と命名された由)が間近に見られます。

学外のみなさんもどうぞふるってご参会下さい。

とき:11月19日(金)午後1時半より午後5時(午後1時より受け付け開始)

ところ:神戸女学院大学岡田山ロッジ2F練習室
参加費用:2000円(学外者のみ。学生生徒教職員OGのみなさんは無料です)。甲野先生に投げられたり極められたり押さえ込まれたりしたい方はそれなりの格好をしてきてください。

学外からの参加ご希望の方はウチダあてに、「参加希望」のメールをお願いします。
狭い道場なので、先着20名様に限らせて頂きます。(残り5名です)

神戸女学院合気道会(芦屋系)の諸君は「身内」ですから申し込みの必要はありません。

稽古後、恒例の懇親会を西宮北口にて行います(18時ー20時)。参加希望者は当日受付にて「懇親会参加希望」とお申し出下さい。予算3−4000円程度を予定しております。

講習会お申し込みは

uchida@tatsuru.com

宛にお願いします。

業務連絡その2

久田舜一郎還暦記念松月会能のお知らせ

とき:12月26日(日)午後12時30分始め 午後5時終わり
ところ:大阪能楽会館

大倉流小鼓方の久田先生の還暦記念能があります。私は縁あって、久田先生の後援会の発起人に加わった関係で、パブリシティのお手伝いをさせて頂いております。

演目
能:猩々乱(喜多流)シテ高林呻二 ワキ植田隆之亮 囃子:辻芳昭・高橋奈王子・上田悟・赤井啓三
能:道成寺(観世流)シテ寺澤幸祐 ワキ福王茂十郎 囃子:山本孝・久田陽春子・三島元太郎・藤田六郎兵衛
舞囃子:橋弁慶 シテ久田勘吉郎 ツレ久田勘鴎 囃子:大倉慶乃助・久田舜一郎・野口傳之輔
ほか

チケットは私を経由すると、すこし(わりと)お安くなります。
一階指定席:12000円(→10000円)
一階自由席:10000円(→8000円)
二階自由席:7000円(→5000円)
二階学生席:4000円(→3000円)

猩々乱を披く高橋奈王子さんは神戸女学院OG、合気道部創立メンバーのひとりです。身内の諸君はチケットを買って応援してやってくれい。

こちらも申し込みはウチダまで

投稿者 uchida : 17:00 | コメント (0) | トラックバック

東京ファイティングキッズvs大阪ごんたくれガイズ

11月12日

ゼミ面接三日目。すでに32名が面接に来ているので、もう山は越えただろうと思って、てれてれ面接時間に研究室に戻ると、研究棟の階上に不穏な空気が漂っている。
ぎくっとしてさらに4階に上ると、私の研究室の前に人だかりができている。
数えると31名。
無茶を言ってはいけません。
面接のための時間は1時間半しか取ってない。会えるのはせいぜい15名である。
来週にもう二日面接日をふやすことにして、お引き取り願える方には、お引き取り願う。
4時まで猛スピードで2時間面接。
のどが涸れた。
学生を面接するのにどうして私ののどが涸れるのか、ご不審の向きもおられるであろう。
しかし、はじめてお会いする学生さんに「今後の研究課題」「知的興味のある領域」「人間的特性」などを数分のあいだに語って頂くためには、ひとりひとりに違うアプローチでの「呼び水的」問いかけをなさなければならない。
あるときは慈父のごとく、あるときは悪童のごとく、あるときはお節介なおばさんのごとく、あるときは底意地の悪いレポーターのごとく…学生さんがいちばんなめらかに口を開いてくれるような「周波数」を探り当てるのである。
あまり知られていないことだが、この「相手がいちばん話しやすいピッチを探り当てるチューニング能力」あるいは「ふたりの興味が一致する話題を探り当てるダウジング能力」が私の特技なのである。
実は私は「聞き上手」の人なのである。
知らなかったでしょ。

しかし「聞き上手」はすごく体力を要する。
へろへろになって教授会に遅刻。ただちに強烈な睡魔に襲われ、喫緊かつ高尚なる議論が飛び交う中で爆睡。
教授会終了後、ソッコーでまたまた梅田へ。
本日は『東京ファイティングキッズ』刊行記念パーティで、平川くん山本画伯といっしょにご飯を食べることになっている。
最近、平川くんとメル友状態の『Meets』の江弘毅編集長も飛び入り参加。
待ち合わせ場所は、紀伊國屋書店の『東京ファイティングキッズ』が置いてある書棚の前、というアバウトな取り決めであったが、考えてみるとあの本はいったいどのようなジャンルに分類されているのか、よくわからない。
『ビジネス書』の棚にあるのか、『エッセイ』の棚なのか、はたまた『生き方本』のコーナーか…探しあぐねていたら「西洋現代思想」のところにあった。
あの本のどこが「西洋現代思想」なのであろうか。
天六の上川南店へ。
きずし、蛸、烏賊、炊き合わせ、卵焼き、天ぷらなどを食しつつ、くいくいとビールを飲む。
今日は、「聞き上手」仕事ですっかり疲れてしまったので、話は上の空で、へらへらとビールを飲んで、よわよわしく相づちを打つばかり。

平川くんの『反戦略的ビジネスのすすめ』は昨日発売で初登場いきなりbk1の総合ランキング7位だそうである。
すごいね。

『東京ファイティングキッズ』の続編を出そうということになる。
タイトルは『悪い兄たちが帰ってきた 東京ファイティング・キッズ・リターン』

本HP所載の江さんの『だんじりあす・エディター日記』がS文社から単行本になることになった。
うちの「長屋」のコンテンツでは、(プロの物書きである江さんは別格として)、ドクターとヤベッチの文体のドライブ感が群を抜いている。
すでにドクター佐藤には、いくつかの出版社からコラム執筆の依頼が来ているそうである。
ヤベッチの『ミネソタ無宿』もどこかで単行本化してくれないであろうか。未読の各社編集者の方はぜひご一読ください。

投稿者 uchida : 10:09 | コメント (1) | トラックバック

2004年11月12日

そのつど晩年

11月11日

目やにが出るので、目医者にゆく。
結膜炎という診断で、目薬をもらう。
視力検査をしてもらったら、視力がずいぶん落ちているので、コンタクトをいれることにする。
私は数年に一度の頻度で発作的に「コンタクトを入れることにする」という決断を二十歳くらいから限りなく繰り返しているような気がする。
なぜか、長続きしないんだな、これが。

K川書店から編集者さまご一行妙齢の女性が三名おいでになる。
東京から来るとたいへんですから用事があれば電話でいいですよ、と何度もお断りしたのだが、結局おいでになった。
三人分の出張旅費を使って、一日つぶして来たんですから…という無言の(ほとんど有言の)圧力を加えられて(ウチダはこういう「義理」方面からの攻めには弱い)、K川から新しい本を一冊出すことになる。
その代り、(すでに繰り返し告知しているように)これまでお引き受けしたあちこちからのお仕事のうち過去一年間督促のなかったものはすべて「チャラ」にさせていただくことにする。
借金と同じで、「督促」が一年以上なかった出版企画は、先方が「債権放棄」したとみなさせて頂くことにしたのである。
申し訳ないが、世の中というのは、そういうものである。
医学書院の白石さんのような確信犯的「後出しじゃんけん、横入り」編集者が結局は「油揚げ」をさらってゆくのである。

そのK川書店の女性編集者たちは「30代女性のための人生ハウツー本」をご所望のようであった。
「老いることへの焦燥」「老いのロールモデルの不在」がどうも30代女性を苦しめておられるようである。
だが、私にはむしろどうして「老いる」ということが、「忌まわしいもの」として、彼女たちにそれほどリアルに感知されるのか、その方が不思議である。
「加齢」という概念は、逆説的なことだが「不老不死」モデルを無批判的に前提にしている人間においてしか成り立たない。
例えば30歳の人間が加齢を恐れるのは、「平均余命が80歳として、あと50年生きる訳か…」というふうに「人生ロードマップ」を描くことができると思っているからである。
「0歳のときの自分」から始まって、「10歳、20歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳、80歳…の自分」を等間隔で配列し、それを一望俯瞰する想像的視座に自分は立てると思い込んでいる人間だけが「加齢」という概念を持つことができる。
そういう人間だけが、年を取ることを恐れる。
「年を取って、死ぬ自分」について、(まだ老いてもいないし、死んでもいない段階で)、一通りの見通しが立てられると思っている人間だけが老いを恐れ、死を恐れる。
だが、このような見通しにはどんな根拠があるのか?
平均余命が80歳であるということは、あなたが80歳まで生きるということを保証しない。そうでしょ?
そのあなたが、家から一歩表に出たとたんにトラックにはねられて死んでしまう確率はいつだってあるからである。
死の本質は、「人間は必ず死ぬ」という確実性にではなく、「人間はいつ死ぬかわからない」という不確実性のうちに存する。
人間はそのつど晩年を生きているのである。
「そのつど晩年を生きている人間」には「加齢」という概念は到来しない。
そのような人間には、蓄積してきた過去の時間と、かけがえのない現在という時間だけがある。
「死なないつもり」でいる人間だけが加齢による美貌の衰えを恐れ、老いによる体力の低下を恐れ、病の苦しみを恐れる。
人間を不幸にしているのは、「未来を見通せる」という賢しらである。
というような話をしているうちに、「では、それを本にしましょう」ということになる。
うう、また仕事を増やしてしまった。

小田嶋先生のブログを毎日楽しみに読んでいるのだが、島田紳助の一件で一時期だいぶブログが荒れたことがある。
それに対するオダジマ先生のおことばが今日出ていたので、謹んで採録させていただく。
この原則はウチダブログにおいても、そのまま採用させていただくことにする。

各記事へのコメントに対して、いまのところ小田嶋は反応したりしなかったり、ケースバイケースで対応しています。
もう少し具体的な言い方をすると、要するに「答えやすい質問や気に入ったコメントにだけ反応している」わけです。
あるいは、無視されて不愉快に感じている方がおられるかもしれませんので、以下に、皆さんからいただいたコメントに対する当方の対応について、おおまかな原則を記しておきます。

荒らしはスルー

煽りは放置

内容が立派でも口調が失礼なコメントには対応いたしません

普通の読解力があれば理解できる内容についての不要な質問にはお答えしません

小田嶋の痛いところを突いた質問、または小田嶋を完全に論破し去ったコメントに対しては、グウの音も出ません

つまりまあ、ここではオレが王様だよ、と。
これぐらいの独裁権がないとブログなんてやってられません。


そのオダジマ先生と並んで、ウチダが「現代日本を代表する批評的知性」とかねがね敬慕している町山智浩先生の『底抜け合衆国』(洋泉社)を昨日読了。
『底抜け合衆国』と『アメリカ横断TVガイド』は私がこの数年のあいだに読んだアメリカ文化論の中でもっとも良質のものであった。
かかるマチヤマ先生の業績にたいして、日本のメディアはほとんど「黙殺」をもって対応しているようであるが、そういうことでよろしいのであろうか。

心ある青少年は、なにはともあれ(騙されたと思って)(というのは人を騙すときの常套手段だが)、小田嶋隆と町山智浩の本を読みなさい。

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2004年11月10日

ジェンダー論の現在と秋の夜の酒

11月9日

次々と本が出る。
ナバちゃんとの共著、『現代思想のパフォーマンス・新書ヴァージョン』(光文社新書)。これは松柏社から出したオリジナル・ヴァージョンの改訂版。お値段1000円。これはお買い得です。
もうひとつ。『岩波応用倫理学講義5性/愛』(金井淑子編・岩波書店)が届く。
「性/愛と共生の倫理 性愛の、過激に変容する現実。ジェンダー論からポスト・フェミニズムまで〈身体/関係〉の倫理の最深部に」という盛りだくさんな帯がついている。
私はここに「セックスワーク論」を寄稿している。
どうしてウチダのような「ジェンダーのことでがたがた言うのはもうやめませんか論者」がジェンダー論の巻に寄稿するのか理解できないというジェンダー論関係の皆さんも多々おられることであろう。
私にだって理解できない。
あるいは編集の金井先生が「アンチ・フェミニスト」を公称する人間に「セックスワーク論」のような難儀な論件を振ったら、どんなことを書いてよこすか、興味があって人選せられたのかも知れない。
私とはとんと無縁の領域の話題なので、いただいた本をひらいて、ほかの執筆者の方々の書かれたものもぱらぱらと読んでみたけれど、(三砂先生のものを除くと)どれもなんだか難しい話ばかりで、私の頭ではよく理解できなかった。
「性/愛と共生の倫理」というのは、私たちすべてが喫緊に理解する必要のある重要な論件であると思うのだが、どうもたくさん勉強して、いろいろなむずかしい用語を使いこなせない人間はそういう話には参加できないようである。
たとえば次のような文章をあなたはすらすらと理解できるだろうか。
「フェミニスト経済学であれば、ここは方法的に、中間領域論と現状分析に分かれると思います。グローバリゼーション研究ということを例にとれば、現在のグローバリゼーションの最新局面で何が起きているかということを析出するのに、ケアの国際移転、再生産領域のグローバルな再編過程をみていく。これはたんに、現在のグローバルな資本主義のものでのジェンダー関係に変化が起きていることを示す事象を追っているというだけではありません。むしろ逆に、現代のグローバル資本主義の性格そのものを、いかにフェミニズムの側から批判し再規定するのかという理論課題を含んでいます。ここが方法論的には、中間領域論と現状分析が、入れ子状でありつつ分節化できるという地点なのです。」(255頁)
申し訳ないが、私にはこの人が性や愛といったリアルな問題についてほんとうのところ何を言いたいのか、まるで想像がつかなかった。
しかし、このような韜晦に頼らざるを得ないという点に現在におけるジェンダー論の行き詰まりは徴候化しているのかもしれない。
ともかく、ジェンダー論の現在を知りたい思う読者には格好の書物である。
とりわけ、金井先生の巻頭論文はフェミニズムの窮状をたいへん率直に叙していて、私は深い共感をもって読んだ。

それから『言語と文学』(書肆心水)。これは来月に出る予定の本。
モーリス・ブランショの「文学はいかにして可能か」「言語についての探求」「文学に於ける神秘」(山邑久仁子訳)、ジャン・ポーラン「タルブの花」(野村英夫訳)の翻訳四編に、山邑久仁子「文学的テロリズムの逢着点—『タルブの花』とモーリス・ブランショ」と、私の「面従腹背のテロリズム-『文学はいかにして可能か』のもう一つの読解可能性」という二編の研究論文がついて、予価3600円。
16年前に書いたまま筐底に眠っていた思想史研究が日の目を見たという点で、ウチダ的にはありがたい企画であるが、あまり「一般向き」ではない。あくまで「そういう人」向きの本であるので、買った後に「何の話だかぜんぜんわからなかった」と文句を言われても困る。

ゼミ面接二日目。次々と面白い学生さんたちがやってきて、面白い話をしてくれるので、ますます人選が困難なものとなってゆく。うう、困った。

大学院は「アメリカにおける児童虐待」。
先週の「肥満」にも通じる話であるが、私たちが気をつけるべきことのひとつは、アメリカにおける「子ども」のイメージが私たちのそれとは微妙に違う、ということである。
『「子ども」の誕生』というフィリップ・アリエスの社会史研究が私たちに教えてくれたことは、ヨーロッパでは「子ども」が成人の保護を必要とする可憐な存在という概念を獲得したのは、近世以後だということである。それまで、子どもは「小さい大人」「能力の低い大人」「重要性の低い大人」(mineur)として扱われていたのである。
当然、そのような差別的境涯にある「子ども」は、それなりの「戦略」を持たないと大人に伍してリソースの分配に与ることはできない。
フィジカルな力が脆弱であるものは「狡知」をもって補うしかない。
したがって、欧米において(とくにアメリカにおいて)「子ども」に賦与された基本的な社会的特性の第一は「狡猾さと攻撃性」であった。
『トムとジェリー』に代表される「小動物による相対的に巨大な動物へのエンドレスの欺瞞と裏切り」説話はアメリカでは定番だが、わが国にはなかなか類するものが見あたらない(強いて探せば「かちかち山」だが、これは太宰治の卓抜な読解が教えるように、「少女の中年男への生理的嫌悪」と解釈する方がおさまりがいい)。
『ホーム・アローン』というのもカルキン坊やの狡知と(ほとんど節度を失った)暴力性が印象的であった。
『キンダーガルテンもの』『保育所もの』というジャンルも存在するが、それらすべてに共通するのは、「度し難い悪童たちに、ひとのよい大人が振り回される」という話型であって、「無垢で純真な子どもたちが、邪悪な大人によって繰り返し損なわれ、傷つけられる」という話型はアメリカ映画では好まれない。
「児童虐待」という問題を考えるときには、当該社会において「児童」という社会的存在が「どのようなもの」として観念されているか、自分たちの社会における同一語をそのまま適用することを自制することがたいせつであるように私には思われた。

授業の後、梅田にかけつけて学友、堺勤務の伊藤君と広島からの帰途の松本君と久闊を叙す。
亀寿司中店で中トロを食べようと思ったら、中店はお休み。
お隣の亀寿司総本店でお造り、お寿司をぱくぱく食べてビールを呑みつつ、病気の話、老母介護の話、古代史の話、物故した友人たちの話など「五十男のしみじみ話」をする。
「あいつと最後にあったのは、いつだい?」
「二年前だがね。まさか、あれが最後になるとは思わなかったよ」
というような問答が何人かの固有名とともに繰り返される。
きっとそれぞれに、「もしかすると、こいつともこれが今生の別れかも…」と思っているのだろう。
そう思って酌み交わす秋の夜の酒は、妙にしみじみ胃の腑にしみ入る。

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2004年11月09日

ラカン的ゼミ面接

11月8日

ゼミの面接が始まる。
毎年申し上げているが、内田ゼミのゼミ生選抜基準は「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」である。
勘違いしてもらっては困るが、これは「変人」という意味ではない。
ウチダは(みなさん同様に)「ハードコアな変人」(電波系の方とか)にはあまりお近づきになりたくない。
別にそういうひとの人格について差別的であるとか、そういうことではない。
ただ、ゼミというのは「瞬時に場を読む」高度のコミュニケーション能力が要求される特殊な空間であるから、そういう方にはあまり向かないのである。

「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」というのはすでにコミュニケーション能力について、重要ないくつかの条件をクリアーしている。
(1) 人格についてコメントしてくれるともだちがいる
(2) 自分にとって、あまり耳障りのよくないメッセージでも受信している
この二点については、みなさんもただちに同意してくださることであろう。
しかし、もっと大事なことがある。
「まわりの友だちから『あなた変よ』と言われている人」は、自分についての自己診断を、「他者からのメッセージ」として聴いている、ということである。
そして、これが「できる」ということが、人間のコミュニケーション能力として、実はいちばん本質的なことなのである。

カフカは「世界と君が対立した場合には、世界に加担せよ」と書いた(細かい言葉は忘れたけど)。
「世界」を「他者」と書き換えると、これはそのままラカンのことばになる。
ラカンは『エクリ』の序文にこう書いている。
「文は人なり。私たちはこの格言に同意する。ただし、少し言葉を追加するという条件付きで。
『文はその宛先の人なり』(Le style c’est l’homme a` qui l’on s’adresse)。
この格言なら私たちが提起してきたあの原則にも当てはまるはずである。
私たちはこう述べてきた。言語において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たち宛てに到来する。差出人と受取人が入れ替わって。」
ラカンの言うとおり、「あなた変よ」という「他者からのメッセージ」は、実は、「私」が自分に宛てて発信したメッセージを逆向きに受信したものなのである。
人間的コミュニケーションというのはそのように構造化されている。
今さら「そんなの変」とか言っても始まらない。
これは別に人間が自閉的であるとか妄想的であるとかいうことではない。
逆である。
フランス語のse dire (「自分に向かって語る」)とは、「思考する」という意味である。
「思考する」というのは、要するに「自分がいったん外部に向けて発信したメッセージを外部から到来したメッセージとして聴く」ということなのである。
人間は自分に向かって言葉を語りかけ、それを聴き取るという「時間差」を擬制することなしには思考することができない。
そのとき、「私」が聴いている「私自分の向かって語りかけてくる言葉」の語り手を、便宜上「他者」(厳密には「〈私〉と名乗る他者」)と呼ぶのである。
どうして、そんな手間暇をかけないと人間は思考できないのか、私にもその理由はよくわからない。
一つだけわかっていることは、「人間は自分が必要としているものを他者から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」ということを知ったことによって、人間は人間になったということである。
これはもちろん私の創見ではなく、レヴィ=ストロースの教えである。
私が何ものであるかを教える言葉を私は他者から告げられる。
仮に「私が何ものであるか」を私が熟知し、それを深く確信している場合でさえ、私はそれが「他者から告知される」ことを必要とするのである。

というわけで「ともだちから『あなた変よ』と言われている人」は「人間は他者を経由してしか、自分自身のことばを聴くことができない」ということを(それとは知らずに)すでに知っている点において、分析的には「人間」とみなしてよろしいのである。
ウチダゼミのゼミ生採択基準は要するに「人間であること」だったのである。
知らなかったでしょ?(私もいま自分の書いたものを読んで知りました)。

その「人間」のみなさんがぞろぞろと面接会場であるところの研究室においでになる。
さすがに、この「スフィンクスの謎」を解いて登場されたわけだから、みなさん相貌に知的な輝きがあふれている。話もたいへん面白い。つい時間を忘れて話し込んでしまう。
できることなら、面接に来たみなさん全員をゼミに受け容れたいのであるが、定員というものがあって、そうもゆかない。悩ましいところである。

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2004年11月07日

憑きものの功徳

11月7日

ネットでbk1のランキングを調べたら、人文・社会・ノンフィクション部門のランキングで、『他者と死者』が1位になっていた。
これはびっくり。
『死と身体』は8位。
いままでいろいろな本を出してきたが、1位というのははじめてのことである。
いったいこんな暗いタイトルの本を誰が買うのであろうか?
という深甚な疑問に逢着して、あらためて書棚から当該書物を取り出し、第三者の平明なマナザシで読み始めたら、おもしろくてやめられなくなり、午前二時までかかって、とうとう最後まで読んでしまった。
読了して、深いため息をつく。
なんて面白い本なんだろう!

まことにお気楽なことである。
だが、本人が読んでもおもしろいというのは、悪いことではない。
それは、その本に書かれていることが本人にもよく分っていないということだからである。
書いているときに「魔が差した」のである。
それをダイモニオンと呼ぼうとミューズと呼ぼうと精霊と呼ぼうと「うなぎ」と呼ぼうと、そういうものが到来しないと、「書いた本人が読んでも面白い本」は書けない。
しかるに、現今の作文教育にしても文芸批評にしても、「どうやって〈憑きもの〉をエクリチュールの場に招来するか」という方向での実践や理論が粛々と深化されているようには思われない。
実作者たちは、経験的に「イタコ」状態になる仕方を知っており、それぞれの儀式に則って執筆されていることとは思うけれど、その消息についての精密な批評のあることを私は知らない。
目に入る文芸批評を読む限りでは、批評家たちは、書き手たちがそのエクリチュールをすべて統御しており、作品の破綻も手柄もすべて書き手の責に帰しうるものだという前提を採用している。
でも、ほんとうにそうなのだろうか。
「どうしてこの人はこんなことを書いてしまったのか?」という問いを、作家に「〈何が〉憑いたのか?」という形式で探求する批評があればぜったい買うけど。

京大で来年度も集中講義をやることになった。
今年は夏にやって真夏の京都の暑さに閉口したので、来年度は真冬にやることにした(おそらく真冬の京都の寒さに閉口することになるのであろう)。
四日も五日もしゃべり続けるのは疲れるので、映画論。
これだと映画を見ている間はしゃべらずに済むから楽ちんである。
そのシラバスを書いてくださいというご依頼が杉本先生から到来した。
一年以上先の集中講義のときに自分が何を考えているのかなどということは予測の埒外であるので、さらさらと思いつきを書いて送信する。

題目:
「ハリウッド映画の欲望記号論」

解説:
ハリウッド映画はアメリカ民衆の無意識的欲望をリリースする装置であるとずっと思っていたが、最近どうもそうではないらしいような気がしてきた。というのは、アメリカの一般国民は映画なんか見ないからである。ハリウッドのフィルムメイカーたちは共和党とFBIとアメフトとチアガールとカントリーが大嫌いで、世界に向けて『アメリカって、ひどい国ですよね』というメッセージをひたすら発信していたのである。ハリウッド映画は岸田秀風に言えば「アメリカの外的自己」だったのだ・・・という仮説を検証してみたい。

テキスト・参考文献:
町山智浩『アメリカ横断TVガイド』『〈映画の見方〉がわかる本』『底抜け合衆国』、町山智浩+柳下毅一郎『映画欠席裁判』と内田樹『映画の構造分析』はできるだけ読まずに来てください(本と内容がかぶりますから)。

こういうシラバスを読んで、むらむらと履修したくなるのはいったいどういうタイプの学生であろうか。
なんとなく、すごく態度の悪い学生たちが鼻から煙を吹き出しながらぞろぞろ集まりそうな気がしてきた。
うう、自業自得とはいいながら。

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2004年11月06日

面接試験が早く終わったので道場に駆けつける

11月6日

推薦入試。いよいよ入試シーズンである。
毎年のことであるが、今年度の出願者がどれくらい確保できるのか、大学関係者はどこもはらはらしている。
昨年度の資料を見ると、「前年比出願者数25%」などという大学もあった。25%減ではなくて、75%減である。
こういう大学に今年受験生は集まるのであろうか。
ひとごとながら、心配である。
数値を公開しているのは、まだ潔い方で、情報開示しない(できない)大学もかなりある。
大学淘汰は大学関係者の予測を超えた速度で進行しており、そのことの意味を理解できている大学人は今でも決して多くない。
私はどちらかというと楽観的な人間であるが、それでもつねに職を失った場合の準備はしている。
借金しないのも、大学教師以外の仕事でも食えるような職業訓練を日々怠らないのも、賃貸マンションに暮らしているのも、かさばるものをコレクションしないのも、定収を失い路頭に迷った場合に、生活水準をただちに下方修正できるための備えである。
そういう備えをしておくと、大学が潰れたときに困らないからではない(そんなことになったら、私だってすごく困る)。
そうではなくて、そういう備えをしておく方が、パースペクティヴが広く取れるからである。
取りうるオプションを多く取りそろえておく方が、そうでない場合よりも局面の判断において制約が少ない。
「うちの大学は絶対に潰れない」と思い込んでいる人間よりも「うちの大学は潰れるかも知れない」と思っている人間の方が、大学の生き残り戦略を立てるときに適切なソリューションを見いだす確率が高い。
私はそう思っている。
ビジネスの場合と同じである。
コクドがいま危機的状況になっているが、西武グループが破綻する可能性についてきちんとした予測と適切な対応について検討してきた内部に人間がどれくらいいただろうか。
たぶんほとんどいなかっただろう。
「うちが潰れるはずがない」と思っているうちに山一も長銀も雪印も三菱自動車もダイエーも西武も崖っぷちに立たされた。
そのような「ありえない」予測と対応戦略を検討するようなセクションをビルトインしている組織だけが「ありえない」事態を回避することができる。
そんなことはビジネスでとうに実証済みである。
組織の健全というのは、組織の「破綻の徴候」を他人に指摘されるより先に発見するセクションが活発に機能している限りにおいて担保される。
本学にはすでにいくつかの組織的な「破綻の徴候」が検出されている。
しかし、私のような人間がHPで満天下に「破綻の徴候」が検出されていることを情報開示できている間は、組織はまだ健全である。
組織内の人間が自分の属する組織の問題点について語るのを止めたら、それが「末期」が来たことの症状である。
その上で、今年は「なんとかなりそう」というのが私の楽観的展望である。
大学の内部に、「新しいこと」をいろいろやりたいという動きが見えるからである。
「ほかでやっていること」をうちもやろうというキャッチアップ的な発想ではなく(それはそのまま「ほかではやってないから、うちもやることないです」という退嬰的な発想に転化する)「ほかではこんなことやってないから、うちで一つやりませんか」という冒険的企図が語られる間は組織は健全である。
そういう「健全」と「退嬰」は、数値化することはできないけれど、ある種の「オーラ」として場を領するものであり、社会はそのような「オーラ」を確実に感知する。
「笑い声の絶えない場」に人は惹きつけられる。
どれほど懸命な組織再建努力がなされようと、それが眉間に縦皺を寄せた人々の不安と不満に駆動されてなされている限り、努力は報われない。
人々は不安と不満が渦巻くような場所には足を踏み入れようとは望まないからである。
組織は必ず破綻する。
いかなる組織もいつかは必ず破綻する。
だから、それは少しも恥ずかしいことではないし、隠蔽すべきことでもない。
重要なのは、その破綻を奇貨として、さまざまな冒険的企図が試みられているかどうかということである。

面接試験のあと、走って岡田山ロッジへ。
合気道のお稽古にわさわさと人が集まっている。
陽気な学生やお医者さんやSEや新聞記者や証券会社のOLや宗教学者や思索的な中学生が道場せましとお稽古をしている。
この方たちは別に実利的なスキルを身につけるためにここに来ているわけではない。
私には、そのようなものをご教授できるような能力はない。
私ができるのは、「私たちが身につけようといくら望んでも、決して果たし得ないものがある」ということを告知することだけである。
私はその場にいわば「トリックスター」としてかかわっている。
「その場」と「そこには顕現することのない私たちの欲望の焦点」(多田先生のことね)をリンクする役割を私はおそらく果たしている。
私が「トリックスター」として機能できるのは、私がたぶんその場にいる誰よりも強く多田先生の不在を「欠如」として痛感しているからである。
何かがそこには決定的に欠如している。
そのことを告げるのが私の仕事である。
人々がそこに集まるのは、そこに「何かがある」からではなく、「そこには何かが欠けている」ということを、そこに来ると切実に感知できるからである。
道場というのはその欠如を欲望する仕方を習うための場である。
その点で学校と道場は本質的に同じものなのである。
当たり前なんだけど。

ゼミの今年の卒業生の多田浩子くんが新しい「店子」として長屋に入居されました。
長屋の「表札」は「浩子のだからどうだっていうのよ日記」。
多々文句があるのはわかりますが、「表札」命名権は「大家」の特権ですので、ひとつご海容を。
長屋の皆さんもどうぞよろしくお引き回しのほどを。

投稿者 uchida : 23:20 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月05日

マルクスと片山恭一を読む

11月4日

終日仕事。『私家版ユダヤ文化論』(仮題)の「ユダヤ人の解放」という項目を書いているうちに、マルクスの「ユダヤ人問題に寄せて」の内容を祖述する必要が生じる。
マルクスの書き物は要約することがたいへん困難である。
マルクスのエクリチュールの魅力は、その論理の飛躍にあるからである。
レヴィ=ストロースは原稿を書く前には、マルクスを取り出して(たしか『ルイ・ナポレオンのブリュメール18日』)、その天馬空を行くようなロジックを服用して、一発決めてから書き出すとどこかに書いていた。
マルクスの決めのフレーズを二つ三つ引用して済ませようと思ったのだが、その決めのフレーズ間の理路が一筋縄ではゆかない。
しかたがないので、こまごまと祖述しているうちに、話がどんどん長くなる。
フランス革命のあとのユダヤ人解放の話をしているつもりが、ユダヤ人解放は社会主義革命抜きには不可能であるという話になってしまった。
困ったなあ。
いつものことではあるが、私の書き物は、つねに「書き過ぎによる理路の混乱」という仕方で破綻するのである。
なんとかせねば。
困っているうちに夕方となり、山本浩二画伯と仕事の打ち合わせをかねて武庫之荘のGLORIAへ。
生ハム、蕪とパプリカの焼野菜(アンチョビソースかけ)、カルパッチオ、イノシシのベーコン、パスタ、白身魚のグリルなどを白、赤ワイン、グラッパなどを喫しつつ平らげる。
きわめて美味である。
美味しいものを食べたら、マルクスのことは忘れて、ちょっとだけ幸せな気分になる。

片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』が届いたので、さっそく読む。
たいへん読みやすい小説なので、1時間で読み終わってしまった。
たしかに、『野菊の墓』とレヴィナスがほどよく解け合っている。
こういう暖かい小説に対する少年少女たちの需要が存在しているということは、なかなかしみじみとうれしい話である。
セックスと暴力の場面がまったくなく、主人公ふたりが学級委員で、ちゃんと試験前にはこつこつ勉強するという設定に私は好感を持った。
長谷川法世の『博多っ子純情』にどこか雰囲気が似ているなあと思っていたら、片山さんは福岡の人であった。なるほど。

業務連絡!

ひさしぶりに甲野善紀先生の講習会が神戸女学院で開かれます。

先生の最近の術(「追い越し禁止」の術理と命名された由)が間近に見られます。

学外のみなさんもどうぞふるってご参会下さい。

とき:11月19日(金)午後1時半より午後4時(くらい)

ところ:神戸女学院大学岡田山ロッジ2F練習室

参加費用:2000円(学外者のみ。学生生徒教職員OGのみなさんは無料です)。甲野先生に投げられたり極められたり押さえ込まれたりしたい方はそれなりの格好をしてきてください。

学外からの参加ご希望の方はウチダあてに、「参加希望」のメールをお願いします。
狭い道場なので、先着20名様に限らせて頂きます。(すでに赤星くんから「予約」が入ったので、あと19名)

お申し込みは
uchida@tatsuru.com
宛にお願いします。


投稿者 uchida : 22:32 | コメント (2) | トラックバック

2004年11月03日

肥満という記号

11月2日

大学院ではアメリカの肥満事情について報告を伺う。
報告によると、彼の地では、ジャンクフードによる肥満者が白人低所得階層やヒスパニック、黒人に偏り、スレンダーなナイスバディの人々がハイソに偏っているという、「体型の二極分化」が進行しつつあるらしい。
なるほど。ありそうな話である。
低所得層には伝統的な食文化もないし、栄養学的知識もないし、スポーツする環境もないし、治安が悪いので家に引きこもってTVばかり見ているので、カウチポテトでぶくぶく太る。一方、ハイソサエティのみなさんは…という話である。
分りやすい話だ。
アメリカではたしかに富はかなりの速度で偏在してきている。
それに合わせて情報も、教養も、趣味のよさも、審美的な身体も、少数のエリートに占有されつつあるというのは事実なのかもしれない。
しかし、2億8000万人からいるアメリカ人がそんなに簡単に二極に階層化されるものだろうか?
「おいらは、マクドなんか食わないよ。あれはジャンクだからね。裏庭で無農薬のニンジン作って食べてるんだ」というようなことを言う低所得階層の人がいても、別におかしくないはずである。その方が安上がりだし。
「あたしはTVなんか見ないの。バカんなっちゃうから。それより図書館で本読む方がいいわ。あたしが今読んでる本?マルクスの『経済学・哲学草稿』だけど、それが何か問題でも?」というような低所得階層の人がいても、別におかしくないはずである。TVの電気代もカウチ代もポテト代も節約できるし。
アメリカにおける問題は、この「そうなっても別におかしくないはず」の事態が、なかなか生起しないように社会が構造化されているという点である。
つまり、社会が「搾取されている下層」と「搾取している上層」に二極分解しているという「たいへんわかりやすい図式」がいったん提示されると、このチープでシンプルな話型に対する対抗的な「物語」もまた、それにましてチープでシンプルなものたらざるを得ないという呪縛がかの国民を軛しているような気が私にはするのである。
たとえば、アメリカではただいま大統領選挙が行われているが、報道によれば、選挙戦は「共和党」と「民主党」の二大政党によるアメリカ社会の「二極分化」というかたちで進行している。
だが、ブッシュが選ばれても、ケリーが選ばれても、アメリカ社会の世界戦略にはたいした変化はないだろうし、内政もそれほどは変わるまいとほとんどの人が予測している。
つまり、「ビール、アサヒにします、キリンにします?」というような選択で国論を二分しているのである。
どうして、「それ以外の選択肢」(「ウーロン茶」とか)を並べるという知恵が出ないのか、私はそれが不思議である。
「ラルフ・ネイダーがいるじゃないか」という反論もあるだろう。
だが、ラルフ・ネイダーの政治的主張の「チープ&シンプル」度だってブッシュ、ケリーとあまり変わらない。彼の世界にも「グッドガイ」(彼および少数の彼の支持者)と「バッドガイ」(それ以外のアメリカ人)しかいないんだから。
『文學界』にアメリカの知識人たちの大統領選についてのコメントが何人か載っていたので読んでみたが(けっこう便利な雑誌である。悪口を書いてすまなかった)、全員「ブッシュはダメで、ケリーの方がまだまし」ということを述べていた。
変な話だ。
知識人というのは「ふつうの人が言いそうもないこと」をあえて言うのが社会的な役回りだと思うのだが、アメリカではそうではなくて、「いかにもふつうの人が言いそうなことを、もっとスマートに、かつ合理的論拠を示しつつ言う」のが仕事らしい。
たしかに、目に入る情報がすべてこのように「二極分解」的にコントロールされていたら、「それ以外の可能性」について想像し、熟慮する習慣は組織的に失われてしまうであろう。

その上で、肥満について考えたら、どうして下層の人々が「ジャンクをやめてニンジンを囓る」とか「TVを止めて本を読む」とかのオルタナティヴを提示できないのか、その理由が分った。
下層階級や有色人種も、自分たちが差別されリソースの配分に与っていないということについてはたしかに「怒っている」のだ。
ただ、その怒りを社会に向けて発信しようと望むなら、彼らはその階級的な怒りを「誰にでもわかる仕方で表象する」ことを余儀なくされる。
しかし、その社会的表象において使用できる記号の種類はアメリカにはきわめて限定的な数しか存在しない。
というのも、人々は長年の「チープ&シンプル情報のオーヴァードーズ」の病症として、チープでシンプルな記号で送信されるメッセージ以外は受信できなくなってしまったからである。
裏庭で無農薬野菜を栽培しても、図書館でマルクスを読んでも、体育館で合気道を稽古しても、それらのふるまいは彼らの「階級的怒りの表明」としてはたぶん理解されない。
「社会的メッセージのコミュニケーションのために使える記号の種類がきわめて限定された社会」においては、その社会の記号的失調に遡及的に言及しうるようなことばそのものが社会的に「記号として認知されない」という「出口なし」事況が出来する。
「チープでシンプルな社会」に対する怒りが記号的に有意であるためには、その怒りの記号そのものを「チープでシンプルな仕方」で発信する以外にオルタナティヴがない。
それが「アメリカの悲劇」なのだと私は思う。
だから、下層の人々はマクドをむさぼり食って、TVの前でいぎたなくポテトを囓り、ビールを呑んで、200キロの体重を誇示する。
肥満することは、彼らが豊かな食文化から疎外され、栄養学的知見から疎外され、効果的にカロリーを消費するスポーツ施設へのアクセスから疎外され、カウチポテト以外の娯楽を享受する機会から疎外されているという「被差別の事実」を雄弁に伝えるきわめてわかりやすい社会的記号だからである。
「記号としての肥満」、「階級的異議申し立てとしての肥満」。
そういう概念を動員しなくては、ある種のアメリカ人のあの以上な肥満ぶりを説明することはむずかしいだろう。
「単純な社会」においては、そのような社会の単純な成り立ちそのものについての異議申し立てさえ、誰にでもわかる単純な仕方で提示されなければ、異議申し立てとして機能しない。
このような社会において、知性が生き延びるチャンスはあるのだろうか?

平川克美くんの『反戦略的ビジネスのすすめ』(洋泉社、1600円)が11日に発売される。
見本刷りが今朝届いた。
巻末に平川くんと私の「インターネット往復書簡」も収録されているので、「パーシャル共著」である。
改めて読んでみる。
いやー、面白いなあ。
これは分類上はビジネス書のコーナーに置かれるんだろうけれど、こういうタイプの「ビジネス書」は、これまで存在したことがないから、本を手に取った人はずいぶんびっくりするだろう。
ぜひみなさんも店頭でごらんください。
面白いよ。
オススメです。

投稿者 uchida : 10:50 | コメント (0) | トラックバック

2004年11月01日

リスクとデインジャー

11月1日

日本人旅行者がバグダッドで星条旗にくるまれた斬首死体として発見された。
私もおおかたのみなさんと同じように、被害者に対しては、「ワニのいる川って、どんな感じがするんだろう」と思って泳ぎにいったらワニに食べられた人の旺盛な好奇心に対する敬意以上のものを抱くことはできない。
もちろん、彼がバグダッドでいろいろ怖い目に遭ったあとに、日本に帰ってきて「バグダッドなんて、言うほどたいしたことなかったです」とにこにこ笑うという可能性もあったわけで、その場合には「なかなか剛胆な人物だ」という評価を得ることだってありえたわけである。
基本的には確率の問題である。
テロリストにしてみれば、別にアンマンやカイロやエルサレムで日本人を拉致して、「イラクから自衛隊を撤兵せよ」要求したってよいわけである。
バグダッドにいて拉致されたのなら被害者の「自己責任」だが、アンマンで拉致された場合は「自己責任」ではない、という理屈は通らない。
同じように、別に永田町から小泉首相を誘拐して「イラクから自衛隊を撤兵せよ」要求したってよいわけである。
彼らだってできることならそうしたいであろう。
そうしたいけれど、あれこれと準備が面倒なのでしないだけである。お金もかかるし。
だから、「ここからこっちは自己責任」で、「ここからあっちは免責」というような境界線は原理的には存在しない。
あるのは「可能性の濃淡」だけである。
単純な話、そこが「テロリストが長物を抱えてぞろぞろ歩いていても、誰にも咎められないような場所」であれば拉致される可能性が高いというだけの話である。
私が芦屋駅前でイスラム原理主義者に拉致誘拐される可能性はたいへん低い(ゼロではないが)、それは別に私が革命的警戒心に横溢しているからでも、彼らに革命的勇猛心が不足しているからでもない。
単に、芦屋駅前をテロリストが長物を抱えてぞろぞろ歩いていたら、芦屋のおばさまたちが「あらいやだ、テロリストかしら」「まあ、いやだわ、奥様」「ははは」という徴候的会話をなすであろうことが自明だからである。
いくらなんでも、通りすがりの人の95%から「あら、テロリストかしら」という好奇の視線を浴びつつ、「あ、そんなやつ、別に殺しちゃってもいいです」と日本政府が言うに決まっている人間(私のこと)を拉致誘拐するのは、費用対効果が悪すぎるから彼らもやらないだけの話である。
だから、必要なのは、ことの善し悪しを二項対立的に判断することではなく、相手の立場における「リスクとコスト」を計量することである。
今回日本青年が拉致され殺害された最大の理由は、この政治的行動がテロリストにとって「信じられないくらい安いコスト」で実行可能だったからである。
気の毒な話だが、「テロのコスト」を値引きしたのは被害者自身である。

国際関係には「リスク」と「デインジャー」がある、ということを前に書いたことがある。
「リスク」とは計量可能な危険性、「デインジャー」とは、計量不能の危険性、リスク・マネジメントやリスク・ヘッジが「効かない」種類の前代未聞の事態のことである。
中東における戦争は今さらブッシュや小泉がどう言いつくろおうと、「デインジャー」ではなく、「リスク」の範囲のできごとである。
「狂人」サダム・フセインが「大量破壊兵器」で世界を破壊し、おのれも破滅するというシナリオはたしかに「デインジャー」であった。
ことが「デインジャー」であれば、ルーティンによる処理では対応できない。
なぜなら、「デインジャー」の定義は「ルーティンが想定していない事態」だからである。
それゆえ「ルーティン」としての国連決議を待つことなく「有志連合」でイラクを襲った…というのがブッシュ=ブレアの言い分であった。
世界のかなりの人々がこの言い分を受け容れた。
しかし、サダムは「狂人」ではなく、計算高い政治家であったし、大量破壊兵器も世界破壊計画も存在しなかったことが明らかになった。
つまり、イラクにあったのは「デインジャー」ではなく、「リスク」だったのである。
アメリカが典型的な仕方でやったように、「デインジャー」に対応するためには、短期的にパフォーマンスを「限界以上」に上げるしかない。
そのためには「幻想」や「イデオロギー」や「物語」をオーヴァードーズすることがどうしても必要だ。
アメリカはそうやって戦争に突入した。
いまイラクにいるテロリストはアメリカが戦争に入るときにやったのとまったく同じように「幻想」や「イデオロギー」や「物語」のオーヴァードーズで、パフォーマンスを異常に亢進させた人々である。
これを組織的に作り出したのはアメリカ自身である。
だが、「作り出されたデインジャー」というのは「デインジャー」の定義に悖る。
人間の賢しらがどうこうできない境位に発生する危険を「デインジャー」と定義するからである。
それゆえ、中東に起きている事態は「デインジャー」ではなく、「リスク」であると私はさきほどから申し上げているのである。
リスクであれば計量可能であり、予測可能であり、統御可能である。
このような局面で必要なのはイデオロギー的純粋でも、宗教的確信も、革命的情熱でもない。
「ソロバン勘定」ができる知性である。
私たちの世界にほんとうに欠けているのは、このリアルでクールな計量的知性なのである。
戦争が論件になるときに、怒り出す人間や泣き出す人間にはこの仕事は任せることはできない。
私がメディアに提案したいことがひとつある。
イラク戦争終結のシナリオについて、自分と違う意見に決して「反論しない」人間だけを集めて「朝まで生テレビ」をやってみてくれないだろうか。
それなら私も見るかも知れない。

投稿者 uchida : 10:43 | コメント (0) | トラックバック