国語教育はどうあるべきか

2026-06-17 mercredi

 国語の先生たちによく呼ばれる。先日も兵庫県内の高校の国語の先生たちの会で「国語教育はどうあるべきか」について講演をした。
「国語教育とは何か」という根源的な問いに先生たち自身が確信が持てなくなっているようである。私の答えはシンプルである。美しく豊かな日本語話者を育てること。国語教育の目的はこれに尽くされると私は思っている。
 そのために何をすればいいのか。決して難しいことではない。「美しく豊かな日本語を浴びるように読み、聴くこと」である。母語の習得とやることは一緒である。
私たちは母語について予備知識ゼロの状態から学習を始めて、気がつくと母語を不自由なく運用できるようになっている。親が文法知識を教えてくれたわけではないし、辞書の引き方を教えてくれたわけでもない。この()の中に入る接続詞は「しかし」と「だから」のどちらが適切かと質問されたわけでもない。気がついたらいつの間にか言葉の意味がわかっていて、「なかんずく」とか「いわんや」とか使っていたのである。
 国語の先生の一番たいせつな仕事は教壇に立っている限り、「自分の発し得る最も美しく豊かな日本語」を出力し続けることだと私は思う。重要なのは美しく豊かな日本語を子どもたちがひたすら浴び続けることである。深みのある、手触りのやさしい母語を浴びるように聴くことで、子どもたちはその言語資源を豊かにしてゆく。
 身に浴びる言葉を子どもたちは頭で理解するわけではない。身体で受け入れるのである。胸に響いたり、肚に落ちたり、骨身に沁みたりと受容部位はさまざまだが、とにかく他者の言葉は身体の中のどこかに長い間滞留する。そして、ある日、ふとその言葉の一つが口を衝いて出る。その時に、私たちはその言葉の意味を理解する。どういう状況で、どういう表情で、どういう相手に向かって語るべき言葉なのか、その時にわかる。そして、それが「自分の言葉」になる。人はある日出力することによって、遠い昔入力した言葉の意味を理解し、それを「自家薬籠中の物」とする。それが人が言葉を会得する機序なのである。
 「来ぬ人を松帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」という和歌を子どもはまず覚えさせられる。意味は何となくわかる。でも、実際に恋しい人を待つ時間を過ごす日が来るまで「こがれる」ことの実感はわからない。
 「待つ」というのは不思議な感情だ。約束の時刻までだいぶ余裕があるときは期待に胸がふくらんでいるのだが、刻限が過ぎると不安が胸を圧し、それが苛立ちに変わり、やがて憎しみに至る。待つ自分の中で一場の劇が演じられるのを経験したときに初めて歌の意味が身にしみる。
 まず言葉があり、それを覚える。そしてある日その言葉がどういう思念や感情を表しているのかがしみじみ腑に落ちる。そのとき、その言葉を自在に使える人間になる。
 だから、どれほど豊かな言語資源を身のうちに「埋蔵」しているのかが重要なのだ。この「埋蔵量」は石油と違って生得的なものではない。生育環境の中で形成される。
 国語教育の目的は子どもたち一人一人のうちにかたちづくられる言語資源の「埋蔵量」をできるだけ豊かにすることにある。そのためにはいろいろなやり方があってよい。詩歌を暗誦させてもいいし、すばらしく論理的な文章を音読させてもいい。教師たちにも「これで自分の言語資源が豊かになった」という経験があるはずだ。それを実践すればいい。
 小さな声でとぎれとぎれに語られても、身体の奥深くにしみ込み、長くとどまる言葉がある。そういう響きのよい声を出せる人間になって欲しい。
 先生たちにそんな話をした。
(山形新聞「直言」6月8日)