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2006年02月13日

言葉の力

「ゆとり」から「言葉の力」へ。
10年ぶりに全面改訂される次期学習指導要領で、学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることになった。
中教審で原案を示される「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤として位置づけられている。
現行指導要領の基本理念だった「ゆとり教育」は廃されて、「言葉の力」がこれに代わることになる。
2004年の国際学力調査の結果、日本の子どもの学力「二極化」が進行していることがわかり、読解力や記述式問題に学力の低下傾向が顕著であり、「学習や職業に対して無気力な子ども」が増えていることも指摘された。
この傾向を補正するために、次期指導要領では、言葉や体験などの学習や生活の基盤づくりを重視する「言葉の力」をすべての教育活動の基本に置くことになった。
具体的には、古典の音読・暗記や要約力の促進、数量的なデータを解釈してグラフ化したり、仮説を立てて実験・評価したりする力、感性を高めて思考・判断し表現する力など、国語力の育成と関連づけた論理的思考力や表現力の重要性を強調している。

文科省がようやく「当たり前」のことに気づいたようである。
これに気づくのに信じられないほどの時間がかかるというところに中央省庁の絶望的な非効率性は存するが、それでもお上が「まともな結論」にたどりついたことを一国民として多としたい。
文科省と平仄を合わせるように朝日新聞は先日から奇妙なコピーを掲げている。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
新大阪の駅でこのポスターを一瞥したとき、私は肌に粟を生じた。
できれば、こういうことを言う人間には言葉について語って欲しくない。
小田嶋隆先生は、このコピーについてたいへん厳しい指摘をされている。
「言葉のチカラ」というワーディングをよしとする言語感覚の貧しさについて、私が小田嶋先生に付け加える言葉はない。
しかし、私はそれ以上にこのような言語論(朝日は自覚していないだろうが、これは言語についてのひとつの党派的イデオロギーの宣言である)を掲げる朝日新聞にひとことの異議を申し立てておきたい。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というフレーズには「言葉は道具だ」という言語観が不可疑の真理として伏流している。
言葉は道具である。
だから、語り手は「感情」を言葉で吐露することができるし、言葉を凶器として用いて人を傷つけることもできる。
しかし、所詮は言葉にすぎないから、現実を変成する力はそれほどはない。
これは言葉を使う人間としての「自戒」の言に似て、「言語運用主体の無反省」をはしなくも露呈しているように私には思われる。
朝日的言語イデオロギーによれば、まず言語運用の主体がいる。
言語以前にすでに言語運用の主体が権利上存在するのである。
その主体には、言語以前にすでに感情があり、他者への害意があり、権力意志がある。
言語は、その主体の「すでに内在する感情」や「他者への害意」を現勢化するヴィークルにすぎない。
そして、言語の価値はそれが「無力」であるか「有力」であるか、現実変成の結果によって計量される(「ときに無力」であるという限定は、「ときに有力」である場合にしか使われない)。
有力であるのは(馬力の大きな自動車と同じように)「よい言葉」であり、無力な言葉は「悪い言葉」である。
わずか一行のうちにこれほど政治的な言語観を詰め込むのは、たいした「チカラ技」であるという他ない。
私はここに語られている言語観に同意することができない。
私が数日前に書いた「まず日本語を」という文章で申し上げたかったことは、どうやって言葉を効率的にかつ審美的にみごとに使いこなすかというようなことではない。
そうではなくて、「効率」とか「美」とかはたまた「批評性」とか「イデオロギー」というような世界分節そのものが言語によってもたらされたものであるという出発点を確認しただけのことである。
そこに書いたいちばんたいせつなことをもう一度繰り返す。
「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」
「言語の力」とは、「自分が何を言っているのかわからないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られる」事況そのものを指している。
言語運用の主体性は、まさに彼が今言語を運用しているという当の事実によって基礎づけられるのである。
ラカンによれば、私たちが語るとき私たちの中で語っているのは他者の言葉であり、私が他者の言葉を読んでいると思っているとき、私たちは自分で自分宛に書いた手紙を逆向きに読んでいるにすぎない。
「『文は人である。』私たちはこの俚諺に同意する。こう付け加えるという条件なら。『文は(宛先の)人である。』(・・・)言語運用において、私たちのメッセージは〈他者〉から私たちに到来する。ただし、順逆の狂った仕方で(sous une forme inversée)」(Jacques Lacan, Écrits I, Seuil, 1966, p.15)
朝日新聞のコピーライターが『エクリ』を読んでいないことを私は責めているわけではない(その邦訳は「ある種の絶望が具体的なかたちをとったもの」であるから「読めた」人がいることの方が奇跡である)。
しかし、ラカンが書いていることはすこしでも集中的に言葉を書き連ねた経験のあるものなら直感的に知っていてよいことである。
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なのだ。」
「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことである。
早熟の書き手なら十代でそれを経験する。
「言葉の力」には言葉に対する畏怖と欲望、不安と信頼とがないまぜになっている。
言葉を単なる主体の思考や美的感懐の表現手段だと考えている人々は「言葉の力」についに無縁な人々である。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というようなことを言える人間は、彼のイデオロギーやドクサや民族誌的偏見がその当の言語によってあからさまに表現されているという事実に気づいていない。
言語は私たちを幽閉している檻である。
当然ながら、自分が檻に幽閉されていることを知らない人間は、決して檻から出ることができない。
彼の目には鉄格子が「世界の終わり」であり、鉄格子の手前までが全世界だからである。
彼はその世界では100%の自由を満喫することができる。
自分を「言語の主人」であると思い込むことによって人は「言語の虜囚」となる。
あるいは「言語の虜囚」になることを代価として「言語の主人」であるという夢を買うことができる。
バートランド・ラッセルはウィトゲンシュタインの『論理哲学論』の序文にこう書いた。
「私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。」(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論』、山元一郎訳、中央公論世界の名著58,1971年、319-20頁)
朝日新聞のコピーライターがウィトゲンシュタインを読んでいないことをも、もちろん私は責めているわけではない。
しかし、思考するとはどういうことか、それを言葉で表現するとはどういうことかについて、少しでも深く考えたことのある人間なら、自分の言葉が自分の世界の境界であるということについての痛覚や病識はあってよいはずである。
私が「まず日本語を」ということでいいたかったのは、「日本語話者として私たちは自由に日本語を運用できており、それを用いて自由に感情を吐露したり、人を傷つけたりできているし、ときどき現実をすこしだけ変革することもできている」という道具的・カタログ的言語観(「ソシュール以前的」という意味では100年古く、「マルクス以前的」という意味では150年古い)と決別すべき時が来ているのではないか、ということであった。
「言葉の力を恐れる」というのはそのときに私たちが取るべき立ち位置である。
それは朝日新聞がいうような「言葉のチカラを信じる」構えの対極にある。
中教審の「言葉の力」路線も、それが学力や知力といった文化資本を獲得するために言語を功利的に活用すること以上のものではないのなら、朝日新聞と言語観の貧しさにおいて選ぶところはないが。

投稿者 uchida : 2006年02月13日 12:14

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コメント

これは朝日新聞の全社的な議論から出てきた言語観ではなく、広告代理店かその下請けのコピーライターが考えたコピーの可能性が高いと思います。そういうものを朝日新聞社とイコールで結んで粘着に叩くのは大人気ない気がします。

また教育についての文部科学省の新しい方針を極めて高く評価しておられるようですが、初等中等教育の実践というのは(おそらく内田さんが生業としている高等教育についても同様だと思いますが)内田さんのようにとても頭のいい人が取り組めば必ず成功するというような簡単なものではなく、長い時間をかけてより良いやり方に近づいていくしかない、非常に効率が悪いものだと私は考えています。日本列島で近代教育が始まって150年ほど経ちますが、先人たちはその時々で悩み抜いた結果、これが多分一番良いと考えて教育政策を決定してきたのでしょうから、彼らの試みを大所高所に立って後出しじゃんけんのように侮辱するのは、あまり品の良いことではないように感じます。

たしかにこれまでの日本国の教育政策はどの時期をとっても功罪相半ばする、決定版といえるようなものではありませんでしたが、それは社会が変化し続けている以上しょうがないと私は考えています。教育政策は常に社会に先手を打たれます。高段者相手に置き碁を打つようなもので、敗北が宿命づけられていると言ってもいいくらいです。きっと今度の方針もどこかで現実に置き去りにされることでしょう。内田さん自らが文部科学大臣になって何かやったとしても同じことです。現場に行けばそんな一つの方針だけで通用するわけもなく、結局はその場その場で場当たり的にしのいでいく、それで何とか破綻を回避するということが永遠に続くのです。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 13:51

追記:

きちんとした社会調査データ(量的・質的)に基づかない、外野の無責任な教育談義が日本の教育政策決定に大きな影響力を持っている現状を批判した面白い本が出ましたので、お時間があるときにでもお読みになると、また一つブログの話柄になるかもしれません。

岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』講談社新書(2006年1月)

著者は文部科学省の現役課長さんです。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 13:57

私も昨日、電車で同様の朝日新聞のポスターを見ました。
得体の知れない違和感や嫌悪感を覚えて、モヤモヤして、
車内で何度も何度も読み返していたのですが、
その原因がようやく分かったような気がします。

投稿者 araki [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 14:58

朝日のCM は、なーんか「ケッ」と思っていたのですが、しみじみ納得しました。

>広告代理店かその下請けのコピーライターが考えたコピーの可能性
可能性ではなくマンマそうでしょうね。間違っても社主が書いた物ではないでしょう。しかし選んだのは誰か?ダサい服を着ている人を「デザイナーが悪いんだから彼はダサくない」と言って擁護しているようなものですよ?

>彼らの試みを大所高所に立って後出しじゃんけんのように侮辱する
批評活動は総て「後出しじゃんけん」でしょう。それを否定されてはただのファッショですな。

投稿者 mamodolian [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 15:00

>広告代理店かその下請けのコピーライターが考えたコピーの可能性が高いと思います。
>そういうものを朝日新聞社とイコールで結んで

朝日新聞が内容も吟味した上で責任持って使ってる文言のはずですから(そうでないと「ジャーナリスト宣言。」とやらを初手から裏切ってることになりますし)、朝日新聞社とイコールで結ぶことに何の問題があるんでしょうか。
というより、一応イコールで結んであげないといけないんじゃないですか?
この「宣言」は、朝日新聞社が「我々の活動をこのようにみてほしい」という希望を託したものなんでしょうから。

>彼らの試みを大所高所に立って後出しじゃんけんのように侮辱するのは、

大所高所に見えるのは、内田先生もあなたも私も変わらないわけでして。
侮辱って、無理に挙げても「当たり前」「絶望的な非効率性」くらいしかないですけど、これって侮辱ですか?
一番気になるのは、後出しじゃんけん。批評として仕方ないのでは…。「長い時間をかけてより良いやり方に近づいていく」ためには必要なものじゃないでしょうか。

投稿者 MMR [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 17:02

あ、mamodolianさんが既に書いてるんですね。
引用してる箇所まで同じとは…。失礼いたしました。

投稿者 MMR [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 17:03

このコピーめちゃくちゃ評判悪いですね。私の脳内には以下のように聞こえてきました。

まあみんな、最近いろいろ叩いてくれるけどね、俺たちが仕事で扱っている「言葉」ってのは、なんやかんや言っても崇高なもんなんだよ。いろいろ問題はあるにせよさ。つまりそういう「言葉」ってものを扱って皆に披露するっていう立場にいる自分に誇りを感じているんだよ。うん、俺たちジャーナリスト。もっと社会的に尊敬されてしかるべきだと思う。評価されるべきだと思う。あーわかってくれないかな?でもはっきりとここでそれが正しいってことを宣言しておくよ。反論は認めない。ジャーナリスト宣言。以上。

基本的に自己無批判な押し付けがましさというかエゴイズムが透けて見えるのが非難される共通項だと思いますが、これならまだ、ゴーマニズム宣言のほうが、同じ押し付けでも正直で、本人もわかって開き直っているんだなと論理的整合性が感じられるので、さっぱりしていて気持ちが良いですね。
確かに「TVのチカラ」やら「ゴーマニズム宣言」の言語感覚を引きずったコピーライターが書いたのでしょうが、よく朝日のひとたちは、OK!これでいきましょう。ってなったなと、感性が磨り減るところまで磨り減ってるのだろうと思いました。朝日はどこまでいくのだろう。やはり株主の相続関係で資本が変わらないとどうしようもないのでしょうか。

投稿者 KEN [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 17:32

なるほど。朝日が採用したんだから朝日が責任を持つのは当然だという考え方ももちろんありますね。それはそういう論法で朝日を問いつめれば、朝日も黙るしかない程度に筋が
通っていると思います。ただ、私が感じたのは、「そこまでネチネチ絡まなくても良いんじゃないの?」ということですね。内田さんの言語哲学を披露したいのか、「朝日ってこんなにバカなんだよ。みんなでバカにしようね。」と言いたいのか。おそらくその両方なんだと思いますが、たしか内田さん自身が、ちょっと前までは何かをバカにしてみせることが知識人の世界では流行だったが、これからはもうすこし謙虚な姿勢でいくほうが良いんじゃないかと主張していたのでは。ですから、せっかくそういう良い提案をされたんだから、朝日とか教育行政といった、昨今の「叩かれ役の定番」を並べて嘲笑してみせる必要は無かったんじゃないかと。

批評は後出しじゃんけんだからしょうがないというご指摘もありますが、私が言いたかったのは、後出しじゃんけん+罵倒・慨嘆・嘲笑は品が無いんじゃないのということです。もちろん批評は本質的に後出しじゃんけんですが、これまでの教育行政を批評するのであれば「この点は良くなかったのではないか」と指摘すればそれで批評として成立するわけで、それ以上の揶揄(「信じられないほどの時間」「絶望的な非効率」などなど)は、むしろ教育の実務に携わっている人々に内田さんの批評が到達するのを妨げる方向にしか作用しないのではないか、と私は思ったのです。

あと、私は朝日ではなく毎日の愛読者ですが、朝日は朝日的であって良いと考えています。言葉というものをいかに考えるかにしても、朝日は伝達のツールとして言葉を捉えて、そのような立場からジャーナリズムに取り組むというのであれば、それはそれで構わないのではないかと。むしろ、これだけ朝日的なものに逆風が吹いている中で、敢えてここまで気恥ずかしい宣言をしてみせた、という意気やよしと思いますね。そうか、あんたも大変だろうが頑張れと思う。

ラカンとかウィトゲンシュタインの言語哲学は立派なものですが、誰もがそれをふまえていなければというものでもないでしょうし。名前は忘れましたが、認知考古学の人の書いた論文で、ネアンデルタール人とクロマニヨン人の違いを「言語は相手の脳を操作する道具である」というテーゼを立てて分析したものを読んだことがあります。また、技術翻訳の世界も言語=ツール的な言語観に近い立場で回っている印象があります。どちらもそれでそれなりの成果を出しているわけです。それと同様に、朝日がジャーナリズムの全てというわけでもないのですから、「ああ、そういう立場もあるのね。」と大目にみておけばそれで良いんじゃないでしょうかね。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 17:37

mamodolianさん、MMRさん
加藤さんの、教育の泥臭そうな現場からの視点を、そのような「そう言うあなたの方こそ」的な反論の仕方で無下にしてしまうのは、とても公平ではないとおもいました。

投稿者 inouetaichi [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 17:43

言葉を恐れる(畏れる畏怖する)
言葉を信じる(過度な楽観的希望、確固たる理由のない盲信)

言葉という諸刃の剣を手にしたときに、その武者が道具を扱いきれるか否か。この剣はこんなにすごい、すごいはずだと剣を振り回している自分はなんかすごく感じるし、皆の注目も浴びている、っていうのはよくある雑魚キャラが自己破滅するパターンだ。今回の宣言は俺はこんなすごい剣を持っている。諸刃で皆が扱うには危ないからねという宣言=アピールだとまとめなおしました。
エゴイズム、ナルシズム、自己顕示欲、自己批判性の欠如、人の解説を読めば読むほど嫌な味がするコピーですね。このエントリでまた再評価しました。

投稿者 KEN [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 18:00

私が公平でない人間なのは確かだし、無下にしてるのも確かなのでご指摘は深く受け止めたいところなんですが、
ちょっとわからないのは公平でないと言われる根拠でして、私の書き込み(mamodolianさんのも)のどのへんが「『そう言うあなたの方こそ』的な反論」なのかという点です。

「そう言うあなたの方こそ」というのは、例として挙げると

①「そこまでネチネチ絡まなくても良いんじゃないの?」←あなたの方こそ
②私が言いたかったのは、後出しじゃんけん+罵倒・慨嘆・嘲笑は品が無いんじゃないのということです。←有害な後出しじゃんけんがあるとすれば、こういうのじゃない?
③「ああ、そういう立場もあるのね。」と大目にみておけばそれで良いんじゃないでしょうかね。←あなたの方こそ

とまあ、こういう感じのものであって確かに公平でないんですが(というか不毛ですね)、そんな種類の反論はしてないはずなんですが…。

投稿者 MMR [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 18:13

はじめまして。初めて書き込みさせて頂きます。
私は基本的にブログ内容に賛成なのですがそれは以下の理由によります。
【学校教育内容について】
①「ゆとり教育」思想の土台の一翼を担う「生きる力を養いたい」という部分は、私自身非常に好感の持てるものでしたが、残念ながらそれが現場で的確に機能し得たかというと疑問が残ります。その他諸々理由はありますが、私は基本的に「ゆとり教育」には期待していませんでした。これに対し、今回の方針変更では、文科省は前回の抽象的/理想主義的な視点からより現場の視点へと変えた(つもり?)なのではないかと思います。今回の方針変更は、人間が「学習」というものを行う上での、根本部分の主要素である「言語」に立ち返った点を、私は評価します。
②ただ、文科省の方針変更って、毎回同時代の流行(というと語弊があるかもしれませんが)を追っているように見えてしまい(結果論ですが)、物足りなく感じるのも事実です。勿論、これはシステム上、仕方の無いことだとは思いますが。
③内田先生のブログ内容に、私は基本的に賛成しますが、現場で実際に試行錯誤なさってきた方の視点に立って考えると、別の表現の仕方があっても良かったかなとは思います。やはり、文科省の基本方針が変更されて大打撃を受けるのは、他ならぬ現場の先生です。一部のメディアでは、総合学習の時間がただの無駄な時間になっている等の指摘があり、批判の対象にされたことがありましたが、それは一部の先生によるものですから。加藤さんのおっしゃる内容というのは、そういう背景をお持ちの方のご意見ととらえるべきだと思います。ただ、現場と上層部のすれ違いがここまではっきりと見えてしまうのは、悲しいですね。立場の溝を埋める方策が実施されてないんでしょうか。勿論、現状でもある程度の方策は実施されてるでしょうが、足りないということなんでしょうか。

④加藤さんのおっしゃる

初等中等教育の実践というのは(おそらく内田さんが生業としている高等教育についても同様だと思いますが)内田さんのようにとても頭のいい人が取り組めば必ず成功するというような簡単なものではなく、長い時間をかけてより良いやり方に近づいていくしかない、非常に効率が悪いものだと私は考えています。

という内容は、現場の方らしい意見だと思います。基本的に私もこの内容に賛成しますが、「頭のいい」内田先生という言い方が皮肉っぽくて、これがまさに「言葉というものは、それを発する人間が用いる道具である」ということの表れだと思います。

【朝日新聞のコピーの件について】
①朝日新聞のコピーを、コピーライターが書こうが社内の人間が書こうが、文責はすべて朝日新聞にあるはずです。少なくとも、活字メディアである朝日新聞は、こういった自覚を持っていて欲しいと思います。
②当然のことながら、朝日新聞は「情報を発する」立場にあります。情報を発する側の人間というのは、自分たちの用いる表現手段/道具(今回は「言葉」ですね)の「強さ」「弱さ」「危うさ」等、あらゆることに精通し、表現する必要があります。アマチュアレベルであれば、それは批判の対象にされる必要はないと思いますが、プロであれば当然のことです。つまり、ネチネチ言われなければならない立場に、朝日新聞はあると私は思います。
③KENさんは、今回のコピーを「言葉ってのは崇高なんだよ」という意識から出てきている、と指摘なさってますが、私自身としては、「言葉の残酷さ、危険性、影響力の強さ、そしてそれを操る自分に課せられたものの重さといったものをある程度認識している人間が、結局それを血肉化できないレベルのまま『なんとなく』のレベルで出してしまったコピーである」と考えています。これをコピーライターが作成し、プレゼンしたであろう時までは笑って許せますが、出されてきたこのコピーを、なぜ朝日新聞側が許したのか? その「言葉に対する感性の低さ/意識度の低さ」こそが問題だと思っています。この点が、これまでの朝日新聞の問題に繋がっているように思えてならない。だから、我々情報の受け手側が、ネチネチと言い続けていかなければならないと思っているわけです。

投稿者 somewhere else not here [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 20:25

あるコメントの中から、丁寧な言葉づかいに
かかわらず、刺々しい感情が感じられました。

このエントリーで挙げられたテーマが早速ぶち壊しに
なってしまっている気がして悲しいです。

とはいえ、自分もまた言葉で人を無意識に傷付けているだろうと
思うと空恐ろしくなります。

注意深くなりたいと思います。

投稿者 meso [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 20:28

まあ、お互い言葉の不完全な使い手ということで。
もちろん私は皮肉も多少まぶして内田さんの明晰な頭脳に言及しましたしね。
そこで皮肉をまぶさなければ良かったのかどうか、私はよくわかりません。
外野から頭のいい人が華麗なレトリックを駆使して「お前達はわかっちゃいない。教育ってのはこうするもんだ。」と色々言うばかりで、しかもそんな意見ばかりが注目されるのは現状ではゲインよりロスのが大きいという苛立ちも影響したかもしれません。そこまで偉そうに語るんならお前らてめえでやってみろというね。
そもそもみなさんが「ゆとり教育」という言葉でわかった気になっている一連の教育政策が、実はその淵源は「ゆとり教育」ではなく、それより前に出てきた「新しい学力観」にあったというような事情、みなさまご存じでしたか? あるいは「総合的な学習」の内容を規定する中教審のログや指導要領のわかったようなわからないような文言、読んだことありますか? 教育学上の何かの思想に依拠するでもなく、あるいは精緻な学術論文の形で提示されるでもなく、漠然としたアイデアのまま現場に降りてきて、1ヶ月とか2ヶ月の準備期間でそれに乗っ取った年間指導計画を出さなければいけないとかね。無惨なものです。それをなんとかつじつまを合わせる為に命を削っている人々を知っているだけに、「じゃあ、具体的には何をどうするか」を示さない、現場をリスペクトしない外野の無責任な教育談義には、苛立ちがつのります。

そこで内田さんに提案なのですが、内田さんご自身で、国語科でも総合でも何でも良いですから、現場の教員と共同で指導案を作って、それを1年かけて実践して(単発の授業をゲストでやるだけでは、現場の教員の仕事内容は理解できません)、その結果も踏まえて教材集のような、実践に直接役立つような本を出してみませんか?

実践とは直接リンクしない教育論を上手に書けることは良くわかっていますし、そういった諸々の仕事の価値も理解していますが、ものは試しで教科教育法研究者のまねごとをやってみたら、きっと凄く面白い、前代未聞のものが生まれるんじゃないかと予想します。どうでしょうか。ご自身の身体で初等・中等教育の実践を経験してみては? ここは皮肉抜きで書いています。むしろ、旧態依然とした何の工夫も汗かき仕事もしない教科教育学者にハーフネルソン・スープレックスを叩き込むような、門外漢ならではの一撃を切に望みます。

朝日については、既に水に落ちた犬を原則論を振りかざして小突き回してストレス解消してもあんまり気持ち良くないなと個人的に思っています。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 21:06

はじめまして。
今回のテーマを読み、ある言葉を思い出しました。その言葉とは、就職活動をしているとき大学の先輩にもらった東京の地図に、その先輩がこっそりと忍ばせていたメモに書いてあった言葉です。
『言葉を大切にしない人は、他のことも大切にしない。ーーある精神病患者の言葉』
言葉の力を信じることは、言葉を大切にすることと同じではないように思います。そして、言葉を大切にすることは、言葉の力を知ることであり、言葉の力に注意することなのではないかと思います。
今回、朝日新聞社の宣言やここでの一連の議論からわたしが感じたのは、世の中には、『ものを壊す道具としての言葉』を持つ人と、『ものを創る道具としての言葉』を持つ人がいるのではないかいうことです。どちらの『言葉』も同じ境界線上にありながら、同じ『言葉』でありながら、違うエネルギーを持っています。ある人の外に向かうエネルギーと、内に向かうエネルギーと言って良いのかもしれません。
僕は、ラカンもウィトゲンシュタインも読んでいませんが、今回の朝日新聞社宣言には、暴力的なものを感じます。あまり美しくない、革命のための文章を読んでいる気になります。しみ込んでいく言葉ではなく、はじく言葉のように感じます。
とはいえ、資本主義という仕組みから生まれた利益追求のためのコピーライトは、暴力的にならざるを得ないのかもしれません。言葉を大切にしたいと思う僕には、とても嫌なことではありますが。

追記:内田さんは、「朝日ってこんなにバカなんだよ。みんなでバカにしようね。」なんて、それほどは、思っていないと思います。僕が思うに、内田さんは、朝日新聞社の物言いに限らず、『影響力や権力をもつところが、言葉を大切にしていない』ということに対し批評や批判をしているにすぎないのではないでしょうか。『言葉を大切にしない』ということは、朝日新聞社だけの問題ではありません。問題なのは、『朝日新聞社』の宣言が取り上げられたことではなく、『朝日新聞社の宣言のような物言いが世の中にある』、ことです。

投稿者 Bon [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 22:15

そうですね。内田さんは朝日を槍玉にあげつつも、より普遍的な話をしているのだとは思います。その匙加減が、私個人には塩辛すぎたということでしょう。俺ならそこまではやらないなという話かもしれません。

しかし、朝日のそのコピー、そこまで袋だたきにするほどのものでしょうかね。たしか私が初めてこのコピーに接したのは、朝ご飯を食べている時に目にしたCMだったと思いますが、「な、なんだなんだ? 何が始まったんだ?」と困惑した記憶があります。困惑はしましたが、そうか、じゃあその言葉の力とやらを信じてやれるところまでやってみるが良いとも思いました。私は、世の中から朝日的なものが消滅するよりは、朝日は朝日として朝日道を貫いて存在している方が、幅が広くて良いんじゃないかと思っていますから、朝日がそう言うんならやらせてみようじゃないかと言いたいですね。少なくとも彼らのうちのいくらかは、それで世の中を彼らなりのやり方で良くしていきたいと思って、実際に何事か取り組んでいるのでしょうから。それについては、何もしないで批判だけしている人より絶対に偉いし正しい。と私は思います。一つの正しい言語観と社会観と取り組みの手法があるわけじゃないですからね。特に最近はナベツネを『論座』に呼んだり、保守論壇誌の編集長を呼んだり、なかなか面白いこともしている。朝日選書からもわりと面白い本が出ている。妙なコピーを世に出したからといって、そういう取り組みの価値は私にとっては減じないです。朝日の中にも良いところと悪いところがある。コピーについては賛否両論あるでしょうが、「だから朝日は駄目なんだ」とは私は言わない。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月13日 22:51

Bonさんの言葉は美しくて、なおかつ強いですね。一度お会いして、酒を飲みながら話をしたい衝動にかられます…。Bonさんのおっしゃる内容に、私も賛成です。ただ、私なりに思うところとしては、「ものを壊す道具としての言葉」を持つ人間と「ものを創る道具としての言葉」を持つ人間に分かれるというよりは、各々の人間がその局面において双方を使い分けている、そしてその行為に対して無自覚でいる人間が多い、ように感じました。
加藤さんのおっしゃる「だから朝日は駄目なんだ」という主張の中に私が入るのかどうか分かりかねているのですが、私個人としては「だから朝日は駄目だ」と早計に結論を出しているのではなく、言葉を扱う人間が集まっている会社のコピーとして、もっと言葉として「スキのない」言葉を使って欲しいといったところです。言葉を適切に使おうとする真摯な姿勢が感じられないと私は思ったので、それがこれまでの問題に繋がってるのでは?と勘ぐってしまうということですね。
さて、失礼は承知の上で質問させてください。実は私も、つい最近まで教育関係(国語)の職に就いていたのですが、

そもそもみなさんが「ゆとり教育」という言葉でわかった気になっている一連の教育政策が、実はその淵源は「ゆとり教育」ではなく、それより前に出てきた「新しい学力観」にあったというような事情、みなさまご存じでしたか?

の件、ご説明頂いても良いですか?(不勉強ですいません)

投稿者 somewhere else not here [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 01:09

加藤さんにひとつお伺いしたくコメントさせていただきます。

加藤さんは「なるほど。朝日が採用したんだから朝日が責任を持つのは当然だという考え方ももちろんありますね。」と書かれています。これについてしばらく考えてみたのですが、私は「朝日が採用したんだから朝日が責任を持つのは当然だという考え方」以外の「考え方」をちょっと思いつきません。

加藤さんご自身は、「という考え方ももちろんありますね」とおっしゃっている以上、他の「考え方」も「もちろん」あるとお考えだと思うのですが、その点について少しお聞かせ願いたいと思います。

「大人気無い」かもしれませんが、それほど軽くない問題に思われましたので。

投稿者 Hamlet [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 01:51

加藤さんのおっしゃることは既に「私が」「私個人が」「私にとっては」等々、もはや他人が口を出すべきでない領域にあるのでそれで結構なのですが、
誰が話者であるかにかかわらず言っておきたいこと(というより、放っておくのが怖いこと)が2点あります。

①Hamletさんが疑問に思われた「朝日が文責を持つ」以外の考え方についてですが、これはやはりありえないでしょう。
朝日新聞社は、このコピーについて自ら主体として批判等を受けたいと望んでいるはずなのですが(ですよね?)、「朝日に文責がある」としない限り、朝日から責任を剥奪(免除ではなく剥奪ですよね、この場合)することになってしまいます。
それはとても危険なことです。

②「現場」について。内田先生は大学におけるリメディアル教育に腐心されている様子を何度か各所でお書きになっています。つまり、初等中等教育がうまくいかなかった場合、ダイレクトかつ深刻な影響を受ける立場にあるわけです。ある意味で「現場」と見ることもできます。
そういう人間の言うことまでを排除して、「かなり狭義での現場」を知る人間にしか批判を許さないのは、やはり危険なことでしょう。

投稿者 MMR [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 04:00

簡潔に。

「朝日以外の誰が責任を問われるべきか?」

私は最初に申し上げた通り、広告代理店やコピーライターと朝日のどこかの部局が(もちろん経営陣の了承を取ったのでしょうが)思いついて公開したコピーなのでしょうし、そういう広報活動はどこの会社でもやっていることですから、現時点で青筋立てて問いつめるほどのことではないと苦笑いしているのです。まあ、敢えて言うなら、今後の朝日、未来の朝日がどれだけ有意義なジャーナリズムを実現したかが、このコピーとの関わりで問われるべきかもしれないですね。そういう意味では、コピーの責任を問われるべき主体はこれから出現するんじゃないかと。

「新しい学力観」については、ネット検索なり専門書を読むなりしてご自分で調べてください。ゆとり教育との関係や、新学力観の功罪については既に数多くの議論があります。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 06:48

私なりに簡単に整理すると、

1.言葉の力というものの重要性を再認識したい。文科省もやっと国として本腰をいれるようだ。
2.教育もそうだが、新聞をはじめとする言論界には特によい「お手本」になってほしい。
3.しかし、かつて天声人語等で美文と呼び声が高く、国語入試問題引用最多を謡う朝日の「言葉のチカラ」キャンペーンはひどいもので、「お手本」には程遠い体たらくだ。
問題点
a.このジャーナリスト宣言キャンペーンはそもそも朝日新聞社をあげての宣言なのだから、その文面を言論機関がコピーライターなどに外注する行為自体が言葉の力を過小評価しており、言葉にたいする責任感のなさのあわられである。言葉のプロを自認するキャンペーンの文句は言葉のプロ自身がやれ。
b.最終的にこのコピーを採用する感性とその裏の体質。

投稿者 KEN [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 10:19

つまり諸刃の剣を扱っていますよ、と宣言しながら、その宣言において、諸刃の剣を他人に振らせているわけです。そういう危険物管理の責任の所在も含めて諸刃の剣の使い手であるべきだろうと。

投稿者 KEN [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 10:27

えーと。気になった点。
内田先生は大学教師(あえて教師と書く)ですが、それは教育の現場にいないのですか?と言う点がひとつ。

内田センセの口が悪いのは今に始まったことではないのになにをいまさら…がひとつ。

朝日新聞ってブログひとつで吹っ飛ぶような弱小新聞社なの?って点がひとつ。

加藤さん、どうよ?

投稿者 mamodolian [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 10:29

コピーライティングに関して、糸井重里氏が、「いま、僕がどれだけ『この水はうまい!』と言っても、それを見ている人たちはそんなに真剣じゃないんだっていうことを、まず理解することが重要なんですね」と語られていて、「様々な視線を持つ他者がいる」ということを理解することが始まりとなるそうです。朝日新聞のCM、コピーなんかは、新聞を取る余裕がない自分にしてみれば、過激なパフォーマンスだな、というのが「私の世界の境界」である感が致します。

投稿者 daiaku [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 11:25

初めまして、
なんだか割り切れない気分が抜けないので投稿致します。

おおむねMMRさん、KENさんのご意見に賛同するものです。
あの朝日のコマーシャルのシーンを見るにつけ、思わず目を背けていました。
最近の朝日に何となく不信感を持っていた所だったからです。
これを例えばDaysJapanの方や『世を倦む日々』のテサロニケさんや『きっこ』さんがいうなら解るのです。
リスクを背負った人の言葉なら未だ聞く事ができます。

あのコマーシャルを見て単純に「あんた、誰よ!!」って思ったものです。

朝日は最近の野口氏の事件についてさえ、「自殺と言ってるのだから自殺でしょう」などという発言で、世論の沈静ばかりに荷担しています。
あのコマーシャルの言葉は、なにか『騙されないぞ!』と言う気分にさせるのです。
未だ、日清のコマーシャルの方が素直に見る事ができました。
何故なのかな〜?と思うのです。

変なたとえですが、
ナベプロがボブ・ディランや、高田渡を模倣したシンガーを売り出そうとしている世論作りのキャンペーン、
みたいな、
プロテストソングの捏造ような妙な感じを受けるのです。


もっともらしい姿の向こうに一体何があるのか?
敏感な人には、何とも気持ち悪く見えるんじゃないですか?


それから内田先生は口が悪いのは周知の事で、
まさに現場の教育者として、苦慮配慮なさっていると思います。

投稿者 yamamomo [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 11:53

内田さんが大学でどういった教育をされているのかは私は知らないので、詳細な比較検討は出来ませんが、初等・中等教育の場合、特に公立校ですと、

・学習指導要領が定めた学習内容に沿っていなければならない
・教育委員会の指導にも(事実上は)絶対服従しなければならない

という、かなり厳しいハンデがあるかと思います。全国の都道府県がそうなのかは知りませんが、学習指導要領の定める所をいかに教えるのか、指導計画として教育委員会に提出して了承を得なければならないという制度を導入している所もあります。もちろん、教育委員会が諾と言うまで、何度でも書き直しを命じられる書類です。さらに教育委員会から、定められた教育内容を実施しているかチェックする査察が現場に(しばしば抜き打ちで)やって来ることもあります。

これは、学級制+ギャラリー型教室という、近代の初等・中等教育システムが持つ宿命(教育内容のナショナルミニマムを確保しなければいけない)でもあるのですが。

以下は余談です。

 問題なのは、このように制度によって極めて限定された選択肢しか現場の教員には与えられないにもかかわらず、その時代時代で中心となる教育思潮・カリキュラム(「新しい学力観」「ゆとり」「総合的な学習」などなど)をいかに実現するのか、具体的なマニュアルが概ね準備されていないということです。

 たしかに「新しい学力観」も「ゆとり」も、今度のなんとかも、良いことを言っているんです。一つの教育観として傾聴すべき点を豊かに含んでいる。しかし、それらの思想をいかにして現場の実践に取り込み、教育の成果を上げれば良いのかは、実際のところ現場に丸投げです。設計図だけ渡されて、部品製造や工程といったソリューションはお前ら考えろといようなものです。そのたびに現場は右往左往してソリューションをいちから試行錯誤していく。ところが、そのような過程において、早くも「識者」や評論家、マスコミ、ネット世論などが、「成果が出ていない。今の教育思潮はおかしい。」という攻撃を開始します。そしてまた制度がいじられ、ソリューションなき方針変更が降りてくる。

 そういう、かなり間抜けなループを描きつつも、全体としてみれば、日本の公教育は、20年前、10年前よりマシな方向に向かっていると私は考えています。制度上、数々の問題を抱えているし、個々の実践のありようも、まだまだ向上の余地は多いにあるにせよ。

 私は、そうやって日本の公教育を支え、わずかずつでも前進させてきた人々を尊敬しているので、外野の評論家というポジションから毒舌をかますのは自由ですが、少しは彼らへの敬意というものも持って欲しいなと感じた次第です。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 12:29

誰の責任、誰が悪い、あなた・・したら、 など
感情的な議論?が続いていますね。

今日はバレンタイン、甘ぁいチョコでも食べて
一呼吸しませんか。。。

投稿者 MTSY [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 13:33

内田先生がこの記事で軽く触れられたのは「中央省庁の絶望的な非効率性」であって、「現場の実践」に関しては何の揶揄もされていないと思うのですが気のせいでしょうか?
内田先生も「中央省庁の絶望的な非効率性」と「現場の実践」を一枚岩なものとして捉えているわけではないと思いますよ。
どちらかと言えば加藤さんと同じように、「中央の思想が現場に反映されるまでのギャップ」を問題にされているのだと思います。
その理路は以下のようなものです。

具体的には、古典の音読・暗記や要約力の促進、数量的なデータを解釈してグラフ化したり、仮説を立てて実験・評価したりする力、感性を高めて思考・判断し表現する力など、国語力の育成と関連づけた論理的思考力や表現力の重要性を強調している。

といったことが「言葉の力」のための方策として揚げられているわけですが、これって「ゆとり」云々に比べれば遥かに分かりやすい方針ではないでしょうか?
「ゆとり」云々が問題だったのは、その抽象的な思想と現場の実践との距離が大きく離れていたことにあると思うのです。
その点、今回の「言葉の力」の思想は現場の実践に大きく歩み寄った方針とは言えませんか?

「ゆとり」って教育にとってはあくまでもサブで、メインは「言葉の力」だもんね。
そのサブがあまりにも足りなさ過ぎるってことでこれまではサブを強調してきたんだけど、強調しすぎたせいで今度はメインの方が危うくなってきてるよね。
これからはサブの方は口うるさく言わないからさ、本来のメインの仕事に専念しちゃってくださいよ。

「現場への無茶な要求を取り下げた」という風に「言葉の力」を捉えて評価したのかもしれませんよ。
どちらにしても、内田先生の記事から「中央省庁の注文に右往左往させられている現場の人間」への揶揄は感じられないと思います。
「中央省庁の注文と自分の信念を同一視させている現場の人間」なら腹を立てるかもしれませんが、内田先生が皮肉ったのはあくまでも中央省庁の方です。
私見ですが、現場の人間に対しては逆にフレンドリーな意図すら感じられますよ。

投稿者 鉄兵 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 13:48

直近の加藤さんのコメント、さすがにこれはちょっと…。

「内田さんが大学でどういった教育をされているのかは私は知らない」と言いながらも公立小中学校との差異を言いたて、「日本の公教育を支え、わずかずつでも前進させてきた人々」から除外するどころか、現場の教育者であることも認めず、「外野の評論家というポジション」に結局は押し込めている。
他人事ながら、これは大変な侮辱だ。読んで、一瞬青ざめましたよ。

だいたい、加藤さんの言う「現場」とは、何のことなのか不明確です。教師の現場なのか?指導要領作成の現場なのか?
前者だとすれば、内田先生は教師には一言も触れていないのであって筋違いもはなはだしいところです。
また、後者だとすると、行政というものはそもそも民主的コントロールに置かれるべきものであって、それはつまり現場を知らない一般国民の批判非難にさらされるべきものであるのに、なぜそこに現場性が関わってくるのかという強い疑念が生まれます。そもそも行政というものは(というか、それを含む政治は)努力をしてさえいれば敬意を払われるべきというような性質のものだったでしょうか。常に結果が問われてきたはずですし、また、それこそが健全なのでは?

投稿者 MMR [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 13:56

言葉が足りませんでしたね。私が「現場」と捉えているのは、教師・教育委員会職員・文部科学省職員です。

これらによって担われている教育行政は、もちろん市民の自由な批判の対象になって良いですね。

私がどうかと思っているのは、現状、客観的な社会調査の結果を踏まえた批判があまりにも少ないことです。そうでないものは星の数ほどありますが、データを示しつつ、そして出来れば対案を提示しつつ為される批判は、思いの外少ない。今回の内田さんの批判は前者だと私は思います。もちろんそういう批判を行う権利は内田さんにありますが、私の心には響かなかったし、データや具体的な代替的ソリューションを提示しない批判は、多分「現場」の人々の心にもあまり響かないのではないかと思ったのですよ。まして、今回のような揶揄まじりの論調では。

繰り返しますが、そういうものを書くなとは私は申しておりません。ただ、私個人は、「もっと別の書き方をしたほうが、各方面に建設的に作用するんじゃないのかな」と思ったので、そう指摘したということです。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 14:17

内田先生の文章が好きでこのブログもよく読んでいますが、こんなにコメントが伸びたのは滅多に見たことがありませんね。便乗してコメントしてみます。

コメント欄が熱くなる場合の典型のように感じました。言われている当事者が何も文句を言っていないのに、勝手に憤慨するパターンですか。おそらく内田先生は特に侮辱されたとは考えていないように思います。あくまで推測ですが。

私は内田先生の文章が主に明晰であるがゆえに好きですが、同様にコメント欄の加藤さんの文章も非常に好ましく(偉そうですね)感じます。おそらくお二方ともお互いにそう感じるんじゃないでしょうかね。あくまで推測ですが。

投稿者 suyama [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 15:25

建設的な話になっていないようですね・・・。
相手の主張の何たるかを深く読み取ろうという意識を忘れ、言葉の表面を撫でただけの解釈で話を進める。そして、「誰のどの表現/考え方が危険だ」という話に帰結し、一種の「叩き」状態になる。言葉に関する議論でこれだけ熱くなっているコメント欄に来ている一人として悲しく思います。一種のコミュニケーションの場なのですから、こういう論調に終始するのは勿体無いと思います。
私は、人間が「何か」を見たり、聞いたり、読んだりしたとき
その対象を理解する仕方は、どうしても自分の持つ文脈上でしか理解できないものだと考えています。強引な表現をしてしまえば、人と人はほぼ分かり合うことはできない、とも言えるかも知れません。そこで、再度加藤さんにお伺いしたいのですが、「新しい学力観」を「どのように加藤さんが解釈なさっているか」をお教え願えませんか?(実は、私も関係者でしたので概略は知っているつもりです。前回の書き方「不勉強で」が悪かったですね。すみませんでした)

投稿者 somewhere else not here [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 16:03

今日公開された中教審の「中央教育審議会 初等中等教育分科会 教育課程部会審議報告書」というpdf文書を見ると、たしかに「ゆとり」という言葉は一言も書かれていませんが、「言葉の力」という用語も無いですし、特に母語運用能力を根本理念に据えたという印象も無かったですね。むしろ「人間力」なる概念が新たにクローズアップされている感じです。

それで、基本的には「生きる力」重視という、90年代前半からの流れを今回も引き継いだ報告書のようですね。その中で、前回の指導要領では現場に意図がよく伝わらなかったようだけど、読み書き算盤の基礎訓練は積極的にやっていいんだよと念押しをしている感じです。もともと「ゆとり」というのは近年の教育政策の根本理念などではなく、前回の指導要領において、「詰め込み」と批判された従来の教育法に対する反省のもと、少し内容を減らしてその分で出来たゆとりを基礎的な内容の確実な習得や体験学習、問題解決学習に当てましょうという意味で使われていた概念ですし、そういう政策を何故やるかと言えば、「生きる力」の獲得の為だったわけですから、中教審や文部科学省も、「ゆとり」概念に特に拘りは無かったようですね。

 全体として見た感じ、教育政策の根本理念の大転換が起こったというよりは、社会で主流となった論調に配慮して、衣装やメイクを変えてみたという印象でした。個人的には、まあこんなところが無難かなと思います。「生きる力」主義を実践にどう反映するかについては、ようやく色々な実践報告や考察が出そろってきて、何をどうしたら良いのかコツが掴めてきたくらいの時期ですから、ここでまた大きくいじってしまったら、そのしわ寄せは最終的には子供達に回りますので。

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 18:08

 うーん、よくわからなかったのですが、内田さんの主題は、
「言葉は道具だ」という言語観が不可疑の真理として伏流している。
ということの指摘とこれを疑うことというように私は思いました。
 大人気ないとか品がよくないとかは、とりたてて議論するほどのことはないのではないでしょうか。
 加藤さんが現場の一員として、中央省庁と強い一体感をお持ちなのはよくわかりました。

投稿者 hoopoo [TypeKey Profile Page] : 2006年02月14日 20:16

加藤さんの文章がうまく理解できません。みなさんは理解できているのでしょう
か?

以下、加藤さんへ。もちろん、第三者による解説大歓迎です。
とりあえず朝日の方について。
元のエントリーも分量のほとんどは朝日のコピーについてなので。

http://www.asahi.com/information/
このキャンペーンは朝日自身の立場としても明らかに、虚偽報道に端を発する一連の信頼回復運動の中間到達点と位置付けられているのは、疑いのないところでしょう。
だとすれば、虚偽報道の反省という面を持っている今回の宣言がそれ自体で評価の対象となることは当然であって、「現時点で問い詰めるべきでない」とか「今後を見るべき」とか、そういう考えの方が理に合わないように感じます。むろん、そういう人がいてもいいですが。

にしても、そういう人が、朝日のコピーに評価を下している人に対して「粘着」「大人気ない」等々の言葉を投げかけて、自分と同様の振る舞いを求めるのは理解に苦しみます。
まだ評価したくないと思っているなら、自分だけ粛々とそうしていればいいんじゃないでしょうか。
一体、あなたは他人の立場というものを容認するのかしないのか。言葉の上では前者みたいですけど、実際の行動では後者に見えますよ。

コピーだけを取り上げて評価はしないというあなたの立場は、それはそれでいい。
しかし、なぜいま評価している人を非難する必要があるのです?(徐々にトーンダウンはしてるようですが)
上の人が言ってますけど、なぜ現時点でコピーを批判すべきでないのかについて、あなたは「私は」「私にとっては」「私個人には」などと言った個人的印象しか語っておらず、まるで説得的でないです。
それに「最初に申し上げた通り」と言いつつ、言っていることが当初とはかけ離れていってます。
もう少し気を付けていただかないと、読む人は困惑するばかりだと思いますが…。

どう理解したらいいんでしょう?

投稿者 ayako [TypeKey Profile Page] : 2006年02月15日 09:15

 はじめて書き込みします。内田先生の論理的な文章を読むと脳から変な物質がでて楽しいので、いつも楽しみにしています。知的な話題ありがとうございます。
 今回のコメント欄で加藤さんのおっしゃっていることがよく理解出来ず頭が混乱しています。内田先生の文の主旨ではメディアが簡単に「言葉のちから」という言葉に飛びついてその一方の意味だけを語ることについての批判とのように読めます(違うのかもしれません)。一方で文科省の態度については、これまでは傍流の内容をメインのようにあつかったものを修正して本筋にもどっいる。できればもっと早く変更してほしかったとが評価出来るという文脈だとおもいます。よって教育現場の批判はされていないということになります。
 それに対して加藤さんの議論は、朝日新聞のコピーは広告代理店が作ったことだから朝日新聞に罪はない。粘着にたたくのはいかがなものか。また、教育に対して外野の学者(?)が口を出すと教育の方針がいらぬ方向に変わるからやめてほしい。それほどにいうなら自分でやってみろという流れのように読めてしまう。
 前者の部分は、文責のありかがどこにあるかの議論につながる可能性がごくかすかにあるかもしれないので、それを主題にした議論展開ならまだほんの少しわかります(あくまでも議論上の問題ということですが)。しかし、後者の主張は理解不能で非常に不全感がのこります。単なる言いがかりのようにも思えてしまうのですがいかがでしょうか?
 といったわけで加藤さんの主張がよく分からないのです。現場批判がされていることに怒っていると仮定すると、現場批判をしていないこのエントリーにそういった方向で反論される意図が見えません。もう書き込みされないかもしれませんが、論理構造をご確認してからご自身の書き込みを読み返されると良いかと思います。

投稿者 burummy [TypeKey Profile Page] : 2006年02月16日 21:03

こんばんは。
内田先生のブログは、とってもstimulatingで、また12年間
主夫を勤められたということも、すごいな と思っております。

加藤先生は、たぶん 一生懸命なお方なのだと思います。
それで カチン とこられたのだと思います。

もう、今では、話の筋道を正確に逆戻るのが難しいと思います。
そのときのお気持ちがどうであったかも。

子供を持つ父親として、どうかその情熱を、子供たちのために
持ちつづけてください と思っております。

投稿者 新松 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月16日 22:27

皆さん、加藤さんの記述の理解に苦しんでおられるようなので、お知らせします。その後、加藤さんは場所を変えて、私のブログの方で考えを述べられました。興味のある方は、お読み頂ければと思います。
http://inframince.at.webry.info/

投稿者 somewhere else not here [TypeKey Profile Page] : 2006年02月17日 01:21

詭弁について考えてみました。この2、3日結構悩まされたので。数百万部の新聞にはものすごく寛容で、わずか一万アクセスのブログの発言を圧殺せずにはおかないという使い分けは真似できないな。
私は色々な人の意見や考えを聞きたいので、それを妨害するような行為は善意とは思いません。

投稿者 hoopoo [TypeKey Profile Page] : 2006年02月17日 22:00

「樹読みの樹知らず」とでも申し上げたらよいのでしょうか。
そのような方が多いのに関心(寒心)しました。

投稿者 楓 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 09:25

>自分が檻に幽閉されていることを知らない人間は、決して檻から出ることができない。

と、ありますが、檻から出ることに何のメリットがあるのでしょうか?
そりゃ、閉じこめられていると知れば、出たくなるのが人情ですが、出たからといって必ずしも良い結果が待っているわけではありません。

檻から出た後のことに何の言及もなされず、当然のように檻から出るのが良いことであることを前提としているのが疑問です。
教育という点から言えば、「学力や知力といった文化資本を獲得するために言語を功利的に活用すること」で十分ではありませんか。
社会で役に立つのはそーゆー力だからです。
自分1人檻から出たって、別に人様の役に立たないですし。

投稿者 白片吟K氏 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 11:04

このエントリーを読み,コメントの長さに驚き,内容に少し関心を持ち,参加する者です.
以下,加藤氏の発言の中で,中心であると思われる箇所を引用し,要約の上,私の意見を述べました.
事実に相違ある場合ご指摘下さい.

投稿者 hrslcl [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 18:19

<発言>
私がどうかと思っているのは、現状、客観的な社会調査の結果を踏まえた批判があまりにも少ないことです。そうでないものは星の数ほどありますが、データを示しつつ、そして出来れば対案を提示しつつ為される批判は、思いの外少ない。今回の内田さんの批判は前者だと私は思います。もちろんそういう批判を行う権利は内田さんにありますが、私の心には響かなかったし、データや具体的な代替的ソリューションを提示しない批判は、多分「現場」の人々の心にもあまり響かないのではないかと思ったのですよ。
http://blog.tatsuru.com/archives/001559.php

教育政策の方針決定は一見、中教審という偉い人からの単純なトップダウンに見えるでしょうが、実際には様々な現場の声を校長会など色々な回路から吸い上げて参考にしている部分も多いでしょう。問題は、主にソリューション構築の拙さにあるというのが私の見方です。指導要領として出来上がったものが、公示から数年の期間があるとはいえ、ソリューション丸投げで降りてくる。しかし学校の現場には労働力の余裕はありませんから、実際にはその時になって考えるしかないとなる。サボっているのは教科教育学者です。
では、我々納税者はこのような状況にいかに関与すればいいのか。私は内田さんのように聞きかじりの半端な知識を根拠にして、無責任な批判をブログで書き飛ばしているばかりでは駄目だと思うのです。まずは出来るだけ客観的かつ大量の情報を得ること。そして、それに基づいた批判を行い、また可能であれば地域社会コミュニティを豊かにし、学校に協力すること。基本的な構えは、学校を自分たちの財産として豊かに保っていくということだと私は考えています。私は教員ではなく単なる一市民ですけれども、それでもそういう形で、出来る限りは建設的なことをしていきたいですね。
http://inframince.at.webry.info/200602/article_3.html

<要約>
教育政策について教育現場以外の場所からの多くの議論がなされているが,これらは大半が客観的な資料に基づかないか,代替的な実施案を提示しておらず,教育現場の当事者にとって参考にならないものである.
議論や批判が真に教育政策に資する建設的なものとなるためには,まず客観的な資料を踏まえている必要があり,さらに無責任に一面的な批判のみがなされるのではなく,学校教育を公共の財産として一人ひとりが意識し,地域社会の充実といった各人に可能な実践を伴う,学校教育を維持・発展させるための地道な積極的関与が必要である.

<意見>
私は国立大学で教育学,臨床教育学,臨床心理学を学んだ者ですが,大学での教育学は教育についての学問ではなく,教育学についての学問であり,教育現場とは無縁な議論が中心です.
また教育学者の著書は,学問として興味深いものですが,多くは実践から離れた閉じたアカデミズムの中で書かれており,教育現場に還元する意識は基本的には見られません.
教科教育学は専攻ではなかったため,研究成果がどのように現場に還元されているかは存じません.
しかし教科教育学の研究成果について,多忙な現役教員が学会誌等を通じて直接に知る機会は極めて少ないと思われます.
また,教育関係者ではない一般の社会人が,教科別の客観的資料をもとに研究を重ね,発言することは様々な面で困難です.
したがって,ソリューション丸投げ,と表現される事態が公教育の常態であると仮定すると,その改善はやはり教育学者を含む広義の教育関係者の間で議論されるべきもので,公教育の構造的問題と位置づけられるべきです.
また他の一般の人々は,企業等の立場から公教育のアウトカム(生徒のパフォーマンス等)を中心に様々に要望や意見を提示するということが必要であり,当然認められるべきだと思われます.

またソリューションを開発するヒントも実証も,実際に児童生徒と関わり,日々試行錯誤している教育現場にあると思われます.
評判の「陰山メソッド」も,教育現場から提案されたソリューションの一種です.
実証的なソリューションは教育現場に現実に適用され,幾つも方法を変えて活発に試行されることが必要とされ,教育現場から離れ既存のデータを踏まえただけでは生み出されないものと思われます.

加藤氏の見解については,世の教育論が公教育への批判一辺倒であることに対する危惧,という面では同意を表明しますが,一般の人々に客観的資料に基づく議論を求める点で,理想論としては正しくとも,上記のような無理があると思われます.
また公教育は納税の対価であるとの観点からは,すべての納税者は公教育のアウトカムについて議論する正当な当事者ということになると思われます.
教育の専門家のようにデータに基づいた議論はできませんが,悪しかれと思い批判をしているものは多くはないと思われます.
公教育についての議論の多さは,国民的に関心が高いということでありプラスと考えられるべきと思われます.
学校を取り巻く地域社会の充実,という指摘については,地域社会が崩壊して久しい中でどう取り組んでゆくか難しいですが,基本的に同感です.
また穢い言葉が書き手に直接向けられたことには,理屈を越えて生理的に嫌悪と軽蔑を感じます.とても残念です.
以上です.

投稿者 hrslcl [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 18:19

的確なコメントだと思います。なお、教育言説に関する私の考えを要約するとこうなります。

・納税者にはデータに基づかない公教育批判をする権利がある
・しかし、私自身は、そういった批判はさほど建設的ではないと思う
・良かれと思ってやっているとしても、あまりにそういった批判が多くなると、決して良い結果には繋がらないと思う
・せめて納税者は、データに基づかない批判の持つ限界を理解して欲しい(必ず理解せよとは言わない)

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 19:40

hrslclさん、簡潔に要約していただき助かります。それによりますと、加藤氏が対象としているのは、教育現場の外からの議論ということですね。
それなら、内田さんは大学で親しく学生の教育にあたっておられる教育現場の人ですので、加藤氏の議論の対象外なんだ。そうだったのか。

投稿者 hoopoo [TypeKey Profile Page] : 2006年02月18日 22:48

どうも中教審の報告書の内容と内田さんが論の前提にしているものが食い違っている気がしたので調べてみたのですが、中教審の報告書が「言葉の力」を中心に云々という報道をしたのは「朝日」だけのようです。
これが朝日の記事。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200602080564.html
ちなみに毎日は同じソースをこのように報道しました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060213-00000042-mai-soci
ですから、内田さんのこの記述「文科省と平仄を合わせるように朝日新聞は先日から奇妙なコピーを掲げている」は実は勘違いで、朝日新聞が中教審の報告書についての報道に自分のところのコピーを流用したという解釈の方が的確ではないかと。内田さんも私も朝日に「釣られた」ということなのかもしれません(笑)。

「ジャーナリスト宣言。朝日新聞」

投稿者 加藤 [TypeKey Profile Page] : 2006年02月19日 10:17

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