学校の先生たちと話す機会が多い。私の主宰している寺子屋ゼミにも小学校から大学までの教員たちがいるし、学校での講演や教員の研修会にもよく呼ばれる。4月から学校法人神戸女学院の理事長を拝命することになったので、中高や大学の先生たちと話をする機会も増えた。
話題はいろいろあるけれど、話していて一番興味深いのはAIについてである。これは中高の生徒たちと話していても熱が入る。誰もがAIのせいで学校教育がどうなるのか(「どう崩壊するか」と言った方がいいかも知れない)について確実な見通しを語れないからである。
AIはすでに教育活動の中に深々と侵入してきているが、それが学校教育をどう変えてしまうのか、生徒や学生の知的能力や身体にどのような影響を与えることになるのか、誰も知らない。知らないまま、生徒学生も教員もみんなAIを日常的に使っている。
使っているどころか、ICT教育では「AIを小学生から活用させる」ということを推進している。小学校の教育にどうやってAIを導入するかについての研修会がこの夏休みに各地で開かれ、そこに全国の教員が集まって必死にノートを取っているという話を当の研修会から帰ってきたばかりの先生から聴いた。
「小学校の教育にAIを導入したらどうなるでしょうか」と訊かれたので、「そりゃ、バカになるでしょう」とお答えした。もうすでに欧米ではAIを頻繁に利用する子どもたちの学力がAIをあまり使わない子どもたちに比べて有意に低下しているというデータが次々出されている。当然だと思う。
2023年の1月に、スタンフォード大学の学生新聞がアンケートをとって年度末のレポートにChat GPTを使った学生の比率を調べたことがあった。Chat GPTをOpen AIが発表したのは前年の11月であるから、発表後わずか2カ月後のことである。アンケートの結果、17%が「秋学期の試験やレポートでChat GPTを使った」と回答し、5%はAIが出力したものをそのままレポートにして提出したと答えた。
このアンケート結果を踏まえて、学生新聞の編集部はChat GPTに「AIは効率的な学習支援者なのか、それとも狡猾な詐欺師なのか」という問いを打ち込んで、記事を書かせた。Chat GPTは次のように回答した。
「結論を述べれば、ChatGPTでも他の生成AIでも、それらを利用して記事を書かせることは不適切かつ非倫理的な行為である。それは職業的ジャーナリズムの価値と重要性を毀損し、重要な事象についての公共的な理解を傷つける可能性がある。」
AI自身が「AIに記事を書かせるのはよろしくない」と編集者のAI依存を批判したのである。AIってめちゃ賢いということがこの事件でむしろ証明されてしまった。
それがわずか2年半前のエピソードである。前年度末に日本の大学に提出された卒業論文のうちAIに書かせた箇所をまったく含まないものはたぶん1割にも満たないだろう。もっと少ないかも知れない。全文AIに書かせて学位を手に入れた強者もきっと相当数いるはずである。
AIが書いた論文は、まったく同じ文言で指示を出さない限り、すべて違うものになる。オリジナルである。だから、これまでのように学生たちの「盗用」や「コピペ」を指摘して減点という手は使えない。教師にできるのは「あいつがこんなレベルの論文を書けるはずがない」という感想を持つことまでである。でも、書いていないことを証明することは困難である。おそらく来年からは、本当に自分で論文を書いたのかどうか、口頭試問を課して、きびしく問い詰めて、自分が書いたはずの論文の内容を理解していない学生の論文は卒論として認めないという教員たちも出てくるだろう。
でも、履修者400人というような教科の場合は口頭試問なんかできない。出されたレポートを読んで、AIの作文と知りつつ泣く泣く点をつけか、教室に集めてその場で答案を書かせるというICT教育に逆行する形態を採るしかないだろう。
中学高校でもAI問題は深刻である。先日話を聴いた中学生は「レポートを全部AIに書かせた同級生の方が、こつこつ自分で書いた私のレポートより高い評点だった。理不尽だ」と憤っていた。でも、憤っても仕方がない。自分の知力を毀損したくないと思うなら、引き続き自分でこつこつ書く方がいい。高い評点が欲しいだけなら、同級生を真似してAIに丸投げする方がいい。でも、それは知的な成長を断念するということに等しい。そのことは忘れない方がいい。
文学賞でもAIはあちこちで問題になっている。AIに書かせた小説がどんどん投稿されてくるのだが、「これがね、人間が書いた小説より面白いんだよ」と先日会った高橋源一郎さんが苦笑していた。人間が書いた作品もAIに書かせた作品も、何でも応募可という文学賞もいずれ出てくるだろう(もうあるかも知れない)。
私はAIが書いた小説は読んだことがないけれども、AIが書いた論文のようなものはいくつも読んだ。原稿を書く時も調べものをする時はだいたいAIに質問を打ち込む。Wikipedia を頭から読んだり、辞書や世界史辞典を引くより答えが出るのが速いからだ。でも、さくさくと出力される答えを読んでいるうちにわかったことがある。それはAIが出力するテクストには隙間がないということである。
「隙間がない」というのは、そこでは知性が創造的な活動していないという意味である。知性は隙間で活動するからである。
こんな言い方では意味がわからないだろうが、他にうまい言いようが見つからない。「隙間」と言ってもいいし「裂け目」と言ってもいいし、「段差」と言ってもいい。私たちがものを考えている時には、どこかでそこを「えいや」と眼を瞑って跳ばないと先に進めない行論上の断崖に出会う。必ず出会う。創造的知性はそこを跳び越えるのである。跳べるのは、跳んだ先に何か「つかまるもの」があることが直感されるからである。当たり前の推論だけではたどりつけない着地点を人間の知性は直感することができる。そこを目指して跳ぶ。
AIの書いたものを読んでいると、この「跳ぶ」感じを経験することがない。まったくない。ゼロ、である。推論はきちんとつながっていて、どこにも破綻がないのである。
言い換えると、AIは無時間モデルで推論するのである。だから、AIの思考の中では時間が流れない。だから、AIは成熟することがない。成熟する必要がないから当然だけれど。
でも、私たち人間は書きながら変化する。書きながら成熟し、あるいは退行する。自分が書いたことによって自分が何を考えていたのか教えられる。自分が書いたことによって進むべき道がわかる。逆に自分で書いたことによって呪縛されて、先へ進めなくなることもある。書き手は書きながら自分を形成し、自分を解体する。この自己解体・自己変容のプロセスは時間の中で起きる。だが、AIが書いたものの中では時間が流れない。一瞬で出力されるAIの思考には成熟している暇がないのだ。
たしかにAIは俯瞰的な視座から、こちらが示した論点について理路整然とした説明をしてくれる。その点ではたいへんありがたい。でも、人間は実際にはそんなふうには思考しない。
私の場合、論文を書く時は、序論を書いている時点では、最終的にどんな構成になり、どんな結論になるのか、わからないまま書き出す。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、よろよろと論を進めて、そのうちに、「この方向に進めば、なんとかなりそうだ」という手ごたえを感じる。あとはわりと一気に結論まで進む。そして、結論を書き終えた後に、あたかも序論を書いている時点で、すでに行論の全体が見通されており、結論までわかっている書き手であるかのようにおのれを偽装するのである。途中の「あっちへよろよろ、こっちへよろよろ」部分はばっさりカットして、まるで序論から結論まで一直線に進んだかのように偽装するのである。論文を書くというのは、そういうあざとい作業なのである。
学術論文の場合、主語は「われわれ」という一人称複数を用いる。これは「誰でもないもの」を意味する。フランス語でNous sommes lundi というのは「私たちは月曜日です」ではなく「今日は月曜日です」という意味である。もう一つ「圧倒的な高みにいるために下々の者には視認できないもの」も主語を「私たち」と称する。国王や教皇が公文書で語る場合がそうだ。文法では「威厳の複数形」と呼ばれる。
学術論文の書き手は、自分は「誰でもないもの」であり、かつ「論考全体を高みから一望俯瞰しているもの」を自称するのである。でも、これは詐称なのである。実際には生身の個人が、地べたを這うようにして、迷ったり、跳んだり、よじ登ったりして踏破した知的旅程を、事後的にメイクアップして、まるで平坦な舗装道路をすたすた歩いてきたかのよう偽装して提示するのである。
AIが書いた論文は「完成した論文」である。でも、実際に論文を書いたことのある人間はわかると思うが、人間にはそんなものをいきなり出力することはできない。ほんとうは、さまざまな試行錯誤があり、逸脱があり、行き止まりがあり、前言撤回があり、仮説の書き換えがあり、最終的に論文の体裁がかろうじて整うのである。AIの書いた論文には、その「やっと恰好がついた」感がない。あるはずがない。推論の過程で立ちすくんだり、行き止まりにつきあたって引き返したり、行論上の段差を跳び越えた形跡がないのである。まるで、平らな舗装道路をすたすた歩いたかのようにテクストは書かれている。AIは完成した論文を出力する。完成したものしか出力できない。
それがどうしたと言われそうだけれど、この試行錯誤のうちに知性の一つの本質的な働きがあるのではないかと私は思うのである。
フランス語の動詞errer には「あてもなく彷徨する」と「誤る」の二つの語義がある。モーリス・ブランショは『文学空間』に、文学の空間は「場所なき滞在」であって、真理の場ではないと書いた。作家は文学空何をさまようだけで、決して定住することがない。作家はつねに外部を志向する。真理のうちに安住することなく、無限の彷徨に身を投じる。「錯誤(erreur)」と「彷徨(errance)」は同じ動詞の派生語であるのだから、この二つは宿命的に絡みあっている、と。
私が『文学空間』を読んだのは50年も前のことだが、この「彷徨と誤謬は起源を同じくする」というフレーズだけは「かっこいい...」と嘆息をついたので覚えている。意味なんかわからなくても、「かっこいいフレーズ」に出会うとくらくらしてしまうのが若者というものである。それでいいのだ。きっといつかこのフレーズを使う日が来るだろうと思っていたら、図らずも50年経って、生成AIについて書く文章で引用することになった。
私が『文学空間』を読んだ時にはもちろん生成AIは存在していなかった。でも、AIについての分析に「使える」論理的なツールは、そんなものがいつ現れるか予測もつかない時点で、すでに鍛えられていた。そういうことがあるのだ。
人間知性の本質はまっすぐ進んで、誤らないことではない。人間の知性の本質は彷徨し、誤ることなのである。決して単一の解に居着かない。つねに外部を求めてさまよい出る。自由を求めるその志向のうちに知性の命はある。私はそう思う。というか、そう感じる。
知性の活動は人間という生命体の活動の不可欠の一部である。その点では呼吸器の活動や、循環器の活動や、内分泌系の活動と、本質的には同じである。それがないと人間は生きてゆけない。心臓が止まったら死ぬ。呼吸が止まったら死ぬ。消化器が働きを止めたら死ぬ。それと同じように、知性が命を失ったら人間は死ぬ。そして知性の命は彷徨し誤ることができるという開放性のうちにある。彷徨し、誤謬を冒すことを止めたら、人間の知性は死ぬ。そして人間も死ぬ。
もしAIに「結論がない文章を書け」というコマンドを打ち込んだら、まったく意味不明の文章を出力するだろう。AIは「まだ自分には知られていないことを私はいずれ知るようになるだろう」という先駆的直感に導かれて書くことができない。人間にはできる。人間は書きながら成熟するからだ。人間はどのような結論に導かれるか知らないままに、まだ書かれていない結論を先駆的に直感しながら文章を出力することができる。
AIは私が今書いているような文章を書くことができないだろう。「何が言いたいのかを書いている人間自身もよくわかっていないような文章」をAIは書けない。たぶん書けないと思う。自分が何が言いたいのかわからない文章を人間が書けるのは、どこかにこのエクリチュールの着地点があり、いつかはその確かな地面を足裏に感じるだろうという予感をありありと感知することができるからである。
(言論の作法、『一冊の本』、8月30日)
(2026-09-24 14:20)