聖地とキャンパス

2026-07-05 dimanche

 学校法人の理事長になったので、ふだんの私ならまずお目にかかることのない人たちによく会う。広告代理店の人たちとコンサルの方たちである。「こうすれば大学からのメッセージがちゃんと受験生に届いて、志願者が増えます」といろいろ私の知らない言葉を使ってやり方を教えてくれる。
 でも、私はあまり真面目に話を聴かない。誰がどの学校を選ぶことになるのかというのは「ご縁のもの」だと思っているからである。技巧的に受験生の眼を惹きつけるのはなんだか「あざとい」気がする。
 そんなことを言うと「何を浮世離れしたことを言っているんですか」と叱られそうだけれど、ほんとうにそう思っている。
 私自身は何の自発的な意図もなく、誰かに誘われたわけでもなく、ある日「ふと、引き寄せられるように」合気道自由が丘道場の門を叩き、ある日「もののはずみで」エマニュエル・レヴィナスの『困難な自由』を手に取った。そして、生涯にわたる武道の師と哲学の師に出会った。「ご縁」という他ない。
 テレビの広告やネット情報で、「母校」と呼ぶに値する学びの場に導かれるということはあるのだろうか。それより「何となく」「ふと思い立って」「気がついたら」このキャンパスに足が向いて、そこで「何か」を感じて、もっとたくさん感じたいと思って、この学校に来ることにしたという方がいい。
 うちの大学は縄文海進期に岬だったところに建っている。海に突き出した突端にはよく神社仏閣や墓地がある。前に中沢新一さんの『アースダイバー』でそう教わった。実際、神戸女学院のキャンパスには岡田神社という延喜式内社がある。ミッションスクールの敷地の中に神社があるので来訪者は不思議な顔をする。でも、1100年前にすでに「聖地」認定された場所なのだから、複数の宗教施設が重畳するのは当然だと思う。
 この土地が発信するかすかな霊的な波動を感知して、坂を上って、この「岬」にたどりつく人たちを私はぼんやり待っている。私もそうやってここに導かれたのだ。
 「待ってても誰も来ませんよ」と言う人がいるが、そうだろうか。きっといると思うけど。
(AERA6月24日)