この四月から思いがけなく、学校法人神戸女学院の理事長に選任されました。これまで評議員や理事を務めてきたので、ときどき会議に出て、私見を述べるくらいのことはしてきましたが、いきなり中高部から大学まである学校法人の経営者になってしまい、本人もびっくりしています。
いろいろな方がにこやかに「おめでとうございます」と言ってくれるのですが、本人は「このたびはとんだことで」という葬儀の挨拶の方が似つかわしいんじゃないかと内心では思っています。だって、僕もう75歳ですよ。後期高齢者で、ちょっと前にすい臓がんを切ったばかりの病後の身ですよ。こういう文章だけ読んでいると、ずいぶん元気な爺さんだと思っている方も多いと思いますけど、けっこうあちこちガタが来てるんです。ほんとに。
でも、理事長就任のせいで担当編集者の中出さんから「理想の大学と大学教育について」頁を増やすから好きなことを書いていいですというオファーを頂きました。これまでだと「こんな大学で、こんな教育をしてたらいいな」と個人的な願望を書いていればよかったのですが、これからはそうもゆきません。それを実践できる立場になったんですから。「内田さん、あんた、これまで教育について好き放題書いてきたんだから、今度は自分でそれやってみなさいよ。『ここがロドスだここで跳べ』だよ」と言われているような気分です。
前に高校の先生たちの集まりで講演した時に、質疑応答で「内田先生がもし校長先生になったら、どんな学校にしたいですか?」と訊かれたことがありました。その時は少し考えてから「お気楽な学校にします」とお答えしました。
うるさい規則を設けず、勤務考課もしない。先生たちは自分の教育理念に従って、それぞれ好きな教育方法を実行して構わない。会議はできるだけ少なくする。ペーパーワークもできるだけ減らす。教員たちが生徒と一緒に過ごす時間をできるだけ長くする。とにかく、働く人がみんな上機嫌であることが最優先です。そんなふうに答えたことを覚えています。
僕自身も大学の管理職を何年な務めましたけれど、たぶん「お気楽な上司」だったと思います。部下たちを集めて訓示を垂れるとか、会議をするとかいうこともなかったし、「こういうことをしたいんですけど」という提案を持ってきたら、だいたいは「好きにしていいです。責任は僕がとりますから」と応じました。さいわい、一度も責任をとったことがありません。当たり前ですよね。「失敗してもオレは知らないからね。責任は君がとれよ」と上司に言われたら、そのプロジェクトが失敗する確率は有意に上昇する。それよりは「責任はオレがとるから、好きにしていいよ」と言われた方が失敗する確率は少なくなる。お気楽な上司の方が仕事が捗る。これは僕の経験則です。
僕の道場の凱風館でもやり方は同じです。僕は館長ですけれども、仕事は塾頭と書生たちに丸投げです。お金もまとめて預けておいて、必要なものを買うのにいちいち僕に許可を得なくていいから好きに使ってくださいと言ってあります。「お金、なくなりました」と言ってきたら、また渡す。塾頭にも書生にも別に仕事の指示は出しません。自分が「こうした方がいい」と思うことがあったら、どんどん進んでやってください。もちろん、仕事ぶりについての査定もしません。給料は全員同額。
会議もできるだけやらないようにしています。だって会議を開くと「こんな問題があります」と言い出す人が必ずいるから。一人が言い出すとみんな真似して、「実は他にもこういう問題があって・・・」と競って「問題探し」を始める。どんな組織でも集団でも、「この辺が問題」と言い出すと切りがないんですよ。僕はそれが苦手で。だから、会議をできるだけやらないようにしています。権限はみなさんに委譲してあるので、問題を発見したら、その場で、自分で解決してください。自分の手に余ることだけ僕に言ってきてください。その時は僕がなんとかしますから。そう言ってあります。
僕は中央集権のトップダウン組織というのがそれほど効率的だとは思いません。でも、なんでも合議して決めるというのは手間暇がかかり過ぎます。そこで、「みなさんご自由にやってください」ということを僕の独断で決めた。「みなさんご自由に」という凱風館の基本ルールはいかなる会議体の、いかなる機関決定でもありません。僕の独断です。「これからは民主主義で行きます」と独裁者が宣言したようなものです。ルールを制定する主体はルールの外部にいる。
日本国憲法だってそうです。公布されたときに憲法には「上諭」というものが付いていました。主語は「朕は」です。昭和天皇が「枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正」を裁可し、公布せしめたという体裁になっています。この「額縁」はそれから取り外されて、僕たちが知っている日本国憲法には「上諭」が付いておりません。そして、憲法第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と書いてあります。国民という主権者が天皇の地位について決定を下した憲法を天皇が発令しているわけです。
なんだかややこしい話ですね。でも、憲法とか宣言というのは「そういうもの」なんです。独立宣言でも、人権宣言でも、共産党宣言でも、シュールレアリスム宣言でも、みんなそうです。「そうであったらいいな」ということを力強く、ロジカルに、かつ格調高く語ると、「そうであったらいいな」という願望は、その時点では空語であっても、「充填されることを求める空語」として強い現実変成力を発揮する。ろくでもない現実より、多くの人に渇望されている非現実の方がより現実的である。これもまた僕の経験則の一つです。
あれこれ書いていたら理想の大学について書く紙数が尽きてしまいました。それについてはまた次号に書くことにします。(『蛍雪時代』5月号4月24日)
(2026-08-11 08:06)