BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBooklistMovieSeminarBudoPhoto|Archives|Profile|

<< クリント・イーストウッドとヴォーリズと桑田乃梨子な一日 | メイン | スリープレス週末 >>

2006年10月26日

教育破壊はどこまで続くのか

富山県立高校で発覚した履修単位不足問題は全国に飛び火して、少なくとも30000人の高校三年生が単位不足であることがわかった。
各校は冬休みなどを利用して、補習を行い、単位を確保する予定だが、200回以上(一回50分)の補習をこれから卒業までに行わなければ間に合わないケースもあり、現場は混乱の極にある。
この種の架空履修はすでに90年代から行われており、すでに卒業してしまった生徒については遡っての卒業取り消しはしないそうである。
ほおほお。そういうことをしていたわけですか。
必修の世界史をネグレクトしたケースが多い。
世界史は覚えなければいけないことが多い、というのがその理由だそうである。
なるほどね。そうだったのか。
大学生諸君が世界史の年号どころか世界史的事件について話しても、みんな「きょとん」としているのを不思議に思っていたが、そのせいであったか。
「ウェストファリア・システム」と言っても誰も反応しない。
「米西戦争」というようなものがあったことを知らない。
「ハワイの併合」の事情を知らない。
「フィリピンの独立宣言がアメリカ下院でなされたこと」も知らない。
「インドシナ半島をフランスと日本が共同統治していたこと」も知らない。
たしかにこれくらいものを知らなければ人類の歴史は「グッドガイ」と「バッドガイ」の二極のあいだの戦いであるというパッパラパ世界史認識に着地してしまうのも致し方あるまい。
若い方のあいだにナショナリズムがさかんな理由にも納得がいった。
世界の歴史を知らない夜郎自大こそナショナリズムの培養基だからである。
え?「夜郎自大」の意味がわからない?
あのね、むかし西域に「夜郎国」という国があったの。
ま、あとは世界史の参考書で調べなさい。
勉強なんかしなくても、必要があればネットでなんでも調べられると豪語する若者がときおりいるが、私はそういうものではないと思う。
検索するためには検索のためのキーワードを知っていることが必要だ。
しかし、そのキーワードそのものを知らない事項については、検索することができない。
「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。
自分が何を知らないかについて知ることである。
自分の知識についての知識をもつことである。
それは「知識をふやす」ということとは違う。
「知識をふやす」というのは「同一平面上で水平移動域を拡げること」である。
「知識についての知識をもつ」というのは「階段を上がること」である。
ぜんぜん違う。
学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。
一方、受験勉強は「自分が何を知っているか」を誇示することを生徒たちに強いる。
たくさんの教科を学校が用意しているのは、ほんらい生徒たちに「自分が何を知らないか、何ができないか」を知らせるためである。
世の中には自分の知らないことがたくさんあるんだ・・・と思うことができれば、それだけで学校に行った甲斐はある。
しかし、受験勉強は「自分にできること」に特化することを子どもたちに強いる。
もちろんそれにも意味はある。
それは「自分にできること」があれば、「自分にはできないこと」ができる人々とのコラボレーションを立ち上げることができるからである。
「自分の知らないこと/自分にできないこと」の中に位置づけられてはじめて「自分が知っていること/自分ができること」は共同的に意味をもつ。
だから、「自分の知らないこと」は「知る価値のないことだ」というふうに思い込む子どもを組織的に作り出しているのだとしたら、そんな学校は存在しない方がましである。
「架空履修」をした学校の教師たちは、そのような危険な思い込みを生徒たちに刷り込んでいたことに果たしてどれだけ自覚的であったのだろうか。
現に、これから始まる受験のハイシーズンに受験と無関係の教科の補習を強いられる生徒たちの多くは激怒している。
「そんなもんのためにこのくそ忙しい時に学校になんか行ってられっかよ」と多くの受験生たちは思っているだろう。
思って当然である。
「受験に不要な科目なんか勉強しなくていい」という考え方に同意を与えたのは当の学校だからたちである。
おそらく相当数の受験生はこのあと行われる補習をずる休みするだろう。
そのとき、教師たちに「ずる休み」した生徒たちを単位不足で留年させるだけの覚悟があるだろうか。
私は「ない」と思う。
「大学に受かりさえすれば、学校なんか来なくていい」「受験に関係ない教科は勉強しなくていい」という考え方を学校が公認していた以上、その「教え」に素直に従う生徒たちを罰する倫理的優位性は学校にはない。
しかし、私は教師たちだけを責めるのは気の毒だとも思うのである(これだけ責めておいて、いまさら何であるが)。
彼らだって受験のために履修に歪みが生じるような教育計画を進んで立てたわけではないだろう。
学習指導要領で手足を縛られ、その上大学受験の合格実績の数値目標が示され、それをクリアーするためには文科省を騙すしかない・・・という窮地に追い詰められての苦衷の選択であったという台所事情を私とて理解できないわけではない。
文科省の示すガイドラインが現場の実情と隔たることすでに遠いものであるということは間違いのない事実である。
21日の共同通信はつぎのような記事を配信している。

「ゆとり教育」の見直しなど、政治主導で目まぐるしく提案される教育改革について、全国の公立小中学校の校長を対象に聞いたところ、回答者の85%が「速すぎて現場がついていけない」と感じていることが21日、東大の基礎学力研究開発センターの調査で分かった。調査は同センターが7、8月に全国の公立小中学校の3分の1にあたる1万800校の校長を対象に実施。約4800校の回答(一部は教頭らが回答)を得た。
教育基本法改正案には66%が反対。「教育問題を政治化しすぎ」も67%に達した。教育改革を最重要課題とする安倍晋三首相が教育再生会議を始動させる中、格差拡大の懸念も大きく、現場に強い抵抗感があることが鮮明になった。
「教育改革が速すぎて現場がついていけないと考えるか」との質問に「強く思う」と答えたのは30%、「思う」は55%で、「思わない」「全く思わない」の計15%を大きく上回った。「教育改革は、学校が直面する問題に対応していない」と答えたのも79%と圧倒的多数だった。
中教審が教員の質確保のために導入を答申した教員免許の更新制は再生会議でも重要テーマの一つ。だが、これに賛成する校長は41%止まりで、59%が後ろ向きだった。
安倍首相らが再三口にする「学力低下」。だが20年前と比較して子どもの学力が「下がった」とする校長は47%で「変わらない」「上がった」の計53%を下回った。

どちらかといえば教育委員会寄りで、文科省の方針に親和的な人間が校長になりやすいということは周知の事実である。
そのような条件を勘定に入れた上でこの数値を見れば、現場の苛立ちと内圧がほとんど「爆発寸前」にまで高まっていることを政府はそろそろ察知すべきではあるまいか。
と書いたあとに今朝の新聞を開いたら、「子どもや保護者との関係のむずかしさや学校運営上の心理的な負担増などが原因で、強い抑鬱感を訴える男性教職員が11.5%に上り、国内標準値の1.8倍にあたること」が判明したと毎日新聞のトップに出ていた。
「教育再生」でこの数値はさらに危機的な水域にまでのぼることになるだろう。
もちろん、政府はそのときには「抑鬱傾向の教師をスクリーニングして排除する」政策を採用して、引き続き現場のストレスを強化することで問題解決をはかるのだろう。
エンドレスの「教育破壊」はどこまで続くのであろうか。

投稿者 uchida : 2006年10月26日 15:43

トラックバック

このリストは、次のエントリーを参照しています: 教育破壊はどこまで続くのか:

» 『大学はすごい』 10/26/06〆 from 【THE FOOL ON THE HILL】
追記:割り切って受験に特化したおつもりだったんだろうな。 (cf.共同通信@excite:3年生全員が卒業“危機” 50分授業、70回必要  なんとか救済する... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月26日 22:22

» 卒業不可 from 山田商店 爆安セール
3年生が卒業できない恐れ〓世界史授業せず、高岡南高 ですって。 そんな高校一年から受験に集中してどうするんざんしょか。 要望を受け入れる学... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 00:16

» 歴史教育とパターン認識 from ■為替 FX システムトレード MetaTrader チャート................ ハーモニックパターントレーディング
内田先生のブログ「内田樹の研究室」で生徒たちには気の毒だけどというエントリがあっ [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 06:41

» 学校の意義 from Kazu'Sの戯言Blog(新館)
教育破壊はどこまで続くのか 歴史の重要性を語られています。それも正解だと思いますが、より重要なのはやはり中盤部分に書かれている学校で教えることは何か? と... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 11:25

» 学校の意義 from Kazu'Sの戯言Blog(新館)
教育破壊はどこまで続くのか 歴史の重要性を語られています。それも正解だと思いますが、より重要なのはやはり中盤部分に書かれている学校で教えることは何か? と... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 11:27

» ゆとりをもって学力向上 from ILOHA11269
進学校「裏カリキュラム」問題、生徒にしわよせがこないように。これは朝日新聞の主張のポイントです。あるいは建前上の見解と考えられます。 本音の部分は朝日の記事に... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 12:26

» 虐待と呪文と from 葛葉真紀の棚
高校生が卒業できないと騒いでいるので、何のことかと思いきや、学校が予備校化してい [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 20:41

» 履修不足と歴史教育 from ”Kおにーさん” のおぼえ書き
世界史を必須として高校生に履修させたところで、受験に関係なければそんな授業は一部の歴史好き少年くらいしか聴かない訳だから、未履修が発覚してあわててこれから授業... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 21:58

» 東大生は「幼稚園生」レベル from 上笑気流〜from Beloit, WI, USA〜
最近日本をにぎわせている教育関係のニュースと言えば「履修単位不足問題」だろう。 かくいう私も必修の「現代社会」を履修しないまま卒業している。成績証明書には... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月27日 22:59

» 戦争と教育 from 山梨臨床心理と武術の研究所
 なんて固い内容ではありませんが、やっぱり今の世はやばいなと思います。 それにし [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月29日 10:47

» ■女教師(インテリ系)を攻略しよう。 from プライベートは、本気で遊ぼう。
男自体に免疫がないので、ネットナンパに対してもかなり無防備で、自分の職場や学校のメールアドレスで平気でメールを送ってきます。 [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年10月29日 13:48

コメント

小中学生だけでなく、ある分野の研究者となった者も、常に「どこまで分かっていてどこまで分からないか」の連続ですね。ただ、専門化、テーマの分化に伴って追究の対象が狭くなってきます。その際、小中の義務教育で培われた狭さを支える裾野、更に高校、大学教養課程の中腹がしっかりしていることが大事にだと考えます。

私の州は(多くの州がそうですが)、公立の高校は只で無試験なので全員高校に進学します。高校まで義務教育のようなものです。しかし、単位を全て取っても、卒業試験という実力テストに受からないと高校卒業の資格もなく、大学にも進めません。中退ということになりますが、後で(中退のまま人生を送り、「こりゃー大変」と気づいたら)再チャレンジするチャンスは残されています。先日、日本を訪れたLA市長はまさにそのような高校時代だったようですが、後で発奮して弁護士になりましたから、非常に教育問題に熱心な市長です。よく、教育委員会と喧嘩しますが、仲直りも早い。

また、周知の通り、アメリカの大学の四年間は全てが教養課程と見ていいでしょう。専門教育は大学院で受けることになっています。私は、日本の大学もそれでいいような気がします。そうすると、高校の授業の焼き直しのような教養科目の教育をする教授はだめで、教養科目の質の高い教授が求められることになるでしょう。

11月11日(土)16時から17時に、「世界の中の日本の学力」と題する東京大学教育学部講演会があります。東京大学ホームカミングの催しの一環ですが、卒業生でなくても聴講できるはずです。東京近辺に在住の方はいかがですか。

http://www.p.u-tokyo.ac.jp/coe/

で調べられます。 

Mark W. Waterman, Ph.D.

投稿者 Dr. Waterman [TypeKey Profile Page] : 2006年10月27日 01:42

内田先生今日は。全くおっしゃる通りだと思いました。私は教育後進県と呼ばれる秋田県で高校までを過ごしました。私は進学校にいましたが、教師も生徒も「これは受験に出るか」と言うような問いをする生徒をちょっと馬鹿にしておりました。
勉強は受験のためではないというのが大前提でした。1〜2%の就職希望者がいたのも、残りの生徒にとっては良かったと思います。生徒の中には「K高もN高も受験の勉強だけしてればいいんだよぉ」と羨ましがっている人もいましたが私達は「それはその学校が変だ」と思っていました。私達の母校も最近は課題を出したり、受験指導も少しは熱心にやってくれるようになったようです。それでも秋田県は未だに教育後進県で、隣の山形県などと比べるとのんきです。でも昨日までは秋田の高校は大丈夫だという事になっていましたが、やはり秋田でもごまかしていた学校があるようです。
今回特に東北地方に集中しているように見えるのはやはり国立志向が強いからでしょうか。教師の中に「国立に何人入れたか」と言う事を重視する風潮があるように思えます。教育と言うのは人を育てるのだと思いますが、受験生を育てているだけの高校も多いように感じます。
「自分の知らないこと」は「知る必要のないこと」だと思う若い人が増えたら本当に困りますね。自分が何を知って何を知らないかを知るということは実はとても楽しい事なのだと思うのですが。

投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月27日 16:40

高校教師の友達がいます。現場に疑問を感じ、2年間辞めていたけど、経済的な事情もあり、今年度だけ復帰しました。彼女の話を聞くと、本当に現場は「爆発寸前」。先生のブログの大学の話をメールしたら電話がかかってきて、「もう爆発しかないね」と話して、気分がすっとしたらしいです。

投稿者 プリオン [TypeKey Profile Page] : 2006年10月27日 20:24

某公立高校で社会科を教えています。内田先生の著書の愛読者で生徒にも薦めています。高校の現状はご存知のことと思いますが,一言弁明させて下さい。
 私が高校生だった20年前,受験競争は今よりずっと厳しいものでした。しかし,世界史は市民革命,日本史は明治維新あたりで授業が終わってしまうのが普通で,それでも誰も文句を言いませんでした。今は,週休二日制の実施,「総合的な学習」や教科「情報」の導入で授業時数は減る一方で,にもかかわらず,「学力低下を何とかしろ」「進学実績を上げろ」との要求は強まるばかりです。多くの親が求めるのは「国公立大に現役合格」ですから,私の勤務校では,授業時数は減っているのにちゃんと教科書を終わらせて,センター試験向けの演習までやっています。多くの進学校でそのような「神業」が可能であるのは裏に「からくり」があるからで,それが今回明るみに出たわけです。
 学習指導要領に反していた以上,学校の責任を問われるのは仕方ないでしょう。しかし,指導要領通りのカリキュラムで,現在の授業レベルを維持するのはほとんど不可能です。授業時数が減り,家庭学習の時間が激減しているのに昔のままの授業をしていたら,今頃目も当てられない状況になっています。学力低下がこの程度で済んでいるのは,おそらく現場の必死の努力があるからです。誰も好きこのんでルール違反はやっていません。授業時数を減らされ,総合だ情報だ道徳だと次々にやることが増え,減った時間で進学実績を上げることを求められている現状,学校評価や教員評価の導入が着々と進み,結果や数字を否応なしに求められる現状で,すべての要求に完璧に応えられる「スーパー教師」が,一体どれだけいるのでしょうか。今回のことで,学校への監視と強制はさらに強まり,現場の声は今以上に聞き届けられなくなるでしょう。物を言える立場にないと思いながらも,今の生徒と,今後の学校がどうなるのか,心配せずにはいられません。

投稿者 花 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月27日 23:16

現場の「花」さんの声を聞くとなるほどと思います。また、現職の方は一定以上の声を出すのは難しいでしょう。現場の外の人が声を出してサポートするべきです。

ところで、試験一発主義の日本の大学入試(大学院入試も)はそろそろ止めようと誰も言わないのでしょうか。

大学に入るための力は、高校3年間の学業状態こそ大切なのであって、時にはいい加減な入試問題を出す大学教授に入試のカギを委ねる必要はありません。それぞれの高校の学力の格差は、全国一律試験である程度補正できるでしょう。しかし、それでも高校3年間の学業を第一にするべきだと思います。

私の見るところでは(日本に限らずアメリカでも)、都会の一流進学校の一番も、田舎の高校の一番も、大学に入ってからの成績は変わりません。大学院も同じで、二三流と言われる大学でも優秀だった人は、アイヴィーリーグの大学院でも優秀なものです。在学中の学業に重きを置くと、生徒の力が付くだけでなく、先生も生徒も結局楽なものですよ。

アメリカの大学入試は高校の学業成績GPA、共通テストSAT、そしてヴォランティアなどの課外活動記録が中心です。一発テストはありません。一発テストのよい面もあるのでしょうが、今回の騒動のように、悪いことのほうが多いような気がします。

なお、学力、学力、と言いましたが、小中高の学力の基本は「暗記した知識の量」です。誤解しては困ります。内田先生も述べられたように、基本的な知識がなければネット検索だってできないではありませんか。議論をしたくても、議論をサポートするデータが不足するではありませんか。貧弱な語彙では、言いたいことも言えないではありませんか。

中学時代などは特に暗記に適した年代で、たくさんの本を読ませ、計算させ、実験させ、調べさせ、この頃に頭に叩き込むのが教育の基本です。「ゆとり」は、馬鹿なあるいは怠け者の教育者の考えることです。子供の限りない能力を最大限引き出すべきです。それが education (引き出すこと)ですから。日本の子供たちが世界から取り残されないように。

Mark W. Waterman, Ph.D.

投稿者 Dr. Waterman [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 00:55

内田先生、はじめまして。
いつも、切れ味鋭い論考を楽しみにしている者です。

私は、高校卒業が1990年ですので、「花」さんよりちょっとだけ下の世代ということになろうと思いますが、授業の状況などやはりほぼ同じようなものでした(公立の進学校でしたが、世界史の授業の進度はもっとひどかったです…)。

さて、実は私の出身高校も不名誉なことに今回の問題に名を連ねておりまして、あまり他人事にも思えません。そうした中で考えると、内田先生のおっしゃることは正論だとは思いますが、引っかかるところがあります。

1つ目は、先生が学習指導要領が正しいことを暗黙の前提として議論を展開されているかのように思われる点です。世界史が必修なのはたまたま今そうなっているに過ぎません。社会科(いまは地歴科及び公民科なのですか?)の必修科目の扱いは戦後何度も変更があったのではないかと理解しています。
私の頃は「現代社会」という今ひとつ位置付けが不明確な科目が必修で、現場では大不評。「現代社会」という名の下に、政経・倫理や日本史、世界史、地理を教えていた学校はありふれた存在だったと記憶しています。今回、社会科の履修において問題が多発しているのは、既にこの頃から、学習指導要領が社会科の履修について現場での規範性を失ってしまったからではないかという気もします。
また、どういう思惑か知りませんが、都教委などでは、世界史に代えてでも日本史の必修を国に求めると最近主張しているそうです。
先生が世界史が自らの大学教育の前提において必須だとお考えになるのでしたら、学習指導要領などあてにせず、自らの大学の入試で世界史を必須にすべきだとご主張されたらよろしいのではないでしょうか。

2つ目は、先生自身が大学側の当事者であるとの視点が欠如しているように思えてならないことです。受験勉強の在り方への批判自体は分かりますが、高踏的な見地に過ぎるようにも思えます。大学の選抜の在り方が高校教育に影響を与えるのは当たり前ではありませんか。先生の大学では、受験に何教科何科目課しているのですか?
上にも書きましたが、世界史の知識の欠如が問題だというなら、世界史を入試で必須にしたらよろしいでしょう。国の教育政策のどうしようもなさは私も常々感じますが、その枠の中でも大学側で対処できることはあるはずです。入試科目を増やしたら受験者が減るって?そういう見地から入試科目を決めている大学人に高校の受験教育を批判する資格などありますまい。

高校側が受験対策のために魂を売ったかのような受け止め方が多かろうとは思いますが、今回問題となった多くの公立進学校は私の出身校を含め、学校行事やクラブ活動なども盛んで、受験勉強にのみ偏らない高校生活を送りながら、なおかつ進学実績は上げたいというかなりの無理難題を自らに課してきた、ある意味では良心的な学校が多いと理解しています。しかし、そのような公立進学校は、「花」さんも指摘されるような矛盾のしわ寄せがもっとも行っているところでしょう。私の頃に比べて、中学までの学習内容が激減している反面、東大・京大などは相変わらず広く・深い学習レベルを以前と変わらず求めてくる。一方、私大は、入試の多様化の美名のもと、高校教育への影響など何のその、入試科目を激減させ受験生集めに狂奔。その上に、中学時点で既に優秀な生徒を囲い込み6年一貫教育でカリキュラムを組んでいる私立の中高一貫校と進学実績を競わなきゃならない。どうしろっていうのか、という感じなのではないでしょうか。

おそらく今回の問題で、公立でも中高一貫へのシフトに拍車がかかっていくでしょう。高校3年間といっても、最後の1年は受験対策に当てたいと考えるなら実質2年間、授業時数が減る中でとてもカリキュラムを消化しきれるわけがなく、中等教育を一貫して行うのは確かに合理的なようにも思います。でも、格差社会が問題視される中で、選抜段階が15歳から12歳に早まってしまうのは本当にいいのだろうかとも思います。

Watermanさんがおっしゃるように、大学の選抜の在り方を抜本的に見直す時期がそろそろ来ているのではないしょうか。私のような第2次ベビーブーマー世代の頃は競争入試より他にやり方がなかったかもしれませんが、今の大学全入時代なら不可能な話ではないと思います。

初めてなのに長文を書き散らして、誠に失礼いたしました。

投稿者 浅川の二郎 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 11:07

浅川の二郎様
ちょっとお尋ねしたい事があります。

>1つ目は、先生が学習指導要領が正しいことを暗黙の前提として議論を展開されているかのように思われる点です。世界史が必修なのはたまたま今そうなっているに過ぎません。社会科(いまは地歴科及び公民科なのですか?)の必修科目の扱いは戦後何度も変更があったのではないかと理解しています。

とありますが、世界史が必修ではなかった時期があったのでしょうか?それはいつごろの事なのでしょうか。もし、本当に世界史を必修からはずした時期があるのなら私はこの国についての認識を改めなくてはなりません。

それと内田先生は学習指導要領が正しいか否かを問題になさっているのではないと思うのです。取り合えず今それがルールであるならばそれに従うと言うのが社会生活だと私は思うのです。今回は社会のルールという事を教えなければいけない学校という場で、「自分に都合が悪い決まりはごまかして通ればいいのだ」と生徒達に結果的に教えてしまったという事が問題なのだと思います。先生たちにも言い分は山のようにあるでしょう。けれども進学実績という言葉を持ち出されるたびに、それは誰の役に立つのだろうかと考える親もいるのです。進学実績なんか低くても「ここに入ってよかった」と生徒がみんな思えれば、そのほうが幸せなような気がします。学校というのは子供が社会に出て行く力を育てる場であって欲しいと思うのです。同時に高校もまた学問の場であってもらいたいと思います。


投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 20:20

初めまして。元塾講師です。

一時期少しばかり受験産業に関わっていた者の端くれとして発言させていただきます。

花さんのおっしゃられていることは、現場の先生としての率直なご意見なのでしょう。私にも高校教員の友人はおりますので、「読み替え」作業にまつわる複雑な思いについては少しばかり伝え聞いております。
が、一つだけ解せないのは、「進学実績を上げろ」と要求されるという点についてです。民間の場合、これが至上命題なわけですから、当然目標達成は出来て当たり前、出来なければ即解雇に結びつくシビアなものであるわけです。しかし、公立高校の先生場合、一体どなたから「進学実績を上げろ」との強い要求がなされるのだろうかと、そのあたりがいささか判然としないなあというのが正直な感想です。(とんちんかんな事を申しておりましたら、すいません。)

さて続けますが、高校教員の私の友人は「読み替え作業を知らない教育委員会はないはず」と申しますので、それが事実だとすれば「高校側が虚偽の申告をしていた」とばかり報道されるのは、筋が違うのではないかとそう思うわけです・・。

さらに入試についてなのですが、かつて小耳にはさんだところによりますと、例の赤本を作っている出版社さんは、毎年必ず大学の先生に「そろそろ大学入試を高校の先生に作ってもらってはどうでしょう?」と進言をされているそうですね。まあ、よく考えてみれば、高校過程における生徒の学習到達度を最もよく知っておられるのは、まさに現場の先生なわけですよね。現状では、大学側の「こういう学生が望ましい」という方向でのみ入試が作成されているわけで、現場はこの傾向と対策に翻弄されているといった図式かと・・・。
高校の先生が作成ということになれば、あの毎年のように出没する「解答のない問題」というのも絶滅するかもしれませんよね(笑)。

投稿者 モルダバイト [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 20:55

>>雪国のTT様
たまたま通りかかった同郷の者です(O市)。
世界史は必修ではありませんでした。もしかすると私の頃(私は1970年生まれです)からごまかしはあったのかも知れません。
ただ、理系において「世界史・日本史の選択」であり、文系において「日本史(必修)/世界史・地理の選択」でありました。
理科においては状況が逆転し、理系は「化学(必修)/物理・生物の選択」であり、文系は「化学・生物の選択」でありました。
さすがに、二十年近く昔の話をしている上、入試制度が一年ごとにグルグル変わった時期でしたので、何とも言えませんがご参考になればと存じます。

投稿者 きんげいと [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 21:08

きんげいと様
ありがとうございます。びっくり!!!です。つまり高校で世界史というものを一言一句習わずに卒業した人がいるという事ですね。「どこの高校だー」とわめきたくなるのですがO市ならば旧制中学からの伝統を引き継ぐしっかりしたすばらしい学校があるはずで、そこがそんな風だったということはその頃はみんなそうだったのでしょう。

内田先生、こりゃもうあかん、ですね。知識のない人たちと常識を共有する事はできないし、これからはたとえ相手が大学を出ていようと何も知らない人なのかもしれないと思って話をするしかないようです。学ぶのは自分だと思ってもその学び方さえ知らないのでは、今の若い人たちは苦労だなあと、生徒達から「知らない事を知る」機会を奪った学校と言うものに改めて怒りを覚えます。

投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 21:54

雪国のTT様

はじめまして。80年代末の高校生だった者です。
当時は「現代社会」が必須で「世界史」は教育課程上必須ではなかったはずです。その後世界史必修化について議論があったのを記憶しています。いまインターネットで調べたところ、現在の世界史必修化は1994年度(に高校1年生だった者)から始まるみたいです。ちなみに私の通っていた高校では、当時も世界史は必修で、今もちゃんと必修にしているようです(別の科目の未履修が問題になりました)。

> それと内田先生は学習指導要領が正しいか否かを問題になさっているのではないと思うのです。(以下略)
これは、もう雪国のTT様のおっしゃるとおりで、私の書き方が悪かったかと思います。ただ、内田先生が世界史の知識が必須であると考えていることと現行学習指導要領上世界史が必須になっていることは偶然(?)一致していたに過ぎないということは指摘しておきたかったのです。

> 内田先生、こりゃもうあかん、ですね。(以下略)
世界史だけの問題でしょうか。私も世界史くらい勉強しておいたほうがいいと思いますが、日本史、地理の知識の必要性がそれに劣るとは思いません(あえていえば、世界史は中学までにほとんどまともに勉強しないので、高校で勉強することの必要性がより大きいとは考えます)。
本来であれば、高校の地歴・公民で扱う程度の内容は全部勉強すべきものとは思いますけど、そういうふうにはなっていないので、どれかを必修にすると別の科目の履修が減るというようなゼロサムゲームになってしまいます。私は受験科目も世界史にしましたが、高校で日本史を全く選択しなかったのは良くなかったなあ、と今でも思います。

投稿者 浅川の二郎 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 22:48

モルダバイト様
 一つは,「学校評価」「教員評価」というシステムの問題があります。公立校でも最近は民間にならって「評価」のシステムが導入され,年度毎に「学校の目標」「学年・公務分掌の目標」「個人の目標」を立て,その達成度合いを検証させられます。将来的には(考えたくありませんが),それに基づく評価が給与に影響することになるでしょう。その是非は措くとして,学校が「生徒の進路実現」(進学校なら,要するに進学)を一つの目標とすれば,それが学年→個人に影響しないわけにはいきません。
 さらに,少子化の影響で公立高校といえども優秀な生徒を確保するために「実績」をあげねばならない,ということがあります。最もわかりやすい実績が「甲子園・インタハイ出場」と「大学合格者数」です。この点では,私立校は特待や授業料免除などといった形で優秀な生徒を集めており,公立といえども危機感を持たずにいれません。「優秀な生徒は私立で見るから,公立はあとの生徒の受け皿でいいんだ」と言うなら話は別ですが,特に地方では「公立の進学校」の役割は大きいと思うので,私立(あるいは他の公立)との競争は避けて通れません。
 以上,思いつくままですが,感じがわかっていただけたでしょうか。

投稿者 花 [TypeKey Profile Page] : 2006年10月28日 22:52

花様

そうですかあ。前半の評価システムの導入の件ですが、これについては、まさに小泉政権から続く新自由主義的教育政策の一環でしょうから、なかなかに難物と思われますが・・。ただ、「生徒の進路実現」が「目標」になってしまい、これを「達成」することが高校の日常になっているのだとしたら、これはう〜んという感じかなあ。だって、これってまさに塾屋の仕事なわけですよね。私達は、それは生徒の顔見ると偏差値すぐに浮かびましからね。でも、だからこそ、学校ってものにはわりと幻想あったりしたもんなんですよ。きっと「自己実現」が教師の「ねがい」であって共に「かなえよう」とぎりぎりの他律的関わりを試みているに違いない・・とかね。すいません。こんなもん背負わされるとかなわないかもしれませんが。

で、やっぱり気になるのが後半の「優秀な生徒」って表現の意味するものでして・・・。「優秀」っていうのが、どうもこう学力だけに一元化されているように聞こえちゃうんですよねえ・・。人間をもっと多元的に捉えられるのが、学校の良さなんじゃないかとか・・ほら、やっぱり学校に幻想あるわけですから・・(笑)

でも、私は基本的に、高校の先生を支持してますんで。今、ほんと混乱の極みにおられることでしょうが、再生に向けて何とか頑張ってほしいです。

投稿者 モルダバイト [TypeKey Profile Page] : 2006年10月29日 00:04

大学生や大学院生が単位の管理を自分で行うことは普通ですが、
高校生、あるいは小中学生にはそういう習慣は無いですね。
今後は高校生なども単位を巡る法律やシステムを良く知っておく必要がある、ということでしょうか。
まあ、知っていて損はないですが。

投稿者 mukuholic [TypeKey Profile Page] : 2006年10月29日 02:00

内田先生の一つのエントリーに一人で3回目のコメントですみません。でも、皆さん本当に熱心に議論されていて、日本の皆さんをたのもしく感じます。

上記の mukuholic さんのコメントはやはり Culture Shock でした。

LA は確かにアメリカ第二の都市で少し特別ですが、ほとんどの公立高校の生徒数は2千人以上で、副校長にあたるのが4人くらいいる大規模なものです。そして、必要単位は何人もいるアドヴァイザー(このためだけの先生)と相談して生徒が自分で選びます。高校卒業に必須な単位数と教科のほかは、自分の好みと進学などの将来と適性を見据えて選ぶのです。アドヴァイザーは学期ごとの成績の相談にものりますし、いつでも面会できます。(これらの単位修得と卒業試験に合格してはじめて高校卒となります。)

このように学校が一律に決めるのではありません。忘れていました。日本では、高校生が各教室で待っていて、各教科の先生が回って歩きますが、アメリカでは逆で、各教室の先生が待っている教室に、生徒が時間ごとにナップザックを背負って回るのです。だから、学校が決めた一律ではない。これを忘れていました。

更に、大学と大学院も日本とは別なことです。アメリカの(多分)全ての大学と大学院には高校と同じようにアドヴァイザーがいます。大学院ではプログラム・ディレクターがいて(たいてい既に博士の学位を持っている人)同様に取得単位の管理と助言をしてくれます。

これは、履修できる科目が多様なことと、将来の進路にあった単位を順序立てて不足なく取るためでもあります。医者になろうとしたのに自分のミスで医科大学院に進学する科目がたりなかったでは始まらないからです。しかし、日本に比べ(特に大学院などは)面倒見がいいという本質的な違いもあります。大学や大学院の場合でも、大学当局ははお前の単位はお前の勝手とは言わないのです。一緒になって考えてくれます。

以上の話はご存知でしたか? Culture Shock?

違いが分かっても、今すぐの日本の実情には合わないと思いますが、「教育は百年の計」と言うではありませんか。人間はモモ、クリのように短期栽培はできません。未来の子供たちのために、今からいろいろ考えないといけないでしょうね。

Mark W. Waterman, Ph.D.

Mark W. Waterman

投稿者 Dr. Waterman [TypeKey Profile Page] : 2006年10月29日 12:59

浅川の二郎様 お返事ありがとうございます。そうですかそういうことになっていたのですか。事態は私が思っているよりずっと深刻な状況ですね。私は日本史も現代社会も必要だと思うのです。だから困ってしまうのです。

私の夫は大学の教員です。彼は「教養教育は必要だ。受験科目はむやみと減らすな。」という少数派です。今回の事に関しても大学にも大きな責任があると思っているようです。
少子化の中で地方の大学は、苦しいのです。国立大学(法人)といえども授業料は昔に比べると相当に高い。ならば私大に通って、アルバイトをいっぱいしたほうが親も子も楽であると考える大都市圏の子も多いのです。そんな中で受験が楽な大学という事ででも受験生を集めたいのです。A大学もB大学も入試から古文をはずしたと聞けば我が大学でもはずそうじゃないかという話になるのです。そういう議論をする教授の先生たちは皆さん高校のカリキュラムはしっかり終えてきています。そして私とおんなじで現状認識が欠けています。
平川さんがブログで『教育をビジネスの言葉で語るな。』とおっしゃっておいででした。ほんとにそうだなあと思っているうちに今回の問題が出てきました。いらない勉強なんてないと思います。教養というのは伏流水のようなもので、自分の厚みを作ってくれるものだと思うのです。今回、勉強の楽しみの選択の余地を奪われたという事についての子供達からの不平がないのが残念な気がします。怒らなければいけないのは、受験勉強の一番忙しい時に「いらない」勉強をさせられる事ではなく、もしかしたら面白いと思えるものに出会う機会を奪われていたという事に対してなのです。勉強は自分で選んでしていくのものだと思います。

内田先生、何回もうるさくして本当に申し訳ありません。私としては現状を知らせていただけて有難かったと思います。世界史についての何の知識もない人たちが先生をしていたりするのですね。カルトにはまる若い人が多いのも解りました。知識がないということは誰かが作った物語を信じやすいということですものね。難しい世の中だと思いました。

投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月29日 22:21

雪国のTTさん、教養というのは伏流水、自分の厚みを作るもの、というのに大賛成です。世界史は大変苦手な科目でしたが、「複雑すぎてなんだかよくわからないもの」だという記憶が残っただけでも、誰かが作ったわかりやすい物語に対して「ん?そんなに簡単な話か?」というスタンスを取るのに役立っているかもしれないです。娘の高校受験を控えていますが、学校選びに当たっては今回の騒ぎの原因などをもう一度冷静に考えてみるつもりです。

投稿者 のぐち [TypeKey Profile Page] : 2006年10月30日 00:37

20年以上前、東京の私立一貫校に通っておりました。中学生の頃から、「技術・家庭」と称して生物や化学の授業をしていたことを思い出しました。今回のケースとは違い、必要以上に勉強をしましたが(させられ?)、そのかわり製図をやったことがない、ある意味いびつな学生生活を送った気がします。
ただ、今仕事をしていて、知識量が多いことは役に立っているし、その反面か、若い社会人と話すと(親父だ...)、話が広がらずに終わってしまう。ある程度は知識つめとかないと、受験以上に損をする気がしますが。

投稿者 えくそだす [TypeKey Profile Page] : 2006年10月30日 10:41

出村と申します。雪国のTT様、こんにちは。内田先生のエントリーとはずれますが、世界史が必修でないことへのお嘆きのコメントを読み、ちと違和感を感じ、書き込みます。

世界史について云々するつもりはないのですが、雪国のTT様の「世界史についての何の知識もない人たちが先生をしていたりするのですね。カルトにはまる若い人が多いのも解りました。」というのは、いささか単純に過ぎませんか?わたしには、まさに「誰かが作った物語」の様に聞こえます。

もう一つ。「勉強の楽しみの選択の余地を奪われたという事についての子供達からの不平がない」というのも、いささか現役の高校生に失礼な気がしました。だって、それは、確かめようがないですものね。不平があるという報道がなかったというのなら、確かめようがありますけれど・・・。

と、意地の悪い書き方、ごめんなさい。なにぶん、私、世界史を勉強しておらず、そういうバイアスがかかった、見方になっています。世界史を要らないと思っているわけでは、ゆめゆめないのですが・・・。

それだけでは、なんですので、内田先生の最近のエントリに触発されたことも少しだけ(って、それをめいんにかくべきでしたね、反省)。
(1)改革というの名の制度変更の繰り返しによってこれ以上、教育の現場を混乱させることなく、(2)現場の裁量を実質的に保証するには、どうすればいいでしょうかねぇ?(2)のための制度変更を一回だけやれば良いのか・・・?
(3)また、それができたとして、今回のようなルール違反があった場合、どう対応すれば良いのか。
わたしには、今のところ、(1)ー(3)をうまく解決する良い考えが見当たりません。

投稿者 demura [TypeKey Profile Page] : 2006年10月30日 21:21

出村様 今晩は。内田先生のブログに何回も書き込むのは不本意なのですが、ちょっと一言、申し上げたくて。私が言いたいのは世界史についてだけではないのです。世界史と取り合えず言ってるだけで、今回は先生が世界史を引き合いにだされましたので世界史といってるだけで、「例えば世界史」というべきでしょうか、だって今回問題になってる高校は世界史だけで引っかかってるのじゃなくて、家庭科だったり日本史だったり、要は受験科目以外の教科ということなのですよね。ただコメントを書くときは短く短くと思ってしまうので、世界史を代表にしてるだけのつもりです。私の書き方がいけなかったのだと思います。受験科目に必要のない教科は勉強しなかった人たちが先生になってると書かねばなりませんでしたね。
私はオウムの事件以来、頭が良いといわれる人たちが何故あのような荒唐無稽の話に乗っかってしまったのかと、ずうっと疑問を持っているのです。オウムだけではなくさまざまなカルトが大学生を狙っているのです。出村さんはあまりに単純だとおっしゃいますが、これもまた一つの答えではないかと今回思ったのです。私は私の中で物語を作っているのでしょうけれども
ただ私の中ではその物語の辻褄があっていて欲しいなと思うのです。
もう一つの点については確かにおっしゃるとおりですね。ただ高校生を持つ親との眼でみると何か受験のミスだとかこういう問題が起きた時の受験生の反応がいつも被害者意識の塊のように見えて残念なのです(というより腹が立つのです)。「僕の
人生を返せ」とまで言ってるのを聞いたことがあります。受験生というのはいつだって被害者になる立場だから仕方ないけど、受験ってのは何ぼのもんじゃいと思ってしまうのです。受験が人生のオオゴト、人生はこの受験で決まる、なんてことはないと思うのです。学校なんて練習場で、失敗なんて取り返せるものなんだとみんなが思えれば受験生も楽に息ができるんじゃないかと思います。内田先生が前におっしゃったようにほんとに「学校の事は忘れてほしい」です。

投稿者 雪国のTT [TypeKey Profile Page] : 2006年10月30日 22:31

雪国のTT様。お返事ありがとうございますって、こういうやりとりも、ありですよね、内田先生!

いや、わたしも、重箱の隅をつつくような物言いになり、恐縮です。カルト化についての見識は持ち合わせていません。ただ、わたしは、そんなに先生の資質の影響は大きくないんじゃないかと、そんな気がします。制度に従順に見えて、それほど、今の高校生が食えるとは思いませぬ。といいますか、誰かのことを理解できていると思わない方が良いのではと思うのですが。つまり、そう現に言葉に出していっているとしても、本当にそう思っているとは限りませんし、本当にそう思っていたと本人が思っていたとしても、それだけが彼や彼女ではないという意味で。

官僚たちも、政治家たちも、教育を俎上にのせやすいというのはあって、その一つの背景には、今回のような「事件」があると、新聞の一面にものっておお騒ぎになるというのがあります。いろんな方がいろんなことを言うのならいいのですけれど、実際には、割と皆さんの話型は似通っていて、ようするに日本の学校(および学校行政は)だめじゃんっていう形のようなきがしまして。あと、メディアの生徒の声の取り上げ方にも、正直、(悪意のある)意図を感じてしまいます。どうも、世間は学校のことをほっておいてはくれないようで。

投稿者 demura [TypeKey Profile Page] : 2006年10月30日 23:03

 未履修科目を抱えて攻撃されている高校の教師です。担当者は自殺しそうなのであまり過激なことは控えるべきでしょう。(マスコミはマッカーシー旋風のときのような感じですね)
 ルールを守れ、というのなら守りうるルールを、可視的な状態で作るべきでは?
 何十万人(嘘でしょ。私学で耳にしているところではこんな数字じゃない。公立校も本当はもっとあるのでは)もの未履修者を出さざるを得ないのはどうしてか、世間のみなさん想像力が働かないのでしょうか?
 もともと土曜の授業をやめてあの単位数で、しかも大学入試対応を予備校や塾に委ねるのを潔しとしないとなると、土台無理なのです。
 それが証拠に、高校卒業検定試験の単位数設定を比較してみれば一目瞭然ではないですか。
 まあ、あの程度(検定試験程度)の単位数でよいのでは? あとは各学校長の自由裁量というのが、妥当なところだったのではないですか?
 そもそも生徒個人の自由裁量を増やせとか、規制緩和とか言い立てていたのはどの新聞社だったのでしょう。
 また各高校が、教育委員会とか監督官庁に打診せずにカリキュラムを決定するなんて、日本社会で普通考えられませんよね。当然、文科省、その前身の承認までいかずとも、暗黙の了解を受けて決めていっているはずですよ。
 それをいまさら…。自殺した校長さんもどうせならすべて明らかにしてくれればよかったのに…。
 内田さんの意見はもっともだとも思いますが、あまりにも近頃の高校生の実態とかけ離れた理解のようで、どこか違和感を感じました。
 まあ、内田さんは立派なお嬢さんたちだけを相手にされてらっしゃるから無理もないのですが。

投稿者 eggo [TypeKey Profile Page] : 2006年11月01日 01:14