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ついに学校が始まってしまった。
ひさしぶりにスーツにネクタイを締めるが、そんな日に限って暑い。
9月末なのに朝から28度もある。
一ヶ月ほど中身を見ていなかったブリーフケースに、携帯電話、名刺入れ、眼鏡、『街場のアメリカ論』のゲラ、手帳、メモリースティックなどを詰め込むと「豚を丸飲みしたアナコンダ」のような形状になる。
とぼとぼ炎天下を歩いてパーキングへ。
私のベーエムは部屋のほぼ7フロア分真下に鎮座しているのであるが、マンションからパーキングへの直行エレベーターがない。
乗り換えのエレベーターは建物を半分回らないと乗れないのだが、そのエレベーターも午前10時から午後8時までしか動いていない。
朝早いときと夜遅いときは遙か遠くの階段を利用しなければならないのであるが、この階段が怖い。
細くて暗くて曲がり角がいくつもあって途中に鉄扉が二つもある。
つねに無人であるので、曲がり角で出会い頭にジェイソンに会ったら、ひとはそのまま心臓発作で死ぬであろう。
前に一度、夜遅くにその階段からおりようとしたら、ちょうど私の前を歩いていた若い女性が私と同じパーキング入り口のドアを開けた。
自分が閉めたドアをすぐ後から来た男がまた開けて、背後から無人の階段をコツコツと足音を立てて降り始めたのであるから、その方の恐怖はさぞやと思われる。
こちらもはやく車のところに行きたいので、数メートルの距離をだんだん縮めてしまう。
鉄扉の前では恐怖のあまり先方の頭髪が逆立っているのがわかった。
とはいえ、こちらも「お嬢さん、怪しいものではありません」と話しかけるのもはばかられる(そんなことを言うといよいよ怪しいし)。
さぞや肝を冷やしたとは思うけれど、私のせいじゃないんです。
大学へ行って、本日はAO入試の書類選考と院試。
総文の40名ほどの志願者の「志望理由書」と「自己推薦文」を読んで、評価をしてゆく。
こういう書類の書き方はむずかしい。
「可もなく不可もなし」という書き方では志願者が多い試験では、試験官が同じようなものばかり読まされているうちにしだいにいらだってくる。
では、がんがん言いたい放題書けばいいかというと、「そういうのはキライ」という試験官に当たるとおしまいである。
むずかしいものである。
私としては、自分の好きなように書いて、それで合格すれば、その学校とは相性がいいということだし、好きなことを書いたら落とされたというのなら、相性が悪いということで、ご縁がない方がご本人にとってもむしろしあわせだったというふうに考えたらよろしいのではと思う。
院試は志願者が少ないので採点も面接ものんびりして楽ちんだったが、志願者が少なくてうれしいというのは私学の教員は思っても口にしてはならないことである。
5時過ぎまで働いて、採点仲間のF庄学科長、A木入試課長と大学の次期戦略についてあれこれと相談。
いきなりたいへんシビアでリアルな話になる。
そうだ、大学にいるというのはこういう身も蓋もない話をするということだったのだ、ということを思い出す。
髪の毛を染めたクボちゃんが遊びに来たので、中途半端な社会復帰はダメです。もっとまじめに休みなさいと説教する。
ひとに説教しているのか、自分に言い聞かせているのかわからない。
休み中にメールボックスを突き破るほどたまった本と手紙をかかえて、よろよろと家に帰る。
その中の一冊、岸田秀・三浦雅士の『靖国問題の精神分析』を読み始めるが、岸田先生、なんとなく元気がない。
岸田秀の「共同体のアイデンティティは自我のアイデンティティと同型的である」という洞見には25年ほど前に腰を抜かすほど驚愕した記憶がある。
社会有機体説というのは、人間は社会構造をつくるときも自分の身体構造以外にモデルにするものがないという考え方で、岸田理論はそれを転倒してみせたわけであるが、まさに問題はご指摘のとおりこれがループをなしているということである。
つまり、社会構造は人間の身体構造をモデルに構築されているのだが、その人間の身体構造の方も、自分を含む社会構造をモデルにしてイメージされているのである。
現代日本の社会構造は中間的な共同体が解体して、二極化が進行しているが、これはそのまま現代人の自我イメージと重なっている。
個人の身体においても緩衝帯としての「中間的なもの」が消失して、権力、情報、威信、資本が「脳」に集中し、「身体」はメカニカルな操作対象の地位に転落している。
つねづね申し上げているように、脳と身体を二極化するのはすでにひとつの「物語」であって、実際には脳は身体の一部であり、身体はすみずみまで脳化されていて、二極分化ということは「現実」にはありえない。
私の脳は「あんこもの」を食べると活性化し、眠くなったり過度の飲酒をした場合にはまったく非活性的になる。
おなじように、私は身体の不調をつねに外在的な「病魔」がイノセントでピュアな私の「身体」を侵略するという「物語」に即して解釈している。
脳はフィジカルな器官であり、身体は物語を生きている。
にもかかわらず、脳と身体の二極化ということが「実感」としてリアルであるという事実は、社会階層の二極化が(まだ現実化していないにもかかわらず)すでに「実感」としてリアルであるという事実と並行している。
ある種の政治イデオロギーが身体変容さえももたらすということは現実にしばしば起こる。
きわめてファナティックな政治イデオロギーの持ち主はやはり奇形的な身体をしている(過度に病的であるか、過度に健康であるかどちらかである)。
健全な社会理論の持ち主は、原理的に「弱い敵との共生」ということを優先的に配慮しているので、たいていは「軽度の疾患」や「軽度の不全」とうまくネゴシエイトする身体を持つようになる。
「一病息災」という俚諺があるが、これはほんとうの話で、「めんどうな身体的な不全」とやりくりしながら生きている人は「めんどうな他者」とのやりくりにも同じ技法を適用することができる。
「息災」を「破局の到来をたくみにヘッジすること」という意味と解するならば、まさにそのとおりなのである。
投稿者 uchida : 2005年09月21日 00:01
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内田樹氏が、物凄い言説を口から吐いておりますね…。 要約すると、内田氏は、健康な身体の持ち主は健康な精神を持ち、 過度に健康か、過度に病的な身体の持ち主はフ... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年09月22日 10:31
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神戸女学院大学教授であり、武道家(合気道)である「ウチダ・タツル」先生の著書「街場の社会学」をきっかけにして、時折先生のブログを拝見する。
今日、久しぶりにお... [続きを読む]
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内田樹の研究室: ブルーな火曜日 http://blog.tatsuru.com... [続きを読む]
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1年前に免疫学を勉強して以来、常々思うことがある。それは、人間社会ってのは、人間の身体を模倣しているのではないかということだ。例えば、人間の免疫機構を支える役目... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年09月25日 01:35
» 免疫機構と社会について書こうと思ったらとりとめなくなっちゃった from 晴耕雨読
1年前に免疫学を勉強して以来、常々思うことがある。それは、人間社会ってのは、人間の身体を模倣しているのではないかということだ。 [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年09月25日 01:49
イロイロな意味で共感。岸田先生は『一神教と多神教』あたりで少しお疲れかなと思いました。
ちなみに、一神教問題に関しては、中沢先生のカイエ・ソバージュ全4巻(これは息もつかずに読める)の方がダンゼン面白かった。
『靖国…』は未読ですが、(審問の口調で語られたとしても)高橋哲哉先生で、データはそろったという気がしています。山中恒も読みましたが、やや疲れた。『間違いだらけの少年H』の方が戦時下の実像に迫っていたと思う。
脳というと当然養老先生ですが、『バカの壁』でとつぜんそれまでのわかりやすさが影を潜めて、なんだかわからん「?」がいっぱい続いて、養老先生もお疲れかなと思った。私には、どうしてベストセラーになったのかわからない。
『涼しい脳髄』、『形を読む』など方がよっぽどわかりやすく読みやすいのに。なんでやねん。『バカの壁』のようなわかりにくい本を「わかりやすい」と感じる読者が増えてきたということか?
*
「わかりやすい」という言葉の意味の変化に俺がついて行けてないのか?その可能性は十分ある。
浮世根問いのはっつぁんのように、何で?何で?と思いながら読むのは野暮なんだろうか?
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ファイティングキッズで内田樹ワールドニ嵌ってこのまま当分、できれば一生安逸をむさぼりたい私としては、内田先生の適度な不健康を祈りたい。
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ps.
ところで、不健康で思い出したのであるが、『香山リカのきょうのの不健康』は、香山先生の最高傑作ではないだろうか?
このところ、わたしのコメントが瀰漫していてすまないと思いつつ、突如罹ったコメント依存症。これがわたしの今日の不健康と思ってお許しください。(許せるわけないか?)
「過度に病的であるか、過度に健康であるかどちらかである」は問題発言かもしれない。当然、ファナティックならばという、推論(DEDUCTION)の方向は、逆や裏を芯であるとはいっていないのだが、対偶は「肉体的に適度に病的ならばファナティックでない」となるので、部分を全体に及ぼす誤りを犯しているおそれがある。肉体的に適度に病的でしかもファナティックな思想の持ち主を私は知っている。だから、このあたりは誤った言明でしょう。
わたしは、ここは何人かの実例について「誇張した表現」をとったものと読んでいた。しかも、『健全な肉体に狂気は宿る』が背景にあるので、(病気差別ではなく)健康差別の方向を読むのが内田読者の傾向だろうと読んだのだが、どうなんだろうか?しかしやはり違和感は残っていた。
*
ついでですが、心身症というものは存在することになっています。ファナティックであることが健全でないという言明も差別的なのかということになると私は…こまる。
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かつて、『ちび黒サンボ』がアフリカン・アメリカンへの差別と考えられたけれど、ベンガル地方を舞台としたむしろ健全な童話と今は考えられている、と私は理解している。
何よりも先ず、ちび黒サンボの読者はサンボに共感するのだから。あれは、むしろ白人からの妨害ではなかったかと思っている。
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で、SO WHAT? と言われると、言葉に窮するのであるが。
>ある種の政治イデオロギーが身体変容さえももたらすということは現実にしばしば起こる。
おれはしがないタクドラですが、このことはひどく実感します。一番はじめに際立って変容を被るのは「目」、「眼光」のようで、客にある種の「異様」を察知する足がかりは、目視専門業者としてはそこです。
もちろん、眼光にファナティックな物語を直感する貧弱な経験は内田センセーの言説を逆にしたもので、ときと場合では、トンデモ知識になりかねません。
これをよく理解しなければ差別意識そのものだ、と自戒したりしておりますが。
しかし、内田センセーのこの言葉(おれの逆)を、まるでタクドラのように逆読みして、しかも演繹して、人種的な不健康・畸形などはすべてファナティックな物語に帰結する、を生み出す、と発言したと曲解して憤慨する方もいらっしゃるんだから、世の中なにが起こるやら。クワバラクワバラ…。
投稿者 誤読しらず
: 2005年09月25日 21:00
そうなんです。目なのです。片○○○○とかいう人の目が私は怖い。あれは、恫喝を業務としておられる方々の目だと思う。
そもそも、内田先生は肉体を脳と脳以外の部分に分割できるとはお考えではない。そのような二分法には否定的であると思います。
ローマの詩人ユベリナス(この人を私は知らないが)の「風刺詩」の一部が「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と訳されたそうですが、これは誤訳だと聞き及んでおります。なんでも原詩は仮定法で正しく訳せば、「健全なる身体に健全なる精神が宿るのであればなあ」というようになるのだそうです。『健全なる肉体に狂気は宿る』のは困ったことだなあという慨嘆なので、差別といえば健全なる身体を差別しているのだ。という気がする。強者や権力者を差別すると言うのは語法としては変則なので普通は風刺というのではないだろうか。いくら小泉さんを批判してみても彼が勝者であるかぎり「差別」にはならない。
*
松谷みよ子さんの、民話、現代民話の語り口に庶民の知恵・そして希望がある、と思いたい。
つっかんさんも思想界に座する方のように見受けられ、いつものコメントはおれにとって理解の閾値を越えているんですが。ここは理解しやすいですぅ。
>片○○○○とかいう人の目が私は怖い。あれは、恫喝を業務としておられる方々の目だと思う。
このご判断はほぼタクドラ同様で、内田センセーの逆ですよね?(笑) とはいえ、命中率が高そうですが(コワッ)。
>そもそも、内田先生は肉体を脳と脳以外の部分に分割できるとはお考えではない。
知識としてはまず養老氏から得たんですよ、おれは。ですが最近、養老氏はどっち行かれてるのか、さっぱりわかりません。どこかで、つっかんさんも『バカの壁』についてコメントされてましたよね。
身体の支配は脳の支配である、とは名著『寝ながら…』(笑)から学んだことですが。これにはビックリしました。ですから、「身体は物語を生きている」(内田氏、本文)とは即「脳は物語を生きている」と換言できるわけで。さて、お前は何をいわんとしているのか? ですが…。
>松谷みよ子さんの、民話、現代民話の語り口に庶民の知恵・そして希望…
ファンタジーですよね? 物語言説だという点では小泉氏のほぼ全身を支配する新自由主義と同じでは? ねえ、つっかんさん。おれたちにはファンタジー世界から逃れる道はないんでしょうか。ないんでしょうね…。
*注:おれのHNは「わど」です。二回目の登録では、そうしたんですが。できましたら表示名を「わど」に替えてくださいませ、陰の人さま。すみません。
投稿者 誤読しらず
: 2005年09月26日 01:21
松谷みよ子さんのことですが、「民衆の智恵」というスタンスでふれました。昔話によく出てくる「愚か者の村」という「智恵」です。密造酒をお取調べになるお役人が村にやってきて「XXXはどこじゃ?」とお尋ねになる。村の年寄りはなんだかとんでもないところへ案内する。耳が遠くて聞き違えたのか、おろかなのでわからなかったのか…
その間に若い衆がどぶろく製造の証拠を隠すというようなパタンのお話で、松谷さんはこういうやり方を高く評価している。そして、こういうノリの現代民話がぜひ必要だと前書きなどに書いておられます。
こちらがファンタジーの世界に逃げるというより、相手をファンタジーの世界に誘い込むと言えばいいのか。
内田先生の武道の奥義にどこか似ているんじゃないかとも思います。
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