加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』にたいへん興味深い挿話が載っていたのでご紹介したい。
リドリー・スコットの『ブラック・レイン』における松田優作の演技について書かれたものである。
「この映画に出演した日本人の俳優には、監督から、あなた方にはシナリオにある通りの日本語の台詞を話してもらうが、北米で上映される際、それには英語の字幕がつかない、そのつもりで演じてほしい、との要請があったそうだ。考えてみれば、これは十分にありうる。というのも、リドリー・スコットといえば一九七九年の『エイリアン』で名をあげた監督であって、十年後に作られたこの映画も、これと同型の物語だからである。日本の狂犬のようなヤクザがニューヨークで殺人を犯した後、日本に護送される。日本に着いた途端、警官に扮したヤクザに騙され、護送にあたった二人の刑事は犯人に逃げられる(…)ここで舞台となる日本という異境を、エイリアンの国と置き換えてみよう。するとこれは、そのまま『エイリアン』である。
日本人のヤクザが、彼ら同士は意思疎通できるが、われわれにはまったく意味不明の言語を話す。そこで話されることはすべてちんぷんかんぷん。不気味。(…)
この指示は、日本人俳優たちには、禅の公案に等しいものだったようだ。
『このシナリオの日本語の台詞で忠実に演じること』
『しかしその台詞は観客に通じない』
『つまり字幕なし』
『そこのところよろしく』
たとえば内田裕也は、映像を見るかぎりこの公案をまったく理解していない。彼は日本の映画でやくざを演じるのと何一つ変らない仕方で、その映画のなか、日本語をしゃべっている。室田日出男、安岡力也しかり。ただ一人の例外が松田優作(…)
松田優作もまた、同じ脚本を与えられた。ただ彼だけがこの公案に答えた。ここにいわれる『松田の怪演』とは何か。彼の演技はどこでほかの日本人の俳優と違っていたのか。
東洲斎写楽の役者絵は歌舞伎の俳優を過度に紋切り型にデフォルメすることで役者の持ち味を版画に定着してみせた。松田の演技はところどころで写楽の役者絵を思わせる。(…)ほかの俳優がせいぜい、歌舞伎俳優のようにエイリアンとしての日本ヤクザをなぞってみせているとき、彼は、それ自体がなぞりであるところの写楽の役者絵的演技を造型し、いわばなぞりを過度化する形に米人観客にとってのエイリアンたる日本の気狂いヤクザを演じきることで、彼らに彼らの『紋切り型性』を送り返しているのである。」(78−80頁)
加藤さんのこの分析は「定型性」と「批評性」の絡み合いの本質を鋭く抉っている。
定型的なふるまいを微妙に過剰にすることによって、その定型を「ナチュラルなもの」として看過している人々の「紋切り型性」=イデオロギー的な被制性を逆照射してみせること。
これはたいへんリファインされた批評のあり方の一つである。
松田優作という俳優は「演技」をめぐるあらゆる定型的圧力につねに懐疑的なまなざしを向けている人だった。
「それらしい芝居」というのが嫌いで、かといって「自然な演技」(それだとモーガン・フリーマンみたいに、どの映画に出てきても「同じ人」になってしまう)も厭で、結局「それらしすぎる芝居」にまで突き抜けることで、スクリーンやブラウン管と観客との境界線を越えて、いきなり「異物」が突出してくるような存在感をもたらす俳優だった(彼の代表的怪演はこの『ブラックレイン』と『蘇る金狼』だと思う。『金狼』のダメサラリーマン演技は凄い)。
似た感じの演劇性をもった俳優というと、状況劇場にいた大久保鷹くらいしか思いつかない。
加藤さんの字幕の話を読んで、松下藍さんの映画デビュー作『ひよこどんとてれび』のことを思い出した。
松下藍さんは旧友松下正己の愛娘である。
親の因果が子に報いで、ご令嬢もデジタルハリウッド系の映画作家になった。
松下くん平川くん私の『聖風化祭』トリオは全員「一人娘」なのであるが、娘たちは揃って「アート系」の人となってしまったのである。おそらくは、それぞれの父親の生き方に対するラディカルなご批判の表現ではないかと思われるのだが、どのあたりがとりわけ強くご批判を浴びねばならない点なのかは定かにしないのである(定かにされても反省するようなオヤジたちではないが)。
『ひよこどんとてれび』は藍さんのデジハリの卒業制作作品で、先般「娘がこんなん作りました…」と笑顔の(たぶん)松下くんからDVDをお送り頂いたのである。
この短編映画の中で登場人物たちの台詞は「意味不明の外国語」であり、それに日本語字幕がついている。
これはとてもスマートなやり方だな、と思った。
私は総じて外国語字幕付きの映画の方が吹き替えよりも好きである。
その理由がこの映画を観ていてふとわかったような気がした。
それは字幕付きだと、「声を聴く」プロセスと「字を読む」プロセスが「別のもの」だということが意識化されるからである。
映画の中の音声は権利的に「スクリーンの向こう側の世界」に属している。
私たちはそこにはダイレクトにはアクセスすることができない。
字幕は違う。
字幕の文字は、戸田奈津子とかそういうすごくリアルな「業界の人」が、私たちの日常と地続きのところで作りだしている「こちらの世界」の作物である。
つまり、字幕付き画面を見ているとき、私たちは「直接触れることのできない世界」と「直接触れることのできる世界」の「あわい」に立つことになる。
あるいは「あわい」に立っていることを絶えず意識させられる。
この「どっちつかず」の立ち位置に観客を置くことで、あきらかにフィルムメーカーは観客を「操作する」ことが容易になる。
それは片足立ちしている人間なら指一本の力でよろめかせることができるのと似ている。
『ひよこどん』の中で語られている意味不明の外国語(それは機械的に処理されて、さらに「ありえない音声」となっている)は「私たちにはアクセスできない境位に実在する言語」であるかのような仮象を呈する。
それが字幕の効果である。
つまり「字幕」という「こちら側」を際だたせることによって、「画面の中の出来事」という「あちら側」は私たちから遠ざけられる。
遠ざけられることによって、かえってそのラフなアニメ絵の世界が、あたかも日常的な理解力をもっては「不可侵の領域」として、どこか遠い場所に実在するかのように思われてくるのである。
さすがに“映像の催眠術師” (彼の映画を観ているときに睡魔に抗することは誰にもできない) と畏怖された松下くんのご令嬢である。
今後のさらなるご活躍に期待したい。
朝、学校に行こうと思って道を歩いていると、いきなりガンを飛ばされる。
見知らぬ若い男が私の顔を穴が開くほどじっとみつめている。
なんだよと、こちらも軽くコンニャロ光線(@椎名誠)を送り返す。
部長会に出たら、何人かに「見ましたよ」といわれる。
何かと思ったら今日が朝日新聞の大学欄の掲載日だったのである。
私は爆睡のせいで頭が弱っていたので、新聞を半分まで読んだだけでそのさきを読む気力がでず、出勤してしまった。
おかげで、寝起きに新聞を開いたら自分の顔写真に遭遇して、口からコーヒーを噴き出すというような目に遭わずにすんだ。
私にガン付けした若者はおそらく「あれ、どこかで見た顔…」と思われたのであろうが、それがさっき読んだ新聞の写真の人物とは同定することができなかったので、いつまでもじろじろ眺め続けていたのであろう。
写真を撮られるときには黒縁眼鏡をかけて変装して撮影したので、素顔は容易にアイデンティファイされるはずがないのである(この黒縁眼鏡は厳母に「タツルはそれかけている方が賢そうに見えるから、いつもそれかけてなさい」と命じられた品である。あのー、おかーさん、それって「素顔のタツルはバカっぽい」ということだと思うんですけど・・・)
こういう余計な苦労をさせられるからメディアに写真を出すのはイヤだって言ってるのに。
メールボックスを見ると、いろいろなところから仕事の依頼が来ている。
システマティックにお断りするはずなのであるが、文面を読むとたいてい「先生の本の愛読者です」と書いてある。
私は「批判者」に強く、「愛読者」に弱い。
「読者からの罵倒や中傷」には完璧なガードを誇っているが、「読者からのはげましのおたより」には無防備なところがある。
「忙しいので原稿は書きません」というお断りの手紙を「自称・愛読者」であるところの編集者のみなさんが読まれた場合に、はたしてどういう反応を示されるであろうか。
「けっ、こっちが下手に出て原稿頼んでるのに、『忙しいから書けません』なんて、木で鼻を括ったような返事をよこしくさって…もうウチダの本なんか全部棄てちゃお」というほどに狭量な方はまさかウチダ本の読者の中にはおられないとは思うが、それでもちょっとは心配である。
だから、断りの手紙にはどうしても貴意に添えない切ない事情をていねいに書き記す。それはそれでけっこうな字数を費やしているのである。
というので、今日は600字ほどの原稿依頼だったので、寄稿の可否の問い合わせに原稿をもってご返事する。
これはウチダの得意技の一つである。
ひとつには「はい、書きます」とご返事して、そのまま忘れてしまって締め切り間際になって慌てるというリスクを回避するためであり、ひとつには「いいえ、書けません」という理由を縷々書き記している暇があったら、原稿を書く方が早いからである(原稿料ももらえるし)。
赤澤清和くんの手吹きガラス展が明日から始まる。
5月31日(火)から6月5日(日)まで。午前10時から午後5時まで。
場所は倉敷市中央1−6−8 クラフト&ギャラリー幹(086-422-7406)
事故の前に企画された展覧会なので、案内には「会期中作家在廊」とある。
「存在するとは別の仕方で」という副詞はここに書き加えられるにもっともふさわしい言葉だろう。
赤澤くんの簡単な経歴が記してあったのでご紹介しておきたい。
1973年 岡山市に生まれる
1991年 つくし工芸九州民芸村(福岡)に入社
1993年 石井康治先生に師事
1997年 岡山市高野尻に築炉し、作品制作を始める
1999年 岡山県美術展「奨励賞」受賞
岡山市オリエント美術館「ガラス工芸-歴史と現在-」に参加「把手付き三連瓶を復元する
NHK総合テレビ「ガラスの美-古代技法に挑む-」放映
2000年 岡山県美術展「奨励賞」受賞
2001年 岡山県美術展「県展賞」受賞
2004年4月より倉敷芸術科学大学専門学校非常勤講師
牧子さんが在廊しているそうなので、赤澤くんの仕事に関心を抱かれた方はぜひ倉敷まで足を運んでください。
死ぬかとおもったぜの五月最後の週末が終わり、10時過ぎまで爆睡。
このところ朝起きても身体のふしぶしに詰まりや凝りが感じられたが、今日はだいぶゆるんでいる。
それだけ会のメンタルストレスが大きかったということである。
今日からはたまった原稿(あれこれの「まえがき」)を書き始めなければならないし、自己評価委員会の引き継ぎも金曜日にあるので、その資料作成もしなければならない。
その自己評価委員会のなかむら・けん先生からメールで小委員会報告書がとどく。
お手数かけました。
メールの下の方に「小咄」がひとつ書いてあった。
こんな話。
我が家の近く、阪神魚崎駅付近というから、かなりの下町ですが、その駅近くには「エデン」という名の喫茶店があります。
漫画週刊誌とスポーツ新聞が転がる、昼は安い定食となるような、お世辞にもお洒落とはいえないところです。
先日、出かけようとしたとき、珍しくタクシーが通りかかり、小雨模様で、少々急いでもいたので、思わず手を挙げてしまいました。
乗ってみると個人タクシー、運転手は近所でなんとなく見たことのあるおじさん。
「運転手さん、この辺に住んではんのン?」
「ヘェー、阪神魚崎のちょっと西でんねん。」
「西って、坂の途中に古い喫茶店あるやん。近く?・・・」
「ヘェー、『エデンの西』です」
とっても疲れる五月の最後の週末が終わる。
28日土曜日は日本武道館で全日本合気道演武大会。
多田塾甲南合気会公式デビューの記念すべき日である。
前夜からの「持ち越し疲労」で朝から眼の下にぐっきり黒い隈をつくってよろよろと新大阪駅へ。
新大阪集合者はウッキー、ドクター、飯田先生、石田“社長”の五名。
7時53分の新幹線で一路東京へ。
合気道のイベントはつねに「現地集合現地解散・あとは自分の才覚でなんとかせよ」という自力更生な方針を貫いているので、いったい誰が何時にどこに来るのか最後までわからない。
いかなる手段を用いても、所定の演武開始時間までに武道館の畳の上にたどりつくこと、ということしか指示していない。
たどりつければオッケー。たどりつけない人にも別にペナルティーがあるわけではない。
人生というのはえてしてそういうものである。
誰もたどりつけないで私ひとりしかいないなら、それはそれで、たまたまその辺を歩いていた気錬会の運の悪い子(ヒロタカくんとか)をつかまえて、「おお、ちょうどよかった、受け、取って」と言うだけのことである。
地下鉄大井町の駅で神戸せいぶ館の中尾館長とばったりお会いする。
中尾さんは90年に私が神戸に赴任してきた最初の年(まだ自分の道場がなかった時期)に、合気会神戸支部精武館道場に「間借り」してお稽古させていただいたときに快くお受け入れくださったありがたい道友である。
精武館道場には女学院の合気道部ができたあとも、部員たちともどもずいぶんとお世話になった。
95年の震災で道場は全壊してしまったが、そのあと中尾さんは道場名を継いだ「せいぶ館」を神戸市内に自力で建てられ、創設された兵庫県の合気道連盟の中心メンバーである。
県連には何度か参加のお誘いを頂いたのであるが、大学のクラブに毛が生えたような小さな組織であるので、参加をご遠慮していたのである。
だが、今般「多田塾甲南合気会」と改称して地域の道場としての方向がはっきりしてきたこともあり、中尾さんとの再会を奇貨として(というか、「ウチダさん、あんた、入らなあかんよ」とヘッドロックされて)、県連にも参加しますとご挨拶する。
全日本合気道演武大会は今年が43回。
私はその15回目(日比谷公会堂から武道館に移った年)から参加しているので、今年が28回目に当たる。
鬼籍に入られた先代の吉祥丸道主や白田師範や山口師範が演武されている頃から一度も欠かさずフルエントリーである。
最初の年はたしか参加者が2000名だったと記憶している。
今年は6800名。
海外85カ国に支部があり、世界150万人の道友がいる。
合気道もその間に大きく成長したのである。
組織がだんだん大きくなって「知らない人」が増えてきたというのではなくて、やたらに「知っている人」の数がふえて、10メートル歩くごとに「や、どうも元気ですかあ」と挨拶したり握手したりハグしたりしなければならないというのが合気道の素晴らしいところである。
武道館前で「現地集合」の部員諸君と合流、小堀さん岡田さん今崎さん坪井さん笹本さん寺田さん小林さんジョバンニさんなどと会うたびに「ややややどもども」とご挨拶。
演武会は「いつものとおり」の全世界の合気道家の「お祭り」である。
この毎年「いつものとおり」という予定調和がほんとうに素晴らしい。
二年生諸君と白川主将(去年は骨折でリタイヤ)は今年が最初の武道館出演である。
高雄くんの友だちのN大の横地早和子さんがどういう魔術をつかってか10000人の観客の中から過たずウチダを発見して、部員一同への「おみやげ」を下さった。
どうして発見できたのか不思議だねとかたわらのウッキーに訊くと、「先生は背中から見ただけでわかりますから」とつまらなそうに答えるので、とりあえずしばき倒す。
「なんで怒るんですか…」と泣くので、そういえば別に悪口を言ったわけでもないのに済まないことをした。
自分たちの演武のあと、その横地さんを相手に演武の「解説」をする。
合気道のよいところは他人の術技を批判しないところです、と説明していると横地さんから「あの…さきほどからずっと他人の術技をめちゃくちゃ批判されているような気がするんですけど…」という痛い視線が突き刺さるので、反省。
多田先生の感動的演武を拝見したのち、恒例の武道館前記念撮影を終えて、どっと九段会館屋上ビアガーデンでの多田塾打ち上げへ。
気錬会の伊藤新主将を囲んで、“至宝”工藤くん、“王子”井上くん、早稲田の“新婚”宮内くん(奥様は私の本の愛読者だそうである。宮内くん、いい奥さんをもらったね)らと歓談。
翌日の五月祭演武会には残念ながら参加できないので、「うちの若いもんがお世話になりやす」と別れを惜しみつつあたふたと「下川社中」ご一同とともに東京駅へ。
日曜日は湊川神社の神能殿にて恒例の下川正謡会大会。
さすがに疲労困憊して朝起きるのがつらい。
私の出番は夕方4時頃なので、午後3時まで寝ていてもよいのであるが、社中のみなさまは早朝から(ドクターなんか朝8時半から)詰めているので、私ひとり寝ているわけにもゆかない。
8時半に起きて稽古。
神楽を舞い納めてから『葵上』の稽古もして、あわてふためいて神戸へ。
開会に20分ほど遅れてしまう。
すでに大西さんとドクターの出番は終わったあと(すまぬ)、飯田先生とウッキーの素謡『小袖曽我』にかろうじて間に合う。
みなさまの初仕舞を拝見してからロビーへ出る。
本願寺のフジモトくん、“元美人聴講生”の江田くん、“街レヴィ”小林さん、”社長”(せっかくの休日なのに・・・)、”IT秘書”イワモト、合気道部「居残り組」の溝口さん、くーさん、嶋津さん、卒業生の角田くん、蔵屋くん、三杉先生はじめ大学のみなさんも大挙してお越し下さっていた。
ひととおりご挨拶したが、なにしろ疲労困憊しているので社交的会話もしんどい。
そろそろと抜け出して神能殿内で寝られるところを探す。
楽屋では人目があって寝られないし、見所では寝心地が悪いし(そういう問題か!)、廊下の奥に人気のないソファを発見して、そこで爆睡。
2時頃にのそのそ起き出して、楽屋でのそのそ着替え。
不眠のオガワくんの『船弁慶』を中入りまで見所で見てから、楽屋でスタンバイ。
予定通り4時25分に舞囃子『巻絹』。
97年から数えて8回目の舞台であるが、これほど体調が悪かったのははじめてである(というのは嘘で、二年前の『養老』のときは足首を捻挫したまま舞囃子を舞ったのであった)。
でも、これほど疲れて舞台に出るのははじめてである。
しかし、ステージを前にしたときのアドレナリン放出というのは恐ろしいもので、切戸口の鏡で顔を見ると、ふつうの顔にもどっている(さっきまで眼の下に隈があったのに)。
おっしゃーと気合いを入れて舞台に出る。
申し合わせでは無人の見所を前にしてあがってしまって、それまでの稽古で一度も間違えたことのないところで拍子を踏み間違えたが、いざ舞台に出ると、わが家の(あまり掃除してない)フローリングよりも舞台の床の方がずっと足の運びが楽だし、囃子や地謡のグルーヴ感も生演奏ゆえに心地よい。
そのまま気合いで押して、一気に舞い終える。
やれやれ。
下川先生に「よかったよ」と肩を叩かれて、ほっとしてばたばたと着替えて、素謡『葵上』。
こちらはワキツレなので、だいぶ気楽である。
謡い終えて、見所に走って下川先生の番外舞囃子『高砂』を堪能する。
お師匠さまはほんとにかっこいい。
ほれぼれと見終えて、最後まで見て下さった見所のみなさま方にご挨拶。
川村さん、平山さん、三杉先生、角田さん(さっきのとは違う人ね)、小鼓の高橋奈王子さん、ゼミ生の佐々木さん田中さんなどなどたくさんの方々から楽屋見舞いを頂く。
朝から最後まで、みなさんどうもありがとうございました。
次回は、ドクターや大西さんの初仕舞も見られますからね。お楽しみに!
正謡会はほんとにストレスフルなイベントであるが、それだけに終わったときの解放感はほかのどのようなイベントとも質が違う。
ほんとうに肩の荷が下りたような安堵がする。
打ち上げビールや紹興酒をがばがば呑んで、大騒ぎして、今年の正謡会も無事終了。
ほんとにほっとする。
5月27日(金)
ゼミのあと、会議が三つ。
「眠たい会議」と「疲れる会議」と「悩ましい会議」であった。
この種別は会議のレベルや議題の重要性にはかかわらない。
「当該委員会に議論していることについての最終決定権がない問題」を議論していると、眠くなる。
「すでに機関決定している既決の問題」を執拗に蒸し返されると疲れる。
「どうしたらいいか誰にも正解がわからない問題」を議論していると悩みが深まる。
ときどき、議事の最中に、原案への賛否の論でも動議の提出でもなく、長々と「感想」を語るひとがいる。
あのー、そういうことは自分の家に帰って、日記にでも書いてくれませんか。
(以上、本日の『ダカーポ』日記でした)
加藤典洋さんの『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)を読み終わる。
最後の方は「内田樹論」なので、照れくさくて身もだえし床を転げまわって読み終える(騒がしい読者だ)。
書評というのは本一冊についての批評であるから比較的気楽に読めるのであるが、「書き手自身についての評論」ということになると、そのようなふやけた気構えで読めるものではない。
加藤さんはたいへんていねいに(ウチダ自身も知らなかった)ウチダの頭の中身を解明してくださった。
そのような報われること少ないお仕事に貴重なお時間を割いてくださったことに感謝申し上げなければならない。
フッサールについて、ちょっとだけ補足説明したいことがあったので、それをここに書き留めておく。
加藤さんの本を読まれる方は、ついでにこの部分も併せて読んでいただけるとさいわいである。
加藤さんはレヴィナスの「他者」概念とフッサールの「他我」概念がどういうふうに違うのか、仮に違いがあるとしても、そのことがふつうに生きている人間たちにとってそれほど有意な差異なのどうかは内田の説明を読む限りではよくわからない、ということをご指摘されていた。
そのご指摘を奇貨として、ここで「他者」と「他我」の差異について簡単に補足的な解説をしておきたい。
通常私たちは「他者」というものを「遠い人」「隔てられている人」「境界線の向こう側の人」「うまくことばのやりとりができない人」というふうに理解している。
もちろんこの理解でもよいのだけれど、難点がある。
それはこれらの規定はすべてが「空間的表象形式」に依拠していることである。
フッサールの「他我」の説明は「家」や「机」や「さいころ」などのオブジェをもちいた卓抜な比喩で語られるけれど、これらはすべて「ある空間を占めている物体」である。
私が「家の前面」を見ているとき、私はそれを「家の前面」であると確信している。
どうして確信できるかというと、私がとことこ歩いて家の横に回り込むと「家の側面」があり、さらに回りこむと「家の裏面」があり、はしごをかけると「家の屋根」が見え、床下にもぐりこめば「家の底」が見える・・・ということについてゆるがぬ確信をもっているからである。
「そこに行けば、そのようなものが見える」という確信あればこそ、私は「私が今見ているのは『家の前面』である」と判断できる。
この想像的に措定された「そこに行って、家を横やら裏から見ている私ならざる私」、それが「他我」である。
私が世界を前にして「私」として自己措定しうるのは、無数のこの「想像的な私」=他我たちとの共同作業が前提されているからである。
それゆえフッサールは「あらゆる主観性はそのつどつねに共同主観性である」と述べたのである。
さて、フッサールの他我論のかんどころはその次に来る。
この他我たちは現事実的に存在している必要はない。
他我はある種のヴァーチャルな機能にすぎない。
だから、仮に私以外の世界の全員がペストで死に絶えたとしても、「世界は存在する」という私の確信はゆるがない。
そのときに「おいおい、とうとう人類はおいら一人かよ。参ったなあ・・・」と私が独白した場合、そのことばは聞き手がひとりもいない世界で発語されているにもかかわらず、日本語の統辞法に基づき、日本語の音韻を用いて、「聞き手にちゃんと聞き届けられるように」語られる。
それ以外の語り方を私は知らないからである。
つまり、他我は現事実的に存在しなくても他我として機能し続けるのである。
レヴィナスがフッサールの他我論でとりわけ着目したのはこの点である。
レヴィナスが現象学を祖述するに際して、強く強調したのは「そこにもう/まだないもの」もまた志向的対象でありうるという目のくらむような洞見であった。
「そこにもう/まだないもの」によって私は「影響される」(affecter) 。
「そこにもう/まだないもの」が自我の同一性を基礎づけ、「私」の語ることばを調律し、その統辞法や語彙や音韻を定めるということがありうる。
というか、「私」が存在するというのはそもそも「そういうこと」なのである。
「世界で最後の人間」となった私が、それでもなお現事実的には存在しない他我たちとの共同主観性の中でしか生きられないように、「そこにもう/まだないもの」とのかかわりの中においてのみ私は「私」なのである。
そのような「現事実的に存在しないにもかかわらず、存在する私にかかわりくるものもの」をレヴィナスは端的に「他者」と呼んだ。
「すでに/もう」という副詞が示すように、レヴィナスの「他者」は空間的に隔絶された実在者のことではなく、「時間的に隔絶された」という点をきわだった特徴とする。
フッサールは、人間は同時に家の前面と家の側面を認識することができないにもかかわらず、「見えていないもの」を「見えているもの」と同時に認識することなしには「見る」という行為がそもそも成り立たないことを指摘した。
フッサールの志向性は「同時に、違う場所にいる」ものをめざす。
レヴィナスの志向性は強いて言えば「違うときに、同じ場所にいるもの」をめざす。
私が「ここ」に到来するより先に「ここ」にいた人。
私が「ここ」から立ち去ったあとに「ここ」に来る人。
そのような時間的な「タイムラグ」によって構築される共同主観性のパートナーをレヴィナスは「他者」と呼んだのである(たぶん)。
だから、レヴィナスの「他者」を、空間的表象を用いて記述しようとするすべての試みは
原理的に頓挫することになる。
他者は私とは違う時間の流れに属するのであり、「存在するとは別の仕方で」私の思念と感覚に絶えず「触れ」続ける。
それゆえ「他者とは死者である」と書き換えるときに、レヴィナスの他者論はそのなまなましい相貌をあらわにすると私は『他者と死者』に書いたのである。
「簡単に説明」するつもりで長々と書いてしまった。
現象学やら存在論やらに用事はないぞ、という方には面倒な話を聞かせてしまって申し訳ない。
しかし、もしレヴィナスの哲学が「生きる」というのは生物学的に生存しているということとは違うということ、「存在しない」ものは存在者に決定的に関与することを止めないということを強調しているのであるとしたら、これは生と死についての、まことに掬すべき賢者の言であると私は思うのである。
私は今このことばを愛する人を失って深い悲しみのうちにある人に宛てて書いている。
フッサールの他我論やハイデガーの存在論を読んで癒しや慰めを得る人がいるかどうか私は知らない(あまりいないような気がする)。
だが、レヴィナスの他者論から癒しや慰めを得ることのできる人は少なくない。
それはレヴィナスの他者論が本質的な点で「死者論」だからである。
そして、死者が「触れてくる」経験について考えるためになら、私たちは惜しみなく持てる人間的資源を捧げることができるのである。
5月26日(木)
ゼミは「クローン」についての発表。
人間の「死」というのはどこで計量されるのか?
生物学的に死んでも、遺された人々の「心の中に生き続ける」人がいる。
一方に、生物学的には生きているけれど、その人の不在が誰にも「欠落」として感知されることのない人がいる。
はたして「生きている」のはどちらなのだろう?
その不在が痛切に感じられる死者は人間的な意味ではおそらく「生きている」のと変らない。
レヴィナスが「存在するのとは別の仕方で」という副詞で言おうとしたのは、そのような事況ではあるまいか。
「生命の重さ」を計量する度量衡がもしあるとしたら、それはどれだけ多くの人にとって、どれだけ痛切にその人の不在が「欠落」として感知されるか、その欲望を基準にしてしか量る手だてはない。
私はそう思う。
午後は合気道の授業と稽古。
「関係の絶対性」(懐かしい吉本隆明のワーディングだ)は武道におけるきわめて汎用性の高い知見である。
「関係」とは「相対性」のことである。
「相対性の絶対性」
なるほど。ほんとにそうだよな。
そんなこと急に言われてもみなさんは困るでしょうけど。
「ほんとにそうだよな」としか言いようがないのである。
武道とは「生き残るための技法」である。
でも「生きる」ということの語義を私たちはほんとうに理解しているのだろうか。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。常住死身となりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。(『葉隠』)
「死身となりて居る」人間だけが「業務上の失敗がなく、与えられた責務を全うすること」ができる。
山本常朝はそう言っている。
「業務上」や「責務上」でかかわりをもつ人間たちに「越度なく、家職を仕果たす」というしかたでささやかな「贈り物」をするためには、「死身となりて居る」覚悟がいる。
それは逆から言えば、「死身」となった人間もまた私たちの世界に「贈り物」をすることができるということである。
死を鴻毛よりも軽んずることができるというのは、生きているときと同じような「贈り物」を死者もまた贈りうるという確信がなければありえないことである。
なんだか『ダカーポ』日記的じゃないことを書いてしまった。
5月25日(水)ガラス工芸家の赤澤清和くんの葬儀のために岡山へ。数百人の知友が集まった。みんなから愛されていた青年だったのである。喪主の牧子さんは私の教え子である。憔悴した彼女にかけることばもない。霊柩車の後を数十人の友人のライダーたちが轟音を挙げて追走していった。往復の新幹線の中で加藤典洋さんから送ってもらった『僕が批評家になったわけ』(岩波書店)を読む。「なぜ内田樹はずっと売れなかったのか」について私も知らない深い理由が解明してあったのでびっくり。そ、そうだったのか・・・帰宅後すぐ能のお稽古へ。今日は装束・面をつけてお稽古する。重い、暑い、暗い。よろよろ帰宅するが、今日が『文學界』の締め切り。天は私に休息を与えてくれる気がないらしい。(今日の『ダカーポ』日記)
初夏の日差しが照りつける赤澤清和くんの葬儀には彼のバイク仲間たちがバイクを連ねて参列していた。
受け付けの仕事も、葬儀場のキャパを超えるほどの弔問客たちの整列も、葬儀にいかにも「似つかわしくない」革ジャンにジーンズのライダーたちが仕切っていた。
かたどおりの読経のあと、焼香のあいだ斎場に流れていたのはキャロルや長淵剛やチェッカーズの曲だった。
赤澤君は深夜にバイクで走行中に、道路工事で片側通行止めになっているところで転倒した。
転倒しただけなら擦過傷か骨折くらいで済む。
彼の場合は不幸にもその先でアスファルトを切断する歯車が回転しており、大量の失血で、救急車で病院に運ばれたときにはもう心停止していた。
それでも一週間意識不明のまま生き続け、22日に亡くなった。
斎場を離れる霊柩車を数十台のバイクが激しいエキゾーストノイズを悲鳴のようにあげながらついていった。
どれも定型的な葬儀にはどう考えてもふさわしいたたずまいではなかったけれど、赤澤くんという人の個性を深く愛していた友人たちのまっすぐな弔意がこめられていたように私には思えた。
四年前に一度だけ(赤澤くんはその前にも一度、神戸女学院に牧子さんといっしょに結婚のご挨拶に来てくれたことがあったあったでしょと「不眠」のオガワくんに教えてもらった。そういえばそうだった。赤い野球帽をかぶってたな)会った赤澤くんは陽気で気づかいのゆきとどいた「悪童」だった。
彼の手ほどきで熱く溶けたガラスで二つグラスを作った。
「教え方」のすごくうまい人だった。
自分のスキルと美意識と、その汎用性について、深い確信をもっている青年に会うというのは希有のことだ。
私の本を読んでいてくれて、「先生のことをいつも気にかけていたので、送りにきてください」と電話口で泣きながら牧子さんが言った。
牧子さんは私のゼミ生の中で、私が「読書」で負けた唯一の学生である。
破格な読書家であった牧子さんは、最初のフランス語学研修のとき滞仏中に読む本がなくなって、私のところに「何か本はありませんか」と本を借りに来た。
読み終えたばかりの『ニューロマンサー』を貸してあげたら、翌日返してくれた。
「つまらなかったの?」と訊いたら、きょとんとしている。
300頁くらいの本を一夜で読んでしまったのである。
「一晩で読んだの?」とびっくりして訊いたら、その質問にびっくりしていた。
彼女の読書ペースとは「そういうもの」だったらしい。
「不眠日記」の小川さんやベルギーのカナ姫たちとブザンソンで二週間過ごしたあと、いっしょにイタリア旅行をした。
ベネチアの海岸で『ベニスに死す』の場面を真似て、いつまでも笑い続けていたことを今でも思い出す。
大学院に進んで文学研究者になるのかと思っていたら、卒業と同時に高校のクラスメートだった赤澤くんと結婚して(これも事実誤認で「中学のクラスメート」だったそうである。謹んで訂正いたします)、すぐに母親になってしまった。
あれほど怜悧な女性が22歳で主婦になりたくなるような気にさせる若者というのはどんな人なんだろうとずっと興味があった。
会ってみて「なるほど」と思った。
これなら結婚しちゃうよな。
告別式の挨拶をした山口松太さんが、赤澤君を「ジェームス・ディーンみたいな人」だったと形容していた。
「神々の愛でにし人は夭逝す」
もう一度、赤澤清和くんの魂の天上での平安を祈りたい。
遺された牧子さんと、ふたりのお嬢さんにも神の豊かな慰めと癒しがありますように。
加藤典洋さんから送られてきた『僕が批評家になったわけ』は岩波書店から出る「ことばのために」というシリーズの一冊である。
他の執筆者は荒川洋治、関川夏央、高橋源一郎、平田オリザ。
加藤さんの本は「批評とは何か」という根源的な問題を扱っている(すごく面白い。とくにいきなり柄谷行人が「なんぼのもんじゃい」という話から入るところがスリリング)。
その中で私のことも論じられている。
それは私が「売れなかった」ということの理由についての考察である。
「どき」っとしたので、その部分を再録してみる。
「内田は、現在五十代半ばだが、ほんの四年前まではフランス現代哲学の担い手の一人であるエマニュエル・レヴィナスの翻訳によって関心のある人々に、僅かに知られる-知る人ぞ知る、というでもない-書き手だった。」
「知る人ぞ知る、というでもない」というところが「ぐさっ」と来ますね。
で、その先は
「なぜ突然こういう書き手が現れたのか。いや、こう問うのは愚かしい。こういいかえないとけない。なぜ、これだけの力量をもつ書き手が、五十歳にいたるまで翻訳書のほかには数冊の共著を出すだけの仕事しか行わない、寡黙で怠惰な(?)書き手だったのかと。」
力量云々はともかく、なぜこれほど寡黙で怠惰な書き手だったのか(これは事実である)について、加藤さんはたいへんに深い考察をしている。
読んで私も驚いた。
そうだったのか。
そうだったのかもしれない(と私も読んで納得してしまった。加藤さんが分析してくれた「その理由」を知りたい人は本を買ってね)。
でも、一番大きな「怠惰」の理由は「子育てに忙しかった」からじゃないかと思うんですけど、加藤さん…
というわけだから、当然このあとは「その内田が2005年を境にまたぴたりと執筆を止めて、寡黙で怠惰な書き手にもどった」ことも批評史的には問題にされなければならないはずであるが(別にならないけど)、理由は「教務部長の仕事が忙しかったから」なんですね、これが。
「子育て」や「学務多繁」で平気で「批評」を止めちゃうような人間なんです、ウチダは。
そして、もし私の言説に多少なりとも批評性があるとしたら、それは「学務多繁を理由に平気でメディアへの執筆をやめちゃうような人間である」という「態度の悪さ」によって担保されているような気がするのであります。
加藤さんは現にその少し前で戦時中の言論人のふるまいを論じて、こう書いておられる。
「多くの言論人が(…)書くことから離れられずにずるずると自分の考えを拡散させていったことを考えると、時には、書かないこと、書く代りに生計を立てる道として、ほかの手段を選ぶこと、煙草屋になること、商売人になること、サラリーマンになることが、このような日本の伝統のもとでは、批評的な行為となりうることがわかる。」
さすが、加藤典洋。
ものごとの本質をよく見ておられる。
私は前に「プロの物書き」と自称する方からの批判に答えて「私は『プロの物書き』ではない」と申し上げたことがある。
私は「アマチュアの物書き」である。
批評性というのは「批評」が知的商品として市場価値を持つ場所においてしか成り立たないものではないと私は思う。
そのような場の成り立ちかたそのものを問う批評性を確保しようとするなら、人は批評以外の「たずきの道」を確保しておかなくてはならない。
私はそれはそれで、ある種の人間にとってはけっこう大切なことではないかと思う。
私は「アマチュアの物書き」であり、「アマチュアの学者」であり、「アマチュアの武道家」であり「アマチュアのビジネスマン」である。
どの領域でも「プロ」というほどにコミットしていないので、あちこちのエリアで小銭を稼ぐというかたちでリスクヘッジしている。
もちろん、そういうスタイルに汎通性があるとは思っていない。
だから、「みなさんもそうしなさい」というようなことは申し上げない。
でも、私自身は「そういうスタイル」じゃないと落ち着かないのである。
それはいわば私の「せこさ」である。
そして、この「せこい」状態に安心しているとき、私の毒舌はたいへんなめらかに機能するのである。
5月24日(火)朝一で湊川神社で『巻絹』の申し合わせ。拍子を一箇所間違える。「あ、いけね、あとで先生に叱られる」と思った瞬間に道順を忘れる。舞台の上では次の動作以外のことを考えてはいけない。外へ出ると境内に「ムーゲゴンビ」とか「きやぼつ」とか「めあごんり」という看板がはためている。「ラテスカービベ」の前で一瞬眩暈がする。そういえば、神鍋高原の「とち餅」の布看板は風が吹いて裏表が逆転すると「うさ餅」と読める。どうして「餅」だけはそのまま読めるのか、不思議だ。
以上、本日の『ダカーポ』日記でした。
5月23日(月) 昼から部長会。主な報告事項は節電問題(使わない教室の電気は消しましょう)。議事はなし。オフの日に「こんな話」を聞くために大学まで呼びつけられたのかと思ったら目の前が一瞬暗くなる。会議のあと教務部長室でふてくされて「正しい大学の倒産の仕方」を読んでいたら、ミネソタに日本語を教えに行くおいちゃんが遊びに来たので、隣のオフィスで働いているふりをしているウッキーも呼んでエスプレッソをご馳走する。それから杖道の稽古。
なんだか素っ気ない日記だが、『ダカーポ』という雑誌に今日から一週間の日記を19字×117行書くことになったので、その原稿である。
こんなのを七回書いただけで原稿料をもらったら天罰が下るような気がする。
宮崎哲弥さま(だんだん敬称の次数が上がる)の書評のおかげで大手の書店から『インターネット持仏堂』の注文が殺到して、『2』が四刷りになりますと“魔性の女”フジモトくんから(あまりこんなことばかり書いてると、フジモトくんのご両親から「嫁入り前の娘なんですから!やめてください」と抗議がくるかもしれない)弾んだ声で電話が入る。
でもトータル5000部だそうである。
あのさ、本願寺信徒1500万人じゃなかったの。
信徒全員がお買いになって、1500万部売れるとマイケル・ジャクソンの『スリラー』の全世界セールスとタメですね。わははベンツをダースで買いますか、と釈先生とほほえみ交わした日が遠い夢のようだ。
昨日の日本記号学会のお相手の室井“二代目大熊猫”尚先生から丁重なるご挨拶メールが来る。
世の中には「悪童系」というカテゴリーに属する学者がおられる。
その知性の最良の資源の一部を惜しみなく「人をからかうこと」に投資するタイプの人々である。
森毅先生とか養老孟司先生とかはおそらくそのタイプの先達である。
室井先生もなんとなく「ご同類」のような気がしたので、「先生の企画する面白そうなプロジェクトがあったらお声をかけてください」とお願いしておく。
私はほかにたいした取り柄はないが、「人を怒らせる」ことに関しては人後に落ちない。
室井先生であればきっとこの「使途不明」の才能の功利的活用の道をお考えくださるような気がする。
『文學界』のヤマシタくんから明日が締め切りですというメールが来る。
一日延ばしてくださいと返信する。
書くことはたくさんあるのだが、書いている時間がないのである。
「節電」会議なんかあるから。
角川のE澤さんから春日先生との対談本の「まえがき」はまだですかと督促が来る。
まだです。
書くことは(以下同文)
晶文社の安藤さんから甲野先生との対談本のゲラは見てくれましたかと控えめな督促が来る。
静かにスルーする。
そういえば、4月末にはゲラを返しますと言ったきり、鎌倉方面からはゲラが戻ってこない。
今の私に「ゲラまだ見てないんですか」と人を責める倫理的資格があるようには思われないので、わが身の「みそぎ」を済ませて斎戒沐浴ののちにご連絡をするのである。
ご連絡をお待ち下さい。タカハシさん!
というところまで書いたら、ゼミの卒業生の赤澤(旧姓尾川)牧子さんから電話がある。
ご主人のガラス工芸家の赤澤清和くんが昨日亡くなったというご連絡である。
一週間前にバイクで転倒して重傷を負い、そのまま意識が回復しないまま亡くなったそうである。
三年ほど前の夏にベルギーのカナ姫といっしょに岡山の赤澤くんのガラス工房を訪れたことがある。
そのときに彼の手ほどきを受けて歪んだワイングラスを二つ作った。
一つは父の遺影の前に置いて「香炉」代わりに今も使っている。
もう一つの少しできのいい方は「ぐい飲み」にした。
赤澤くんはワイルドで悪童系の好青年だった。
白いタンクトップで上腕を剥き出しにしてバイクでかっとんでゆく彼の姿を見て、「小さい子どももいるんだから、そろそろバイクを降りる年頃じゃないか」とそのときにちょっと思った。
二日前の朝方にその新緑につつまれたガラス工房と彼の屈託のない笑顔をなぜか夢に見た。
夢の中で彼はまたバイクに乗って去っていった。
「バイクは危ないよ」と浅い夢のなかでつぶやいた。
朝起きてからベランダで洗濯物を干しているときに、これは近いうちに牧子さんと会うことになる予兆かもしれないなと思った。
赤澤清和くんに手伝ってもらって作った「ぐい飲み」でいま冷たい白ワインを飲んでいる。
彼の魂の天上での平安を祈ります。
遺された家族たち、牧子さんと二人のお嬢さんの上に神の癒しと慰めがありますように。
日本記号学会にお招き頂いたのは今回が二度目である。
10年ほど前に同志社での学会シンポジウムで武道論を一席ぶったことがある。
そのときに私の出るひとつ前のシンポジウムの司会をつとめていた茶髪ロン毛の眼鏡のお兄ちゃんのあまりの仕切りのみごとさに見惚れて、シンポジウムのあとに駆け寄って、その方が何のご専門であるかも知らぬままに、「来年からうちの非常勤に来てください」と名刺を差し出したことがある。
それが「あの」小林昌廣先生である。
日本記号学会にゆくと「面白い人」に会えるという確信がそのときから私に刷り込まれたのである。
というわけで、今般「《大学》はどこへ行くのか?」というたいへんハードコアなタイトルの学会の「大学の未来 新たな改革モデルを求めて」と題するシンポジウムにお招き頂いたときも「はいはい」と二つ返事でお引き受けしたのである。
ご一緒する方々のどなたも個人的には存じ上げないままに、「きっとエキサイティングなみなさんに違いない」と気楽に構えてのこのこ高田馬場なる東京富士大学へ参上した。
出番より早めに到着したので、司会の吉岡洋先生にご挨拶したあと、前の回のシンポジウムを拝聴する。
日本記号学会会長といえば泣く子も黙る山口“大熊猫”昌男先生であるが、その跡目を継いだ室井尚先生もさすがに山口先生が跡目に指名しただけのことはある「この世にこわいものはないけんね」的ダイハードな大学人である。
前のシンポジウムではその室井先生が大迫力で座を圧しておられた。
室井先生とフロアとのやりとりがあまりに面白くてげらげら大声で笑いすぎて周囲の学会員のみなさまから「誰だ、こいつは?」的視線を浴びて身をすくめつつ、次なるシンポジウムのために登壇。
パネリストはその室井先生と慶應義塾大学SFCの金子郁容先生、司会は吉岡洋先生。
前のシンポジウムで法人化以後の国立大学の「惨状」について、ずいぶんなお話を伺った後だったので、話を振られたところでとりあえず、「神戸女学院大学は『地上の楽園』です」というお話をする。
ウチダのような人文系ファンタジストが大学管理職の席にあり、自己評価活動の責任者であり、教員評価システムの提唱者であり、大学でもっとも「文科省ならびに大学基準協会寄りの人間」とみなされている神戸女学院大学はおそらく日本でも希有なる「牧歌的」な大学の一つであると申し上げてよろしいかと思う。
なにしろ、どう考えても、本学にはウチダより「体制的な」教員がいないからである。
大学審議会の答申を読んでは「なるほど」とうなずき、大学基準協会の報告書を読んでは「そうだよねー。たいへんだよねー」と涙ぐむ人間はとりあえず教職員の中には多くない(もしかすると、学長と学長室長と私だけかもしれない)。
「もっとも体制順応的」な教員がウチダであるような大学とは、どのような大学なのであろう?
私にもうまく想像がつかない。
うまく想像がつかないが、私が18歳の子どもだったら(ああ、想像するだに怖気をふるうが)、「ウチダが《もっとも体制的》な教員とみなされているような大学なら行ってもいいかな」と思うであろう。
うん、私なら思うな。絶対(そんな学生ばかり集めてどうするのかという問題はさておき)。
学長から本学の「リベラルアーツ教育」の特徴を端的にひとことで言い表すようなコピーを、という募集があった。
私もいろいろ考えた。
「時代錯誤のリベラルアーツ」「時代と添わないリベラルアーツ」「森の奥なるリベラルアーツ」「夜霧の彼方のリベラルアーツ」「浮いてて悪いかリベラルアーツ」「秘密の花園リベラルアーツ」・・・
おそらく学長の御意にかなうものは一つとしてないであろうが、私にはこのコピーのひとつひとつが深い実感を伴っているのである。
本学の最大の魅力は、開学以来一度としてその時代のドミナントなイデオロギーと親和したことがないという、その「場違い」性にある。
私はそう思っている。
130年前、太平洋を渡ってきて、江戸時代と地続きの神戸の街に「自主自立する女性」を育てるための私塾を開設したの二人のアメリカ人女性宣教師はあきらかに明治初年の日本において「場違い」な存在であった。
その起源から「あれ・・・お呼びでない?」的な立ち位置こそが神戸女学院の「本来の」エコロジカルニッチなのであると私は思う。
そして、そのようなポジションにあるときにこそ、本学はその「本来のポテンシャル」をぐいぐいと発揮するのである。
さらに敷衍して、高等教育の本義とは、その時代のドミナントな価値観に対して、そのつど「場違い」であるところにこそ存するのではないかとさえ思っているのである。
だとするならば、その全史においてつねに「場違い」であった神戸女学院とは、その語の正統的な意味において「もっとも高等教育にふさわしい学府」であるとは言えまいか。
金子先生と私の議論が対立したのは、高等教育とは「謎と欲望」の力学を軸に構築されており、それは「数値化」にもっともなじまないものであるという事実についての「評価」の違いであった(と思う)。
数値化とはその時代を支配する度量衡の普遍性に対する信頼を前提する。
「謎」とは、その時代を支配するすべての知的フレームワークの「外部」にあり、そのフレームワークの「解体と再構築」を誘う魅惑的な刺戟のことである。
もちろん「パラダイム・シフト」などということばが登録済みの術語である現代では、「『既存のフレームワークの解体と再構築』のもたらす経済効果は『既存のフレームワーク』換算でいかほどになりますか?」という無邪気なほどにポストモダンな問いを簡単には回避することができない(うう、めんどくさいぜ)。
私と金子先生の齟齬は「あなたがその有効性を信じている価値の度量衡は使い物になりません」という宣告を「その度量衡以外にいかなる度量衡も持たない子ども」に「うん、そうだね」と言わせることが可能かどうか、可能であるとすればどのような手法がもっとも効率的か、という点にあったように思う(主題的には議論されなかったが、それが核心的な論点だったように私は思う)。
金子先生は「説得できるようなデータ」の(あるいは「データの有用性についての信憑の政治的効果」の)重要性を主張されていたかに思うが、私は「うっせーな、いいから黙ってオレの言うことを聞いてりゃいいんだよ」というたいへん乱暴な古典的ソリューションしか思いつかなかったのである(頭悪い)。
とはいえ、この差異は子どもたちのコミュニケーション感受性に対する「期待度」の違いに収斂するのであり、ここまでくるともう学的厳密性よりも、彼らの発信するノイジーなシグナルのどこまで私たちは感知できているかというきわめてデリケートな個人的経験のレベルまで食い込んでくるので、なかなか一般論にはならない。
私が「うっせーな」的抑圧的教授法の有用性について確信していられるのは合気道を教えるという特殊な経験の裏付けによるのであって、これを一般化することは許されないのである。
シンポジウムには久しぶりの増田聡くんが登場。
フロアから質問なんかするので、びっくりする(おどかさないでよ)。
学会のみなさまにご無礼を詫びつつ増田くんと連れ立って東京駅へ。
そこで増田くんのご令室と合流してプチ宴会。
増田夫妻とご一緒するのは「グリルみやこ」以来1年半ぶりである。
増田くんは私がその将来を熱く嘱望するところの音楽学者であることはとくからみなさまご承知のことと思うが、本日も酒杯を重ねつつ増田くんの怜悧に改めて感動。
どうして、こんなに頭がいいんだろう。
私は若い世代に何の気後れもない頑迷固陋爺いであるのだが、この増田くんと飯田祐子先生とワルモノ先生のお三方だけは語るたびに襟を正さずにはおれないレアなる例外である。
未来は彼らのものである。
てことは未来はフェミニストとマルクス主義(左派&右派)のものということなのである。
あらま。
ブランドのことを書いたら、数学者の娘であるところの“ほんとはいいやつ”ミヤタケ(それにしてもこの先輩後輩は「まくらことば」が一緒だなあ)から訂正のメールが届いた。
世界人口2%の日本に全世界のヴィトンのバッグの50%があるということは、残る98%の地域に散在する同数のバッグと出会う49倍の確率で本邦ではヴィトンとの遭遇がなされるのではないかというたいへんに論理的なご指摘である。
私がどうして25倍と書いたかというと、世界にヴィトンのバッグうが均質にばらけている状態(ありえない状態だが)を想定したからである。
その場合、日本における「ヴィトン配給」は人口比どおりの2%だが、実際には50%がここに集中している。
だから「あえりえない標準状態の25倍」という数値をはじきだしたのである。
私が「数学が受験科目に含まれる試験を二度通過した」ことを「奇蹟」であると以前記したことがあるが、読者諸氏は「まことに奇蹟であるなあ」との感を深くされたであろう。
「配給」とか「米穀手帖」というようなトラウマ的体験が私の計算方法にもたらした無意識的影響も排除できないが。
朝日新聞の書評欄に『インターネット持仏堂』の書評がでるというご通知を“魔性の女”フジモトくんから頂いたので、出先の神田学士会館で朝ご飯をたべたあとロビーで朝日新聞を拡げる。
おお、またまた宮崎哲弥さんではないか。
『諸君!』で絶賛しただけでは足らず、朝日新聞書評欄でも絶賛だ(この両誌で同時に評価される書籍というのも、けっこう珍しいのではないか?)。
朝日の書評委員会には高橋源一郎さん、鷲田清一先生、小池昌代さんらがおられるので、その中のどなたかであろうと思っていたので、宮崎さんとは意外。
というのも、『ため倫』で私は宮崎さんの本を論評して「あまりおもしろくない」と書いたことがあるからである。
そのころは、私のHPのアクセス数は一日150くらいだったので、誰が読んでいるかほとんど固有名までわかっていた。
だから、身内相手に居酒屋のカウンターで話すような口調でもう言いたい放題有名人の悪口を書いていたのである。
この「ここだけの話」的悪口雑言をそのまま『ため倫』に転載してしまったのであるが、それは「書かれた当人は決してこんな本は読むまい」と気楽に構えていたからである。
天網恢々疎にして漏らさず。
高橋哲哉も上野千鶴子も宮崎哲弥も、みんな私のレビューを読んで「むかっ」と来ていたのである。
ご本人がたが私の本など買って読むはずもないから、誰かたまたま読んだやつが「ご注進、ご注進。このウチダってどサンピンが先生の悪口書いてまっせ。まったく身の程知らずのふてえ野郎だ。どうです、いちど行儀っつうものを教えてやっちゃあ」というような愉快な展開を期待されたのであろう。
よけいなことをする人間がいるものである。
おかげで私はただでさえ狭い世間をさらに狭くして、ドブ板の上をはいずるように生きなくてはならなくなった。
ま、こんなところで5年も前の筆の滑りのいまさら言い訳しても始まらない。
とにかくウチダの「居酒屋カウンター的酔漢書評」に報ずるに、宮崎哲弥さんがきわめてジェントルかつ行き届いた書評を以てしたことを見れば、人間の「格」の違いというものがおのずと知れるということを申し上げたかったのである。
こんなことなら先日新幹線でお会いしたときに名刺を渡して前非を悔いておけばよかった。
昨日から東京に来ている。
学士会館泊まり。
朝一で『AERA』のI川記者が遊びに来る(取材なのかもしれないけれど、なんとなく「遊びに来た」という感じ)。
お題は「40代の過ごし方」。
でも、一般的な「40代」などというものは存在しない。
私の40代と、当今の40代では、年齢はいっしょだが、状況的与件が違う。
ぜんぜん違う。
だから、「おいらは40代のとき、こう過ごしたよ」というような手柄話は何の役にも立たない。
ということで、現在40代のみなさま(1956年から65年の間に生まれたみなさま)はどのような歴史的文脈の中に生まれ育たれ、どのような状況に投じられており、どのような問題に直面されているのか、ということをお話しする。
この世代の特徴は「デタッチメント」志向である。
めんどうな浮き世のしがらみや親族の葛藤や師弟だの親の血を引く兄弟よりもの義兄弟だのストリート・ファイトで苦楽をともにした同志だのいうややこしい人間関係を「好まれない」という点を世代的な徴候としている。
彼らがそのようなものを「好まれない」のは先行世代(私たちのことだ)がそういう「ややこしい人間関係」が大好きな「コミットメント世代」だったからである。
そんなことはあるまい、君たちだって親族や地域社会のつながりを断ち切ることにはずいぶん熱心だったのではないかね、というご批判の声もあるだろう。
おっしゃる通りである。
だが、それは「親族や地域社会や国民国家」のようなべたべたしたものを「超克」することが優先的な世代的課題として「過剰に意識されていた」からなのである。
「コミットメント」というのは「のめりこむ」ということであって「のめりこみ」には、「好きで好きでたまらないから」という場合と、「あまりに気に障るので絶えず問題にする」という場合がある。
40代のみなさんは、そのような「コミットメント」世代に「うんざり」するというかたちで人格形成を遂げられた。
そういうものである。
あらゆる世代は先行世代の「前者の轍を踏まない」というかたちで走路を選択する。
そのせいで、いまの40代のみなさんは、「ややこしい人間関係に過剰にコミットしない」ということを世代的党是とされて今日の日をお迎えになったのである。
それは言い換えると「オレのことはほうっておいてほしい」「好きにやらせてくれ」「所属組織に対するなまじな忠誠心のようなものを期待しないでくれ」「私生活に干渉しないでくれ」「他人がどうなろうと、オレの知ったことではない」的なクールでニヒルな方々がこの世代には相対的に多いということを意味している。
別にそれはそれでよろしいのだが、彼らはやはり日本が国民国家として安定期にはいった時代にお育ちになったので、「かなり効果的法治されている」ことや「通貨が安定していること」や「言論の自由が保障されていること」などを「自明の与件」とされていて、それを「ありがたい」(文字通りに「存在する可能性が低い」)と思う習慣がない。
そのような与件そのものを維持するためには「水面下の、無償のサービス」(村上春樹さんのいうところの「雪かき仕事」)がなくてはすまされない、ということについてあまりご配慮いただけない。
だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」という他責的構文で語ることをつねとされていて、「この社会問題に関して、私が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ないということである。
もちろん、このような自責的反省をする方はどの世代においても決して多くはないので、40代だけを責めるのは不公平であるが、それでも世代的に突出しているという印象は否めない。
これはちょうどいま学齢期の子どもの親御さんたちの世代なのであるが、この方々が「学校に怒鳴り込んでくる」比率は先行世代の比ではないということを各級の学校の先生からお聞きしている。
子どもが階段ですべってころんだというときに、「足下の危ないところでは慎重に行動するように」と子どもに説き聞かせるよりさきに、学校に「どうしてすべる可能性のある階段を放置したのか」と管理責任を問うようなことをされるのである。
「危険な場所では慎重に行動しなさい」というのは汎用性の高い教えであるが、「何かあったら管理責任者に文句をつけろ」というのはそれほどには汎用性のない教えである。
アマゾン川下りの最中に船底の穴から水が漏れてボートが沈没して、ピラニアにばりばり囓られているときに「貸しボート屋の管理責任を断固追求するぞ!弁護士を呼べ!」と言っても、あまり事態は好転しない。
それよりは事前にボートの船底に穴がないかどうかていねいにチェックする習慣を身につけている人の方が生き延びるチャンスは高い。
他責的なトラブル・シューティング方法に熟達するよりは、トラブルを事前に回避する心身の能力の開発に優先的に教育投資を行う方が合理的であると私は考えるが、そう考える人は、この世代には比較的少ないようである。
というような話をする(してないけど)。
東京に来ているのは日本記号学会というところで大学についてのシンポジウムが開かれて、そこでパネリストとしてなにごとか申し上げるためである。
大学における真の教育資源は「隠されたカリキュラム」であるという話にしようかなと考えているが、まあ出たとこ勝負である。
開校してわずか二年目の法科大学院の志願者が前年比4割減、定員割れとなった大学院も74校中45校(昨年は14校)となった。
私立は49校中の36校(73%)が定員割れ。
多少とでも思考力がある人間であれば、法科大学院の早期の破綻は高い確率で予測されていたことである。
去年の秋に私はこの日記にこう書いた。
「朝刊を開いたら、『法科大学院志願が激減』という見出しが一面トップだった。
あら、やっぱり。
全国で68もの法科大学院はどう考えても法曹市場の需要に対応していない。
遠からずその過半は市場から撤退することを余儀なくされることは自明であると私は考えていた。
しかし、『遠からずその過半が市場から撤退することを余儀なくされること』が自明であるにもかかわらず、日本中の法学部をもつ大学のほとんどがかなりの設備投資をし、法律専門家のリクルートに巨額の人件費投資を行った。
理不尽なようだが、主観的な理由づけはたいへん簡単である。
『ほかがやっているのに、うちだけやらないわけにはゆかない』からである。
このわが国固有の『村的』メンタリティを日本の法律関係者もまた豊かに共有されていたということである。(中略)
法曹にはさまざまな知的資質が期待されているが、そのうちの一つは『社会の変化の趨勢を見通す力』である。
めまぐるしく変化する社会情勢に適切に法条文を解釈適用するためには、歴史的趨勢を見通す能力は不可欠である。
この程度に自明な未来予測に失敗したという事実からして、日本の法科大学院設立者たちに、はたして法曹を育成するだけの知的資質が十分に備わっていたのかどうか、私はいささか危ぶむのである。」
ことは法科大学院に限らない。
他の教育研究領域でも、「ほかがやっているうちから…」というだけの理由で「流行」をフォローすることを「時代のトレンドにキャッチアップする賢明な戦略」だと思っている大学人は少なくない。
個人的にそのような試みをされることは教員自身の自由に属し、余人が容喙すべきことではない。
彼の教育プログラムの失敗は「すべりましたね」という笑いをもって受け容れられるであろう。
だが、組織的に「ほかがやってるから…」戦術に取り組み、巨額の設備投資や新規人事を起こした場合はそれほど牧歌的にはゆかない。
こういう場合には、「うまくゆかないみたいだから、やめましょう」ということができないからである。
「やめる」場合は誰かがその責任をとらなければならないが、「続ける」限り誰も責任を取らなくていい。
そういうものなのである。
そもそも「ほかがやってるから」的な「ムラ」的メンタリティで動き出した「ヴィラジョワな」人々であるからして、「私が責任をとって腹を切る」というようなことを言い出す人間はいない。
不良債権と同じである。
銀行の不良債権がどうしてあそこまで悪化したのか、その心理的な仕組みはわりと簡単である。
一度始めた融資の効果がはかばかしくないときに、それを中止して資金を引き揚げるためには、最初の決定が「間違っていたこと」を認めなければならない。
しかし、多くの銀行家はそれを拒んだ。
彼らは次のようなロジックに頼った。
融資の決定そのものは正しかった。だが、「予測不能の」ファクターが「正しい決定」の「それにふさわしいアウトカム」の到来を妨害した。
悪いのは「私」ではなく、「外部」から到来した「ファクター」の方なのである。
だが、この責任転嫁によってことが解決するわけではない。
むしろ事態はさらに悪化する。
というのは、「予測不能のファクター」の関与によって融資が失敗したという事実は、別の「予測不能のファクター」の関与によって融資が実を結ぶという未来予測をすることを妨げないからである。
「まさか…」と思っているうちに「外的要因」によって地価が暴落し、バブルが崩壊したということは、「まさか…」と思っているうちに「外的要因」によって(例えば、日本の平地面積の半分が水面上昇で水没して)地価が高騰し、(例えば、富士山樹海から石油が噴出して)バブルが甦る可能性を排除しない。
だから、融資を「やめる」には個人の決断と責任が必要だが、融資を「続ける」ことは何の決断も誰の責任も要請しないのである。
日本の銀行の「ほとんど」はそうやって回収の見込みのない企業にドブに金を棄てるように延々と追い貸しを続け、次々と破綻していった。
問題は銀行家の融資先の事業内容を吟味する査定能力にあったのではない。
おのれの経営判断の間違いを、市場に指摘されるより先に気づき、いちはやく「撤収」を宣言する先見性こそが経営者の最大の能力であるとみなす習慣が日本にないことにあったのである。
「私が間違っていました」という宣言を彼の「愚鈍さ」の表明ではなく、むしろ「知性」のあかしであるとみなす習慣が日本にないことにあったのである。
誰よりも先に、そのようなしかたで「知性」を示すことのできる人間こそがすぐれた経営者である、私はそう思う。
だから、今回定員割れを起こした「ロースクール」の経営責任者たちのうちに、その語の厳密な意味での「経営能力」のある人間はひとりもいなかったようである。
これが「ビジネススクール」でなくてほんとうによかったと…冷や汗をぬぐっている大学人もたくさんおられるだろう。
よかったですね。
たいへんハードな一日。
朝一で、大学のメールマガジンのための取材を受ける。
大学案内の取り寄せや受験についての問い合わせをしてきた高校生にMMを配信して、大学を知ってもらおうという入試センターの企画である。
志願者増に資することなら、どのような仕事も厭わぬウチダであるので、喜んで取材をお受けする。
取材に来られたライターの方は私がどんなことをしている人間かぜんぜん知らない人だったので、「ご専門は何ですか?」という開口一番の質問からいきなり窮地に追い込まれる。
専門って…何だろう?
いちばん最近出した本は「親子論」であり、その前は「浄土真宗の入門書」であり、その前は「学校教育論」であり、その前はジジェクのラカン=ヒッチコックの翻訳で、その前はブランショ論で、その前は「死とコミュニケーションの本」で、その前は「レヴィナスとラカン」、その前は…もう記憶の彼方である。
去年の後期はアメリカ論とユダヤ文化論を教え、今年の前期は中国論と合気道とフランス語を教えている。後期は杖道と宗教論を教える。
いったい何が専門なのであろう。
このあと音楽学部で声楽家と声の話をし、医学部で死者とのコミュニケーションの話をし、日本記号学会で大学教育の話をし、日本体育学会で武道の話をする。
「フランス文学者です」という名乗りに納得する方はあまりおられないであろう。
それでも必死になって「これらすべての学術的活動は帰する所ひとつなのであります」と力説する。
愉快そうに笑って聞いてくださったから、たぶん「帰する所」の目当てがついたのであろう。
どんな記事になるか楽しみである。
基礎ゼミは「ヨーロッパ・ブランド論」。
ブランド論といっても、古典的なボードリヤールの象徴価値論を知っている学生はもうこのあたりにはいない。
というわけで面倒でもいちおうそこから説き起こす。
ブランドとは(使用価値でも交換価値でもなく)、それを持つことが所有者の社会的位階の指標となるような記号的示差性(象徴価値)を主たる価値とする商品のことである。
このボードリヤールのブランド論が80年代からの「定説」である。
だが、私はこの「定説」はフランスや欧米の国々には妥当するけれど、日本にはそれほどうまく適用できないだろうと考えている。
その理由を述べる。
フランスはブルデューの言うとおり「階層社会」である。
階層差は明示的にはおもに文化資本の差によって示される。
文化資本については前に長々書いたので繰り返さないが、要するに「お育ち」がともなうもろもろの資質(「なんでも鑑賞眼」とか「審美的趣味」とか「ワインのよしあし判定能力」とかだらけていても則をはずさないテーブルマナーとか品のいい酔っぱらい方とか…)のことである。
これを後天的な学習によって体得することはむずかしい。
知識やスキルの「コンテンツ」は努力すれば容易に学習できるのであるが、知識やスキルを表現する「マナー」は学習することが困難だからである(それゆえ、『マイ・フェア・レディ』が「おとぎ話」になりえたのである)。
ブランドの適切な選択と装着をなしうる能力はヨーロッパにおいてはきわだって有徴的な文化資本の一つである。
それゆえそれは階層差を表示する記号として機能しうる。
それに違反すること(下層階層の人間が背伸びしてブランド品を身につけること)は彼の地では学歴詐称に類する「ルール違反」とみなされる。
しかし、本邦においてブランド品にそのような強い差別化機能はない。
ブランド品を所持する日本人の主たる目的は「所属階層」や「文化資本」というようなハードな「属性」を示すことではなく、「流行感度」のようなソフトであいまいな「個性」を示すことにある。
わが国では、ロレックスをはめていても、エルメスのバッグをもっていても、アルマーニのスーツを着ていても、それは「一時的に可処分所得が潤沢なので、『おしゃれ』に気を使う程度の余裕がある」という以上の社会的記号としては機能しない。
出身階層の別やそれ以外の(芸術的感性とか文学的素養とかの)文化資本の多寡をブランド所有が示すことはない。
ぜんぜん、ない。
むしろ、上記三ブランドを揃えてにぎにぎしく着用している人間などは「お育ちの悪い」集団にカウントされるリスクを負っている。
だから、「ブランド」という語の語源的意味に即していえば、日本では「ブランド品」はほとんど「ブランド」として機能していないのである。
ルイ・ヴィトンのバッグの50%は日本市場で買われている。
日本は世界人口の2%である。
つまり(意味のない平均だが)日本では、世界のそれ以外の地域で「ルイ・ヴィトン所持者」に出合う25倍の確率でヴィトン所持者に行き会うことになる。
それだけ考えても、ボードリヤールの分析が日本には適用するのがむずかしいことは知れるであろう。
私は文化資本の差が記号的につよく意識される社会よりも、ジャージ着て健康サンダルをはいたおばさんがヴィトンのバッグをもってローソンに「おでん」を買いに行くことが許される社会の方が個人的には「好き」である。
ちなみに私は本日アルマーニを着用している。
だが、これは「ジャージ=おでん」ヴィトンとだいたい同じような社会的意味しか持っておらず、それを私の所属階層の高さや文化資本の潤沢さの記号として解釈するような学生諸君はどこにもおられない。
日本はそういう点では「ほんとに気楽でいい国」であると私は思う。
午後は1時から7時まで会議。
学長が午後3時まで不在であったため、二つの会議で学長代理で議長をつとめる。
人間科学部のN田先生の「研究科委員会17分」という前人未踏の記録を更新しようと必死になったが、残念ながら惜しいところで(誰のせい、とはいわぬが)記録更新はならず。それでも学務委員会と教授会の間に70分の「休憩時間」が取れたことは我輩の欣快とするところである。
人生は会議のために費やすにはあまりに短い。
つねづね申し上げていることであるが、私はプロスポーツというものにあまり(ほとんど)関心のない人間である。
そんなスポーツ・ディスオリエンテッドな私の唯一の例外はラグビーである。
ラグビーだけはとっても好きなのである。
毎年冬の日曜の午後になると、こたつに入ってミカンの皮を剥きながらNHKのラグビー中継をほっこりと眺めるのが私の30年来の趣味であった。
ラグビーのいいところは、私のまわりに誰も話し相手がいないので(唯一の例外は山本画伯の個展のあとにお会いする楠山夫妻と尾中選手だけで、それも年に一度のことである)誰ともラグビーの話をしないですむ、という点がたいへんにすがすがしい。
早稲田の藤原優選手と明治の松尾雄治選手が国立で早明戦を闘い、同志社の平尾誠二選手がすこーんと「うまれてはじめての」ドロップゴールを蹴りこんだころからの長い長いラグビー観戦人生ではあるが、そのことについては誰とも語り合ったことがない。私は静かなるラグビー・ウォッチャーとして早稲田と神鋼に個人的に深い愛情を寄せてきた。
20年ほど前、私が早稲田の社研の(ユダヤ研究の)研究員にして頂いたときに、いちばんうれしかったのは、「これで早稲田ラグビーを応援できる大義名分ができた」ということであった。
だって、「身内」なんだもん。
芦屋に引っ越してきたときも、これで晴れて「ロコ」として神鋼ファンであることを公言できることが(公言しなかったけど)たいへんうれしかった。
しかし、そのようなひとりきりの内向きのラグビー人生にもいつかは終わりが来るものである。
神鋼の俊足ウィングの「あの」平尾剛史選手が『ため倫』以後のウチダ本の愛読者であることが熱烈ラグビーファンである『ミーツ』の青山副編集長の「告げ口」によって私の知るところとなり、「リーダー・フレンドリー」を口実に私はどきどきしながら平尾選手にご挨拶メールを出したのである(もちろん平尾選手は丁重なご返事を下さった)。
そして、ついに青山さん仕切りによって、ダンジリアス江編集長、哲学するソムリエ橘さんとともに、「あの」神鋼の増保輝則監督(早稲田・神鋼そしてジャパンの輝ける11番)と平尾選手を元町「愛園」にお迎えすることになったのである。
ウチダの感激がいかばかりのものであったかは贅言を要すまい。
考えてみたら、私自身が「ファン」であったところの天上的にセレブな方々(甲野善紀先生、田口ランディさん、高橋源一郎さん、加藤典洋さん、養老孟司先生、橋本治さん、鷲田清一先生、K−1の武藏選手)にぱたぱたとお会いできるようなはずみがついたのはすべてこの4年ほどのことであり、もとをただせば『ため倫』のようなトンデモ本をなけなしの(余計なお世話だが)私費を投じて出版してくれた冬弓舎の内浦亨くんと内浦くんをわがHPに導いてくれた元ロック少年増田聡くんのおかげなのである。
まことに思えばありがたい限りであって、京都ならびに市川方面には終生足を向けて寝ることはできないのである(というわけでつねに足は西向きです、ベッドの)。
ともあれ、そのような宿縁のお導きによって、30年来ひっそりラグビーファンにとって「神」のようなお二方とおめもじすることができたのである。
おいおい、増保と平尾だぜ。
「大畑くん、最近調子はどうですか?」
なんてことを監督とチームメイトに聴けちゃうんだよ。
「今泉君は、最近どうしてますか?」なんて。
この感動をどのようにことばにしたらよろしいのであろう。
言い古された形容ではあるが、彼らはまことにまことに最高な「ナイスガイ」であった。
あれほどナイスな男たちを私は絶えて見たことがない。
江編集長から同夜のことについては長屋でわりかしクールにご報告頂いているけれど、私は(私にはほとんどありえないことなのであるが)あまりに「あがって」しまって、何を話したのか、何を話して頂いたのかさえ記憶がおぼろなのである。
愛園のあと、元ワールドの金村泰憲選手のやっているバーThe Third Row に河岸を変えたころには私は完全に「はじけて」しまって、武道の身体技法をラグビーにどのように応用しうるのかというような思い出すだに恥ずかしい穴があったら入りたい的妄言を(世界の増保と世界の平尾を相手に)説教してしまったのである。
そればかりか図に乗って、うちの四回のゼミ生と神鋼スティーラーズ若手諸君との「合コン」の約束までとりつけてしまった。
私のその狂躁的状態をおふたりのラガーメンは静かで優しく知的な微笑をもって温かく受け容れて下さったのである。
なんて、いい人たちなんだ!
コベルコ・スティーラーズよ永遠なれ。
ウチダは生涯をかけてスティーラーズを応援し続けます、はい。
青山さん、ありがとね。このご恩は一生忘れません。
NEETについてのゼミ発表のあとにレポートを書いてもらった。
15名のゼミ生のほとんど全員が実にきっぱりと「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」という見解を述べていたので、びっくり。
一昔前なら、「できるだけ楽をして高い給料をもらいたい」とか「サービス残業とかバカみたい」とか「過労死するサラリーマンなんか信じられない」というクールな回答がマジョリティを占めたであろうが、いまどきの女学院生たちはバイト先の「店長」や「正社員の同僚」たちがどれほどよく働いているのか、身近によくご存じであり、その姿に素直な「敬意」を抱いておられるのである。
よいことである。
仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。
このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。
賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。
人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。
というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。
動物の世界に「とりあえず必要」とされる以上の財貨やサービスの創出に「義務感」や「達成感」を感じる種は存在しない(たぶん)。
「糸の出がいいから」という理由で自分用以外の巣を張る蜘蛛や、「歯の切れがいい」からという理由で隣の一家のためにダムを作ってあげるビーバーを私たちは想像することができない。
そのような「過剰な労働」は動物の本能にはビルトインされていない。
人間は「とりあえず必要」である以上のものを作り出すことによって他の霊長類と分岐した。
どうして「とりあえず必要」である以上のものを作る気になったのか。
たぶん「とりあえず必要」じゃないものは「誰かにあげる」以外に使い道がないからである。
人類の始祖たちは作りすぎたものを「誰か」にあげてみた。
そしたら「気分がよかった」のである。
あるいは、「気分がよい」ので、とりあえず必要な以上にものを作ってみたのかもしれない。
順序は不明。
卵が先か鶏が先か、制度の起源はつねに闇の中に消えていて、私たちはそれを知ることができない。
レヴィ=ストロースは社会制度の起源について、次のような印象的なことばを記している。
「私たちは信仰や慣習の原初の起源については何ひとつ知らないし、これから先も何ひとつ知ることができないだろう。信仰や慣習の根源は遠い過去のうちに沈んでいるからである。しかし、現在についてなら確かなことがひとつある。それは社会的行動とは個人が自発的に演じうるものではない、ということである。」(クロード・レヴィ=ストロース、『今日のトーテミスム』 Claude Le´vi-Strauss, Le tote´misme aujourd’hui, PUF, 1962, p.105)
労働もまたそのような「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつである。
だから、「仕事をする」というのもまた、「神に祈る」とか「言語を語る」とか「ひとを愛する」と同じように、「するか、しないか」を自己決定することも、「どうして」そのことをしなければならないのかの理由を合理的なことばで説明することも、私たちにはできない種類の営みなのである。
NEETの問題は、「いいから、とりあえず人間は働いてみるもんだよ。給料はたいしたことないけどね」というおそらく数万年前から人間が(とくにその理由を問うこともなく)慣習的に言い交わしてきたことばを、私たちの時代が「言い渋っている」ことに起因する。
私はそう考えている。
「勉強も仕事も、なんか、やる気がしない」というのは、言い換えると、「『やる』ことの『意味』が私にはよくわからない」ということである。
彼にとって、問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
「自分の能力適性にふさわしい職種と待遇としかるべき敬意が保証されないなら、働きたくない」
これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の「病」のかたちである。
NEETというのは、多くの人が考えているのとは逆に、「合理的に思考する人たち」なのである。
彼らの世界は「意味のあること」に満たされていなければならず、彼らが他者ととりむすぶ関係は「等価交換」に限られている。
適正な支出に対する適正な(あるいは支出を超える)リターン。
それ以外の取引形態を彼らは望まないし、そのような取引をする人間の「動機」を想像することができない。
「今は特に学びたいことも、やりたい仕事もない。
家にいれば、とりあえず雨露はしのげて、ご飯は食べられる。
親が生きている限りは、この状態がキープできる見通しである。
親が死んだら、そのときに状況を勘案しつつ、オプティマルな対応策を立案すればよい。」
きわめて合理的である。
ほとんど「ビジネスライク」と言ってもいい。
彼らの盲点は、「学び」というのは「自分が何を学ぼうとしているのかが、よくわからない(だからわかりたい)」という「非-知」に動機づけられるものであること、「仕事」というのが「とりあえず何か余計なものを作りだして、他人に贈る」という「非等価交換」であるということに気づいていないという点である。
いや、気づいていないのではなく、あえて見落としているのである。
なぜなら、彼らの「合理的思考」は、彼らを扶養している親たちの「非合理的な」子どもへの「愛」や「有責感」に依拠しているという事実は「勘定に入れない」でいるからである。
自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。
「やらずぶったくり」
これは短期的な取引に限って言えば「合理的」な経済行為である。
最低コストの「商品」をできる限り高い価格で売るというのが賢い商取引なら、「ないもの」を商品として差し出し、できるかぎり大きな対価を引き出すというのが最も賢い商取引であることになる。
おおかたの人は誤解しているが、NEETは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。
資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。
だから、NEETの諸君にどれほど資本主義的な経済合理性を論拠に学習することや労働することの肝要であることを説いても、得るところはないだろう。
「勉強しろよ」
「何のために?」
「…就職するために」
「何のために?」
「…稼ぐために」
「何のために?」
「…金があれば、楽ができるじゃないか」
「好きな時間に起きて、好きな時間に飯食って、好きなだけ好きなことができるのを『楽』というのなら、オレはもう楽だよ」
「…」
NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。
それとは違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること。
それが喫緊の教育的課題なのであるが、そのような「新しくて、古いことば」の必要性を痛感している教育者は、現代の学校教育の場においてはほとんど発言の機会を与えられていない。
声が大きいのは、「この資格を取れば、就職に有利だ」とか「このスキルがあれば、競争に勝てる」というようなせこいことを言う人間ばかりである。
NEETを生み出しているのは、このような功利的教育観そのものなのである。