サラリーマン出勤状態になったら、すごく疲れた。
拘束時間が長くなっただけで、別にエクストラの仕事が急に増えたわけではないのだが、「慣れないことをすると、疲れる」ということのようである。
六時まで仕事をして、オフィスを出て、梅田へ行く。
クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマンがアカデミー賞4部門を制覇した『ミリオンダラー・ベイビー』の試写会。
アカデミー賞で話題になったので、公開が早まり、試写会も前倒しになったようである。
読賣のタニグチさんのご案内で、ウッキーおいちゃん白川さん中瀬さんら「合気道系秘書」四名を伴って梅田ピカデリーへ。
仕事の帰りにスーツ姿で映画を見に行くなんて、神南坂のアーバン以来20年ぶりくらいのことである。
試写会というのも、数えてみたら、生まれて4回目である。
3回目は二日前の東映本社の『コンスタンティン』、2回目は去年秋のフェスティバル・ホールの『ヴァン・ヘルシング』、1回目は1966年に誰かにもらった試写会チケットで行った、ジュリー・クリスティとローレンス・ハーベイの『ダーリン』(これは赤坂のTBSだったから、高校の友だちがチケットをくれたのかもしれない)。
30年間に4回しか試写会に行ったことのない人間が「映画評論家」を名乗るというのもずいぶんな話である。
私は年間300本の映画を観る「映画番長」(@タニグチ)であるが、そのうちの298本くらいは自宅でビデオかDVDで、もはやメディアが話題にしない古い映画を見ているのである。
『ミリオンダラー・ベイビー』の観客たちは終演後もしばらく「ショック」で(どういう種類のショックであったかはなんとなく想像がつくが、それは言わぬが花というものであろう)立ち上がれず、暗い顔つきでとぼとぼと10階からの階段を降りていった。
素晴らしい映画であったと思う。
私は「ヒラリー・スワンクとチャン・ツィイー」がmes actrices favoritesの人であるから、ヒラリー・スワンクが画面に出ているだけですでに上機嫌である。
でも、そういう観客はあまりいないようである。
『コンスタンティン』の映画評は来月の『エピス』に載るが、これは「『ぜんぜん似てない何か』に似ていると思ったら、村上春樹の『アフターダーク』とまったく同じ話であることに気づきました」で始まる。
『ミリオンダラー・ベイビー』の映画評はその次の月の『エピス』に出ることになるはずだが、これは「『まるでそっくりの話』があるなと思ったら、『あしたのジョー』とまったく同じ話であることに気づきました」で始まる予定である。
私の映画評が活字になる前に、当然にも映画評論家のどなたかが「これって、まるっと『あしたのジョー』じゃないか!」と言うと思うけれど、私もそう思ったので、まねしたんじゃないからねということをここで確認しておきたい。
ピカデリーを出て「亀寿司中店」に行ったらお休み。
ふらふらさまよっていたら、その昔ゼミのイシモリくんが連れて行ってくれた霧笛楼という居酒屋の前に出たので、そのままそこに入って、タニグチさんウッキーおいちゃんと、どの点が『あしたのジョー』かについて仔細な検討を行う。
爆睡して起きたら9時間眠っていた。
どうも、本格的に疲れているらしい。
スーツとネクタイとめくらばん(て使用禁止用語なのかな…とすると『無責任一代男』も放送禁止か)で疲弊し果てたのである。
よろよろと起きあがり、下川先生のところのお稽古に出かけて、たいへん真剣に舞囃子を舞う。
今日は徹底的にしごきますと宣言していた下川先生が一回だけ通して舞ったところで、「うむ、よくお稽古してきましたね」とお許しくださる。
実は「内臓を動かして不安定状態を作り、その不安定を解消するように歩を進める」という運足をこのところひそかにお稽古の課題としているのである。
「キネステジー仕舞」である。
どうやらなかなか汎用性の高い技法のようである。
家に戻ると文藝春秋の『諸君!』から憲法九条改正についてのアンケートについての問い合わせが来る。
昨日電話でオッファーを受けたので、「本務以外の原稿はもう書きません」と申し上げたら、「アンケートはどうですか」とおっしゃるので、アンケートに回答するくらいなら、とご返事したのである。
私は繰り返し書いているように九条の改定には反対する「護憲」の立場の人間である。
『諸君!』というのはコンサバ系の雑誌なので、私のような護憲の人間の意見なんか載せて「浮きませんか」とお訊ねする。
別に浮いても構わないという寛容なご返事だったので、『諸君!』の一部読者が怒り狂って「もうこんな雑誌二度と買わんぞ!」と天を仰ぐような原稿をさらさらと書く。
私の主張は単純である。
『東京ファイティングキッズ・リターン10』に書いたとおり、私は政治的信条の重みは語る人間がその信条にどこまで身体を賭けているかによってかたちづくられると思っている。
簡単に言えば、税金の使い道について論じる人間は税金を払っていなくてはいけないということである。
九条の改訂を求める人々は「戦争をしてもいい条件」をクリアーにすることをめざしている。
その場合は、政論を語る人間は「戦争をしている自分」を勘定に入れる必要があるだろう。
仮にその理路がロジカルにそれなりの説得力があるとしても、その人自身が戦場で人を殺し自分も殺される未来の風景をリアルに想像しえた上でそのことばを口にしているのでないならば、私はそのような政治的言説には耳を傾ける気はない。
森喜朗はたぶん自分が戦場で殺される可能性について一度も想像しないままに憲法改定を論じている。
「ときには血を流す必要がある」と熱く語る政治家が描いている「血」はたいていの場合彼自身の血ではない。
仮にもし今アメリカ合衆国憲法に「九条」があり、ジョージ゙・W・ブッシュが「九条第二項の廃絶」と自衛のための戦争の合法化を提言したときに、アメリカ国民は「徴兵を逃れるためにテキサス州軍に入って、そこからも任務を離脱した」大統領のことばに説得されるだろうという判断に私は与しない。
投稿者 uchida : 2005年04月06日 22:54
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» 「ミリオンダラー・ベイビー」 from なつきの日記風(ぽいもの)
夜の闇は夢を見せてくれるのに、
昼の明かりは全ての現実を隠してくれない。
原題:「Million Dollar Baby」
監督・主演・音楽:クリント... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年05月07日 00:29
» ■〔映画雑談Vol.5〕今週末、ダラダラするより『ミリオンダラー・ベイビー』!! from 太陽がくれた季節
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『ミリオンダラー・ベイビー』盛... [続きを読む]
トラックバック時刻: 2005年05月26日 22:41
いつも楽しく、かつ勉強させていただきつつ読ませていただいています。
『「ときには血を流す必要がある」と熱く語る政治家が描いている「血」はたいていの場合彼自身の血ではない。』
という部分まったく同感です。9条改正を主張する人が、ほとんど徴兵年齢をとうにすぎていることを思うと、本当に身勝手だなあと思います。改正するなら、いっそ3項を付け加え「徴兵は、これを国会議員、高齢者の順に行う」としてほしいくらいです。
ここに、渡辺清「砕かれた神」の感想文を書きました。戦中の権力者の欺瞞と、今、9条改正をさけぶ人の欺瞞は同質のものであると思います。
http://blog.livedoor.jp/raibudoaroguin/tb.cgi/18064219
投稿者 30歳女性会社員
: 2005年04月07日 02:02
なるほど。
第九条は国民投票&登録制にして、登録した人とその子孫が優先的に最前線に行けるようにすれば実感も湧こうというものです。
投稿者 KAZ
: 2005年04月07日 11:12
いつも有り難く拝読させて頂いております。
デンマークの退役軍人が戯れに作った「戦争絶滅請合法案」というものがあるそうです。開戦後10時間以内に、国家元首、その男子親族、国会議員の順番で最前線に行くこと。
さて、4/9のNHKラジオ出演で、内田先生の声を初めてお聴きできることをずっと楽しみにしておりましす。ご面倒おかけし恐縮ですけれども、ラジオに疎いものですから、NHKのどのチャンネルで何時から放送されるのでしょうか。もしもこのコメント欄にてお知らせ下さるなら幸甚でございます。私以外にも知りたい方々がたくさんいらっしゃると思います(知らないのは私だけ?)。
毎日興味深く拝見しております。ところで、私も自分が人を殺したり殺されるはめになったりすることは、とても想像できないし、できればそのような事態におちいりたくないと切に願っております。しかし、一方でたとえば自分の家族や自分自身に危害が及ぼうとするとき、それをただだまって見ていられるかというとまったく自信がありません。たとえば、ガンジーは、非暴力不服従で有名ですが、それこそ非暴力をつらぬくためには自分や自分の家族が殺されてもかまわないという覚悟があったと思います。私は戦争はゴメンこうむりたいと思っていますが、しかし私にはガンジーのような強靭な精神力はない。とすれば、戦争なしですませる知恵を働かせる必要があると思います。軍隊を持つ意義があるとしたら、戦争抑止力ということだと思います。抑止力をもたせるためには、当然戦争も辞さないということでなければなりません。そしていかにして戦争を回避するか、すなわちいかにして自分の存在を無意味にするかに全力をそそぐのがまっとうな軍人であるという論説をたしか故高坂先生がされていたかと思いますが、同感です。非常な矛盾です。でも人生は矛盾に満ちたものというのは、内田先生のお言葉ではなかったでしょうか。
うっかり書き忘れておりましたが、もちろん私は非暴力主義者ではありません。
私が言いたいのは、ヒネッケンさんとたぶん全く同じことです。
「武は不祥の器なり」というのは老子のことばです。
武力に倫理性というものがあるとすれば、それは「封印されてある」ということをその正統的なかたちとみなすということです。
「ためらいの倫理学」に書いたとおり、私は自衛戦力を保有することに反対しておりません。憲法第九条が存在するということが自衛隊の正統性を担保していると考えているからです。
日本は世界で類をみない憲法と軍隊の「ねじれた」関係を維持しており、私はこれを戦後世界におけるもっともリファインされた政治的妥協のかたちの一つと評価しています。
私が批判しているのは、この「ねじれ」を解消して、「無矛盾的なすっきりした軍隊」を持ちたいという願望です。
現に60年間他国の領土を侵犯することも他国の国民を殺すこともしなかった「軍隊」は先進国のなかでは日本の自衛隊だけしかありません。
このみごとなアチーブメントがどうして「恥ずかしい」事態とされるのか、私にはうまく理解できないのです。
医師の理想が医師が無用になる世界の到来であり、警察の理想が警察が無用になる世界の到来であるのと同じように、軍隊の理想はそこに投じられたすべてのリソースが無用であったということです。結果的に「無用」のものであったことが事後的にわかることだけを目指して軍備を整備すること。
この矛盾に対する国民的合意を形成したことを私は憲法九条の手柄だと思っています。
投稿者 uchida
: 2005年04月07日 23:36
三つ前のコメントの「戦争絶滅法案」は、高橋哲哉氏がある対談本の中で「犠牲の論理」と関わらせて書いていたものです。戦争で「犠牲を命じるだけの者」と「犠牲を命じられるだけの者」がきれいに分けられてあるとすれば、前者の人たちの開戦への「ためらい」は容易に少なくなります(カントは、元首が国家の一員ではなく、所有者であるとき、戦争で彼の食卓や狩りや宮中宴会など失うことなく、一種の遊技のように戦争を決定できる、と述べていました。「一員」であるということは「私は犠牲を命じる者であると同時に犠牲を命じられる者である」といういわば「矛盾」を引き受けることですね)。格差社会に急速に移行しつつあるこの国で、憲法や教育基本法の「改正」が意味するものを考えさせられます。
内田先生の論点からずれてしまいました。すみません。
ヒトラーとムッソリーニは、WWⅠに自ら志願し、重傷を負いました。スターリンと毛沢東は、自ら決断した戦争に、息子たちを送り、戦死させました。“南京大虐殺”の原因のひとつには、緒戦の、上海での戦闘で、多くの仲間を失った末端の兵士たちが、上層部の意向を無視し、復讐しようと先走ったことがあります。東條英機は、その中国大陸からの撤兵を要請されたとき、「十万の英霊に申し開きができない」と断りました。カントは、「共和制になれば戦争はなくなる」と予想しましたが、共和制においてこそ、それまで、文字通り「一種の遊戯」でしかなかった「戦争」は、悲惨な「総力戦」へと大化けしてしまいました。先の、イラク戦争で、開戦をためらっていたブッシュを励まし、開戦への決断を促したのは、エリ・ヴィーゼルです。…つまり、戦争は、何も、金持ちや卑怯者が起こしたりするものではない、ということです。>30歳女性会社員さま、KA
Zさま、kanさま
投稿者 truely_false
: 2005年04月08日 23:34
truely falseさま
「つまり、戦争は、何も、金持ちや卑怯者が起こしたりするものではない、ということです。」私も全く同感です。もしも、単一の原因から説明しつくすならば、あるいは「私」以外の外部に原因や責任を求めるとすれば、内田先生がいつも言われているように、「幼児」であり、何の解決にも至らないと思います。また「カントは、共和制になれば戦争はなくなる」と予想しました」とありますが、他方『永遠平和』の冒頭は、この標題の看板の上には「墓地」が描かれているという風刺から始まっています。「共和制」の危うさを、カントは「狂信」の「伝染」において熟知していたと思われます。ここで「狂信」とは、とりあえずで言えば「自我」に裂け目がないことです。「階層化=大衆社会」という洞見に続けて、内田先生はオルテガの「自己との不一致」にこの問題の糸口として言及されていますが、私の述べた「一員」も自我の裂開の一つのパタンとして捉えたものです。(自己正当化に終始してしまいましたが)
1.みなさんが、先生、先生は気持ち悪い
2.森さんが、想像しているかいないかを判定できる
超能力者も気持ち悪い
3.想像上の体験をしてるかどうかは、本人にしかわからんじゃろ。どうして、遠眼鏡が持てるか、わからん。
4.『「ときには血を流す必要がある」と熱く語る政治家が描いている「血」はたいていの場合彼自身の血ではない。』
という部分まったく同感ですと、書いた人、よい子悪い子普通の子の役割分担はどうすんの。まあ、世の中にそんな区分はなく、みな納得して稼ぎや犯罪にに邁進してるんだったら、理想郷だけどね。血を流さず、血を流させるやつがいるところから、スタートしようね。頭がよいけど、生活費で闘いを、したことねえんだろうな。
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