競争と修行について

2026-06-17 mercredi

ある大企業の研修担当の方のインタビューを受けた。直接的には「50代の技術者たちが、向上心を失っているように見える。ちゃんと給料分の仕事はしているのだけれど、その先をめざす意欲が感じられない。その理由は何か、どうすれば再び向上心を持つようになるのか」という具体的な問いだった。答えの中から一般的な見解の部分だけ抜き出した。 


 人間の生き方には「競争」と「修行」の二つがあるというのが僕の考え方です。
 現代日本社会では、相対的な優劣を競わせて、評価の高いものに報奨を、評価の低いものに処罰を与えるという仕組みが採用されています。それがもっとも人間の能力を向上させると信じられているからです。しかし、実際には、競争は必ずしもそれほど効果的に個人や集団の能力を向上させるものではありません。むしろ、低下させることが多い。この30年間、日本の国力が劇的に低下したのはそのせいだと僕は思っています。

 フランス文学ではそうでした。20年ほど前に、過剰なほどの数の研究者が19世紀文学、とくにプルースト、フローベル、マラルメ研究に集中した時期がありました。理由は簡単で、この分野には日本人で世界的な権威者がおり、研究者の母数が多いので、研究の格付けが厳密で客観的であると信じられていたからです。
 「自分が何を研究したいのか」よりも「自分の研究成果についてどれほど正確な評価が下されるか」ということの方が優先的に配慮されると、こういうことになります。その結果何が起きたか。もちろん、これらの領域での研究の質は向上しました。でも同時にそれらの研究は文字通り「重箱の隅をつつく」ような高度に専門的なものになり、日本の一般市民の関心からはかけ離れてしまいました。
 権威者による適切な評価を求めて研究する人たちは、中高生に向かって「仏文研究は楽しいよ」とアナウンスするような暇がありません(実際にあまり「楽しく」はなかったでしょうし)。でも、中高生に向かって「仏文研究は楽しいぞ。みんな仏文科においで」という告知をきちんとしておかないと、仏文科に来る学生が減少します。実際に激減しました。進学者がいなければ、仏文科という学科を置く理由がなくなる。そして、気が付けば日本中の大学から仏文科が次々に姿を消してゆきました。もともと研究者たちが厳密な格付けを求めたのは、大学教員ポストを得るためだったのですが、厳密な格付けを最優先で求めていたら、教員ポストそのものが消失してしまった。笑えない話です。
 でも、それと同じことがあらゆる業種で起きているように僕には見えます。「自分がほんとうにやりたいこと」よりも「厳密な査定を下されること」を優先させて、自分の専門分野を選ぶということがあらゆる場面で起きている。でも、そうやって相対的な優劣を競っているうちに、人々は目先の評点や格付けばかりを気にして、そもそも何のために自分たちは努力しているのか、その根本のことをしばしば忘れてしまう。部分最適を求めているうちに全体最適が損なわれるというのは、よくあることです。
 競争はもともとひとりひとりの潜在能力を開花させることで、集団全体のパフォーマンスを向上させることが目的だったはずです。でも、現実には競争が激化することで、集団全体のパフォーマンスが低下するということが起きている。起きているどころか、日本社会の場合は、それが常態になっている。
 理屈はわかるはずです。相対的な優劣を競っていると、「自分の評点を上げること」と「競争相手の評点を下げること」が同じ意味をもつということがわかります。そして、自分ひとりの能力を高めることよりも、周囲の能力をまとめて引き下げる方が圧倒的に費用対効果はよい。だから、競争的環境に長く置かれているうちに疲弊した人たちは、最終的には必ず周りの人たちのパフォーマンスを引き下げるようになります。それも無意識のうちに。仕方がありません。それしか生き残る手立てがないんですから。
 今の日本の組織はどこでも「いじめ」「ハラスメント」が横行しています。別に人間の質が邪悪になったわけではありません(人間の質なんて、そんなに変わりません)。変わったのは環境です。環境が競争的になった。競争させて、高いスコアをとった者に報奨を、スコアの低い者に処罰を、というルールでやってきたら、みんなが周りの人間の生きる意欲を殺ぐ「意地悪」なやつになった。合理的な行動をしているんです。 
 企業でも、勤務考課を厳密にして、人々を格付けして、それに基づいて資源の傾斜配分をするようになると、雰囲気が悪くなります。能力の高い人が能力の劣る人を支援したり、教育して、「仕事ができる人」に育てるモチベーションが失われます。だって、周りの人間が全員自分より無能である方が自分の評価が上がるという倒錯的な考えをする人が増えてくるからです。そうなったら、その集団はもうおしまいです。

 僕が競争に対置するのは修行という生き方です。これは東アジア的な自己陶冶のメソッドということができると思います。
 修行者は、無限消失点のような目標をめざして、師の背中をみながら、ただひたすら「道」を進む。目標は「大悟解脱」であったり「梵我一如」であったり「天下無敵」であったり、どれも凡人には決して到達できないものです。でも、それ以外に目標はない。
 天下無敵をめざす修行者が自分の周りにいる修行者と相対的な優劣を競うということはあり得ません。月をめざしている人間が、横の人間に向かって、「オレの方がお前より月に1センチ近づいた。勝った」というようなことを言うはずがない。悟りを目指している僧侶が、横の僧侶に向かって「オレの方がお前より悟りが進んだ。だいぶ我執を去ったぞ。勝った」なんていうはずがない。「我執を去ったオレ」というのは形容矛盾ですから。
 どれほど努力しても一生かかっても到達できない目標に向かって、昨日の自分よりも1ミリでも道を先に進みたいと思って、ただ淡々と稽古を重ねる。それが修行的な生き方です。
 でも、それは別に出家遁世するという意味ではありません。ふつうに生業を営み、家族や友だちと楽しく暮らしながら、マインドセットを「修行者」として持てばいい。少なくとも僕はそうやって、フランス文学・哲学を研究をし、大学で教え、本を書き、道場を経営してきました。そのどの活動においても、誰とも相対的な優劣を競わない。勝ち負けを争わない。
 自分たちは何のために研究しているのか。研究を通じて何を実現したいのか。この仕事が「世のため人のため」にどれほどの価値をもたらすのか。それをいつも考えています。腕の良い大工さんであれば立派な家をつくろう、腕の良いアーティストであれば立派な作品をつくろう、と考えるのと同じです。
 僕の専門分野のフランス文学だと、専門家がたぶん日本にはかつて2000人はいたと思います。その2000人が手分けして、それぞれの興味に従って、中世から現代まで、文学・哲学・歴史などなど、あらゆる分野のフランス文化を研究し、日本の読者に紹介するという仕事をしていたら、それによって日本の文化はより豊かで、多彩なものになっていたでしょう。でも、それこそがフランス文学研究のプロの仕事だと僕は思っていました。狭い分野に固まって、競争するよりも、広い分野に散らばって、とりこぼしのないようにする方がいい。そうすれば、「なんだか楽しそうだな」と思って、若い世代も後からどんどん続いてくる。大事なのは、集団全体としての学術的な「公共財」を豊かにすることだ。そう思って、大学院生の頃から主に「僕以外の誰もやっていない分野」を研究テーマにしてきました。
 僕が今も論文を書き続けているのは、社会的名声や大学教員ポストを求めているからではありません。だって、もう退職しているんですから、求職する必要なんかありません。ただ、自分の研究成果をできるだけ多くの人と共有して、世の中のお役に立ちたいからです。

 武道にも競争的なもの、スポーツ的なものがあります。強弱勝敗を競うことを目指して稽古する人たちがいます。それが心身の能力を最大化するメソッドだと信じてそうされているわけで、それには経験的な裏付けがあってのことですから、それも武道の一つのありようだとは思いますが、それは僕の採用している「修行と競争」という二分法に従うなら、修行ではなく、競争です。
 僕が主宰している道場、凱風館では、門人たちの強弱巧拙についての相対的な評価は一切しません。誰より誰の方がうまいとか強いというようなことは一切口にしない。先ほど申し上げたように、比較する対象は「昨日の自分」だけだからです。道場で稽古をする人たちは「道友」であって、「競争相手」ではありません。だから、道場の雰囲気はとても暖かく、和やかです。みんなお互いの修行が進むことを願っている。練度の高い人と稽古した方が自分の稽古も捗るのですから、周りの門人全員が上達することを願う。相対的な優劣を競う環境だと、周りの人間は全員競争相手ですから、自分より無能で無力で無知であることが「望ましい」ということになる。それを「倒錯的」と言ったのです。
 修行的な生き方を始めるには、考え方を変えるだけでよい。今日から始めることができます。難しいのは「師を見つけること」です。
 自分には師が必要だ、とまずしっかり気持ちを固めること。師を見つけるときは、あまり構えすぎない方がよいです。事前に「これこれこういう条件を満たす人がいたら、その人を師と仰ごう」というように条件を設定するというのは、師に就いて学ぶ人間のとるべき態度ではありません。自分にはどの人が師にふさわしく、誰が師にするに足りないのかを判定するだけの鑑定力があるとあらかじめ思っているような傲慢な人は、なかなか師に出会うことはできません。
 僕は出会うどんな人でも、年下の人でも、その人から学ぶものはあると思っています。だから、「先生」と呼びかける人はたくさんいます。武道の師は合気道の多田宏先生、哲学の師はエマニュエル・レヴィナス先生ですが、そのほかに人生の師としては養老孟司先生がいますし、観世流能楽の先生、新陰流の先生、韓氏意拳の先生...たくさんの「先生」に師事しています。先達、メンターというのは道を進む時に、ある地点からある地点に案内してくださる方ですから、場合によっては「一度出会っただけ」の人でも、師たり得ると思います。その人がいなければ、あの地点からこの地点への「ジャンプ」ができなかった、という人は広く「メンター」と呼んでよいと僕は思っています。
 僕の哲学の師は、エマニュエル・レヴィナスというフランスの哲学者です。レヴィナス先生の思想を僕は理解したい。理解して、できるだけ多くの読者に伝えたい。
 僕は「レヴィナスの研究者」というよりは「レヴィナスの弟子」です。研究者であれば、レヴィナスを読んで「意味が分からない部分」があるとストレスを感じます。自分の無知や無学を恥ずかしく思う。でも、僕は弟子なので、自分が無知で無学であるということ自体が師に仕えている理由なので、そのことは「自分が弟子であることの正当性」を根拠づけるだけで、少しもストレスを感じない。逆に「なんと偉大な人を師としたのであろう」とわが身の幸福をうれしく思う。読んでいて、意味がわからないところに出会うとうれしくなるというのが弟子のスタンスです。
 だから、「自分に理解できること」を並べ立てるよりも、「自分に理解できないこと」を深追いする方が楽しい。それが弟子、祖述者、伝道者であることの楽しさです。理解できないところを「わかったふりをする」とか「飛ばす」ということを弟子はしません。する必要がない。師を自分の器のサイズに縮減するというのは、弟子が決してしてはいけないことだからです。ですから、しばしば弟子は研究者よりも遠く、深くまで師の教えに分け入ることができる。
僕はこのあと、いくつになっても論文を書き続けると思います。ある机に突っ伏して死んでゆく。師の教えのほとんどは僕の理解の外で終わるのですが、弟子というのは「そういうもの」だから、それでよいのです。
 僕自身は合気道を教えていても、師である多田先生の境位にははるか遠に及びません。しかし、僕は弟子ですので「多田先生はこう教えられたので、そのように稽古します。僕はやってみせることはできませんが、先生はできました。だから、この稽古をします」と言うことができます。「自分にできないこと」を教えることができるというのが師弟関係に身を置くことのもたらす最大のアドバンテージだと僕は思っています。