4月26日
爆睡後、がばっとおき上がって、原稿書き。
まず産経新聞から頼まれている書評1000字。取り上げたのは市川力さんの『英語を子どもに教えるな』(中公新書)。
バイリンガルに育てるということのリスクとコストについて論じた本で、共感する点が多かった。
外国で暮らしたり、インターナショナルスクールに入れたりして、英語話者のあいだに置かれると、子どもは仲間や先生とすぐに「ぺらぺら」話すようになる。
それを見て「ネイティヴのような発音だ」と親は喜ぶが、これはしょせん「砂場の英語」に過ぎない。
「砂場の英語」から「教室の英語」のあいだには乗り越えることの困難な段差がある。
それは「自分の経験や状況を共有している親しい特定の人」ではなく、「自分のことを知らない未知の不特定の人たち」にも通じることばの使い方を知るということである。
「あれ」と言えば分かる人に向かって語る「身内のための語法」と、「あれ」を知らない人に「あれ」が何であるかを適切に理解させるために用いる「他者のための語法」は別種のものである。
コミュニケーションとは「他者に届くことば」に至るための長い修業のことである。もちろんネイティヴのような発音ができることは貴重なことだが、その発音をもってしても「あれ」を「あれ」としか言えないのであれば、ことばは身内から先へはとどかない。
「『っていうかー、ぶっちゃけ、チョーむかつくじゃん』という次元の会話しかできない人々や暴言を繰り返す政治家などは、冗談ではなく、すべて『セミリンガル』といってもさしつかえないであろう」(82頁)と市川さんは書いている。
「中学生みたいにぺらぺらしゃべる」ことは「ネイティヴ中学生」ではない人間にはむずかしい。
けれども、そんな「砂場の日本語」だけでは私たちは「身内」以外の誰ともコミュニケーションすることができない。
そして、外国語を学ぶ意味があるとすれは、それが「身内の壁」を乗り越えるための「梯子」であるということ以外にはない。
しかし、現実には英語に限って言えば、むしろ「身内の壁」を強化するために、つまり、その言葉を使えない人間たちを「排除する」ことをめざして英語を学んでいる人々がずいぶん多いように私には思われるのである。
「英語ができると就職に有利」と言い方そのものが外国語運用能力の「排他的」な機能を表現してはいないのか。
1000字を15分で書いて、「一丁上がり」。
その足で三宅接骨院に行って、背中をほぐしていただき、お土産に10弦ギターの小川和隆さんという方のCDを3枚頂く。
治療に行って、身体を治していただいた上、帰りにお土産を頂いて帰る。
このお礼はやはり「三宅先生のカルマ落とし」に全力を挙げてご協力する以外にあるまいと決意を新たにする。
芦屋駅前のフレッシュバーガーでチーズバーガーを囓ってブランチ。
次はポーラ文化研究所というところから頼まれた身体論の原稿。これは15枚なので、15分というわけにはゆかない。
とりあえず、日曜の多田塾研修会の帰り道に、工藤くんとQ田さんを相手におしゃべりしたことをとっかかりに書き出す。
Qちゃんが日清食品の前の信号のところで、「多重人格とDVは同根の現象では」という卓見を述べられたので、それをそのままパクらせて頂く。
これくらいは「店賃」としてたまに回収させていただいても、いいよねー。
そのままぐいぐいと15枚書いて、おやつの前に書き上がる。これで二丁上がり。
続いて、本日三本目の『ミーツ』の離婚論その2にかかる。
さすがに時間切れ。
四時半になったので大学へ杖のお稽古に行く。
新人が3人(1年生が2人)来ているので、なんだかずいぶんと人数が多いような感じがする。
どうかこのままみなさんお稽古続けてくださいね。
杖と太刀の基本的な使い方を教えたあとに、合気杖、それから全剣連型の四本目をおさらいする。
2時間があっというまに経ってしまう。
雨が降り始めた。
家にもどって蛸ともずくと胡瓜の和え物を作って、ビールを飲みながらずるずると啜る。
夏だね。
お食後にお向かいのビデオ屋に行って、ブルース・ウィリスの『ティアー・オブ・ザ・サン』を借りてくる。
なんだか痛々しいほどアメリカの「被害者意識」が露出した映画だった。
ナイジェリアの内戦のときに、ジャングルの教会に取り残されたアメリカ人の医師を救出にゆく特殊部隊の話。
一昔前なら、悪ものに襲われて困っている良民を救いに騎兵隊が駆けつけると歓呼の声で迎えられるという話になるのだろうが、今はさすがにそんな映画は作れない。
特殊部隊はゲリラと同じように、戦争を飯の種にしている「暴力的なやつら」という冷たい視線で迎えられ、救出されるはずのアメリカ女性も「何しにきやがった」という態度でつんけんしている。
もちろん、最後は「あなたのおかげよ」ということでブルース大尉は女医さんにきっちりハグしてもらえるのだけれど、別に恋に落ちるとか、敬意を抱くとか、そういうことではなく、悪路を操縦してくれたドライバーに「どうも、ね」と握手する程度の愛情表現である。
その「どうもね」を獲得するために、ブルース大尉は部下のほとんどを死なせ、本人も重傷を負うことになる。
どう考えても、損得勘定の合わない戦争だ。
おそらくいまのアメリカの平均的市民の「戦争観」はこれにかなり温度が近いのだろうと思う。
これだけ犠牲を払っても、リターンはわずか。
感謝のことばも外交辞令程度のものにすぎない。
そんな分の悪い取り引きのために、何人ものアメリカの若者が死んでゆく。
もう止めないか?
世界なんかほっとこうよう。
「悪の枢軸」がジェノサイドをやろうと独裁をやろうと政治犯を虐殺しようと、もうほっとこうよ・・・好きにさせてやろうよ。
そんなアメリカ市民の「本音」が漏れ聞こえてくる。
なんとなく「モンロー主義」への後退を予見させる映画だった。
イラクのあと、アメリカは必ずモンロー主義的な孤立政策のうちにふたたび閉じこもるであろう。
ハリウッド映画の「徴候性」を侮ってはいけない(予言がはずれたら、ごめんね)。
投稿者 uchida : 2004年04月27日 11:14
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/91
このリストは、次のエントリーを参照しています: 砂場の英語と『太陽の涙』:
» 俺は「セミリンガル」。あなたは? from ストーカー餡
今回のストーク先によると、「セミリンガル=中途半端な語学力=身内にしか通じない語学力の持ち主」となるらしい。「引用の引用」の部分になるんだが、… [続きを読む]
トラックバック時刻: 2004年04月29日 00:00
はじめまして。
今回の「砂場の英語と『太陽の涙』」を拝読し、「うただ荒涼・・・」(ぶっくれっと巻頭エッセイ no.141)と題された林望氏のエッセイを思い出しました。ひとまずお知らせしておきます。
http://www.sanseido-publ.co.jp/booklet/booklet141_hayasi.html
用件は以上ですが、せっかくの機会ですので以下少しばかり。
「映画の構造分析」拝読以来、毎日web上の記事・日記を読み進め、今日から2001年3月分に入ります。ちょうど日本を離れていた時期にあたり当時の時事事情が垣間見られることもあって教えられること多く、大いに楽しみながら拝見しております。先週は「『おじさん』的思考」を読了。漱石「こころ」論には、戦慄するような覚えをもちました。先ほど見つけた「こころ」論も迫力あったのでお知らせします。アドレスは以下:
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/emag/data/hata-kohei05.htm
本来なら漱石が弟子からもらったくらいの長文をしたためるべきでしょうがそれほどの才能があるはずものなくこの程度の御挨拶で失礼いたします。
公開ゼミ等、市井の人間が先生のお姿を拝見できる機会(できれば飲み会付)がございましたら是非ともweb上でお知らせ下さい。
内田先生が匿名による発言を快く思っていないことは再々エッセイに書かれているので知っておりますがご寛恕ください。
らふろいぐ
投稿者 らふろいぐ : 2004年04月28日 15:02
先生の御著書、あるいは先生が取り上げられた本、いろいろと専門外ながら興味深く読ませて頂いております。
今回の御日記には不躾ながら書誌情報に違いがあるようです。
市川力さんの本は「英語を子どもに教えるな」でした。
「子どもに英語を教えるな」という本もありまして、副題は「親だからできるいっしょに楽しくペラペラ」だそうです。まったく逆向きの内容みたいで興味深いです。
市川先生の本は面白そうなので読ませて頂きます。
もう一方はあんまり面白くなさそうですね。
投稿者 山川 孔 : 2004年04月28日 17:21
書名の間違いのご指摘ありがとうございます。
原稿の方にはちゃんと書いたのですが、ホームページではうっかり誤記してしまいました。でも、同名の本があるとは。
市川さんには申し訳ないことをしました。
投稿者 うちだ : 2004年04月29日 00:24
>外国語を学ぶ意味があるとすれは、それが「身内の壁」を乗り越えるための「梯子」であるということ以外にはない。
まったく同感ですが(僭越で申し訳ありません)、日本国内で、英語教育を必死にわが子に施している親御さんは、「外国語」としてではなくて、「第二言語」、そして可能であれば「母語」として教えたいのではないでしょうか。
私は「純日本人」であることに誇りが持てないため、子供の(あるいは自分自身の)生き残り策として「在日日本人」(@渡辺和博、だったと思う、古いですね)的ステータスの獲得を目指している、もっと言えば少しでも欧米人(とりわけアメリカ人)に近づきたい人が意外なほど多いのではと考えています。
・欧米人と結婚した日本人を意識するにせよしないにせよ、羨望(あるいは時としてねたみの)対象としてみている(『ダーリンは日本人』の読者は著者の予想をはるかに超えた国際結婚ワナビーズだといいます)のも、
・日本人夫婦なのに、わが子をアメリカ人(二重国籍)にすることを期待して、わざわざハワイで出産するのも、
・日本人夫婦の子供なのに、わざわざインターネットスクールに入れる(最近は「先物買い」で「中華学校」に入れるのもはやっているらしいですね)のも、
私には同じ現象に見えます。
極言すれば、アメリカ人(英語話者、のほうがより正確でしょうが)とのコミュニケーションで「あれ」を「あれ」で済ませることのできるわが子を目を細めてみることはあっても、それが日本人として見た目にもみっともない、まして英語話者としてみても中途半端で危険である、とは考えにくいのではないでしょうか(もちろん著者の方が警鐘を鳴らしているのはこのあたりだと推察しますが、すみません、まだ読んでいません)。
賛成していただけるかどうかは分かりませんが、現世利益の一形態として、日本語ラップ業界(ヒップホップ業界)でのインターナショナルスクール出身者や帰国子女が増えているあたりにすでにそれを見ます。
我々から見たら、「どうでもいい言葉」の使いどころ、つまりアメリカ人にとって「あの何とか」や四文字言葉の類が難なくナチュラルにためらいもなく[←おそらくここが重要]表現できるということにこそ価値があるのだろうと思います。
まあ、大半の根気のない夫婦の間においては、幼児英語教育は、一時の熱狂という「エピソード」に落ち着くので、それほど心配しなくてもよいものだと思いますが。
>外国語を学ぶ意味があるとすれは、それが「身内の壁」を乗り越えるための「梯子」であるということ以外にはない。
学者先生がこれを持ち出されれるときの私の態度は警戒的です。まず、欧米の文物に対する独占的な輸入・発表権が侵されるのではないかという危機意識をここに深読みする余地があるからです。「発音がそれらしいネイティブもどきと自分たち、自分ではない誰かになりたい人と我が身を世界に向かって開いている自分たちを間違ってもひとくくりにしないでくれ」という叫びを読み取ることすら可能です。
しかし、学者先生のみなさんに、もし何かすばらしいものは欧米からやってくる、という欧米崇拝的なものが(無意識のうちにでも)あるとしたらその次元で、「あなたも同じじゃん」ということになりかねません。「在日日本人」をめざす方々も「書斎で功徳を積んだ修行者」も、「純日本人」こそが、自分の顕示欲を満たしてくれたり、収入をもたらしてくれる人だったりする点で同じ構造をなしています。
また、「抽象度の高い文章を難なく読める能力」を獲得しているからといって「身内語的運用能力」を軽視していいということにはなりません。逆に、日常の運用で得られる生活実感の欠如が、重大な意味の取りこぼしをしている可能性もあります。この点、会話が苦手な大学の先生方が「大は小を兼ねる」(意識的な外国語学習は無意識的な第二言語学習より高級である)と澄ましこんでいるように見える、というのもかねてからの疑問です。なるほど、一生をかけて例えばシェイクスピアなりを研究していけば、ネイティブの中の知的でない読み手には簡単に優越することができるでしょう。しかし、知的なネイティブが持っている当該文化に関する分厚いコンテクストは遺憾ながら持ち合わせていない(可能性が大である)、という自覚を常に持つことが、外国人としての誠実な態度であるようにも思うのですが……。
もっと言えば、さらにそれを自覚して、ノンネイティブならではの「(本国から見た)ユニークな」視点が、「本場」に対して貢献するというストーリーだって十分に考えられますが、そのような話はめったに聞きません。これも謎といえば謎です。
投稿者 吉永孝一 : 2004年09月26日 16:21
サイン・インを確認しました、 さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)