『常識なき世界を生き延びるために』まえがき

2026-08-11 mardi

もうすぐ朝日新聞出版から望月衣塑子さんとの対談本『常識亡き世界を生き延びるために』が出版される。その「まえがき」。 


 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 本書は東京新聞記者の望月衣塑子さんとの対談を収録したものです。2025年の秋から2026年の初夏にかけて数回行った対談を文字起こししたものに加筆したものです。
 この期間はほんとうに「激動」の時間帯でした。台湾有事発言に始まる日中関係の緊張、ベネズエラ大統領拉致、日米首脳会談での高市首相の属国民的な身ぶり、米中首脳会談でのトランプの貫禄敗け、イスラエルと米のイラン侵攻、ホルムズ海峡の閉鎖...とめまぐるしく、ほとんど日替わりペースで政治状況が変化しました。
 こういうふうに政治的状況の変化がやたらに早いときには「時局的な書き物」はすぐにout-of-date になってしまうリスクを抱えています。うっかりすると「いったいいつの話をしてるんだよ」と笑われてしまう。「これ、ネタがだいぶ古いなあ」と思われると書店の棚からもさっさと片づけられてしまう。ですから、対談が終わって、ゲラが出て、それを校正している間にも次々と政治的事件が起きるたびに、「この事件のせいで本の賞味期限がどんどん短くなるんじゃないか」とちょっと心配していました。
 でも、ご安心ください。杞憂でした。というのは、たしかに校正中にも新しい事件は次々起きたのですけれども、その出来事を含む「文脈」には大きな変化がなかったからです。そして、この対談がフォーカスしていたのは、もっぱら「これらの出来事はどういう歴史的文脈の中で生起しているのか?」という問いだったからです。「文脈」さえしっかり抑えておけば、どんな出来事が起きても、その歴史的意味や因果関係はある程度わかります。
 歴史を律している文脈は、いま世界は「大洪水」に向かう奔流の中にいるということです。
「大洪水」というのは、マルクスが『資本論』の中で用いた比喩です。資本主義の終焉のことです。資本主義は19世紀の英国で、マルクスが生きている時代に彼の眼の前で生起した新しいシステムでしたが、その誕生の時でさえ、資本家たちは「洪水よ、わが後に来たれ(Après moi, le déluge)」と祈っていたのです。自然と人間を際限なく収奪するこんな非人道的で歪んだ経済システムがいつまでも続くはずがない。いずれ破綻するのは確実なのだけれども、それは私が死んだ後にして欲しい。資本家たちはそう祈った。つまり、資本主義は誕生した瞬間から「末期」だったのです。
でも、なんだかんだ200年にわたって延命しました。末期ステージにいたはずの資本主義が200年も延命したのは、民主主義や人権思想や社会福祉制度のような「よけいな制度」を人間が創り出して、資本主義の延命に加担したせいだと考えるのが「加速主義」という思潮です。
加速主義者たち(イーロン・マスクとかピーター・ティールとか)がめざしているのは、これら「よけいな制度」を廃絶して、資本主義の終焉を早めることです。「大洪水」の到来を加速して、一刻も早くポスト資本主義のフェーズに通り抜けたいといういう「苛立ち」がイデオロギー化したものが加速主義(accelerationism)です。
この「苛立ち」の気分は間違いなく、世界中のすべての国の、あらゆる政治的事件のうちに見ることができます。程度の差はあれ、世界中の人々が「苛立って」いる。そして、これまで存在していたシステムを、その良否を問うことなく、壊すことに熱中している。
苛立った人間は必ずものを壊す。そういうものなんです。いらいらしながら、丁寧にじっくりと作品を創り上げるというような器用なことを人間はできません。苛立った人間にできるのは壊すことだけです。そして、世界中の人が苛立っている。
本書はそのような文脈の中の約一年を切り取って、そこに生起する出来事をつなぐ「流れ」を確定しようとする試みだったといまは思います。connecting the dots 「点を繋ぐ」という言葉があります。ランダムに散らばっているように見える点を繋ぐとはっきりとした絵が浮かび上がることです。
 望月さんとの対談は、そのつどの喫緊の政治的事件を扱っていますので、話題によっては「ネタが古いぜ」という印象を持つ読者もおられるかも知れません。でも、それはただの「点」なんです。それらの点と、現在起きている出来事という点を繋ぐと、ある絵が浮かび上がってくる。僕たちは、読者のみなさんに「絵」を見てもらうために「線を引く」仕事をしている。そういうふうに思って読んで頂けるとありがたいです。
 最後になりましたが、本書を企画し、忙しい二人の日程を調整し、とっちらかりがちのおしゃべりをまとめてくださった朝日新聞出版の松尾信吾さんのご配慮に感謝します。毎回さまざまなトピックを提供してくれて、僕のとりとめのない話に忍耐づよくお付き合いくださった望月衣塑子さんのお気遣いにも深く深く感謝申し上げます。

2026年7月
内田樹