演劇の効用

2026-06-20 samedi

 劇作家の平田オリザさんと演劇について語る機会があった。演劇が人間の知的・感情的な成熟に必須のものだということについて二人の意見は一致した。
 私は長く観世流の能楽を稽古している。先日は素謡『遊行柳(ユギョウやなぎ)』と仕舞『野宮(ののみや)』で舞台に立った。『遊行柳』では朽木の柳の精、『野宮』では六条御息所の幽霊を演じた。柳の精は老体なのでまだ本人との共通点があるが、六条御息所は嫉妬に身を焼く女性の幽霊である。共通点が何もない。
 でも、共感できなくても演じることはできる。近代的な演劇には「感情移入」というメソッドがあるが、能楽は型から入る。樹木の精や胡蝶や天女や安達ケ原の鬼女などに「感情移入」するのは、端から無理である。「感情移入メソッド」は「ドラマは生きている人間の間でしか起こらない」という前提を採用しているが、私たちは実際には「見えないもの」や「存在しないはずのもの」とのかかわりの中で生き死にしている。
 ひろく演劇は「今とは違う時代の、こことは違う場所の、私とは違う誰か」の身を通して世界を経験する仕掛けだと私は理解している。よく使われる言葉で言えば「エンパシー(empathy)」である。「他人の靴を履いてみること」とブレイディみかこさんは独特の定義を下しているが、実感としてはその通りである。
 演劇が学校教育に必須だというのはそれが「エンパシー」の訓練だからである。
私は武道の稽古もある種の「演劇」だと思っている。道着という衣装を身にまとい、道場という舞台に立って、決められた台詞(「顕幽一如(けんゆういちにょ)」とか「安定打坐(あんじょうだざ)」とか)を口にしているのだから「芝居がかっている」どころではない、端的に演劇である。でも、まさにその劇を通じて、修行者がおのれの心身の深層に沈み込み、その潜在可能性を開花することできるのだとしたら、演劇は現実と同じくらい「現実的」だと言えるのではあるまいか。
(信濃毎日新聞6月12日)