調停の法理

2026-10-16 vendredi

 欧米には対立を調停する技術を高く評価する政治文化がないのではないかという話の続き。そんなことを僕が思いついたのは、日本社会では、ことの理非をきちんと決めずに、対立があると、いったん話を棚上げにして、当事者双方が「同程度に不満」というおとしどころを探る...ということがよく行われるですから。
 「三方一両損」という話をご存じですか。左官の金太郎が三両入りの財布を拾います。財布の中に書きつけがあったので、持ち主である大工の吉五郎に返そうとすると、江戸っ子の吉五郎は「落としたものはもうオレのものじゃない」と言って受け付けません。金太郎も江戸っ子だから「人のものをもらえるかい」とはねつける。しかたなく奉行所に行くと、大岡越前はその三両に自分の懐から一両出してあわせて四両として、二人に二両ずつ渡します。三方一両損でめでたしめでたしと言う話です。
 この話をアメリカ人やフランス人にしてもたぶん「意味不明」だと思います。「なんで裁判官が自分の懐から金を出すんだよ。審理を進めるために裁判官が紛争当事者を買収したら、そんなの違法だろ」と眼を三角にして怒るんじゃないかな。ちなみにAIに「『三方一両損』に相当するラテン語法諺はありますか?」と訊いてみましたけど、「ありません」というお答えでした。まあ、そうでしょうね。
 でも、これは日本の伝統的な紛争解決の骨法なんです。川島武宜先生の『日本人の法意識』によれば、「調停的仲裁は、紛争当事者のどちらかが『正しい』かを明らかにすることを目的するのではなく、丸く納めること―紛争当事者のあいだに『仲のよい関係』(紛争という『角』がなくなった関係)をつくることを目的としているのである。」
 紛争当事者のどちらが正しいかを決定するのが裁判ですから、調停はもちろん裁判ではありません。「まあ、いいからいいから。両方とも矛を収めて」という紛争解決方法です。
 川島先生が典型的な例として引いているのが河竹黙阿弥の『三人吉三廓初買』の「庚申塚の場」です。お嬢吉三というワルモノが夜鷹から百両という金を奪う。それを見ていたお坊吉三というワルモノが「それをよこせ」と出て来て斬り合いになる。そこに和尚吉三という三人目のワルモノが出て来て、割って入って、百両を五十両ずつに分けて、残りの五十両は和尚吉三の両腕を斬り落として「高を合わせてくんなせえ」と調停を試みる。和尚の貫禄に圧倒されたお嬢とお坊は和尚吉三を兄貴分に義兄弟の盃を交わす...と言う話です。
 変な話でしょう。でも、スキームは「三方一両損」と同じなんですよ。調停する人間は自分が損をかぶることで紛争を収める。損をかぶる義理なんかないんですよ、この人には。でも、割って入る以上は何かを犠牲にしないといけない。これが日本の伝統的な紛争調停法です。
 さすがに最近はこんな貫禄のある調停者は少なくなりましたけれど、こんなふうに出られたら、どれほど怒っている紛争当事者も気勢を殺がれますよね。
 「丸く納める」のは紛争に際して集団成員間の「どちらに理があるかを決定する」ことよりも「紛争をなくす」ことの方が優先するという考え方です。どうもこのタイプの紛争調停法は東アジア独特のもので、欧米社会には存在しないようです。ことの善悪理非を明らかにすることよりも、「戦わないこと」の方が優先するという考え方には一理あると僕は思います。一理しかないけれど、一理はあると思います。
(『蛍雪時代』9月29日)