市民的成熟への道

2026-09-24 jeudi

 教育論の本を書いた。タイトルは『雑に生きる』。20年前に同じ新書から『先生はえらい』という本を出したので、シリーズ2冊目になる。最初の本は、担当編集者から「いま中高生に一番言いたいことは?」と訊かれて「先生はえらい、かな」と答えたことでタイトルが決まった。今度の本も同じ。いま私が中高生に一番言いたいことは、「雑に生きろ」である。
 「自分らしさ」とか「自分なりのこだわり」とか「純粋さ」とかはどれも自我への居着きをもたらし、成長の邪魔になる。それよりは、そのつどの思いつきとご縁をたよりに、あっちへふらふらこっちへふらふらしながら生きてゆく方がいい。そうすれば、いずれ「行くべきところ」に導かれるから、という趣旨の本である。
 私が書いた教育論の中で一番古いのは『下流志向』で、22年前に経営者セミナーで行った講演を書籍化したものである。文庫の最新版は48刷りになっていた。『先生はえらい』はさいわい今も書店に並んでいる。『街場の教育論』は18年前の本だが、今月文庫化された。
 正直、どの本も書いていることは似たようなものである。学校教育は子供たちの市民的成熟を支援するためのものであるというごく常識的なことである。その「ごく常識的な話」がいまの日本では通じない。それはたぶん「市民的成熟」というこなれない言葉にひっかかってしまうからだと思う。
 「市民的成熟」を私は「公私の間で葛藤すること」というふうに定義している。「公私の間で葛藤する」がどういうことかは「公私混同」ということを手がかりにすればわかると思う。
 「公私混同」というのは、ふつう公権力を私利のために用いたり、公共財を自分の懐に入れたりすることを指す。だが、「公私混同」には逆のケースもあるはずである。自分の力を公共的な目的のために用い、私財を公共目的に投じるという「公私混同」である。
 前者をパターン1,後者をパターン2と呼ぶことにする。
 周りを見渡せばわかる通り、パターン2の「公私混同」を実践する人はあまりいない。非常に少ない。私利私欲を公共の福祉に優先させる方が人性の自然にかなっていると多くの人は信じているのだ。
 しかし、私権の制限を受け容れ、私財の一部を公共財に積むというタイプの「公私混同」を一定数の人たちが果たさなければ「公共」は立ち上がらない。政府も国家も成り立たない。孤立した個人がそれぞれひたすら私利私欲を追求すれば、そこは「際限のない不正と無秩序」、「万人の万人に対する戦い」の世界となる他ない。強者が弱者を支配し、収奪し、その生命と自由を意のままにするという「マッドマックス2的」世界である。強者もまた隙あらば寝首を掻こうとする野心家につねにその座を狙われている。強弱にかかわらず、誰一人安定的に自己利益を確保できないのがジョン・ロックの言う「自然状態」である。
 その世界にはものごとの理非を決する法がない。理非の判定を下す裁判官がいない。仮に判決が下って、それを効果的に執行できるだけの実力装置がない。
 それでは困るというので、人々は自然状態にとどまることを止めて、「社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである」とロックの『統治論』は記している。
 公共を基礎づける理路はホッブズもルソーも同じである。短期的・直接的な私利私益を断念することによって、長期的により多くの利益を回収する。自然権の無制約な行使を断念する代わりに、社会契約に基づいて形成された公共を通じてより効果的に自分の生命財産自由を保全する。この論の筋目は誰でも理解できるはずである。つまり、パターン2の公私混同を一定数の人が果たさないと近代市民社会は存立しないということである。問題は、誰が、どれくらいまでのパターン2を受け入れてくれるか、である。
 残念ながらこの問いには「一定数の市民」が「ある程度まで」我慢して、この責務を引き受けるしかない、という漠然とした答えしか提出できない。だって、「みなさん、どうぞよろしくお願いします」と懇請しても「やだよ、オレは。公共のためにそんなに出せるか」と言う人や「自分の割り前は出さずに、公共の支援だけ受けているフリーライダーがいる。不公平だ」と言う人が必ず出てくる。公共が必要だということはみんなわかっているのであるが、公共を立ち上げるのは自分の仕事だと思っている人は非常に少ないのである。
 私が「市民的成熟」と呼ぶのは、「公共を立ち上げて、維持するのは、私の仕事だ」と思えるようになるということである。「誰もやりそうもないけれど、誰かがやらねばならない仕事なら、私がやるしかないか」というふうに考えることのできる人、それが「成熟した市民」である。
 「市民的成熟度」に客観的な尺度はない。「勝ち組」で、権力をほしいままにし、財貨を溜め込んでいるけれど「市民としては未成熟」な人間は掃いて捨てるほどいる。そして、そんな未熟な市民ほどメディアでもてはやされ、公職に就いて公権力・公共財の使い方を決定する立場にいたりする。「いたりする」どころではないか。
 学校は子供たちの市民的成熟を支援する場である。子供たちに「お願いだから成熟してね」と懇請する場である。子供たちの全員が成熟した市民になることは期し難いけれど、せめて全体の7%くらいが「大人」に育ってくれないと、民主政も市民社会も文明も持たない。でもそのような危機感を持っている人が政治家にも官僚にも学者にもほとんどいない。ほんとうにいないのである。だから、私は同じような教育論を繰り返し書き続けることになるのである。正直、つらい。
(未掲載 9月22日)