学校法人の理事長というものになって二か月が経った。週に2~3日スーツを着て、ネクタイを締めて、学校に顔を出す。会議に出たり、人の話を聴いたり、書類を読んだり、稟議書にはんこを捺したりする。考えてみたら私はこういう種類の「デスクワーク」を過去に一度もしたことがなかったことに気がついた。いつもずっと「誰かを相手に自説を述べる」ということだけして、それで飯を食ってきた(この原稿を書く仕事もそうである)。今の仕事は違う。どちらかというと、人の話を聞くだけの仕事である。そういう意味では新鮮な経験と言えなくもない。
話を聴いてわかってきたのは、組織のトラブルの多くが「自我の病」だということである。河合隼雄先生はかつて「心の病は世界の病である」という卓説を述べられたが、ほんとうにその通りである。社会が病んでいるから、人もまた病む。
どういう病なのか。私の仮説は「承認欲求のもたらす病」だというものである。自分の努力についての周囲の評価が不当である、人々の自分への配慮が足りない、こんなに愛しているのに相手に気持ちが届かない...そういう愁訴が多い。
自分はここにいて、さまざまな感情や思いを持っており、それを必死に表現している。それを周りの人にきちんと見てもらって、何を言いたいのかわかって欲しい。自分が言うこと思っていることに価値があると認めて欲しい。その承認が与えられないと自分の存在基盤が崩れ、果たして自分が存在しているのかどうかさえわからなくなる。その不安の機序は私にもわかる。でも、この不安はいささか度が過ぎる。
「評価」「査定」ということがうるさく言われ出したのは、90年代の終わりくらいからだったと思う。バブルが弾けて、日本社会全体が「貧乏くさく」なった頃だ。パイが大きくなっている時には、みんな気分よくパイをむさぼっていたが、パイが縮みだしたとたんに、言うことがせこくなった。
「ちょっと待ってくれ。いったいどういう基準でパイを分配しているんだ。誰かもらい過ぎてないか。オレの取り分を誰かが横取りしてやいないか。ちゃんとした基準に基づいて、厳密にパイを分けようじゃないか」と言い出す人がわらわらと出て来た。それからフリーライダー捜しが始まり、勤務考課がうるさくなされるようになり、生産性や貢献度に応じて個人が格付けされ、それに基づいて資源が傾斜配分されることになった。
その結果、日本はどんどんダメになった。当たり前である。だって、いくら精密に査定しても、評価しても、格付けしても、その行為そのものはいかなる価値も生み出さないからだ。「ここにある100万円をどうやって適切に分配するか」の会議を続けているうちに会議の弁当代が100万円を超してしまったというジョークがあるが(私が前に思いついた)、評価コストがある限度を超えると、集団はひたすら痩せ細る。評価している暇があったら、団子の一つもこねた方がましである。
私の年齢の人間は高度成長期を知っている。成長率年率10%超えという時代を覚えている。とにかくワイルドでアナーキーな時代だった。どんどん新しい業種が生まれ、周り中が「ブルーオーシャン」だった。起業家たちは次々と身の程知らずに事業を拡大した。それがうまくゆくので、とにかく猫の手も借りたいという雇用環境になる。「猫の手」相手に厳密な勤務考課なんか誰もしない。「誰かこの仕事やってくれるか」というSOSに「おう、オレがやるよ」と手を挙げるというのが「人事」だった。シンプルな時代だった。
でも、日本が「貧乏くさく」なってから「評価信仰」が始まった。「承認が足りない」と訴える人たちが増えて来たのはそれから後である。
「承認が足りない」というのは「評価が低い」ということである。下位に格付けされ、資源配分で後回しにされる。それに苦しんでいる。
「他人が君をどう評価しようと、そんなこと気にしなければいいじゃないか」と若い人に言ったら怪訝な顔をされた。「内田さんは、自分の投稿についてるリプとか見ないんですか?」と訊くから「見ない」と答えた。知らない人間が私についてどういう評価を下すか私には興味がない。家までやってきて、「書くのをやめろ」と「人前で話すな」とか言ってきたらお引き取り願うけれど、知らない人がネットに何を書こうと私は与り知らない。時々「内田さん、『炎上』してますよ」と親切に教えてくれる人がいるけれど、燃えようが鎮火しようが、所詮ただのディスプレイ上の点滅である。
そう言ったら化け物でも見るような眼で見られた。若い人たちは「エゴサーチ」ということをするらしい。とりわけ自分の悪口を言っている人間がいると、そのアカウントまで行って、書き込みを全部読み、どんなアカウントをフォローしている人間なのかも調べるのだと聞いてびっくりした。それほどまでに自分が「世間でどう評価されているのか」が気になるのなら、これはもう病気である。
「評価」と「分配」の間には精密な相関関係があるべきだというのが「支配的なイデオロギー」になったことで生まれた病気である。評価の高い人間には報奨を与えられ、評価の低い人間にはペナルティが与えられる。敗者が路傍で窮死しようと「自己責任」だというこの非情なイデオロギー(新自由主義と呼ばれている)が「承認が足りない」という不安につねに焼かれている大量の人々を生み出した。私にはそう見える。実際に、みんなが査定に怯えている。大人も子どもも怯えている。
でも「厳密な評価」は集団を弱くする。それは上に書いたように「評価コスト」が何も価値あるものを生み出さないのにとめどなくリソースを食うからである。もう一つの理由は、「厳密な評価」が成り立つためには、サンプル数が多くなければならないからである。大量の人間が同一のタスクを課せられている場合に査定は厳密になる。TOEICのスコアをみんなが気にするのはそれが受験者の数の最も多い試験だからである。でも、全員が英語しかできない集団と、多言語話者にばらけている集団を比べたら、文化的な奥行きも深みも、後者の方にアドバンテージがあることは誰でもわかるはずである。
厳密な評価は集団の均質化を要請する。そうやって集団は多様性を失い、危機耐性を失い、復元力を失う。いい加減に評価や査定にしがみつくのを止めないか。(JA:COM 6月20日)
(2026-07-19 08:48)