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2004年11月01日

リスクとデインジャー

11月1日

日本人旅行者がバグダッドで星条旗にくるまれた斬首死体として発見された。
私もおおかたのみなさんと同じように、被害者に対しては、「ワニのいる川って、どんな感じがするんだろう」と思って泳ぎにいったらワニに食べられた人の旺盛な好奇心に対する敬意以上のものを抱くことはできない。
もちろん、彼がバグダッドでいろいろ怖い目に遭ったあとに、日本に帰ってきて「バグダッドなんて、言うほどたいしたことなかったです」とにこにこ笑うという可能性もあったわけで、その場合には「なかなか剛胆な人物だ」という評価を得ることだってありえたわけである。
基本的には確率の問題である。
テロリストにしてみれば、別にアンマンやカイロやエルサレムで日本人を拉致して、「イラクから自衛隊を撤兵せよ」要求したってよいわけである。
バグダッドにいて拉致されたのなら被害者の「自己責任」だが、アンマンで拉致された場合は「自己責任」ではない、という理屈は通らない。
同じように、別に永田町から小泉首相を誘拐して「イラクから自衛隊を撤兵せよ」要求したってよいわけである。
彼らだってできることならそうしたいであろう。
そうしたいけれど、あれこれと準備が面倒なのでしないだけである。お金もかかるし。
だから、「ここからこっちは自己責任」で、「ここからあっちは免責」というような境界線は原理的には存在しない。
あるのは「可能性の濃淡」だけである。
単純な話、そこが「テロリストが長物を抱えてぞろぞろ歩いていても、誰にも咎められないような場所」であれば拉致される可能性が高いというだけの話である。
私が芦屋駅前でイスラム原理主義者に拉致誘拐される可能性はたいへん低い(ゼロではないが)、それは別に私が革命的警戒心に横溢しているからでも、彼らに革命的勇猛心が不足しているからでもない。
単に、芦屋駅前をテロリストが長物を抱えてぞろぞろ歩いていたら、芦屋のおばさまたちが「あらいやだ、テロリストかしら」「まあ、いやだわ、奥様」「ははは」という徴候的会話をなすであろうことが自明だからである。
いくらなんでも、通りすがりの人の95%から「あら、テロリストかしら」という好奇の視線を浴びつつ、「あ、そんなやつ、別に殺しちゃってもいいです」と日本政府が言うに決まっている人間(私のこと)を拉致誘拐するのは、費用対効果が悪すぎるから彼らもやらないだけの話である。
だから、必要なのは、ことの善し悪しを二項対立的に判断することではなく、相手の立場における「リスクとコスト」を計量することである。
今回日本青年が拉致され殺害された最大の理由は、この政治的行動がテロリストにとって「信じられないくらい安いコスト」で実行可能だったからである。
気の毒な話だが、「テロのコスト」を値引きしたのは被害者自身である。

国際関係には「リスク」と「デインジャー」がある、ということを前に書いたことがある。
「リスク」とは計量可能な危険性、「デインジャー」とは、計量不能の危険性、リスク・マネジメントやリスク・ヘッジが「効かない」種類の前代未聞の事態のことである。
中東における戦争は今さらブッシュや小泉がどう言いつくろおうと、「デインジャー」ではなく、「リスク」の範囲のできごとである。
「狂人」サダム・フセインが「大量破壊兵器」で世界を破壊し、おのれも破滅するというシナリオはたしかに「デインジャー」であった。
ことが「デインジャー」であれば、ルーティンによる処理では対応できない。
なぜなら、「デインジャー」の定義は「ルーティンが想定していない事態」だからである。
それゆえ「ルーティン」としての国連決議を待つことなく「有志連合」でイラクを襲った…というのがブッシュ=ブレアの言い分であった。
世界のかなりの人々がこの言い分を受け容れた。
しかし、サダムは「狂人」ではなく、計算高い政治家であったし、大量破壊兵器も世界破壊計画も存在しなかったことが明らかになった。
つまり、イラクにあったのは「デインジャー」ではなく、「リスク」だったのである。
アメリカが典型的な仕方でやったように、「デインジャー」に対応するためには、短期的にパフォーマンスを「限界以上」に上げるしかない。
そのためには「幻想」や「イデオロギー」や「物語」をオーヴァードーズすることがどうしても必要だ。
アメリカはそうやって戦争に突入した。
いまイラクにいるテロリストはアメリカが戦争に入るときにやったのとまったく同じように「幻想」や「イデオロギー」や「物語」のオーヴァードーズで、パフォーマンスを異常に亢進させた人々である。
これを組織的に作り出したのはアメリカ自身である。
だが、「作り出されたデインジャー」というのは「デインジャー」の定義に悖る。
人間の賢しらがどうこうできない境位に発生する危険を「デインジャー」と定義するからである。
それゆえ、中東に起きている事態は「デインジャー」ではなく、「リスク」であると私はさきほどから申し上げているのである。
リスクであれば計量可能であり、予測可能であり、統御可能である。
このような局面で必要なのはイデオロギー的純粋でも、宗教的確信も、革命的情熱でもない。
「ソロバン勘定」ができる知性である。
私たちの世界にほんとうに欠けているのは、このリアルでクールな計量的知性なのである。
戦争が論件になるときに、怒り出す人間や泣き出す人間にはこの仕事は任せることはできない。
私がメディアに提案したいことがひとつある。
イラク戦争終結のシナリオについて、自分と違う意見に決して「反論しない」人間だけを集めて「朝まで生テレビ」をやってみてくれないだろうか。
それなら私も見るかも知れない。

投稿者 uchida : 2004年11月01日 10:43

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トラックバック時刻: 2004年11月01日 18:34

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