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2004年09月30日

Will you still feed me, will you still need me, when I'm fifty four?

9月30日

Happy Birthday to me

というわけで今日は私の54回目の誕生日である。
関係各方面からお誕生日のお祝いメッセージ、お祝いの品々をいただく。
まことにありがとうございます。
お礼申し上げます。
合気道部の諸君からは「ミッフィーちゃんの巨大ぬいぐるみ」と「ハンチング」を頂いた。ミッフィーちゃんのぬいぐるみは「黄色いものを家の南方面に置いておくと運が開ける」という風水的配慮によるものだそうである。
ハンチングはどういう意図によるものかよくわからない。たぶん「これをかぶって学校に来てね」ということなのだろうが…
大阪の羽鳥さんからは大学事務室宛に「あやしいものではありません」と書かれた封筒が届いた(それだけで十分怪しい)。
中身は葉巻セットであった(開けるときに「先生、それ爆弾じゃないですか」とヒラヤマさんが机の下に身を隠そうとした)。
ヒラヤマさん、私はそこまで人に恨まれる覚えはないよ。
羽鳥さん、どうもありがとうございます。
角田優子さんからは「銀座のお寿司」をいただいた。ごちそうさまでした。
ブルーノくんはフランスから誕生祝いの電話をくれた。
ウッキーからは靴下をもらった。
「頭寒足熱」というコメントがあったが、意味がよくわからない。いい加減頭を冷やしたらどうかというサジェッションなのかもしれない。靴下をもらうのは二度目であるが、前回は合気道部からの贈り物で、そのときには「先生、このあいだ穴あいた靴下履いてたから」という、たいへんダイレクトな贈与品選択理由が提示されていた。
飯田先生からは「牛肉炒りの辛子味噌」をいただいた(誕生祝いじゃなくて、韓国旅行土産なのかもしれない)。
ヨシカワさんからはマドレーヌをもらった(誕生祝いじゃなくて、シャルルドゴール空港で貸した20ユーロの利息なのかもしれない)。
高雄くんからはビールとビーフジャーキーをもらった(誕生祝いじゃなくて、アメリカ土産なのかもしれない)。
イワモトIT秘書からはワインをもらった(誕生祝いじゃなくて、ただ手ぶらで来ると失礼かなと気を遣っただけなのかもしれない)。
三宅先生からは「三軸修正法ビデオ」をもらった(誕生祝いじゃなくて、「いつものおみやげ」だったのかもしれない)。
モリカワさんからは「モーツァルトチョコ」をもらった(誕生祝いじゃなくて、「旅行のおみやげ」ですと断言していた)。
るんちゃんからは「カード送りました」というメールをもらった(涙)。
るんちゃんからは何をもらっても泣いてしまう。
でも、みんなまとめて、あ・り・が・と・う。

投稿者 uchida : 23:09 | コメント (5) | トラックバック

台風の中の大学経営

9月29日

台風が接近してきて、じゃんじゃん雨が降っている。
三宅先生の治療を受けにゆく。
昨日一日机にむかって身じろぎもしないで仕事をしていたので、身体が歪みきっている。とくに頸椎のつまりがひどいらしい(これは目の疲れ)。
くいくいとほぐしてもらう。治療が終わったときには視界が急に明るくなっていた。
おみやげに池上先生ご出演の三軸ビデオをもらう。
最近、東京でも「三軸修正法」を名乗る診療所がだんだんふえてきたらしい。
池上先生の講習を一二度受けたくらいで、池上先生が名前も知らない人がそういう名乗りをすると、あれこれややこしい問題が起きそうだと三宅先生が暗い顔をしている。
困ったものである。
だからといって「三軸修正協会」みたいな法人をつくって承認のパスを出すようなことになると、膨大な事務量になるし権益も発生する。
そうなると治療と関係ないビジネスマンがつられて入り込んできて事務局長とか理事長とかにおさまり、協会を私物化、派閥抗争、訴訟合戦、ついに池上先生「私は三軸協会とは何の関係もありません」と怒りの声明…というような不安な未来が透けて見える。
どうしたもんでしょうね、と三宅先生がいうので、とにかく法人化はよしたほうがいいですよ、ということを申し上げる。
会社を大きくして収益を上げて社員をふやして自社ビルを建ててIPO…というふうに考えていたのはバブル期までの「好天型」経営モデルである。
横町の天ぷらやとか下丸子の鉄工所くらいの「おじさんひとり」の自営業がこれからいちばん先端的な経営スタイルなのである(ほんとかね)。
とりあえず、速効的な解決法を思いついたので、首をぐりぐりしてもらいながら三宅先生にお伝えする。
「池上先生の方が、名前替えちゃえばいいんですよ。三軸プラス時間軸で、四軸修正法」
だめかしら。

すこし回復したので、「よっしゃあ」と気合いを入れて大学へ。
理事会と教授会有志との懇談会。
私が着任してから14年のあいだで、教授会メンバーと理事会メンバーがさしで話し合いの場をもつのは、これがはじめてのことである。
おそらくそれ以前にもあまりなかったことだろうから、これはある意味では画期的な「情報開示」機会である。その点については話し合いの場をもちたいという教授会の意向を、そのまま受け容れてくださった松澤理事長に深く感謝をしたい。

しかし、「話し合いの場をもちたい」という要望があがったのは、「どうも、理事会との意思疎通がうまくいっていないのではないか」という懸念がこの数年教授会メンバーのあいだにつよく根を張ってきたからである。
そう懸念するにはそれなりの原因があるのだが、それについてはかかる場で詳述するわけにはまいらない。
ともあれ、大学教職員の多くは「どうも理事会は教育研究の現場でいま何が起きているのか、あまりご存じないらしい」という印象を抱くにいたった。
私は「聖域なき自己点検」を職務とする自己評価委員長という役職上、この問題をいろいろと検討し、関係各方面への聴き取りなども行った上で、「この意思疎通の障害は学内理事数を増員すれば解消されるであろう」という結論を得た。
それを理事長に「委員長私案」として具申したのが春先のことである。
本学の理事数は15名。うち学内理事は3名(院長、学長、中高部長)。つまり、大学代表者は15分の1にすぎない。
学内理事の比率がそもそも他大学に比して例外的に低い上に、大学代表が1というのは、やや不均衡のそしりをまぬかれないであろう。
本学は収入の80%を学生納付金に依存している。
つまり大学は本学の「税収」の80%を負担しているにもかかわらず、その「税収」の使途を決定する「国会」には定員の7%の議員しか送ることができないのである。
これはあまり民主的な比率とは言えぬであろう。
「代表なければ課税なし」というのは、アメリカ合衆国の独立戦争のスローガンであり、アメリカの大学を出られた方の多い理事会メンバーはみなさま熟知されているところであるが、残念ながらこの原則を本学に適用することは自制されたようである。
これまでそのような非対称があまり問題にならなかったのは、現場からの要望がほぼそのまま理事会に受け容れられてきたからである。
しかし、ここ数年、理事会と大学教授会のあいだではひとつの深刻な状況理解の齟齬が生じ来た。
それは「少子化にどう対応するか」という問題をめぐる意見対立である。

この日記でも繰り返し書いているとおり、大学マーケットであるところの18歳人口は1992年の205万人をピークにして、2020年には112万人にまで42%の減となる。
マーケットが6割にシュリンクしつつあり、かつ日本の青少年の学力が先進国間の国際比較でほぼ最低レベルにまで低下しているときに、高等教育の質を維持向上させるためには、「マーケットと一緒に大学もシュリンクしてゆき、その中でゆきとどいた少人数教育を行う」というのが不可避の選択であると私は考えている。
私が考えているだけではなく、これは教授会が教員削減を機関決定したときの前提であった。
ところが、理事会はこれに同意してくれない。むしろ、できることなら今以上に学生数を多く採っていただきたいという。
なぜなら、学生数が減ると収入が減るからである。
それくらいのことは私にもわかる。
しかし、誰でもわかることだが、志願者が減る中で、入学者数を増やすということは、これまでなら本学に合格しなかった学力レベルの学生を受け容れるということである。
それがどのような結果をもたらすかは誰にでも想像できる。
「神戸女学院?ああ、誰でも入れる学校ね」
ということになる。
そのような世間の風評などは収入確保というリアルな要請の前には問題ではないというのなら、しかたがない。
しかし、「誰でも入れる学校」に来たがる受験生はあまり多くない。
おそらくそのような風評が定着した段階で、本学受験者はネガティヴ・フィードバック的に激減するであろう。
定員割れをして閑散としたキャンパスに、「あまり来たくなかったけれど、ここしか受からなかったから」という学生たちが暗い顔をして歩いている…というのはあまり心楽しい風景ではない。
本学で学ぶ動機づけのない学生を教える現場の労力と心痛は、そうでない場合とは比較にならない。へとへとになった教員たちはもっとモチベーションのある学生たちのいる他大学に、チャンスがあれば移りたいと思うだろう。
学生も教員も「そして、みんないなくなった」というしかたで大学はその天寿を全うするのであろうが、私はできることなら、そのような日が到来することを一日でも先送りしたいと願っている。
ダウンサイジングを選択しない場合にも本学がこの熾烈な大学淘汰の時代を生き延びられると、どうして理事会のみなさんが信じていられるのか、私にはうまく理解できない。

残念ながら、話し合いの後でも私はうまく理解できないままである。
ビジネスマインデッドな理事のみなさんはどうやらこの期に及んで「攻めの経営展開」というものを構想されているようであった。
優秀な学生がどんどん集まってくるような「新機軸」をどうして大学教授会は提言してこないのか、とかなり不機嫌な声を私は聞いた。
悪いけど、それは「ビジネスマンの発想」である。

たしかにビジネスにおいてマーケットは原理的には「無限」である。
一年前に買ったパソコンをゴミ箱に棄てて、新機種に乗り換えるというような嗜癖的な消費行動を前提にして日本の資本主義はまわっている。
消費者の欲望に点火しさえすれば、モノはいくらでも売れる。
「新機軸で一発起死回生」というのはビジネスの世界では「常識」である。
しかし、それは大学では常識ではない。
大学のマーケットは有限だからだ。
大学を毎年「買い換える」人はいないし、生涯に何度も大学に「出入り」するひともいない。同年齢集団の約半数が生涯に一度だけ入る、というのが大学マーケットのサイズである。
それが急減している。2020年までの数値を挙げたが、その先の減少傾向にも歯止めはかからないだろう。
その趨勢の中で教授会が考えた「新機軸」は、戦後60年間続いた「右肩上がり」幻想に別れを告げ、「本学建学の原点に立ち戻り、ほっこりとして知的なカレッジライフを提供する」というダウンサイジングの選択であった。
私たちは数年にわたってこのプログラムを検討し、本学のもてるソフトハード両方のリソースを最大に効果的に用いるのは、これしかないだろうという結論を得た。
残念ながら、理事会はこの「新機軸」を検討に値しないものと退けた。
「会社のダウンサイジング」というのは、ビジネス的には「敗北宣言」に等しいから、ビジネスマンご出身の理事のみなさんが「もってのほか」という拒否反応を示すことは私にはよく理解できる。
しかし、大学はそういう種類の「ビジネス」ではないということは繰り返し申し上げねばならない。
理事のみなさんはしばしばアメリカの私学の経営モデルを参照されるが、そのときに重要なファクターをひとつ勘定に入れ忘れてはいないだろうか?
それは、アメリカは欧米ではまことに例外的な「人口増加国」だということである。
私たちが教学の現場で問題にしているのは、まずはマーケットのサイズの絶対的減少という与件である。
すべてはこの与件から出発している。
そして、この問題について「正解」を処方した大学は歴史上まだ存在しないのである。
その他、理事会について申し上げたいことは多々あるけれども、それは大学教育一般にかかわる議論の水準にはないことなのでここには書かない。

がっくりと疲れて台風の予兆の強風の中を家路につく。

投稿者 uchida : 09:33 | コメント (4) | トラックバック

2004年09月29日

『先生はえらい』

業務連絡

まず大事なことから
10月は休講がばたばたあるので、連絡しておきます。特に遠くからお越しのみなさん。間違えて来ないでくださいね!

大学院演習:9月28日(火)、10月5日(火)、10月12日(火)すべて休講となります。5日から開講予定でしたが、「卒論中間発表会」があるのを忘れておりました。12日は本学の創立記念日で休日となりますので、みなさんにお目にかかるのは19日からとなります。後藤さん、東京から深夜バスで来て「休講掲示を見て愕然」ということにならないようにご注意ください。渡邊さん、光安さん、大迫くんも「仕事休んで来たら休講かよ…ンナロー」ということになりませんように。
この業務連絡を見た院生・聴講生の方はただちに「了解」のメールを内田あてにお願い致します。またこのホームページ掲示を見ていなそうな学友には確認メールを送って、「休講掲示見た?」とささやいてあげてください。(いい加減にML作らないといけませんね。これを機会に作成いたします)
「了解メール」の宛先は
uchida@tatsuru.com

学部は「比較文化学特殊講義:ユダヤ文化論」が10月4日(月)、11(月)、18(月)休講となります。4日は学会、11日は祭日、18日は友人の葬儀のため。

月曜5限の体育(杖道)はTAのウッキーが代講してくれるので、時間割通りに実施されます。

10月21日(木)のF121フランス語、専攻ゼミ1も休講。(東京で講演のため)

こんなに私用で休講しちゃうと教務部長から譴責処分を受けるかもしれないなあ…


9月28日

オフなので一日仕事をする。
この「休日なので、一日仕事をする」というパターンからいい加減に足を洗う必要があるなあ。
しかし、オフの日に一気に片づけないと、両肩にのしかかる原稿負荷は私の背骨をへし折るであろう。
朝の9時から夜の7時半まで、ほとんどみじろぎもしないで(家から一歩も出ず、ごはんも前の晩につくった「豚汁」を暖め直して朝昼晩と三度食べる)、『先生はえらい』の最後の書き直しをする。
うう、肩凝ったぜ。

『先生はえらい』はすでに日記に何度も書いているとおり、橋本治先生企画のちくまプリマー新書(来年初春より刊行)の一冊である。
日本の未来を担う青少年たちにおじさんおばさんたちがこってりと説教をかましたろやないけという企図は壮大だがセールス的には楽観を許されないプロジェクトである。
橋本先生は創刊に当たり「敬語論」『ちゃんと話すための敬語の本』を書き下ろされる。
まずはモデルとしてその橋本先生の草稿を拝読しつつ、粛々として書き直しをする。
先生の語り口というのは、
「だから私は『自信をもって分かんない』などという図々しいことを言います。私はそういうへんてこりんな言い回しが好きなので、嬉々として、『俺、もうなんにも分かんない。自信をもって分かんない。ああ楽だ』などと、とんでもないことを言うのです」
という、あれですね。
ご存じのように、私は文体的には小田嶋隆、村上春樹、椎名誠、高橋源一郎、ジャック・ラカンといった偉大なる諸先輩の影響を濃厚に受けてきたわけであるが、とりわけ『桃尻娘』以来の橋本先生の薫陶を受けて久しい。
であるから、橋本先生のテクストをかたわらに自作原稿に加筆修正するというのは、私にとってほとんど「臨書」に類する自己啓発的経験なのである。

『先生はえらい』というのは、タイトルからおわかりいただけるように師弟論である。
「先生はえらくない」ということを声高に主張する書物は巷間広く流布しているが、「先生はえらい」と主張する本はあまりない。おそらくほとんどない。もしかしたら一つもないかもしれない。
「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されている。
先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々のお気持ちも、ウチダはわからないでもないが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが私の趣旨である。

私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではない(そんなことを言っても何も始まらない)。あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもない(そんなことを言っても誰も聞きゃしない)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという同語反復を断固主張するところの書物なのである。
同語反復してどうするんだ、という反論もおありだろうが、長く人生をやってきて分ったことのひとつは、人間に関する実効的な命題のほとんどすべては「同語反復」だということである(これについてはかのウィトゲンシュタイン先生も私と同意見である)。

「これまでの先生はえらい/えらくない」論は、おもに「先生」の方に軸足を置いた議論であった。
「どういう先生だったら生徒は言うことを聞くのか」とか「どういう先生だから生徒はなめてかかるのか」というような「先生」の実定的条件を論じるものが「教育論」のかなりの部分を占めていた。
私はそういう方法を採らない。
採りたくても、採れない。
だって、教育現場の事情をよく知らないから。
20年ばかりの大学教師経験から教育一般を論ずるのは「葦の随から天井覗く」に等しい。
私が行ったのは「えらい」の構造分析である。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」という分析的・権力論的アプローチである。
これなら私も理論的に熟知している。
というのは、私がこの三年ほど集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからである。
このことに気づいた研究者はあまりおられないが、実はそうなのである。
あの方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのである。
知らなかったでしょ。
私も最近まで知らなかった。
そうじゃないかな、とうすうす疑ってはいたのであるが、ラカン老師の次のことばを読んだときに目から鱗が剥離したのである。
ラカン老師は、ほとんどパリの全知識人およびウッドビー知識人がエコール・ノルマルの階段教室にひしめいたあの伝説的なセミネールの開講に当たって、こう言われた。

自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。(「セミネールの開講」、『フロイトの技法論(上)』)

ああ、やっぱりそうだったのか。こ、これこそが「えらい」の本質構造だったのか…とウチダは頁をめくる手を震わせながら烈しく喘いだのでありました。
ともあれ、そのようにして目から鱗が剥離したあと、私は両老師のご高説をすべて「えらい」の構造分析というアプローチから眼光紙背に徹するまで読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したのである。

「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものである。
ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつである。
「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆかないが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂くのである。

投稿者 uchida : 09:29 | コメント (0) | トラックバック

2004年09月28日

休講ばかりですまんです

業務連絡

まず大事なことから
10月は休講がばたばたあるので、連絡しておきます。特に遠くからお越しのみなさん。間違えて来ないでくださいね!

大学院演習:9月28日(火)、10月5日(火)、10月12日(火)すべて休講となります。5日から開講予定でしたが、「卒論中間発表会」があるのを忘れておりました。12日は本学の創立記念日で休日となりますので、みなさんにお目にかかるのは19日からとなります。後藤さん、東京から深夜バスで来て「休講掲示を見て愕然」ということにならないようにご注意ください。渡邊さん、光安さん、大迫くんも「仕事休んで来たら休講かよ…ンナロー」ということになりませんように。
この業務連絡を見た院生・聴講生の方はただちに「了解」のメールを内田あてにお願い致します。またこのホームページ掲示を見ていなそうな学友には確認メールを送って、「休講掲示見た?」とささやいてあげてください。(いい加減にML作らないといけませんね。これを機会に作成いたします)
「了解メール」の宛先は
uchida@tatsuru.com

学部は「比較文化学特殊講義:ユダヤ文化論」が10月4日(月)、11(月)、18(月)休講となります。4日は学会、11日は祭日、18日は友人の葬儀のため。

月曜5限の体育(杖道)はTAのウッキーが代講してくれるので、時間割通りに実施されます。

10月21日(木)のF121フランス語、専攻ゼミ1も休講。(東京で講演のため)

こんなに私用で休講しちゃうと教務部長から譴責処分を受けるかもしれないなあ…

この「休講掲示」はしばらく毎日掲載しておきます。

9月27日

後期開講。
「ユダヤ文化論」の講義が今日から始まるので、あわててノート作り(そういうことするなよ、その日の朝に)。
あまり知られていないことだが、私はユダヤ文化論の専門家なのであった(本人も忘れていた)。
担当コマ数は6つあるのだが、演習ばかり4科目で、総文の専門講義科目というのをひとつもやっていない(演習の他にはフランス語初級と体育)。
それでは他学科の学生さんに私の専門的知見をご披露する機会というものがないということに思い当たって、今年は後期だけ講義をすることにしたのである。
来年はこのコマで「現代霊性論」というのを釈先生と対談形式の合同講義で行うことになっているので、ユダヤ文化論は今年でおしまい。
このユダヤ文化論はたいへん生産性の高い科目で、教室ではこのノートをネタに授業を行い、ノートをばら売りして『B學界』に連載し、連載終了後はそのままB春新書にしてしまおうという「一粒で三度美味しい」企画なのである。
考えてみると、私はなにごとによらず「一粒で二度、三度」という効率的な時間の使い方を好む傾向が強い。
「どうも授業の担当コマ数が多すぎて武道の稽古時間が足りないなあ…」と思ったときには「あ、武道を授業でやればいいんだ」というアクマのごとき知恵が閃いたし、「名越先生とときどき美味しいものを食べながら、おしゃべりなんかしたいなあ…」と思ったときには、「あ、名越先生との対談をどこかの出版社に売り込めばいいんだ(ただでシャンペンが飲めるじゃないか)」というセコイ知恵が閃いた。
もともと松下正己との『映画は死んだ』にしても、松下くんと電話で映画についての終わりなきバカ話をしているときに、「これをそのまま本にしたら…」ということで思いついた企画だった。
ナバちゃんとの共著『現代思想のパフォーマンス』も、大学の授業で「20世紀の批評理論」を1年間やったときに作ったノートをほとんどそのまま流用したものだし、その『現代思想のパフォーマンス』のさらに短縮版が『寝ながら学べる構造主義』である。
池上先生との対談本でも、会えば先生に山のようにご馳走になって、三軸自在で治療を受けて身体の歪みを補正してもらって、ついでにおみやげまでもらって帰ってくる。
先週の朝カル対談だって、「三砂先生にたまにあっておしゃべりしたいな…フジイくんの顔も見たいし」ということででかけたのであった。
態度悪いよな。

そのユダヤ文化論には「ブザンソン組」が何人か来ている。
おそらくフランス滞在中の私の言動を間近に見て、「ウチダ与し易し」と看破したのであろう。
「ウッチーなら単位ぜったいもらえるよ。甘いもん、ウッチー」
というようなアンダーグラウンド情報が飛び交ったのやもしれぬ。

続いて杖道。
こちらは「業務命令」で合気道部、杖道会のメンバーの履修を義務化したので、知った顔ばかりである。
ここにもブザンソン組のキノシタがいる。
ヒロセという名札をつけた服を着ているので、「キミはいつからヒロセくんに改名したのかね」と訊ねたら、すました顔で「はい、今日からです」と答える。
あきらかに「ウチダ与し易し」という人物評価がフランスにおいて定着してしまったようである。
その杖道のお稽古をA日新聞が取材に来る。
先般のインタビューの続きで、「武道するウチダ」の絵が欲しい、ということでまたまた「ヤラセ映像」を撮影する。
16日は帰国翌日の時差ボケ頭。顔にはアブラが浮き、赤白の斑点だらけで、こんな顔が新聞に出たら街を歩けないと思っていたのであるが、昨日は後期開講日、顔には「まるちゃん」の縦線が入った状態であり、ますます表を歩けない。


投稿者 uchida : 10:49 | コメント (8) | トラックバック

2004年09月27日

「濃いーーい」週末

9月26日

土曜日は朝日カルチャーセンターで三砂ちづる先生との対談。
合気道の稽古をお休みさせていただき、昼過ぎに新幹線に乗り込む。
テーマは「オニババ化する社会」と勝手に決める。それなら、私はただ三砂先生のお話を「ほうほう」とうかがっていればよいので、まことに気楽である。
車中で橋本治先生の『ああでもなくこうでもなく3』を読む。
さすがに「濃い」。
感動した箇所は多々あるのであるが、次のところがいちばん「来た」ので採録させていただく。

「クロートというのは『技術』によって成り立っていて、その『技術』とは仮面のようなものである。(…)クロートというのものは、自分の技術で『自分』を覆い隠してしまう。だから、クロートには『自分』がない。有能な技術者が家に帰ったら『無能なお父さん』になってしまうことがあるのもそのためで、有能なクロートの専業主婦が、ときどき『私の人生ってなんだったの?』と悩んでしまうのもそのためである。しかし、それでいいのである。クロートにとって『自分』とは、『自分の技術』という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体『自分』ではないのである。一本の樹木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが『自分』という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だから、クロートは技術しか問題にしない。クロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。(…)
 ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは『自分』を覆い隠すことが出来ない。すぐに『自分』を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう。『自分とはなんだ?』などと。
 クロートはもちろん『自分とはなんだ?』なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、『自分の技とはなんだ?』と考える。『自分のやってきたことはなんだ?』という悩み方をする。クロートが『自分とはなんだ?』と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートはそれだけで自殺してしまう。」(橋本治『ああでもなく、こうでもなく3 「日本がかわってゆく」の巻』、マドラ出版、』2002年、347-8頁)

どうして「来た」かというと、ほとんど同じことばを「ビジネスのクロート」である平川くんの『反戦略論』(もうすぐ洋泉社から発売)の中で読んだばかりだからである。
平川くんはこう書いている。

「あるときわたしが社長をしていた会社の女子社員のひとりが、会社を辞めたいというので、ではそのわけを聞かせてくれないかということになりました。
彼女が言うには、『この会社では自己実現できない』というものでした。『えっ? 自己実現て何なの』というのがわたしの最初の反応でした。
 当時社員数は20人ぐらいだったでしょうか。わたしの会社はおそろしく定着率の良い会社で、いわゆる寿退社以外にはほとんど会社を辞めようなんていう人はいませんでしたので、この女子社員の小さな『反乱』はちょっとした風を社内に持ち込みました。
 自己実現とは、自己の能力や可能性の全てを開花させるというような意味なのでしょうが、それがどのようにすれば『実現』できるのかについては、誰も答えをもっていないような欲求であるといわねばなりません。
 なぜなら、能力も可能性も、それが実現してみて初めて了解できるものであり、事前にそれぞれの人に登録されているリソースではないからです。
 『この会社では自己実現できない』と言った社員は、『別の会社でも自己実現できない』はずです。自己実現は、その定義からして環境によって実現しうるものではなく、自己実現といったものを実感したときには、すでに環境も変化しているというように、すべては事後的にしか実感できないものであるからです。
 いや、事後的にも実感できないといった方がいいのかもしれません。自己実現とは将来実現する能力や可能性なのではなく、ただ、現在の欠落感としてしか実感できないものであるといえるのではないでしょうか。」

「自己実現」とか「自分探し」ということばが、現代において支配的なイデオロギーの産物であり、これはあまりよい結果をもたらしていないということは、私もこれまであちこちで書いてきたけれど、期せずして私の敬愛するふたりの書き手も同じことを述べている。

「自己」というのは橋本先生が言うとおり「土壌」のようなものである。
あるいは「繁殖能力」(fe´condite´)といってもいい。
そこ「から」かたちあるものが出てくるのであって、それ自体は「エネルギー」や「トラウマ」と同じく、ある種の「仮説」であって、「はい、これ」と言って取り出せるようなものではない。
「そこから出てきたもの」を見てはじめて事後的に「こういうことができる素地」というかたちで「自己」は認証される。
でも「素地」というくらいだから、どんなものだかよくわからない。
定量的に語ることはたぶん誰にもできない。そこから生えてきた樹木のクオリティを見て、土壌としての生産性や通気性や保水力を推し測ることができるだけである。

「この会社では自己実現できない」という言明を発した人の場合、「そういう会社をみずから選択して、そこで『無駄な日々』を便々と過ごしてきた自分」というのが、とりあえずはそのひとの「樹木」である。そして、そのようなものしか育てることができなかった「土壌」がそのひとの「自己」である。
人間はその意味では、そのつど「すでに自己実現してしまっている」のである。
もし、そこで実現したものがあまりぱっとしないと思えるなら、樹木が生え来た当の足下にある「土壌」の肥沃化のためのプログラムをこそ考慮すべきだろう。
「土壌の肥沃化」なんていうと、すぐにあわてものは「化学肥料」や「除草剤」の大量投与のようなショートカットを思いつくだろうけれど、そういうのがいちばん土壌を痛めつけるのである。
土壌を豊かにするための方法はひとつしかない。
それは「繰り返し」である。
若い人にはわかりにくいだろうけれど、ルーティンをきちきちとこなしてゆくことでしか「土壌を練る」ことはできない。
土壌肥沃化に特効薬や即効性の手段はない。
土壌そのものが繁殖力を拡大再生産するようにするためには、一見すると「退屈な日常」としか見えないようなルーティンの繰り返ししかないのである。
その忍耐づよい労働をつうじて土壌の成分のひとつひとつがやがてゆっくり粒立ち、輝いてくる。
「練る」というのは、そういうことである。
「技術」というのは、千日万日の「錬磨」を通じてしか身に付かない。
ハウツー本を読んでたちまち身に付くような「技術」は三日で剥がれるし、バリ島やニューヨークに行ったり、転職するだけで出会えるような「ほんとうの私」からはたぶん何も生えてこない。

なことを考えながら東京へ。
新宿住友ビルの朝日カルチャーセンターに三砂先生、白石さん(医学書院)、足立さん(晶文社)という「いつものメンバー」が集合(安藤さん(晶文社)は「娘の誕生日」で欠席。「キャリアより家族がだいじ」という対談の結論を先取りしたような賢明な選択である)。
対談は『安達原』と「オニババ」のシンクロニシティ話から始まり、爆笑のうちに定時を過ぎてもさっぱり終わる気配がなく、30分オーバーしてようやく終演。
それでも二人ともしゃべり足りないので、三砂軍団の美女のみなさんにフジイもまじえた10人で新宿の「西湖」にどどどと乱入し、『オニババ化する女たち』と『死と身体』の刊行を祝って乾杯。
三砂先生に対しては「40−50代のフェミニスト」からのバッシングがすごいらしい。
たぶん彼女たちがこれまでのやってきたことを否定されたように感じるのかもしれない。
若い編集者が三砂先生の本の企画を上げると、「50代マルフ」の上司が「こんなもん出す気なの」と氷のような視線をするのだそうである。
おおテリブル。
しかし、フェミニズムを否定したり、戦ったりしてはいけないというのが私の持論である。
マルクス主義やフェミニズムのような対抗的イデオロギーは「それに反対する立場」の存在によって活力を補給し延命するという構造になっている。だから、その歴史的使命を終えたフェミニズム・イデオロギーに退場願いたいと思うなら、それをきびしく批判するのではなく、むしろ静かにその歴史的功績をたたえる「祝福」のことばをこそ送るべきなのである。
「イデオロギーの鎮魂」というのはとてもたいせつなことである。
わいわいしゃべっているうちにあっというまに12時となり、学士会館の門限を過ぎる。あわてて電話して「玄関あけておいてください」と懇願して、タクシーを飛ばして帰る。
三砂先生とは12月にまたこのつづきがある。こんどは私も着物を着てゆく。


早朝起床。ただちに新幹線に身を投じて芦屋に戻る。
車中、平川くんの『戦略論』の「おまけ」の巻末往復書簡(こればっかだね)を執筆。
家にもどって昼寝。
夕方ぼんやりと起き出して、シャワーを浴びて目を覚ましてから大阪へ。名越康文先生との対談の最終回である。
場所は福島のVarier ここは『ミーツ』のお薦めレストランということで、新潮社の足立さんが予約してくれたのである。
名越先生が秘書のかたを伴って登場(いいなあ、秘書がいて)。さっそくシャンペンで乾杯。
話題はもちろん名越先生出演の人気TV番組「グータン」の裏話。
「えええ、あの人って、そうなんですかああ」
的な「ここだけの話」がばんばん聴けて、たいへん幸福な気持ちになる。
もちろんテレビの話はまるごとカットなので、本にはならない。
しかたなく構想通り『14歳の子どもをもつ親のために』という教育的かつ分析的話題にもどる。
飯も美味しいしワインもうましで、だんだん舌の運びもなめらかとなり、日本社会は「とことんまで矛盾を拡大しておいて、最後にもうどうしようもなくなって一気にひっくり返す」という危険なやり方(私が「総長賭博方式」と呼ぶもの)で構造改革を実現しようとしているのでないかということで名越先生と意見の一致を見る。
4時間半わいわいしゃべって、お店の人の「営業時間とっくにすぎてんだけど…」的視線がちょっと冷えてきたので、やむなく話を畳んで対談を打ち上げる。
いやあ、面白かった。
名越先生とはまた違うかたちでぜひジョイントの仕事をしてみたい。

投稿者 uchida : 08:43 | コメント (1) | トラックバック

2004年09月24日

『オニババ化する女たち』

9月23日

三砂先生から送って頂いた『オニババ化する女たち』を読む。

「オニババ」を三砂先生は次のように定義する。

「社会のなかで適切な役割を与えられない独身の更年期女性が、山に籠もるしかなくなり、オニババとなり、ときおり『エネルギー』の行き場を求めて、若い男を襲うしかない、という話だったと私はとらえています。
この『エネルギー』は、性と生殖に関わるエネルギーでしょう。女性のからだには、次の世代を準備する仕組みがあります。ですから、それを抑えつけて使わないようにしていると、その弊害があちこちに出てくるのではないでしょうか。」(3-4頁)

すごいな、三砂先生は。
ひとことでいえば(ひとことで言うのは失礼だけれど)、三砂先生の主張は、「はやくセックスしなさい」「誰でもいいから結婚しちゃいなさい」「とりあえず子どもうんじゃいなさい」ということになる。
こ、これはすごい。
「大人になると何が楽しいかといえば、昔は『セックスができる』ということにつきたわけです。」(211頁)
「つきたわけです」と言い切ってしまうところがすごいです。
「めかけのすすめ」とか「卵子の気持ち」とか「子宮を空き家にしてはいけない」とか、もう縦横無尽。
「負け犬」論争にも言及して、三砂先生はあそこで「負け犬」を自称している女性たちは社会的には「強者」であると看破している。
「今までずっと優秀で来て、勉強も仕事も見事にこなしてきたけれど、ふと気づくと結婚していなくて、キャリアウーマンになってしまっているので、あえて『負け犬』と自称しているという感じですよね。そしてそれはごく少数の、インテリ層の人たちの目に映っているような『エリート女性』の話で、ごくふつうの女性の話ではないと思います。」(139頁)
なるほど。
「負け犬」諸君も内心では「ちょっと条件を緩和すれば、結婚することなんて簡単なんだけど、なんか、安売りしたくないのよね」と思っているわけか。
マインドセットを切り替えさえすれば、いつでも「負け犬」状態はリセット可能であると思っているからこそ、にこやかに「負け犬なんですう。きゃいん♡」と言っておられるわけである。
三砂先生が問題にしているのは、そういう余裕のある方々ではなく、本格的な性的弱者である。
「放っておいたら、自分で相手もみつけられないような人たちのほうが、本当は数がおおいのだと思います。弱者という言い方をすると非常に語弊があるのですが、メスとして強くない人、エネルギーがそんなにない人たちのほうが本当は多いのではないでしょうか。」(139頁)
女性性を開花させる機会を逸したまま「オニババ化」するこのタイプの女性たちがもたらす社会的害悪をどのように最小化するか。三砂先生はそのように問題を立てる。
だから、「いいから、結婚しちゃいなさい。男なんて、まあ、どれも似たようなもんなんだから」とむりやり所帯を持たせた方がよろしい、というのが三砂先生のご意見である。
こういう考え方はフェミニストからは「女性の自立と自己決定を損なう父権制イデオロギー」として猛然と批判されてきたわけだけれど、少なくても「女として生きろ」というメッセージは発信してきた。
しかし、いまの女性たちには「女として生きろ」というようなはっきりした指針はもう誰からも示されない。
「好きにしていいのよ」
「そうそう、結婚なんかしなくていい。ずっと家にいればいいじゃないか」
「結婚なんかしても、いいことなんか、なんにもないんだから、ね、お母さんを見てるとわかるでしょ?」
「…」
という仲が悪いわりには妙に物わかりが良い親たちの囲い込みの中で、若い女性たちは組織的に「女として生きる」機会そのものを奪われている。

ここで「女として生きる」というのは、エロス的な活動を中心にして生きるということである。
エロス的活動というのはセックスや結婚には限られない。育児だってそうだし、親密圏の構築だってそうだ。
どのようなものであれ、「世代間で、何かたいせつなものを受け渡す」場に当事者としてかかわっているときに、人間は自分の中に「軸」や「芯」が通るのを感じる。
時空を超えて、長いリンクにひとつの環として自分はいま連接しているという実感を覚える。
もちろん経済活動だって、コミュニケーションの一種であり、私たちはたしかにそこで「他者とつながっている」という感覚をもつことができる。
というより、「他者とつながりたい」がために人類は貨幣を発明し、株式を発明し、マーケットを発明したのである。
しかし、経済活動だけではやはり人間の「他者とつながっていたい」という根本的な飢えを満たすには足りない。

ご存じのとおり、レヴィ=ストロースは「他者とのつながり」に三つの水準を設定した。
財貨サービスの交換、メッセージの交換、そして「女の交換」である。
経済活動、言語運用、親族制度。
この三つの水準で交換がバランスよく果たされているときに、人間は自分を「人間らしい」と感じることができる。
というか、人間の定義そのものが「この三つのレベルで交換を行うことに愉悦を感じる動物」というものなのである。

レヴィ=ストロースによれば、「男は『他の男が娘または姉妹として所有していた女』を受け取った反対給付として、自分の娘または姉妹を他の男に提供しなければならない」というのが「女の交換」の基本原理である。
フェミニストがどうして「男の交換」ではなくて「女の交換」なのか、それこそ男性中心主義的発想であるとさんざん批判したけれど、そんなこといわれても困る。
だって、「男の交換」では親族は形成されないからである。
「男の交換」とは「奴隷の交換」であり「労働力の交換」であり、所詮は経済活動である。
男はリプロダクションのリソースではないからだ。
当然でしょ?
次世代を再生産するためには、相当規模の社会集団でも、男は「種オス」が一人いれば足りる。
男の交換価値は「奴隷」としてのそれに限定されており、男には人類学的な意味での性的価値はないのである。
だから男なんかいくら交換しても親族は形成されない。
「女として生きる」というのは、この人間的コミュニケーションの場で、自分を「財貨・サービスの提供者」としてよりむしろ「親族形成の主体」として立ち上げるということである。

おっと堅い話になってしまった。これは明日三砂先生との対談でお話するとして、あとひとつだけ、大笑いしたところを引用。

「身の回りでよく見ることですが。たとえば看護婦として病院で働いている女性で、三十代半ばでとても綺麗で独身で、という人は、だいたい医者のそういう相手がいます。『いつかは君と一緒になるから』って言われていますけど、『なんないよっ』って言いたくなります。」(214頁)

とにかく抱腹絶倒の目ウロコ本であるので、若い学生諸君はただちに書店で購入するように。
それからフェミニストのみなさんからの熱い反論をお待ちしています。

オニババ化する女たち オニババ化する女たち(光文社新書)

投稿者 uchida : 10:27 | コメント (32) | トラックバック

2004年09月23日

鬼婆譚新解

9月22日

一月ぶりに下川先生のお稽古。
ブザンソンに『巻絹』と『安達原』のテープと舞扇まで持参したのであるが、ついに一度もホテルの部屋でお稽古する機会がなかった。
やっぱ、フランスの秋の空と能楽はちょっとミスマッチだったか。
道順をほとんど忘れていたので、早起きして1時間半ほど謡と『巻絹』の仕舞の稽古をする。
リビングはフローリングでそこそこのスペースがあるので、仕舞のお稽古はやろうと思えばできるのである。でも、ここにもうすぐソファーが入ってしまうので、もうお稽古はむずかしくなる。
必死に予習していったので、先生には「なかなかしっかり稽古していましたね」とおほめいただく(泥縄なんだけど、ほんとは)。
10月の末に内輪の練習会があって、そこで『巻絹』の仕舞と素謡『安達原』のシテをやることになった。
『巻絹』は巫女が神懸かりしてトランス状態になるという舞。
これもむずかしいが『安達原』もむずかしい。
これはご存じ鬼婆のお話である。
私は「ふつうのリラックスばーさん」「警戒心をもったばーさん」「色気の出たばーさん」「挙動不審のばーさん」「鬼婆」を謡い分けなければならない。
ほかはともかく「色気の出たばーさん」というのが難物である。
なぜかというと、ちょっと長い話になる。

能の曲を見ていると、「一夜の宿を貸したまえ」という申し出に、宿の女主人が「いやです」とまず断るが、「そこをまげて」と押されると、やむなく一夜の宿を貸すことになり、そうなるとなんだかいきなり旅人さんと女主人がインティメイトな物語を始める…という展開が非常に多い。
今回役の解釈上『安達原』を熟読玩味した結果、これはもしかして「一夜の宿を貸す」ということは、あちら関係のことをも含意していたのではないかと想像されたのである。
鬼婆は最初は旅の僧の止宿をこう言って拒む。
「人里遠きこの野辺の。松風烈しく吹き荒れて。月影たまらぬ閨の内には。いかでか止め申すべき」
「月」が女性のmenstruationを意味することは古事記以来の用語法である。「たまる」は「停止する」である。
「閨」はむろんベッドルーム。
つまり、「私はまだ現役です」とこの鬼婆は申しておるのである。
これに対して旅の僧が「ただ泊まらんと柴の戸を」ごりごり押すわけである。
しかたなく鬼婆は「さすが思へば傷はしさに」と根負けする。
これに地謡が「さらば留まり給えとて。樞を開き立ち出ずる。異草も交じる茅筵。うたてや今宵敷きなまし。強いても宿を狩衣」と続くのである。
「異草も交じる」ですよ。
そのベッドマットを「あらまあ今夜も敷くのかしらん…」「ふふふ、いやとはいわせんよ」という展開なのである。
そうして「今宵留まるこの宿乃。主の情け深き夜の」「月もさし入る」「閨の内に」というものすごくエロティックなデュエットが始まるのである。

網野善彦さんの本か何かで読んで驚いたのだが、中世において「旅をする」人間は性的には世俗的な規制を受けなかったらしい。
女性の一人旅が多く、それが安全に行われ得たのは、中世の治安がよかったからではなく、原則として、一人旅の女性がどこかで一夜の宿を借りるというのは、一時的アジールの提供の代償に、宿主と性的交渉を持つことが前提とされていたからであるというのである。

そういう中世における性規範を勘案すると、この『安達原』という物語が単なる恐怖譚ではないことが伺い知れるのである。
つまり、この陸奥深くに棲まう女性は性役割を逆にして考えると、「一時的アジールの代償に性交渉をすることを自明とする」旅の男たちと一夜かぎりの契りを繰り返してきたのである。
そして、そのときだけ男たちはちょっと「やさしいこと」を言ったりする。
『安達原』だと「かかる浮き世にながらへて。明け暮れ暇なき身なりとも。心だに誠の道に叶いなば。祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん」というふうに僧が鬼婆(ということはまだばれていない時点で)に「あんたかて、あんじょう念仏となえはったら成仏できまっせ」というふうに甘いことを言うのである。
そして、男たちはそういう甘い幻想に女をいっときひたらせておいて、払暁には必ず宿を去ってゆく。
そういうことを繰り返しているうちに、おそらく彼女は男たちを引き止めておきたくなったのであろう。
Ne me quittez pas  ベイビー、ドント・ゴーである。
しかし、男をとどめおく方法をこの芸のない「賤が女」は思いつかない。
彼女は何をしたのか。
おそらく男たちが旅を続けられず、そこにとどまる他ないように身体の一部を(おそらくは足を)切断したのであろう。
そうやって死んでいった男たちの死骸が「数知らず、軒と等しく積み置きたり」というのである。
そうやって思うと、鬼婆伝説はまことに切ないほどにエロティックかつホリブルな物語なのである。

素謡ではだいたい「飛ばす」ところがある(全曲やると時間がかかりすぎるからであると説明されている)。『安達原』では「賤が績麻の夜までも」から「音をのみひとり鳴きあかす」までの部分がショートカットされるのであるが、これはウチダ的解釈による物語の構成上で言うと、要するに「されているあいだ」なのである。
つまり、R指定だったんですね、これが。

三砂ちづるさんから本が送られてきた。題名は『オニババ化する女たち』。
おお、これは何というシンクロニシティ。
おそらく三砂先生が「オニババ」と呼んでいるのもまた、その性的衝動がうまく社会関係に表象されず、暴力性や排他性に転化した女性のことなのではないのかしら(まだ読んでないんだけど)。わくわく。
今週の土曜日は東京の朝日カルチャーセンターで三砂先生と対談なんだけれど、もしかすると「オニババ談義」になるかもしれないな。

網野さんのどの本か気になったので(私は記憶がいいかげんで、書いていないことを読んでしまうことがある)上のテクストをアップロードしたあとに、手元の本を調べてみた。
ちゃんとあった。

出典は『異形の王権』(平凡社ライブラリー)。関連箇所を少し引用しておく。

私はこうした一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか、と考える。『御伽草子』の「物くさ太郎」に「辻取とは、男もつれず、輿車にも乗らぬ女房の、みめよきを、わが目にかかるをとる事、天下の御ゆるしにて有なり」とあることは周知の通りである。道を行く女性に対する女捕、辻捕は『御成敗式目』をはじめ法令でしばしばきびしく禁じられているにもかかわらず、一方では天下の公許ともいわれているのである。これは供も連れず、輿にも乗らないで道を歩く女性−一人で旅する女性が、男に「捕えられる」ことをむしろ当然とする慣習があったことを前提にしなくては理解できない。(・・・)ルイス・フロイスは『日欧文化比較』で、「日本では娘たちは両親にことわりもしないで、一日でも数日でも、ひとりで好きなところへでかける」「日本の女性は夫に知らせず好きなところに行く自由をもっている」といい、また「日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉を失わなければ、結婚もできる」と嘆かわしげに書いているが、これは女性の一人旅の社会的背景をよく物語っているとともに、家父長権とむすびついた女性の貞操観念は、かなりのちにならないと固まらないことを示唆している。(91−93頁)

「一夜の宿を貸す」ということがエロス的関係をつねに含意していたのかどうか、それはわからないが、侠客映画の世界では、「一宿一飯の恩義」の代償がしばしばずいぶん高くつくことから推察して(健さんはたいていそのせいで「あんさんには何の恨みもござんせんが」と言いつつ大木実や菅原謙次を斬ってしまう)、「宿を借りる」というふるまいが起源的には単なるBed & Breakfast 以上のぬきさしならない関係を指示していたと考えることはできるだろう。


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2004年09月21日

邪神の午後

9月21日

合気道秋合宿無事終了。
例年になく暑い合宿だったけれど、参加者38名は過去最高。
現役学生はモリカワ主将以下16名。
かなぴょん、エグッチ、岸田さん、ウッキーと歴代主将が顔を揃える(ヤベッチはコロセウム前で自動車事故にあったために今回は不参加。ミネソタで休養中らしい)
最近一大勢力となりつつある芦屋男子部の面々も全員が参加して強烈なプレゼンスをアピールした。
名色高原ホテルは今回われわれのために「バーベキューハウス」を新築してくれた。
初日はまだ時差ボケが抜けず、午後8時にすでに就寝体制に入ったために師範命令によって「宴会はなし」を一方的に宣言。
二日目は無事に昇段級審査も終わり、みなさんご機嫌でバーベキューをむさぼり喰い、ビールを痛飲。たちまち放歌高吟談論風発落花狼藉の宴会モードとなる。
宴会終了宣言後も、和平に反対する一部過激派の諸君は後方支援なき焼酎痛飲戦線での無謀なゲリラ戦に突入した。翌日、戦線のスポークスマンからは「損害は軽微であり、士気には何の影響もない」との声明がなされたが、予想外の強靱な抵抗に遭遇し、I田先生の肝臓方面には相当の被害が出たものと推察される。

今回の合宿での昇段者は“ドクター”佐藤。晴れて栄光の「ザ・ブラックベルツ」入りを果たし、1年生7名と3年生2名、芦屋組の“株屋の美女2号”谷尾さんとともに「ザ・ハカマーズ」メンバーとなった(ぱちぱち)。
これで、芦屋男子組からの昇段者は石田“社長”に続いて二人目。
このほかウチダの「フランス人弟子第一号」であるところのブルーノ・シャルトンくんも今回推薦での初段昇段が内定している。
“社長”石田、“ドクター”佐藤、“IT秘書”がんちゃん、“パリ市警”ブルーノくんの黒帯四人を相手の演武を来夏芦屋でやってみるかな。これ、けっこう愉しそうだね。

22日から仕事始め。
夏休みはもう終わってしまったのだ。
この夏休みの間には「今日は何もすることがないなあ、プールでも行って、ワルター・ワンダレイの『サマーサンバ』を聴いて、日向でビール呑んで、ヘミングウェイでも読もうかな」というような日が一日もなかった。
そういう日ばっかりだった夏もむかしはあったのに(しくしく)。
どうしてこんなに忙しくなってしまったのだろう。
電話やファックスやメールで次々と仕事の依頼が来る。どんどん断る。
断りたくないけれど、どうやりくりしても時間の都合がつきそうもないから仕方がない。
9月最終週から11月第一週のあいだはわが人生最多忙の一月になりそうで、いまから想像するだけで気が滅入ってくる。
果たして生きて霜月を迎えることができるのであろうか。
『はじめての精神科』の春日武彦先生と対談しませんかというオッファーが医学書院から来る。これは「もちろん!」と快諾。
筑摩書房のY崎さんからは「ちくまプリマー新書」の創刊イベントとして、私とあの!H本Oむ先生との対談の企画があるというメールが来て、これは快諾などという以前に腰を抜かす。
こういう企画は話だけで実現しないことが多いけれど、(石川茂樹くんと私の“ふたりナイアガラー”がダンボ耳聴き手の「O瀧A一:ロング・インタビュー」も幻の企画に終わったし)、お話があっただけで「いい夢をみさせていただいた」ウチダはとてもハッピーなのである。
そういえば、昔、新潮社の「カンヅメホテル」でH本先生と村上春樹さんが同時期に数日をともに過ごされたという話をエッセイで読んだことがある。
H本先生は夜行性で、村上さんは人も知る「早寝早起き」なので、村上さんが朝ご飯を食べに食堂におりるときに、就寝に向かうH本先生とすれ違う。
「エコロジカル・ニッチが違う人なのね」というふうに村上さんは思ったそうであるが、現代を代表する二大作家の出会いの一瞬を関川夏央と谷口ジローのマンガで私は読みたかった。
私の「五大文学アイドル」というのは村上春樹・村上龍・高橋源一郎・矢作俊彦・橋本治なのである。この五人の中では「ダブル村上」と「高橋・矢作組」に個人的交流があることが知られているが、あとの組み合わせはあまり見た記憶がない。
「村上春樹・高橋源一郎 阪神間キッズの『芦屋って、パン屋多いですよね(ベンツも)』対談」を『ミーツ』でどうかね。大迫くん企画書を書いてみたら?その号だけで30万部はいくぞ。

今日は大学院の秋季入試。
朝起きて、今日やる仕事をメモに書き出す。
A4の用紙が一杯になる。
数えたら21項目あった。
短いものは10分程度で済むが、長いのは1時間くらいを要する。
それ以外に、メモしなくても絶対に忘れない仕事(院試の監督とか採点とか面接とか研究科委員会とか大学院博士後期課程の申請の相談とか学長との教員研修会の打ち合わせなど)がある。
こういう状態で「ウチダくんは頼んだ用事をなかなかやってくれない」と文句を言う人がいるけれど、そんなこと言われてもさ。

パリのホテルで60ユーロ貸した少年から1万円と塩昆布を送ってくる。
帰国二日前の朝早くにホテルのレセプションから部屋に電話がかかってきて、「日本人の旅行者が困っているので、ちょっと降りてきてくれ」という。
何かしらと思ったら、若い兄弟がホテルの支払いをカードでしようとしたら限度額を超えてしまって40ユーロ足りないのだという。残りの現金がシャルルドゴール空港までの電車賃15ユーロしかないので、清算できない。飛行機の時間は迫ってくるし…と半べそ状態である。
「そういうことはおじさんに任せておきなさい」と40ユーロと空港でのお茶代20ユーロをお貸しして、「そのうち返してね」と名刺をお渡ししておいたのである。
ついでに説教もちゃんとした。「ジャック・ニコラウスは『出かけるときは、忘れずに』とアメックスのカードを持って出たが、クレジットカードは『これは使えません』といわれたら、それっきりである。旅には(腹巻きに)現金。これが大人のジョーシキである。よろしく拳々服膺するように」
さいわい律儀な青年で、「けっ、60ユーロぽっちのことで、説教かましやがって」というふうにはならずに、ちゃんと大学宛に1万円と塩昆布を送ってきたのである。
60ユーロといえば8000円ほど。それが1万円と塩昆布。「わらしべ長者」的展開である。
青年からのメールによると、ホテルの受付のおじさんに「親切そうな日本人がいるから、その人に頼んでみたら」と言われたそうである。
朝夕クールかつニヒルに「ボンジュール」と言って足ばやにロビーを横切る私を見ただけで(話しかけられるとフランス語を語らねばならぬので、それをできるだけ回避していたのである)、「親切そうなおじさん」であることを看破したラ・トゥール・ノートルダムのレセプショニストの眼力恐るべし。
これでは「邪道道主」の看板を下ろさねばならぬではないか。

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2004年09月17日

After dark till dawn

9月17日

午前10時にベッドに戻る。眠りに落ちかけるたびに電話が鳴り、宅急便が届き、なかなか眠れない。
11時ころにようやく眠りに落ち、1時半まで眠る。
2時に『AERA』のI川記者がインタビューに来るのでベッドから身を引き剥がし、シャワーを浴びて目を覚ます。
お題は村上春樹の新作『アフターダーク』。
『AERA』?と不思議に思われるだろうが、『AERA』のコア読者層(30代女性)はムラカミファンとまるっとかぶっているのである。
なるほどね。

どうして文芸批評家たちは村上春樹をあれほど嫌うのか、という話から始まる。
村上春樹の仕事を積極的に評価している批評家は加藤典洋さんくらいしか見あたらない。
あとの批評家の過半は「無視」または「否定」である。
『すばる』の蓮實重彦の発言を見せてもらったけれど、すごい。
「村上春樹作品は結婚詐欺だ」(そのときだけは調子のいいことを言って読者をその気にさせるが、要するにぼったくり)というのは、批評というよりほとんど罵倒である。
シンポジウムの締めでの蓮實の結論は「セリーヌと村上春樹ならセリーヌを読め、村上春樹を読むな」というなんだかよくわからないものであった。
別にセリーヌも村上も両方読めばいいと思うんだけど(どっちも面白いし)。
そもそもある作家を名指しして「こいつの本は読むな」というのは批評家の態度として、よろしくないと思う。「まあ、いいから騙されたと思って読んでご覧なさい。私の言うとおりだから」という方が筋じゃないのかな。
批評家たちや作家たちがこれほど村上春樹を批判することに熱中するということは「村上春樹が評価される」ということと「批評家たちの仕事が評価されない」ということが裏表でワンセットになっているからである。
なにしろ、村上春樹は「批評というのは馬糞のようなものである」として、自作についての一切の書評を読まないことを公言しているんだから。

という世間話から始まって、「どうして村上春樹は評価されないのか」という根源的な問いへ進む。
もちろん、それは批評家たちの批評基準が、文学における「方法論的自覚」とか、「前衛性・革命性」とか、「自己剔抉の徹底性」とか、「被抑圧者のまなざしに肉迫」とか、そういう定型にいまだにとらえられたままだからである。
そのフレームワークから見れば、たしかに村上作品は「シティ文学」とか「リゾート文学」とかいうような、いかなる前衛性も革命性もないところの「知的消費財」にしか見えないだろう。
しかし、もし蓮實が言うように村上文学が単に現代日本の皮相な感性を操作するだけの「結婚詐欺」的なものにすぎないのだとしたら、彼の作品がまったく文化的なバックグラウンドを異にする各国言語に訳されて(フィンランド語訳まで出ているのだ)、アメリカの若い作家の中から「村上フォロワー」も登場しているという事実を説明することは困難になる。
蓮實は村上を罵倒する前に、どうして『表層批評宣言』が世界各国語で訳されて、世界各国から続々と「蓮實フォロワー」が輩出してこないのか、その理由についてせめて三分ほど考察してもよかったのではないか。

私見によれば、村上文学がワールドワイドなポピュラリティを獲得しているのは、それが知的ヒエラルヒーや文壇的因習を超えて、すべての人間の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。
他に理由はない。
村上文学は「宇宙論」である。
その基本的な構図はすでに『1973年のピンボール』に予示されていた。
「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」。愛する人たちがその「超越的に邪悪なもの」に損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されないささやかな努力。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説が村上春樹に与えた最大の影響は「ライ麦畑のキャッチャー」というのがある種の人間にとって「天職」として感じられるという経験であったと私は思う。
村上春樹はおそらく青年期のどこかの段階で、自分の仕事が「センチネル」あるいは「キャッチャー」あるいは「ナイト・ウォッチマン」である、ということをおぼろげに感知したのだ。

『アフターダーク』は二人の「センチネル」(タカハシくんとカオルさん)が「ナイト・ウォッチ」をして、境界線のぎりぎりまで来てしまった若い女の子たちのうちの一人を「底なしの闇」から押し戻す物語である。
彼らのささやかな努力のおかげで、いくつかの破綻が致命的なことになる前につくろわれ、世界はいっときの均衡を回復する。
でも、もちろんこの不安定な世界には一方の陣営の「最終的勝利」もないし、天上的なものの奇跡的介入による(deus ex machina)解決も期待できない。
センチネルたちの仕事は、ごく単純なものだ。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
政治的激情とか詩的法悦とかエロス的恍惚とか、そういうものは「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。

仕事はきちんとまじめにやりましょう。衣食住は生活の基本です。家族はたいせつに。ことばづかいはていねいに。
というのが村上文学の「教訓」である。
それだけだと、あまり文学にはならない。
でも、それが「超越的に邪悪なもの」に対抗して人間が提示できる最後の「人間的なもの」であるというところになると、物語はいきなり神話的なオーラを帯びるようになる。
この勤労者的エートスに支えられたルーティンと宇宙論がどうやって接合するかというと、もちろんそれは「うなぎ」が出てくるからなんですね、これが(何?「うなぎ」のことをご存じない?困ったなあ)。

ともあれ、私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。
それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。

明日から神鍋高原での合気道夏合宿。こんどは三日間PCのない生活です。ばいばい。

9月23日追記

『アフターダーク』はなんとなく『1973年のピンボール』と地下水脈でつながっているような気がしたので、『ピンボール』を読み返してみた。
そしたら、ありましたね。

「鼠」というのは、いわば「僕」の「ピュアサイド」というか「ダークサイド」というか「純粋さゆえの弱さ」を表象している登場人物である。
『風の歌を聴け』で「僕」が「鼠」の運命論にたいして「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」と反論するときに、「鼠」はことばを失ってしまう。

「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんでビールグラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。

「嘘だと言ってくれないか?」という懇請のことばを最後に、「鼠」は永遠に「僕」の前から姿を消す。
そのあとも、『ピンボール』にも『羊をめぐる冒険』にも「鼠」は繰り返し登場するけれど、「僕」とことばを交すことはもうない(『羊』のラストで「僕」の前に登場する「鼠」はもう死んでいる)。

その「鼠」が決定的にかつて「僕」といっしょに夏をすごした海辺の街から消えるのは『ピンボール』の終わり近くだけれど、彼が「僕」のいる世界から消えるのは、まさに「深い眠り」によってなのである。

これ以上は耐えられないというポイントを推し測って鼠は立ち上がり、シャワーに入り、朦朧とした意識の中で髭を剃った。そして体を拭き、冷蔵庫のオレンジ・ジュースを飲む。新しいパジャマを着てベッドに入り、これで終わったんだ、と思う。それから深い眠りがやってきた。おそろしく深い眠りだった。

そうやって「鼠」は「僕」の前から消えて、「別の世界」に行ってしまう。

そのようにして「鼠」を失ったことが「僕」の外傷的経験の核となる。

だから、『アフターダーク』では、眠り続ける女の横にすべりこんで、涙を流す人間を配したことは、「鼠」における「僕」の失敗を二度と繰り返さないという決意をこめた新しい「ナイト・シフト」なのだと私は思う。

『アフターダーク』と『ピンボール』にはもうひとつまったく同じフレーズがあった。気づいた人もいるかもしれない。

「おやすみ。」と鼠は言った。
「おやすみ。」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたくさん水を飲めってね。」


投稿者 uchida : 23:53 | コメント (15) | トラックバック

ねむいよお

9月16日

ね、ねむい。
しかし、まるで眠れない。
15日の午前8時に関空に着いた後、まるで眠れず。二回短い仮眠を取ったけれど、そのつど電話で起こされる。
夜になってベッドに入っても、まったく眠れない。午前3時に起き出してしかたなく朝ご飯を炊いて食べる。
納豆、生卵、お豆腐とわかめのみそ汁、浅漬け。
美味しい。
満腹の勢いで午前5時に再度睡眠に挑戦。今度はうまく眠りにつく。
午前9時にめざましでたたき起こされた、ほとんど半睡状態で大学へ。
なぜかこんな日に教職員健康診断なのである。
ぼーっとしたまま健康診断を受け、事務室のメールボックスにたまったDMを紙袋に詰め込み、合宿用のもろもろの道具を合気道部の部室と体育館のロッカーから車に積み込む。
家に戻ってシャワーを浴びて、二度寝を試みるが、30分置き四本の電話にそのつどたたき起こされる。
昼間寝るというのには根本的に無理がありそうだ。
あきらめて起き出して仕事。
ろくに寝てないので、目がずきずきする。
メールをチェックすると、『インターネット持仏堂』の最後の原稿(8月24日に出発間際に書き飛ばしたやつ)をフジモトさんに送信していなかったことが発覚(フジモトさん怒髪天を衝く状態)。
青くなって送信。
岩波書店の『応用倫理学講座』の「セックスワーク論」の再校をして、そのまま投函。
引き続き『現代思想のパフォーマンス』の校正。
夕方、朝日新聞の取材。
睡眠不足で目が赤く、頬はふくれ、顔に斑点が浮いている状態なのに、顔写真をばしばし撮られる。
カメラは一年ほど前に岡田山ロッジで合気道の写真を撮っていただいたT本さんという女性。いままででいちばんいい男に撮ってくれたカメラマン(PC的にはカメラパースンつうの?)なので、お願いだからデジカメのデータ修正して男前になおしておいてねと懇願する。
寝不足ハイで何を言っているのかわからないまましゃべり続け、つづいてRe−setに会場を移す。
「神戸の哲学バーでたまたま立ち寄った近隣の若者たちに道を説くウチダ先生」というヤラセ映像を作成するためである。
もちろんそんなに都合良く「たまたま立ち寄ってウチダを敬慕のマナザシで見上げる青年たち」などというものがあつらえられるわけもない。パリでその撮影趣旨をうかがったおりに、「そんな都合よくはいきません」と申し上げたのであるが、そういう絵柄がどうしても欲しかったらしく、朝日のK林記者は『ミーツ』の江編集長に相談。江編集長は私の担当だった大迫くんに「エキストラ召集」を指示、大迫くんがウッキーへ、ウッキーから合気道部つながりS津さんへ、S津さんからゼミつながりで「酒好き・小西真奈美似」のS々木さんへと電話が回り、Re−setに到着するとなんと四名の「近隣の青年たち」が目をきらきらさせていたのである。
途中からIT秘書イワモトくんも登場して、結局12時近くまでK林記者を囲んで、「新聞メディアに明日はあるのか」暴走トーク(内容が漏洩すると、取材費が経費で落ちなくなる可能性があるのでとくに秘す)。
結局5時間半にわたるロングインタビューとなった。K林さん、お疲れさまでした。あれだけのおしゃべりをまとめるのはほとんど拷問だろうなあ。
家に戻って午前1時にベッドに入る。
午前5時にぱっちり目が覚める。
しかたなく起き出して、村上春樹の新作『アフターダーク』を読む。
今日の午後、『AERA』の取材があって、その話をすることになっているので、泥縄である。

睡眠時間は15日が6時間、16日が4時間。
いつもは9時間眠るわたくしがこのような睡眠時間で生きていけるのであろうか。
明日から合気道の合宿。

投稿者 uchida : 09:21 | コメント (2) | トラックバック

2004年09月15日

帰ってきたぜ

9月15日

やっと日本に帰り着いた。
初秋の肌寒いパリから、残暑の芦屋へ。
関空まで国際交流センターの川村さんにお出迎え頂き、学生とは関空にてお別れ。
皆さん、お疲れさまでした。
寝ぼけ頭のまま、川村さんとおしゃべりしながらリムジンバスで尼崎まで戻り、JRに乗り換えて芦屋へ。
フランスと日本は時差が7時間。行きは朝出て、夕方着いて、そのまま数時間がんばってばたりと眠ってしまえば、翌日からは普通に活動できる。ちょっと夜更かししたと思えばよいのであるが、帰りはそうはゆかない。
パリを午後1時に出て、12時間後にたどり着いた日本はおひさまにっこりの朝8時。体内時計は眠さ絶頂の午前1時。日本のレギュラーな就寝時間まで20時間くらいある。
この帰国当日が実につらい。
家に戻って、トランクの整理をして、洗濯物をして、たまりにたまった郵便物を順番にみているうちに頭がぼうっとして目がずきずき痛くなってくる。
しかたがないので、パジャマに着替えて、午前11時にベッドに入るが、何度も電話がなってさっぱり寝られない。
午後2時に顔を腫らして浅い仮眠より起き出し、とりあえず床屋へ。
いつもなら床屋で爆睡するのであるが、ここでも眠れない。
戻ってくると午後4時、少し空腹になり、「帰国後最初の日本食」を何にするか熟慮する。
うどんか丼ものかそばか冷や麦か、いろいろ考えたが、答えはやっぱり「味噌ラーメン」。
しかし、炎天下に出かけてラーメン屋から汗だくで戻ってくるのも気が重い。
涼しい部屋でラーメンを食べて、そのままずるずると昼寝の体制に入るということになると自分で作るよりない。
階下のコープに出かけて、キャベツ、もやし、鶏の挽肉、コーン、メンマなどを購入。
自力で「野菜たっぷり味噌ラーメン」を作成する。
汗をかきつつ最後の汁の一滴まで飲み干す。
満腹したので、少し眠気が出てきて、再びパジャマに着替えてベッドへ。
午後6時までたいへん浅い仮眠。
電話やファックスがじゃんじゃんかかってくるので、しかたなく起き出す。
仕事が二件。
とりあえずファックスで来た校正ゲラが急ぎなので、目を通す。
『ミーツ』の「哲学・上方場所」の「レヴィナス篇」である。
永江さんが3時間近いおしゃべりを4頁にまとめてくれた。
ふつうなら、インタビュー記事は(記事を起こしてくれた編集者には失礼ながら)ほとんど全部書き直してしまうのだが、さすが永江さんの仕事は手際が良く、朱を入れるところが一箇所もない。
担当の大迫くんに、校正なしと電話して、一件落着。
あと大至急の校正が4件…
週末からは合気道の合宿だし、こんな仕事、いったいいつ、やればいいんだろう?
こういう時にはとりあえずお酒を呑んで、面倒なことは忘れて「ま、明日があらあな」で眠ってしまえばいいのだが、時差ボケのときにお酒を飲むと、真夜中に「泥酔状態で覚醒」という最悪の状態を迎えることがあるので、本日はアルコール断ち。とほほ。

投稿者 uchida : 22:52 | コメント (2) | トラックバック

フランスへろへろ日記(後半)

9月13日
パリ最終日。
さすがに「死のロード」三週間のホテル暮らしは疲れる。
胃がしくしくと痛んでくる。
起きると曇天。肌寒い。
出かける気もしないので、机に向かって朝から仕事。
昼近くになって、お掃除が接近してきたので、部屋を出てポンピドゥ・センターへ。
おなじみのブラック、モディリアニ、カンジンスキー、ミレー、ミロ、レジェ、ダリなどを見て回る。
マルセル・デュシャンの「泉」その他の作品もポンピドゥ・センターの所蔵になっている。
しかし、ひどいよな、これは(「泉」というのは男性用小便器を横に置いただけのしろものである)。
ピカソの「雄牛の頭」は自転車のハンドルとサドルを重ねただけのものであるが、芸術性という点では天地の差がある。「雄牛の頭」からは雄牛の生命力があふれるばかりにほとばしっているけれど、デュシャンにはそういうものはなにもない。
ダリやマグリットもここで見るといやにあざとく感じられる。
今回いちばんよかったなあと思ったのはカンジンスキーとウジェーヌ・ルロワ。
ルロワの作品は絵の具を2センチくらい塗り重ねたぐちゃぐちゃのタブローなのだけれど、「こういうふうに油絵の具を塗りたくらずにはいられなかった」衝動がびしびしと伝わってくる。
7ユーロで現代美術史を2時間で通史的に見られるというのは、まことに恵まれた芸術的環境である。
そのポンピドゥ・センターの前の広場でへたくそな似顔絵を描いている連中がいるけれど、君たちは恥というものをしらんのか。
広場ではモンゴルの三人組が二弦の楽器を弾きながら「ホーミー」をやっている。
生でホーミーを聴くのはこれが初めてである。
気錬会のヤマキョー君がホーミー奏者であるという話をQ田さんの日記で知ったが、いいよね、これは。2曲聴いて3ユーロを投じる。

寒空の下をとぼとぼ歩いてホテルに戻り、シャワーを浴びて昼寝。
五時にブルーノくんがホテルまで迎えに来てくれたので、15区の彼のアパートまで夕食をごちそうになりにゆく。
お土産にモエ・エ・シャンドンを持って行く。酒屋で35ユーロ。日本より高いじゃないか。
ブルーノくんのアパートはブザンソン時代と同じく「日本的デコレーション」。『ティファニーで朝食を』のユニオシさん(ミッキー・ルーニー)のアパートの内装を思い出していただけると当たらずといえども遠からずである。
夕食はヨシエさんが作ってくれる。
トンカツとキムチとラーメン・ライス。
トンカツに「ブルドックソース」をかけて食べる。美味なり。
ラーメンは「シマダヤの醤油ラーメン」。これまた美味なり。
玉置浩二と桑田佳祐の曲をバックにフランス人はなぜ離婚するのか(離婚率は60%を超えたそうである)について語る。
意外にもサザンの曲はパリの日没にたいへんよくマッチする。
今回いろいろと聴いてみたが、秋風の吹くサンミシェル通りを歩くときにはジャズがたいへんよく合った。

9月12日

9・11テロから3年経った。
カフェで『リベラシオン』の特集記事を読む。
フランスのメディアはブッシュの中東戦略には一貫して批判的である。
日本でもすでに報道されていたとおり、9・11テロについては事前にさまざまな情報機関がかなり具体的な情報をつかんで対策の必要を訴えていたが、ホワイトハウスはこれを無視し続けたらしい。
6月にアルカイダのテロ計画が加速しており、「何かきわめてきわめて大規模なこと」が準備中であることが報告されたが、ホワイトハウスはこれを無視した。
7月には「ビン・ラディンの攻撃計画は2ヶ月遅延するが、計画自体は放棄されていない」という報告が上がったが、ブッシュ大統領はテキサスで休暇中であった。
8月にはアメリカ本土を標的にするハイジャックによるテロ計画が進行中であることは、ほぼ確実視されていたが、依然としてホワイトハウスは「行動を起こすには情報が不十分」として静観し続けた。
テロリストのうち二人は8月段階ですでに監視下にあり、ミネソタでボーイング747の操縦法を学んでいた一人はビザの期限切れで別件逮捕されていたが、それ以上の調査は行われなかった。
反テロ対策の無策で露呈したアメリカ政府と情報機関の機能不全がそのまま今日のイラク戦争の泥沼化と世界的なテロの拡大につながっている。
という論調である。

国内に400万人のイスラム教徒(カトリック信者についで、第二位の宗教集団である)を抱えるフランスの「イスラム過激派」への懸念は私たち日本人の想像を超えるものがある。
いかにしてイスラム系市民の「過激化」を抑止するか、いかにして国際的テロリスト・ネットワークの浸潤を阻止するかはフランスの現在最優先の政治課題である。
そのためにフランスはイスラム系市民の「フランス社会への統合」という政治方針を推進している。
イスラム系市民を孤立化させないこと、排除や迫害の対象にしないこと、市民としての権利を擁護する代償に市民としての義務の履行を求めること。
これはかつてフランス革命のとき、議会でアベ・グレゴワールがユダヤ人解放令に際して「市民としてのユダヤ人にはすべてを与え、国家としてのユダヤ人には何も与えない」と宣言して以来のフランス政府の対マイノリティ政策の基本である。
公立学校での宗教的服装を禁じた法律は先週大きな抵抗もなく無事に施行された。
これによって「宗教はあくまで私事である」として市民社会の原理を貫いたフランス政府の次の悩みの種は、来年からビザなし滞在が許可されることで予想される中国人の大量流入である。
中国人たちは宗教的なセクトを形成するわけでもないし、テロリズムを呼号することもない。しかし、中国人たちはかなり排他的な社会を形成しており、経済活動には熱心だが、市民的義務の履行にはあまり興味がないらしい。
パリ市警に勤務するブルーノくんによると、チャイナタウンは非常に治安が悪いにもかかわらず、ほとんど殺人事件が起こらないのだそうである。
「だったら治安がいいってことじゃない?」と言ったら「そうじゃなくて、死体が出てこないんですよ」とぼやいていた。
自由を愛するすべての人々の祖国であると宣言して、移民の受け容れを進めてきたフランス人たちであるが、ここに来てずいぶん苦しそうである。

などということを考えつつ、秋晴れのパリを散策。
ノートルダムでミサに出て、ついでにお灯明を上げ、ピカソ美術館へ。
ピカソを堪能しての帰り道に、新しくマレーにできた「ユダヤ美術・歴史博物館」を訪れる。
ものがものだけにセキュリティが厳しい。身体検査があったが、「日本人です」と言うと、「じゃ、いいよ」とあっさりと入れてくれる。
サービスの丁寧さと館内の清潔さは他の公立施設と段違いである。
あるいはこういうところから「日本人とユダヤ人の同質性」という発想が出てくるのかもしれない。
「仮庵の祭り」の「仮庵」とか「ハヌカ」の燭台の実物をはじめて見る。ユダヤ教の本を何冊も訳してきたにしては、まことに不勉強な学者である。


9月11日

午前9時45分にロビーに集合して、バスでブザンソン駅へ。TGVに乗って、ガイドの今津さんと日仏セキュリティ事情についてあれこれとおしゃべりしながら、1時半にパリ、リオン駅着。バスでサン・ジャック通りのラ・トゥール・ノートルダムへ。
ブザンソンのIbis の部屋の広さは半分。3畳間くらいのシングルである。(これで一泊155ユーロ、約20000円。ブザンソンのホテルは一泊58ユーロ、約8000円である)。
さすがパリは諸式が高い。
荷物を広げるスペースもないので、そのままパソコンを取り出して狭い机の上で仕事の続き。
そういえば前回のパリではホテルからほとんど出ない薄暗い部屋の中でひたすらレヴィナスの『困難な自由』の翻訳をしていたのであった。
仕事が一区切りついたので、シャワーを浴びて軽く昼寝。
夕方になってざんざん雨が降ってきた。
雨の中メトロでQuatre Septembre まで移動して、いつものようにリュ・サンタンヌの「ひぐま」の味噌ラーメンと餃子とハイネケン。
学生6名もご同行でみなさん塩ラーメン、キムチラーメン、ねぎラーメンなどを無言でむさぼる。
麺を汁ともどもに「ずずずずず」と啜り上げるこの切迫した感覚というのは、なかなかスパゲッティをもっては代替できない。
メニューには他に「カツ丼」「カツカレー」などもあるが、結局いつも味噌ラーメンを毎日食べに通うことになるのはなぜであろうか。
別に美味いラーメンではない。日本のラーメン屋で出されたら、ちょっといかがなものかというような味なのであるが、どうにもその「ずずず」感の誘惑に抗しきれないのである。

学生諸君のリクエストで、トロカデロまでエッフェル塔のイリュミネーション点灯の瞬間を見に行く。
Palai Royal の駅で切符を買おうと思うが窓口が閉まっていて、自動券売機しかない。しかたなく、はじめて券売機を使用する。
マウスを使ってまず購入するチケットの種類を指定してクリック。ついで枚数をクリック。「レシート要らない」をクリック。それから10.5ユーロを硬貨で投入という段取りである。
ディスプレイの下にあるころころ動くものがマウスで、両側のボタンがクリックボタンであるということを理解するとやり方はのみこめるのだが、「マウス」という概念を知らないクライアントにとってはほとんどカフカ的不条理のマシンであろう。
利用者のコンピュータ・リテラシーということをぜんぜん顧慮していない。
乗客の90%はカルネ(10枚綴り)を購入するのであるから、自動販売機と同じような「カルネ券売機」を置いて、紙幣でも硬貨でも買えるようにしておけば、ほとんどの業務はそれで済むと思うのであるが、どうしてわざわざこんな面倒な仕掛けをつくるのであろう。理解に苦しむ。
それだけ複雑な仕掛けなのに、紙幣は使えないのである。
私がディスプレイのフランス語を解読しながらなんとか「貨幣を投入してください」までたどりついたら、手持ちの硬貨が足りないことに気がついた。学生さんに借りてことなきを得たが、一人だったら、後ろに人を待たせておいて、おたおたと機械を操作した果てに、切符も買えずに終わるところだった。
「ユーザー・フレンドリー」というのはフランスの客商売に致命的に欠けているものである。
もちろんフレンドリーな商売人もいるが、彼ら、彼女らは「フレンドリーに接する相手」(要するに「VIP待遇」ということですね)を先方のそろばん勘定で「選んでいる」のである。
私はそういうものを「ユーザー・フレンドリー」とは呼ぶことができない。

トロカデロに駆けつけるが、一歩遅くてイリュミネーション点灯の瞬間には間に合わなかった。しかたがなくカフェでキールなどを喫しつつ次の点灯時間まで待つ。
10時のイリュミネーション点灯を拝見して、またまた暑苦しいメトロでサンミシェルに戻る。

9月10日

ブザンソン最終日。
学生諸君の授業は今日で終わり。無事みなさんcertificat をいただいてフランス語の単位を獲得したわけである。
これまでのところ、病人もけが人もなく、事故も盗難もなく、無事に過ごしてきた。あと3日をやりすごして、飛行機に乗せてしまえば、私の仕事はおしまいである。

朝起きてとりあえず荷造りをする。
いつのもように、今回も「もうこれは捨てよう」と思った服だけを戸棚から選び出して持ってきた。これだと旅をしながら気楽に汚れ物をどんどん捨てられる。どうしても滞在中に荷物が増えるので、服を捨てて帳尻を合わせるのである。
汚れた綿シャツやらパンツやら靴下やらをどんどんゴミ箱に捨ててゆく。

旅にはぼろ服。これは海外旅行の基本である。
襟のすりきれたぼろシャツを着て、フランス語の新聞を小脇にかかえてのたのた歩いていると、「ビンボーな東洋系移民」だと思われて、日本人観光客ねらいのスリや置き引きや物売りの標的になる確率も少ない。
経験的にそのことが熟知されているので、今回のスタージュの学生諸君にも事前の説明会で「旅行にはできるだけビンボくさい服装で来るように」と言い含めておいた。
関空で学生諸君にお会いしたときに、にっこりと「やあ、みんなぼくの言ったとおりに・・・」と言いかけて失敗に気がついた。あやうく学生全員を敵に回すところであった。剣呑剣呑。

原稿仕事のあと、ブルーノくんとの最後の稽古にガルシエ道場へでかける。
7時半までみっちり2時間半。呼吸法、体捌き、呼吸投げ、二教、小手返し。それから杖の基本動作。著杖、水月、引提ゲ、斜面、四種の型をおさらい。
やはり呼吸法と体捌きがいちばん重要だということがよくわかった。
抑えたり、固めたり、極めたり、投げたりということは腕力さえあれば、誰にでも「それらしいこと」はできる。
しかし、それでは「術」にはならない。
立っていれば術になり、一歩動けば術になるということを目標にして稽古するのと、相手を捕まえて、それをどうこうするということを目標にして稽古するのでは、稽古の目的が違う。どちらがいいとかどちらが効果的であるかということではなく、めざすところが違う。
ブルーノくんには最後に私が多田先生と光岡先生から学んだ次のことばを贈った。
Le but du l’exercice de Budo est d’e^tre au moment juste, a` l’endroit juste et de la manie´re juste.
武道修行の目的は正しい時、正しい場所に、正しい仕方で存在することである。
術技の本質もまたこの定義に尽きるのである。

ブルーノくん相手のお稽古も、計7日間、20時間ほどやったことになる。いつもだと夏休み中はほとんど稽古らしい稽古ができないのだけれど、今回は毎晩、美味しいビールと夕食を愉しむことができた。
まことに持つべきものは道友である。
ブルーノくんには来週の合宿のときの昇段審査の入段者と併せて、推薦で初段を進呈する予定である。とびとびとはいいながら、もう9年もお稽古されているのであるから、初段は順当なところである。
道場の使用を快く許してくださったエルヴェとイワンのガルシエ兄弟にもお礼をしなくてはならない。
まことにおおおらかでサンパティックなブザンソンの武道家たちでありました。Merci mille fois!

稽古後、今回よく通ったレストランAu Feu Vert でご飯。
私はエスカルゴと鶏肉のエスカロップ。
学生諸君はブザンソン名物のポテトとチーズとマルトー・ソーセージのグラタンがたいへん気に入ったようである。(私も結局3回食べた)。
ドゥー河の河岸をそろそろ肌寒くなってきた夜風に吹かれて、ブザンソン最後の夜景をめでつつ、蹌踉と帰る。


9月9日

ブザンソン滞在もあと二日となった。
寝て、食って、合気道を稽古して、原稿を書くだけの、実にシンプルな生活であった。
おかげで新書の原稿150枚が書き上がった。
この研修付き添いは、業務であるからわずかながら「日当」というものが付いている。
「日当」を頂いておいて、昼寝と稽古と原稿書きで一日が終わるのでは、なんだか申し訳ないような気もする。
明日は最終日であるから、とりあえずCLAにご挨拶にうかがって、「あ、どうも、お世話になりました」くらいのことは言わねばならぬ。

どうしたわけか、滞仏の日時が長引くにつれてフランス語を話すのが億劫になってきた。
最初は、ひさしぶりのフランス語でちょっとわくわくしたりもしたのであるが、考えてみれば、一通り仁義を切ってしまうと、ご当地のみなさんとそれ以上とくに膝を交えてご懇談したいような用事があるわけでもない。
合気道の指導やビジネストークは会話の目的がはっきりしているから、まだしも楽なのであるが、社交的なご挨拶のようなもの(どうでもいいようなことを「そうですねえ」と適当な相づちをうちながら、ふんふんと聞き流す会話)はだんだん面倒になる。
しだいに横着になってきて、ふだん日本語をしゃべるときと同じピッチと声質でフランス語を話そうとしはじめるからである。

そうなってわかったのは、私は日本語でどうでもいいことをしゃべっているときには、ほとんど選択的に「皮肉なこと」ばかり言っている人間だったということである。
だいたいいつも「へん」とか「なーんてね」とか「たく、ざけんじゃないよね」というようなフレームワークの中でしゃべっている。
つまり、口にするフレーズがどういうコンテクストで語られているかを指示する「メタ・メッセージ」の記号操作がやたらに多いのである。
「私が思いますには、これこれはこれこれであります」というようなプレーンなメッセージを私はふだんのおしゃべりではほとんど口にしない。
「そういう人間」なのであるということを今般思い知った。
フランス語だとこの「メタ・メッセージ」でメッセージの解読仕方を指示するということがうまくゆかない。メッセージの作成自体に手間暇がかかるから(頭で作文してからそれを読み上げるのだから時間がかかるのはしかたがない)、それを「鼻先で言う」とか「含み笑いしながら言う」とか「誰かの口まねをしながら言う」というようなイヤミな「装飾的操作」をしている余裕がないのである。
そうなると、ふだんみなさんが聞き慣れている「ウチダ的捨てぜりふ」というものの成立がはなはだ困難となる。
そのせいか、フランス語で話したあとには、なんとなく「物言わぬは腹ふくるるわざ」感がつきまとう。

あれこれと試みた結果、『燃えよドラゴン』でブルース・リーがイギリス人相手にしゃべっていた英語のピッチが、私にとってはいちばんフランス語を言いやすいということを発見した。
あるいはジャン=ポール・ベルモンドの『カトマンズの男』で彼の遺言を受け付けた中国人紳士のフランス語の話し方と言ってもよろしいのだが、これは映画を見ている人があまりいないであろうから例として適切ではないかもしれない。
要するに、「ゆっくりかみしめるように話す」のである。
これだと相手の母国語で話しているにもかかわらず、相手に対して精神的優位に立つことができるのである(なんだか私はフランスにいるあいだ、「優位」になることばかり考えているようである)。
私とて伊達に長年フランス語教師をしているわけではない。
時間さえいただければ、接続法や条件法を駆使した長文のフランス語を起案するにやぶさかではないのである。
ただ、日常の立ち話ではそれだけの時間の余裕をいただけないし、辞書を引くことが許してもらえないので、ついへどもどしてしまうのである。
しかるに、遠くを見つめながら、ことばをひとつひとつ選びつつ語る「いかにも東洋人的なフランス語発声法」で話すと、単語がわからなくて「えーっと、『管』てなんていうんだっけ?」と頭の中で単語帳をめくっているときも、ひととき俗世を離れて非常に深い思弁に耽っているように見えるのである。
ただ、この手はフランスの知的男性にはたいへん効果的であるが、フランス人女性が相手の場合は、知的であると非知的であるとを問わず、この手は使えない。
彼女たちは彼女たちの発する質問に二秒以内で回答できないようなものを人間としては扱ってくれないのである。

9月8日

なんだか眠ってばかりいる。
9時半まで眠って、いくらなんでもお天道さまに申し訳がないのでのたのた起き出して、熱いシャワーを浴びて、モノプリで購入した「ウインナ・コーヒーの素」を飲んで、モノプリで購入した「チョコ・クロワッサン」を食べる。
仕事。
どうも眠くて調子が出ないので、街へ出て、水とリンゴとチョコパンを買う。
チョコパンなんて、あんまり好きじゃないのだけれど、「あんこ」に一番近い食物というとこれしかない。
私は仕事をしながらコーヒーをがぶがぶ飲み、おやつに「あんこもの」を食べて脳細胞に刺戟を与えるという方法を採用しているのであるが、フランスでは残念ながら大福とかどら焼きとか、そういう非合法ドラッグが手に入らないので、やむなく「チョコもの」を以て代用に供しているのである。
買い物後、河原で昼寝。
日が中天に高くなって、とても耐えきれなくなったので、のろのろと起きあがり昼寝を継続すべくホテルに戻る。
部屋はまだお掃除が終わっていない。
ホテル暮らしの困ったところは、部屋のお掃除時間が一定しないことである。
時間が決まっていれば、その時間だけ部屋を空けておけばよく、あとは一日昼寝をしても誰にも咎められないのである。しかし、朝の9時にノックされるときもあり、夕方の4時にノックされるときもあり、部屋の掃除がいつ来るかわからない。
いつ来るかとどきどきしていると、のんびり昼寝もできない。
別に昼寝をして悪いわけでもないのであるが、昼寝をしていると、ドアを開けたお掃除おばさんが「おお、パルドン」とドアを閉めて立ち去って、掃除をしてくれないのである。
あわててベッドから飛び起きて「汝が部屋の掃除をすることによって、吾人はいささかの困惑も覚えることがないであろう」とへどもどとフランス語で言わなければならないのが億劫だ。
これが仕事中にドアがノックされたのであれば、えらそうに「入室を許可す。ただちに部屋の掃除をなされるように。吾人は仕事を継続するにやぶさかではない」というようなことをお掃除おばさんに背を向けたままつぶやけばよろしいのであって、精神的優位を維持できるというか、まああまりじたばたせずに済む。
というわけなので、廊下の遠くに掃除機の音がきこえると、昼寝をやめて、のろのろ起き出し、ドアをノックするまで机に向かって半睡状態で仕事をするふりをしていないといけない。
これが面倒である。
今日は1時半ごろに廊下の向こうで掃除機の音がしたので、昼寝を断念して、半睡状態で仕事のふりをするという苦行に取りかかったのであるが、なかなか来ない。
結局掃除のおばさんが登場したのが3時半。
あまり人を待たせるものではないよ。
しかし、不思議なもので、おばさんががんがん掃除機をかけたり、浴室や便器をじゃかじゃか掃除したり、どすんばたんとベッドメイクをしている横にいると、急激に眠気が去って、仕事に没入できるのである。
これはいったいどういうメカニズムによるのであろうか。
本日も15分ほどおばさん方がおしゃべりをしながらベッドメイクをしている横で、いきなり「アカデミック・ハイ」状態に入る。
そのまま4時45分まで一気に十数枚の原稿を書き上げる。

いつもの時間にブルーノくんが登場。
サントル・ガルシエへ。
イワンくんの少年部柔道のクラスの横でブルーノくんと、本日から参加のジルくん(先日アルボワへのデギュスタシオン・ドライブに同行してくれたブルーノくんの友人のインテリア・デザイナー)と合気道のお稽古をする。
初心者がまじったので、また気の錬磨の基本動作から。
ジルくんは昨日の稽古を見学して、合気道に興味が湧いたということである。
なかなか飲み込みがよろしい。
初心者にこんなことをやらせてよいのかしらと思いながら、けっこう面倒くさいことをやらせる。
ふたりとも必死になって体捌きをやっている。
投げたり抑えたり極めたりというのは、二人とも経験があるのですぐにそれらしいことができるのだが、足捌きが少し複雑になるとなかなかできない。
多田先生の研修会ではいつも体捌きに時間をかけるので、どうしてなのかしらと不思議に思っていたが、たぶんこれが初心者にはいちばんむずかしいのである。
形稽古というのは、決められた時点、決められた空間的位置に、決められた仕方で入るという身体運用の「精密さ」が要求されるのであるが、スポーツ化した武道だけを経験していると、なかなかそういうことの重要性がわからない。
2時間ほど体捌き中心の稽古をしてから、ブルーノくんを相手にして杖道の4本目までをおさらいする。
杖や剣というのは、便利な道具であるのではなく、動きを制約する不自由なものである。そういう制約があってもなくても同じようにするすると身体が動くようにするために、いわば負の条件づけとして武器は存在するのであるという説明をする。
ブルーノくんは滝のような汗をかきながら、はいはいとうなずきなあら、必死に杖を操る。
まことによい生徒である。

シャワーで汗を流してから、今夜はLe Coucouへ。
例によってフランシュ=コントワの芋&チーズ&ソーセージ料理。
食事のあと、お誘いに応じてジルくんのお宅を訪ねて、奥様をまじえて軽く食後酒をいただく。
美味しいブランデーを啜っているうちに眠くなったので早々に辞去してホテルに戻る。
ぐー。

9月7日

なんだか眠ってばかりいる。ゆうべは11時に就寝して、目が覚めたら9時半だった。10時間半寝ていたことになる。
どうしてこんなによく眠れるのであろう。
まだまだ眠れるのだが、いくらなんでも朝から課業に励んでいらっしゃる学生さんたちを監督する立場にあるものが昼まで寝ているというのは申し訳がないので、のろのろと起きあがる。
昨日も一日ほとんど寝ていたような気がする。

昼頃にMonoprix に買い出しに出かけてフルーツと水を買い、日陰で新聞を読んでいたら、Y川、I達組とゆきあったので、いっしょにMegavand のResto Uへ行く。
聞けばホテルの脇のRestoUは昨日から閉鎖されているそうである。
日本だったら、「申し訳ありませんが、この食堂は来週は営業しておりません。代替の食堂はどこどこですから、そちらへお回り下さい」とちゃんと事前のアナウンスがくどいほどあるのがふつうである。
そういうゆきとどいた国から来ると、フランスという国はいささか不親切に思える。
ただ、この不親切も「人の好きにさせておく」という点では快適に感じられもする。
日本だと、半袖のシーズンから長袖のシーズンへの切り替わりというのは、ほとんど制度化されている。
こちらだと、9月に半袖短パンゴム草履の人もいれば、とっくりセーターに革ジャンという人もいる。そういうことは本人の好きずきで、勝手にしてよろしいということになっている。
別に日本だって、勝手にしてよいのだが、やはり「みんなと同じものを着た方がいいんじゃないすか」という無言の「圧力」を感じずにはいられない。

思えば、日本社会における「親切」というのは、「みんなと同じことをさせる」という方向へやんわりと押し出すような機能を果たしているのかもしれない。
居酒屋だと「本日のおすすめメニュー」というのがある。店員はだいたい「あれを注文しろ」とわりと強めに勧奨してくるが、親切なのか、「同じものを作る方が手間がいらない」という先方の都合にこちらが合わせられているのか、考えるとよくわからない。
そんなことを考えながら部屋に戻って、泉鏡花を読みつつ昼寝(なぜか泉鏡花を読むと不意に睡魔に襲われる)。

これではいけないと午後3時ごろに起き出して、お仕事。
例によって書きすぎてしまい、もう予定の枚数は過ぎてしまったのだが、まだ本題に入れない。
どうして私の書くものはこのように脱線に脱線を重ねてしまうのであろう。ここまでのところは教育論ではなく、ほとんどがコミュニケーションと文学の話。ここからどうやって教育論につなげたらよろしいのであろうか。
だいたい、もう枚数が超過しちゃってるんだし。

困った困ったといっているところにブルーノくんがお迎えに来て、今日も愉しい合気道のお稽古。
今回は集中講習ということで、全6日間。
先週ブルーノくんが帰省して来てから、週末を除いて毎日である。
最初は私もひさしぶりのお稽古なので、節々が痛んだが、さすがに四日目となると全身の関節に油が回ったらしく、動きもスムーズになる。
呼吸法と気の錬磨を中心とした柔らかい稽古をする。

こちらの武道は、私の見聞する範囲では、こう言っては申し訳ないが、やはり「筋肉主義」的なところがあって、「術の工夫」とか「技の理合」ということを理論的に詰めてゆくということをされている方は少ない。
特に技の「精密さ」をあまり重視されないようである。
技というのは、ある時間、ある空間的な点に、ある身体部位のポイントが「それ以外にはありえない仕方で」存在することで成立する。
筋肉主義的な武道も、もちろんそのことはわかっておられるのだが、
ほかならぬその時、その場所に導くために「腕力」に頼る傾向がある。
理由はそれが「スポーツ」だからである。
スポーツというのは、制限時間があり、勝敗をその間に決しなければならない。
試合時間内に技をかける機会がなければ、勝負にならない。
でも、武道は本来「制限時間」とか「教育的指導」とかいうものの存立しない状況を生き延びる技法である。
相手がかかってこなければ、そのままじっと待っていてもよいし、「では、失礼」と立ち去っても構わない。
だいたい、「相手がかかってくる」という状況にできるだけ巻き込まれないための心身の感受性の錬磨そのものが術技の向上とリンクしているというところが武道の合理性なのである。
「あの人とかかわると面倒なことになる」という身体信号をいちはやく感知して、さっさと大回りして別の道から帰ることのできる身体感受性の錬磨が、そのまま術を遣うときの精密な身体運用の訓練になっている。

日露戦争の海軍司令官であった東郷平八郎は逸話の多い人だが、予備役に退いていた東郷が現役に呼び戻された理由は東郷元帥に赫々たる武勲があったためではなく「東郷という人間は、やたらに運がよい」という評判があったためだと司馬遼太郎がどこかに書いていた。
はためには「運がよい」と見えたのかもしれないが、味方が最強の備えをしているときに、たまたま「穴がある」状態の敵軍に繰り返し遭遇するというのは、運というよりは感覚の手柄だろう。
東郷元帥には徒歩で通行しているとき、前方に馬がいたので、道の反対側にまわってそれを避けたという逸話もある。
これを見たひとが「武人のくせに、荷馬ごときを恐れるとは」と笑ったそうであるが、東郷は「どんなおとなしい馬でも、何かのはずみで狂奔して人を傷つけることがあるやもしれない。道を迂回すれば、そのわずかな機会に遭遇しても無事を保てる。荷馬に蹴られてつとめに支障が出ることこそ武人の恥である」とすましていたそうである。

多田先生はよく「むかしの武士は用のないところにはでかけなかった」と諭される。
私はそれを聞いてすっかり得心して、爾来、家からなるべく出ないようにしている。出るときも東郷元帥の故事に学んで、できるだけ危険のなさそうなところを拾い歩いている。
どうしてフランスまで来て、観光も買い物もしないで、ホテルの部屋で文庫本なんか読んでるんですか?と学生たちは訝しむが、これは武人のたしなみなのである、もって諒とされよ。


9月6日

なんだか眠ってばかりいる。日曜は10時に床に就いて、目が覚めたら9時だった。
昼間も暇さえあれば、ごろごろ寝ている。公園のベンチで眠り、ベッドで眠り、川岸の草の上で眠る。
ここでの生活は「食っちゃ寝&合気道」であるから、それがストレスフルであるということはありえないので、あるいは長年の疲れがどっと出てきて、ここを先途と惰眠をむさぼる体制に入っているのかもしれない。
最初の数日は午前6時半頃に目が覚めて、夜明け前の空を見上げながら、こりこりと原稿を書いていたのであるが、このところ午前8時の定時訪問(学生さんが登校前にご挨拶に寄るのである)まで爆睡している。そのあともいぎたなくまた寝床に戻って、さらに眠っている。

疲れが出る理由の一つは「アミノ酸の不足」である。
私たちは必須アミノ酸の一部をそれぞれの民族料理固有の発酵食品から摂取している。
日本人の場合だと、味噌、醤油、納豆、漬け物などに依存している。
これが長期的に欠如すると、急激に「生きる意欲」が失われるのである。
フランスにもソウルフードの代替食品がないことはないのであるが、私のような毎朝「白いご飯と味噌汁と納豆、生卵に漬け物」という伝統的な和食派の根源的な飢餓感は満たすことがなかなかに困難である。
だから、ブザンソンにいても、ついつい足はアジア料理に向いてしまう。
カンボジア料理の金蓮亭では、「ラーメンに似たもの」と「エビ焼きそばに似たもの」と「餃子に似たもの」を、冷えた青島ビールを飲み下しつつ、魚醤にて食することができる。
パリでも「ひぐま」の味噌ラーメンを食することなく旬日を過ごすことはできない。
ブザンソンはたいへんご飯が美味しくて、その点で何の文句もないのであるが、もしこれに加えて「うどん屋」(「きつねうどん」と「かやくご飯」)と、「カレー屋」(カツカレー辛口)と、「ラーメン屋」(チャーシュー麺ネギ大盛り)が存在すれば、ご飯的にはパーフェクトと申し上げてよいかと思う。
そんなこと書いたら、はやく日本に帰りたくなってしまった。
帰心矢のごとしといっても、要するにいつものご飯が食べたいということなのである。口いやしくて恥ずかしい。

日本からさかんにファックスやら電話やらが来る。
校正が二件、取材申し込みが一件。
なにもフランスまで国際電話で帰国後の話をしなくても・・・と思うのであるが、先方には先方のご事情というのがおありになるのであろう。
レンタル携帯の着信音は「ちゃーちゃらっちゃ、ちゃちゃちゃ」という聴くだけで脱力する間の抜けたメロディなので、それが鳴ると、へろっと腰が砕ける。


9月5日

ブザンソンは快晴。
あまりに天気がよいので、仕事の手を止めて、ばりばりと洗濯をする。ジーンズも浴室で「足踏み洗い」をする。
洗濯機で洗うよりも、ホテルの備え付けの石けんでこしこし手洗いする方が、仕上がりはきれいである。
干すところがないので、窓枠にハンガーをひっかけて干す。
向かいのビル(Caisse d’Epargneという「毛ガニ」としか読めない社章を持つ銀行。これは見たことのない人には想像しにくいであろう)は週末無人なので、気にせずパンツなどを窓辺に干す。

洗濯を終えると、なんだか眠くなってきたので、泉鏡花を読みながら昼寝。
今回の旅行に所持してきたのは、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(これはちょうど出発前に読みさしだったので)、あとは太宰治の『御伽草子』と『人間失格』。泉鏡花『外科室・海城発電』、中江兆民評論集、森鴎外評論集、福沢諭吉『文明論之概略』。出発間際に本棚の「近代日本コーナー」の岩波文庫をわしずかみにして放り込んだのである。
去年、ハワイには志ん生がよく似合うということを発見した(トーマス・マンの『魔の山』も持って行ったのだが、これはぜんぜんハワイ向きではなかった)。
ブザンソンには太宰治がよく似合う。
日本にいると、太宰の小説の主人公たちのグータラぶりにちょっといらつくこともあるが、ブザンソンは東京のおそらく3倍くらいのんびり時間が流れるので、遊蕩話にはちょうど頃合いである。

昼寝を終えて、また仕事。
ブルーノくんとヨシエさんが遊びに来たので、猛暑の中、いっしょにブザンソン近隣の名所めぐり。
Saline Royale というのがこのへんの名所で、王立製塩所というふしぎな建物がユネスコの世界遺産(patrimoine mondial)に認定されている。Le Doux という18世紀の「未来派」建築家の作品で、なかなかモダンである。
フランス人は建築とガジェットについては、ほんとうに「新しもの好き」である。
私たちが止宿しているHotel Ibis もお隣のCLAも、同じ「La City」という名のハイパーモダンなる建築群を構成しているのだが、まことに異様というか奇怪なる外見である。
そのほか日本では見たことがないような不思議な発明品がさまざまな商売で利用されている。
いちばんわかりにくいのは地下鉄の自動券売機で、フランス人も使い方がわからないので、職員が横に立って自動券売機の使い方の指導に当たっているそうである。それなら窓口で売った方が早いだろう。

製塩所では岩塩から塩を精製するプロセスについて、ガイドから詳細なご案内をうかがう。そんなことを知ってもあまり他に生かす道のない情報である。
ここに製塩所があるということは、ジュラ地方は岩塩の産地なのである。すぐ近くにSalin (塩田)という名前の温泉地があるので、立ち寄ってみる。ジュラ山脈の谷間。湯河原温泉の建物をスイス風にした感じを想像するとわりと近いかも。
続いてLa Source du Lison (リザン川源泉)というところに立ち寄る。前にも一度来たことがある(ような気がする)。
ジュラ山脈の石灰質の洞窟からじゃんじゃん水が流れている。この地方は土地が石灰質なので、カルシウムを含んで水が白濁している。
流れにえぐられた深い谷底なので、日が差さないので、肌寒い。

美しい川沿いの道を疾走して、ブザンソンに戻る。
ホテルの前でお別れして、熱いシャワーを浴びてから、学生たちとホテルのレストランで夕食。
ザウワークラウトを食べる。
ザウアークラウトはアルザス料理。フランス語ではChoucroute(シュークルート)。塩漬けキャベツを白ワインで煮て、ソーセージ、ベーコン、ポテトなどを添えてばりばり食すものである。
このぐちゅぐちゅのキャベツがなんというか、「キャベツの古漬け」みたいな味がして、日本人の琴線に触れるのである。
これは野崎次郎くんの大好物で、ふたりでブザンソンに来たとき(95年の夏)よく缶詰を買って食べた。
おなかがいっぱいになったので、部屋で歯を磨きながらTVを見る。オーウェン・ウィルソンとジーン・ハックマンの出る戦争映画をやっている。
英語版なので、ぜんぜんわからない。
わずか10日ほどで、英語とフランス語の聴き取り能力が逆転してしまったらしい。

9月4日

ブザンソンに来て1週間。残り1週間である。
学生たちも金曜の午後はさすがにだいぶ疲れがたまってきたようで、Resto UからCLAに戻る足取りもなんとなく重げであった。
それでも全員なんとか一週目の全教程をクリアして、イタリアンレストランRosa Bianca のテラスに全員集まって、H谷川さんのバースデイを祝って、シャンペンで乾杯してからディナー。
一昨日はK室さんのバースデイをLotus d’or でお祝いした。誕生日続きである。みなさん二十歳になられたのである。

今年のスタジエールたちはいまのところ友好的な関係をキープできている。
海外語学研修は少人数での、精神的ストレスの多い旅であるから、疲れがたまってくると、「地金」がでてくる。
利己的な言動がしだいにめだってくるし、不登校になるものもいるし、告げ口も来るし、泣きも入るし、イジメもある。
こういう旅は心身のタフネスが試される場である。
タフネスというと、ただ痛みに対して抵抗力があること(場合によっては外界からの刺戟に鈍感であること)というふうに勘違いする人がいるかもしれないけれど、そういうものではない。
タフネスというのは、「耐える力」ではなくて、むしろ「愉しむ力」である。
海外旅行で「耐える」ことが出てくるのは、日本での生活との違いを「違和」として感じるからである。システムが違うので、勝手がわからない。接する人間の対応がこちらの期待と違って困惑することもある。
そういうときに、「日本と違う」ということをネガティヴにとらえると、どんどん疲れがたまってくる。
「日本と違う」ことをおもしろがったり、不思議がったり、観察したり、その功利的活用法を研究しはじめると、文化や制度の差異は逆に尽きせぬ興味の源泉となる。
おもしろがれる人は、どんな状況に置かれても、愉しそうである。

もうひとつ海外旅行でのストレス耐性のおおきな要素は「ルーティン構築能力」である。
旅行中というのは、衣食住の全プロセスで頻繁に変化があり、そのつどいろいろな制約や条件が生じるものである。
そのとき、めまぐるしく変化する条件の下で、「暮らしのルーティン」をすぐにてきぱきと決めることのできる人と、なかなかできない人がいる。
就寝起床の時間、シャワーを使う順番、朝ご飯のメニュー、洗濯の段取り、買い出しの分担・・・そういう暮らしのルーティンをすぐに決めて、スケジュール通りに生活を始められる人と、あれもこれも「ふだん」と違うので、ぼおっとして、何をしてよいかわからなくなり、ひとに言われるままに右往左往して、主体的に一日の時間割が作れない人がいる。
自分で時間をコントロールしている人は、制約の中で利便性と快楽を最大化することにあれこれと工夫を凝らすようになる。それがうまくゆくと、なかなかの達成感がある。

映画には「捕虜収容所もの」というジャンルがある。『大脱走』とか『大いなる幻影』とか『第十七捕虜収容所』とか、歴史的名画が少なくない。
こういう映画を見ていると、捕虜収容所という制約の多い空間で、自分なりの生活のルーティンを決めて、規則正しく暮らしている人間がいちばんタフであることがわかる。

私もどこにいってもすぐに「自分のルーティン」を決めてしまう人間である。毎日同じことをしていると、いちばん能率が上がるので、毎日同じことをしている。
起きて、シャワーを浴びて、果物を食べて、みそ汁を飲んで、仕事をして、カフェテリアでカフェオレを飲んで、川沿いを散歩して、Monoprix買い物をして、『リベラシオン』を買って、Resto U で新聞を読みながらご飯を食べて、中庭で本を読んで、ホテルに帰って昼寝して、シャワーを浴びてから仕事の続きをして、夕方になったら稽古のある日は合気道の稽古に出かけて、稽古のあとにビールを飲んで、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、歯を磨きながらTVを見て、ワインを少し飲んで、ぐー。
こんな判で押したような生活をしているせいで、ちくま新書の原稿半分以上終わってしまった。
この仕事がブザンソンにいるあいだに終わってしまうと、パリにいる間にすることがなくなってしまう。困ったなあ。

9月3日

CLAのディレクターと「ヨコ飯」。
私はブザンソンで原稿を書いているばかりではなく、ちゃんと研修生の付き添いとしてのお仕事も果たしているのである。
ディレクターは着任したばかりの精力的な男性。
トリノとサンパウロのAlliance Francaise でフランス文化の普及活動を8年したあとに、ブザンソンにポストがあったので、帰国したという話であった。
その彼に招待されて、昼食を食べながら、フランスと日本におけるフランス語履修状況について情報交換をする。
やはり、フランス語話者人口の全世界的な減少(それはイコール、英語の世界制覇ということを意味している)の傾向にかなりの不満と不安を抱いておられた。
その点では、私も同意見であるので、ふたりで「困ったね」とうなずきあう。
その後、イラクにおける人質事件や、新学期のリセでのイスラム教徒女性のスカーフ着用問題から始まって、日仏両国における「民族問題」について意見交換。
ディレクターはもともと外務省のお役人であるから、「公式的発言」は「政治的に正しい」ことしか言われないが、その後に必ず声をひそめて「というのは、表向きで、実は・・・」とフランス人の本音を教えてくれる。
こんなふうに鮮やかに二枚舌をきっちり使い分けるところがいかにも「ヨーロッパ人」である。

夕方からブルーノくんとサントル・ガルシエで合気道のお稽古。
三年ぶりである。
エルヴェとイワンのガルシエ兄弟とご挨拶。
ブルーノくんを相手に、基本の体捌きと、基本技を数種類お稽古。最後に杖の型をひとつ教える。
ふだんは何もしないで、教えているだけなので、二時間技をかけたり受け身をとったりするのは久しぶりのこと。
それに8月21日以来まったく身体を動かしていなかったので、節々が「油ぎれ」できしんでいる。
それでも二時間稽古をしたら、だいぶ油が回ってきて、だんだん動きがよくなる。
夜のクラスの生徒たちがやってきたので、稽古を切り上げて、街へ戻る。
Granvelle のカフェでビールの「大ジョッキ」をくくくと飲み干す。
それからイワンくんをまじえて10時半までずっと武道談義。
昼間の多弁なる「ヨコ飯」の反動か、ビールを飲んだ後、まるでフランス語が出なくなる。
しかたがないので、ひたすらにこにこ聞き役に徹して、ときどき「ほうほう」とか「まさか」とか「なるほど」とか言うだけ。
どうやら私の場合、一日に使えるフランス語「脳」のキャパに限界があるようだ。

9月2日

旅先で旧友の訃報に接する。
大学からファックスが届いて、竹信悦夫くんが旅行先のマレーシアで心臓麻痺で客死したという。
高橋源一郎さんから今日の午後(日本時間)に連絡があったそうである。
大学からは早朝から私の携帯に連絡を入れていたらしい。
たしかに、早朝二度電話が鳴った。でも、応答しても変なビープ音しかしないので、誤作動だろうと思って、そのまま切ってしまったのである。
CLAの校長先生とホテルのレストランで「ヨコ飯」をしたあとで、ちょっとぐったりしているところをレセプションに呼び止められて、ファックスを渡された。
マレーシアで心臓麻痺という以上のことが分からない。
とりあえず高橋さんの携帯に電話をするが通じない。
日本の友人たちに電話をかけてみる。コニカの澤田くんがつかまったので、彼にニュースの確認と他の友人たちへの連絡をお願いする。
こういうときに海外にいるというのは、まことに不便なものである。
二時間ほどしてもう一度電話をしてみる。
伊藤くんが朝日新聞に確認してくれて、マレーシアに奥さんと旅行中、海水浴のときに心臓麻痺で急死したということまでわかった。
そこまでしかわからない。

竹信くんとは1970年以来、34年のおつきあいである。
ちょうど30年前の夏、74年にパリでふたりで十日ほどごろごろしていたことがあった。
貧乏卒業旅行だったので、オデオンの裏の星なしホテル、Ho^tel de la Vigne の六階だか七階だかの屋根裏部屋に逼塞していた。
金はなかったけれど、私は最初の海外旅行で、なんだかやたらに高揚していて、何を見てもおかしくて、笑ってばかりいた。
「煮込み定食ご飯大盛り」とか「私はパリに嫉妬する」とかいうそのときの思い出のフレーズをしつこく蒸し返しては、その後30年間ふたりで笑い続けていたけれど、もうその「笑いネタ」の起源を覚えている相方がいなくなってしまった。

先週パリに着いた翌日に、なんだか懐かしくなって、往時ふたりが盤踞していたRue de la Vigne を訪れ、いまでは三つ星ホテルに出世したかつてのぼろ宿をデジカメに収めた。帰ったらホームページに載せて、竹信くんにも見てもらおうと思ったのだけれど、それもかなわぬこととなった。

「蛍雪友の会」のメンバーはこれで96年暮れに夭逝した久保山裕司くんに続いて二人目の物故者である。
久保山くんの葬儀のときは、私は二度目の性悪な不眠症のさなかで、通夜葬儀の二日間ほとんど寝ていなかった。ずっと頭がぼうっとして寒気がして、哀しいのと苦しいのがいっしょで、ほんとうにつらい葬儀だった。
その通夜の帰りに中野あたりの居酒屋で、私が寝られなくてつらいとこぼしたときに、竹信くんがさかんに励ましてくれたのを思い出す。
ウチダは話をまとめようとするからいけない。オープンエンドがいいんだよ、ということを何度も繰り返していた。
そのことばがずっと心に残っている。
そうか、「オープンエンド」か。
そのことばをそのあとも自分に向けて何度も繰り返し、それから学生たちにも何度も教えた。
竹信くんは私のいささか神経症的な趣のあったライフスタイルに、気分のいい解放感をもたらしてくれた人であった。
『寝ながら学べる・・・』というのも30年前に久品仏の私の下宿で、竹信くんがこたつの中でぽろりと口にしたコピーをそのままお借りしたのである。
二年前の夏に、彼がコメンテイターをしている「朝日ニュースター」という番組に呼ばれて、『「おじさん」的思考』と『寝ながら学べる構造主義』の紹介をしてもらった。
そのときに、「このタイトル、30年前に竹信くんにもらったものなんで、この場を借りてお礼申し上げます」という話から始めてふたりで15分ほどおしゃべりをした。
それが彼と会った最後になった。
そのあと、去年高橋源一郎さんと知り合ってから、ふたりでずいぶん竹信くんの噂話をしたので、なんだか最近何度も会ったような気がしていたけれど、実際には、しばらく顔を見ないうちに、急に逝ってしまったのである。
もうあの笑い声を聞くことができない。
合掌。

投稿者 uchida : 22:50 | コメント (1) | トラックバック

フランスへろへろ日記(前半)

9月1日

ブザンソン五日目。フランスに来てちょうど一週間が経った。あと二週間。
昨日の朝、医学書院から『死と身体』の再校ゲラが小包で届く。ブザンソンのホテルまで追っかけてきたのである。さすがスーパー・エディター。
そのまま開いて、赤ペン片手にこりこりと校正をする。もう再校であるから、直しはあまりない。誤植をいくつかみつけた程度で、ファックスで返信。
便利になったものである。
でも、ボーダフォンをもってきた学生さんは、ふつうに携帯メールをやりとりしていたから、この次にブザンソンに来るときは、きっとパソコンも面倒な接続なしで、そのまま通信ができるようになっているのであろう。
そうなると、もう芦屋にいるのと、ブザンソンにいるのと変わらなくなる。
それがいいことなのか、悪いことなのか、よくわからない。
もちろん、今でももってきたパワーブックをネットにつなぐことは可能なのであるが、その手順を私に説明する手間を考えたら、イワモト秘書が「つながない方がいい」という結論に達したのである(という話は前に書きましたね)。
私に説明するくらいなら、直接自分がフランスまで来てつないだ方がよほど早い、とまでわがIT秘書は言っていた。
それほどにこの手のものと私は相性が悪いらしい。
私がインストールすると作動しないアプリケーションを秘書がやると作動する。私が押しても作動しないキーを秘書が押すと作動する。そういうことがあまりにしばしばあるので、パソコンに「嫌われている人間」ということにされてしまったのである。

再校が終わったので、ちくま新書の原稿書き。
ぐいぐいと書いているうちに50枚ほどになる。
全部で何枚書くんだか、忘れてしまった。ふつうの新書が200枚だから、150枚くらいだったかな。だとするともう三分の一終わったことになる。このペースだとブザンソンにいる間どころか、今週中に書き上がりそうである。

学生諸君は授業でぐったり疲れて、放課後市内に買い出しに出かけると、そのままホテルに帰って、それをぼそぼそ食べて、テレビを見て、寝てしまうらしい。
誰も夕食でかける相手がいない。
カフェでモナコを飲んでから、ひとりでレストランでご飯をたべるのも曲がないので、いつのまにかブザンソンにもずいぶん増えたギリシャ・レストランでテイクアウトの焼き肉サンドとビールを買って部屋に戻り、『リベラシオン』を読みながら、ご飯。

TVではバグダッドで誘拐された二人のフランス人ジャーナリストのことをずっと報道している。
フランスで先年法制化された「公立学校での宗教的服装の禁止」(具体的には女性のヴェール着用禁止)を廃止することを犯人グループは要求している。
フランスはイラク戦争開戦以来、一貫して占領軍に施策に批判的であったので、この人質事件の発生はフランス人にとってはかなり衝撃的なようである。
政府は全力をあげての救出外交を展開している。
最悪の結果になった場合、フランスに居住する数百万のイスラム教徒は今後かなり深い心理的な傷を負うことになるだろうし、彼らのフランス社会への統合は少なからぬ停滞を余儀なくされるだろう。
テロリストはもちろんそういう事態をこそ期待しているのだろうが、同胞が異国で孤立し、その結果マイノリティとして純化することをめざす発想はあまりに貧しい。

8月30日
ブザンソン三日目。いよいよ本日からCLAの研修が始まる。
今回はCLAのお隣に投宿しているので、たいへん楽ちんである。
8時半集合というので、でかける。
本館の5Fに集合ということで顔を出すが、登録に集まった生徒の数がずいぶん人が少ない。60−70人というところであろうか。
EU諸国でのフランス語使用者がこのところ激減しているということを先日日本の新聞で読んだ。
たぶんそういうことなのだろう。
94年に最初にここに来た頃は、北欧や東欧やイギリス、イタリアからもずいぶんスタジエールが来ていた。
その後アジア勢が優勢となり、カンボジア、ベトナム、韓国、中国、そして日本がCLAのメインクライアントとなっていた。

フランス人にとっては「フランス語が世界の公用語でなくなる」というのは、足下が崩れ落ちるような「アイデンティティ・クライシス」を意味するのであろう。
その感じは、世界中どこにいっても(ハワイとパリのブランド店以外は)日本語が通じない」ことを自明だと思っている私たち日本人が想像することはむずかしい。
「英語が通じなくなった世界におけるアメリカ人の困惑」というのを想像してから、そこから現在のフランス人の困惑を想像すれば、すこしは分かって頂けるだろう。

フランス語を習う人が減った時代のフランス人の困惑が想像しにくいというのは、逆に言えば、私たちが「そういうこと」をこれまでぜんぜん夢想だにしたことがないということである。
「日本語を世界の公用語に」とはいわないまでも、世界のどの国に行っても、公的な立場(警察とか郵便局とか市役所とか)や学校の先生や知的職業人の中には日本語ができる人が必ずいるというような文化的な「足場」を構築するということを、私たちはたぶんこれまでほとんど考えたことがない。
そういう「知日派」を拠点にして、日本とその国のあいだの相互理解を深め、グラスルーツの外交を展開してゆく。そのためには惜しまず先行投資を行う、ということをたぶん政治家も外務省や文部科学省の役人も、これまで一度もまじめに考えたことがないのではないだろうか。
というのは、こういう知日派構築とか日本語教育のための文化的インフラ整備というのは「国家百年の計」であるが、日本の政治や役人は日本の百年先のことなんかまるで考えていないからである。在任中に事件化さえしなければ、どれほど将来に禍根を残すかもしれない制度上の問題にも目をつぶって、満額の退職金を頂いて、あとを後任に押しつけて逃げ出す、というのが日本のエリートたちの習い性である。
50年後に芽を出し、100年後に結実するような迂遠な政策の立案を彼らに望んでも仕方がない。

そんなことをブザンソンで愚痴っても始まらないけれど、不要不急の高速道路を造るお金があったら、海外諸国に日本語話者を一人でもふやすために予算を投じたらどうかと思う。
もちろん日本語学校というのは日本にはいくらもあるけれど、その目的が知日派の外国人を増やし、日本語の国際社会における公用語化に資することにあるようには思われない。
むしろ、日本にお金を稼ぎにやってきた外国人からさらに収奪することが本旨であるような気がする。
そういうことをしていると国際社会でしかるべき敬意を得ることはできないように思うけれど、そういうことに日本人はあまり興味がないみたいである。

なんだか悲観的になるのは、フランスにわずか1週間いるだけで、日本という国がいかにフランスにとって「どうでもいい国」と思われているかがしみじみ分かってくるからだ。
だって、1週間毎日『リベラシオン』を隅から隅まで読んでいるのに、日本についての記事が一つもないんだもの。
これはけっこう切ない。
日本文化でこの国に根付いているのは電子的ガジェットと「マンガ」。
要するに「秋葉原的=オタク的なもののパワー」ということなのかな。日本が世界に誇れるのは。

8月29日

ブザンソン第二日。
朝から雨。寒い。
洗濯をする予定であったが、雨では無理。
しかたがないので、仕事。
『ブランショ論』の加筆修正が終わる。
昼頃に雨が上がって、雲の間から薄日が差してきたので、とりあえずお出かけすることにする。
まずはいつものようにCathe´drale St.Jacques にお参り。浄財0.9ユーロを投じて、お灯明一本を聖母子像に奉献して、一同の旅の無事を祈念する。
ぷらぷらと街を歩くが、人気がない。店も日曜なので、ほとんどお休み。
開いているカフェでcafe´ au lait を喫してのち、部屋に戻り、仕事。
ちくま新書の『先生はえらい』を書き始める。
なんとなく調子が出てきて、ぐいぐい書き進んでいると、学生二人が仕事の邪魔をしに来る。
駄弁を弄してお相手をしているうちに時分時となり、それではというので連れ立ってcentre ville へ。
Pont Battant を渡って左側のAu Feu Vert というカフェレストランで食事。
Menu Re´gional (ご当地定食)を食す。
ポテトとソーセージにチーズのドレッシングのサラダとポテトとソーセージとチーズのグラタン、デザートとun quart のワインが付いて、15ユーロ(日本円で2000円ほど)。
ボリュームたっぷりだが、アントレとプラがどちらも同一材料であるというのは、いかがなものか。オ・フ・ヴェールのめにう企画者には猛省を期したい。
満腹したんで、川風になぶられつつよろよろとホテルに帰投。
テレビではオリンピックの閉会式をやっている。
フランスも今回のオリンピックはぱっとしなかったらしく、テレビではアナウンサーたちが眉をひそめて敗因の分析などをしている。
つまらないので、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を読みつつ寝る。この原作では「ヴァン・ヘルシング」となっていた。こっちが正しいのかも。

8月28日

移動日。雨のパリを出て、リヨン駅からTGVでブザンソンへ。
前回は駅にブルーノくんとコッシーが迎えに来てくれていたけれど、今回、ブルーノくんは私たちに三日遅れてブザンソンで合流する約束である。
パリは雨だったが、ブザンソンは秋晴れ。
投宿先は新築のHotel Ibis。CLAの隣。校舎まで徒歩20秒である。
ビジネスホテルのチェーン店なので、パリのホテルに比べると風情も何もない部屋であるが、清潔で明るい。
とりあえず、ここに腰を据えて2週間の間に、ブランショ論の旧稿の手直しを済ませ、新書を一冊書き上げる予定である。
月曜に学生たちの受け入れ手続きと、提携校協定の更新の話し合いがあるが、それ以外には仕事らしい仕事はないので、集中できればそれなりに効率よく仕事ができるはずである。
朝から夕方まで仕事をして、夕方からガルシエ道場でブルーノくんと合気道の稽古をして、終わってから一緒にビールを飲む・・・という95年以来の「夢のワンパターン」が今年も期待できそうである。
でも、ブルーノくんが期待どおり日本大使館勤務となってしまったら、「夢のワンパターン」はこの夏が最後ということになる。そう思うと、なんだか寂しい。

投宿後、一休みしてから学生たちを連れて、街を案内する。Le Doub 沿いにPont Battant まで行って、Grand Rue を歩きながら、「ここがMono Prix ここが8 Septembre 広場、ここがGalerie Lafaytte・・・」って?ここって3年前はNouvelle Galerie という名前のスーパーだったのに。
いつも夕方の一杯を楽しんだGranvelle のカフェも模様替えして、イタリアンの店になっていた。
歳月人を待たずである。
学生さんたち6名ととりあえずPlace Granvelle の緑の木の下で、アペリティフを頂き、そのままイタリアン・ディナー。
なかなか美味しい。
腹ごなしにぷらぷらと暗いRue Me´gevand を歩き、市庁舎の横を抜けて、Pont Canot を渡ってホテルに戻る。
考えてみるとブザンソンに来るのも、94年以来これで6回目。ということは、そのへんで走り回っている子供たちよりも昔からこの街のことを私は知っているのである。
親しい街にいるような、アウトサイダーであるような、なんだか不思議な感じがする。

8月27日

パリ三日目。今日はオルセー。
いつもはオランジュリーでモネの「睡蓮」を見ながら昼寝をするというのが決まりなのであるが、オランジュリーが年末まで閉館なので、オルセーに印象派を見に行く。
91年以来、13年ぶり。
モネ、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ドガ、シスレー、ピサロ、スーラ、ルソーなどをくるくると見て回る。
印象派はほんとによいね。
お土産店で印象派グッズを買い漁る。
同行の学生さん二人(K室とF田、どちらも私の基礎ゼミ・文献ゼミの学生さん)とサンジェルマン・デ・プレまでたらたら歩いてご飯。
リュ・サン・タンドレ・ゼ・ザールをサンミシェルまで戻る途中でセーターを購入。89ユーロ。寒いんだもん。
ホテルに戻って『吸血鬼ドラキュラ』を読みながらお昼寝。
夕方に目覚めて、お風呂に入ってからブランショ論の仕事の続き。
7時半まで仕事。
学生さん5人とカルチェ・ラタンのレストラン街へ繰り出す。
みなさんの希望で本日もギリシャ料理。安いからね。
シーフード・サラダとブロシェット(仔羊とソーセージ)のムニュで13ユーロ(1500円くらい)。ワインをちょっと飲む。
満腹して、でれでれとホテルに戻る。
旅行と時差の疲れが今日一日でだいぶ取れた。
明日はいよいよブザンソンに移動である。

8月26日

パリ二日目。時差で夜中に何度か目が覚めるが、とりあえず7時半まで寝る。
ホテルのレストランで朝食を食べる。部屋でごろごろしていると、学生諸君が「行ってきます」とご挨拶に来る。早朝からみなさんあちこちに観光にご出発である。
10時ごろに私も部屋を出て、まず恒例の「お灯明」のためにノートルダム寺院に赴くが、昨日に引き続きここでもパリ解放60周年行事をしている。シラク大統領が来ているとかで、きびしく警備していて中に入れない。
しかたがないので、踵を返して、近場その2のサン・ジェルマン・デプレ教会に変更。
お灯明を二本上げて一同の旅の無事を祈る。
世界中どの言語で祈っても天には通じるはずであるが、いちおう「地場」の神様がお相手なので、フランス語で祈って恭順の意を表する。
こういう節度のなさが釈先生に「シンクレニティスト」と呼ばれる所以である。
教会の入り口で物乞いをしているお乞食さまたちに浄財を喜捨して、彼らにも当方の旅の無事を祈って頂くことにする。
恒例の行事が終わったので、ほっとしてサンミシェルのカフェでお昼を食べる。サラダ・ニスワーズとハイネケン。
フランスにいると平気で昼からお酒を飲むようになるのが問題である。
ビールがたちまちまわって、はげしく睡魔が襲ってくる。ただちにホテルに帰投し、パジャマに着替えて、愉しいシエスタ。
夕方目覚めて、心を入れ替えて、PCを開けて、仕事。
まずはブランショ論の加筆修正。
ジャン・ポーランの『タルブの花』が復刻されるのだが、それに私の大昔のブランショ論が「おまけ」で付くのである。
「『文学はいかにして可能か?』のもう一つの読解可能性:面従腹背のテロリズム」という、これは私のデビュー作といってよい、古い論文である。
『文学はいかにして可能か?』というのはブランショが1941年に発表したポーランの『タルブの花』についての小論である。
内容的にはオリジナルの完全な「要約」であって、論争的な性格のものではない。
『タルブの花』は41年にガリマールから出版され、『文学は・・・』の方は、翌年にジョゼ・コルティ書店から300部の限定版で出た(単行本になる前に41年に別の雑誌に発表したものだから、実質的にはポーランの本の直後に書かれたものである)。
どうして、出たばかりの本の「要約」をブランショがしたのか。その意図がよくわからない。
この「要約」の冒頭は「テクストには凡庸の読み方と、難解で危険な読み方がある」という挑発的な言葉から始まる。
ということは、この論文は要約というかたちをとっているけれど、「難解で危険な読み」を試みたものであるという仮説が成り立つ。
41年というのはパリがナチスの占領下にあった時代であり、すべての出版物は検閲を受けていた。
そのような状況で「危険な」というのは、「そういう意味」と解してまず間違いないところであろう。
私の仮説は、ブランショのテクストは文学論を偽装した反ドイツ的な政治的テクストであるというものである。
文学論をどう暗号化して、政治的テクストに書き換えたのか・・・その手際を解明するのがこの論考のねらいである。
私はどうも昔からこういう「暗号解読」的なテクスト読解が好きだったらしい。
興味のある方は本買って下さいね。

そんなことをしているうちにオノさんがやってくる。
オノさんは女学院の卒業生で、うちのフジイとかホリくんとかコンバちゃんとか先年夭逝したツジタくんと仲がよかった仏文の研究者である。パリ大学でバタイユの博士論文を準備中。
昔話をしているところに飯田先生とその従妹でパリに留学に来たバイオリニストの美少女(飯田先生はその「つきそい」でパリに来られたのである)がやってきて、すぐにブルーノくんがやってくる。
五人でぞろぞろとブルーノくんの案内でポンピドゥ・センターの近くの中華料理にでかける。
青島ビールをくいくい飲み、餃子、鴨、麻婆豆腐、牛肉炒め、野菜炒めなどをぱくぱく食べながら、フランス・ポルノ事情というようなあまりハイブラウでない話で盛り上がる。
「安くて美味しいです」とブルーノくんが言うだけあって、五人で腹一杯食べて38ユーロ、ひとり1000円くらいである。
どうやら「お巡りさん割引」があったらしい。
帰りに夕闇迫るポンピドゥ・センター前のカフェでディジェスティフを頂きながら、たいへんハイブラウなバタイユとラカンとレヴィナスの話などをする。
飯田先生と飲んで笑っていると、パリにいるのか神戸にいるのか、よく分からない。次にお会いするのは神鍋高原の合宿である。
オノさんもいたし、ブルーノくんは「ブルドックソースをかけたお好み焼きが食べたい」なんて言ってるし、なんだかパリと日本がまるっと地続きみたいな気分になる。
みんなでたらたらとシャトレまで歩いて、散会。

8月25日

午前11時15分関空発。AF291便にてパリへ。
学生12名と私を入れて、総勢13名、3週間の旅である。
全員集合時間にちゃんと集合。あれこれの手続きの後、機内の人となる。
同じ便にフランスの学会にゆかれる阪大のK木先生ご夫妻もたまたま同乗されていた。ムッシュはかつて本学の専任教員であり、マダムはいまも女学院の非常勤でフランス語を教えておられるので、今回のスタジエールの中にも教え子が何人もいる。神戸女学院とは因縁浅からぬお二人と席も前後ろとなり、おしゃべりしながらの旅となる。
それにしてもエコノミー席は狭いね。
壁の前の席だったので後ろに倒れるスペースがない。前の席をリクライニングされると、ほとんど「ドランシーからアウシュヴィッツへ送られる護送列車」的空間となる(床に落ちた眼鏡を拾うことができないし、隣の二人を叩き起こして跨ぎ越さないとトイレにもゆけない)。教師ひとりがビジネスというのはあまりに差別的だから、このプロジェクトが続く限り、老体に鞭打って12時間の苦行に耐えるしかない。航空会社はこの非人道的なエコノミー席をなんとかすべきだと私は思うけど。
しかたがないので「とっさに使えるフランス語ひとこと集」のMDを繰り返し再生して睡眠学習する(「泥縄」もいいところだな)。
この「とっさに使えるひとこと」というのは、なかなかよい考え方である。
むかし、同業のS野くんと「戦うフランス語」という教科書を企画したことがある。
フランスにいると、窓口や売場やホテルで、フランス人のどうにも理不尽な対応に「むかっ」とくることがしばしばある。しかるに、こういうときに「とっさの憎まれ口」というのがなかなか出てこない(というのは。私たちが教科書で習ったストックフレーズはすべて「たいへんフレンドリーなフランス人との友愛あふれる会話」によって構成されているからである)。
しかし、旅先で私たちが遭遇するのは、しばしば許し難い不条理や非常識である。そういう場合に、友愛的メッセージはあまり効果的ではない。むしろ、「てやんでえ、べらぼうめ。こちとら江戸っ子でい。てめえ、そんな作法で世間が通ると思ったら、えれえ了見違いだぜ」というような啖呵をフランス語でさらっと言い切って、気分よくその場を後にしたいというふうに私などは考えるのである。
その点で、この「とっさのひとこと集」はすぐれもので、その手の悪口も潤沢に収録されている。
半睡状態で「戦うフランス語」を仕入れつつ、無事にパリ着。
bagageでトランクが出てくるのを待っていると、「ウチダ先生ですか?」と妙齢のご婦人に声をかけられる。
びっくりして振り返ると
「先生のHPいつも読んでます。関空でおみかけして、すぐ分かりました」
聞けば、私の高校時代からの友人で同業者のN井珠ちゃんのお友達で、日本に一時帰国してフランスに帰国する飛行機がたまたまご一緒だったそうである。
それにしてもフランスで私のHP日記を読んでいる方がおられるとは思わなかった。しばし歓談。
パリ市内に向かうバスにK木先生ご夫妻も同乗して頂いて、雨の中をパリへ向かう。
あいにく、25日はパリ解放の60周年記念、ドイツ軍から警視庁が解放された日に当たり、当時のレジスタンのみなさんが警視庁に集まる行進があったそうで、オーステルリッツ橋からサン・ミシェル橋まで1時間半も渋滞(歩いてもせいぜい7,8分の距離である)。
ホテルにブルーノ君を1時間近く待たせてしまった。
とりあえず投宿ののち、ブルーノ君と久闊を叙す(ブルーノ君はたいへん正確な日本語をしゃべるので「ああ、私はウチダ先生にまたお会いすることができて、たいへんに光栄です」というようなことを言う。私は「長い間連絡しなくて、すみません。元気そうですね。私も君に会えてうれしいです」というような初級文法書的なフレーズをごにょごにょとフランス語で言う。
ブルーノ君と彼のcopine のT橋さんと一緒に、とりあえずカルチェ・ラタンのレストラン街にご飯を食べにゆく。
時差が8時間あるので(フランスはサマータイムなので、制度上は7時間)、午後9時ということはウチダの体内時計的には26日の午前5時である。夕食には変な時間であるが、フランス時間にこちらの身体をあわせなければいけない。
アテネオリンピック開催中ということで、開催国に敬意を払って、ギリシャ料理を選ぶ。美味しい(シシカバブーみたいな)串焼きを食べ、マラソンビールというギリシャの地ビールを飲み、軽くワインを頂き、歓談することしばし。
ブルーノ君は「日本語を話せるパリでただ一人のお巡りさん」ということで、パリで日本人観光客が盗難被害に遭うと、とりあえずみんな8区の警察署の彼のところに回されて来るそうである。被害者に対してたいへんフレンドリーに接するので、日本人からいろいろと感謝されて、先般は「パリのやさしいお巡りさん」ということでテレビ朝日の取材を受けたそうだ。在日フランス大使館勤務に転勤願いを出しているということなので、いずれ東京で会えることになるかもしれない。
すごく眠くなってきたので、1時間半ほどおしゃべりしたところでホテルに引き上げ、爆睡。
二日目はとりあえず、恒例に従って、まずノートルダム寺院に行って、旅の無事を祈ってお灯明を上げることにする。そのあとはぶらぶら初秋のパリを散策するかな。

投稿者 uchida : 22:47 | コメント (1) | トラックバック