ひさしぶりのオフなので、午まで寝て、家でごろごろしていたら、佐々木修一くんから電話がかかってきた。
修一は1970年代のなかばごろ、尾山台の小さなマンションで私が妻とふたりで暮らしていた頃に家によく出入りしていた「近所のナマイキ高校生」である。
「あんな連中とつきあっているとろくなことにならない」と彼の周囲の大人たちはたしなめていたが、これはもちろん周囲の大人たちが正しい。
大人のいうことは聴いておくものである。
さいわい、私は89年に東京を離れたので、修一も私の悪影響をまぬかれて、その後は(たぶん)まっとうな人生を歩んだはずである。
かつての高校生も、きけばもう44歳だそうである。
まあ、そうか。
でも、年月の経つのは早いものである。
仕事仲間の読書家から「ウチダイツキって知ってる?」と訊かれたので、「ウチダタツルなら知ってるよ。読んだことないけど・・・」と答えたそうである。
西宮に引っ越すことになったから、また会おうよというので、「おう、いいぜ。一杯酌み交わそう」ということになる。
そのあとばたばたと原稿を書く。
岩波書店の身体論をまず書き上げる。
これは三月末が締め切りでちゃんと締め切りに原稿を送ったのだが、「話がくどい」とクレームがついたので書き直しをすることにした(ほんとうのことなので反論しない)。
どうせ他の書き手も締め切り守ってないだろうとそのままほうっておいたら、さすがに七月になって、「もういい加減原稿送ってください」と言ってきたので、昨日今日でソッコーで書き直したのである。
そしたら、全然前の原稿と違う話になってしまった。
ま、いいか。
次に幻冬舎から出る加藤典洋さんの『村上春樹イエローページ2』の「解説」に取りかかる。
加藤さんは文藝春秋の『本の話』8月号に『私家版・ユダヤ文化論』の書評を書いてくれた。
加藤さんの書評の書き出しは、「昨年、内田樹がこの本のもとになる『私家版・ユダヤ文化論』を『文學界』に連載しはじめたとき、なぜいまユダヤ文化が問題なのか、うろんな筆者にはよくわからなかった」というものである。
加藤さん、それは加藤さんが正しい。
ぜんぜん「ユダヤ文化論」は「いま」問題だったのではないんですから。
『文學界』が連載をと言ってきたとき、たまたま大学の講義ノートがあったので、「ありものでよければ・・・」と急場をしのいだのである。
ところが連載が進んでくるうちに、「ありもの」のノートが底をつき、しかたなく毎月締め切り間際に必死になって思いつくまま書き飛ばした。
ネタが切れたので思いつくまま書き飛ばしているうちに、自分でも何を書いているのかわけのわからないことをずるずる書いてしまったのである。
その消息も加藤さんはみごとに看破して、書評の最後にちゃんとこう書いている。
「何より、著者にとって、画期的。それがこの本の偉いところであると思う。」
書き手が「なるほど、そういうことが言いたかったのか」と自分の書いたものを読んで得心するというのは(自分でいうのもなんですけど)だいたいよい本である。
書評に気をよくして、では私も『イエローページ』をめくって、「この本の偉いところ」をさくさくと書く。
相手があの加藤典洋さんなので、「偉いところ」を探すのは苦もないことである。
しかし、あまりほめてばかりも、芸がない。
芸がないのは(真実だから)かまわないのだが、加藤さんに「ウチダって芸のないやつだな」と思われるのは困る。
このあたりの湯加減が悩ましい。
うう。
投稿者 uchida : 2006年07月23日 20:29
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このリストは、次のエントリーを参照しています: 日曜だから原稿でも書こう(って先週も言ってたな):
» 内田樹『私家版・ユダヤ文化論』 from Letter from the wind 3
この数日、この本のことが気になって他のことが考えられなかった。 面白い本である [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年07月26日 20:38
» 私家版・ユダヤ文化論と加藤典洋と「他者」と from えこまの部屋
私家版・ユダヤ文化論 作者: 内田樹 出版社/メーカー: 文藝春秋 発売日: 2006/07 メディア: 新書 まだ読み始めて20頁くらいのところです。 ユダ... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2006年07月27日 21:51
何もしないで一回でサインインできました。(いつもはゲームを一回位して時間をつぶしてから戻ってきてサインインできたという確認をもらって入ります。)
びっくりしてご挨拶が遅れました。内田先生今晩は。オムツの話が面白くてそこにコメントしようと他のブログをちょっと見てきたら、原稿書きのお話になってました。
>芸がないのは(真実だから)かまわないのだが、加藤さんに「ウチダって芸のないやつだな」と思われるのは困る。
このあたりの湯加減が悩ましい。
等とお悩みにならないで下さい。いい振りこかないで。「悩ましい」と聞くとスケスケのネグリジェってしか連想が出てこない人間には何だか悩んでるのかどうか、世の中はこのごろ私とは言葉の使い方が違ってきたのだなと思うのです。
それはさておき私は子供を殆ど布オムツで育てて、年子だったので最盛期には日に70~80枚のオムツを洗っておりました。それはやはりちょっと大変でした。私はなかなか子供が授からなくて歳もいっておりましたし。姑はとにかく早くオムツを取るということに執念を燃やしている人で、長男は二年目の夏に無事パンツの子になりました。次男は祖母の情熱が及ばず、なかなかオムツが取れませんでした。(祖母は同居しているわけではありません)。私はただ単に二人の口の(言葉の)早い遅いに寄るものだと理解していましたが、そうですね、三砂先生が
断然正しい。だって口を聞けない人がみんなおむつをしてるわけではないのですから。何か信号を出しているのをキャッチできるかどうかという育てる側の感覚がものをいうのでしょうね。ただ、信号を出す側の性格もあると思うのです。今次男を見ますと、きっとオムツが濡れていてもあまり気にしないタイプのように見えるのです。ちょっと濡れても騒ぐ子と少しぐらいなら寝てるほうを選ぶ子といるのではないでしょうか。
私はフェミニズムというのはみんなが知っておいたほうがいい考え方だと思うのですが、子供を育てるとか、家事だとかいう時にあんまり女がそれをする(させられている)と思うのはどうかと思います。母親が母親がと何かにつけていわれますけど、
赤ん坊の周りにいるのは母親とは限らないし、もっとみんな、いろんな人が赤ん坊とか子供のそばにいるのだということを意識していなければいけないと思います。「赤ちゃんにはお母さんが声をかけてあげて」何ていわないでもらいたいのです。お産で死んでしまうお母さんだって今もいるのです。赤チャンのそばにいる人でいいじゃないですか。
論点が全部ずれているようなきがしますが、何か参加したくて、ごめんなさい。お邪魔しました。
先生こんにちは。
度々お邪魔してすみません。前回のお話の中で、「PC(Politically correct)」をお使いになっていますね。今までずーっと「政治的正しさ」をお使いになっていて少し気になっていましたが、やはりPCかアンPCの方が文章のノリが良くていいですね。日本でPolitically correctnessと同等の意味をもつ言葉は無いような気がしますが、それでもこの言葉がブレイクしないと言うのは、PCかアンPCかなんて気にしなくても世の中渡っていけるってことなんでしょうか?PC度の高さは民度の高さを表すと勝手に信じているのですが…。
話は飛びますが、一昨日ハリウッドのおばか映画「My Ex super girlfriend」をみて来ました。皆さんご覧になっているか存じませんが、ユマ・サーマンがちょっとcommunication disorderぎみのスーパーウーマン役で出てくるお笑い映画です。それにしてもユマ・サーマン、はまり役です。調べるとユマ・サーマンの両親は心理学者と大学教授っとコテコテなんですね。
投稿者 magnon
: 2006年07月24日 13:23
はじめまして。私が東京のIさんの奥さんのY子さんに、樹さんの著書のファンだと話たら、偶然お知り合いでした。が、樹さんは最近とみにモテモテで近寄れないということでしたので、思い切ってブログのコメントという手段に出ました。
オムツのお話は整体の創始者である野口氏が語っておられることですね。母親が子供の欲求を感じることは何も難しいものではないと思います。この「欲求への感受性」は武道においても相手の動こうとする「気」を感じて体が反応するということに通じていますし、易経の「兆し」を感じる力にもなりうると思います。この力を磨かずして…と思っていますが。
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