韓国に講演旅行するようになって15年目になる。
私の本は約60冊韓国語訳が出ている。教育論が主体だけれど、時局についての論集や武道論やレヴィナス研究も訳されている。今年は光州に行く。与えられた演題は「AIが代替できない身体性と学びの本質」である。私の書いたものを相当読み込んでいないとこの演題は思いつかないだろう。ずいぶんコアな読者が韓国にいるらしい。
なぜ私にお座敷がかかるのか時々考える。最も蓋然性が高い理由は「似たようなことを言う人間が韓国の言論人にいないから」である。たぶんそうだと思う。私が韓国に提供できる例外的な知見があるとすれば、それは「マルクス主義について」と「武道について」である。これはたぶん韓国内では「国産品」が調達できない。
マルクス主義は韓国では法律上その宣布が禁止されている。今も国家保安法があって、共産主義を賛美することは刑事罰の対象になる。そうは言っても、マルクスの訳書は出版されているし、私と石川康宏さんの共著『若者よマルクスを読もう』も翻訳されている。
私は韓国の若者たちにはぜひマルクスの著作を手に取って欲しいと思っている。マルクスを知らないと19世紀以後のヨーロッパの政治思想・社会理論の生成進化の文脈が理解できないからだ。たしかに書物的知識だけでも、マルクス主義とはどういう思想でどういう運動や組織を生み出したのかを俯瞰的に語ることはできる。でも、マルクスの思想の強度を伝えるためには、どうしても読者の袖をつかんで「読んでください」とすがりつく「伝道者」が必要である。でも、韓国内でそういう態度をとることは政治的なリスクが高すぎる。仕方がないので日本人にアウトソースした。そういう機序ではないかと思う。
もう一つは武道の思想。武術は韓国でも盛んだけれど、国情もあって「効果的に人を殺傷する技術」に特化する傾向がある。もちろんそういう技術の追求にも意義はある。だが、それは日本の伝統的な「武道修行」とはめざすものが違う。
武道修行は「効果的に人を殺傷する技術」を会得したいなら、そもそも殺意を捨てなければならないという逆説から始まる。「蓋し兵法者は勝負を争わず強弱に拘らず」という澤庵禅師の言葉は武道修行の基本である。勝ちたいなら勝ち負けを争うな。強くなりたければ強い弱いという考え方を捨てろ。相対的な優劣に居着いている限り、修行はできない。
修行者は師に就いて、師の示す道をただ歩む。それだけである。めざすのは「天下無敵」「梵我一如」という凡人には絶対に到達できない境位である。だが、それ以外に目標はない。行程表も成績表も格付けもない。比較する対象があるとしたれら、それは「昨日の自分」だけである。修行者は誰とも競争しない。月をめざしている修行者が「オレの方がお前より月に10センチ近づいた」というようなことを誇るはずがない。
「我執を去って自在を得る」という修行の理路は韓国の武道家たちにも直感的に伝わったようである。
修行の目的は勝つことではなく、生きる知恵と力を高めることであるという話には頷いてくれる若者が多い。韓国は激しい競争社会だから、勝つことへのプレッシャーに若者たちは苦められている。そんな生き方をしていたらどこかでバーンアウトしてしまう。競争にこだわる限り、人格的な自己陶冶は期し難い。競争とは別の生き方はないのか。そう思っている人たちに「修行という生き方」があることを伝えるのも私のもう一つの伝道活動である。
(「週刊金曜日」9月2日)
(2026-09-16 07:35)