沖縄県知事選が終わった。事前の予測通りだった。相当数の県民が「もう基地問題のことは諦めた。本土の政府の言うことを聞いて経済的利益を優先させよう」というふうに考えたらしい。これは政治的判断というよりはむしろ「大きな問題(日米の外交関係の中でしか解決できない問題)」のことは考えても仕方がないから、「小さな問題(身近な生活の問題)」に優先的に政治資源を配分しようと決断したということなのだろう。「大きな問題から小さな問題へ」のシフトである。これが今世界中で起きているような気がする。
今回の県知事選では、参政党が古謝玄太候補の応援に回ったことが注目された。この極右政党も実は「小さな問題」にこだわる人たちを支持層にしている。支持者たちはワクチン接種とかオーガニック食品とか、自分の身体に強い関心を持つ人たちである。彼らは「身体に異物を採り入れると健康が損なわれる。異物を排除して、身体を初期設定に戻せば、人間は健康になる」という考え方をする。これは人間の身体についてはそれなりに合理的な診立てである。しかし、そこから「自国固有の食材を、自国の伝統的なレシピで食べる。外来食物は食べない」という自国ファースト栄養学までは一本道である。ナチスは外来の食物がドイツ人の身体を汚していると考えて、「バナナを食うな」「コーヒーを飲むな」と主張した。これは「外来の異物が自分の身体を汚している。異物を排除して原初の清浄と健康を回復しよう」という排外主義的身体観が、「外来の異物が自分たちの社会を汚している。異物を排除して(以下同文)」という排外主義的社会観と同型的であることを示している。
このタイプの人たちは「小さな問題」にまずこだわる。「大きな問題」に対する態度はそこから帰納的に導かれる。ふつうの人にとっての「小さな問題」は自分の健康と経済状態である。自分の健康と経済状態が定常的であること(できれば少しずつ好転すること)を何よりも優先する「自分ファースト」戦略を採用すれば、そこから導かれる政治的態度は、多くの場合「長いものには巻かれろ」という事大主義と「排外主義」に行きつく。
「小さな問題」にこだわることは人性の自然であるから、誰にもそれを咎めることはできない。だが、そのせいで「大きな問題」についての適否の検証の基準を「私の健康と経済状態に資するかどうか」だけで決める態度に私は不安を感じる。
それは左派が掲げる「生活ファースト」とか「国民の生活が第一」というスローガンについても同じである。国民全員が自分の生活防衛を最優先した場合に、誰が国益を配慮するのか。部分最適を積み上げても、それは全体最適とはならない。「小さな問題」を配慮するときに用いる判断基準と、「大きな問題」に適用する判断基準は違う。「ずれる」場合もあるし、対立する場合もある。しばしば私益の追求と公益の追求は噛み合わない。でも、だからと言って、誰一人「公共の福祉」について配慮しなければ、集団は滅びる。この折り合いが難しいのである。
「なんとかファースト」というのは、この「折り合い」についての知性の行使を惜しむ人たちが採用する戦略である。私自身はこのタイプのスローガンに反対である。私権の一部を委譲し、私財の一部を供託することで「公共(コモンウェルス)」は立ち上がる。これは近代市民社会論の基本である。
「小さな問題」と「大きな問題」の間で葛藤することで初めて人は市民的成熟を果たす。同じことをこれまでも何度も書いてきたけれど、それをもう一度繰り返したい。
(週刊金曜日9月16日)
(2026-09-22 17:11)