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2004年05月31日

Emergency Call

先週なかばから更新されておりませんが、それはウチダが熱を出してダウンしているからです。
そろそろ回復してもよいころですが、ただいま39度5分。
高熱と関節の痛みとのどの痛みでへろへろです。

というわけですので、明日の授業は休講にしてください。

今頃告知するのも遅いけれど、さっきまで体温計をみながら一喜一憂して、38度線を越えたときは、「おお、これで明日は仕事に戻れる」と喜んだのですが、それもつかのま40度ラインをめざして体温はただいまぐいぐい上昇中であります。


というわけですので、金曜日以降受け取ったメールはひとつも読んでおりません。

体力が回復したころには未読メールが300通くらいにたまっているでしょうから、それをよむだけの気力体力は病み上がりのウチダにはありません。

というわけですので、ウチダが「壊れている」間に送信されたメールは「ご縁がなかったもの」とご放念ください。

なお、ぜひ連絡を取りたいという方は来週月曜以降に再度送信お願い致します。

わがままですみませんが、なにしろ熱が・・・・

投稿者 uchida : 21:04 | コメント (6) | トラックバック

2004年05月26日

戦争とISO

週末東京で演武会と合同稽古をこなしたあと、月曜は『ミーツ』の最終回原稿を書いて、それから毎日新聞のエッセイ(これは6月に4回連続で家庭欄に掲載される予定。タイトルは「オトコのみかた」)。

書き終えるとばたばたと学校へ行って、杖道のお稽古。今日は六本目「物見」。
昨日の今日なので、さすがに稽古に来る人は少ない。
溝口さんと嶋津さんがそれでも来ている。偉いぞ。

嶋津さんに「東京みやげです」と「銀座のいちご」をいただく。私も昨日東京駅頭において「和菓子になった東京ばな奈」を購入してきたのであるが、甘み系のものは午前中のエネルギー源の必須アイテムであるからして、ありがたく頂戴する。ごちそうさま。

火曜日はゼミが二つ。
大学院ゼミは井原さんの「アメリカと戦争」。

アメリカはどうしてあれほど戦争をするのか?という根源的な疑問をめぐってディスカッション。

アメリカの政治的な支配圏の拡大は、19世紀以来つねに「正義の戦争」として展開してきた。
その「必勝パターン」の記憶の上にナショナル・アイデンティティが構築されている限り、「あれは、もうやめましょう」ということについての国民的合意の形成は困難であろう、というのがウチダの解釈である。

私たち日本国民が国際社会から見てきわめて親密なアメリカの政治的パートナーであるにもかかわらず、私たちはそのアメリカの政治史について、ほとんど教えられない。

たしかに西洋史で中学高校とアメリカの歴史を私たちは学んでいるはずなのであるが、「アメリカの植民地拡大の歴史」についてまともに習った記憶がない。

米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)はご存じ『アラモ』の背景となる戦争であるが、戦争の原因はアメリカがメキシコの支配下にあったテキサスを領有したのち、さらにメキシコの一州であったカリフォルニアに領土的野心を抱いたことに発する。戦争のあと、カリフォルニア在住のアメリカ人たちはメキシコからの「独立」を宣言し、そのあとアメリカに併合される。

同じことはハワイでも行われた。1893年にアメリカはカメハメハ王朝を武力クーデターで打ち倒し、アメリカ人宣教師の息子ドールを首長とする地方政府を立て、そのドールが「ハワイ共和国」の大統領となり、98年にアメリカに併合される(もちろんドールは初代知事)。

1898年の米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)では、スペイン領のキューバとフィリピンの独立運動を支援するかたちで軍事介入を行い、結果的にはフィリピン、プエルトリコ、グアムを割譲させ、キューバを保護国化する(その後、フィリピン独立運動を軍事的に弾圧して植民地化する)。

「ほしい」と思う「王国」に名目的な「民主化=独立運動」を見出し、そのなかば虚構の運動を「支援する」という大義名分を掲げて軍事介入し、独立達成後に独立国の自由意志に基づいて「併合」するというやり方で19世紀末にアメリカはその領土を拡大してきた。

それ以後も小国に対する軍事介入のロジックはつねに同一である(ベトナムでもアフガニスタンでもイラクでも同じことを繰り返している)。

この「パターン」に対する「有罪感」というものを感知することはアメリカ人にとって構造的に困難である。
なぜなら、「こういうのって、ちょっとまずいんじゃないかな」ということをアメリカ人自身が言い出すと、「あ、そう。じゃ、それを反省してるというなら、まずカリフォルニアとニューメキシコとテキサスをメキシコ人に返還し、プエルトリコをプエルトリコ人に返還し、ハワイをハワイ人に返還してから話をきこうじゃないの。あ、ついでにマンハッタン島もハッケンサック族に返しておいてね」という流れになることは避けがたいからである。

ひとつでも有罪を認めたら、先住民の虐殺から始まった建国以来の領土拡大のすべてについても有罪を認めることになるから、間違っても「すみません」と言うわけにはゆかない・・・というのが「正義であり続けなければならない」アメリカの宿命である。

その意味でアメリカはこれからあとも、世界のどこかに「独立運動」を探して、それを支援する「正義の戦争」を続けることになるだろう。
戦争を継続することなしには、過去2世紀のナショナル・アイデンティティそのものが立ちゆかない国も不幸だし、そんな国の「自分探し」につきあわれて空爆される小国も不幸である。

アメリカがこの袋小路から逃れる道はとりあえず一つしかない。
それは「アメリカ史」についてはできるだけ国際社会のみなさんに「忘れていただく」ということである。今日のアメリカ領土は父祖伝来の「故地」である幻想をアメリカ国民以外の方々にも共有してもらうことである。

日本はその点については、きわめてアメリカに協力的な仕方で初等中等教育のカリキュラムを組み立てているように私には思われる。

現に、日本人は毎年何十万人もがハワイを訪れているけれど、「どうしてハワイは太平洋の真ん中にあるのにアメリカの領土なの?」という子供の質問に答えられる日本人はほとんど存在しないからである。

大学院が終わって、ソッコーで帰宅。そのまま東京へ。
今回は業務出張。
翌日早朝から「大学業務の品質管理システムとISO9001」というセミナーに出席するためである。

「高等教育の品質管理」ということを自己評価委員になってからいろいろと考えているが、なかなか名案が浮かばない。

ISO9001については数年前に品質管理の専門家である旧友澤田潔くんに大学への導入の可能性を訊ねたことがある。そのときは「9001取得は手間がかかるから、大学への導入は当分ないんじゃないか」ということだったが、けっこう早く日程にのぼってきたようである。

というわけで26日は朝から夕方まで渋谷の東京法科大学院というビルの7階会議室で、ISO9001:2000という国際規格を大学教育システムマネジメントに適用するに際しては、どのような面倒なことがあり、いったん導入された暁にはどのようなヨロコバシイ事態が招来されるかについて、評価機関や導入先進校からのご講話を拝聴する。

ISO9001の取得校はまだ東工大、鹿児島大など、ごくわずかの大学のそれも一部署に過ぎないが、セミナーには今後導入を予定しているあるいは検討中の大学関係者が20人ほどいらしている。
まだその程度の数の大学しかISOの導入については本気で考慮していないということなのかも知れない。

もちろん本学にはISO9001の取得予定などというものはない。

「どうかね、ウチダくん、ISO9001の件、自己評価委員会あたりでちょっと揉んでおいてくれんかね」と肩をたたかれたわけではない。

しかし、「うちにも、ひとりくらいISOのことが多少分かっている人間がいないと、まずいわな」とよけいな気を病んで、ウチダがみずから申し出て出張旅費とセミナー代を学長からご下賜頂いたのである。

しかし、セミナーに出てよかったと思う。

10年以内にはISO9001の取得は大学のデファクト・スタンダードになるだろう。

本学の場合は、シラバスの整備、授業評価アンケート、教員評価システム、FDセンターの立ち上げなど、ISOの土台になる制度の骨格はある程度整っているから、あとは運用にかかわる精密なマニュアルを1年ほどかけてじっくり作成すれば、取得そのものは、それほどむずかしい仕事のようには思われない。

問題は、ISO9001:2000取得に要するその「1年ほど」の管理コストがそれによって得られるベネフィットと引き合うかどうか、である。

学内合意がとんとんと進み、FDセンターの設立趣旨にみなさんがご理解を示されれば、導入のコストはいくらでも軽減できる。

しかし、「マネジメントとかプロセスアプローチとかフィードバックとかいう横文字、わしは好かんのう」というような方々がいる場合、そのみなさんを説得して、モニタリングやら不適合報告書やらをにこやかに書いていただくところまでひっぱってゆくために要するコストは、しばしばそのシステムを導入して得られるベネフィットを相殺してしまう。

そのあたりのソロバン勘定がまことに悩ましい。

投稿者 uchida : 21:14 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月24日

それにつけても合気道な日々

5月22日は、第42回全国合気道演武大会。
日比谷公会堂から日本武道館に会場を移して27回目の演武大会であるが、私はその第16回大会から27年間の連続出場記録をひそかに更新中である。
「一度始めたことは、なかなか止めない」というのが私の性癖なのであるが、ほんとにしつこいね。
自由が丘の同門の先輩同輩諸君の中でも、さすがに27年ともなると、たまには風邪を引いて熱を出したり、子どもが病気になったり、妻が産気づいたりなどの理由で、出場が途切れることもある。
連続出場記録を粛々と更新しているのは、おそらく私ひとりであろう。

90年、91年、92年は関西移住後で、まだ神戸女学院合気道会が演武会に出られるほど陣容が整っていなかったので、出場母体がなかった。だから、ひとりで武道館に行って、勝手に自由が丘道場の中に紛れ込んで演武させて頂いたのである。
ふつう、こういう場合、常識ある社会人は一定期間出場を自粛するものであるが、私は「一度始めたことは、もう止められない」悲しみのエビセン体質であるので、自由が丘道場のみなさんのご厚情にすがったのである。

93年からは多田先生のご高配で、神戸女学院合気道会として正規に出場させて頂くことができた。
東大気錬会も同年が初出場で、演武者控えの廊下で、まだ学生だった初々しい雑賀くんと「あ、いっしょだね。がんばろうね」とエールの交換をしたのを覚えている。
だから、神戸女学院合気道会として出場するのは今年が12回目ということになる。

今年はスーパー二年生軍団5人が初参加で、総勢17名の、たいへんにぎやかな演武となった。
参加者は松田高志・溝口良子・内古閑佳奈・楠佳織・北川真優美・澤奈緒・古橋右希・岸田汐・森川直・中瀬志保・森千花・二木佐知子・前川さち&“男子組”の常田裕逸・石田大樹・佐藤友亮のみなさん。白川カヨさんは残念ながら、木曜の稽古で鎖骨を痛めて涙の休場。飯田祐子先生は学会とバッティングで残念ながら宴会と翌日のお稽古のみの参加。みなさんどうもご苦労様でした。

演武会のあとは、恒例の「寒い九段会館屋上での多田塾ビヤパーティ」。自由が丘、月窓寺はじめ総勢100名が参加。なぜか、演武会のあとはしょぼしょぼ小雨が降ることが多い。
ここも最初に開拓したのは不肖ウチダである。
二十年ほど前に、たいへん暑い日に演武会があった。終わったあと、いつもなら自由が丘まで戻って「打ち上げ宴会」をするのであるが、あまりに暑くて、「とても自由が丘までもたない」と小堀さんが言い出したの(小堀さんがこういうことを言い出すと、もう誰にも止められない)。手近でとりあえずビールを飲もうということになり、そういうことになると決断の早いウチダが九段会館の屋上ビヤガーデンをみつけて「お、あそこにいこうぜ」と走り込んだのが、この恒例行事のことのはじめなのである。

ビヤガーデンで早稲田の諸君が宴会奉行梶浦真さんの指揮下に爆笑「アブラハム」などの持ちネタを披露。気錬会は例によって何もネタがないので、工藤くんの婚約披露をもって芸に代えさせて頂きますということであったが、これは毎年使える芸ではないな。
100名のビール代はすべて多田先生の奢り。多田先生、ごちそうさまでした!

ビールのあとは、神田すずらん通りまで足を伸ばして、またまた恒例の気錬会との合同宴会。
狭いところに30名近く押し込んで、工藤俊亮くん、新主将中村裕貴くん、副将の山本京祐くん、「店子」のQちゃんらと痛飲。
気錬会の新幹部のお二人はそろって細身のシティ派美少年なので、本学の部員諸君のなかにも隠れファンが少なくない。ヒロタカくんは、はにかむ横顔がキュートな平安時代の公達系で、ヤマキョーは笑顔に白い歯がこぼれるワイルド系。名香智子『花の美女姫』の世界がそのまま物質化したかのようである。

翌日は駒場で恒例の合同稽古。今年は早稲田も参加してくれたので、にぎやかな三大学合同となった。ヒロタカくんと早稲田の渡瀬主将が前半を指導され、後半は不肖ウチダが最近凝っている「時間差合気道」をご指導する。
ヴァレリー=ベルクソンの時間論に池上先生の三軸自在原理を応用したまことに精妙にして純理的な合気道なのであるが、悲しいかな唱道者であるウチダ自身の術技が術理に及ばないところが泣き所である。
幸い、“気錬会の至宝”工藤俊亮くんに受けをお願いしたら、さすが日頃「多田塾研修会のあとに生ビールを飲む会」で「ツーと言えば、スリーと答える」気の感応のお稽古に余念なく励んだことが奏功してか、「こんなふうに受けを取ってくれたらありがたいのであるが」とウチダが思念するだけで、それをただちに実現して下さるまことに得難い同門のよしみなのでありました。

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5月23日 東大気錬会・早大合気道会との三大学合同稽古会 :駒場第一体育館にて
(この稽古あとの記念撮影のデジカメデータをさきほど気錬会の高橋さんから送っていただきました。私の向かって右となりが早大合気道会の渡瀬主将、左となりが東大気錬会の中村主将です)

3時間の稽古で気持ちのよい汗をかいたあと、みなさまにお別れしてひとり市ヶ谷アルカディアへ。
紀伊国屋書店の ifeel という雑誌のお仕事で、構造主義の今日的意義をめぐって鈴木晶先生と対談なのである。
前日から、完全に合気道モードになっているので、その頭をアカデミックモードに切り替えるのに苦労する。
さいわい、こちらも「メル友交換日記」以来のコンビである鈴木先生がお相手であるので、昼食を頂きながらの対談であったが、一人が5分しゃべるあいだに一人は黙々とご飯を食べ、小鉢二皿ほど平らげると、お箸を置いて話を引き取り、交代にいましゃべった方がこんどはぴたり5分間お弁当を頂くという高等技術をご披露する。

構造主義というのは「情報の抜き取り」技法であり、その意味で知性の節度を説いたものであるが、節制の果てにめざしたものが「人間性の起源」の発見である以上、やはり動機は知性の法外さであるいう思いつき的なオチに強引に落とし込む。

この「ナントカであると同時に、まさに非ナントカなのである」というオチはだいたいどんなネタにも使える。
これはどこから突っ込まれても平気で言い逃れができるばかりでなく、そう言っている本人もだんだんその気になってきて思わず考え込んでしまうというなかなかに教化的にすぐれた落とし方なのであるので、お若いみなさんはぜひご参考にして頂きたい。

2時間の対談を終えてから会場わきの法政大学ボアソナードタワーに鈴木先生の研究室をお訪ねして、21階からの東京の絶景を賞味させていただく。こりゃすごいや。
そのまま鎌倉に戻られる先生と東京駅までご一緒して、駅頭にてお別れする。
鈴木先生どうも休日出勤させてしまって、すみませんでした。今度は仕事抜きでゆっくり飲みましょうね。

投稿者 uchida : 12:10 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月19日

Easy Rider と少年探偵団

大学院のアメリカン・スタディーズ・ゼミ。
本日のテーマは聴講生岡崎宏樹さん(京都学園大学)の「カウンター・カルチャー」。
面白いテーマである。
60年代にリアルタイムでカウンター・カルチャーを浴びたのは、教室にいるのは、私の他には同年代の聴講生光安さんあるばかりである。
「あのシクスティーズ」がどういうふうに社会学的に定義されるのか、その学問的位置づけと、リアルタイムであの時代を生きた人間の実感のあいだには、どのような「ずれ」があるのであろうか。
さすがに新進気鋭の社会学者の分析はシャープかつ周到。
「あの時代にいなかったのに、なんでそこまで分るの?」と不思議な気分になる。

60年代のカウンター・カルチャーが、その時代のメインストリーム・カルチャーに対する「対抗」性ゆえに、ドミナントなイデオロギー枠組みに100%規定されていたこと、そのミーイズム的傾向がそのまま70年代以降の資本主義に巨大な市場を提供したこと。
それを、ぴたりと指摘されてしまうと、ちょっと哀しい。
だが、ほんとうなのでしかたがない。

私の個人的印象を言えば、63年のケネディ暗殺をひとつの指標として、「ゴールデン・エイジ・オブ・アメリカ」は終わり、以後長い退潮期に入る。
もちろん物質的な繁栄はむしろそこから始まるのだけれど、カウンター・カルチャーは、その「没落」にむかって、アメリカの多様性が失われてゆく、最初の契機である。

「カウンター・カルチャーが多様性喪失の契機である」というといぶかしむ人がいるだろう。「あれは、個人の自由と多様性を求めた運動ではなかったのか?」
違います。
カウンター・カルチャーは「抑圧的なメインストリーム・カルチャー」と「自由で多様なカウンター・カルチャー」という固定的な二項対立のうちに、それ以外のすべての多様性を流し込んだだけである。
この運動の中で、アメリカでは「自由」でありたいと思う人間の「自由である仕方」がきわめて「抑圧的に」規定されることになったからである。
ロングヘアー、破れたジーンズ、ロック、ドラッグ、フリーセックス・・・というような「自由の意匠」は選択の余地のないものだった。
クルーカットで、ブルックスブラザーズのスーツを愛用して、モーツァルトとアイロンかけとガーデニングが趣味で、かつ「自由」である人間というようなあり方は許容されなかった。
自由であるためには、幾多の不自由を忍ばねばならなかったのである。
だから、70年代に入ってから、村上春樹が「気分がよくて、何が悪い?」と反問したのはのはこの「自由についての抑圧的なガイドライン」に対してだったのである。あの問いは、「カウンター・カウンター・カルチャー」だったのであるけれど、それはまた別の話だ。

私が「没落」とういのは、アメリカにおける「モラル」の劣化のことである。
わかりにくいかもしれないけれど、私のいう「モラル」は道学者の論じるそれとは違う。
「倫理」とか「常識」とか言い換えてもいいけれど、それは「限定された社会集団内でのみ強制的に機能し、他の集団に対しての適用を自制しなければならない行動規範」のことである。
「モラル」に汎用性はない。
ある地域、ある時代にのみ限定的に適用される限りに置いて、その成員たちを効果的に統御するけれど、その範囲を超えて「みんな、オレのモラルに従うべきだ」と言い出すと、むしろ無秩序と暴力を構造的に生み出す、そのような両義的なものである。

63,4年をさかいにアメリカの「モラル」は劇的に瓦解してゆく。
その最初の徴候がカウンター・カルチャーの登場である。
これによって、アメリカ社会は「メイン・ストリーム」と「カウンター」に二分割された。
それ以外の「あいまいな」カテゴリーは存在することができなくなった。
まず「二大陣営」にすべてが帰属させられ、中間領域がなくなる。
そのあと、一方の陣営が「最終的勝利」を収めて、集団全体が単一の価値観に統御されるようになる。
これ、どこかで見たような風景だと思いませんか?
そう、東西冷戦構造からソ連崩壊、グローバリゼーションに至る国際社会の歴程そのものですね。

60年代にアメリカにおける反秩序的要因はまとめて「カウンター・カルチャー」陣営にとりまとめられ、70-80年代に、陣営ごと根こそぎ「資本主義市場」にからめとられた。
そんなふうにして、アメリカはあれほど「うすっぺらで、暴力的な国」になってしまった。私はそう見ている。

今日出た話のなかで、ウチダ的に面白かったのは、『イージーライダー』の話。
「イージーライダー」のラストシーンの衝撃は、たぶん映画の公開から35年経った今でも、それなりのものだとは思う。
でも、忘れられがちなことがある。
それは、「夢のカリフォルニア」での麻薬取引で一山当てたピーター・フォンダとデニス・ホッパーがバイクを仕立てて南に向かうのは、ある意味では「予定調和のコース」だったということである。
だって、「ヤマを踏んだら、南に向かえ」というのはブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドの時代からの「お約束」なんだから。
むかしのアウトローは銀行強盗や列車強盗をやったら、とりあえず南に向かった。
ディープサウスは「アウトローの原点」だったからである。
だから、二人は当然のようにニューオリンズに向かう。
この「アウトローの王道」を粛々と歩んでいたはずの二人の「イージーライダー」(お気楽騎手)がテキサスあたりの田舎のおっさんに撃ち殺される理由はわりと簡単だ。
「変な格好をしていたから」である。
二人は主観的には「ライダー」のつもりだった。
南部に目立つ格好をみせびらかしに行ったのではない。「自分たちのことなんか、誰も気にしないだろう」と思って行ったのである。
自分たちがごく自然な存在として受け容れられるはずの場所に、ごく当たり前の格好で乗り込んでいったのだが、乗り物が「馬」じゃなかった。
もし彼らがあの変なフリンジのついた服でも、頭にヘルメットのかわりにテンガロンハットをかぶって、バイクの代りに馬でぽこぽこ走っていたら、撃たれはしなかっただろう。
『イージーライダー』の逆説は、「馬はないでしょ、もう。これからはバイクでしょ」という西海岸「アウトロー」の意識の変化と、「『ライダー』つうたら、ふつう馬だろが」というテキサスあたりのおっさんの意識の停滞のあいだの「歴史の流れの速度差」にある。

アメリカには明治維新がなかった。
このことの重要性を日本人はあまりご理解されていない。
日本では、「前近代」と「近代」のあいだのクレバスははっきりしている。
昭和の聖代にちょんまげをして帯刀している人間はいなかった。
でも、アメリカには明治維新がない。
西部劇の時代はずるずる地続きで20世紀なのだ。
だから「ちょんまげに帯刀」のアメリカ人と「ハイパーモダン」なアメリカ人が、同時代人として平気で併存するということが起こりうる。
なにしろ、あの国には同性間の結婚を認める州と、進化論を教えてはならない州が併存しているのである。
だからこそ、「同時代を生きている」つもりのアメリカ人の間の歴史感覚の「ずれ」は、時には私たち日本人には想像もできないくらいに致命的に深いのである。

ふたりのライダーを撃ち殺した農夫たちは、1969年にあってなお、「ロックミュージック」も「フラワームーヴメント」も「ヒッピーコミューン」も知らない。おそらく、そんなものが数千キロ離れた都市では平凡な風俗であるということさえ知らない。
同じアメリカ人でありながら共有されている「ふつうのこと」に致死的な落差が出てきたということ。
社会の価値観が単一化してゆくグローバライゼーションの趨勢は必然的に「他者」に対する暴力を胚胎する。
『イージーライダー』は、アメリカが分裂してゆく過程を描いた映画ではない。
むしろ、アメリカが自分たちは多様な集団を含んだ混質的な社会であるという自己認識を失い、「どこでも、『ここ』と同じだろ」というなめた他者認識を国民全員が(殺されるライダーたちも、殺す農夫たちも)共有してゆく過程を描いている。
私はそれを「モラルが失われてゆくプロセス」と呼んだのである。

だから、「自分の国」のつもりで「異国」に気楽に乗り込んでゆくライダーと、「こんなやつらはアメリカ人じゃねえ」という理由で気楽に二人を撃ち殺す農夫たちは、それぞれに「それから後のアメリカ」の実に適切な予兆だったのである。


矢作俊彦が『ららら科學の子』で三島由紀夫賞を受賞した。
68年のデビュー以来の「無冠の帝王」の実力をついに文壇も認めざるをえなかったということであろう。

私と同じく、年来の「矢作ファン」である高橋源一郎さんから「ヨロコビのメール」が届いた。

高橋さんは「あの人こそ、ほんとに『無冠の帝王』だったわけで、それだけでも、この国の賞のいい加減さがわかるものですが、ようやく、自らの失態に気づき、矢作さんに謝罪したということでしょうか」と溜飲を下げていた。

高橋さんは先週末に葉山で矢作さんと痛飲し、「最後は男二人で『少年探偵団』(映画版)の主題歌を筆頭に、60年代のアニメソングを歌い」まくったそうである。

矢作俊彦と高橋源一郎が葉山の海岸で「少年探偵団」を合唱しているところを想像すると、なんだか「矢作俊彦の小説のまんまやん」と思うけれど、まことに涙を誘う佳話である。

投稿者 uchida : 10:51 | コメント (1) | トラックバック

2004年05月18日

業務連絡

その1 光岡英稔先生の韓氏意拳講習会のお知らせ

今年も、「あの」光岡先生に女学院にお越し頂いて、意拳の講習会を行うことになりました。

とき:6月19日(土)12時より17時

ところ:神戸女学院大学大学体育館(予定)

神戸女学院大学研究所主催の専門研究部会として開催されますので、本学の学生院生教職員のみなさんはどなたでも参加できます。

本学関係者以外の方は申し訳ありませんが、講習参加料2000円を徴収させていただきます(私が着服するわけではなく、光岡先生の謝礼に含ませて頂きますので)

講習会後は恒例によりまして、光岡先生を囲んで「懇親会」を予定しております。

学外の方で、参加をご希望される方は、あらかじめウチダあてにメールでご連絡ください。


その2:山本浩二著・子どもたち絵の「これはびっくり絵本」『ちきゅう ぐるぐる』

美術教育20年の山本画伯のマジカル美術教育手法によって引き出される、子どもたちの天才性に、ウチダもびっくり。
三木健さんのブックデザインもすばらしい、オススメの一冊!(ウチダも腰巻き書いてます)

金沢倶楽部刊・1400円。とりあえず本屋さんで手にとってみてください。さまざまな意味で「きれいな本」です。

このサイトのTOPにこの本の画像データがありますので、ちょっと見て下さい。

以上、業務連絡終わり。この業務連絡はしばらく毎日掲示しますけど、気にしないでね。


投稿者 uchida : 10:36 | コメント (1) | トラックバック

2004年05月17日

Uchida Bimensuel

日曜は東京で名越先生との対談を予定していたのであるが、これは私の勘違いで、私が「五月は毎週東京に行くので、つらいです」と泣き言を言って、ずいぶん前にキャンセルしていたそうである。

当日の朝、新潮社の足立さんから電話を頂いて「今日はありませんよ。ウチダ先生、自分で16日はダメって言ったくせに」と教えてもらった。

言外に「ぼけオヤジにも困ったもんだぜい」という編集者の嘆きが感じられたが、どうも物忘れがよくてすまぬ。

しかし、おかげでまるまる一日空いたので、大喜びで原稿書きに励む。

まずばりばりと医学書院『死と身体』の原稿を書き上げる。これにて朝日カルチャーセンターでの講演録のとりまとめは終了。

これで終わりかしらと思っていたら、白石さんから「あと『まえがき』書き下ろし50枚以上お願いしてます」と言われてしまった。

そういえば芦屋のC-Cubeでカフェラテをのみながら、「じゃ、あと50枚書けばいいんですね」と気楽に応じてしまったのを思い出した。

もうネタ尽きちゃったけど。どうしよう。

医学書院のとりあえずの仕事が終わったので、海鳥社の『他者と死者』を終わらせてしまうことにする。

もうだいぶ前に終章まで書き上げたのであるが、こういうのはすぐに送稿しないで、しばらく塩漬けにして寝かせておくのである。

読み返してみると、なかなか「いい味」になっている。

別に草稿そのものに変化があるわけではなく、勢い込んで書いたときの私と、読んでいる私のあいだに、ずれがあって、軽く「別人」になっているので、書いているときには気づかなかった「きかせどころ」の力みかたが「濃い味」になって浮かんでくるのである。

この「濃さ」をばっさり切ってしまうと「カフェ的・モダンジャズ的な薄味」になり、あえて残すと「居酒屋的・演歌的濃厚さ」になる。

ラカンとレヴィナスという、めちゃ「濃い」「重い」人たちの話なので、私の文章はできるだけ「薄く」「軽く」しておくことにして、さらさらとよけいな「力み」を削ってゆく。

でも、直していると、きりがないので、適当に切り上げて、あとは初校で削ることにして、とりあえず400枚海鳥社の別府さんにぽんと送る。

よっしゃ、これで一丁上がり。

これで五月にはいってから、NTTの『街場の現代思想』に続いて、脱稿すること二冊目(ほんとうはもう一つ国文社の『困難な自由』も書き上げたんだけれど・・・死んだ子の年を数えてもしかたがない)。

すごいペースだなあ。

6月中に『東京ファイティングキッズ』と『死と身体』、7月中に『現代思想のパフォーマンス』と『インターネット持仏堂』、8月中に『先生はえらい』、年度末までに『ユダヤ文化論入門』。名越先生との対談本、池上先生との対談本も年内には出るだろう。

岩波の『応用倫理学講座』と河出の『ラカン/ヒッチコック』はもうとっくに原稿を渡しているので、これが出ると年間12冊だ。

それらがすべて6月以降にまとめて出ることになるのだから『月刊ウチダ』どころではない。平均しても『Uchida Bimensuel』。月によっては『ウチダ旬報』、場合によっては『週刊ウチダ』になる可能性さえある。いや、まかりまちがうと一回くらいは『日刊ウチダ』現象に遭遇できるかも知れない。

すごいね。これはもう書きすぎを反省とか、そういうレベルの話ではないな。

もう、ある意味「感動」してます。本人も。

投稿者 uchida : 14:18 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月15日

あたらしいOS

IT秘書のイワモトくんが、パワーブックにOS10.3というものを搭載してきてくれた。

なんだか画面がめちゃめちゃきれいである。

おおおおお、と感嘆しながらさっそく使ってみることにする。

じゃあ、あれも載せよう、これも載せようということで、これに百科事典とか翻訳ソフトとかがんがん載せる予定である。

でも、すごい文房具だな。Macは。ちょっと感動してます。

というわけでとりあえず「テスト」のつもりでエントリーしました。

お騒がせしました。おやすみなさい。


投稿者 uchida : 22:38 | コメント (1) | トラックバック

test

test

投稿者 uchida : 18:59 | コメント (3) | トラックバック

無印良政治家

とうとう小泉首相まで年金未加入がわかって、江角マキコに始まる年金スキャンダルはしだいに荒涼たる風景を呈してきた。

未納未加入期間があったということは、年金制度改革法案の提案者である総理大臣が、現行の年金システムの趣旨が「よくわかってなかった」ということをはしなくも露呈している。
制度の趣旨がよくわかっていないひとが、その制度の改革を進めるということがあってよろしいのであろうか。
あまりよいようには思われない。
だが、ご自身は戦場で銃を取るつもりがまるでない人間が、「人的貢献」というようなことを声高に叫ぶ業界であるから、そういうこともおそらくあってよろしいのであろう。

まあ、自分のことは棚に上げて、ひとに負荷をおしつけるというのが政治家の骨法というものであるから、それもしかたがないか。

とはいえ、小泉首相の未加入期間とその理由についてを読んでいたら、納得するところがあった。おおかたの国民のみなさんも、同意されると思う。
それは「大学浪人中」の未加入のことではない(そういう尻に火がついてるときに、年金納入のためにバイトしたり、親に頭を下げて借金する予備校生がいるかどうか、私にはうまく想像ができない)。
そうではなく、「留学から帰国」のときの未加入理由である。

「69年8月ー70年3月:父親が急逝のため留学先のロンドンから帰国したが、ロンドンに戻ることも考えていたため加入せず」

もっともだよな、と私は思った。

年金というのは自分の「将来計画」がある程度見通せるときに「払う気」になり、先行きの展望が混沌としているときには、納付意欲がいちじるしく減退するものであることを、首相の事例はよく示している。

いまの日本で年金納付意欲がいちじるしく低下し、制度が崩壊の危機にあるのは、ことの順序からして、「先行きの展望が混沌としている」ためであって、制度を手直しすることで、「先の展望が見えてくる」というふうに話を進めるのにはいささかの無理がある。

昨日も書いたとおり、当今の若者たちは「決めたくない」のである。

「年金を払うのは国民の義務だから断固払う」というひとも、「年金なんかはらえっかよ、ばかくせー」というひとも、ともに少数派であり、大多数のみなさんは「年金はらったほうがいいのか、はらわないほうがいいのか、よくわからないけど、この『よくわからない』という状態をもう少しずるずる引き延ばしてもよいかしら」という状態にあるのではないかと拝察する。

先行きの見通しが見えないときは、決断しない、というのが21世紀の風儀なんだから。

アンガジュマンということを昨日書いたけれど、これはフランス語の動詞engager の名詞形である。
engager というのは、語源的にはgage(担保、質草、供託、保証)に入れる(en)ということ
である。だからs'engager は「誓約する、巻き込まれる、コミットする」などの意味になる。

ものを質草に置くときには「質屋が請け出しの日まで存続する」ことが前提になっている。
供託金を預けるときは「供託金の受託者が、誓約の成否が判明するまで供託金をキープしてくれる」ことが前提になっている。

アンガジュマン理論がさかんに言われたころの世界には「歴史の法廷」というものが未来永劫に「ある」ということになっていた(まことに牧歌的な時代であった)。

でも、いまの日本にはこの「質屋」や「受託者」が存在しない。

そういうところで、若い人に「あなたの運命を質屋に預けろ」と言ったって無理である。肝心の「質屋」がどこにもないんだから。

ロンドンに帰るかもしれないから、加入しなかった、という小泉首相のいいわけを、当今の若いひとたちはおそらくうなずいて受入れるだろう。
そういうものである。

日本なんかにいつまでもいないかもしれないし・・・たぶん、そう思っている若者たちも多いはずである。

いますぐ若者たちにその未来を託すにあたいする社会制度をつくれ、といってもむりである。
そんな無理無体なことを私は求めているわけではない。
でも、せめて、「よりましな制度を作る」ために鋭意努力をしている姿勢くらいは示してもよろしいのではないか。

国家に対するクレジットというのは、抽象的な制度に対するクレジットではなく、「制度を考案し、運営する人間」の「質」に対するクレジットである。

多少言うことが右往左往しても、多少失敗や瑕疵があっても、その人間の本性が「まっとう」であるということが知れる限り、私たちは「質草」を預けてもいい気になる。

そのような「とりあえず信用するに足る人間」であることが、「レイザーシャープな政策立案者」や「どんなに批判されても、のらくら言い抜ける三百代言野郎」よりもこと「未来」については当てにできる。

そういう「ふつうで、まっとうな」「無印良政治家」「無印良官僚」をこそいまの社会は望んでいるように思われるのだが。


投稿者 uchida : 10:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月14日

無印の悪いおじさん

いろいろコメントをありがとうございました。

こういうものは「ご縁」のものですから、「ご縁がなかった」という場合には、さわやかに笑って「はは、ご縁がなかったんだ」と放念するのが精神衛生上も社会関係上もよろしいのではないかと思います。

そのご不満は秋に出る『他者と死者−ラカンによるレヴィナス』をばりばり読み込んで解消してください。

『困難な自由』はとてもいい本ですから、どの訳者の方のものでも出たら買ってくださいね。草葉の陰の老師のためにも、まずは読むのが供養です。

以上、この件についてはおしまい。


三年生のゼミのテーマは「無印良品」。

ゼミでの発言を徴するかぎり、無印ブランド(って形容矛盾だな)に対する学生諸君の信頼はずいぶん高い。

どうして、これほど好かれるのか、根がビジネスマインデッドなウチダとしては、こういう話題には興味がある。

学生諸君から出たコメントの中で、私が「ほほう」と感心したのは、無印良品が「嗜好を強制しない」という点に高い評価が与えられていたことである。

なるほど。

ブランドイメージというのは、「この品物でなければならない」というしかたで消費者の嗜好を誘導することによって成立している。

その種の「・・・なら・・・でなければならない」的、80年代にマガジンハウスやセゾングループが先陣を切って構築した商品提示の文型は、21世紀に入って、かつてのようなつよい購買誘導力を失ってしまった。

それに対抗して登場したのが、「こちらは、何もオススメしません。どうぞ、消費者のみなさんがそのオリジナルな商品選択眼をもって、選んでください」というコンシューマー・フレンドリーで控えめなセールス話型である。

その代表が「コンビニ商法」である。

コンビニの店員は商品知識を持たない。必要でないというより、持ってはならないのである。だから、「お客さん、そっちのコシアンよりこっちのツブアンのほうが、ぜったいオススメすよ」というような購買誘導はなされない。

その「被放置感」がおそらく当今の消費者には快適なのである。

それは『通販生活』に代表される「お買いあげ後2週間までは、返品オッケー。気に入らなかったら、返してくださってけっこうです」という「リセット織り込み済み」のセールスにも通じている。

消費者は「購入にさいしてフリーハンドであること」を、「よりよい商品を専門的知見に裏づけられたセールストークに従ってゲットすること」よりも優先するようになったのである。

経済活動において「フリーハンドであること」が「ベネフィットを得ること」より優先するというのは、考えてみると、かなり徴候的なことである。

本学の総合文化学科はなかなか志願者が多い人気学科なのであるが、その入学の理由をお訊ねすると、「入学時に専門を決めなくてもいいから」という声が圧倒的に多い。

なるほど。

ほんとうにやりたいことがみつかるまで、決断をペンディングしておける、という条件そのものが本学科の「市場価値」の形成に与っていたのである。

「決めることを、急かされない」ということに若い人がこれほどこだわりをもつようになるとはまことに想像外のことである。

考えてみると、私が学生だったころは、「即断即決」ということが、そのふるまい自体審美的に価値とされていた。

「・・・しかねーよ」というような決めつけを、ろくな論拠もないままに行っていた。

どうしてあれほど気楽に決断しまくっていたのか、その理由は今となると、よくわからない。

そういうマナーについてはおそらく「時代の風儀」のようなものがあるのであろう。

そういうえば、私の若い頃のキーワードは「アンガジュマン」であった。

「アンガジュマン」というのは、今はもうほとんど死語であるが、要するに「とりあえず決断する。というのは、決断したあとに『決断しえたもの』というかたちでのみ主体性は立ち上がるからである」という考え方である。

決断できない人間は主体性をもてない。つまり事物の境位にある。

だから「決断できない私」という表現はすでにして背理なのである(「決断できない人間」には「私」という一人称で語る権限自体が認められないんだから)。

ずいぶんと乱暴なロジックだけれど、とにかく、そのころはそういうふうだった。
だから、私も「展開してみろよ。言ってみろよ。いえねーだろ。破産してんだよ、てめーは。黙ってろい」というようなたいへんぶしつけな放言を学内のあちこちで行って、多くの同窓生のみなさんの「トラウマタイザー」となったのであった(ごめんね、いまごろ謝っても、だめかしら)。

で、時代は変わって、いまは「とりあえずペンディング」で、「いつもフリーハンド」で、「一度決めても、リセット権は手堅くキープ」であることが、人々にとってはたいへんカンファタブルな立ち位置らしい。

「デガジュマン」あるいは「デタッチメント」の思想である。

あちらがよくて、こちらが悪いというようなことはもちろん私は申し上げない。

いずれも「時代の風儀」であることに変わりはない。

ただ、アンガジュマンの思想を支えていたのが「歴史を貫く鉄の法則性」への信頼であった以上、デガジュマンの思想を支えているのが「歴史の迷走性」への見通しであるという歴史的文脈の違いはたしかにあるだろう。

世の中この先どうなるかわからない。わからない以上は、「決め打ち」はしたくないというのは健全な生存戦略である。

なるほど。

そのような趨向性のうちに、無印良品や『通販生活』や総合文化学科のポピュラリティを位置づけてみるのは、あながち徒事ではないであろう。

そういえば、私自身もだんだんと「不決断」な人間になっている。

ためらったり、口ごもったり、前言撤回したり、両論併記したり、なんだかんだと言いながら、結論を先送りにして、うじゃうじゃにしてしまうという傾向がこのところさらにつよまっているようである。

だからどうなんだ、と言われても、それに簡単にお答えできるようならこちらも苦労はないわけで。とはいえ、あなたさまにも、それなりのご事情というものがおありだろうし、ま、縁側に座って、お茶でも・・・的なリアクションですぐにぐちゃぐちゃにしてしまうのである。

それでも「決然と不決断の王道を邁進」というあたりに「三つ子の魂」は骨がらみなのである。

投稿者 uchida : 21:14 | コメント (1) | トラックバック

2004年05月12日

オフなので、一日仕事

オフなので、一日原稿書き。

医学書院の『死と身体』の第三章、第四章をばりばりとはげしく加筆修正する。

これは大阪の朝日カルチャーセンターでおしゃべりした講演をテープ起こししたものである。

いつも、ろくな準備をせずに会場までよたよたとでかけ、聴衆のみなさんの前で絶句の危険におびえつつ、その場で思いついたことをとにかくしゃべって90分間つなぐ、という綱渡り的レクチャーである。

これが、面白い、やっぱり。

今読み返しても、どうしてそんなトピックを思いついたのか、その理路が見えない展開になっている。
だから、一望俯瞰的な視点から論旨を整えるというより、そのときの思考の回路にもう一度憑依して、「なるほど、ふーむ。で、この前振りをどうやって落とすんだろう、こいつは?」とけっこうわくわくしながら読み進むことになる。

案の定、話を振っただけで、「落ちない」箇所が散見される。

まあ、そういうこともある。それはそれで、笑って読み流して頂きたい。

読み返してみたら、けっこう面白かった。かなり面白いというか、めちゃ面白いと申し上げても過言ではないのではないか。

あともう一つ、最後の「死の儀礼」の回のレクチャーを校正して、仕事は終わりである。

本は秋頃には出ることになる。

午前中コーヒーを飲みながら校正をしていたらピンポンとチャイムがなって書留が届く。
めんどくせーなと起きあがってはんこをついて書留を受け取ったら、現金書留であった。

お、どこからだ?

せりか書房であった。『レヴィナスと愛の現象学』の初版の二度目の印税である。

封を切ると、手の切れるような一万円札がどどどと出てくる。

おお、朝から突然の贈り物。

初版2000部を売り切って、重版でもう1500部刷ることになったそうである。

ほんとは1000部の予定であったのだが、私がこのホームページでさらに時間論を書いて、それで「レヴィナス三部作」完成と予告したので、もう500部上乗せしてくださったらしい。

『他者と死者』がレヴィナス三部作第二部と書いてあったら、それだけ読んだ方は「じゃ、第一部も読んでみようか」という気になるかもしれない。

時間論が第三部と記してあれば、「じゃ、第一部、第二部も読んでみっか」という方もおられるであろう。

なるほど。

何でも書いてみるものである。

第三部はアイディアを思いついただけでまだ版元が決まっていないのであるが、「言語、身体、記憶」がテーマなので、I波書店で企画が出ている身体=時間論を「レヴィナス論第三部」に衣替えしようかなと考える。

うん、いいな。そうしよ。

出版社は違うけれど、版型がいっしょで、装幀も同じ山本画伯ということであれば、並べて売っても違和感ないし。

すらすらすいすいと書いているうちに夕方になり、三宅接骨院に治療にでかける。

仕事ばかりしていたので、身体ががたがたに歪んでいて、リンパ腺が腫れている。
三宅先生が「仕事しすぎですよ」と暗い顔をされる。

「仕事しすぎですよ。お酒のみすぎちゃだめですよ」と言いながら、「はい、おみやげ」と言ってワインを二本くれて、「本の企画あるんですけど、K−1のK田さんと対談しませんか」と私の仕事をふやそうとする。

さすが三宅先生。

帰りに、待合室でK−1の武藏さんとすれ違う。
「あ、ども」「あ、ども」とクールかつダイハードなご挨拶をかわす。

武藏さん、だんだん風格出てきたな。

家にもどってから、『困難な自由』のことを考える。

訳稿はできあがったのだが、翻訳権を取り損なってしまったのである。

翻訳権がないんじゃ、本は出せない。

ふつうは訳者にオッファーするときに翻訳権も取得するのであるが、訳者が私のようにでれでれ何年も訳稿を遅らせると、その間のライツの更新料も些少ではないので、あまり財政的に余裕のない出版社の場合は、ぎりぎりまで翻訳権を取得しないということがある。

今回はそれが裏目に出て、いざ出版という段になって、翻訳権がよその出版社にいっていたことがわかったのである。

七年越しの仕事が反古になりそうでだが、まあ、世の中そういうこともある。

レヴィナスの翻訳はそれ自体が私にとっては勉学と愉悦の経験であるから、それが最終的に本のかたちにならなくても、別によいのである。

ただ、ウチダ訳『困難な自由』を期待していた全国29人のファンの方には申し訳ないことをした。

ウチダ私訳をぜひ読みたいという人には、ファイルを個人的にお送りするという手もある。
有料頒布ではないのだから、べつにコピーライツには抵触しないと思うけれど、正規の翻訳権をとっていま翻訳をしている方にたいしてはある種の営業妨害でもある。
出版の「仁義」を考慮すると、やはり誰にも見せずに、このまま闇から闇へ葬り去られるのが、わが訳稿の宿命なのかもしれない。

なんだか気の毒だけれど、しかたがない。

「そういうもんだよ」と「それがどうした」というのがトラブルのもたらすダメージを最小化する呪文だと村上春樹が書いていたけれど、私もそれに倣おうと思う。

ま、そういうもんだよ。で、それがどうしたって?

投稿者 uchida : 23:40 | コメント (9) | トラックバック

たべもののうらみはこわい

NTT出版のM島くんがやってくる。

『街場の現代思想』の校正と、次の『アメリカ本』の打ち合わせである。

アメリカ本は先般ご案内のように、大学院の演習でのアメリカ研究でのやりとりをそのままICレコーダーに録音して、それを本にしようという恐怖の「一粒で二度美味しい企画」である。

今回は、ゼミにM島くんご自身が参加して、その様子を検分されたのである。

本日のテーマは小野さんの発表の「ファーストフードvsスローフード」。

食の「マクドナルド化」現象と、それに対してヨーロッパで起きた「スローフード」運動の対立構造を、グローバリゼーションとそれへの反動という図式でとらえようという、わりとわかりやすいお話である。

とはいいながら、さっぱり話がわかりやすくならないのは、ひとつにはウチダが「ジャンクフード大好き」人間であり、マクドナルドのハンバーガーを1971年の日本出店第一号からぱくぱく食べ続け、以後30数年、律儀なマクド・ファンであるという、知識人にあるまじき食文化意識の低い人間であるという動かしがたい事実があるからである。

いまひとつは、スローフードという運動がイタリアのピエモンテに発祥したということを聞いた瞬間に、「ピエモンテ?うーむ、それはちょっとやばいかも」という反応をしたせいである。

ご存じの通り、イタリアのスローフード運動は、マクドナルドのローマ出店に対する批判の運動として、イタリアの伝統的食文化を守れ、というスローガンのもとに始まった。

伝統的な食材を用い、伝統的なレシピで、伝統的な食習慣に則って飯を食うのがポリティカリーにコレクトなイタリア人であるという話をきいて、文句を言う人はいないだろうが、私は「ちょっと待ってね」と言いたくなる。

ちょっと待ってね、とタイムが入るのは、このスローフード運動の発祥と同じ頃に同じピエモンテでどういう政治運動が起っていたのかを連想してしまうからだ。

それは北部同盟の「北イタリア独立運動」である。

ご存じの通り、南北イタリアでは経済格差が大きい。北はリッチで、南はビンボーである。
北の諸州は、自分たちの納めた税金が南の「のらくらもの」たちの生活保護や年金に費消されるのはがまんができないと言い出して、リッチな北イタリアだけの独立を主張した。

これが一大政治運動となり、現在ではベルルスコーニ政権の与党として、与党第三党の議席数を持つまでに至っている。

北部同盟の基本的な思想はひとことでいえば「地域主義」である。

閉じられたあるエリアにおける均質的な地縁血縁的結合を優先し、「コモンウェルス」の中に、自分たちとは異質の文化や地域性をふくむ「弱い敵」たちを抱え込むことに「ノー」を告げる運動である。

その北部同盟運動の拠点のひとつがピエモンテ。

そこで同時期に「マクドナルドのハンバーガーのような汚れたアメリカ物質主義をイタリアの地に入れるな」という運動が起きたことは、政治史的には平仄があっている。

この運動の拠点が1920年代のムッソリーニのファシズム運動のそれと重なっていることもいささか気になる。

思い起こせば、「伝統的食文化の護持」というスローガンは、1920年代にヨーロッパのもうひとつ別の場所でも声高に称えられた。

精白しない「玄麦パン」を食べ、都市的・近代的な加工食品を拒否し、自然のうちで大地と共感しようという運動が、イタリアよりもうすこし北の国で一世を風靡した。

この「ドイツの伝統的食文化を守ろう」運動がその十数年後に「ユダヤ的都市文化からゲルマン的自然へ」を呼号するヒットラー・ユーゲントの自然回帰運動に流れ込んでしまったことは、あまり語られない。

伝統的な食文化はたいせつにしたい。

私だって、そう思う。

でもそれが別の食文化を排斥するところまで過激化すると、「ちょっと待ってね」と言わざるを得ない。

「おまえが食っているものはジャンクだ」という言明は危険な言明だ。

私たちの身体は私たちが食べているもので構築されている。

だから、「おまえが食べているものはゴミだ」という言明は、そのまま「おまえはゴミだ」
という言明を帰結する。

だから私たちは自分が食べているものについて「げ、よくそんなものが食えるな」というようなクリティックを頂くと、けっこう傷つくのである。

これは別に思弁的な話ではない。

私は20代の一時期、けっこうストリクトな「玄米正食」をしていた。
玄米を食べ、有機野菜を食べ、肉を食べず、あらゆる添加物を忌避した食生活を半年ほど送っていたことがある。

おかげでたいへん身体はクリーンになった。
ついでに精神もクリーンになった。

そうすると、まわりで肉を食べている人間や、砂糖入りの食物を食べている人間や、添加物が入っているものを食べている人間を見ると「ゴミを食べている」ように見えてきた。

「ゴミ食うのやめろよ」と私は善意から忠告する人間となった。
言われた人々は一様に不快な顔をした。
まあ、当然ですね。

でも、そうこうするうちに、友人たちとでかけても、私は彼らが食べるものを口にできず、彼らが飲むものを見ると反吐が出そうになった。

その結果、友人たちの誰ともいっしょに会食できない人間となった。居酒屋に行っても食べるものがなく、レストランに行っても何も美味しくない。

そこで私はやや反省した。

わが身ひとりがクリーンになる代償に友人たちを失ってよいものであろうか。

かなり真剣に考えた。

そして一大勇猛心を発揮して、わが身の健康を棄てて、ジャンクな連中との友情を選ぶことにしたのである。

以後私は誰がどんな危険な食物を食べていようと、にこにこ笑って「あ、そういうのが好きなんだ、ふーん。おいしい?」と言えるアバウトな人間になった。

この選択が正しかったかどうかは分らない(なんだか間違っているような気もする)。

でも、他人の食生活に対する批判が、ときに致命的な人間関係の破綻を招来することだけは分った。

それは他人の性生活に対する批判が、しばしば致命的な人間関係の破綻を招来することに似ている。

何を食おうと、君の好きにしなさい。蓼喰う虫も好きずきっていうし。

それ以後、私は他者の食習慣を批判し、「これが正しい食事だ」と主張するすべての人々に対してはわりと懐疑的である。

スローフードを好まれる方々はそうされればよろしい。マクドやケンタが好きな方々はばりばり食されるがよろしい。

美味しいと本人が思うものを食べていれば、いいんじゃない。
それがいちばん身体にいいよ、きっと・・・と私は思う。

マクドナルドのハンバーガーは間違いなくアメリカン・グローバリズムの食文化的な戦略にコミットしている(だから、アラブ・イスラム世界ではマクドナルドがテロの対象になったりする)、一方、マクドナルド化を批判する伝統的食文化愛好は地域主義、排外主義の戦略にそれと知らぬうちにコミットしている。

別にどちらがいいとか悪いとかいうことを申し上げているのではない。

ただ、自分が何かを「美味しい」と感じることにとどまらず、「美味しくないもの」とみなされるものについて「それを喰うな」と要求することは、すでにしてある種の政治的な態度表明になるということに「気づかない」ということは、ちょっと危険だよね、と申し上げているだけである。

というわけで、本日のウチダはマクドナルド文化をどちらかというと擁護する側に立って発言させていただいたのである。

話しているうちに、ほんとにビッグマックとてりやきバーガーが食べたくなってしまった。

もちろん、夜はNTT出版のご接待であるから、そのようなせこいものは食べず、並木屋のお寿司をたらふく頂いたのである。

ああ、日本の伝統的食材を伝統的に調理した食物って、最高(と言いながら、今日のお昼ご飯はモスバの「カツバーガー」でした)。

投稿者 uchida : 00:08 | コメント (1) | トラックバック

2004年05月10日

不思議なお仕事

いろいろなところから、いろいろ不思議な仕事のオッファーがある。

Kyoto Journal という英字誌からのオッファーはずいぶん前に頂いた。
私のエッセイを英訳したいとおっしゃるので、「どれでもお好きなものをどうぞご自由に」と申し上げたら、『子どもは判ってくれない』の「たいへんに長いまえがき」を英訳して掲載することになった。

読者はアメリカの方が多いようであるが、私の書いたものはいったいどういうふうに受け止められるのであろうか。

もうひとつはジャン・ポーランとモーリス・ブランショの翻訳に、私の論文をくっつけた不思議な合本の企画。

私に求められたのは「『文学はいかにして可能か?』のもう一つの読解可能性」である。

これは、すごく面白く野心的な企画なのであるが、その面白さが分ってくれる読者は日本に200人くらいしかいないだろうというのがまことに残念なことである。

というのは、ポーランの『タルブの花』はナチ占領下で出された文芸批評の本なのであるが、これが実は「暗号で書かれたテロリズム論」なのであり、それを要約したブランショの『文学はいかにして可能か?』はこれにたいする「返歌」であるが、これまた暗号で書かれた過激なる政治論文なのである。

ポーランはナチの検閲官ゲルハルト・ヘラーに「師」と仰がれながら、地下ではレジスタンス活動を組織していたし、ブランショはペタンのヴィシー政府をスポンサーにしてやはり反ファシズムの活動を組織しようとしていた。

この時期の人たちが「ほんとうは何をしていたのか」、「本意はどこにあったのか」は誰にも分らない。
ドゴールとペタンの両方に「保険をかけていた」という解釈だってありうる。

ともかく、占領下の書き手たちは、みなさんアクロバティックなエクリチュールを駆使されていたのであるが、特にブランショのダブル・テクストは凄い。

私はこの論文のあとブランショの「フェードル」論が、ラシーヌ論のかたちを借りてはいるが、実はかつての兄貴分ティエリ・モーニエとその親分のシャルル・モーラスの国民革命論に対する暗号で書かれた批判テクストであるという「柳の下の泥鰌」論文を書いていたのであるが、いくらなんでもあからさまに「柳の下」なので、途中で飽きちゃって放棄したのである。

でも、こういう「トンデモ」研究をする若手の仏文学者はほんとうにいなくなっちゃったね。

投稿者 uchida : 15:32 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月09日

宗傳寺revisited

5月9日

父の三回忌で、山形県鶴岡市の宗傳寺に行く。

2001年の5月12日に父、母、兄と四人で訪れたのが、兄と私ははじめての菩提寺詣でであった。
翌年の同じ日に父が亡くなった。
一周忌を去年の5月12日に宗傳寺で営み、今年が三回忌である。

今年は兄の家族たちも参加してにぎやかな旅行となる。

伊丹から山形空港まで行って、レンタカーを借りて、庄内空港までみなさんをお迎えに行く。
私も伊丹から庄内空港に行けばよいのだが、伊丹−庄内だと到着が早朝で、おまけに法事の終わったあとにはもう関西へ帰る便がない。だから、私だけみなさんを見送ったあと、ひとりで鶴岡に泊まって、翌早朝伊丹へ帰るという変則スケジュールになる。
せっかくの家族旅行なのに、それも切ない。
というので、時間を合わせるために、わざわざ鶴岡から遠く離れた山形空港に降り立つことになった。
月山を仰ぎ見ながら1時間半、新緑のなかをクルージングして庄内につく。
でも、どうして車で1時間半のところに二つ飛行場を作ったのか、よく意味が分からない。

山形市と鶴岡市はもとが別の藩の城下町である。
最上藩は外様で、庄内藩は親藩であるから、きっと「おらが国にも飛行場」ということでわずかな距離に、ほとんど飛行機が飛来しない二つの飛行場を作るという愚かなことをしたのではないかと推察される。
困ったものである。

初日は兄とふたりで宗傳寺に打ち合わせにゆき、ついでにお墓を掃除する。
泊まりはいつもの湯野浜温泉の亀や旅館。

温泉に浸かり、歓談、飽食、爆睡。

法事の前に甥たちをむかしの内田家のあったところに案内する。

前にも書いたけれど、私たちの四代前の先祖の内田柳松さんという方は武蔵嵐山の郷士の出で、幕末に江戸に上って千葉周作の玄武館で北辰一刀流を修め、清河八郎と山岡鉄舟の徴募した浪士隊に加わった。

ご存じのとおり、浪士隊は京都に上ったあと、現地で仲間割れして、近藤勇、土方歳三たち、のちの新撰組隊士を残して、大半は江戸に戻り、新徴隊と名乗って、庄内藩お預かりとなる。

柳松さんは上洛のときのオリジナルメンバーの一人で、「尽忠報国勇士姓名録」に一番隊隊士として名前が残っている(近藤勇たち試衛館の諸君は六番隊)。

彰義隊の上野の戦いに破れたあと、藩主酒井忠篤に従って庄内に下り、そこで新徴組屋敷を下賜されて、鶴岡の人となり、その地で戊辰戦争の悲惨な後退戦を戦った。
維新のあと、鶴岡に祖父まで三代が住み、教師だった祖父は県内を転勤としたあと北海道に渡った。
北海道に発つ前の大正八年に祖父の重松さんが建てたのが宗傳寺の内田家累代之墓である。
だからこの墓には四代前からの祖先が眠っている。
もう鶴岡には内田の親族は誰もいない。先年、従兄たちから回り回って兄と私がこのお墓のキーパー役をおおせつかった。
「故郷」と呼ぶようなリアルな記憶はないにもかかわらず、そこが母や兄や私の墓所となることだけは決まっている。
あと何十年かしたあとに、私がその顔も知らない内田家の子孫がこのお墓を掃除しに来たりするのであろう。
だから、鶴岡は未来完了的なかたちで「懐かしい」という不思議な土地なのである。

法事を終えて、伯父がその昔手回しよくゲットしていた「お位牌アパートメント」のようなところに伯父たちの位牌と並べて、父の位牌も納める。
坊主を呼ぶな、お経を唱えるな、戒名をつけるな、仏壇を置くな、とあれこれうるさく指図して死んだ父親であるが、遺族は遺言を無視して、定型的法事を執り行う。
まことに親不孝なことではあるが、孝養というのは親御さまの事情はとりあえずさておき、こちらの都合ですることであるからして、ご勘弁を願う。

法事の帰途、名物の「麦切り」なるものを食して、庄内空港でお別れする。
ひとり雨の中を山形まで戻り、伊丹行きに乗る。
また来年も鶴岡に行く。

そういえば、先日鎌倉で汲みかわした高橋源一郎さんも加藤典洋さんも、父祖が山形の出だった。
何代か前には、高橋家の祖先と加藤家の祖先と内田家の祖先が山形のどこかですれ違っていたかもしれない。その子孫たちが鎌倉でシャンペンを飲んでいるというのも、何かの因縁なのかも。
不思議にそんな気がしてきたりするから、法事って愉しい。

投稿者 uchida : 23:30 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月08日

可傷性と鼻声

『第三文明』のインタビュー。

お題は「アメリカ」。

アメリカにかかわる楽曲5つを選んで、それについて論じるという趣旨の企画である。

ほいほいと引き受けたまま、何も考えずに前日を迎え、これではまずいというので、昨夜、あわてて5曲を適当に選ぶ。

選んだのは

Take good care of my baby (Bobby Vee)

Crying in the rain (The Everly Brothers)

Tell me why (Neil Young)

Handy man (James Taylor)

Simple man simple dream (J.D.Souther)

適当に選らんだのだが、後知恵で考えると、ちゃんと共通点がある。

それはすべて「男の鼻声」ということである。

鼻声というのは、端的に言えば「すすり泣き」の記号である。
私が好きな楽曲はすべて「男がすすり泣く」曲想のものであった。

最初の2つはキャロル・キングの曲。

若い人は想像しにくいかもしれないけれど、1964年までのアメリカン・ポップスの男性歌手のクルーナー・タイプの発声はメロウでウィーピーであった。

1960年代の前半まで、アメリカの男性アイドル歌手はすぐに「べそべそ泣く」タイプの楽曲によって世界を席巻していたのである。

ジョニー・ティロットソンは『涙くん、さよなら』で「だから、しばらくは君の会わずにいられるだろう」と歌った。ということは、「しばらく」以外の時間、ジョニー君はべそべそ泣いて人生を過ごされていたのである。

クルーカットで、ハイスクールのロゴの入ったカーディガンを着て、女の子にちょっと意地悪されるとすぐにべしょべしょ涙ぐむような男の子たちが1964年まではアメリカの若い男性のロールモデルであった。

第二次世界大戦が終わったあとのアメリカは世界最強の軍事大国であり、世界最大の経済大国であり、そして、その国の若者たちは、べそべそ泣いてばかりいた。

強い人間だけが、平気で泣くことができる。

そのことを私たちは忘れがちだ。

自分の傷つきやすさを露出できるのは、その傷を癒すだけの地力を備えた人間に限られる。

1955年から1963年まで、つまり朝鮮戦争の終結からケネディ暗殺までの時代がthe Golden Age of American Pops である。
それはアメリカが名実ともに世界最強国・最富国であった時代であり、その時代はアメリカの男たちが自分の弱さを平気で示すことができた幸福な時代であった。

1964年のブリティッシュ・インヴァージョンからあと、アメリカの男性歌手は前ほど気楽には泣かなくなった(例外はビーチボーイズの女性的ファルセットだけだ)。

それはアメリカが先の見えないベトナム戦争に踏み込んでいった時期と符合する。

3曲目からあとはアメリカの「鼻声」がハイスクールボーイの気楽なすすり泣きから、もっと深い傷に注ぐ涙に変わった時期のものである。

傷は日常生活のささやかな気づかいによっては癒されないほど深くなり、その傷あとからはじくじくと血がにじみ続けるようになった。

そして1977年頃を最後に、アメリカの男性歌手は「鼻声」ですすり泣くのを止めた。

それから後、私たちが聴くことになった音楽では、シンガーたちは怒声を挙げ、権利を主張し、罵倒を浴びせ、ついには無機的な機械のように痙攣的な発声をするようになった。

そんなふうにして、「鼻声歌手」たちは音楽シーンから消えていった。

それはアメリカの国力が低下し、傷つきやすさを誇示することが、戦略的に許されなくなった時代の始まりを示している。

私は男たちが「すすり泣き」をする曲が好きだ。

涙を見せることができるのは強く、優しい男だけである。

今のアメリカでは男の子がすすり泣くと、女の子たちがきゃーきゃー喜んでくれる社会ではもうない。

それはアメリカの国力がゆっくりと低下している趨勢とシンクロしているように私には思われる。

もう一度アメリカの男性歌手が「鼻声」で歌う時代は戻ってくるのだろうか?

投稿者 uchida : 00:48 | コメント (5) | トラックバック

2004年05月05日

なつかしい場所

五月の連休は毎年、京都府美山町の「哲学する木こり」小林直人・節子ご夫妻のところを訪ねて「山菜の天ぷら」を頂くことになっている。

関西に来て最初の年からうかがっているから、たぶん今年で14回目になるはずである(一昨年は父が危篤で旅行を控えていたのでご無礼したが、あとは皆勤)。

最初に美山町を訪ねたのは、るんちゃんがまだおむつをしている頃だから1983年か84年の夏である。

そのときに京都の奥山の自然の美しさと、小林家のみなさんの歓待に感激した。

小林節子さんが私のエクスワイフの中学高校の同級であり、そのご縁で始まったおつきあいである。

ウチダはどういう契機で始まったご縁であろうと、ご縁が出来た方とはご縁つながりで
ひさしいおつきあいを願うという主義であるので、離婚したあとも、「離婚した妻の友人」である小林家のみなさんのご友誼を失うにしのびなかったのである。

というわけで、90年に芦屋に越してきてからは、舞鶴道を走って山菜の天ぷらを食べにゆくのが連休の恒例行事となった。

最初のころはいつもいっしょだったるんちゃんも成長して東京に去り、何年か前からは私ひとりでの美山町詣でとなった。

小林家のふたりの娘さん(すぎちゃん、ゆきちゃん)も、むかしはるんちゃんとそこらへんをごろごろ転げ回っている元気いっぱいのカントリーガールだったけれど、いつのまにか年頃のお嬢様となり、大学に行ったり、就職したりで、お目にかかる機会も間遠となった。

今年は小林さんご夫妻と帰省中の次女のゆきちゃんが迎えてくれた。

最初に美山町に行った頃はまだ三十代はじめの「お肌つるつる青年」であったウチダもいつのまにか五十路を越えたよれよれおじさんとなった。

歳月の経つのは早いものである。

しかし、美山町の小林家のたたずまいは20数年前と少しも変わらない。

直人氏としんみり日本酒を酌みかわし、節子さんとゆきちゃんの作ってくれる美味の数々に舌鼓をうちながら、日本の林業について、熊の撃退法について、まむしとヤマカガシの恐怖の差異について、メル・ギブソンの身体運用について、フランスにおけるレンタカー事情について、イラク問題について、国家国旗問題について、マンション経営の困難さについて・・・終わりないおしゃべりを楽しむ。

翌日の日が傾くまでおしゃべりしてから新緑がまぶしい美山町をあとにする。

この村は私にとってはだんだんと「懐かしい場所」になりつつあるらしく、インプレッサでぐいいいーーんと加速して谷間の村落がバックミラーに遠ざかると、なんだかほろりとしてくる。

今年はもう一度秋にお訪ねして、松茸を肴に美酒を酌みかわしたいものである。

おっと、そういえば、伝言を言づかっていたのだ。

「京都の上賀茂付近でマンションをお探しの方、小林家の所有するシックなマンションがありますので、ご案内申し上げます。京都大学、同志社大学、立命館大学、京都産業大学など、ちゃりで通勤圏です。『木こりの作ったマンション』ですから、壁は布クロス、床はぶな材、猫もオッケー、アトピーやシックハウスでお困りの方にはぴったり。
2LDK48.6平米、家賃99000円、共益費12000円、パーキングあり。値段はいくらでも交渉に応じます。地下鉄北山駅から徒歩15分。委細は(有)森林工房へ。
702-2435」

京都市内に家を探している学生教員諸君、絶対オススメです。
「哲学する木こり」が家主のマンションなんて、なかなかないよん(すぎちゃん、ゆきちゃん、猫ちゃんもいるぞ)。

PS:と書いたら、朝いちばんにミヤタケからメールがきて、ちょうど京都で家を探しているところだったので、そこ貸してください!というオッファーがあった。
早いリアクションだなー。というわけで、とりあえず借り手は決まったようです。

投稿者 uchida : 22:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月04日

『他者と死者』

連休二日目。
当然、朝から晩まで仕事。

ポーラ文化研究所の原稿15枚を仕上げて、メールで送稿。

ただちに海鳥社の『他者と死者』の改稿にとりかかる。

もう3年越しで書いているのだが、そろそろ仕上げないといけない。

まだまだ調べなければならないことや書き足したいこともたくさんあるのだけれど、そんなふうに無限に加筆訂正をしていると、初稿が持っていた「一気書きの勢いい」のようなものがなくなってしまって、話のつじつまはあっているけれど、妙にのっぺりして、かえって読みにくくなるということもある。

できが悪くても、「勢いのある」うちに本にしてしまった方が、あちこちに「バリ」が残っていて、案外そのような不整合箇所が次の研究のとっかかりになったりするのである。

はじめて通しで草稿全編を読んでみた。

テンションがあがっている(というか「何かに取り憑かれて書いている」)ところと、そうでないところの潮目がくっきり分かれている。

不思議なものである。

取り憑かれて書いていることは今読んでも「へえ・・・そうなんだ」と他人の書いたものを読んでいるように新鮮である。

たぶん、そういうところは私が書いているのではない(ほんとに「考えてもいないこと」が書いてあるんだから)。

ただ、全編「お筆先」というわけにはまいらない。

やはりある程度「助走」というか「仕込み」というか、散文的「儀式」が必要である。
それをこりこりとやっているうちに、「やあ」という感じで「うなぎくん」が到来してくるのである。

「うなぎくん」の登場は「忘れていた人の名前をふと思い出す」感じに近い。

数えてみたらざっと400枚。だいぶ厚い本になってしまいそうである。
でも、3時間ほどで一気に読めた。

論考としての出来不出来の評価はさておき、「こういうふうに書かれたレヴィナス論」はこれまでになくオリジナルなものであることはたしかである。

どんなふうに「オリジナル」であるかというと。

ちょっと「まえがき」の一部に代わって語ってもらおう。


(前略)私はレヴィナスについてはかなり長期にわたって集中的な読書をしてきたが、いまだにレヴィナスが「ほんとうは何を言いたいのか」よく分からない。
ラカンについては、レヴィナスよりさらに何が言いたいのか分からない。

にもかかわらず、「分からない二人」の著書を交互に読んでいるうちに、私はどうやら自分が「同じ種類の難解さ」を相手にしていることに気づいたのである。

「私には理解できないこと」がある。それが一つだけなら手の施しようがない。しかし、「同じ種類の理解できないこと」が二つあると話は違ってくる。そこに「共通する分からなさ」が読解の手がかりを提供してくれるからである。

絡まった結び目を解く場合と同じように、難解な思想に取り組むときは、どこか一箇所でも解けるところを見つけて、そこからほぐしてゆく。
「あ、ここからならほどけそうだ」という感じを私はさきほど「腑に落ちる」という表現に託したのである。その先がどうなるか、それはまだ分からない。次の結び目でまた立ち往生するかも知れないし、もう少しほぐれ続けてゆくかも知れない。

私の読みは「ゴルディオスの結び目」を一刀両断にするような読み方とはずいぶん違う。

「ゴルディオスの結び目」というのは古代フリギア王ゴルディオスが作った複雑怪異な結び目で、それを解いたものはアジアの覇者になるだろうという予言と共に遺された。誰も解けなかったその結び目をアレキサンダー大王はばっさりとその剣で切り離し、予言通りアジアの覇者となった。
難解なる思想を解説するときに、多くの人は「アレキサンダー大王の剣」を持ち出そうとする。

例えば、レヴィナスを読むときにマルクス主義理論やフェミニズムのテクスト論を適用してみるのは、「アレキサンダーの剣」による解決に類するものであると私は思う。

たしかに、それによって結び目はみごとに切り落とされるだろう。
マルクス主義的な読みによれば、レヴィナスは「ブルジョワのシオニスト」にすぎないし、フェミニズム的な読みによれば、「父権主義的セクシスト」にすぎない。こういう分類を信じるなら、レヴィナスの「よく分からない思考」はすべて「妄言」として退けることができる。

たしかに、そのような「アレキサンダーの剣」的な理路は単純にして明快だ。しかし、そのような「理解」から私たちが得るものと失うもののどちらが多いか、これは吟味してみる必要があると私は思う。

「話を簡単にする」読みはしばしば「縮減する読み」たらざるを得ない。一人の知的巨人のスケールをできるだけ矮小化し、そこから汲み出しうる知的資源を最小化するような読みを採用することによって私たちの世界がどれだけ豊かになるのか、私にはよく分からない。

たしかに、「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも、爽快感や全能感を欲するのは、私たちが賢明で強い人間だからではなく、あまり賢明でなく、それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。

もし、私たちにいくらかでも人間的向上心があるなら、「話を簡単にすること」を自制するということも、たまには必要だろうと私は思う。

それに、話を簡単にすることを私が自制しても、それで困る人は(こうやってややこしい話に付き合わされている「あなた」を除けば)どこにもいないし。(後略)

どんなふうに複雑怪奇であるかということは、本を手にとっていただいてみなさんご自身で吟味していただきたいと思う。

これは『レヴィナスと愛の現象学』につづくレヴィナス三部作(というものを発作的に計画)の第二部に当たる。

第三部はレヴィナスの時間論を取り上げる予定。

レヴィナスの時間論をハイデガーやベルクソンの時間論と比較考量するのではあまり曲がない。だから、次作では武道的な身体運用の時間意識との関連によるレヴィナス読解を試みてみようと思っている(「合気道とレヴィナス哲学は同じ人間観に基づいている」という30年来の「直感」を言語化するという、「これぞライフワーク」なのである)。

というわけで『他者と死者:ラカンによるレヴィナス』はこの秋、海鳥社より刊行予定。

刮目して待て、諸君。


投稿者 uchida : 10:50 | コメント (0) | トラックバック

2004年05月03日

キース・ジャレット・トリオを聴きにゆくと

本願寺出版社のフジモトさんのお誘いでフェスティバル・ホールにキース・ジャレット・トリオを聴きに行く。

キース・ジャレットというと、私の年頃のジャズ少年にとっては、1967年の衝撃的なチャールス・ロイドの『フォレスト・フラワー』が「お初にお目にかかります」である。

私はこの年高校を中退してお茶の水のジャズ喫茶ニューポートで半年ほどカウンターのバイトをしていた。

チャールス・ロイド はこの前後二年ほどのあいだにDream Weaver、Forest Flower,Love-In と立て続けに話題作を発表していて、たしか67年のJazzman of the year に選ばれた「時の人」であった。

というわけでニューポートで朝から晩まで私はチャールス・ロイド・バンドを聴いて16歳の終わりから17歳の始めを過ごしていたのであった。

だからそのあと東大のEast Herd というジャズバンドの新入部員になったときに私のドラミング・スタイルの「神様」がジャック・デジョネットだったのはごく当然のことだった。

ジャック・デジョネットのドラミング・スタイルはその少し前にジョン・コルトレーンとのコンボで一世を風靡したエルヴィン・ジョーンズの「裏に裏に入る」スリリングなスタイルをもう少し穏やかにした「きわきわの予定調和」というものであり、このコンセプトはウチダの気質にたいへんなじみのよろしいものであった。

もちろん私のドラム技術はコピーに遠く及ばなかったのであるが、それでも何を表現したいのかについては私なりのイメージがあったのである。

ロックでは、チャーリー・ワッツもリンゴ・スターもキース・ムーンも田辺昭知(スパイダーズ!)もデイヴ・クラークもハル・ブレインも好きだったけれど、ジャズ・ドラムについては「ジャック・デジョネット神様」だったわけなのである。

その神様を40年ぶりで拝見した。

ジャック・デジョネットのドラムスタイルの特徴は左手の非常に細かい動きにある。
この人は左手ひとつでかるく三連符を打つのである。

昨日の話じゃないけれど、身体が細かく割れていないとこういう芸当はなかなかできない。

肩の力を抜いて、なんだかずいぶんゆっくり打っているように見えるのだけれど、スティックだけ目に見えないくらい細かい動きをしている。

結局2時間ずっとジャック・デジョネットのドラムばかり聴いていた。

うーむ。

武道もジャズも帰する所はひとつだな。


投稿者 uchida : 00:54 | コメント (2) | トラックバック

2004年05月02日

コンピュータ・デバイドとネット・コミュニケーション

5月1日

私にとっての連休初日である。
とりあえず合気道のお稽古。
べつにやることは普段とかわらないのであるが、なんとなくみんなうきうきしている。
天気もよいしね。
基本的なことをおさらいしながら、いろいろと時間の問題について考える。

時間というのは物理的に実体としてあるものではなく、あくまで「計測する主体」が関与することによって分節されるものである。
ということは、計測する主体の用いる度量衡の目盛りが違えば、当然、こちらとあちらでは流れる時間が定量的に違ってくる。

そうですよね。

私が1秒を10に分割して、あちらが1秒を5に分割していれば、私の方の「2目盛り」動くあいだに、あちらは「1目盛り分」しか動かないわけだから、ずいぶんと動作が緩慢に「見える」はずである。

ということは、「速く動く」ということは、空間座標上のA地点からB地点に短時間に移動するということではなく、A地点からB地点までのあいだの移動時間をより細かく分割するということに帰着する。

では時間をどうやって分割するかというと、これは身体の部位の分割と相関する。

たとえば、正面打一教で相手の肘を抑えるときに、自分の手が相手の腕を「つかむ」動作をしていると考えて動いているひとにとって、動作単位は1となる。
しかし、このとき、自分の手は相手の腕を「つかむ」のではなく、「斬る」動作であると考えているひとにとって、動作単位は2となる。
というのは、この場合、相手の手首にふれている手は「押し斬り」、相手の肘に触れている手は「引き斬り」をしているからである。
これは剣の操作の基本である。
剣を振るときは、右手は「押し斬り」(刀を前方へ押し出す動き)、左手は「引き斬り」(刀を正中線上に引き戻す動き)をしている。

「第一教」というくらいであるから、むかしの侍にとっては「いちばん基本的な身体操作」であったにちがいない。そして、むかしの侍にとって誰が考えても「いちばん基本的な身体操作」とは抜刀して正眼に構える動作なのである。

抜刀の理合だと考えてこの動作を行うと、むしろ重要なのは左半身の開きであることに気づく(斬りのエネルギーの過半は左半身の「鞘引き」動作から備給される)。これをカウントにいれると、動作単位は3となる(もちろん、操剣のためのチェックポイントは実は無数にあるのだけれど、ここは話をすごく簡略にしておく)。

だから、「相手の肘をつかむ」という動作単位1の運動をする人と、「抜刀して正眼に構える」という動作単位3の運動をする人とでは、時間の流れる速さが違ってくる。

同一時間のあいだに「3つの動作単位をすませないといけない」人から見ると、「1つだけでおしまい」の人の動作は3倍緩慢に見えるはずである。

そういうことである。

お稽古が終わってから、IT秘書のイワモトくんがパソコンの修理に来る。
どういうわけかウィンドウズマシンからホームページの更新をしようとすると、うまくゆかないのである。
20分ほどあれこれいじったあと、セキュリティの壁が高すぎて、こちらから送るものまで自分ちの壁ではねかえされていたことが判明する。
「送信のときだけ、一時的にセキュリティを無効にしてください」という指導を受ける。
私がひとりでマニュアルをめくって原因を考えていたら、100年を要してもこの結論に到達することはできなかったであろう。

コンピュータテクノロジーはすさまじい速度で進化を続けており、これに私のようなアマチュアがキャッチアップすることはもはや不可能である。
したがって、こういう場合は「専門家に丸投げする」というのが、ただしい作法であると私は思う。
「餅は餅屋」。

しかるに、「丸投げ」をいさぎよしとせず、あくまで自分のコンピュータ環境を自分ひとりでコントロールしようとする方々がいる。
だが、そのスタイルに固執すると、テクノロジーの進化にキャッチアップするだけで、ほとんどの時間とエネルギーを投入しなくてはならないのではないかと思う。
そもそもコンピュータというのは「何か」をするためのツールなのであって、ユーザーが機器のヴァージョンアップにエネルギーを使い果たして、ツールを使う時間をツールの整備のために食われてしまった、というのでは本末転倒である。

ひとびとが「丸投げ」をためらう理由の一つに、個人情報の保全がある。
コンピュータのデータの中にはかなりコンフィデンシャルな個人情報が含まれているが、ネット環境の整備のためには、当然それを整備する専門家には、個人情報へのアクセスフリーを確保しておかなければならない。
ということは、あちらが見る気になれば、なんでも見られちゃうということである。
それでも「平気」というためには、ただの「ITの専門家」ではなく、同時に信頼できる「セクレタリー」でもなければならない。

だが、優秀にして誠実な「セクレタリー」は求めて得られるものではない。
たまたま私が二名の卓越した「セクレタリー」を確保しえているのは、私が別の目的のために投じてきた文化資本投下の思いがけない副産物であって、別に自分のコンピュータ環境を整備したいからという功利的な動機で人脈形成を行ってきたわけではない。

イワモト秘書の話によると、コンピュータ・デバイドではなく、ネット・デバイドがいまものすごい勢いで社会全体広がっているそうである。

彼がおもしろがっていたのはGreeというプロジェクト。
これは少し前にアメリカではやった「自分の友人のつながりをたどって、何人目でケヴィン・ベーコンに達するか」というゲームのネット版である。
理論的には「6人目」で誰でもケヴィン・ベーコンとリンクされるという話を聞いたことがある。
別にケヴィン・ベーコンである必要はまったくなくて、要するに世界中のすべての人は「なか6人の知り合い」でつながっているのである。

このGreeプロジェクトの会員が昨日の段階で18000人くらい。
秘書によると、この「遊び」に参加した最初の数千人が「今日本でいちばん先端的なネット・ピープル」だそうであり、このプロジェクトをすでに知っているかどうかだけで、そのひとの情報感度がかなりの信頼性で判定できるのだそうである。

会員を大学別で見ると慶應が圧倒的にトップ。続いて東大。わが神戸女学院は会員2名で、情報感度的にはかなり低レベルみたいだが、なんとその一人はコノハちゃんだったりする。
この大学ランキングは入学者の偏差値とは関係なく、その大学の情報感度の指数として見ることができると秘書は力説していた。

面白かったのは都道府県別会員分布で、東京が1万人でもちろんダントツ。島根県が7人で最低。
ネットというのは、そういう地理的な懸隔とかかわりなしに、全国津々浦々の人々に同じアクセシビリティを確保するという建前であるが、実際には「情報後進地域」というものが不回避的に発生するのである。
結局私たちはネット上でも「毎日顔をつきあわせている人間」とほとんど排他的にコミュニケーションしているということが分かるのである。

マスメディアではこのような事実はまず報道されない。
でも、それはマスメディアがネットワーク・コミュニケーションに後れを取っているからだ、というふうには私は考えない。
「こういうの」は昔からあった。

私が中学生のころには無線ファンたちが「つながること」だけを目的とした全国ネットをつくっていたし、SFファンの子どもたちも全国ネットを形成して、ひたすらネットワーク・コミュニケーションに興じていた。
マスメディアはもちろんそのようなネットワークが存在していることを報じなかった。
でも、それも当然である。
「アンダーグラウンドであること」がネットワーク・コミュニケーションでは、その愉悦の半分を提供していたからである。
それが無視されたことは、必ずしもマスメディアの情報感度の低さの指標ではなく、そういうふうにいくつかの種類のコミュニケーション形態の「棲み分け」があるほうがいいよね、ということについて社会的な暗黙の合意があったからではないかと思う。

これから先、ネットでつながる共同体がどういうふうに社会的に機能することになるのか、私には予測がつかないけれど、まあ、それほどカタストロフィックなことにはならないような気がする。
私が中学生のときに参加していたSFFCも、排他的である点については、いまのネットワーク共同体と変わらなかったが、山本浩二も松下正己もそのあと「ちゃんとした大人」になったからね。

投稿者 uchida : 11:42 | コメント (5) | トラックバック