少し前に『日本型コミューン主義の擁護と顕彰』という本を出した。権藤成卿の『君民共治論』が復刻されたので、その解説のために書いたのである。そこで権藤の説いた「日本型コミューン主義」を祖述した。社稷(自治的な村落共同体)が有司専制(中間的な権力装置、すなわち国家)を廃して、るやかに連携して、それを天皇が象徴的に統合するという統治モデルである。日本国憲法が「立憲デモクラシーと天皇制のアマルガム」だとすれば、権藤の社稷論は「コミュニズムと天皇制のアマルガム」である。コミュニズムと天皇制は割と相性がよいというのは権藤の創見である。
権藤成卿は北一輝と並び称される昭和維新の思想的指導者である。そんな反時代的な書物にどんな反応があるか期待していたのだけれど、みごとに何の反応もなかった。先日斎藤幸平さんと対談した時に「内田さんて、極右で極左なんですね」とまとめてくれたのがこの本に対するほとんど唯一の評言だったような気がする。
皇室典範改定に自民党が前のめりになっているせいでリベラル派の言論人たちも天皇制がどうあるべきかについて語り始めた。これは端的によいことだと思う。
憲法第一条の「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」はきわめて難解な条文である。「統合とは何か」「象徴とは何か」「総意とは何か」どの問いについても国民的な合意が存在しないからだ。でも、これらの問いについて合意形成を目指すことは日本人の政治的成熟にとって不可避の責務だと私は思う。
だが、立憲デモクラシーと天皇制を折り合わせるためにはどうしたらよいのかという困難な問いにまっすぐ向き合ってきたのは皇室の方たちだけだった。私たち国民はその問いをネグレクトしたまま80年を便々と過ごしてきた。だから、今皇室典範改定を前にしても理論的な準備がないまま「君側の奸」とか「皇位簒奪」というような死語を使うしかないのだ。
かつて吉本隆明は天皇制に向き合わぬものはいずれそれに「足をすくわれる」と道破した。その通りになった。 (AERA7月8日)
(2026-07-19 08:56)