英国在住のブレイディみかこさんとオンラインでおしゃべりをした。英国と日本の政治状況にあまりに似ているので、話を聴いているうちに少し寒気がしてきた。
それは両国とも「ポピュリズム国家」だということである。かつて有権者たちは「一般人よりも知的・道義的にすぐれた人」を選び出して公権力と公共財の運用を託した。それが民主主義の不文律だった。今は違う。ポピュリズムとは「自分たちと同程度の知性・道義性の人物の方が自分たちの代表にふさわしい。自分たちと同じ生地でできている人間に権力を託したい」という欲望のことである。
ポピュリズムはアイデンティティ・ポリティクス(長いので以下IPと略記)とも相性がいい。IPとは「自分と同じ生地で出来ている人間たちと集団を形成し、ことの理非にかかわらず、つねに仲間に付和雷同する」という政治的態度のことである。ポピュリズムとIPに通するのは「私たちは同じ生地でできている」というあやふやな気分である。でも、そんな気分さえ感じられるなら、どんな事案についても、つねに同質集団の利益の最大化のために戦う。民族主義も純血主義もレイシズムも、発想においてはすべて同じである。
国民国家というのは人種・言語・宗教・文化を共有する同質性の高い人々が政治単位を形成するといろいろいいことがある(特に戦争に強い)という理由で近代になって採用された政治的擬制である。初めから「同質性の高さ」が必須条件なのである。
つまり、国民国家には「異質な他者との共生」という政治的課題が公的には含まれていない。「他者との共生」は市民たちの個人的努力に委ねられており、政府の仕事ではないのである。そこが国民国家システムの致命的な弱点だと私は思う。
市民たちの一定数が政治的に成熟しているなら、その国は「他者に対して寛容で、包摂的なもの」になり得るだろう。でも、市民たちの過半が政治的に未熟で、ポピュリズムやIPが猖獗をきわめるような国家(今の日本や英国やアメリカがそうだ)は自動的に「他者に対して非寛容で、排他的なもの」になる。必ずそうなる。
かつてオルテガは『大衆の反逆』において、「文明」とはなによりもまず「共同生活への意志」だと定義した。そして、人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことを「野蛮」と呼んだ。
「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだ。美しい言葉だ。民主主義の理想はそうでなければならないと私も思う。
どんな国も「文明」をめざす志向と「野蛮」に退行しようとする志向を内包している。そして、わずかな入力変化で、その国は文明的になったり、野蛮になったりする。でも、「野蛮」な国に未来はない。「文明」にしか未来はない。
他者と共生する能力のない人たちは自分たちの集団が機能不全に陥ると、「これは集団に異物が入り込んだせいだ。異物を摘出すれば、集団はまた健全を回復する」と言い出す(必ず言い出す)。そして「異物」「非国民」捜しが始まる。「犯人」はいくらでもみつかる。それら排除すれば集団は純血を回復するはずである。だが、依然として集団は機能不全のままである(もっと悪くなる)。しかたなく次は「仲間のようなふりをして内部に食い込んでいる異物」捜しが始まる。以後集団成員がゼロになるまでそれが続く。
国は文明的である以外に生き延びることができない。そんな当たり前のことを21世紀になって語らなければならないとは。(信濃毎日新聞6月17日)
(2026-06-24 08:18)