11月に毎年恒例の講演旅行で韓国に行く。今年は光州に行く。予習のために光州事件について凱風館のゼミで映画『1980僕たちの光州事件』を観た。
光州事件を扱っている映画は『ペパーミントキャンディ』、『タクシー運転手』『光州5.18』などいくつもある。どれも事件に図らずも巻き込まれてしまった個人の眼から見た事件の断片を描いている。
たしかに、これほどスケールの大きな政治的事件については、「神の視点」から俯瞰的・客観的に観察するという態度を採ることは難しいだろう。だから、あえて個人的視点に限定して、「私が見た限り」を証言するというかたちを採ることになる。この抑制的な態度を私は評価したい。
映画を観終わってから、なぜ韓国の人は自国の歴史の暗部をこのよう抉り出すことができるのに、日本人はそれができないのかという話になった。
その時に、「韓国は自国の歴史の暗部を抉り出すことができるくらいに『正義』を重く見る。しかし、北にはそれができない」という南北対比が意識下で働いているからだと韓国の地域研究の専門家が指摘してくれた。なるほどと頷いた。
そう言えば、台湾でも、国民党による白色テロという歴史的暗部は繰り返し映画化されている。これも「台湾は自国史の暗部を抉り出すことができるが、大陸にはそれができない」という「道義性をめぐる覇権争い」という文脈で解釈することも可能だろうとこれは台湾の専門家が教えてくれた。
そう考えた時に、なぜ日本人には自国史の暗部をエンターテインメントに仕上げるという力業ができないのか、その理由が少しわかった気がした。日本には「どちらがより道義的か」を競うべき隣国がないのである。
地理上の隣国はある。だが、どの国に対しても、日本人は「われわれの方が諸君たちより道義的である」と証明する義務を免ぜられている。免ぜられているどころか、そもそも道義性について発言する権利を許されていない。81年前までは日本は隣国を侵略し、収奪してきたのである。逆立ちしても、被害者たちと道義性の高さを競う資格がない。
日本にできるのは、その事実をまっすぐに受け止めて押し黙るか、過去のことは忘れて、国内に向けて「日本は昔からずっと道義的な国だった」という嘘を語るかどちらかしかない。
むろんそんな「偽史」映画やドラマは国内には喜ぶ人がいても、海外での集客は期し難い。当然製作資金を出すところがない。歴史ドラマが作られないない理由がそれで腑に落ちた。
(農業協同組合新聞 8月26日)
(2026-09-05 10:11)