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2006年01月30日

「すみません」の現象学

土曜に兄ちゃんが来た。
新規ビジネスの打ち合わせのためである。
関西での仕事のついでに麻雀やりたいというたってのお申し出であったので、甲南麻雀連盟の重鎮である江さん、釈先生においでいただく。
わが家にて名刺交換、鉄板焼き宴会のあと、さっそく卓を囲む。
本来は来週の2月4日が第二回例会で、今回はエクストラの「接待麻雀」であるが、兄ちゃんも「メンバーに入れといてね」ということなので、今回の戦績も連盟公式記録にとどめることにする。
半荘三回で「終電がなくなりますから」とひとり勝ちの江さんが帰ることになって解散。
兄ちゃんは「さあこれから」と腕まくりしていたところだったので「ええええ、もう帰っちゃうのお」とがっかりしていた。
これからは関西にくるたびにメンバーを招集してちょうだいねと頼まれる。
お安い御用ですとも。
平川君も関西に来るときはお声をかけて下さいね。
わが家にお泊りになるときはメンツ揃えます。

日曜日は入試があるのだが、学長と入試部長のおはからいで私はお休み。
ゆっくり朝寝して、兄ちゃんとのんびり朝飯(ご飯、豆腐とわかめのみそ汁、納豆、卵、キムチ)を食べつつ、ライブドア問題、パレスチナ自治政府問題など喫緊の社会問題についてスルドク意見交換。
横浜に帰る兄を「じゃね」と送り出してから、まず『ミュンヘン』の映画評をさらさらと書いて讀賣新聞に送稿。
天気がいいので、おふとんを干して、バイクで大学へ。
『チャングム』のDVDの束を「韓流ドラマ鑑賞会」のU野先生にお返しする約束があったのである。
お昼時でご飯を食べている同僚諸君とひとしきり無駄話をして、入試業務が始まったのですばやく逃亡。
家に戻って『態度が悪くてすみません』の「まえがき」の続きを書く。

「態度が悪くてすみません」というタイトルは三日前お風呂にはいっているときに思いついたのであるが、よくよく考えるとなかなかに滋味深いタイトルである。
「態度がわるくてすみません」と謝罪している私はいったい「何」について「誰」が「誰」にむかって告げていることばなのであろうか。
「態度が悪い」というのはすでになされてしまった行為について下される評言である。「すみません」というのは、その「すでになされてしまった行為」について、現に私が発していることばである。
この短い文のうちには二種類の時間が含まれている。
「態度が悪かった」のはむろん私である。
「過去のある時点での私」である。
「すみません」と言っているのも私である。
これは「現在の私」である。
「態度が悪くてすみません」というフレーズには、「過去の私」と「今の私」は、同一の私であるけれども、一方の行為を他方が非として認め、その責任を取ることを宣言している。
ここに「時間」と「他者」が生成するのである。
わかりにくいことを申し上げてすまない。
「私」というのは「変わらないものである」という考想をかつてレヴィナス老師は「同一者(le Même)と術語化された。
同一者の世界には「未知のもの」が存在しない。
すべては「想定内」の出来事である。
「こんなことは織り込み済みです」という言い方は「私は無時間的に同一者である」と宣言しているに等しいのである。
未来はあらかじめ把持され、過去は完全に理解されている。
そのような人間には「前代未聞のこと」は何も起こらない。
このことばを好んで口にした人物の運命は周知のとおりである。
老師はこの「未知なるもの」を構造的に排除する知のありかたを「光の孤独」と名づけた。
「光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。」(『実存から実存者へ』、Emmanuel Lévinas, De l’existence à l’existant, Vrin, 1978, p.76)
「光の孤独」というのは、すべての出来事が「想定内」「織り込み済み」のものとして出現するような知の絶対的孤独のことである。
そのような知にとっては未知も、異邦的なものも、外部も、他者も存在しない。
だが、その孤独の徹底性は「他者がいない」ということにあるのではない。
実のところ私たちは外在的な他者なんかいなくても、けっこうやっていけるからである。
ひとりでいても、まるでオッケーなのである。
だからこそ現に「あなたの世界には他者がいない」とか「あなたは他者からの呼びかけに耳をふさいでいる」というような批評の文言が成立するわけである。
「他者がいなくてもぜんぜんオッケー」だからこそ、「他者のいない世界」が繁昌する。
「他者がいなくては困る」というのが本当なら、みんな必死になって他者との出会いを求めるに決まっている。
みなさんが「他者抜き生活」を過ごされていても、特段の不自由を感じられているようには見えないということは、私たちがそれなしではすまされない「本質的他者」、「絶対的他者」というのは通俗的に了解されているような意味での「他者」ではないということを意味している。
私たちがそれなしではすまされない「絶対的他者」とは(驚くなかれ)「私」のことである。
「私ではないんだけど、私」であるような「私」のことである。
私たちは一秒ごとに変化している。
人間の全身の細胞は三日で全部入れ替わるといわれているから、三日経つと生理学的には100%「別人」である。
爪を切っても、ご飯を食べても、お酒を飲んでも、映画を見ても、セックスをしても、そのつど、私たちは「それをする前とは別人」になっている。
にもかかわらず、私たちは「同じ人間である」と思っている。
これについて養老孟司先生がいきなり本質的なご指摘をされている。
「目が覚める、つまり意識が戻ると、たちまち『同じ自分』が戻ってくる。一生のあいだ何回目を覚ますか、面倒だから計算はしない。しかしだれでも数万回目を覚ますはずである。ところがそのつど、
『私は誰でしょう』
と思うことはいささかもないはずである。つまりそのつど『同じ自分』が戻ってくる。それなら『同じ自分』なんて面倒な表現をせず、『自分』でいいということになり、いつの間にか『自分』という概念に『同じ=変わらない』が忍び込んでしまう。」(養老孟司、『無思想の発見』、ちくま新書、2005年、39頁)
「面倒な表現をせずに」、「そのつど自己同定された自分」と「永遠不変の自分」をまとめて同一名称で「自分」と呼んでしまう人間の「怠惰」のことをレヴィナス老師は「同一者」と呼んだ。
レヴィナス老師が私たちに求めたのは、いわば、目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。
目覚めるごとに「私は誰でしょう?」という自問を行う人は、「そう問いかけている人」と「そう問われている人」のあいだの「ずれ」に引き裂かれる。
その「引き裂かれてある」という事況そのものを「主体性」と呼びませんか、というのが老師からのご提言だったのである。
「私は私である」という自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「いい加減さ」である。
言い換えれば、「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、それでは、というのでそのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである。
「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な構造体であるということを意味している。
「単体の私」というものは存在しない。
私はそのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれている。
そういうかたちでしか私というのは成立しないのである。
私の自己同一性を基礎づけるのは、「私は私が誰であるかを熟知している(あるいは、いずれ熟知するはずである)」ということではなく、「私は自分が誰だかよくわからない(これからもきっとよくわからないままであろう)」にもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という原事実なのである。
私の過去と未来には宏大な「未知」が拡がっている。
私たちの未来は「一寸先は闇」ですこしも見通せないし、過去は一瞬ごとに記憶から消えてゆき、残った記憶も絶えず書き換えられてゆく。
そのただ中に「私は誰でしょう?」という自問を発する主体がいる。
その問いが抽象的なものにとどまらず、具体的なものとなるため必要なのは、朝目覚めるごとに「私は誰でしょう?」と問いながらも、「いつまで寝てんの!朝ご飯よ!」と呼ばれると「はい」と返事をして食卓につき、「あなた、ゆうべ寝言うるさかったわよ」と言われたら「すみません」と謝ることのできる「能力」なのである。
人間の人間性を基礎づけているのは、この「私が犯したのではない行為について、その有責性を引き受ける能力」である。
老師が「倫理」と呼んだのは、そのことである。
それは別にとなりの山田くんがガラスを割ったのに、「ぼくがやりました」と嘘をつけということではない。
自分がやったことであるにもかかわらず、その行為の動機についても、目的についても、その理路についても、うまく思い出せないようなことはいくらでもある(というか、それによって私たちの人生は満たされている)。
それについて涼しく「すみません」と宣言すること。
それは過去の私の犯した罪について、現在の私がそれを「私の罪ではないが、私の罪である」というしかたで引き受けることである。
それが倫理ということばの意味である。
老師はそのことのたいせつさを教えられたのである。
「絶対的他者」とは、「私がその人のために/その人に代わって『すみません』と言う当の人」のことなのである。
「光の孤独」のうちに幽閉されている同一者はそのような意味での他者を持たない。
だから、彼らは「すみません」ということばを決して口にしない。

投稿者 uchida : 2006年01月30日 12:23

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コメント

「百丈野狐」に置ける「因果に落ちず」と「因果に昧からず」の間にあるものが示唆されている感が致しました。

投稿者 daiaku [TypeKey Profile Page] : 2006年01月30日 13:28

「すみません」、というのは木村敏的にいえば、「済みません」、つまり、まだ済んでいない、とのことで、(過去に向かいつつも)未来という時間に向かっても開かれていることばですね。先生の「態度が悪くてすみません」にも、未来がそっと混入されているのでしょうか。 もっとも、「すまないことをしてしまった」とはっきり言うのであれば、これは「まだ済んでいない」にもかかわらず「してしまった」という完了も伴うので、微妙に異なるわけですが(木村敏「時間と自己」)。
「すみません」と「申し訳ありません」とを比べてみると、謝りの質がずいぶん違いますよね。「申し訳ありません」は「弁解のことば、探したんですけど見当たりません」という空間的謝罪であり、「すみません」は「これで済んだとは思っていません」という時間的謝罪なのですね。
「すみません」よりも「申し訳ありません」のほうがなんとなく深刻ぽくみえるけれども、その場で終わってる、終わらせてしまってるんですね。これからは「すみません」と謝ってくる人のほうを信用しようとおもいます。

ただ、自己内の時間的な他者性をひきうける「私」の在り方として、先生のおっしゃる<私ではないんだけど、私>であるような「私」ではなく、逆に、<私であるけれども、でも私じゃない>という「私」としてそれを引き受けてしまう人たちが、わたしのまわりにいます。そういうひとの発する「スミマセン」には、謝罪の匂いはなく、むしろ、未来においてもこういうスミマセン的な出来事が続くゾという宣言のようなかんじがして、なんとなくコワいです。自らの内にいる他者同士を、時間のなかでどのようなかたちで結び、あるいは切り離し、また調整するかが、記憶や倫理、責任といったことに深く関わるのでしょうね(松島恵介「記憶の持続 自己の持続」)。 長文すみません。

投稿者 烏賊 [TypeKey Profile Page] : 2006年01月30日 18:16

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