世のなかはどんどん悪くなっているのか?

2026-07-19 dimanche

 世の中がどんどん悪くなっているようだと友人の平川克美君が嘆いた。温泉宿でぼんやりおしゃべりしている時のことである。私も頷きつつ「でも、いつでもそうだったんじゃない」と応じた。「世の中がどんどん良くなっている」という喜びの声が支配的であった時代というのはいくら記憶を探っても存在しない。私たちはいつも「ろくでもない世の中だぜ」と思って暮らしていたような気がする。
 たしかに1950年代の終わりから60年代の終わりまでの10年間くらいは高度成長期だったし、政治的自由も拡大していたし、メディアも元気だったから「振り返ってみると良い時代だった」と今では思う。でも、リアルタイムでは誰も「今は良い時代だ」なんて言ってなかった。その10年の間「世界終末時計」の針は11時58分辺りにずっと貼りついていたし、1962年のキューバ危機では第三次世界大戦寸前まで行った。結果的に核戦争が起きなかったから、「後から思えば良い時代」と思えるけれど、リアルタイムでは子どもでさえ「そのうち核戦争が始まって、人類は滅びるんだから、今のうちにやりたいとをやっておこう」と思っていた。
 孔子が「邦に道なきに富みかつ貴きは恥なり」と書いたのは2500年前のことである。その頃から、無道な国ではろくでもないやつが富貴を誇るということがデフォルトだったのである。でも、それを「不条理だ」と嘆くことはない。孔子はちゃんとこう書いて慰めてくれている。「天下道あるときは則ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。」無道の邦を生きるときには君子は貧乏して無名でいるものだ、と。
 司馬遷は『史記』冒頭で「天道是か非か」と問うた。どうして伯夷叔斉のような義人が窮死し、盗蹠のような悪人が天寿を全うするのだ。天は善人に味方するのか、悪人に味方するのかとひとしきり嘆いたあと、司馬遷は孔子と同じ知見に至る。それは、国に道がない時には「ろくでもないやつ」が富貴権勢誇るということである。
 昔からずっとそうだったのである。昨日今日の話ではない。
 小津安二郎の『秋刀魚の味』では「もし、戦争に勝っていたら」という妄想を語る元駆逐艦乗員(加東大介)を制して元艦長(笠智衆)は「でも、敗けてよかったじゃないか」と言う。一瞬あっけにとられた後、加東大介はこう応じる。「そうかもしれねえな。バカなやつらが威張らなくなっただけでもね。」戦中派にとって戦時とは「バカなやつらが威張っていた時代」、恥ずべき人間が富みかつ貴かった時代として記憶されていた。それに比べれば、今はまだましだ。そういう言い方でしか時代の善し悪しは査定できないのだと思う。
 天下に道がある時はまともな人が世に出で、道なき時はろくでもないやつが威張る。孔子の昔から小津の時代までずっとそうだったのである。それが「割とふつう」なのである。
 そう説明したら、平川君も「そうかもしれねえな」と頷いてくれた。三歩進んで、二歩半下がるくらいのゆっくりしたペースで人類は進歩してきたのだと思う。今は二歩半下がる途中なのだ。そのうち下げ止まって、また前に進むようになる。そう言って平川君を慰めた。
 奴隷制も拷問も人種差別も力による現状変更も、今は理屈の上では「ダメ」ということになっている。むろん事実上の奴隷制や人種差別や対外侵略は行われている。だが、そんなことをする国も何らかの「言い訳」は用意している。そうしないととりあえず国連に「出す顔がない」からだ。それくらいには人類は「進歩」してきていると思いたい。(週刊金曜日7月1日)