2月11日
「急ぎの原稿がない」という状態にうまくなじめない。
ごろんと横になってマンガでも読んでいればいいのかもしれないけれど、三十分もしていると「おっと、こうしちゃいられない」とがばっとはね起きる。
でも別に急ぎの仕事はないので、しかたがないから「あまり急ぎでない仕事」をどんどん片づけ始める。
まず平川くんからTFK2のその7が届いたので、さっそくさくさくと返信を書く。
たちまち書き終えてしまう。
しかし、これをガッシンと送信してしまうと、平川くんが「げ、いま送ったばかりなのに、もう次かよ」と青ざめることは必定であるので、そのまましばらく塩漬けにしておくことにする。
平川くんは私ほど暇じゃないからね。
讀賣新聞の来週のエッセイも書く。
800字なので、15分くらいで終わってしまう。
うう、退屈だよん。
しかたがないので(などと書くと中野さんが激怒されるであろうが)、途中まで終わっていた池上先生との対談データをがしがし直してゆく。
100枚程度のものだし、半分は池上先生のお話なので、私の分はすぐに終わってしまう。
することがなくなったので、しかたなく本を読む。
リン・マクタガードの『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』(The Zero Point Field 野中浩一訳、インターシフト、2004)を読み始める。
先週の朝日の書評で天外伺朗さんか山形浩生さんか、どっちかが激賞していたのですぐにアマゾンでゲットしたのである。
このところ池谷裕二さんとか茂木健一郎さんとかの脳についての本を立て続けに読んでいるが、これも脳の話。
内容的には「ニューエイジすれすれ」という感じだけれど、量子物理学や生物学や生理学の話。
ふむふむ、そうだよなー。当然そうなるよねー。だって、そうなんだもん。
とはげしくうなずきながら読み進む。
多田先生や甲野先生や光岡先生や池上先生がふだん話していることと「ほとんど同じ話」が先端的なサイエンスの世界でも語られているらしい。
例えばこんなふうに。
「宇宙は、物質のあらゆる可能な形態と状態がふくまれる基本的サブ構造をもち、ダイナミックにエネルギー交換が行われる巨大なクモの巣だった。自然は盲目でも機械的でもなく、変更可能で、知的で、意思をもった存在であり、生き物とその環境とのあいだでやりとりされる情報を学習する、コヒーレントなフィードバック・プロセスを利用している。自然が統一性のあるメカニズムをもつのは、たんなる幸運な偶然のできごとではなく、暗号化され、あらゆる場所に同時に伝えられる情報があったからである。」(147頁)
うん、そうだよね、わかるよ。だって、そうなんだもん。
「アイディアが浮かぶとき、ときには断片的であるが、しばしば奇跡的にまとまったひとつの全体として一気に見通しが得られる」直観経験を私たちはしばしば経験するが、それを著者は「コヒーレンスの一致」として説明している。
「それは、知識やコミュニケーションについて、私たちが現在理解しているよりもずっと深くて広範囲の能力を人間がもっていることをほのめかしている。それはまた、私たちの個別性-私たちが孤立した存在だという感覚そのもの-の境界線をぼやけさせることにもなった。もし生き物の究極の姿が、フィールドと相互作用をしながら量子情報を交換する荷電粒子だというのなら、どこまでが自分で、どこからが外界になるのだろう?」(148-9頁)
ほとんど同じことをこの間読んだ『もう牛を食べても安心か』(文春新書、2004)の中で化学・生命科学の福岡伸一先生も書いていたような気がする。
福岡先生は重窒素をつかってネズミの代謝システムの流れを調べたシェーンハイマーの研究を紹介したあとに、こう書いている。
「外から来た重窒素は、ネズミの身体の中を通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎた、という表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が“通り過ぎる”べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、“通り過ぎつつある”物質が一時、形づくっていたに過ぎないからである。つまりここにあるのは流れそのものでしかない。(…)肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子の『淀み』でしかない。しかも、それは高速で入れ換わっている。この回転自体が『生きる』ということである」(61頁)
人間の自己同一性というのは自体的に存在するものではなく、ネットワークの「効果」であるということは、考えてみると、遠くヘーゲル=マルクスから、フッサール現象学でもラカン派精神分析でもレヴィナス倫理学でも、共通して説いていることである。脳科学で「クオリア」と呼ばれているものも、プラトンが「イデア」と名づけたものも、「コヒーレンス」という状態については同一のことを述べている。
要するに、「あ、これって『あれ』じゃん」という命題形式のことである。
現にいま私がやっているような推論形式そのものが「コヒーレンス」(秩序・整合性)構築の典型的なかたちである。
未知は既知と「和音」を奏でる。
知性の働きとは、つきるところこの「和音」を奏し、それを「聴く」能力に他ならない。
では、どうしてヨーロッパ音楽以外の音楽には「和音」がないのか?
理由はたぶんヨーロッパ以外の音楽では奏者の身体が「倍音」を出しているからである。
同一の波形を「私ならざるもの」のうちに繰り返し再認すること、それが人間のみならず生物の根源的な趨勢なのだろう。たぶん。
投稿者 uchida : 2005年02月11日 20:18
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