存在しないものの切迫

2026-07-05 dimanche

 学校法人の経営者になったら、これまで会うことのなかったタイプの人たちと顔を会わせることになった。何人か会って話を聴いて、私とはまったく異質の人種だなとしみじみ思った。彼らは「リアリスト」なのである。彼らが現実として認識するのは「そこに存在するもの」だけなである。
 当たり前じゃないかと言われそうだけれど、私は違う。私は「そこに存在しないもの」についてもその切迫を感じることがある。
 例えば、死者たちだ。死者たちのまなざしを私は背中に感じることがある。死者たちは私のこのふるまいをどう思うだろうと考えてしまう。こんなふるまいは「世間が許しても、死者たちが許さない」ということはある。そういう場合、私は死者たちの気持ちを優先することにしている。
 「空気」もそうだ。空気もかたちはないけれど、切迫してくることがある。私の勤務する学校は縄文海進期の丘陵の上にある。延喜式内社の岡田神社という祠がキャンパスの真ん中にある。1100年前から「聖地」だった土地にずっと後になってミッションスクールが建ったのである。
 ここを校地に選んだ先人はおそらく宗教的感受性豊かな人だったのだろう。聖地には独特の雰囲気があるからだ。そこに立つだけで心身のざわめきが鎮まり、濁りが薄まる。その感じは、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。数値的にお示しできるものではない。
 前に銀行系のコンサルが財政立て直しのために本学に来たことがあった。1年間の調査の結果、「この校舎は古いだけで無価値だから、郊外に移転して高層の建物にしたらどうか」という答申をした。この「聖地」のオーラも、数年後に国の重要文化財に指定されるヴォーリズ設計の校舎の美しさもこのコンサルたちは感知できなかったのである。
 それも当然かも知れないと思った。彼らは「存在しないもの」は感知できないのだ。霊的波動も、声の響きも、学舎の優しさも、木々の緑の美しさも、数値的には示せないものは価値ゼロと査定する。
 そんな連中とは二度と縁を持ちたくないと思っていたけれど、またお付き合いが始まりそうでなんとなく気鬱である。(7月8日)